沖縄県民「方言話せる」5割り切る~沖縄から見る方言の衰退
沖縄県民の意識調査は、県紙「琉球新報」が定期的にアンケート調査を実施している。そこで、今回、衝撃的な結果が出された。1月1日掲載の内容によると、「シマクトゥバ(方言、沖縄の言葉)を聞けて話せる人は10年前より11・1ポイント減って初めて5割を切る44・7%。特に20~30代の約9割が話せず、危機的状況だ」という。
シマクトゥバを「聞けるが話せない」人が26・3%、「ある程度聞ける」人が21・7%、「まったく聞けないし話せない」人が7・3%。聞けて話せる人の割合は70代以上86・8%、60代75・0%、50代51・5%、40代27・9%、30代13・7%、20代10・1%と、若い層ほど小さく、世代間のギャップが大きい。
沖縄の言葉が「琉球語」か日本語から派生した「沖縄方言」とすべきかと議論が常に提起されている。「琉球語」を独立言語と見なした場合、日本語と唯一つの親戚言語となり、日本語の起源の解明に貴重な言語となる。それに、琉球語は日本語の古い言葉も残っており、民俗的にも実は習慣では旧暦を基軸として採用していることもあり、明治以前の日本人の生活のあり方を探る上で沖縄学は必須である。
2009年、ユネスコは奄美語、国頭語、沖縄語、宮古語、八重山語、与那国語のそれぞれを危機に瀕する言語と指定している。このまま若い人が「琉球語」を話せない状態が進行した場合、「琉球語」は消滅する危険性があるというのがかなり実態と言える。
嫁さんの知り合いである沖縄の人に聞いたところ、若い人同士では、標準語に近い沖縄方言を話しているという。しかし、年配者の琉球語はほとんど理解せず、50代の人に通訳してもらうという。どうもいろいろ話を聞いてみると、年長者の琉球語、50代~40代の沖縄方言、若者の標準語にやや近い沖縄方言に分裂しているのが実態なのかも知れない。
ただし若い人にとっても標準語は若干の壁があり、頭の中で話すときに、少し変換する時間があるという。だからワンテンポ遅れるとも言う。
方言撲滅運動は昭和初期から30年代に徹底して行われたことはよく紹介したが、具体的には方言使用者に方言札をかけさせた事例もあった。方言札はカマボコ板くらいの木札に紐を通したもので、学校で方言を話すと札を首に掛けなければならず、外すには他の生徒が方言を話すのを発見するしかなかった。
沖縄は当時、本土への働き手の供給地点でもあったことから、標準語を強制的に覚えさせなければ、不自由があるという事情はあったにしても、「方言札」は、褒められた制度とも言えない印象がある。方言と標準語の双方を不自由なく話せる環境とすべきだったのかも知れない。
先日、紹介したように本土の工場で働くようになっていくと「琉球語」訛りの日本語で話すと小馬鹿にする傾向があったことは十分に考えられる。そうしたことも、「琉球語」が衰退した一因でもあったのだろう。
ただその中国朝鮮族にしても漢族が多く居住している所での中国朝鮮族は比較的に朝鮮語を話せないが聞き取ることはできる程度である。今、中国朝鮮族でどの程度朝鮮語が話せるかは分からない。できれば、中国政府が実態調査をしてもらいたいと希望したい。
ただ、どこの地方新聞が調査をしても同様な調査結果が出るような気がする。山形新聞が山形県民の調査をしても、多分5割以上が方言を話せないという結果が出るだろう。
このまま数代重ねていけば、「琉球語」は自然消滅していく。実際近代になって消滅した言語はいくらでもある。今も「満州語」も消滅する危機にある。
沖縄方言で流している地元ラジオもあるようだが、この言語消滅の危機にどういう方法で保存していくべきなのか。言語や言葉が変化していくことは承知しているつもりだが、いい知恵が中々出せない。中国朝鮮族のように、中国語と朝鮮語が共存した例もあることから、「日本語」と「琉球語」が共存するような配慮があっても良かったと思う。
沖縄物産センターの隣にある
ヘルシー沖縄料理
おきなわ亭

販売機で食券を購入
メニューが豊富です

グアバジュース&シークワーサージュース

ジーマーミ(落花生)豆腐

沖縄そばとソーキそばどっちにしようかと夫が迷ってたので
半量があったので両方注文


私はレディースセット

2012年1月 神奈川県横浜市鶴見区にて
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シマクトゥバを「聞けるが話せない」人が26・3%、「ある程度聞ける」人が21・7%、「まったく聞けないし話せない」人が7・3%。聞けて話せる人の割合は70代以上86・8%、60代75・0%、50代51・5%、40代27・9%、30代13・7%、20代10・1%と、若い層ほど小さく、世代間のギャップが大きい。
沖縄の言葉が「琉球語」か日本語から派生した「沖縄方言」とすべきかと議論が常に提起されている。「琉球語」を独立言語と見なした場合、日本語と唯一つの親戚言語となり、日本語の起源の解明に貴重な言語となる。それに、琉球語は日本語の古い言葉も残っており、民俗的にも実は習慣では旧暦を基軸として採用していることもあり、明治以前の日本人の生活のあり方を探る上で沖縄学は必須である。
2009年、ユネスコは奄美語、国頭語、沖縄語、宮古語、八重山語、与那国語のそれぞれを危機に瀕する言語と指定している。このまま若い人が「琉球語」を話せない状態が進行した場合、「琉球語」は消滅する危険性があるというのがかなり実態と言える。
嫁さんの知り合いである沖縄の人に聞いたところ、若い人同士では、標準語に近い沖縄方言を話しているという。しかし、年配者の琉球語はほとんど理解せず、50代の人に通訳してもらうという。どうもいろいろ話を聞いてみると、年長者の琉球語、50代~40代の沖縄方言、若者の標準語にやや近い沖縄方言に分裂しているのが実態なのかも知れない。
ただし若い人にとっても標準語は若干の壁があり、頭の中で話すときに、少し変換する時間があるという。だからワンテンポ遅れるとも言う。
方言撲滅運動は昭和初期から30年代に徹底して行われたことはよく紹介したが、具体的には方言使用者に方言札をかけさせた事例もあった。方言札はカマボコ板くらいの木札に紐を通したもので、学校で方言を話すと札を首に掛けなければならず、外すには他の生徒が方言を話すのを発見するしかなかった。
沖縄は当時、本土への働き手の供給地点でもあったことから、標準語を強制的に覚えさせなければ、不自由があるという事情はあったにしても、「方言札」は、褒められた制度とも言えない印象がある。方言と標準語の双方を不自由なく話せる環境とすべきだったのかも知れない。
先日、紹介したように本土の工場で働くようになっていくと「琉球語」訛りの日本語で話すと小馬鹿にする傾向があったことは十分に考えられる。そうしたことも、「琉球語」が衰退した一因でもあったのだろう。
ただその中国朝鮮族にしても漢族が多く居住している所での中国朝鮮族は比較的に朝鮮語を話せないが聞き取ることはできる程度である。今、中国朝鮮族でどの程度朝鮮語が話せるかは分からない。できれば、中国政府が実態調査をしてもらいたいと希望したい。
ただ、どこの地方新聞が調査をしても同様な調査結果が出るような気がする。山形新聞が山形県民の調査をしても、多分5割以上が方言を話せないという結果が出るだろう。
このまま数代重ねていけば、「琉球語」は自然消滅していく。実際近代になって消滅した言語はいくらでもある。今も「満州語」も消滅する危機にある。
沖縄方言で流している地元ラジオもあるようだが、この言語消滅の危機にどういう方法で保存していくべきなのか。言語や言葉が変化していくことは承知しているつもりだが、いい知恵が中々出せない。中国朝鮮族のように、中国語と朝鮮語が共存した例もあることから、「日本語」と「琉球語」が共存するような配慮があっても良かったと思う。
沖縄物産センターの隣にある
ヘルシー沖縄料理
おきなわ亭
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ジーマーミ(落花生)豆腐
沖縄そばとソーキそばどっちにしようかと夫が迷ってたので
半量があったので両方注文
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2012年1月 神奈川県横浜市鶴見区にて
ウチカビ(紙銭・冥銭)が結んだ中国と沖縄の祖先崇拝習慣
アジアでは今日でも祖先崇拝は重要な習慣である。日本では、命日、彼岸の日、お盆の日に墓参りする習慣がある。その際、田舎であれば、8月13日に、送り火をし、8月15日に迎え火をする。ちなみに、東京では新暦がメインであることから7月15日あたりにこうした送り火・迎え火を行う。
ところでこうした祖先崇拝習慣でキーワードになる日が、中国、台湾、沖縄にとっては、清明節とお盆だ。清明節は本来日によって違うものの、中国政府や台湾は4月5日を休日と決めている。家族揃って祖先の墓へ行って線香を焚き供物を奉げて祖先を供養する。この習慣は中国朝鮮族も同様だ。嫁さんに聞いたところによると、先祖の墓があった吉林省に行った親族がいたという。休日にはいくつか理由があるのだが、清明節を意識した習慣的に倣った休日といえる。4月5日頃には、墓には草木が生えることから墓が少し荒れてしまう。周囲が草ボウボウになっていることから、草を抜き、墓を清める必要があった。別名この日を「掃墓日」とも言う。
沖縄ではこの日を「シーミー」という。中国や台湾まで広まった習慣が沖縄まで拡大したのだろう。美味しい料理を食べて、皆で笑って話したりする。ここでは、先祖崇拝はもちろんだが、墓の土地神にも感謝するという。
ちなみに墓参りの際での行いや振る舞いは沖縄県民と中国朝鮮族はよく似ていてピクニック気分である。
一方、中国のお盆は旧暦7月15日、死者の魂がこの世に戻ってくる時期で、「盂蘭節」、「中元節」、や「鬼節(gui3jie2)」と呼ばれている。ここでは民間で使われている「鬼節」を使うが、中国では亡くなった人を「鬼」ということが多い。そういうことで中国でも日本全土でも一番、幽霊が彷徨う日は8月13日から15日ともいえる。
この日は清明節と同様に、墓参りをする日だ。しかし、最近の中国では都市部に移動する人や出稼ぎ者も増えた。そうした人々は、線香を道で焚いていた時期もあったが、今は法律で禁止されている。
また、沖縄でのお盆での独自の行事と言えば、エイサーだ。エイサーは、元々、祖先の霊を慰めるための踊りである。
これまでが前書きになるのだが、鶴見区「沖縄タウン」の沖縄物産店で発見したのが、「ウチカビ」だ。これを嫁さんが沖縄物産店で見つけた際には、「おーこれ沖縄って中国と同じだ。中国もこういうのを燃やすのよ」と私に話した。そして、その「ウチカビ」がある方に振り向いて、「おー。これは面白いなあ」と私が話した。それで今、「ウチカビ」が手元にあるわけだ。
黄土色の板紙に、丸型の押印が50個ある。原料は藁である。中国では、祖先の命日・清明節・端午節・鬼節・重陽節・旧暦大晦日等に燃やすという。沖縄でも、シーミー、お盆、法事などに燃やす。この心とは、中国、台湾、沖縄も共通していて、「子孫から先祖への送金」だということだ。あの世で暮らしていくためにはお金が必要。「地獄の沙汰も金次第」という言葉もあるのだが、お金はどこでも必要だという観点は面白い。聞くところによると、沖縄県ではコンビニでも売っているという。
昔は、この押印は、自分で印を作って心を込めて押していたということだが、嫁さんが言うには中国でも同様だった。
ところで中国で紙銭について調べて見ると、紙銭を燃やす際には、紙銭を他の魂から取られないように石で抑える(圧銭ya4qian2)という。そして紙銭を円状に配置するがそこで重要なことは先祖がいる方向のみに口を開けるとのことである。だから完全な円状にはしない。この先祖のいる方向とは墓であり、都市部に住む人であれば、先祖が眠っている方向を開けることがポイントだ。紙銭はご先祖の名前を呼ぶながら燃やす。燃えた灰が舞い上がるときはご先祖がお金を取りにきたと言う証なので、その時に子孫は先祖と会話するという。子孫は亡くなった先祖に、「みんな元気でやっているから心配しないでね」とか「天国から見守ってね」とか先祖に報告をするという。その際、必ずしも先祖だけに送金するということでもなく、先祖の霊とともに、その友達の霊も来るという考えからお裾分けをするということもあるという。
沖縄では先祖崇拝の考え方は本土よりも強いが、家族に返事があれば神に対するお願い不足が議論されることもあるのだが、時として「ウチカビ」による送金不足も話題に上がるという。
沖縄は様々な地点での中継点であり、重要な地域である。人の往来も激しかったのだろう。そうした中で、中国文化と沖縄文化を比較していくと知らなかった共通点や発見もしくは新たな視点も生まれる可能性があって本当に面白い。
うちかび

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ところでこうした祖先崇拝習慣でキーワードになる日が、中国、台湾、沖縄にとっては、清明節とお盆だ。清明節は本来日によって違うものの、中国政府や台湾は4月5日を休日と決めている。家族揃って祖先の墓へ行って線香を焚き供物を奉げて祖先を供養する。この習慣は中国朝鮮族も同様だ。嫁さんに聞いたところによると、先祖の墓があった吉林省に行った親族がいたという。休日にはいくつか理由があるのだが、清明節を意識した習慣的に倣った休日といえる。4月5日頃には、墓には草木が生えることから墓が少し荒れてしまう。周囲が草ボウボウになっていることから、草を抜き、墓を清める必要があった。別名この日を「掃墓日」とも言う。
沖縄ではこの日を「シーミー」という。中国や台湾まで広まった習慣が沖縄まで拡大したのだろう。美味しい料理を食べて、皆で笑って話したりする。ここでは、先祖崇拝はもちろんだが、墓の土地神にも感謝するという。
ちなみに墓参りの際での行いや振る舞いは沖縄県民と中国朝鮮族はよく似ていてピクニック気分である。
一方、中国のお盆は旧暦7月15日、死者の魂がこの世に戻ってくる時期で、「盂蘭節」、「中元節」、や「鬼節(gui3jie2)」と呼ばれている。ここでは民間で使われている「鬼節」を使うが、中国では亡くなった人を「鬼」ということが多い。そういうことで中国でも日本全土でも一番、幽霊が彷徨う日は8月13日から15日ともいえる。
この日は清明節と同様に、墓参りをする日だ。しかし、最近の中国では都市部に移動する人や出稼ぎ者も増えた。そうした人々は、線香を道で焚いていた時期もあったが、今は法律で禁止されている。
また、沖縄でのお盆での独自の行事と言えば、エイサーだ。エイサーは、元々、祖先の霊を慰めるための踊りである。
これまでが前書きになるのだが、鶴見区「沖縄タウン」の沖縄物産店で発見したのが、「ウチカビ」だ。これを嫁さんが沖縄物産店で見つけた際には、「おーこれ沖縄って中国と同じだ。中国もこういうのを燃やすのよ」と私に話した。そして、その「ウチカビ」がある方に振り向いて、「おー。これは面白いなあ」と私が話した。それで今、「ウチカビ」が手元にあるわけだ。
黄土色の板紙に、丸型の押印が50個ある。原料は藁である。中国では、祖先の命日・清明節・端午節・鬼節・重陽節・旧暦大晦日等に燃やすという。沖縄でも、シーミー、お盆、法事などに燃やす。この心とは、中国、台湾、沖縄も共通していて、「子孫から先祖への送金」だということだ。あの世で暮らしていくためにはお金が必要。「地獄の沙汰も金次第」という言葉もあるのだが、お金はどこでも必要だという観点は面白い。聞くところによると、沖縄県ではコンビニでも売っているという。
昔は、この押印は、自分で印を作って心を込めて押していたということだが、嫁さんが言うには中国でも同様だった。
ところで中国で紙銭について調べて見ると、紙銭を燃やす際には、紙銭を他の魂から取られないように石で抑える(圧銭ya4qian2)という。そして紙銭を円状に配置するがそこで重要なことは先祖がいる方向のみに口を開けるとのことである。だから完全な円状にはしない。この先祖のいる方向とは墓であり、都市部に住む人であれば、先祖が眠っている方向を開けることがポイントだ。紙銭はご先祖の名前を呼ぶながら燃やす。燃えた灰が舞い上がるときはご先祖がお金を取りにきたと言う証なので、その時に子孫は先祖と会話するという。子孫は亡くなった先祖に、「みんな元気でやっているから心配しないでね」とか「天国から見守ってね」とか先祖に報告をするという。その際、必ずしも先祖だけに送金するということでもなく、先祖の霊とともに、その友達の霊も来るという考えからお裾分けをするということもあるという。
沖縄では先祖崇拝の考え方は本土よりも強いが、家族に返事があれば神に対するお願い不足が議論されることもあるのだが、時として「ウチカビ」による送金不足も話題に上がるという。
沖縄は様々な地点での中継点であり、重要な地域である。人の往来も激しかったのだろう。そうした中で、中国文化と沖縄文化を比較していくと知らなかった共通点や発見もしくは新たな視点も生まれる可能性があって本当に面白い。
うちかび
沖縄県民一家に一冊「沖縄手帳」~旧暦と新暦の狭間に生きる人々
手元に「沖縄手帳」というものがある。私は横浜市鶴見区の「沖縄タウン」の「沖縄物産店」で「沖縄手帳」を発見してびっくりした。想像して欲しい。自分の出身地が仮に山形県であったとしても「山形手帳」が売れるだろうか。「山形手帳」を販売しても需要がないというのは分かることである。しかし、沖縄県や県外在住の沖縄県民には、この「沖縄手帳」が必要であるということは、沖縄県民が新暦と旧暦そして様々な行事の世界に生きているからなのだ。
この手帳が便利なのは新暦と旧暦を並列して書いてあることである。嫁さんが沖縄県民の友達に、この「沖縄手帳」の話をすると、私も持っていますという回答が帰ってきた。沖縄から遠く東京で働いていても、旧暦のことは忘れない。そう考えてみると、鶴見区「沖縄タウン」で居住する沖縄の人々もこうした手帳を持っているものと類推できる。実際、この「沖縄タウン」でも「沖縄手帳」を販売している。どれだけの本土で働く沖縄県民が旧暦を意識しているか分からないものの、決して少なくない沖縄県民が旧暦と新暦の使い分けをしているのだろう。
例えば今年のお正月は、旧暦であれば1月23日であり、その時に遠く離れている中国にいる親族や友人にに、「過年好」「春節哀楽」ということをメールか電話で伝えるものと想像できる。
ところで日本在住の中国人にとっては二つのお正月がある。一つは新暦の1月1日であり、当然、日本人のように「明けましておめでとう」という。しかし、もう一つは旧暦のお正月も重要視する。友人であれば、「春節快楽」とメールを送るし、親族であれば、もちろん電話をしてお互いの1年のはじまりを確認する。旧暦を重視する中国朝鮮族も同様である。今年の旧暦1月1日は新暦の1月23日だが、中国全般でお祭りがある。
沖縄もそうした旧暦文化圏である。農家であった父が言うには、新暦の暦は不便だったという。旧暦は農作業をするには便利だったと回想する。あまり知られていないが明治政府成立後の新暦に反対した一揆もあったと聞く。
いまや日本本土はほとんどが新暦であり、特段新暦で不便は感じないものの、中国、韓国その他の国々には旧暦が現存として生きている。「沖縄手帳」が販売されている背景にはそうしたことがあるのだろう。嫁さんがこの「沖縄手帳」を見た時には、「これは便利だわ」と呟いた。「沖縄手帳」は中国人にとっても旧暦がすぐ分かることから、使い勝手が良い。
旧暦を起点としたいくつか行事があることは、仕事のアポイントメントとも関連する。旧暦で何か行事があれば、その日はアポイントメントを入れることが出来ないなど様々な事情があると推察できる。
例えば、旧暦で何か行事があれば、「その日、飲み会は無理だわ。親戚が集まるからな」という会話もあり、その際に「沖縄手帳」が威力を発揮する。
この「沖縄手帳」は18年間発行し続けている。発行先は、身も蓋もないが、「沖縄手帳社」で、価格は880円。そしてスマートフォン版もあるという。
かつて海洋国家として発展した沖縄文化は海外から数多くの文化を受容し、また、現存もしている貴重な地域だ。この「沖縄手帳」を眺めていると様々なことが見えてくる。例えば、「沖縄手帳」には月の満ち欠けも書いているのだが、海洋国家の名残と漁業にも関係していると考えられる。
この「沖縄手帳」を見ると沖縄県民の生活や1年の行事、家族関係など様々なことが思い浮かぶことが出来る。そういう意味で貴重な「手帳」だと思う。
沖縄手帳
今年の旧正月は1月23日です

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この手帳が便利なのは新暦と旧暦を並列して書いてあることである。嫁さんが沖縄県民の友達に、この「沖縄手帳」の話をすると、私も持っていますという回答が帰ってきた。沖縄から遠く東京で働いていても、旧暦のことは忘れない。そう考えてみると、鶴見区「沖縄タウン」で居住する沖縄の人々もこうした手帳を持っているものと類推できる。実際、この「沖縄タウン」でも「沖縄手帳」を販売している。どれだけの本土で働く沖縄県民が旧暦を意識しているか分からないものの、決して少なくない沖縄県民が旧暦と新暦の使い分けをしているのだろう。
例えば今年のお正月は、旧暦であれば1月23日であり、その時に遠く離れている中国にいる親族や友人にに、「過年好」「春節哀楽」ということをメールか電話で伝えるものと想像できる。
ところで日本在住の中国人にとっては二つのお正月がある。一つは新暦の1月1日であり、当然、日本人のように「明けましておめでとう」という。しかし、もう一つは旧暦のお正月も重要視する。友人であれば、「春節快楽」とメールを送るし、親族であれば、もちろん電話をしてお互いの1年のはじまりを確認する。旧暦を重視する中国朝鮮族も同様である。今年の旧暦1月1日は新暦の1月23日だが、中国全般でお祭りがある。
沖縄もそうした旧暦文化圏である。農家であった父が言うには、新暦の暦は不便だったという。旧暦は農作業をするには便利だったと回想する。あまり知られていないが明治政府成立後の新暦に反対した一揆もあったと聞く。
いまや日本本土はほとんどが新暦であり、特段新暦で不便は感じないものの、中国、韓国その他の国々には旧暦が現存として生きている。「沖縄手帳」が販売されている背景にはそうしたことがあるのだろう。嫁さんがこの「沖縄手帳」を見た時には、「これは便利だわ」と呟いた。「沖縄手帳」は中国人にとっても旧暦がすぐ分かることから、使い勝手が良い。
旧暦を起点としたいくつか行事があることは、仕事のアポイントメントとも関連する。旧暦で何か行事があれば、その日はアポイントメントを入れることが出来ないなど様々な事情があると推察できる。
例えば、旧暦で何か行事があれば、「その日、飲み会は無理だわ。親戚が集まるからな」という会話もあり、その際に「沖縄手帳」が威力を発揮する。
この「沖縄手帳」は18年間発行し続けている。発行先は、身も蓋もないが、「沖縄手帳社」で、価格は880円。そしてスマートフォン版もあるという。
かつて海洋国家として発展した沖縄文化は海外から数多くの文化を受容し、また、現存もしている貴重な地域だ。この「沖縄手帳」を眺めていると様々なことが見えてくる。例えば、「沖縄手帳」には月の満ち欠けも書いているのだが、海洋国家の名残と漁業にも関係していると考えられる。
この「沖縄手帳」を見ると沖縄県民の生活や1年の行事、家族関係など様々なことが思い浮かぶことが出来る。そういう意味で貴重な「手帳」だと思う。
沖縄手帳
今年の旧正月は1月23日です
綺羅星の賢人が存在した琉球王国~沖縄発展の可能性を琉球史から紐解く
新年の「琉球新報」を読み、飲食業に従事している女性が「沖縄独立論」に言及していた。この女性が言うには、「あの時、本土復帰しない道もあったのではないか。かつて琉球王国は、中国、朝鮮、東南アジアに跨がる貿易国であり繁栄していた」という話であった。琉球独立論を唱える沖縄県民はこのような黄金の時代の実現をイメージしているのだろうか。
私は琉球史については小学生並みの知識しかないが、もし、自分が小学生であれば、沖縄の歴史という簡単な本を読んでいれば、沖縄県に対する視点も随分変わっていたと思う。私ははじめて読む本はイキナリ専門書に入らず、小学生でも分かる本をじっくりと読む癖がある。今回、面白いと興奮した本が、「琉球歴史の謎とロマン 人物ものがたり」であり、亀島靖氏の本である。小学生でも大人でも十分に楽しめる本であり、沖縄の歴史を勉強したいが何が良いかと迷っている方は、是非とも同書をオススメしたい。
そして同書によると、沖縄県には黄金時代があったことも間違いではない。沖縄が長く3国に分かれて争っていた時代で彗星のように登場し、奇跡の業績を行った人物に「懐機」という人物が登場する。琉球三山国の統一の覇業、天才にして卓越した軍事家、シビルエンジニアリング、南海貿易の推進、善隣親善外交を柱、どれを取っても当時としては琉球王国を発展させるに欠かせない偉業だったと言える。ところでこの人物は生没年が全く不明で、本当にこんな人物が存在するのか、数名の偉業を1人の人物に託したのではと疑ったほどであるのが実在したことは歴史家が認めることで、その後、琉球は、海洋王国として発展する。
国造りには、明時代から来訪した久米三十六姓を時代の節目に登用されているが、その多くは中国の今の福建省にあたる福州人だった。琉球王国は建国当時、福州人との結びつきが強く、国造りのためには福州人の知恵や技術が必要だったのだろう。今でも沖縄県民の中には地勢的に福州人と親戚関係を持つ人は少なくない。また、独自の唐名もある人もおり、日本とも中国とも異なる文化も持つ。ちなみに、この「懐機」という人物も福州人である。
第一尚氏の「尚秦久」は莫大な費用を寺に寄進して国家財政を破綻したが、一方では、「万国津梁」の鐘ではこう記しているのは興味深い。「琉球国は南海の素晴らしい地であり、中国、朝鮮、日本と親密な関係を持ち、これらの国の中間に位置している。また、古来より船を操り、世界の架け橋となっている。そのため、世界中の宝物が国中に溢れている」と書かれている。琉球王国が宝物溢れる南海王国としてのアイデンティティーを持ったのはこの時期とされている。
後に薩摩藩の介入や琉球処分により、琉球国は滅亡に至るのだが、その間のドラマは後日何らかの機会に紹介したいのだが、一時は人口17万人と少数ながらも最大領土は奄美群島から先島諸島まで制覇し、その貿易相手国は東南アジアまで至ったという。同時期に繁栄したマラッカ王国とも貿易を熱心にした事跡もあった。現実的に、琉球王国が明治政府か清国のいずれかに帰属する問題は長引き、日清戦争で日本が勝ったことにより解決することになった。別項に改めて書くがこの際、先島諸島分割案を明治政府が清国に提案されていた。ひょっとしたら先島諸島は、中国に帰属していた歴史もありえた。実際、調印寸前までいったのである。
琉球独立論にはこうしたかつての南海王国の回帰というべきものがあるのだろうかと思う。現在、どのくらいの人が琉球独立に賛同しているかということだが、琉球大学の林泉忠准教授の調査では2007年のデータでは、20%台と高いものの、実際は、「琉球新報」のアンケート調査が実態に即しているというのが私見である。琉球新報の今年1月1日に発表したアンケート調査では、今後の日本における沖縄の立場(状況)について「現行通り日本の一地域(県)」が61・8%、「特別区(自治州など)」が15・3%、「独立」が4・7%。ウチナーンチュや沖縄文化への「誇り」は10年前、5年前と同様、依然高く約9割を占めた。
私見の根拠というのは、沖縄で独立を訴えている政党としては、「かりゆしクラブ」のみで地方議員も存在していない泡沫政党である。ハッキリ言うとネタ政党である。もし、実現可能であれば将来本格的に議論されるかも知れない「沖縄州」かも知れないが、それが独立に結びつくとは思えない。
日本人が本気で沖縄県民が独立を検討していると考えればそれはかなりミスリードした議論となる。ただし、基地問題は複雑で、琉球新報でのアンケート調査でも、「沖縄の米軍基地は「縮小」「撤去」を望むのが65・9%を占めた」とあるように沖縄にとって基地問題は重い課題となっているのが実情だ。そうかといって沖縄県民が日本国民を嫌っているというのも早計で、沖縄経済の本土との依存度も強く、また出稼ぎも多いことから、本土と沖縄の結びつきは年々強くなっているのが実情だ。
中国では朝鮮族自治州が独立するのではという警戒論が一部あるのだが、実態を知っている私にとって朝鮮族自治州独立論はネタ扱いにしかならない。確かに一度は南北統一論が盛り上がった際には、朝鮮族独立論も一部わき上がったが現実的ではないと言うことで沈静化された。
沖縄県民と中国朝鮮族という2つの民族ははからずも独立論争の遡上に上がるが、政治的な思惑が強すぎて現実的ではない。
しかし沖縄県には綺羅星のような賢人が現実に存在したことは事実であり、琉球独立は別としても、やり方によって沖縄県は無限の可能性を秘めているように思える。その形態がどのような方法であるかは今後の議論の的になろうが、沖縄県の発展についてどのような形でサポートすることについてはもう少し、日本人も知恵を出してもいいと思う。
琉球歴史の謎とロマン

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私は琉球史については小学生並みの知識しかないが、もし、自分が小学生であれば、沖縄の歴史という簡単な本を読んでいれば、沖縄県に対する視点も随分変わっていたと思う。私ははじめて読む本はイキナリ専門書に入らず、小学生でも分かる本をじっくりと読む癖がある。今回、面白いと興奮した本が、「琉球歴史の謎とロマン 人物ものがたり」であり、亀島靖氏の本である。小学生でも大人でも十分に楽しめる本であり、沖縄の歴史を勉強したいが何が良いかと迷っている方は、是非とも同書をオススメしたい。
そして同書によると、沖縄県には黄金時代があったことも間違いではない。沖縄が長く3国に分かれて争っていた時代で彗星のように登場し、奇跡の業績を行った人物に「懐機」という人物が登場する。琉球三山国の統一の覇業、天才にして卓越した軍事家、シビルエンジニアリング、南海貿易の推進、善隣親善外交を柱、どれを取っても当時としては琉球王国を発展させるに欠かせない偉業だったと言える。ところでこの人物は生没年が全く不明で、本当にこんな人物が存在するのか、数名の偉業を1人の人物に託したのではと疑ったほどであるのが実在したことは歴史家が認めることで、その後、琉球は、海洋王国として発展する。
国造りには、明時代から来訪した久米三十六姓を時代の節目に登用されているが、その多くは中国の今の福建省にあたる福州人だった。琉球王国は建国当時、福州人との結びつきが強く、国造りのためには福州人の知恵や技術が必要だったのだろう。今でも沖縄県民の中には地勢的に福州人と親戚関係を持つ人は少なくない。また、独自の唐名もある人もおり、日本とも中国とも異なる文化も持つ。ちなみに、この「懐機」という人物も福州人である。
第一尚氏の「尚秦久」は莫大な費用を寺に寄進して国家財政を破綻したが、一方では、「万国津梁」の鐘ではこう記しているのは興味深い。「琉球国は南海の素晴らしい地であり、中国、朝鮮、日本と親密な関係を持ち、これらの国の中間に位置している。また、古来より船を操り、世界の架け橋となっている。そのため、世界中の宝物が国中に溢れている」と書かれている。琉球王国が宝物溢れる南海王国としてのアイデンティティーを持ったのはこの時期とされている。
後に薩摩藩の介入や琉球処分により、琉球国は滅亡に至るのだが、その間のドラマは後日何らかの機会に紹介したいのだが、一時は人口17万人と少数ながらも最大領土は奄美群島から先島諸島まで制覇し、その貿易相手国は東南アジアまで至ったという。同時期に繁栄したマラッカ王国とも貿易を熱心にした事跡もあった。現実的に、琉球王国が明治政府か清国のいずれかに帰属する問題は長引き、日清戦争で日本が勝ったことにより解決することになった。別項に改めて書くがこの際、先島諸島分割案を明治政府が清国に提案されていた。ひょっとしたら先島諸島は、中国に帰属していた歴史もありえた。実際、調印寸前までいったのである。
琉球独立論にはこうしたかつての南海王国の回帰というべきものがあるのだろうかと思う。現在、どのくらいの人が琉球独立に賛同しているかということだが、琉球大学の林泉忠准教授の調査では2007年のデータでは、20%台と高いものの、実際は、「琉球新報」のアンケート調査が実態に即しているというのが私見である。琉球新報の今年1月1日に発表したアンケート調査では、今後の日本における沖縄の立場(状況)について「現行通り日本の一地域(県)」が61・8%、「特別区(自治州など)」が15・3%、「独立」が4・7%。ウチナーンチュや沖縄文化への「誇り」は10年前、5年前と同様、依然高く約9割を占めた。
私見の根拠というのは、沖縄で独立を訴えている政党としては、「かりゆしクラブ」のみで地方議員も存在していない泡沫政党である。ハッキリ言うとネタ政党である。もし、実現可能であれば将来本格的に議論されるかも知れない「沖縄州」かも知れないが、それが独立に結びつくとは思えない。
日本人が本気で沖縄県民が独立を検討していると考えればそれはかなりミスリードした議論となる。ただし、基地問題は複雑で、琉球新報でのアンケート調査でも、「沖縄の米軍基地は「縮小」「撤去」を望むのが65・9%を占めた」とあるように沖縄にとって基地問題は重い課題となっているのが実情だ。そうかといって沖縄県民が日本国民を嫌っているというのも早計で、沖縄経済の本土との依存度も強く、また出稼ぎも多いことから、本土と沖縄の結びつきは年々強くなっているのが実情だ。
中国では朝鮮族自治州が独立するのではという警戒論が一部あるのだが、実態を知っている私にとって朝鮮族自治州独立論はネタ扱いにしかならない。確かに一度は南北統一論が盛り上がった際には、朝鮮族独立論も一部わき上がったが現実的ではないと言うことで沈静化された。
沖縄県民と中国朝鮮族という2つの民族ははからずも独立論争の遡上に上がるが、政治的な思惑が強すぎて現実的ではない。
しかし沖縄県には綺羅星のような賢人が現実に存在したことは事実であり、琉球独立は別としても、やり方によって沖縄県は無限の可能性を秘めているように思える。その形態がどのような方法であるかは今後の議論の的になろうが、沖縄県の発展についてどのような形でサポートすることについてはもう少し、日本人も知恵を出してもいいと思う。
琉球歴史の謎とロマン
京浜工業地帯建設の一翼を担った沖縄県民~鶴見区「沖縄タウン」誕生秘話
沖縄県民の出稼ぎの経緯と歴史は在日韓国・朝鮮人とよく似ていたのではないかと考えていた。今回、横浜市鶴見区仲通りや潮見町に集中して沖縄県民が集中して居住した歴史と経緯を調べて見ると改めてそう感じた。
在日韓国・朝鮮人は川崎にも鶴見にも多く居住しているがうり二つなのである。川崎市の場合は、人口の約2%が外国人であり、割合的には3・5%の横浜市鶴見区に近い。そして、約9,000人の在日韓国・朝鮮人が居住している。鶴見区と比較すると川崎市の方が在日韓国人は、多いが、理由は日本鋼管等の軍需工場があったため、工場で働く作業員の需要があったためだ。浅野総一郎という浅野財閥総帥が、京浜地区一帯を埋め立て、その後、日本鋼管(JFEスチール)や富士瓦斯紡績(富士紡ホールディング)等の工場で従事することになった。そしてその働いた子孫が現在も川崎市のコリアタウンを形成するという歴史があった。
その理由は別に強制送還されてきたわけではなく、日本と朝鮮半島との賃金格差に起因する。日本も朝鮮半島を統治していたが、かといってすべての朝鮮人がその恩恵に浴したわけでもなく、次男坊・三男坊がすべて大都会のソウルや釜山に向かったわけでもなく、需要の多い工業地帯の方が稼げるということなり、一部が京浜工業地帯に集中したのは当然のこととも言える。
かといって、工場で働く環境は快適とは言えなかったようで、「日本鋼管 命の交換」という話もされており、また自殺者や差別も現存と存在したため、ハッピーとも言い難かったのも事実だ。ただし、朝鮮人が稼げる京浜工業地帯で一旗揚げようと考えた人々が多く、その名残として、現在の川崎市にコリアタウンが存在すると言うことである。
一方、それでは沖縄県民が鶴見区に集中して居住していることはどういうことなのだろうか。沖縄県民の鶴見区への居住は古い。
まず1910年代に黒糖の値段が暴落し、沖縄の基幹産業である農業に大打撃を与えたことからはじまる。琉球王国時代からの沖縄史は別項に書こうと思うが、この際、好景気に沸いていた沖縄県民の生活が一気に苦しくなった。食事するのも困るため、毒素があり、自生している「ソテツ」まで食べることになり、この「砂糖バブル」時代からの後のことを「ソテツ地獄」と呼んでいる。
一方、日本本土は工業地帯の建設によって、人がいくらでも必要だった。言い方は悪いがどこからでも人が欲しかった時代でもある。そうした中で朝鮮人もおり、また沖縄県民もかなり移住したことがある。日本本土最大の沖縄県民が集中して居住する大阪府大正区もこの時期「沖縄タウン」ができている。言うならば大阪を目指した人は、阪神工業地帯に、川崎を目指した人は、京浜工業地帯の作業員にそれぞれ吸収された。ちなみに、東京や神奈川での安価労働力の供給先としては、歴史的に東北と北陸が上げられるのだが、この日本が近代化するにあたり、東北人や北陸人でも不足していた実態があり、沖縄県民も朝鮮人も吸収していったのだろう。大日本帝国の建設にあたっては、多くの人々の力が必要であったのは歴史的事実だ。
大日本帝国における資本主義の発展史については、正も負も当然あった。こうした非熟練工が低賃金で働く作業員にはやはり差別もあり、居住地もスラム化していった。昭和初期頃のスラムや下層社会についての研究は磯村英一や草間八十雄等の諸氏に詳しく、当時の貧困層の生活が伺える。格差も並大抵のものではなかった。だからこそ川崎市や鶴見区の地方近代史を見ると、そこには大日本帝国の矛盾も垣間見ることが出来るワケだ。
そして当時、朝鮮人も沖縄県民や他の県も事情はほぼ同じだが、長男は跡取りで、次男や三男は、別に将来が補償されたわけでもなく、外に出るというのが慣習だった。農地を分けるわけにもいかない事情もあり、それらの人々は工業地帯に吸収されたという歴史がある。
沖縄県民が今、派遣労働で働きに出る事情は現代と近代では共通していると感じる。それにこれも別項に書くが沖縄県は失業率が日本一高い。この解決として本土への出稼ぎということもあるのだが、いつか沖縄は何故台湾のような経済発展地域になれなかったのか一度ゆっくりと考察してみたい。
私は、在日韓国・朝鮮人の差別問題は1960年代から70年代頃までかなり厳しくあり、80年代から次第に薄れていったという視点で見ている。そしてまた、それは沖縄県民への差別もおおむね同時期まで存在しただろうと想像している。
特に方言で人小馬鹿にする風潮はかなり存在しただろうと思う。同じ地続きの東北弁でもあった。これも別項に書くが、「琉球語」か「沖縄方言」はかなり日本語とは違うところもあり、当時は、日本語になれるまで時間がかかったことは十分に分かる。その事情は朝鮮語も同じだ。だから、訛ったりすると笑っていた風潮もあっただろうし、家も貸さなかったという話もよく聞いていた。「朝鮮人」「沖縄人」お断りの札が存在は、今はもうありえないが、昔はあった。
そうした中で、在日韓国・朝鮮人や沖縄県民への差別はかつて存在したものの、現在ではほぼ消滅したという認識でいる。
日本人も沖縄文化や音楽に本当に親しみを寄せるようになり、日本人の沖縄県への認知度は非常に高くなった。定期的に「沖縄ブーム」もあるが、今後とも良き日本文化を残している沖縄文化への親しみや愛着は続いていくに違いない。
それにしても大日本帝国の負の遺産を解決するのには随分時間がかかった印象である。これから本土在住の在日韓国・朝鮮人及び沖縄県民がどう生活していくかは分からないが、自分たちの文化・習慣を保持しつつ、その模範的な生活者として地域に根付いていけば、沖縄や朝鮮半島のよき架け橋となっていくのだろうし、それを期待している。そのモデルケースとして横浜市鶴見区、杉並区あるいは大阪市大正区の「沖縄タウン」が大きな役割を果たしていくことにより、新たに東京や大阪などの大都市を目指す若き沖縄県民の生活もよりよくなっていくことだろう。
おきなわ物産センター
2012年1月 神奈川県横浜市鶴見区にて
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在日韓国・朝鮮人は川崎にも鶴見にも多く居住しているがうり二つなのである。川崎市の場合は、人口の約2%が外国人であり、割合的には3・5%の横浜市鶴見区に近い。そして、約9,000人の在日韓国・朝鮮人が居住している。鶴見区と比較すると川崎市の方が在日韓国人は、多いが、理由は日本鋼管等の軍需工場があったため、工場で働く作業員の需要があったためだ。浅野総一郎という浅野財閥総帥が、京浜地区一帯を埋め立て、その後、日本鋼管(JFEスチール)や富士瓦斯紡績(富士紡ホールディング)等の工場で従事することになった。そしてその働いた子孫が現在も川崎市のコリアタウンを形成するという歴史があった。
その理由は別に強制送還されてきたわけではなく、日本と朝鮮半島との賃金格差に起因する。日本も朝鮮半島を統治していたが、かといってすべての朝鮮人がその恩恵に浴したわけでもなく、次男坊・三男坊がすべて大都会のソウルや釜山に向かったわけでもなく、需要の多い工業地帯の方が稼げるということなり、一部が京浜工業地帯に集中したのは当然のこととも言える。
かといって、工場で働く環境は快適とは言えなかったようで、「日本鋼管 命の交換」という話もされており、また自殺者や差別も現存と存在したため、ハッピーとも言い難かったのも事実だ。ただし、朝鮮人が稼げる京浜工業地帯で一旗揚げようと考えた人々が多く、その名残として、現在の川崎市にコリアタウンが存在すると言うことである。
一方、それでは沖縄県民が鶴見区に集中して居住していることはどういうことなのだろうか。沖縄県民の鶴見区への居住は古い。
まず1910年代に黒糖の値段が暴落し、沖縄の基幹産業である農業に大打撃を与えたことからはじまる。琉球王国時代からの沖縄史は別項に書こうと思うが、この際、好景気に沸いていた沖縄県民の生活が一気に苦しくなった。食事するのも困るため、毒素があり、自生している「ソテツ」まで食べることになり、この「砂糖バブル」時代からの後のことを「ソテツ地獄」と呼んでいる。
一方、日本本土は工業地帯の建設によって、人がいくらでも必要だった。言い方は悪いがどこからでも人が欲しかった時代でもある。そうした中で朝鮮人もおり、また沖縄県民もかなり移住したことがある。日本本土最大の沖縄県民が集中して居住する大阪府大正区もこの時期「沖縄タウン」ができている。言うならば大阪を目指した人は、阪神工業地帯に、川崎を目指した人は、京浜工業地帯の作業員にそれぞれ吸収された。ちなみに、東京や神奈川での安価労働力の供給先としては、歴史的に東北と北陸が上げられるのだが、この日本が近代化するにあたり、東北人や北陸人でも不足していた実態があり、沖縄県民も朝鮮人も吸収していったのだろう。大日本帝国の建設にあたっては、多くの人々の力が必要であったのは歴史的事実だ。
大日本帝国における資本主義の発展史については、正も負も当然あった。こうした非熟練工が低賃金で働く作業員にはやはり差別もあり、居住地もスラム化していった。昭和初期頃のスラムや下層社会についての研究は磯村英一や草間八十雄等の諸氏に詳しく、当時の貧困層の生活が伺える。格差も並大抵のものではなかった。だからこそ川崎市や鶴見区の地方近代史を見ると、そこには大日本帝国の矛盾も垣間見ることが出来るワケだ。
そして当時、朝鮮人も沖縄県民や他の県も事情はほぼ同じだが、長男は跡取りで、次男や三男は、別に将来が補償されたわけでもなく、外に出るというのが慣習だった。農地を分けるわけにもいかない事情もあり、それらの人々は工業地帯に吸収されたという歴史がある。
沖縄県民が今、派遣労働で働きに出る事情は現代と近代では共通していると感じる。それにこれも別項に書くが沖縄県は失業率が日本一高い。この解決として本土への出稼ぎということもあるのだが、いつか沖縄は何故台湾のような経済発展地域になれなかったのか一度ゆっくりと考察してみたい。
私は、在日韓国・朝鮮人の差別問題は1960年代から70年代頃までかなり厳しくあり、80年代から次第に薄れていったという視点で見ている。そしてまた、それは沖縄県民への差別もおおむね同時期まで存在しただろうと想像している。
特に方言で人小馬鹿にする風潮はかなり存在しただろうと思う。同じ地続きの東北弁でもあった。これも別項に書くが、「琉球語」か「沖縄方言」はかなり日本語とは違うところもあり、当時は、日本語になれるまで時間がかかったことは十分に分かる。その事情は朝鮮語も同じだ。だから、訛ったりすると笑っていた風潮もあっただろうし、家も貸さなかったという話もよく聞いていた。「朝鮮人」「沖縄人」お断りの札が存在は、今はもうありえないが、昔はあった。
そうした中で、在日韓国・朝鮮人や沖縄県民への差別はかつて存在したものの、現在ではほぼ消滅したという認識でいる。
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