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 炭鉱地帯の浅貝で育った。近くにはチームメイトの阿部稔(故人)や吹奏楽の藤林二三夫(現湯本高校教諭)などが住んでいた。湯本二中ではピッチャーをやってた。県大会に進み、準決勝で惜敗した。いわき勢では最後まで残ったと思う。高校は取ってもらえると高をくくっていたら落ちた。あの1年のブランクは体力面でこたえた。精神面では大人だったが、体がなまってしまい練習についていけなかった。
 1年のころは内野をしていた。そのうちキャッチャーがいなくなったのでお鉢が回ってきた。二年生の時、甲子園でPL学園と対戦し、延長11回の末に1―2で敗れた。でも、PLの新美から2本ヒットを打った。バッテリーを組んでいた木村さんのボールはクセ球で、まっすぐのサインでも微妙に変化した。その夏はほとんどの試合で完璧な投球だった。
 新チームでは主将になった。できればやりたくなかったけど、歳が1つ上ということだったんだと思う。自分じゃなかったら舟木(昌巳・二塁手)だったかな。でも、言うことはきかなかったかもしれない。
 新人戦で指をけがしてしまい、キャッチャーから投手にコンバートされた。PLと戦ったあとだったんで、地元のチームが子どもに見えて仕方なかった。だからといって勝ったわけではなかった。
 春になっても勝てなかった。3点ぐらいには抑えるのだが、点が取れなかった。ある試合で相手の投手が落ちるボールを投げた。シンカーだったのかフォークだったのか。好きなコースに来たので打ちに行ったら、ボールがスーッと沈んだ。それが頭から離れず、あんなボールがウイニングショットに持てたら、と思っていた。
 ある日、先輩の相原さん(登司輔・現勿来工監督)がシュートの握りを教えてくれた。深く握ると落ちるという。それからは少しずつ試合で使いながら、慣らしていった。最初のうちはホップして食い込んでいたが、東北大会の終盤から甲子園にかけて落ちるようになっていった。  

 夏の予選の前、須永さん(憲史・当時の監督)が「甲子園に行く自信があるものは手を挙げろ」と言った。自分は自信を持って手を挙げたが、手を挙げたものはほとんどいなかった。
 県大会と東北大会。先制された若松商、東北戦はいやだったが、あとはスムーズだった。東北大会の決勝(古川戦)の終盤、突然肩を痛めた。それまでは無安打でスイスイ投げていたのに痛みが走って、腕が下がった。すると山本(裕一・マネージャー)が伝令で来て「監督がもっと上から投げろ、と言っている」という。腕が痛くてそれどころではなかった。それから甲子園まで、1週間ぐらいは投球練習ができなかった。だから、1回戦はなるべく遅くやりたかった。そういう意味で大会5日目はちょうどよかった。 試合の3日前ぐらいだったか。ベースランニングをやらされた。きつかった。普段の練習でも須永さんが「ベーラン」と言うと、寒気が走った。全力、しかもいつまで続くのかわからないときがある。いま思えば、夏を勝ち抜くために体力と精神力を鍛えるために、必要な練習だったのだと思う。そのあとは食事が食べられなくて困った。ふつう試合が終わると1・5キロぐらい体重が減るが、あのときは3キロぐらい減ったと思う。
 初戦の日大一戦は、あっという間に終わった。投げる前までは緊張していたが、1球投げたら落ち着いた。試合が進むにつれて「長打を打たれなければ大丈夫」と思った。打者のクセも見えてきた。いい試合ができれば、と思っていたので無我の境地で投げられた。甲子園ではずっとそうで、勝ったあとの校歌が何よりうれしかった。
 野村(隆一・捕手)は自分にとって最高のキャッチャーだった。確かに肩はそんなに強くなかったかもしれないが、取ってから投げるのが速かったし、キャッチングが抜群だった。しかも頭がいい。だから気分良く投げられた。サインは@アウトコースの直球AアウトコースのカーブBインコース(シュート)の3つだけ。だから三回首を振ると最初に戻ってくる。そんなふうにして、試合を進めていた。
 決勝に進出しても、どうってことはなかった。「ここまで来ちゃったよ」って感じ。でも、いわきはすごいことになってるらしいぞ、って話していた。常磐炭砿の閉山と関連づけられたけど、何の関係もない。「閉山だから何だ」っていう感じ。一緒にされるのがいやだった。当時、おやじは職業訓練校に行っていたが、おふくろが保険の外交をしていたので家計は大丈夫だった。それに比べると、阿部のところはおやじさんがいなかったわけだから…。

 桐蔭学園との決勝戦。7回に1点取られたときは「負けた」と思った。二死三塁、打者は峰尾。1球目のシンカーは自分でもびっくりするくらい落ちた。続いて外角のカーブ、スタンドに入るファウル。カウントは2―0。そこでニューボールが来た。一球ウエストして2―1。その時ボールが滑った。野村に「ふいてくれ」と目で合図しようとしたが、野村は違うところを見ていて目が合わなかった。そのとき野村は最初に「外角のカーブ」を要求したと思ったが首を振った。「内角のシュート」のサインが出たので投げたら滑った。その瞬間、だめだと思った。国体で戦ったときにわかったのだが、峰尾は内角打ちがうまい選手だった。
 「終わった」というのが正直な気持ちだったが、時間とともに悔しさがわき上がってきた。いまでも「勝てた試合だった」と思う。でもあのときはチーム全体がふつう通りに何となく淡々と戦っているだけで、絶対に勝ってやる、という感じではなかった。
 ハワイ遠征が終わり、いわきに戻ってからは手紙がどっさり来た。いやだったのは教室に届くこと。クラスメートが「見せろ、見せろ」とはやしたてた。500通ぐらい返事を書いたことは憶えているが、あとは書ききれなくなった。



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