職業訓練雑感

2011-11-06

吉田昌弘氏の拙論批判への反問

10:17

 この度、さる知り合いから、吉田昌弘氏が「文部省管轄の「学校」から「教育」への転換−−教育制度形成の条件として−−」『教育学研究』第78巻第2号, 2011年6月(以下、「転換」と略す)において拙論を批判している、との紹介を得た。

 先ず、吉田氏が拙論を引用・評価して頂いた事に感謝したい。私は拙論が完全だと思ってはいず、不備が有るのは当然であり、批判を頂き、新たな知見を紹介して頂いた事に感謝したい。

 日本教育学会を今は退会しているので、反論を『教育学研究』誌に掲載して貰うのは簡単ではないだろうから、ここで反論を記載したい。吉田氏のお知り合い、または日本教育学会の会員が本稿をご覧頂いたら、吉田氏ないし日本教育学会にご伝言頂ければ幸いである。

 「転換」では次のように拙論を批判している。

 田中萬年は、自身の仕事である職業能力開発の立場から、それを論理的に整理する関心をもって、設置当時の文部省の意義や、いわゆる「学制序文」及び「学制」における「学校」の意味の究明を試み、「文部省は教育を実施する官庁ではなく学問を実施する官庁として設立された」「学校は教育を施す所ではなく学問を行う所であった」と主張している。田中は「文部省」の名称や、いわゆる「学制序文」等で「教育」が使用されず「学問」が使用されていることをもとに、「文部省」の意義についての上記の結論を導いている。A田中によって、「教育」と、文部省や「学校」との結びつきについて歴史的に検証しようという課題が提起されている。Bただ田中は、文部省設置直後に文部卿の職掌について「掌総判教育事務管大中小学校」と達せられたこと等、制度史としては重要な事実を見逃している。Cまた田中は、「学校」について、「庶民」の職業的教育訓練の意義を強調した歴史を描いているが9、これは「国民が平等に学ぶべき学校(小学校)を主たる対象とし」て意識的に「大学等」を考察から除外してのことであり10、この点「学校」に関する歴史的研究としては再検討が必要である。A、B、Cは引用者注

          注

8 田中萬年『教育と学校をめぐる三大誤解』、2006年、p.199。

9 田中前掲書、p.149以下。

10 田中前掲書、p.43。

 以下では上に紹介した拙論に関する引用部分についての疑問を交えて反問を述べてみたい。上に引用した拙論部分だけに絞ると、吉田氏の拙評はA、B、Cの3点になる。

 Aは、拙論が教育学界に課題を提起した、と言うことなので問題はないだろう。

 Bは、負け惜しみになるが、私は教育史の専門家でないので、そのような事象の見落としは他にも多く有るだろう。しかし、文部卿の所掌事務に「教育」が有ったとしても、拙論の核心である文部省と学校において「教育」が政治的に利用された、ということを否定することにはならず、「制度史としては重要な事実を見逃している」という批判は的違いだと言える。見逃しても本流に代わりは無いからである。つまり、拙論は教育「制度史」批判ではなく、教育(あるいは教育学)への批判であり、その欠落は拙論を曲げるほどの「重要な事実」とは言えないからである。

 なお、教育を使用した事が正しいとするなら、何故に文部省の名称を教育省に変更しなかったのか、当時、何故に文部省廃止論が高まり、大隈重信がその沈静化に果たした役割が大きかった事(拙著『教育と学校をめぐる三大誤解』<以下、『誤解』という>29−35頁)についての解説・反論が欲しいものである。教育の省になりながら文部省の名称を継続して用いたのは、詐称であったといえる。何故、詐称を戦後まで続けたのだろうか(35−38頁)。このことが不問なのは「転換」が一面的な論と言われかねないのではないだろうか。

 Cに関してであるが、拙論は「職業能力開発の立場から」論じている、と吉田氏は認めながら「意識的に『大学等』を考察から除外して」いると批判していることは、何故に大学を論じなければならないかを先ず解説すべきであろう。何故なら、江戸幕府から引き継いだ「大学」は医学校を組織してはいたが中心は行政組織であったからである。また、今日、大学における職業教育の推進が謳われているが、職業能力開発とは言わないように、それは歴史的に労働者のための施策だったからである。大学で労働者のための職業能力開発をやっていた(外国には大学の付属施設に職業訓練校がある国もある)という事例を示して頂ければ吉田氏の論も一理が有ることになるが…。

 吉田氏の論を逆用すれば吉田氏は、寺子屋では「文学=学文=学問」が行われていたのであり、「教育」ではなかった(22-25頁)」ことを意識的に除外している、といえる。その「学文」は明治政府も使っていた。また、箕作麟祥が訳した"Education"を明治6年に『教導説』として文部省が発行した(120−121頁)ように(明治11年に『教育論』と改称)、吉田氏のいう教育が「従前から」本流だったとは言えないからである。

 ちなみに、大学段階では工部大学校(現東大工学部)を初めとして、初期の専門に関する殆どの大学(部)は文部省以外の省庁で設立された大学校を文部省に組み込んだことは周知の史実であり、選ばれたエリートの教育が問題の拙論の本質では無いため「意識的に『大学等』を考察から除外」することは私の論旨を明確にするためであり、「教育は政治的に成立した」という拙論を氏の批判が覆す事にはならないと言えよう。

 キーをたたく勢いで、上のような疑問が出る背景を述べてみたい。

 先ず、吉田氏の「転換」の研究の意図が不明であることである。このことは論文冒頭の概要を読んでも分からない。つまり、「転換」で明らかにしたことは、今日の教育学の問題解決、いや、わが国の教育問題の何を解決しようとしているのか、という点である。「おわりに」にはいくつかの研究課題が提起されているが、それらは今日の問題状況の解決に連なるのだろうか。

 「はじめに」に「研究者自身の『教育』観を、それを批判的にとらえる意味で歴史上に定位する方向につながるものである」としているが、「転換」のつながり方を吉田氏は明記していず、意図は読みとれない。私の想像力の弱さであろうが…。

 例えば、佐藤俊樹氏が教育の問題を「教育改革で解決しようとするのは、自分が乗っているエレベーターを自分で持ち上げようとするようなものである」と述べている(『不平等社会日本』、2000年)ことをどのように評価するのであろうか。

 『誤解』は、「教育」を忌避しなければわが国の教育問題は解決せず、ましてや次代を担う若者の人間形成に教育では百害有って一利無し、という立場で整理していることを理解して頂いているのであろうか、という疑問である。拙論への批判であるが、「教育を用いなければ、今日の問題解決は困難」だ、として論じておられるとは読めないのである。

 素人的には、タイトルの「『学校』から『教育』への転換」も意味不明である。「学校」を包摂して”転換”した新たな「教育」の概念のようだが、一般常識としては違和感を隠せない。(それは英文タイトルを"A historical condition of the kyoiku-seido (the Japanese system of education): an investigation into the jurisdiction of the Monbusho (the Ministry of Education in Japan) "としていることからも判る<7日10時追加>)。「はじめに」に「『教育』を文部省の管轄についての最上位概念とする体制が成立」したと記していることは、「教育」の定義が変わったことを示唆しているのだろうが、それでは新たな「教育」の定義を確定すべきであろう。

 「教育」を問題にするとなると、明治4年(?)に大隈重信が建議した「事由書」に記した「国民教育」をも考察する要があろう。大隈の「国民教育」の語源はフルベッキの"popular education"と考えられる(拙論「用語『普通教育』の生成と問題」『職業能力開発総合大学校紀要』、2010年3月)ように、大隈の「教育」概念は吉田氏の述べるような教育ではないと言えよう。つまり、「教育」には多様な期待が込められていたのである。

 そのため、吉田氏は、私が最大に問題にしている「教育」の定義・概念(『誤解』第3,4,5章)を無視して、「教育」に転換したことがあたかも制度の発達のように論じている。特に「おわりに」で、「従前から」という曖昧な言葉で「行政組織規定には用いられていた『教育』となった」と記し、昔(?)から「教育」が使用されていたように誤魔化して論じ、「教育」はどのように成立したのか、そのような「教育」に纏められた事を今日からどのように捉え直すのかを不問にしているのである。

 以上のような点から、吉田氏の根本の視座が明確でないため、拙論評は極めて曖昧であり、この意味では無視しても良かったが、不遜であるが吉田氏に拙論をより理解して頂きたいと思い反問を記すことにした。

 吉田氏の批判は逆に、拙論が補強されたのではないかと考えるのは自画自賛であろうか。

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