1925  河炳旭  晋州市大谷面丹牧里

 


 男二人、女二人の四人兄弟の次男として育ち、河偉地の話を何度も聞かされて育ちました。李朝時代は生六臣、死六臣というのがあって、河偉地は死をもって王君の非を諭した功臣で、日本の忠臣蔵にも匹敵するほどにドラマ化されている有名な話です。また、私たち河姓の村を通る時はどんなえらい人で下馬して歩き、通過した後に再騎乗するという礼を尽くし、その礼に違反した者は村の警護団による手痛い仕打ちが待っているという按配でした。ということで、河姓は最高の両班だと信じこんでいましたが、井戸の蛙が池に出てきたのと同じように視野が広がるに連れて、そういう考え方も変わりました。晋州中学へ進学しましたが、祖国は日帝の圧政に苦しみ、各地で抗日運動が敢行されていました。私達も学生とは名ばかりで、飛行場作りとか、山に行って松の枝をとって油にするとかの作業に動員されました。
 そうしたなか、白馬にまたがり昨日は咸境北道に現れたかと思えば、今日は満州に現れるという神出鬼没の金日成伝説(北朝鮮の金日成は別人。年齢的にまったく合わない)が駆けめぐり、一方では、時局に敏感に反応した同級生らが何人も呼ばれて特高の拷問を受け、帰ってこないこともしばしばでした。その日 =A晋州の飛行場建設現場に集合すると、「今日は仕事をしなくてよろしい。重大放送があるから・・・」ということで、待機していると「日本が負けた」という話でした。私は、心の底に眠っていた愛国心が目覚めてくるのを感じ、気がつくと、田舎まで十キロ以上はある道のりを走っていました。戦場のマラトンからアテナイまでの四十キロを走り、戦勝を報じて死んだというギリシア勇士の心境だったのでしょうか。気がおかしくなったかのように走って行って、「祖国が解放された」と、大きな声で村中に告げました。ラジオもテレビもない時代ですから、私が丹牧里の一番の伝達者となりました。
 当時、日本には二百五十万人ほどの朝鮮人が徴用されていましたが、韓国にも日本人が何十万人と来ていました。普通であれば、世相は混乱し、虐殺行為が生じてもおかしくない事態でしたが、あらゆる組織が《あの日本人らも犠牲者だ。絶対に虐待したらいかん》という総意、つまり仇討もせずに鄭重に送り返しました。これは、韓民族の民度の高さ、倫理性の高さを示す素晴らしい行為だと自負しています。
 私は一九四六年九月、ソウル師範大学へ進学しました。後にソウル文理科大学(旧京城帝国大学)を核に師範学校、法科専門学校、医学専門学校、農林専門学校、獣医科専門学校等八つの高等学校を統合して、ソウル大学校になりましたが、当時はまだ単科大学のソウル師範大学へ進学した理由は、一つは教育が立ち遅れていて、国を発展させる道は全国民の教育化だと考えたこと、二つは、私の家も貧乏で、親の援助を受ける立場ではなく、全寮制で学費がいらなかったことでした。
 兄が京都で織物工場を経営していて、解放後すぐ日本にいたまま釜山にも織物工場を作りました。学年休暇にたまたまその工場にいた時、韓国動乱が勃発し、大邱、馬山とまたたく間に占領され、釜山界隈には何十万人、何百万人の避難民が押し寄せました。私の場合は、後で思い返すたびに天運というのでしょうか、小さな船で玄海灘を渡り、どこに到着したのかもわからず、すべてが闇から闇の行程で、京都の兄のもとに到着しました。兄が言うには、「弟を日本へ連れてきてくれたら、相場の二倍も三倍も金をだす」ということで、すべてがお膳立てされていたのです。周知のように韓国動乱では国土の九〇パーセントが占領され、鼠の大群が大河を渡るように漢河を渡り南、南へと避難し、数百万人が死亡し、今でも一千万の離散家族がいます。
 ベトナムからのボートピープルは大きなニュースになりましたが、その時の韓国から日本へきたボートピープルはニュースになっていません。釜山界隈の海辺から大概が七、八トンの古い小さな漁船にとにかく積み込み、難破しても誰にも分からず、そうした海の藻屑として消えた韓国人が何万人という数字だったかも知れません。その同族相争の怨みが消えやらず、南北統一を今なお困難にしていますが、その韓国動乱を引き起こしたのは、日本では一部の人たちによって韓国が計画したように吹聴されていましたが、一九九三年韓国に移管された旧ソ連と北朝鮮の秘密文書から、明からにスターリンと金日成が仕組んだものだということが証明されました。
 兄の織物工場を手伝いながら、日本での生活が始まり、学業を継続すべく努力しましたが、証明書が何一つなく苦慮しました。しかし、ここでも天佑に味方され、外国人登録証を取得することができて、私の身分安定につながり、京都市立柏野小学校の民族学級に奉職しました。当時は京都には八ヶ所の民族学級があって、私は四年間ほど勤めましたが、韓国人は永遠に臨時教師で、教頭にもなれず、校長にもなれずという待遇でした。その上、兄は予定通り京都の織物工場を全部処分して韓国へ引き揚げました。で、私一人が残され、親戚もなく、応援を求める人もいなくなってしまい、熟慮の末、パチンコ経営で身を立てることを決意し、パチンコ店に身を投じました。その時三十歳を過ぎていて、大学出身ということもあり、いきなりマネージャー(店長)に抜擢されました。
 一番神経を使ったのは営業中、教え子や父兄に会わないかということで、それらしい姿を見かけた時は慌てて避けましたが、私がサラリーマンとして勤めていたなら、とても勤まらなかったと思います。私はオーナーの気持ちで努力し、任された店を繁盛させました。社長からもほめられ、三年ほどしたある日、他のパチンコ店オーナーから「もっと給料を出すから・・・」という引き抜きがありましたが、それを断ると、「なんでや」「月給、ちょっと多くくれるぐらいだったら、今の店におります」「わかった。それじゃ、一緒にやろう」ということになりました。その社長は日本人で、土地、建物を借りる所要資金は二百万円ほどでしたが、現金が必要な半分を社長が負担し、残り半分の手形で済む支払は私が負担するという条件でした。
 これほどの好条件はまたとなく、その社長が私を高く評価してくれた証左でした。後で知ったことですが、その社長は私の勤務ぶりを何回となくこっそりと見に来ていたということでした。で、私は、私を引き抜こうとした社長と共同経営者ということになりました。その共同店は兵庫県の篠山で、大当たりし、その店をやりながら、私独自の第二の店を大阪の枚方に出し、現在は五店舗を経営しています。
 一九六九年に民団京都府本部の議長に就任し、以来、在日同胞社会の組織活動にも積極的に参与してきました。京都本部団長、平和統一推進委員会委員長、民団中央本部顧問等を歴任し、また、京都韓国商工会議所副会長、京都韓国学園副理事長としてもその発展維持に尽力してきました。一九八一年には京都慶尚南道道民会を設立し会長に就任しました。名簿(約千五百人)を発刊し、新年会や総会には常時二百人前後が集い、また、郷土訪問団を編成して故郷を訪問しましたが、久しぶりに目にする故郷は驚くほど発展していました。
 そして、さらなる故郷の発展を願い、丹牧里の農協倉庫一棟をはじめ、母校の国民学校増築、解放後にできた丹牧里小学校の増改築等々、相応の寄贈をしました。本国投資も活発に行いました。小さな海運会社を買い取り、経営努力を積み重ねて外国航路を持つ大手五社に入る船会社に成長させましたが、一任していた経営者に乗っ取られる形になり、その後、海運不況で倒産してしまいました。鉱山業や織物工場、動物園等々にも投資しましたが、いずれも失敗という形になり、そうした経験を踏まえて、本国に投資する場合は組織を通じた事業でやるようにとアドバイスしています。
 馬山相互信用金庫だけは私の一〇〇パーセント出資で成功しています。子供は男二人、女五人で、私自身は在日韓国人の存立自体に危機感を持っています。世界の先進国はすべからく国籍選択権を実施しましたが、私達は一回もそういうチャンスを与えられていません。新しい時代は本名で日本国籍を選択する、つまり沈寿官、趙治勳、孫正義のような存在がそのモデルです。それが私の持論です。

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