木地師は、戦国期に近江守護佐々木六角氏の支配下にあって甲賀銀山の開発を担っていた。その木地師の統括者であった小椋氏が、鎌倉幕府草創期には近江守護佐々木氏の郎党であったことが、九条兼実の日記『玉葉』や鎌倉幕府の記録『吾妻鏡』で分かる。 建久二年(1191)四月近江守護佐々木定綱と山門が抗争した。前年近江に大水害があり、多くの荘園が年貢未進となり困窮した山門僧兵による暴力事件が多発した。佐々木庄も同様で、日頃から佐々木庄を千僧供料と主張していた山門僧兵は激昂し、日吉社僧を佐々木庄に乱入させた。定綱が京官(蔵人尉)で留守だったため次男左兵衛尉定重が防戦、日吉社僧を刃傷し、さらに過って日吉社の神鏡を破損した。怒った山門僧兵が蜂起して朝廷・幕府に定綱父子の身柄引き渡しを求めた。摂政九条兼実も山門の非道に憤慨したが、定綱父子の配流で決着した。定綱は薩摩、長男広綱(左兵衛尉)は隠岐、次男定重(左兵衛尉)は対馬、三男定高(小三郎)は土佐に配流、郎等堀池八郎実員・井伊六郎真綱・岸本十郎遠綱・源七真延・源太三郎遠定は禁獄となった(『玉葉』『吾妻鏡』)。それでも収まらない山門僧兵は、五月二十日配流途中の定重を捕らえて近江唐崎で殺害した(『吾妻鏡』)。 この禁獄となった郎党のうち、堀池八郎実員は続群書類従三上系図(清和源氏義綱流)に「三上八郎実員」とある三上氏、井伊六郎真綱は佐々木庄下司源行真(宇多源氏)の末子井六郎実綱、そして岸下十郎遠綱が『尊卑分脈』清和源氏満季流小椋氏に岸下十郎重綱とある小椋氏の祖である。源七真延・源太三郎遠定も岸下遠綱に続き、しかも名字が記されないことから岸下氏と考えられる。遠定は遠綱の父高屋定遠であり、源七真延は遠綱の別名「平井七郎」と関係があろう。 慶長八年(1603)に作成された池田輝政家臣平井源八家系図によれば、源七真延は遠綱の実兄であるという。同系図では源七真延は「真綱」とも伝えられているが、井伊六郎真綱の孫が平井氏を名乗ったからだろう。 岸下系図 ┌真延(源七) ┌定遠┴遠綱─景綱(修明門院判官代) └景遠(九条院判官代) 近江守護定綱の郎党岸下定遠・遠綱父子の弟景遠(森氏祖)は九条院判官代だが、九条院は近衛天皇中宮藤原呈子(関白藤原忠通養女・太政大臣藤原伊通実娘)である。これで、定綱の父源三秀義の前身が近衛天皇蔵人源資長(宇多源氏宮内卿有賢三男、母平忠盛娘)であり、源為義の女婿である秀義が保元の乱で後白河天皇・関白忠通方であった理由が分かる。定綱が新田義重の女婿になったのも、義重が同じく九条院判官代だからだろう。 判官代は女院領の管理を担当したが、遠綱の長男景綱も承明門院判官代を勤めた。承明門院は後鳥羽院の乳母であり、定綱が後鳥羽院蔵人として元服奉行を勤めたことと関係があろう。定綱が女院判官代を郎党にできる格式であったことも確認できる。 小椋氏は、その祖岸下遠綱(本名重綱)が当時愛智郡岸下庄を名字の地とし、帰国後に大国・栗田・御園庄を得て、大国庄平井に居住して「平井七郎」を名乗った。源七真延の跡を継承して惣領「七郎」となったのだろう。また平井の名字は、愛智秦公の子孫平井家次の名跡を継承したものだろう。平井家次の外戚井伊六郎真綱が、遠綱の兄七郎真延の本名として平井源八家系図に伝わることからも、小椋氏と愛智秦氏の関係を推定できる。小椋氏とともに木地師を統括した大蔵氏も、秦大蔵忌寸の子孫であろう。 愛智(依知)秦公が最初に文字資料に見えるのは、『日本書紀』孝徳天皇大化元年九月戊辰(三日)・丁丑(十二日)条の「朴市秦造田来津」である。この記事は、古人大兄王の謀反に加担したというものだが、秦田来津は処罰されることはなく、むしろ直後に百済救援の将軍として百済軍参謀となり、白村江の戦いで戦死を遂げている。古人大兄王事件では中大兄王と通じていて、古人大兄王に謀反を勧める役回りを演じたのだろう。 田来津は秦河勝と同様に姓は造であり同族と考えられ、天智天皇(中大兄王)の近江大津宮遷都は、この愛智秦公の支援を期待したものと考えられる。近江佐々木山(繖山)の観音正寺が聖徳太子の創建とされるのも、佐々貴山公が、聖徳太子(厩戸王)の側近秦河勝の一族愛智秦公と縁戚関係にあったからだろう。佐々貴山公の祖は、雄略天皇の即位を軍事的に支援した狭狭城山君韓帒だが、その名は韓半島の冠を身に着けているものであり、海人族として韓半島と倭を行き来していたと考えられ、実際に沙沙貴神社では、秦氏も祭る渡来神少彦名命が佐々貴山公の祖大彦命とともに祭神となっている。また平安中期に佐々貴山公興恒の後任の近江追捕使に補任されたのは、渡来系大友漢人の出身大友兼平であり、承平二年(932)正月二十一日付田券(東寺百合文書)に、蒲生郡郡老佐々貴山公房雄、郡司佐々貴岑雄とともに名の見える擬大領大友馬飼の子孫と考えられる。佐々貴山公は渡来系氏族と関係が深い。 秦氏は秦韓(新羅)出身の機織技術を持つ渡来人だが、秦韓の人びとは秦と同じ言葉を話していたともいわれ、また秦皇室と同姓の豪族が河南地方には多く分布していた。 さらに古代中国神話で秦が機織技術と関係があったことが分かる。秦の始皇帝の子孫という系譜は信じられなくても、秦皇室と同姓であった可能性は高い。しかも「愛智」にもともと「朴市」の字が当てられていたように新羅王家朴氏と愛智秦公は関係があろう。中国長江流域の越の子孫が越智(おち)を名乗ったように、朴氏の子孫が朴市(えち)を名乗ったと考えられる。 また秦皇室は鳥を宗教的象徴としていたが、新羅王家も卵生伝説をもつように鳥を宗教的象徴としていた。新羅王家には朴・昔・金氏があったが、とくに昔氏は鵲(かささぎ)、金氏は金鶏を始祖伝説の象徴にしている。しかも昔氏の初代脱解は倭人であり、多婆那国の王子で、母は女人国(邪馬台国か)の王女であったという。弥生人の甕棺は卵生を連想させるものであり、また少彦名命は鷦鷯(ささき)の羽を着ていたように、鳥を宗教的象徴とする人びとの祭神であった。但馬には佐々貴山公に由緒のある佐々伎神社があり、雀部(ささきべ)氏が分布していたように丹波・丹後・但馬も拠点のひとつだった。佐々貴山公や雀部臣・雀部連など広義のササキ氏と新羅王家昔氏は関係があった可能性がある。そうであれば、愛智秦公と佐々貴山公の関係が見えてくる。新羅王家の朴氏と昔氏という関係である。 伊賀敢国神社の祭神が大彦命と少彦名命であるように、大彦命の子孫阿倍氏と結びついた秦氏は少彦名命を祭神にしているが、少彦名命は大彦命の弟少名彦建猪心命と同一人物と考えられ、大彦命と少名彦建猪心命の兄弟が出雲神話の大己貴尊と少彦名命のモデルと考えられる。出雲の祖神スサノヲ尊はまず新羅に天降ったと伝えられており、これが大彦命の子孫が日本海側に多く分布し、秦氏と関係が深い理由であろう。 沙沙貴神社も大彦命と少彦名命を祭神としており、佐々貴山公と愛智秦公は関係が深く、佐々貴山公の本拠佐々木山に聖徳太子由緒の観音正寺があり、佐々木山の別名も機織集団にふさわしく繖山(きぬがさやま)である。箕作山は神農氏箕子と関係があろう。 ところで遠綱とともに佐々木定綱郎党であった堀池実員は、三上氏(三上祝)の出身と考えられるが、三上氏と愛智秦公の縁戚関係は、続群書類従三上系図に山崎氏(愛智秦公)が記されていることで分かる。愛智秦公では平井家次(愛智秦公)が木村道澄(紀氏)とともに佐々木庄下司源行真の女婿であるように、本佐々木氏の閨閥であった。このことで、近江守護佐々木氏(宇多源氏時中流佐々木野家)入部以前の本佐々木氏には、佐々木庄下司源姓佐々木氏(宇多源氏扶義流)、蒲生郡大領佐々貴山公の子孫紀姓木村氏、神崎郡大領佐々貴山公の子孫伊庭氏のほか、愛智秦公の子孫平井・楢崎・山崎氏や、三上祝の子孫三上氏など佐々貴山公の閨閥である広義の本佐々木氏もあり、由緒を求め満季流や義綱流の清和源氏を名乗った。 ┌道政(木村、佐々木宮神主) 紀貞道┼貞政┬景政─家政(鯰江庄下司) └道澄└建部入道西蓮 ┃ ┌女子 ┌家員(平井) ├守真(井)─家実┴家職(一井) 源行真┼宗真(伊庭) ├行正(三上)源為義郎党 ├真綱(井六郎)─頼応─定光(伊庭) └女子 ┃ ┌秦家次(平井) └田中入道憲家(楢崎・山崎) 源氏を名乗るというと、まったく関係もないのに仮冒したと思われるが、古代豪族が源氏の婿養子や猶子になることで一族化するのであり、その例が佐々木庄下司源氏と紀・秦両氏の関係である。 また近江守護佐々木泰綱(定綱の孫)が紀氏の養子になることで愛智郡鯰江庄下司職を得ているように(春日社文書)、宇多源氏佐々木氏は積極的に古代豪族の子孫の養子になっている。この紀氏は『源行真申詞記』に登場する紀道正(道政)の弟貞政の子孫で、本姓は佐々貴山公と考えられ、さらに一族に建部入道西蓮もあって、建部氏(建部君)も一族化していたことが分かる。 小倉氏と小椋氏 小倉氏と小椋氏は本来ともに小椋氏であるが、一般に前者が清和源氏満季流で、後者が木地師と考えられている。 清和源氏満季流は、左大臣源高明の長男左兵衛佐忠賢の子蔵人致公が、父忠賢の出家で清和源氏満季の猶子になったものであり、本来は醍醐源氏といえる。 また大岩日記など木地師の伝承では文徳天皇の第一皇子惟喬親王を職能の祖とし、その側近藤原実秀の子孫が小椋氏、惟仲の子孫が大蔵氏になったという。しかし惟喬(コレタカ)は忠賢(タダカタ)の訓の誤りで、系譜上の祖である左大臣高明・忠賢父子を、伝承過程で、近江志賀郡小野に一時隠棲した小野宮惟喬親王と混同したと考えられる。 左大臣源高明は醍醐天皇の皇子であり、安和の変で大宰権帥に左遷させられ、子忠賢も出家している。佐々貴山公は田券を売却するなど、源高明の母方嵯峨源氏と関係を持つ。 ところで、滋賀県愛智郡小椋庄では、近世後期に神祇伯白川家(花山源氏)が管理する君ケ畑の大皇器地祖神社(白雲山小野宮大皇器地祖大明神)と、神祇大副吉田家(卜部氏)が管理する蛭谷の筒井正八幡宮があり、ともに惟喬親王を祀る木地師の氏神であると宣伝した。これは、全国の木地師を氏子として管理することで権益を得ようとするもので、白川・吉田両家は各地に散った木地師を探し出して強制的に氏子に登録する氏子狩を行なった。この氏子狩を統括したのが、藤原姓小椋氏の子孫を名乗る大岩氏である。 小椋氏は近江守護佐々木六角氏重臣小倉氏(源姓)に遠慮して大岩氏を名乗ったと大岩日記は伝えるが、小倉氏に対して大岩氏を名乗ったのでは謙遜にはならない。「小」の字に対して「大」の字を使っており、むしろ尊大である。大岩氏の名乗りは甲賀銀山開発や巨岩信仰と関係があろう。 では、小椋氏の系譜伝承ではなぜ藤原氏で梅鉢紋とされるのだろうか。実は六角満綱流小倉氏は、満綱の子備中守高久が藤原姓三井氏の女婿となり尚昌―義堯―定秀―定春と続いた鯰江氏のことである。また梅鉢紋は、鯰江定秀の実父が菅原氏五条為学であることに由来しよう。小倉氏を藤原氏で梅鉢紋とする大岩日記の記述は、この鯰江氏の系譜伝承の断片を伝えたものといえる。 三井氏は日牟礼八幡宮神職で近江守護代である目賀田氏の一族であり、和邇臣の子孫一井氏に養子入りした源家職(佐々木庄下司源守真の子井源太家実の三男)の子孫である。南北朝期の目賀田信職とは「職」の字が通字である。三井氏は蒲生郡を拠点としており、志賀郡三井郷ではなく、水を管理した家職の実家源姓井氏に由来しよう。日牟礼八幡宮は藤原不比等に由緒を持つため、神職目賀田・三井両氏は藤原氏を名乗ったが、家職が養子入りしたため源氏とも名乗った。三井氏は、備中守高久の子出羽守実忠が継承し、新太郎安隆―石見守時高と続いている。 鯰江氏は三井高久の次男久政(尚昌)が「政」「貞」の字を通字とする鯰江庄下司紀氏を継承して鯰江城主となったもので、清和源氏満季流小倉・森両氏を名乗った。惟喬親王伝承は、山君である佐々貴山公の直系紀氏、源高明の系譜を持つ源姓小椋氏によって木地師職能伝説へと変化したと考えられる。 |
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内 容 | ニックネーム/日時 |
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ありがとうございます。このお忙しい中、わずかな時間に、これ程の立派な記事を書いて頂き、感激以外の何ものでも有りません。 |
光延 勉 URL 2011/07/01 11:00 |
堀池八郎実員は三上系図にみえる三上八郎実員と同一人物と考えられるということでしょうか。兄弟に記されている盛實(為員)は幼名千手で為の字は宇多源氏平為俊(源家定)・為兼(源行定)兄弟との関連もあるのでしょうか。 |
佐々木寿 2011/07/02 22:27 |
三上系図の「盛実(三上新太夫)」は、源行真(行実)の次男守真(浅小井盛実)と同一人物でしょう。「童名千手正(王)」の記事は、為俊(家定)の記事が混入したものと考えられます。 |
佐々木哲 2011/07/03 00:34 |
もやっとしていたものがすっきりしました。定綱郎党の面々との関係性もよくわかりました。ありがとうございます。木地師小椋氏についても興味がありましたので大変貴重な記事でしたし、最近は愛智秦公にも興味を抱いておりました。 |
佐々木寿 2011/07/03 01:15 |
前略 |
岸下 2011/07/07 16:46 |
岸下様 |
佐々木哲 2011/07/07 18:18 |
実は昨晩家で愛智秦公と朴氏と関係があるんじゃないかと話してたところでした。正直びっくりしました。昔氏のカササギ伝承も気になりますね。考えすぎでしょうか。 |
佐々木寿 2011/07/07 21:31 |
昔氏は古代ササキ氏と関係があると思います。スサノヲ尊は出雲に来る前は朝鮮半島に天降っており、その別名のひとつに雀雄明神(隠岐周吉郡)があります。このことでもササキ(鷦鷯・雀)氏と朝鮮半島の関係が分かります。昔氏もササキ氏も鳥をトーテムにしており、音もセキとササキで通じます。倭人であった昔氏初代脱解は、古代ササキ氏だと推測できます。 |
佐々木哲 2011/07/07 22:56 |
自分のようなド素人がこのような見方考え方ができるようになったのは先生のおかげです。今後ともご指導よろしくお願いします。 |
佐々木寿 2011/07/07 23:16 |
はずかしながら。 |
岸下(きしもと)平居です。 2011/07/09 00:10 |
岸下(きしもと)平居様 |
佐々木哲 2011/07/09 00:37 |
佐々木様 |
岸下 2011/07/10 17:33 |
岸下様 |
佐々木哲 2011/07/11 12:13 |
佐々木様 |
岸下 2011/07/15 20:58 |
では表題どおり「平井源八家系図」が良いですね。表題を大切にしましょう。 |
佐々木哲 2011/07/15 23:02 |
佐々木哲様 |
BR 2011/07/19 20:23 |
伏見稲荷のそばに大岩神社があるように、「大岩」は基本的には岩石信仰と関係があります。 |
佐々木哲 2011/07/20 11:33 |
佐々木様 |
BR(大岩) URL 2011/07/20 12:22 |
大岩重政・重秀父子のことですね。近世では名字+通称は家ごとに世襲されますから、大岩助左衛門日記の記主は大岩重政・重秀父子の子孫と思われます。 |
佐々木哲 2011/07/20 14:42 |
度々にわたり早々のご回答、本当にありがとうございます! |
BR(大岩) URL 2011/07/20 17:39 |
大岩氏は、近江愛智郡志(昭和46年発行)に下記の記載があります。 |
岸下 2011/07/24 17:11 |
岸下様コメントありがとうございます。この記事はもともと大岩様から光延様に質問があり、さらに光延様から私に質問をいただいたという記事ですから、もちろん大岩日記が前提となっており、愛智郡志の内容を知った上での議論です。 |
佐々木哲 2011/07/24 23:47 |
岸下様、佐々木様、そして光延様 |
BR(大岩) URL 2011/07/25 09:32 |
大岩氏の件、お役にたてず申し訳ありません |
岸下 2011/07/26 22:56 |
箕はミ以外にキと読む可能性があるのですね。吉士、岸と近江は関係が深そうですね。このことだけでも想像が尽きません。 |
佐々木寿 2011/08/08 01:15 |
佐々貴山公の子孫が紀氏を名乗るのは、中国の呉の子孫を意味する東海姫氏国に関係があるのか、殷の皇族で礼儀や農事・養蚕・機織の技術を東方に伝えたという朝鮮侯箕子の子孫箕氏に関係があるのか、いろいろと考えているのです。箕作山から考えると、箕氏の可能性も否定できません。 |
佐々木哲 2011/08/11 00:23 |
田舎に帰っておりました。 |
佐々木寿 2011/08/14 23:19 |
佐々木様、残暑お見舞い申しあげます。 |
岸下 2011/08/20 18:12 |
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