TOP | Profile | These Days | Works | Child | Books



「文藝春秋」 Nov. 1988.

「日本」から見たわが祖国の聖火


あの張本が、新浦が吐露する熱い複雑な心情




「開会式を見ましてね、胸がつまって目頭が熱くなるほどでした。この国が悲しく苦しい歴史をのりこえて、ようやく世界と肩を並べられるようになったという感激でいっぱいですよ」
 ソウルの高級ホテル、プラザホテルのコーヒーショップで、張勲〔チャンフン〕(48)は風呂上がりのような上気した表情で語った。
 張勲は、本名。広島生まれの在日韓国人二世の元プロ野球選手。終身通算打率三割一分九厘をはじめ、バットマンとして数々の日本記録をもつ、あの張本勲氏である。
「僕らのように悲しく苦しい時期を知ってる世代にとっては、ぶつけようのない恨みつらみの感情が日本に対してあるわけです。そんな思いすべてが、あの開会式に表現されてましたね。もう、一部分はこれで流したんじゃないかと思いますよ。我々韓民族は非常に優秀なんだ、誇れる民族なんだと世界の人々に見てもらったと思います」
 私の思い違いでなければ、張本氏がこれほど率直に胸の内の民族的心情を吐露することは、きわめてまれなことである。無表情に見えていたその貌に、私達の知らなかった表情が宿る。
 ソウルの聖火の輝きは、韓国の人びとばかりでなく、この島国で暮らすいわゆる<在日>のコリアンたちの相貌をもくっきりと照らし出す。日常、無表情であろうとつとめている、もしくは強いられている彼らの、様々な貌を浮かび上がらせる。明らかに日本の社会を構成する重要な一員でありながら、同時に異邦人である彼らは、ソウルの聖火をそれぞれどんな表情で、どんなまなざしで見つめたのだろうか。


 東西両陣営の国々が12年ぶりに一堂に会したソウル五輪は、様々な意味で歴史に特筆されるべき大会となった。160の国家・地域、1万3626人が参加し、史上最大規模で競われたこの「平和と和合の祭典」は、東京についてアジアで二度目の夏季五輪であること。また、分断された国家の都市としては、ミュンヘンに続いて二度目であること。そして、何より第二次大戦後に植民地から独立した国では、世界で最初に開催されること----。
「私は本来スポーツに関心がないものですから、勝ち負けはどうでもいい。別に韓国ガンバレとも思いません。が、しかし----」
 在日韓国人一世の、作家・金達寿(キムタルス)はこう語る。
「サッカーのイタリア対ザンビアの試合は、面白かった。というのは、ザンビアが4大戦後で勝ってしまったからです。アフリカの、人口わずか690万人の小国が、イタリアに勝ってしまった。私は、かつて植民地で、戦後、新興独立国となった国が、この晴れの舞台で頑張ったことに、ことのほか喜びを覚えます。それがソウルだったということで。というのは、韓国もかつては植民地だった。その地で行われたことに意義があるんじゃないでしょうか」



一億円寄付した



 1910年の「日韓併合」により、生家の土地・財産を失い、一家離散となってわずか10歳で日本へ渡らざるをえなかった金氏は、十代の終わりに文学を志す。すべては「喪失させられた民族の価値を取り返したい。朝鮮人の真の姿を日本人に知ってもらいたい」という切実な思いからだった。
「できることなら、北朝鮮と一緒にやってほしかった。統一開催できなかったのは残念ですが、韓国は大きな収穫がありました。はじめて、中国やソ連の人達が、韓国の地を踏んだからです。北方外交ができるきっかけとなりました。果たして無事開催できるものか、ハラハラしていましたが、この成功でぜひとも南北統一の機運を盛り上げてほしい。私はこれで対話が可能になったと思うのです」
 母国の未来に強気一点張りのバラ色の夢を描く人もいる。銀座を中心に貸ビル業を営む金井企業株式会社の社長・金熙秀氏(64)である。
「オリンピックは、韓国が跳躍する絶好の機会。伝統をもつ文化国家なんだということを全世界に知らせることができたはず。経済もこれから飛躍的に発展しますよ。不況がくるなんて、とんでもない。東京五輪と比べても、国民の所得水準、設備、保安などすべての面でソウル五輪の方が優れているしね。今後の韓国は、日本以上に国際化するでしょう」
 金氏は、高等教育を受けるために尋常小学校を卒業してすぐに、わずか13歳で渡日。電気工業専門学校(現・東京電気大)を卒業する。洋品店経営を振り出しに事業を拡大し、現在では10兆円ともいわれる資産を有するに至っている。
「オリンピック後援会には、1億円寄付しましたよ。有史以来の一大事だから、いくら出しても惜しくない。我々在日一世には、”恨”があるからです。差別された恨、国を奪われた恨、貧しかった恨、学べなかった恨。その恨は韓国が世界に文化国家として立派に認められないと晴らされない。そういうチャンスはオリンピックしかないと思った。そのオリンピックを成功させるためなら、何でもしただろう。カネをもっと出せといえば、もっと出す。財産なんて惜しくない」
 金氏は、今、母国では”超”のつく有名人である。昨年、ソウルの名門私大・中央大学校の負債140億円を肩代わりして、同大学の理事長となったからだ。「在日僑胞(キョツポ)による買収」として大きく報道され、一部では反発も招いた。
「韓国の若者の間にはだいぶ日本文化が入ってきているが、日本のだらしない若者のようになってほしくない。韓国の若者も最近は礼儀がなくなってきた。学生達は、キャンパスで私に会っても挨拶もしない。それでも韓国には儒教精神があるから、日本ほどひどくならないだろう。我々は日本の轍は踏まない」
 圧倒されるほどの自負であるが、これはオリンピックの成功が与えたものなのだろうか。それとも、この自負があったからこその、オリンピックだったのだろうか。



孫基禎の一人息子



 開会式のハイライト、聖火ランナーの入場シーンをおぼえておられるだろうか。
 生家のトーチを手にした老人が、はねるように全身で歓びを表現しながら入場すると、メインスタジアムの大観衆が大きく沸きたった。老ランナーの名は孫基禎〔ソンキジヨ〕(76)。ベルリン大会のマラソン金メダリストである。栄光を手にしたにもかかわらず、表彰台の上で彼がふり仰がねばならなかったのは、「太極旗」ではなく、「日の丸」だった。日帝統治時代のため、彼は「日本人」として出場せざるをえなかったのである。
 民族の悲劇と栄光の体現者である彼の物語は、韓国では小学校の教科書にまで登場するほどであり、この国民的英雄を知らない韓国人はいない。一人息子の孫正寅〔ソンチユンイン〕氏(45)は、
「親父は、これで人生にケリをつけたんですよ」
 と、偉大な父について語る。じつは、この人も「日本」から聖火を仰いだ一人である。
「マラソン一筋の人生だったんです。ベルリン大会のあと、現役引退したのちも、選手の育成に情熱を燃やし続けてきました。うちはずっと、選手の合宿所みたいなものでしたよ。でも、やっとこれで、52年前の悲しい優勝を、韓民族の栄光にすることができたんです」
 孫正寅氏は、ソウルの大学を卒業後、父の母校でもある明治大学の大学院に留学し、卒業後は帰国せず、そのまま民団中央本部に就職した。現在は国際局次長の肩書きを持つ。
「日本への留学は、親父がすすめたんです。『私は日本人として日本に行かざるをえなかったが、君は韓国人として日本に行き、新しい時代の新しい韓日の人間関係をつくりなさい』と。私の妻は日本で知りあった在日韓国人二世で、子供もおり、私の生活基盤はこちらにあります。親父たちはソウルですが、まあ、今やソウルと東京は一日生活圏内ですからね」
 孫氏はつまり、在日一世ということになる。しかし、かつての一世達とは、立場も環境もすべてが違う。
「昔の人は日本人におさえられてきたけれど、私達は五分五分です。過去は過去、今日は今日、親は親、子は子です。親父達の世代は、韓国人も日本人も死ぬまでわだかまりが捨てられないでしょうが、世代が替われば、関係も変わって、もっと近しくなれると思います」
 ソウル五輪開催が決定すると、民団の内部に「ソウル五輪在日韓国人後援会」が組織され、孫氏はその事務を担当した。仕事は全国各地の在日僑胞からの寄付金集計である。最終的のその総額は、90億円にも達した。
「もうひとつの私の仕事は、在日僑胞の聖火ランナー達を韓国へ引率していくことだったんです。その時はまだ最終ランナーが決まっていなかった。噂はあったんですが、でも父が本当になったときはすごく嬉しかった。親父はこれで人生をゴールしたようなものですよ。幸せな人ですね」
 現在、民団新宿支部の事務部長をつとめる鄭文宗〔チャンムンジョン〕(30)も、オリンピックの夢につかれ、人生を賭けてきた一人である。札幌生まれの二世で、日体大レスリング部OB。大山隆の通名と、カリフラワーイヤーをもつ陽気なスポーツマンである。
「子供のときは、いじめられたおぼえもあまりないし、自分が韓国人であることを意識してなかったですね。意識するようになったのは、高校に入ってアマレスを始めてから。オリンピック出場が夢だったのに、韓国籍じゃ日本代表になれないでしょう。それを知ってショックで。でも、長州力さんの存在がありましたからね。心の支えでした」
 プロレスラー・長州力の本名は、郭光雄〔カクワワンウン〕。通名は、吉田光雄。山口県出身の在日韓国人二世である。専修大学レスリング部主将をつとめ、学生王座、全日本王座を制したのち、72年のミュンヘン五輪のアマレス100キロ級韓国代表となった。新日本プロレスにスカウトされてからの活躍ぶりは、周知の通りである。
「同じ同胞の先輩として、すごく憧れてたんです。俺も韓国代表になるぞ、と長州さんを目標にしてやってきました」
 鄭氏は北海高校3年のときにインターハイ3位、日体大に進学して1年で90キロ級の新人王を獲り、3年で同級学生王者となった。日本での大会に出場すると同時に、毎年渡韓して韓国国体に出場、大学3年の時、モスクワ五輪韓国代表選考会で2位となり、補欠代表となったが、ボイコットで幻と消えた。
「卒業後、泰陵〔テヌン〕の選手村入りをすすめられたんですが、母親をひとり日本に置いておけないので断ったんです。思えば、あれが分かれ道でした」
 社会人として仕事を持ちながらの片手間の練習では、選手村で朝から晩まで練習に専念している選手達に歯が立たなかった。ウェートを落として階級を下げたが、五輪の夢は次第に遠のいていった。
「去年、6年ぶりに韓国国体で入賞したんですよ。そのときの気持ちは、ああ、これでやっとレスリングから足が洗えるな、と。半ば意地でしたからね」
 韓国国体で何度も対戦した好ライバルが、金永南〔キムヨンナン〕選手である。彼はソウルの本番で、見事に金メダルに輝いた。
「自分のことみたいに嬉しくってね。すごく仲がいいんですよ。僕、韓国選手とも日本選手とも仲がいいから、応援するのによわっちゃいますよ」
 現役引退の腹を決めた鄭さんに、思わぬ花道が与えられた。ソウル五輪の聖火リレーランナーの一人に選ばれたのである。
「8月27日に、済州島のメインストリートを走らせてもらいました。すごい報道陣でしたよ。ソウルには出られなかったけど、世界中が僕に注目してるみたいで、採光でした」

 岡山市に生まれ育った二世の尹正順〔インセイジュン〕さんの最も古い記憶に残るオリンピック・シーンは、東京五輪の、とりわけ女子バレーだった。日ソ戦で、ソ連選手のミスで勝敗がついたのを白黒テレビで観て、「団体スポーツはやりたくないな」と子供心に思ったという。
 しかし、中2ですでに166センチという身長を、周囲がほってはおかない。バレー部の監督に熱心に勧誘され、中2の夏に入部した。身長は中3の終わりには174センチにまで伸びた。
「本名で通ってたわよ。隠さなくちゃならないなんて思わなかったもの。韓国人だ、日本人だっていうけど、区別つく? 就職とかのハンディはあるけど、でも、だからこそ頑張ってる人多いじゃない。生きてく上で仕組みとか組織とかあるし、うまくクリアしなきゃいけないこともあるけど、でも、最終的には一人で生まれて死んでいくんだもん。差別っていうのも、自分の気持ち次第じゃないかな」
 岡山県の高校に進学後、中退して実業団チームの倉紡倉敷に入る。
「思いこみの強い性格で、絶対にオリンピックに出ると決めていたの。ミュンヘンまで時間なかったし、時間をムダにしたくなかったの。だから学校やめるのもさっさと決断したし、倉紡の白井監督の養女になるのも平気だった。だって、国籍を日本にしないと代表になれないでしょ。紙の上だけのことだし、抵抗、全然なかったわよ」
 18歳の時、尹正順改め白井貴子と名乗る。のちの全日本エースアタッカー・白井貴子が「誕生」した。
「韓国へ行ってバレーすることなんか、全然考えなかった。だってあたしは、日本でバレーをしたかったんだもの。民族とか国家とかっていうのもわかるけど、そういうものは個人がいてはじめて成立するもんでしょ。自分あっての国じゃない。割り切ってるっていわれるけど、それが人間本来の感情だと思う」
 2年後、「思いこみ」は、現実に姿を変えた。全日本のメンバーとしてミュンヘンの晴れ舞台を踏み、銀メダルを手にする。
「20歳でやめると決めてたから、ミュンヘンのあと引退したんです。ところが、家の中がゴタゴタしてきた。家族がそれぞれ『北だ』『南だ』『帰化するんだ』と、バラバラになっちゃったのね。あたしが目立ったことで、色々なこといってくる人がいたみたい。たまらなくなって、もう一度バレーを始めることにしたんですよ」
 山田監督率いる日立で再スタートを切った白井貴子は、モントリオールで念願の金メダルを手にして有終の美を飾り、結婚するが、1年で離婚。ひとつぶ種の理賀子ちゃん(5)だけが、手もとに残った。
 現在はタレントとして「たけしのスポーツ大将」などに出演する一方、明治生命のフィジカル・アドバイザーとして契約、ママさんバレーの指導にも携わる。
「韓国人であるあたしの血をひいてはいるけれども、理賀子には民族教育とかは考えていない。本人が将来何か疑問をもったときに、あたしが間違いなくこたえてやれれば、それでいいと思う。私自身は韓国人でも日本人でもない、中途半端な存在だけど、理賀子は……やっぱり日本人なんだろうね」



少女隊の演出者



 日本の歌手が、日本語の歌詞で歌う。そんなことが、ちょっとした「事件」となった。
「歌っちゃった!----少女隊」
 こんな見出して、8月19日付の朝日新聞は、日本のアイドルグループ・少女隊が、ソウルでのコンサートで、予定を変更して突然日本語の歌詞で歌い出したことを社会面トップで報じた。
 なぜこんなことが「事件」となるのか、その理由は、韓国では、日本語の歌を公の場で演奏することが禁じられているからである。いや、正しくは、「禁じられている」と信じられていたからである。その証拠に結果的には、少女隊とその関係者に韓国当局からなんのおとがめもなかった。
「昨日、今日の話じゃない。今まで何回もトライしてきた。8年前にピンク・レディーを連れていって以来の戦いですよ」
「事件」の仕掛人である、芸能プロダクション・ボンドグループの専務・安原相国氏(41)は、表情を全く変えることなく、クールに語った。
「僕の交渉はストレート。向こうの主催者に『日本語で歌ってもいいか』と訊くんです。OKと言った人間もいないけど、ダメだって言った人間もいないよ。だいたい、日本の歌を禁止しているのが、法律なのか、条例なのか、誰も知らないからね。許可証ってないんだしね。だから今回は、ボンドグループとしての判断で”やっちゃった”ということ。もちろん、オリンピック前で、という計算はありました。ソウル五輪前だからこそ、できた」
 ブレイクスルーの役割を果たした少女隊に続き、ソウル五輪の前夜祭では、芸映プロに所属する西城秀樹が、『傷だらけのローラ』を日本語で歌った。日本と韓国との間にある<目に見えない壁>に穴があき、それが拡大しつつある。壁が崩れる日も、あながち遠くないかもしれない。
「日本の今の音楽産業、とくにポップミュージックは、外国の音楽をカネと時間と手間かけて受け入れて、消化し、アレンジしてきたものなわけよ。韓国が一からそれをやるのは、ムダですね。日本のコピーからスタートした方がいい。実際、他の産業分野ではみなそうでしょ。自動車、家電、鉄鋼、造船……。日本のマネからはじめてる。文化の分野だけが、それをしてないんだよ。だから”壁”を壊して、日本のポップカルチャーを向こうへ持ちこもうとしているわけ。日本の素敵なシンガーを連れてった方が、ずっと早い。反対に、向こうのものをこちらに紹介する仕事もしている。こちらは毎年赤字だけどね」
 安原氏のビジネスのホームグラウンドは、もちろん東京であるが、家族はソウルに住まわせている。「在韓の在日韓国人三世」として子供を育てるという、教育方針のためである。
「僕は在日二世として、生まれ育った。だから今度は息子は、新しい育て方をしようと思ってるんです。帰化する気はないんだから、韓国の言葉、文化、歴史を身につけさせようと。親子何代でも、トライしていこうと思う。韓国人に負けるな、と言ってるんですよ。中学・高校はアメリカへやろうと思う。それから先、大学は日本かアメリカか、それは本人次第だけどね」
 ソウル五輪の開会式は、会場で家族と一緒に観た。
「泣きましたね。嬉しくてジンときた、やっぱり。よくソ連がきたなと思った。何年か前に、自分の国の飛行機が撃ち落とされているわけでしょ。ショーの構成もよかった。子供に未来を託すというあたりね……」
 日本の芸能界の在日コリアン。よくささやかれることだが、そのほとんどが、出自をひた隠しにしている。
「みんなバカだね。つくられちゃったんだから、かわいそうですよ。在日だって言っちゃえば簡単なことなんだ。なんだ、こんなもんかって思うんだけどね。岩城晃一なんか隠してないけど、ちゃんとメジャーでいるじゃない。あいつはエライよ。要するに、飛び込めば同じなんですよ。その勇気がないだけ」
<見えない壁>は、日韓の間だけでなく、日本の社会の内部にも存在している。それはきわめて強固に思えるが、しかしその実「裸の王様」のようなモロい神話なのかもしれない。押せばあえなく崩れてしまう、そんな可能性をはらんでいないとは誰にもいえない。



現役選手の場合



 在日僑胞の誰も彼もが、ソウル五輪に熱狂しているわけではない。祭りの輪の外に出て、冷ややかに見る者もまた、少なからずいる。そして彼らはひとりひとり、そう振る舞う理由がある。
 たとえば、近鉄バファローズの主力打者である金村義明選手(25)の場合、その理由は「自分の生活」と、きわめて明快である。
「正直なところいいますと、オリンピックには、関心がないんです。そんなこというとフタもないんですが、韓国がどうの、日本がどうのというよりも、自分のことで精一杯なんです。実は一ヶ月ほど前、手首をケガして、オリンピックどころじゃない状態なんです。病院へ行っているんですが、ケガの治り具合も芳しくないんですよ。シーズンももうすぐ終わってしまうし、僕も結婚して、もうすぐ子供が生まれるんですね……。今は生活に精一杯なんです」
 本名金義明。兵庫県生まれの在日韓国人二世である。56年夏の甲子園大会で、報徳学園のエースとして出場、全国制覇を果たした。近鉄入団後、ピッチャーからバッターへ転向。主軸打者に成長したが、今シーズンはケガもあって不調である。
「外交辞令的にいえば、僕は韓国籍で、日本育ちですから、オリンピックでは日本も韓国も頑張ってほしい。でもね、本当は野球以外では、サッカーに興味があるくらいで、ソウルだからというわけじゃなくて、オリンピックそのものに、そんなに興味ないんですよ」
 近鉄の新井宏昌選手(36)の場合は五輪そのものに興味がないわけではない。連日、テレビでの観戦は欠かさない。しかし----。
「僕らの、こういう立場にいる気持ちを、一般の日本人がどこまで理解できるかどうか……ええ、複雑な気持ちがありますよ、そりゃ。僕は韓国人であっても、日本に生まれて日本の教育を受けているから、韓国のことはよくわからないんです。つまり、韓国人ではあるが、意識しなければ、日常生活では日本人と同じですからね。忘れているんです、普段は。こういう話でもしないと、韓国人であることを意識しません」
 彼にとって<在日>とは、背負わざるをえないものの、できれば意識せずにそっとしておきたい事実、ということなのであろうか。
 本名は朴鐘律。大阪に生まれ、PL学園から法大へ進学。50年、南海ホークスに入団した。61年に近鉄へ移籍して、翌年にはパ・リーグの首位打者に輝いている。
「十何年か前に一度、韓国へ行ったことがあるんです。その時の印象では、日本に比べてかなり遅れてるなあ、という感じでした。そんなイメージが頭に残っていますから、テレビを観て、立派なスタジアムや近代的な超高層ビルが映ると、正直、実感がわかないんですよね。
 オリンピックを契機に、日本の若い人の韓国観は変わっていくと思いますよ。ただ、上の世代の人間が、次の子供、孫達に対して目に見えないような嫌悪感を押しつけていくようだと、しばらくは変わらないかもしれませんが。日本人も韓国人も、お互い毛嫌いしているところがありますからね……」
 現在、横浜大洋ホエールズで活躍中の新浦寿夫(37)が、59年から3年間、韓国プロ野球三星ライオンズに在籍、活躍していたことは、広く知られている。当時はオリンピックを控え、ソウルの街が劇的な変貌をとげつつある時期でもあった。
「バオバル(88)オリンピックというスローガンを、よく聞きましたね。スタジアムや五輪施設を造ってました。今、テレビで見るとずいぶんきれいになって、開会式は、もちろんテレビで観ました。すごい、すばらしいなと感激しましたね。発展途上の国だなあと思っていたんですけど、こうしてみると押しも押されもしない感じで。母国への感慨? いや、というよりも、懐かしさですね。3年間住んでましたから、その時のことを思い出して。母国という感じじゃないんですよ、僕の場合」
 在日二世として東京で生まれた彼は48年にすでに日本に帰化している。つまり、彼は帰化した元在日僑胞として、三星ライオンズのユニフォームを着たのだ。彼は「母国に帰ってきた」という甘い感傷からは距離をおいていたようだ。
「あれやこれやありましたけど、住んでみれば都ですよ。なじもうとすれば、なじめるものです。今、改めて考えるとそんな悪い印象はもってないですね。嫌だなと思えば、思っただけ苦しくなるしね。どこの国でも同じ、ものの考え方は違うんですし。僕はとにかく、野球しかできませんから。野球だけに集中してました。日本人だから、韓国人だから、どう思われるかというのはもう、その人その人の受けとめ方ですね。こちらは迷惑かけてないですから、自然体ですよ」
 立場によって、人間は切実になる問題が異なるものだ。現役野球選手である彼ら3人にとって、民族や国家よりもゲームでの一球の方が重い場合もある。張本氏と、三人の現役選手とのソウル五輪熱の温度差は、そんなところに起因しているのかもしれない。



トラブル



 ことの経過はこうである。
 9月22日のボクシング・バンタム級予選で、世界ランキング2位のアレクサンダー・クリストフ選手(ブルガリア)と韓国の辺丁一〔ピョンジョンイル〕選手が対戦、辺選手のバッティングにレフェリーは減点を取り、これが響いて判定4対1で辺選手が敗れた。その直後、韓国側コーチがリングに駆け上がり、激しく抗議。さらに関係者や観客までが入り乱れてイスや物が投げこまれるなどの大騒動となった。
 乱闘がおさまったのちも、辺選手がリングで抗議の座り込みを続け、試合会場の照明スイッチが切られるなど、試合は8時間も中断するハメとなった。
 巻き込まれる心配がない場合、およそ他人同士のケンカほど面白い見世物はない。だが一方、身内のケンカを他人に見られることほど、恥ずかしいこともない。
 このハプニングの映像を、大方の日本人はビーンボール直後の乱闘を観るように面白半分でながめただろうが、<在日>の人々は相当肩身の狭い思いをしたのではなかろうか。
「恥ずかしくて話になりませんよ。とんでもないことをしたものです。韓国の人は、お客様を大事にするところがあるんです。あのレフェリーだって、外国の方でしょう。お客様です。それなのに殴ったりするなんて、信じられません。おそらく、スポーツバカになってたんじゃないですか。スポーツさえできれば、優秀だということで、一生食うに困らないようにしてもらっている。そうすると人間性などはどうでもよくなってしまう。その結果、ああいうことが起こるんです」(麗羅氏)
「国民が燃えすぎ、エキサイトしすぎたのでしょうね。もともとは礼節を重んじる国なんですから、乱闘事件は行きすぎですよ。ソウル・オリンピックにマイナス・イメージを与える。残念でした。この事件は、ますます高まるオリンピックのナショナリズムの問題を秘めています。私は、これを金メダル取り合戦の戒めとして受けとってます」(静岡県立大国際関係学部教授・金両基〔キムヤンキ〕氏〔54〕)
「非常に難しいねえ。本当は韓国人に苦言を呈したい。言わなきゃわかんないもの。でもそうすると今度は逆に、色々いわれるんだよね----」
 と言うのは、百田義治氏。全日本プロレスの役員であり、あの力道山の長男である。力道山は相撲に入門当時、日本に帰化したが、もともとは現在の北朝鮮で生まれている(当時は日帝統治下)。
「オリンピックってものが、そもそも何だかわかってないんじゃないの。黙って引き下がることが、時には金メダル以上の栄光になるのにね……。うちの親父は死ぬまで家族にまで朝鮮出身ということを隠してたんですよ。だから死んでから、僕らも知ったようなわけで、民族教育も受けてないし、国籍もはじめから日本。だけど、血はやはり流れてるわけだしね、韓国へは何度も行ってて友人、知人も多いんですよ。で、僕らが批判すると面白くない人がいっぱいいるわけ。本当は建設的な批判に耳を傾けてほしいけどね。まあ、僕が言えるのはこれで精一杯」
 韓国サイドに同情的な見解もある。前出の張本勲氏。
「マナーとしていいことじゃないですよ。でも気持ちがわからないわけじゃない。コーチ、監督、選手からしてみればあんな4対1の差はなかったんじゃないか。そんな大差のゲームじゃないんじゃないか。これが3対2だったら、あんなことにはならなかったと思うんですがね。どうしてもっとしっかりした審判をしてくれないのかっていう気持ち、わかりますよ。我々の民族は非常に正義感が強いから、不合理は不合理だと。
 こっちの人は、感情をバッと出すでしょ。決してその行為は許されるものじゃないけどね。マスコミが必要以上に枝葉をつけて非難するなら、こっちは逆に肩をもってやりたい。だって、彼らはこのオリンピックのために、何年も食べるものも食べずに、レクリエーションも制限して、のし上がってきた選手、コーチたちですからね。思い入れも激しいですよ。いずれにしても、こんなことぐらいでソウル・オリンピックの素晴らしさは損なわれたりしません」
 そしてフリージャーナリストの鄭仁和〔チョンインファ〕氏。
「面白いなあと思いましたね。在日韓国人という立場を離れて、あの乱闘した人たちは可愛い人たちだなあと思った。非難されるべきものでしょうけど、私にはとても人間らしく思えました。今回のオリンピックでは、一番人間らしいな、と思いましたね」



「北」の人々



 ソウル五輪の宴の華やぎを、もう一方の在日コリアンである在日朝鮮人、朝鮮民主主義人民共和国籍の人々はどう見ているのだろうか。
『火山島』などの作品で知られる在日朝鮮人一世の作家・金石範〔キムソクポム〕氏(62)は、深々と嘆く。
「分断された国家、民族の一員としてみると、統一開催できなかったことが、一番つらいです……。ソウル・オリンピックはもともと政治的な意図にもとづいて誘致したものだった。しかし結果的には、これが韓国の民主化の弾みになったことを思うと、歴史のアイロニーというものを強く感じずにはいられませんね」
 ロックミュージシャンの白竜(36)は、佐賀県出身の在日朝鮮人二世。本名は田貞一。良心は韓国の釜山の出身である。18歳で上京し、23歳でデビュー。80年の光州事件のあとに作詞・作曲した『光州City』が発売禁止処分となり、一躍、その名を知られるようになった。
「日本にいる在日朝鮮人は、僕の友人もふくめて、今回の北朝鮮のオリンピック不参加をとっても残念に思ってる。外にいるから客観的に母国のことが見れるからね。ほんと、どうしようもない気持ちなんだ……。韓国もだいぶ豊かになりつつあるけれど、オレらみたいな在日は、(韓国籍でも)あえて母国に帰りたいと思っている奴は、ほとんどいないね。基本的にみんな日本が好きで、日本に永住したいと思ってる。でも、心の拠り所は母国の韓国であり朝鮮であるわけ。だから、いくら文化的・経済的に豊かになっても、オリンピックをアジアで2番目に開催しても、あの38度線がなくならないかぎり、オレらは安心できない。これはオレ達にとって特に大事なことなんだ。
 そういえば、ちょっと前にチョー・ヨンピルとジョイントでライブをやろうという話があがったんだけど、これも結局政治的な問題でダメになった。オレには反体制ロック・ミュージシャンというレッテルがはられていたからね。全然、そんなことないのにね。ま、国籍が北だっていうのもあるけど。ほんと、悔しいね。政治的なことで文化や芸術までも支配されるのは。うちの子供、小学校2年生なんだけど、チョン・ヨンファって本名で名乗ってるのね。で、人から『キミはどこの国の人?』ってきかれると、『日本でも、韓国でも、朝鮮でもない。僕はコリアンだ!』とこたえるんだよ。早くそれが当たり前になってくれるといいなと思うね。ソウル・オリンピックでは日本と韓国を応援してるけど、日本と韓国が戦ってると、非常に複雑な気持ちになりながらも、心の奥底ではちょっとだけ韓国の方を応援しているものね。これは在日みんなそうだと思うけどね。民族的な血なのかもね」
「民族感情は思想と関係ないですよ。やはり理屈抜きに、同胞の韓国を応援します」
 西新井病院の院長である金萬有氏(73)も、民族の血を強調する。
「共同主催できなかったのはショックだったけど、くよくよしたってしようがない。現実に立ち返らないとね。とりあえず、私はテレビで韓国を応援します。その次が日本。やっぱり御縁があるんだからね」
 金萬有氏は、済州島の生まれ。中学時代に民族独立運動に身を投じて逮捕・投獄される。釈放後、37年に来日、東京医学専門学校を卒業、医師となる。昨年、北朝鮮の平壌市内に、西新井病院と北朝鮮政府の共同出資による大規模な総合病院が建てられた。地上16階、地下2階、ベッド数1300床。敷地面積は後楽園球場の約8倍というこの超大型病院は、金萬有氏の功績をたたえて、「金萬有病院」と名づけられた。
「個人的には、私はテコンドーを楽しみにしてるんです。あれは私が中学生の頃、テッコンとかテッキョンとかいって、幻の武道だった。日帝時代ですから、朝鮮の伝統武道は禁止されてたんです。それで話だけ聞いていた。ポンと飛んでくるくる回って相手を蹴るとか。本当にあるんかなと思ったら、ちゃんとあったんだね。嬉しいですね。やっと見ることができる。
 私はね、オリンピック後の韓国がどうなるか、気にしてるんですよ。民主化がすすむのか、また警察国家みたいになってしまうのか。私は故郷へもう40年余りも帰っていない。日本の法務省や、韓国の大使館からも『身柄は保証するから、ふるさとを訪問しないか』って誘われてるけれども、民主化がすすまないとおっかなくてね。スパイだといわれてつかまえられたら大変だもの。早く、そういう時代になればいいですけどね」

 何かが変わったようで、何も変わっていない。祭りのあとには、えてしてそのような落胆を味わうものである。大きな変化など、期待しないほうが無難であると、経験則は教える。が、変化の兆しがひとつ。在日コリアンの子弟のための学習塾・秀英アカデミーの校長の李淑姫〔リスツキ〕さんはこう語る。
「開講した4年前には、生徒のほとんどが通名で生活していたのに、今では全員本名を名乗っている。自身が出てきたんですね」
 民団の調査でも、この1、2年、本名を名乗る子供たちが急速に増えてきており、五輪以後もっと増えるだろう、と予想されている。




TOP | Profile | These Days | Works | Child | Books