2012-01-16 自称気違い 
あれは2009年3月27日のことである。ミクシィのコミュ「禁煙ファシズムと戦う」で、初めての会合というのを、神保町の「人魚の嘆き」でやったのである。店にいた松本彩子さんが場所について示唆してくれたからである。
夕方からで、私を含めて七人くらいが集まったが、中に「レタス」とか名乗る、当時五十くらいのおっさんがいた。この人は「変名の名刺」をくれたのだが、言うことが変で、自分は躁鬱病で、ほどなく失明すると言い、「私は気違いのメクラです」とか言うのである。何でも大阪から来たとかで、高校は筒井康隆の後輩だと言って、やたらと筒井を崇拝しているようであった。
ほかの人たちはまともだったのだが、この人だけは変で、「支那」がどうとか、いわゆる「右翼的」なことを口にするので、そのたびにほかの人が微かに退いていた。私は一か月くらいたってから、あれは「禁煙ファシズムと戦う」ということで集まったものなので、政治的にはいろんな意見の人がいるから、ああいう発言はやめてほしい、とメッセージを送った。その時は、納得したという返事が来た。
ツイッターを始めたのはその年の暮れだったと思うが、2010年5月末ころ、私が、筒井康隆は朝日新聞の連載で全然タバコのことを書かない、あれは朝日と、そういうことは書かないという約束でもしたんじゃないか、と書いたら、突然ツイッターで罵詈雑言を浴びせてからんできたやつがいて、それがこのレタス氏だったのである。と同時に、どういうわけかレタス氏の夫人のブログがあって、夫が小谷野さんにからんでいる、と書いてあった。私はコメント欄に、メルアドを入れて、苦情を言ったら、夫人から直接メールが来て、今は躁状態のようですとあり、そこには住所と名前も書かれていた。私は怒りやまずさらに、ああいうことをされると法的手段に出るしかない、と言ったら、しょうがないですね、訴えてください、と実名を教えてきた。
しかしまさかその程度で一私人を訴えてもしょうがないし、だいたい禁煙ファシズムと戦う会の内紛と観られたら嫌だから、ツイッターのほうはブロックし、放置しておいた。
ところが数日前、ミクシィの日記で、私の名前を出しつつ、井上章一さんの『美人論』を絶賛して、「神保町でオフ会があった時、芥川賞落選作家の小谷野敦が、『美人論』を書くと言っていたから、美人論なら先達に井上章一がいますね、と言ったらものすごく嫌な顔をしていた」と書いてあり、これが「レタス」だった。
あの時は、『美人好きは罪悪か』の刊行準備をしていて、その話をしたのだろうが、レタスが、美人論なら井上章一のがあって、あれは素晴らしい、あれを超えることはできない、とか、まるで私が知らないかのように言うから、嫌な顔もしたのである。というか、あの時のレタスの発言にはしょっちゅう嫌な顔をしていた、と言うべきであろう。
まったく、どこに災難が転がっているか分かったものじゃない。レタスは、茨木市新中条町に住む、濱田という奴である。
(小谷野敦)
2012-01-15 「共同幻想」の誤用 
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-2922.html#comment
ゆうべコメントしたはずなのにない。前はコメントできない仕様になっていた。土屋ケンジくんだったね。
「共同幻想」という語を、彼は誤解しているようだ。広松渉によれば「共同主観的存在」ということになるのだが、そこまで広げなくとも、「日本相撲協会」というのは共同幻想である。実体としては存在しないわけで、たとえば「自由の女神」は物理的に存在する。しかし、その背後に「モノ自体」がある、自由の女神の物理的存在は仮象に過ぎない、というのが、プラトン―カントのとらえ方だ。ただ、国家が共同幻想だとか日本相撲協会が共同幻想だとかいうのは、それとはレベルが違って、実際、国会議事堂や国技館は、別にそのような組織そのものではない。
文学作品もまた、印刷された活字としてのみ存在するわけではない。人の脳内に蓄積されたものとしても、青空文庫で電子的記録として存在することもある。文学それ自体は、物理的に存在するわけではない。共同幻想である、といってもそれは何も言っていないに等しいし、紙くずというのはさらに無内容だ。
別にいいのだが、人のコメントを削除したりはじき返したりしないように。土屋君。
(小谷野敦)
2012-01-13 阿覧も強い 
なんか可能涼介さんが福田と坪内と戦っているらしいので、ちょっと援護射撃しようっと。
以前、坪内が、相撲協会は外国人力士を排除しようとしている、って文章を書いたことがある。ただ私は、一時期みたいに横綱・大関全員外国人ってそれはまずいだろうと思っていて、外国人力士の制限はもっとあっていいと思っている。
で、その文章で、有望な外国人力士について触れていた中で「阿覧も強い」って一文があった。これで一文。強いってアンタ……幕内に定着していたらそりゃたいてい強いわな。それでもうこの、何も言ってないに等しい一文が頭にこびりついて、テレビ観ていて阿覧が出るたびに「阿覧も強い」って文を思い出して、なんかおかしくてしょうがないのだ。
「阿覧も強い」。
2012-01-11 国会図書館OPACの壊滅状態 
国会図書館は年末年始にOPACの入れ替えをやった。その結果、ひどいことになった。
図書から雑誌記事まで全部検索するのがデフォルトなので、いちいち全解除しなければならない。それはまだよろしいが、スラッシュを入れての検索ができなくなったのである。
たとえば「文学」という雑誌を検索しようとして、普通に「文学」と入れたら、膨大な「文学時代」や「文學界」まで全部出てくるから、以前は「/文学/」とすればよかったのに、その機能が消えてしまったのだ。これはとんでもないことである。
電話して訊いたが、どうやらこの重大事態を全然理解していないらしく、私が「たとえば林秀雄という人を検索しようとすると、小林秀雄まで引っかかってくるわけでしょう」と言うと、「それはnot検索をすれば」と言う。分かっていないのである。そこで、「じゃあ林光って人はどうするんですか。小林光雄とかそういうのがみんな引っかかってくるんですよ」と言ったら、うすらぼんやりとは理解したようだが、何だか検索システムを外から輸入したらしく(出来合いのものを使ったということ)、そのことばかりくりかえし言っている。実はこの「//」問題は、Ciniiでも前から面倒で仕方なく、これは解決されていない。こういうことが起こるのは、研究者の意見を聞いていないからである。雑誌の「潮」なんてどうするんだ。
その上、デジタル化したものの複写は色が黒すぎて不鮮明だし、どうかしてるぞ国会図書館。
(小谷野敦)
(付記)「検索語一覧」を使えばいいことが分かった。人名の場合は姓名の間にスペースを入れる。しかし電話した際にそれを言えないってことは問題だな。
2012-01-09 ブログと私小説 
最近、私小説を論じて、今ではブログやツイッターでの自分語りがあるから、それも私小説みたいなものだろう、と論じる人が多い気がする。しかし、実は違っていて、私はこれまで、ブログなどの文章が面白いので、それをつなげて小説にしたらいい、と助言したことがある。ところが、ブログといえば原稿用紙五枚くらいだが、それを二十枚の小説にすることができないのである。私から見れば、これとこれとこれと、つなげればいいのではないかと思うのだが、つなげることができないらしいのだ。
これは、三十枚くらいの論文は書けるが、一冊分となるととたんに書けなくなる学者にも、似たものがある。この場合は、30枚から200枚への飛躍なわけだが、5枚から20枚への飛躍ができない人、というのが、ブロガーには結構いるのではないかと、私は思っている。