What's UTORO -1997.3- [English/Japanese]
NEW YORK TIMES -1993.3.1- [English/Japanese]
<地上げ>
「これは何なの!どうして人間が人間の家を潰しに来るんや。ここをどこやと思ってるの。人間が住んでいるんやで、帰れ、帰れ。私たちは命を張って生きているんや。この土地は命より大切なもの、先祖が残してくれたもんや。わての家を潰そう言うんなら、このわてをブルドーザーで轢いてからにせい!」
1989年2月13日、京都府宇治市伊勢田町ウトロ51番地に地上げ屋と建物解体業者がトラック3台で乗りつけました。空家の解体作業を始めようとした朝、住民ら40人がトラックを取り囲み、口々に叫びながら、取り壊し作業を阻止したのです。
京都駅から近鉄京都線で南へ約20分、伊勢田駅を西へ10分程歩いた住宅地の一角にウトロ地区はあります。ウトロとは正式な地名で「宇土口」と漢字表記されたものが、片仮名で書かれて「口」は誤って「ろ」と読まれ、そのまま地名として定着したものです。陸上自衛隊大久保駐屯地の北側に沿って東西に長い矩形の土地、約21000平方メートルに約80世帯、380人の在日韓国・朝鮮人が暮らしています。
<ウトロの歴史>
戦時中の京都飛行場建設工事に集められた朝鮮人労働者の飯場がウトロの歴史の始まりです。1940年日米開戦を準備していた日本は国防上の必要から、広大な飛行場を併わせもつ飛行機生産工場の建設にかかりました。安価で強靭な労働力が必要とされ、国策会社・日本国際航空工業株式会社の工場敷地の一画に作業員の飯場が作られたのです。
「ウトロに行けば家族で住める。軍需工事だというので配給も多少割増になる。そして何より微用にとられないで済む………。」およそ1300人の朝鮮人労働者が集められました。今もウトロに住む文光子さんはこう言われたと言います。「ここに住め!そして働け。」
1945年7月、米軍の爆撃によって飛行機製造工場は壊滅しました。そして、日本の敗戦により朝鮮人は民族の独立、解放をかちとりました。8月15日ウトロでは夜を徹してその喜びにひたり、皆で祝ったと言います。しかし、飛行場建設工事は中止となりました。「工事を仕切っていた日本人は『お前ら、どないせい』とも言わず、さっさといなくなり、姿を消してしまった」と、今年85才になる金壬生さんは語っています。
屋根に杉皮を載せただけの雨漏りのする粗末な飯場跡から、金壬生さんや文光子さんの戦後は姶まったのです。解放の喜ぴも束の間、ウトロの朝鮮人労働者は全員が失業し、日本政府や国策会社からは何の補償もされず、そのまま放置されました。かつての国策会社の広大な土地のうち、工場区域は軍需から民需に転換した新工場にそのまま引き継がれました。会社は「日国工業」と改称しバスの車体などを作り始めましたが、ウトロの朝鮮人が雇われることはありませんでした。朝鮮戦争による特需期を経て、後にこの会社は日産資本の傘下に入り、今日の日産車体株式会社という大会社になりました。
一方、ウトロの住民は生きるために飯場の跡にバラックを建て、少しづつ改良を重ねて、自らの住居を向上させていったのです。連合軍総指令部(GHQ)がウトロの土地を接収しようとした時は、生活権をかけて銃をかまえる米兵と対峙し、自らの住居を守りました。ウトロ地区は戦前の国策会社を引き継いだ清算会社の吸収・合併により、1962年に日産車体が登記簿上の所有者となりました。
<水道問題>
細い路地でつながったウトロ地区は、現在は土建業、廃品回収業、染色業やブロック製・造業などに従事する韓国・朝鮮人の暮らす街です。1985年にウトロで放火とみられる火事があり、消火に手間取って民家と倉庫が全半焼する事件がありました。当時、宇治市の市街地の中で、ウトロだけが上水道も消火栓もない地域でした。地主の日産車体は「住民は土地を不法占拠している。水道を引くことは住民に何がしかの権利を認めたことになる」と、水道管の敷設を拒否し続けていました。またその頃、宇治市内で赤痢が集団発生し、赤茶けた井戸水は保健所から「飲料水に不適」と判断されたこともあって、ウトロの人々の清潔な水、安心して飲める水を求める声は、周囲の日本人に知られるようになりました。この問題を人権問題ととらえた日本人市民とウトロ住民は宇治市行政に水道管敷設を求める交渉を重ね、ついに1987年3月、日産車体は水道管敷設に同意して、1988年1月に水道管の分岐工事が行われ、給水が開始されました。
<土地転売>
ウトロの土地が売りに出されているという噂が不動産業界に流れ、業者と覚しき者がウトロを訪れるようになったのは、1988年2月頃のことです。ウトロの土地は日産車体が水道管埋設同意書を宇治市に提出したその日、1987年3月9日に日産車体からウトロ自治会長を名乗る平山桝夫に3億円で売却され、平山は同年5月に有限会社西日本殖産に転売していました。同会社が所有権移転登記をしたのは同年8月12日。住民たちはこの間の出来事を全く知らされず、西日本殖産は同年12月各世帯に立ち退き通告書を送り付け、1989年2月には建物収去土地明渡し訴訟を京都地裁に起こし、ウトロのほぼ全世帯を被告席に追いやったのです。
日産車体の関係証人は後日の裁判で次のように述べています。
「(契約交渉のため)ウトロに行った時は、ただ一直線に平山氏の自宅に行っただけで町並みは見ていない。歩き回ったこともない。」(管財部門責任者、松本惇)
「当時、円高不況で日産の業績も悪化して生産は25%ぐらいダウンしていた。手持ち不動産を処分することで切り抜けようとした。平山氏個人との契約になってからは、そこに住んでいる人のことは考えなかった。」(常務取締役、鹿谷俊)
狭い路地でつながり軒を連ねた家々が並んでいるウトロで、人々の暮らしも住宅も見なかったというのです。日産車体はウトロの土地問題を当事者に相談することなく、自分の都合だけで一挙に処理しました。
<ウトロを守る運動>
ウトロ住民は町内会は再建して裁判闘争を闘うことを決める一方で、この問題を多くの人々に訴えようとしました。1989年3月、ウトロ問題に関心をもつ市民が集まって、支援団体「地上げ反対、ウトロを守る会」が作られました。そして、1989年4月29日の初めての集会には、700人の市民・住民がウトロ広場を埋め尽くしました。過去に周囲の日本人がウトロを訪ねることはなかったので、ウトロの人々は驚きました。集会後、朝鮮の民族衣装を着たオモニたちを先頭に民族楽器を打ち鳴らして、近くの日産車体京都工場の周囲をデモ行進しました。日本人、朝鮮人が一つになって進みました。それはウトロの闘いにとって画期的な出来事でした。この日を境に、ウトロ住民は社会的運動を展開する道を自ら選んだのです。
1989年10月には、ウトロ住民と日本人の支援者らは神奈川県平塚市の日産車体本社と東京東銀座の日産自動車本社に出向いて直接対話を求めました。しかし、日産側は一切の話し合いに応じず、「ウトロに住み続ける権利がある」という住民側の要求を「土地はすでに売却済みで、当社とは関係ない」と拒絶するだけでした。
<住民の証言>
戦時中からの暮らしぶりを申花春さんは次のように話してくれます。
「柱だけのバラックにトタンを自分たちで張った。新聞紙やセメントの入っていた紙の袋に、大きな鍋で炊いた糊を付けて壁や天井に張り付けてすき間風を防いだの。なかなか乾かなくて、ひっつかないし、重くてずり落ちたり、強い風が吹くと一遍に飛ばされて大変やった。食べる物も配給で、田圃の肥料に使う油糟やら小さい芋やらをウドンや団子にして食べたよ。でもウトロは『御飯あるよ、菜っ葉炊いたよ』と、声掛け合って皆で集まって食べた。夜遅く帰る人があると『御飯はどうですか』と声掛けた。こうやって助け合ってきたから、皆今生きているんです。」
「夫は屑屋から始めて昼も夜も働いて、ダンプを買って少しづつ建設の仕事を広げていったんです。夢中で一緒に働いて6人の子供を育て上げて、15年前に今の家を建て替えました。屋根に瓦のある家に義母さんを住まわせてあげるのが、夫の長年の夢やったけど、生きている間には出来ませんでした。水道も引けてやっとここで人間らしい暮らしが出来ると思った時に地上げや。腰抜かすほど驚いたわ。それから不安で………。」と、ウトロ町内会の婦人会長を務めた韓金鳳さんは嘆いています。「『バカヤロウ』『コノヤロウ』と言われて仕事をした先輩らは皆んな死んでしまったけれども、ここには、その子供や孫が家を建てて、働いて、学校に行ったりしている。住み慣れた所を今更退けと言われても、よそに行く訳にはいかん」と、金壬生さんは、地上げに対する反論を言い切ります。
<立ち退き裁判>
被告らは京都地方裁判所への上申書で、次のように訴えました。
「戦後、何の補償もないまま放り出された一世を含む私たちは、全くの独力で飯場をバラックに、バラックを家屋に建て替え、空地を開墾し食物を作りそれぞれ生業に精を出し民族学校、自治会を組織し電気、水道を引かせるなどして、このウトロ地区を朝鮮人の生活拠点に作り上げ現在に至っています。ウトロの土地問題を単なる司法上の所有権の有無という狭い土俵で解決されるべき問題とは考えられません。これまでの歴史的、政治的、社会的責任をも考慮して解決すべき問題です。出て行けと言われても出て行く当てもないし余裕もない、(因みに被告69世帯のうち十数世帯は生活保護を受けています)こんな理不尽なことでは仮に判決に負けても、身体をはって抵抗するしかない強い怒りがあります」
現在、ウトロ裁判は大詰めを迎えています。裁判所は和解案を提示するに先立ち、原告と被告の双方に見解を示しました。原告側にはウトロの土地で儲けようとせず、取得費用、金利、固定資産税など最低限の額を提示すること。また被告側には50年以上にわたって住み続けてきた実績は認めるが法的権利があるという訳ではない。犠牲を払って権利を取得すると考えて欲しいと。
1997年1月29日、裁判所は被告住民の一括買取りを前提に総額14億円という金額を提示しました。被告側がこれまでに提示した額は7億400万円。その約2倍の金額でした。被告代理人の一人、河本光平弁護士は裁判の見通しについて「もし、和解交渉が決裂となれば多くの場合、被告敗訴。つまり建物を更地にして立ち退けという厳しい判決になるだろう」と言います。ウトロ住民は今、14億円という金額を飲むか飲まないか苦汁の選択を迫られています。住民の一人は「喉元にナイフを突き付けられている気分だ」と言います。
戦後責任や企業の社会的責任を問われている政府と日産車体はともに訴訟の当事者ではなく、法廷で裁かれることはありません。その「主役」抜き裁判で、ウトロ住民は日本の「負の遺産」と格闘させられているのが現実です。もし被告の敗訴が確定されると、ウトロ住民は居住を奪われ、強制立ち退きは日本の裁判所の力で成功することになります。
(田川明子 「地上げ反対!ウトロを守る会」)
[「3.19ウトロ裁判報告の集い」報告(1997.3.23)]