NSMemo
2009.09.15
続・検索避けの話
検索避けルールに見える抑圧って「一度インデックスされたらもうダメなんだよ!あとは芋づる式なんだよ!!どうしてくれる!!」という意見が強いように思えたから、そんなら一度インデックスされた後の対処法が周知されれば何かしら変化あるのかなあ、とある意味願いを込めてポストした。
NSMemo::検索避けの話・検索結果一覧からウェブサイトを消してもらうには?を書いた直後にポストしたもの。あとになって本文に書けばよかったな、と思ったりもしましたがまあいいや。
検索除けを「強いる」ことと、検索除けを「したいと思う」ことはまた別もんなんですよね。
「強いる」風潮は「一度ばれたら終わり」という印象が強いからなんでないのかなあと思います。
なんつーの「絶対治らない病気だから、一度かかったらもう終わり」みたいな扱い。そういうのはどんな世の中でも拒絶されますわなあ。それなら「いやそんなことないよ」と返してあげることが出来れば、「ちゃんと治せるよ」という知識が周知されれば、奇妙な抑圧も少しはなくなるんでないの、というのが今のところの考えです。
今のところ自分が扱ってるものでは必要ないと判断しているのでやってませんが、しかし「したいと思う」気持ちはわかる。
見ている人・話す人を限定したいという気持ちはやっぱりあるし、実際そうであればいいとの世の中を呪ったことも少なくはない。ネットしてるだけで胸が痛くなった思い出だけならいくらでも。隠れたがる、というか、距離を取りって心地よい囲いの中にいたがる人の気持ちは凄くわかるんですよ。どちらかといえば「隠れるという選択肢がない」人たちへの疑問の方が大きめです。
距離を取りたがるのは「ぐちょぐちょのエロだから」「腐要素だから」とかいうのは直接の問題じゃなくて、それを「叩きたがる人や立場や方向性があると知ってる」し「それに対して反論の手段を持ってない」からなんだよねえ。
大事に大事に好きで築き上げた砂の城を崩されたら誰だって辛い。その上、崩されたことに対して怒りを表明できない立場だったら辛いだけじゃすまない。そうやっていくつかのすり合わせのはてに、崩した人たちから距離を取りたい隠れたいと思うのは、自衛手段としては珍しくもない手段ではないかな。
「強いる」のと「したいと思う」では、対処も解決も道筋が違う。ごっちゃにして考えると、どちらも外部からの脅威に対して怯えているのは共通しているので、結局のところ「なんで怯えてるんだよ! 怯えるなよ!」としか言えなくなるんでないのかなあ。それ言ったら後はドメスティックなバイオレンスになるしかないってのは目に見えてるじゃない。
そこら辺を仕分けしていかないと、どこの解決にはいたらんのではないかなあと思います。
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