▽最後の選択肢だった中国留学
2003年、彼はスポーツ特待生として東京大学に合格した。
中学3年の頃には、すでに海外へという気持ちがあった。「さもないと、日本の保守的な官僚主義体系の中で這い上がっていくのは難しい」と考えていた。彼の夢は国連で国際公務員になることで、そのためには国連の公用語のうち2ヶ国語をマスターしなければならない。英語は、高二ですでに翻訳をしていたので問題なかった。アラビア語、ロシア語は真っ先に候補を外れ、フランス語は上品過ぎるし、スペイン語は情熱的過ぎ、自身を内向的な田舎者と認識する彼にとって、最後に残ったのが中国語だった。
また、当時彼の父親が自己破産申請をしていたため、欧米に留学する経済的余裕もなかった。こうして、折しも2003年の新型インフルエンザが猛威を振るう中、彼は北京大学の国際関係学院に入学した。「中国は私にとって最後の選択肢だった。中国留学は運命の偶然とも言うべきで、当時は中国に落ち着くことしか考えていなかった。」
▽意外にも国際的だった北京大学
だが、彼はすぐにその選択が正しかったことを知る。彼は、中国の急速な発展と、巨大な変化を目の当たりにした。これは、幼い頃から世界地図や国際社会の観察が大好きだった彼にとって、ありがたいチャンスだった。
北京大学に来る前は、「中国はわりと閉鎖的」というイメージがあり、彼はすぐに中国になじめるだろうと考えていた。しかし、意外なことに北京大学はかなり国際的だった。彼にとって、北京大学は今日の中国全体のシンボルであり、縮図である。「中国は、海外進出と外資導入、改革と開放を進めている。北京大学国際関係学院には、各国の様々な分野の政治家や学者、記者達が毎日やってくる。こういう雰囲気の中では、日本社会とは異なる人脈や視野を広げることができる。」
大学で、みなが遊びやショッピング、旅行、恋愛など青春を謳歌している一方で、彼はコラムの執筆や社会活動、ジョギング、情報収集、取材等の忙しいスケジュールをこなしている。
彼は、その視野と人脈を広め、語学力を高め、自信を持たせてくれた北京大学に大きな恩を感じている。「中国の改革開放というニーズがあったからこそ、私のような外国人が発言権を持てる。これは、日本では考えられないことで、中国が特殊な発展段階にあるからこそ起こり得ることだ。」彼は、中国の改革開放という大前提がなければ、如何に努力しても自身の今日を手に入れることはできなかったという冷静な認識を持っている。
彼は「状況が人を強くする」と信じている。
▽8年続けた『人民日報』