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御義口伝に曰く『或いは文を陰(かく)して義を取り、或いは義を隠して文を取り、或いは文義を共に
顕はし、或いは文義共に隠して講談するなり』と。(新編 1815)
果たして『文を陰(かく)す』とは、当文の釈義を以って表と為し『義を隠して文を取る』とは、
敢えて本義を隠(かく)して、其の一文を取るという意である。して観れば、どちらも『義』が先ず
在っての『文』の取り様という事になる。仍って『文義共に顕はし、文義共に隠す』との発意は、
須らく根本の『義』が在って初めて、其の選択が成るという事である。
さても、その根本義に於いて『文義共に隠す』と言われては、当に文献こそが第一とする、所謂、
文献主義の防人(さきもり)などは、大いに憤慨し、又は嘲笑して、此の御義口伝の結文などを、
蹴飛ばすのであろう。鼻笑。
して小生は、それら文献至上主義者を、敢えて『文献莫迦』と以前より烙印してまいったが、応に
其の根拠こそは、我ら信仰人に対して学術から批判するという、応に物件の史観から信仰の正邪を
計らんとする、其の傲慢なる姿勢と、其の無機質な思考に対して、小生は須らく『莫迦』と烙印して
いるのである。
まして、其れらの者共が、キツネや蛇やワニなどを祀って拝んでいる、邪宗日蓮宗の学者ずれである
ならば、其れこそ『文献莫迦の極み』として、大いに叱責されるものである。弥増して、其れら
『文献莫迦』の中には、其れこそ文献に無いものを、あちこちの寺に行って拝み歩いている者も居る
という。果たして、此奴(こやつ)らは、文を見る時と、モノを見る時とでは、まるきり人間が変わる
という事か。鼻笑
とどのつまり、小生から言わせれば、信仰の基盤がまったく稀薄である、という事なのである。
まこと、都合の良い連中ではないか。哀笑
さて、上記に掲文した御義口伝であるが、これこそは、邪宗日蓮宗の学者ずれからして、正真正銘の
偽書である、という。
果たして、大聖人御入滅後、百二十年以降に編纂された録内御書に、此の御義口伝の無いことが、
其の証拠であると言い、八品派日隆の本門弘経抄(聖滅百八十年頃)にも記録されていないからだ、
とも言う。
果たして、其れを云うのであれば、録内御書に於ける収録の完璧を先ずは証明すべきであり、何故、
八品日隆の本門弘通抄を以って、其の不記録を偽書の断定と為すのか。其の八品日隆の著書を根本
とせし其の理由こそを、先ずは宣べるべきであろう。
して思うに、御義口伝が異流の著書に無いなどは、別に不思議な事でもないのであり、逆に言えば、
我ら富士門流に於いて、八品日隆の本門弘通抄なども、一切伝わっていないのである。
尚、御義口伝の古写本は、上巻が富士大石寺、下巻は要法寺に現存する。勿論、富士門流に於ける
講義書であるから、富士門以外の他門に伝わっていない事は当然である。本より自門には無いから
偽書という直断は、まこと愚見の至りと申しておこう。
其の他、御義口伝の注釈に、聖滅後の時代記録が記(しる)されているとか、室町時代の他宗口伝に
文体が類似しているとか言っている様ではあるが、後世の加筆などは、其れこそ註記の為に後人が
為されるものであって、要は、其の加筆された内容が、本意本文に沿うものか否かが重要であり、
実に其れこそが『文を陰(かく)して義を取る』作業なのである。まして後世の他宗口伝に類似せる
などは、まこと偏頗な推考であり、それこそ、後世の論述などが、過去の文体を踏襲するも是れ又
有ると認識すべきである。
さても、加筆が為されているから偽書などと、まったく是れこそは『文義共に隠して講談する』の
真意をも解せぬ、まこと「文献莫迦」の其れと、小生は断ずるものである。
而して御義口伝とは、大聖人が其の御内証を以って法華経の講義を為されしを、御開山日興上人が
須らく筆受されたものであり、そこに御教示された所伝の内容こそは、まこと甚深にして、到底、
一致派を含む邪流日蓮宗の思慮が及ぶところではない。又、其の及ばざるを以って偽書と断定する
ならば、この御義口伝に示された甚深なる御講義は、一体、日興門流の誰が行ったというのか。
さても、これら「文献莫迦」の者共は、此の御義口伝より後に示された御講聞書、所謂、日向記に
ついては『思想的内容から見れば、御講聞書の方が素朴的である』などと、其れこそ悠長な定義を
以って感想しているのである。ったく、手前味噌とはよく言ったものよのォ。
して、此の御義口伝の文末に「委しくは註法華経を拝見すべし」と記されているが、其の口伝の基
たる「註法華経」は今、静岡三島の玉沢妙法華寺(開山・六老日昭)にある在るという。
さても、そうであるならば、抑も日蓮大聖人をして、甚深なる法華経二十八品の御講義を生涯開述
せぬなどは、到底有り得ない事であり、又、だからこそ註法華経の存在があるのである。
したがって、筆受された日興上人の御正筆の有無などは、偽書の判別にもならず、我ら富士門徒は、
其の写本に示された御教示の内容を以って、其の正筆たるを此に偲(しの)ぶものである。
されば御義口伝に曰く『如来とは釈尊、総じては十方三世の諸仏なり、別しては本地無作の三身なり。
今日蓮等の類の意は、総じては如来とは一切衆生なり、別しては日蓮が弟子檀那なり。されば無作の
三身とは末法の法華経の行者なり。無作三身の宝号を南無妙法蓮華経と云ふなり。寿量品の三大事と
は是れなり』と。(新編 1765)
最早、上記に示された甚深なる法門などは、お前ら文献至上主義の者等が小考するものに在らず、
まして、其の身を邪流日蓮宗の学者と為す「文献莫迦」などには、到底理解出来得ぬ大白法であり、
唯一それを領解したるは、我らが興門正統の弟子檀那である、という事を此に承知すべきであろう。
興門正統・日寛上人に曰く『明者は其の理を尊び闇者は其の文を守る。苛(いやしく)も糟糠(そうこう)
を執し橋を問う何の益あらん、而も亦(また)謂える有り文証無きは悉(ことごと)く是れ邪偽なりと』
【依義判文抄 巻頭】
さても、此の御教示こそは、依義と依文の相反を云うに非ず、其れこそは、文に執着して理を忘れ、
又、理に溺れて文を曲げるを諌むものなり。而して、文に依りながら、しかも、其の依るところは、
理明を以って為すを佳しとするものである。つまり、初文に述べたが如く、どちらも『義』が先ず
在っての『文』の取り様という事なのである。
仍って、百六箇抄も本因妙抄も、其の本義からして須らく我が興門正統が相伝の書であり、一致派の
学者ずれが如何に文句を云おうとも、其れら深義たる法門は、我ら興門正統の僧俗に於て、今も厳然
と流通されているのである。
日蓮大聖人に曰く『前代未聞の大法此の国(日本)に流布して、月氏(インド)・漢土(中国)・一閻浮提
(世界)の内の一切衆生仏に成るべき事こそ有り難けれ』と。(新編 1110)
「あいや、これは初出の文だ!」と、其れこそ前代未聞の文章を見ては小騒ぎする、諸宗小学者の
共ずれよ。「前代未聞の大法」とは、見た事も聞いた事もない法門を指して云うものであって、
日蓮大聖人が釈尊の使いとして、其れこそ菩薩の等覚位を以って法華経を説かんとするならば、
そんなものは『前代未聞』でも何でもないのである。
兎も角、我ら興門正統の、其れこそ『前代未聞』の教義に文句するならば、先ずは依義判文の究極
を理解し、且つ、其の大義の実行を現在の視点で洞察し、且つ又、それらの連結を文理にして説き
示すが先であり、まして、加筆・写本の類を以って偽書と断ずるならば、其れこそ『莫迦』が得意
とする、推考・連想・想像による研究発表ではなく、まこと加筆・写本が偽書の証しとなる証拠、
つまりは、其れら偽作者の実名と偽作年月日を提出しなければ、我らが『前代未聞』の法門教学は、
永遠に崩壊しないのである。
果たして、既に成る事実こそも、現実としての証文と相成る。
よろしいか。
「真筆が無いから偽書」「文章に無いから偽書」などと、阿呆な事を云っている様では、我ら富士門
の牙城は崩れないのである。
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