ブックリスト登録機能を使うには ログインユーザー登録が必要です。
第一部 旅立ちと出会い編
第十八話 聖女の噂と剣と盾と少女の願い
 太陽がまだ顔を出していない、薄闇に包まれた聖都(ギガンダル)の早朝――。
 なんて事のない日常の休日、最近聖都ギガンダルで広がっているとある噂の真偽を確かめんと、好奇心旺盛で行動力溢れる一人の少女が聖都をぐるりと囲んでいる、更地の外円部までやってきていた。
 外円部とは、聖都全体を覆っている円状の石壁と国民が住んでいる居住区の間にある三メキル――十メートル=一メキル――程の更地の事で、有事の際には兵士が陣を組んだり、土系統魔術による特殊第二防壁が造られたりする特別な場所だ。
 しかしながら、有事の際、というのは頻繁に起こる事がないため、広大な領域を誇る外円部は専ら子供の遊び場か、傭兵やごろつき達の私闘場となっている場所だった。
 そして現在、外円部には少女以外の人影は当然のように存在していなかった。

「最近よく耳にする、勇者セツナ様が外円部を走っているとか走っていないとかっていう噂……その真偽、確かめさせてもらいます!」
 
 外円部に面している家の蔭に隠れながら、少女は一人意気込んだ。
 彼女が此処に居るのは、この国オルブライトに召喚された今代の勇者、セツナ・キリミネを見たその瞬間に心酔――まあ、早い話が一目惚れというやつだ――してしまったせいに他ならない。
 今一度セツナの姿が見たいがために、少女は此処まで来ているのだ。そして願いが叶うなら、少しセツナと直接話をしてみたいがために。

「私は何時までもお待ちしますです、セツナ様!」

 ああ、と呟いてから、少女は数日前の出来事を振り返る。少女の中では既に伝説と化している瞬間を。

 国王が正式にセツナを勇者と認め国民に知らせる<勇者祝福の儀ザ・フォール・オルブタイティアス>の一部始終を生中継で映し出した、映像スフィアの鮮明な光景。
 背中に流れる闇のように黒く艶のある髪に、凛とした佇まい。純白のドレスに包みこまれた姿にはまるで舞い降りた天使のような錯覚を覚え、存在自体が万の宝石に勝るような優雅さがあり、なお且つ一振りの刀剣のような鋭くも気品ある美しさを併せ持った憧れの人の姿。
 国王の前で膝をついて優雅に頭を垂れ、国の危機を幾度も救ってきた国宝の聖剣を国王から託されたあの歴史的瞬間を、少女は生涯決して忘れぬと誓った。
 もう一度セツナの姿を見られるのなら、何をしても見たいと少女は本気で思っている。
 本気だからこそ、嘘か本当か分からない噂を頼りにここまできているのだ。

「しかし、流石に寒いですね」

 しかしながら、少女の決意など一切無視して、日も出ていない朝の寒気は少女を凍えさせるのには十分すぎる程冷たいものである。
 出来る限り厚着をしているが、それでも服に包まれていない手はかじかみ、吐く息は若干の白さを帯びている。今日は風が弱いのが救いと言えば救いだが、今からどれ程の時間待たねばならないのか分からないためにそれが良いのか悪いのか今の所よく分からなかった。
 だがしかし、少女は諦める事は無いだろう。
 折角憧れの人と会えるかもしれないという貴重なチャンスを、自ら投げ出すなどあり得ない事なのだから。

「それに眠いです。……でも、頑張らなくちゃ!」

 そう、セツナ様を見るために! と自分の頬に活を入れる少女だったが、しかし、思ったよりも早く目的は達成されたのである。
 ただし、それはそれはかなり衝撃を伴う光景と共にであった。
 

 ◆ ■ ◆ 



 聖都をぐるりと覆っている壁の外円部を、高速で疾走する影が一つあった。影のシルエットは細く、日が出ていないほど早い時間と走る速度が相まって、薄らとしか見る事ができない。
 儚く幻影的で、意識して見なければ自分の気のせいだとのように思ってしまうかもしれない。
 しかし無論、気のせいなどではない。

 ガガッ! と地面を足で削るようにしてその場に急停止し、走る時に邪魔になるのでポニーテールに纏めた黒髪が前に流れて邪魔になったので、それをさっと後ろに流しながら、影はゆっくりと白みだした空を見上げた。

 影の正体は、一人の聖女。
 この世界に堕ちてきた、桐嶺刹那キリミネセツナに他ならなかった。

「――ふう……。あと一周走ったら戻ろうかな」

 セツナの朝はとても早い。
 日が昇る前に目を覚まし、薄暗い闇に包まれている聖都ギガンダルの外円部にランニングに出かけ、その後城の錬鉄場に返って一人素振りをしたり護衛のルシアンと簡単な模擬戦をしたりと、毎日毎日自分で決めた生活プラン通りに日々を過ごしているのである。
 そして今も、外円部を既に四九周程走り抜けた所であり、この世界に堕ちてきてから桁違いにバージョンアップされた身体能力により汗一つ流さずにこなしていた。
 最近では精神状態もだいぶ落ち着き、常にエクスカリバーを所持しなくても何とか平静を保てるようになっている。
 しかし無論、今だ雑多な不安はある。というか、ないはずが無い。 
 だけれど、ただ、セツナは思うのだ。

(エクスカリバーを造った人も、私と同じ思いを抱いていたのではないだろうか……いや、もっと深刻だったかもしれない……)

 幸いにも、自分自身は戦闘特化の能力に目覚めた。それも攻守揃ったほぼ完璧な布陣であり、そう易々と怪我をしないし、したとしても直ぐに治る。例え通常ならば致命的な傷を負ったとしても、外部から手助けがあれば十分助かる事ができる。そして、神の声によって大抵の先読みが容易い。
 だが、エクスカリバーを造った人は、物を造る事のみに特化していたと聞く。
 身体能力も私と違って人並みで、物を造ってもそれを使う間が無い状況に置かれでもすれば、彼の人生はそこで終わりなのではないだろうか。
 なら、彼――彼女かもしれないけれど――はどれほどの不安を抱いたのだろうか。
 この世界には凶暴で強靭な魔獣と呼ばれる生き物が居る。人間と争っている魔族が居る。それに私や彼のような勇者は、同じ人間にも命を狙われることだってある。
 なら、自分では身を護れない彼と比べて、自分で自分の身所か他者まで護れる私が、何時までもウジウジしていていい筈がないではないか。
 国や世界の歴史が綴られた本などで調べているのだけれど、今だ彼の情報は詳しく分かっていない。だが、それでも、私は強くならなければならないと思う。彼のように、強く生きるべきだと思っている。
 だから私は私を鍛える。心身共に鍛え上げ、元居た世界に還るために。
 そして出来るなら、折角友達になれたフェルメリアやルシアンを憎む気持ちを無くして、笑顔で還りたい。

 さて、と呟いてから、最後の一周を走るためにセツナは僅かに前傾姿勢になり、
 
「――シュッ!」

 鋭く息を吐きだしてから、脚に力を込めて地面を蹴る事で前方に向けて爆発的な推進力を獲得する。
 消えた後でズダンッ! と何かが砕けた鈍い音が鳴り響き、一拍遅れてセツナが居た空間に風が流れ込んだ。
 ビュゴッ! と風の唸り声がする。
 数瞬前までセツナが立っていた地面には陥没した痕があり、爆発したようなスタートダッシュをしたセツナの力強さを知らせている。
 それからセツナがこの場から消えた後で、家の蔭からまるで滲み出てくるかのようにして、二人の黒者が現れた。
 両者とも目深く被った黒いフード付きのマントには隠蔽ハイデイングの魔術が施され、身体を包む黒いマントの下には外からばれない様にして、猛毒が塗られたナイフが幾十本も備えられている。
 一目でただモノじゃないと分かる二人であるが、両者とも気配が希薄で、目の前に居ても本当にそこに居るのか不安になるほどである。
 気配が希薄なのは魔術のサポートによるものでもあるのだが、これは月日と鍛錬と実践を積み重ね、練磨し続けた末に磨かれた技法によりココまで薄く出来ているのであって、ただ他の者が隠蔽ハイデイング付きの黒マントを着た所でここまでは薄く出来ない。
 しかしだからこそ、彼ら二人はとある依頼を受けたのである。
 限りなく存在を消した二人の黒者の目的は、ただ一つ。
 
「あれが今代の勇者――か。流石に、厳しい仕事になるだろうな」

「――イグ――バグアウ――イイビジ」

「ああ、分かっている。仕事は必ず成功させるのが、我ら“深夜の刺客ナイトレイド”の誇りなのだから――とは言っても、奇襲しか俺たちに勝ち目はないだろうがな」

 ただそれだけ言うと、二人の黒者は再び影に溶け込むようにしてその場から消えた。
 彼らの狙いはただ、勇者の命のみである。



 ◆ ■ ◆


 “気ヲ付ケテ気ヲ付ケテ”
     “危険ガ近付イテクルヨ”
          “近クニセツナヲ待ッテル子供ガイルヨ”
                “子供ヲ逃サナイト巻キ込マレルカモ知シレナイヨ”
                            “敵ハ二人デ魔術師ト剣士ダヨ”


 ただ唐突に、讃美歌のように鳴り響く神の声が脳裏で警鐘を上げた。
 走り出してから僅か数十秒後後の事だったのだが、外円部を既に一周近く走り終えていた所である。
 声の警告を聞き、私はすぐさま周囲に意識を向ける。既に何度かこういった事があったがために、私の行動は実に迅速だったと思う。
 目を閉じて集中し、その結果異常に強化されている私の聴覚がまず捉えたのは、微かに震えている子供の吐息と、衣擦れの音。次いで微かに金属と金属がぶつかり合う小さな音とヒソヒソと囁き合う声を捉え、私は一瞬で今何をすればいいのかを直感した。
 声が言う敵はまず間違いなく、私の命を狙ってきた暗殺者の事だろう。

 勇者は魔王を殺す者。――精確には、殺せる可能性が高い者の事だけれど。

 もし何処かの国が魔王を殺せば、他の国にとっては――それが首脳部などの一部だけかもしれないが――不利益にしかならない。
 だから、私のような勇者を邪魔に思い、排除しようと思っている人間は、こうして密かに暗殺者を差し向けてくるのだ。
 現に今日まで三回ほど、私は襲われているのだから、今回の敵もまず暗殺者で間違いなはい。ただ、声を聞いただけでは何処の国からの先兵か分からないので、撃退するしか術が無いのが煩わしく思う。
 ちなみに、毒を盛られた事まで入れれば襲われたと言えるのは八回ほどだが、毒は私に効かないので除外する事にしよう。

 しかし暗殺者などよりも今は、セツナには優先する事があった。

(私はともかく、子供を巻き込ませる訳にはいかない!)

 自分だけなら、苦もなく障害を排除できるだろう。
 この世界に堕ちてきた事によって目覚めたユニークスキル<唯一なる神の声ラ・ピュセル>により、相手の心の声を聞いたり未来を聞く事によって行動を先読み出来るし、二つ目のユニークスキル<旗持ち先駆けるジャンヌ・救国の聖女ダルク>によって得た能力で私は人外の剣と盾を持っている。
 だけれど、私のような力を持ってい存在は早々居ないのだ。
 相手が暗殺者ならばなおさら普通の子供が抵抗できるはずが無い。
 もし子供を人質にでも取られでもすれば、無駄に怖がらせてしまうだろうし、最悪死なせてしまうかもしれない。
 それだけは、絶対に避けなくてはいけない事だった。

(場所は――そこか!)

 暗殺者が仕掛けてくる前に、セツナはいち早く動いた。
 その姿はまさに疾風――というよりも雷光のようだ。短距離ならば容易く音速を超えられるセツナの肉体は、家の蔭で小さくなって暖をとっていた子供の眼前に一瞬で移動した。

「――え? ほん……」

 子供は、少し厚着をした赤髪の少女だった。
 少女が何か言おうとしていたが、それに構う事なくセツナはガバッと抱き付き、両腕で少女の身体をガッチリと掴む。少女を落とさないように、しっかりと抱きしめる。

 “仕掛ケテクルヨ”
    “毒ナイフダヨ”
       “飛ベバ避ケラレルヨ”
           “魔術師ガ術式ヲ編ンデルヨ”

 神の声が聞こえ、セツナはそれに従った。
 重力などないかの如く跳躍したセツナの下で、ナイフが地面に突き刺さる音が聞こえた。見てみると地面には四本のナイフが突き刺さっており、ナイフの刀身には何かの液体が塗られていた。声が言うならば、あれが毒で間違いないだろう。
 そして数秒の滞空の後、セツナは軽やかに家の屋根に降り立った。
 腕の中の少女は、一体何がどうなっているのか分かっていないようで、ポカンとしている。

「――チッ」

 誰かが舌打ちする音が聞こえた。だがそれが何処から聞こえたのか探るよりも、セツナは次の行動を余儀なくされた。
 屋根の上のセツナに向けて、今度は五十センチはあるだろう煌々と輝き轟々と空気を燃料に燃焼する青色の炎弾が飛んできたからだ。それも数にして約十、距離にして約三メートル、速度にして百五十キロ。
 まるで壁のように密集した、高温の炎弾の群れだ。

「――ッツ!」

 セツナはユニークスキル<旗持ち先駆けるジャンヌ・救国の聖女ダルク>により、見えざる最強の盾を持っている。盾の効果は自分に害を成す現象又は効果及び物質の全てを無効化する事で、毒だろうが濁流だろうが雷だろうが鋭利な剣だろうが原子分解する暗黒物質ダークマターの円柱だろうが、それら一切を全て無意味なモノにする絶対の盾である。
 セツナの不可視の盾の前では毒は効果を発揮できず、濁流はセツナを飲み込めず、雷は反発するように軌道を逸らし、鋭利な剣は髪の毛一本も斬れず、暗黒物質ダークマターは原子分解効果を発揮しないただの黒い光となって終わる。
 まさに最強の盾と呼べるものではないだろうか。
 しかし残念ながら、その盾の特性上それでも防げないモノが二つだけあった。
 炎と、何の変哲もない矢だけは、不可視の盾は防いでくれないのだ。
 その為、今迫ってくる炎の弾丸を喰らえばセツナの身体は燃やされ、やがては炭化し、つまりは呆気なく死んでしまう事だろう。
 だから、セツナは全力でこの場を離脱した。生きるがために、本能的に動いた。
 動いた瞬間にセツナの身体がブレ、二人の暗殺者の前から消失する。その速度は人が知覚できる限界を軽々と超え、残像さえ残っていない。
 音速を超えた動きを近距離で見せられて、捉えきれるものではないのは当然だった。
 しかしながら、一つ問題があった。
 音速で走り、思考速度も飛躍的に加速している中でふとセツナは気が付いた。
 今は自分だけではなく、少女を抱いているのだと。

「――しまっ!」

 短距離だけという条件はあれど、音速の壁を軽々と越えられるセツナが、命の危険を察して本能的に動いたのだ。そこに加減などあるはずがなく、そして音速を生身で超えるとという事は、普通なら肉が弾けたり首がもげたりなどの大きな代償を払うものである。人体よりも頑丈な金属ですら容易くバラバラにする音速の壁の凄まじさは、語るまでも無い事であった。
 その為セツナと違い、身を護る術のない腕の中の少女が無事かどうかなど、普通なら見なくても分かる。
 少女の軟い肉体は音速の壁を突き破った瞬間、肉は弾けて血は噴き出し、四肢はもげて死んだと自覚する事なく息絶えた事だろう。

 しかしながら、セツナにはとあるスキル特性があった。
 これは<唯一なる神の声ラ・ピュセル>に付加されているモノで、もし元勇者であるカナメがこの場に居たとすれば、世界の不条理に嘆き悲しみ憤り、濃厚な殺意を抱いた事はまず間違いなかった事だろう。
 特性の名称は<超幸運補正>
 一応セツナも持っている<堕ちて来た勇者>の不運補正のマイナスを打ち消し、幸運になるように作用する特性である。
 つまりは少女は幸運であり、自分のせいで少女を殺さなかったセツナもまた、幸運だったのである。

「……生きてる、みたいね」

 少女は生きていた。
 セツナが無意識の内に流していた魔力がたまたま膜のようになって少女を包みこんでいたが為に、その身には傷一つない。ただ、音速に達した際の衝撃が魔力の膜によって激減されていたとはいえ、何の心構えもない少女には強すぎたらしく、カクンと気を失っていた。
 しかし死ぬよりは、全然正常な状態といるのではないだろうか。

「……この子を抱えた状態じゃ、下手に戦えない、か」

 今は、幸運にも少女は助かった。だが、それがいつまでも続くとは限らない。
 幾ら幸運補正があろうとも、いつまでも幸運は続かないものなのである。
 つまり、セツナに残された選択肢は、素早くこの場から逃げる事しか無かった。

「一先ずは、城に戻るのを優先しなくてはなりませんね」

 やる事は決まった。
 ならそれを素早く実行せんと、セツナは脚に力を込めて、再び音速の壁を突き破った。
 当然ながら、腕の中の少女のはセツナの魔力の膜によって万全の護りが施されている。

「ま――!」

 ギリギリで暗殺者の声が聞こえたような気がしたが、音よりも早く動いたセツナに届くはずが無かった。
 二人の暗殺者の前から、セツナは烈風――といよりも電光のようにして消え去った。



 ■ ◆ ■



「いやはや……俺が知覚できないとは、恐るべき速さだな」

「バジグ――インブル――イイジガンブ」

「ああ、分かっている。勇者を殺す事はもう無理だろう。さっさと逃げるぞ」

 相棒の黒い魔術師の言葉に頷き、片割れの黒い剣士はそう言いながら静かに頷いた。
 元々、最初の奇襲で殺せなかったらこの二人にはセツナを殺す術は残されていないのだ。
 今回は幸いにも全く無関係な少女が近くに居て、標的セツナがそれにいち早く気が付き、保護して逃走するというアクシデントがあった為に、彼ら二人は反撃を一切受けていない。
 普通の用人ならば容易く護衛もまとめて抹殺できる凄腕の暗殺者二人であったが故に、数瞬のやり取りで自分達とセツナの歴然な差を把握する事は容易かった。
 そして勝てないという結論に達し、子供を置いて万全の状態のセツナと対峙する事を避けるべきだと判断した結果、これより素早く逃げる事にしたのである。

「さて、速く逃げるぞ――あの速さなら、数秒もあれば戻ってくる。まったく、勇者というのは化物だな」

「バイ――ララグイ」

 幸いにも、暗殺者達がセツナを強襲したのは聖都をすぐに離脱できる外円部である。
 これならセツナから逃げる事は可能だろう。

「さらばだ勇者よ。俺達はもうお前とは二度と関わり合いたくないぞ」

 任務成功率ほぼ百パーセントを誇るギルドの幹部としての覚悟と矜持はあれど、自分の命と任務の成否ならば自分の命を取る暗殺者二人は、魔術によって強化された肉体を使ってこの場から全力で離脱した。
 彼らからすれば、命と引き換えならば違約金など安過ぎるというものだった。
 後に残されたのは、ただ顔を出した太陽に照らされた聖都の街並みだけ。



 ■ ◆ ■



「――う……ん」

 瞼を開けた瞬間に見たのは、見慣れない白い天井。
 呼吸すると、嗅ぎ慣れた魔法薬独特の匂いが鼻孔を刺激した。少し甘い匂いから、多分、心身を癒す回復系統の魔法薬ではないかと無意識の内に判別していた。
 魔戦学校で造る魔法薬の匂いを嗅いで、ぼんやりとだが意識が正常に稼働しだす。
 それでふと疑問が浮かんだ。さっきまで冷えていた身体は芯からポカポカで、背中にはふかふかとした感触がするのは何故なのだろうか。
 えと、さっきまでは外でセツナ様を待っていて……それで、

「……ああっ!?」

 霞んでいた意識が急にハッキリとした。
 私はセツナ様に会えるかもしれない可能性にかけて、朝早くから外円部近くで待ち受けていた。一応厚着はしていたけれど予想以上の寒さに身を小さくして絶えていたら、当然セツナ様が目の前に出てきて――。

 ――出てきて、なんだっけ?

「目は覚めたか?」

「ふぁいっ!」

 突然声をかけられて、思わず変な声を出してしまった。凄く恥ずかしいです。

「驚かせてしまったならすまないな。起きられるか?」

「あ、だいじょ……え? セ、セツナ様?」

 誰が声をかけてくれたのかと思い、反射的に声がした方を見た私は、心底驚いた表情を造って固まってしまっているのではないだろうか。というか、固まった。
 でも、後から思い返しても仕方のない事だと諦めるしかないと思う。
 だ、だって、憧れのセツナ様が至近距離に居たんだものッ!!

「セツナとは私の名だが、様はよしてくれ。呼ばれ慣れないし、少々照れるんだ」

 恥ずかしそうに頬を微かに赤く染めたセツナ様の姿は、もう、ドストライクです!
 ああ、しかし、何故手元に用意していた撮影スフィアは無いのでしょうか。一生の不覚です。

「あ、うわ……えと、あの……その、」

「大丈夫か? 何処か変な場所を打ったとか……はないようだな」

 私の奇行と奇声に、心配そうな表情であるのに綺麗な御顔を近づけてくるセツナ様を前にして、私は全身が真っ赤になって沸騰したかのような錯覚を覚えた。というか、まるでゆでダコのように全身が真っ赤になっている自覚がある。
 映像スフィアに映し出されていた姿も美しかったけれど、本物はやはり迫力が違います。こう、雰囲気というかオーラというか、神々しいです。後光が差します。
 椅子に座った姿も美しいなんて、流石セツナ様です。
 
「……だから…………、本当にすまないな」

「え? 何で謝るんですか?」

「いや、だから、巻き込んでしまってすまない、と言っているのだが」

「え、あ、いや、気にしないで下さい。ほら、私は全然なんともないですし」

 見惚れすぎて、折角のセツナ様の言葉を聞き逃してしまっていたけれど、今の状況から推測するに、どうやらセツナ様は私を何かの厄介事から救ってくれたらしい。
 それなのに、巻き込んでしまった事を気にしてセツナ様は私に謝罪しているようである。
 謝罪なんて、必要ないのに。
 というか、憧れのセツナ様とお近づきになれるなら厄介事の一つや二つや十や百程度笑いながら無視できるのですが、私。

「そうか……しかし、やはり私の気が済まない。何か、願いはあるか? 出来る範囲で、善処するが」

「あ、なら……」

 思ってもいなかった言葉に、私は咄嗟にとある願いをしてしまった。してしまったと言っても、後悔なんてものは一切ない。寧ろベストな選択だったと思う。

「その願いは私の一存ではどうにもできないが……よし、まずはフェルメリアに相談に行こうか」

「はい! ――って、姫様ですかッ!?」

 そういうとセツナ様は椅子から立ち上がり、驚いている私を置いて部屋の出口まで歩きだした。
 その後を追うようにして、私は素早くベッドから降りて駆け足でセツナ様に付き従った。歩く速度が一般的な女性よりも速いセツナ様だとはいえ、小走りしてその後を追う私にとって追いつくのは訳なく、すぐさまセツナ様の傍まで到達し、部屋から同時に退室する。
 そして部屋を出てからまず最初に見たのは、真正面の壁に飾られた大きい絵画。色鮮やかな彩色で、澄んだ湖に集まる様々な動物と、美しい水の精霊が描かれている魔術絵だった。
 絵画の名前は確か、<水天の楽園>。
 とある人物の魔術が筆運びと色合いと特殊な魔力によって封じ込められた名画の一つで、絵であると言うのにそれ単体が高価な魔術礼装であるという特異な作品である。
 大気中の微量な魔力だけで半永久的に発動し続け、その魔術効果は体力回復と治癒促進と状態異常の回復と使い勝手が良過ぎる一品。世界的――といっても人間界だけなのだけれど――にも有名な魔彩画家・アルケニー・トゥワ・マッドの残した三十八作品の一つで、買おうと思えば軽く金貨数千枚以上の値が張る絵だった。
 こんな絵が普通に飾られているなんて……と思わず口が空いたまま固まってしまった。
 それから暫くして、ようやく動くようになった首を動かして、次いで左右に延々と伸びる白い廊下を確認した。煌びやかでなお且つお淑やかな装飾が施され、これほどまでに広い廊下だというのに埃や汚れなどが一切見当たらない。
 隅々まで手が行き届いているのは一目で分かった。
 部屋を出てそれらを見た結果、私が何処に寝かされていたのか理解できた。というか、理解できないはずがない。
 ここはどうやら、王城の医務室であるらしい。
 それも普通の守護騎士といった城詰めのエリートよりもさらに上、聖典騎士や将軍などの高い地位の人物専用の医務室ではないだろうか。
 その事実に、ゾクリと身体が震えた。
 幾ら魔術師は高い地位を約束されるこの国オルブライトだとはいえ、私は今だ魔戦学校の生徒でしかない。まあ、家柄はいい方なのだが、私個人はまだ王城に入れる程度の成績しか残していないのだ。それなのにこんな上等な医務室――つまりは王城の奥まで入れているという事は、本来あり得ないというのに、私はいま此処に居る。
 何だか無性に怖くなった。
 自分にはかなり場違い過ぎる所に来た時の緊張感、と思ってくれれば今の私の心境を少しは理解できると思う。

「どうした?」

「あ、いえ、何でもないです!」

 振り返ってこちらを見てくるセツナ様の声で、私は自分が呆けていた事に気が付き、少々離れてしまったセツナ様との距離を縮めんと再び駆け足で後を追った。
 まあ、怖い事は怖いのですが、どうやら私は意外にも単純なようで、近くにセツナ様が居るだけで簡単に落ちつけるようである。




 その後若干の問答はありつつも、私の魔戦学校の成績とか実力とかが評価されて何とかその願い事は実現する事ができた。
 今までは遠すぎたセツナ様との距離も、この日を境にグググっと縮まったのである。
 常日頃から努力し続けた自分を、あの日ほど褒めた日はなかったと思う。
 いや、本当にグッジョブ私! 


 でも、やっぱり、セツナ様と話すという願いが叶っただけでも、私は十分すぎるほど幸せでした。それ以上の幸せを手に入れてしまった今は、寧ろ無くした時の恐怖で心が締め付けられています。
 でも、無くす恐怖よりも今の幸福を長く味わっていきたいと思うから。
 ただ享受されるだけでなく、日々研磨し高みに到達できるように努力していこうと、私は一人誓ったのであった。


+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。