おそらくは川久保玲の後継者として、こらからのコムデギャルソンを背負って立つデザイナーの渡辺淳弥。そんな彼にスポットを当てて話を進めたい。
結論から言えば、僕は渡辺淳弥が好きではない。デザイナーとしての資質は認めざるを得ないが、あまりにもナンセンスな発言と行動が気になる。それは追々話していくことにしよう・・・。
「ジュンヤ ワタナベ コムデギャルソン」の服には「未来的」という言葉が相応しい。造形や素材使いにおいて、従来にない新しいアイデアやテクニックが用いられているから。例えば新しい立体裁断の発見。肘や腰、膝など、人間の動的な作用の原点に着目し、切り替えの位置、布の畳み方、切り込みなどに様々な手法が用いられている。彼の一連のクリエーションを拝見すると、服と身体との関わり方を独自の視点で捉え、服のフォルムそのものを再構成したデザインを教えられる。また、パターンの挑戦に劣らないくらいに、先端テクノロジーが生み出す新素材の探求にも積極的だ。様々なデザインが出尽くしてしまったファッション界において、渡辺淳弥が素材に注目したことは賢明な判断だろう。
さて、僕が渡辺淳弥に好感を持てない理由を述べていこうか。
まず「商業主義」の視点から。渡辺淳弥がギャルソンオムを担当してから、縫製の質があきらかに低下した。ワーク服専用の工場でスーツを大量に生産するなどの。結果、バッカリングをおこした商品を“デザイン”と称して販売。これは“暴挙”と呼ぶに値する行いではないだろうか?というのも、縫製の質を落としたのならば、低価格での供給ができるはずだ。しかしながら、実際に店頭で並んだ商品は値段が据え置きで販売された。渡辺氏からすれば“デザイン料”としての言い訳をできるが・・・いかがなものだろう。
ギャルソンにおける「商業主義」の立場をさらに考えてみよう。ここ数年の間、ギャルソンの「利潤追求ライン」がかなり増えてきている。またラコステなどの他ブランドとのコラボレートにも積極的だ。賛否両論があると思うが、僕は好ましくは思っていない。「PLAY COMME des GARCONS」の商品を見たときは、「は?これがギャルソンか?」と悲しくなった。確かにファーストラインのクリエーション費用を、セカンドないしディフュージョンラインの利益で補う事は、アパレルメーカーが取り得る手段としては常道。だが、ギャルソンだけは、全ての作品が独創的で芸術的なものであって欲しかった。
次に渡辺淳弥の「ファッションにおけるレディースとメンズの捉え方」について。多くのデザイナーが「レディースとメンズの差異」に繊細になっている。テーラリングの重要性を知るデザイナーほど。そもそもメンズには制約があって、その制約がデザイナー達の悩みの種になっている。だが渡辺氏はレディースとメンズの服の違いを「気分」という一言で片付けた。偉大なデザイナー達がメンズを「難しい挑戦」と捉えているのに、渡辺氏の発言ときたら「?」である。渡辺氏の才能は認めるが、彼はデザイナーとしてはまだまだ若い。だから彼の発言は時期尚早。素人の僕から見ても「生意気だ」と感じた。
長くなってしまったが、渡辺淳弥を好きになれない理由は以上である。
今回はかなり批判めいた文章になったが、この批判は渡辺氏に対する期待の表れと考えてもらいたい。世界に通用するデザイナーの最有力候補がこの渡辺淳弥だから。