【チェルノブイリ事故 放射能対策専門家の警鐘】ベラルーシ政府の隠蔽体質 官僚主義との戦いだった
【政治・経済】
「情報がなければ問題もない」とデータ収集拠点を次々に閉鎖
バベンコ氏は、来日後の会見で、日本政府が設定した食品の暫定規制値が高すぎるなどと指摘、「全く理解できない」と話している。ベラルーシと日本には、規制値に大きな違いがあるからだ。1999年に設定されたベラルーシの食品のセシウムの規制値は、飲料水が1リットルあたり10ベクレル、牛乳・純正乳製品が100ベクレル(日本はいずれも同200ベクレル)。他にも、じゃがいもが1キロあたり80ベクレル、じゃがいも以外の野菜が同100ベクレル(日本ではいずれも同500ベクレル)である。
これについて講演ではこう言及した。
「食品に関する暫定規制値を決める際、人々の健康よりも経済状況などを大切にし、健康をおろそかにして数値を決めることがあります。しかし、本当に国民の健康、住民の健康を第一に考えて規制値を定めるとしたら、1キロあたり0ベクレルです」
ベラルーシ政府の事故後の対応はどうだったのか。バベンコ氏は、「官僚主義との戦いだった」と振り返る。
「事故後、ベラルーシの汚染地域の住民のため、モニタリングをするのが大事でした。農業林業に関する放射線を調べるためのモニタリングをベルラド放射能安全研究所の活動として始めました。事故後当初、一番の問題は線量計が足りなかったことです。国の発表、公式な発表について人々が信じていなかった。国でつくった線量計で測っても正しい数字が出ないといわれていました。国が提供する線量計は“15ベクレル以下の数字しか示さない”といった冗談もあったくらいです。ベルラド研究所が創立されたのは90年で、事故が起きて4年も経っていた。場所や設備、人材集めの時間もかかったが、もっとも難しかったのは官僚主義との戦いでした」
ベルラド研究所では、線量計の開発・製造、測定専門家の養成などを行った。その後、汚染地域に放射能地域センターを設立した。住民が測定して欲しい食品を持ち込み、測定や結果から質問に答えるなどの活動を行い、食品の汚染に関するデータはセンターを通じて研究所に集まった。93年には370カ所、しかしどんどん閉鎖に追い込まれ、96年には15カ所。今はほとんどない。
「測定結果が集まれば集まるほど、食品が非常に汚染されていることが明らかになってきたからです。その結果を見てベラルーシの政府はこのように決めました。『情報がなければ問題もない。だから人々が知ることのないようにそういったセンターは閉鎖しよう』」
ベラルーシでも国の隠蔽体質が大きな障害になり、民間が被曝対策に奔走している。バベンコ氏らの経験は日本にとっても貴重である。
▽ウラジーミル・バベンコ 1952年生まれ。1990年創立「ベルラド放射能安全研究所」の副所長を務める。チェルノブイリ原発事故後、住民の被曝量検査や放射能対策を行ってきた。今回、こうした経験からまとめられた著書の日本語版「自分と子どもを放射能から守るには」(世界文化社)の出版を機に来日。