職業訓練雑感

2011-11-13

第二次教育勅語案について−吉田昌弘氏論への疑問−

07:48

 先週日曜に上げた吉田昌弘氏への反問では、キーの勢いでもう一つ書きたかったが、直接私の論への反問でもないので混乱するから書かなかったことがある。

 それは、「教育」を論ずる時に避けられない「教育勅語」の位置づけについてである。「教育勅語」こそ明治、否、戦前を通じてわが国「教育」の精神的集大成だと考えており、その精神は戦後にも小さくない影響を及ぼしている。このことは先月の日本産業教育学会での講演「『教育』の諸問題と改革の視座」で述べたが、明治教育の精神を払拭できないままで、「教育を受ける権利」と「教育基本法」が制定されたのである。堀尾輝久が「教育基本法」の性格として述べている「教育勅語の軍国主義教育の反省を踏まえてつくったのが教育基本法です。」は正しくないのである。何故なら、「教育基本法」案の提案時に文部大臣は「教育勅語」は廃止せずに併存できる、として審議を始めたことが示している。教育学界での重鎮である堀尾はこのような事実を何故明らかにせず、国民を騙そうとするのか理解できない点である。

 さて、吉田氏は「教育勅語」については、帝国大学でもその捧読式が行われたから、帝国大学が教育機関になった、と述べているだけである(p.70)。帝国大学が文部省管轄になったとの解説のようだが、何も「教育勅語」が捧読されなくても、明治19年の「帝国大学令」で「帝国大学総長ハ文部大臣ノ命ヲ承ケ」るとなっており、当初より文部省管轄であったのではなかろうか。吉田氏の「教育勅語」の解釈は的外れに感じる次第である。

 ところで、その「教育勅語」は成立の経過からも内容的にもあえて名称を付ければ「徳育勅語」であった。「徳育勅語」と名付けるべき勅語に「教育勅語」と名付けたのは、折からの文部省廃止論等の批判をかわすことに大きな力があったといえよう。

 さて、徳育に関する内容であった「教育勅語」を、真に教育に関する勅語にすべきとの考えが出てきても可笑しくはない。それを真剣に考えたのは総理大臣にもなった西園寺公望が2度目の文部大臣に就任した時であった。

 西園寺は明治31年に、天皇にも了解を得て新たな教育に関する勅語案を起草したが、病で早期の辞退となったため、「第二次教育勅語案」は公にはならず、周知のように日本人の精神は悲劇への道を歩むように形成されたのである。原文を次に紹介する。

第二次教育勅語案

教育ハ盛衰治乱ノ係ル所ニシテ国家百年ノ大猷ト相ヒ伴ハザル可カラズ。先皇国ヲ開キ朕大統ヲ継キ旧来ノ陋習ヲ破リ、知識ヲ世界ニ求メ上下一心孜々トシテ怠ラズ。此ニ於テ乎開国ノ国是確立一定シテ、復タ動ス可カラザルヲ致セリ。朕曩キニハ勅語ヲ降タシテ教育ノ大義ヲ定ト雖モ、民間往々生徒ヲ誘掖シ後進ヲ化導スルノ道ニ於テ其歩趨ヲ誤ルモノナキニアラズ。今ニ於テ之ガ矯正ヲ図ラズンバ他日ノ大悔ヲ来サヾルヲ保セズ。彼ノ外ヲ卑ミ内ニ誇ルノ陋習ヲ長ジ、人生ノ模範ヲ衰世逆境ノ士ニ取リ其危激ノ言行ニ仿ハントシ、朋党比周上長ヲ犯スノ俗ヲ成サントスルカ如キ、凡如此ノ類ハ皆是青年子弟ヲ誤ル所以ニシテ恭倹己レヲ持シ、博愛衆ニ及ホスノ義ニ非ス。戦後努メテ驕泰ヲ戒メ謙抑ヲ旨トスルノ意ニ悖ルモノナリ。今ヤ列国ノ進運ハ日一日ヨリ急ニシテ東洋ノ面目ヲ一変スルノ大機ニ臨ム。而シテ条約改訂ノ結果トシテ与国ノ臣民ガ来テ生ヲ朕ガ統治ノ下ニ托セントスルノ期モ亦目下ニ迫レリ。此時ニ当リ朕ガ臣民ノ与国ノ臣民ニ接スルヤ丁寧親切ニシテ、明ラカニ大国寛容ノ気象ヲ発揮セザル可カラズ。抑モ今日ノ帝国ハ勃興ハ発達ノ時ナリ。藹然社交ノ徳義ヲ進メ、欣然各自ノ業務ヲ励ミ、責任ヲ重シ、軽騒ノ挙ヲ戒メ、学術技芸ヲ煉磨シ、以テ富強ノ根柢ヲ培ヒ、女子ノ教育ヲ盛ニシテ其地位ヲ嵩メ夫ヲ輔ケ子ヲ育スルノ道ヲ講セサル可カラズ。是レ実ニ一日モ忽諸ニ付ス可カラサルノ急務ナリ。朕ガ日夜軫念ヲ労スル所以ノモノハ、朕ガ親愛スル所ノ臣民ヲシテ文明列国ノ間ニ伍シ、列国ノ臣民ガ欣仰愛慕スルノ国民タラシメント欲スルニ外ナラズ。爾有衆父兄タリ、師表タリ。或ハ志ヲ教育ニ懐クモノハ深ク朕カ深衷ニ顧ミ百年国猷ノ在ル所ニ遵由シテ教育ノ方向ヲ誤ルコトナキヲ勉メヨ。

(立命館大学編『西園寺公望伝』別巻二、岩波書店、1997年より。但し、注記を削除)

 なお、「第二次教育勅語案」については、岩井忠熊『西園寺公望』、2003年に紹介がある。

 この「第二次教育勅語案」はについては『明治教育の呪縛』第3章(p.104)に簡単に次のように記している。

「新教育勅語案」は「教育ハ盛衰治乱ノ係ル所ニシテ国家百年ノ大猷ト相ヒ伴ハザル可カラズ。」と始まり、「学術技芸ヲ錬磨シ」や、「教育ノ大義」、「女子ノ教育」を記し、「教育ノ方向ヲ誤ルコトナキヲ勉メヨ。」で終わっている。このように、「教育」の言葉を4回用いて、まさに「天皇の臣民の教育」としての教育の重要性を強調している。この西園寺の「教育」的な勅語案にも無論タイトルは付いていない。この「第二次教育勅語案」は勿論、天皇制下の臣民への教育概念に代わりはないが、正に「教育」に関する勅語案と言えよう。

 歴史の仮定は許されないが、この「第二次教育勅語案」が正規の「教育勅語」にならなくて良かったと思っている。それは、今日でも「教育勅語」を教育論として検討する動きが有り、「第二次教育勅語案」であればこれはより広い国民が「教育」の意味としてその規定を信奉し、戦後の反省が遅れることになっただろう、と思うからである。

 吉田氏が、「教育への転換」を言うなら、「教育勅語」と「第二次教育勅語案」の本質を無視して論じるのは一面的だ、と思った次第である。

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