難民保護のあり方を定めた難民条約に日本が加入し、母国の政治的迫害などから逃れた難民を受け入れ始めて、約30年になる。だが日本に逃れた難民のその後を取材すると、心の病を患い、日本社会から孤立して暮らす多くの人々がいた。日本が“難民鎖国”との汚名を返上し、さらなる「開国」を軌道に乗せるには、難民の「心のケア」や社会適応策の充実を含めた支援体制の抜本的見直しが不可欠だと思う。
前橋市郊外の小高い丘を切り開いた共同生活施設「あかつきの村」。カトリック関連法人が運営する村には、居住棟や作業棟、倉庫などが並び、重い精神疾患を抱えたベトナム難民5人が日本人支援者らとともに暮らしている。
その1人、トゥアンさん(仮名、46歳)には極度の対人恐怖があり、6畳大のプレハブ建屋に1人で寝起きする。唯一心を許された女性職員が食事や散歩などの世話をする。トゥアンさんは19歳の時、政変後のベトナムから小舟で出国。太平洋を漂流中に救出され日本に着いた。兵庫県姫路市の難民定住促進センター(当時)で日本語を習った後、10カ所前後の工場を転々とした。だが、職場で「バカヤロー」などと怒鳴られるうち心を病んだという。
当初、妄想に悩まされ、支援者らに「殺してくれ」と叫んで号泣。身の回りのことも困難な状態だった。だが、女性職員と心を通わすうち次第に症状は和らいだという。
別の部屋には壁一面に、ベトナム語の落書きが残っていた。「(私は)日本の犬」「お父さん、お母さん、僕はなぜ耐えなければならないのですか」。この部屋で約10年前、焼身自殺した難民のフンさん(仮名、当時35歳)が書いたものだ。機械操作が不得手なことからフンさんも日本の職場になじめず、心を患った。当時、村ではフンさんら3人の難民が自ら命を絶ったという。その後、村には精神ケアの専門家が配置され、「やすらぎの場所」となった。
福島第1原発事故のあおりで、家族離散に追い込まれたトルコ東部出身のクルド人、ギュレルさん(仮名、41歳)にも出会った。反政府組織に協力していたため、当局から迫害を受け観光ビザ(査証)で来日。難民認定を申請後、妻と2人の娘を呼び寄せ、埼玉県内で暮らしていた。その後、2人の息子も生まれた。
だが、原発事故の放射能汚染で、妻は子供たちの健康被害をひどく心配した。その上、身近な日本人から「住民税を払っていない外国人は避難所に入れない」と根拠のない情報を伝えられ、取り乱した。このため妻と子はあわてて難民申請を取り下げ、4月にトルコに戻り、帰国すれば拘束の恐れが強いギュレルさん1人が日本に残った。だが、法律上、妻子は5年間、再入国できない。不安定な身分もあり昨年、パニック障害と診断されたギュレルさんの心は晴れない。
「第三国定住制度」に基づく第1陣として来日後、千葉県内で農業実習を受けていたミャンマー難民の2家族は「朝早くから夜遅くまで仕事で、家族との時間も取れない」などと訴え、予定していた農業法人に就職せず、昨年9月、東京都内へ転居してしまった。背景には支援側と難民らとの意思疎通不足があるようだ。だが国は改善に向け、民間支援団体との意見交換に乗り出したばかりだ。
野田文隆・多文化間精神医学会理事長によると、00年にインドシナ難民を対象に行った調査で「身近に心の病を持つ人がいる」と答えた難民は7・9%にのぼる。祖国を捨てた難民は、受け入れ国でも、生活支援の薄さや異文化への不適応などのメンタルリスクを抱える。だが野田理事長は「わが国には心を病んだ難民をケアする体制がない」と指摘する。
日本で、心の病や貧困などで人間の尊厳さえ保てない状況に追い込まれる難民をこれ以上生まないため、国や関係者はまず、過去の難民政策を徹底検証することから始めるべきではないだろうか。(新聞研究本部)
日本は、ベトナム戦争後の政変で流出したベトナム、カンボジア、ラオスからの難民を受け入れ、78年から05年まで約1万1000人の定住を認めた。だが、「難民条約」に基づく難民認定の申請総数9887件のうち認定されたのは577件にとどまる。10年には、母国に戻れない難民を避難先以外の国が受け入れる「第三国定住制度」をアジアで初めて導入した。
毎日新聞 2012年1月10日 0時38分