よく世間の人は、日蓮・法華経と創価を同一視しているが、そうではない。
また、日蓮や法華経を信じている人、→即創価学会の人、と決め付ける人がいるが、これもそうではない。
日蓮(法華経)と創価は別物です。
なぜなら創価こそが、日蓮と法華経に背いている第一の団体の一つであるからだ。
創価は法華経と御書の教義をねじ曲げて解釈し、その誤った解釈を信者全員に教え込み、「我らこそ、日蓮の教えを忠実に守るものだ」、と公言しているが、その実は奴らこそ日蓮の教えを大いに破壊し、法華経の経文を背かせて、人々を地獄にいざなっているのだ。
結局創価学会の行いが悪いから、その母体である日蓮の教えも“一緒にして”、「悪くて危険なものだ」、と思い込む非信者の人間も大勢いるのである。
はっきり言いましょう。創価学会の行いが悪いのであり、日蓮の教えが悪いのではない。
創価学会が日蓮の正しい教えを“悪用”しているのだ。
また、日蓮や法華経を信じている人、→即創価学会の人、と決め付ける人がいるが、これもそうではない。
日蓮(法華経)と創価は別物です。
なぜなら創価こそが、日蓮と法華経に背いている第一の団体の一つであるからだ。
創価は法華経と御書の教義をねじ曲げて解釈し、その誤った解釈を信者全員に教え込み、「我らこそ、日蓮の教えを忠実に守るものだ」、と公言しているが、その実は奴らこそ日蓮の教えを大いに破壊し、法華経の経文を背かせて、人々を地獄にいざなっているのだ。
結局創価学会の行いが悪いから、その母体である日蓮の教えも“一緒にして”、「悪くて危険なものだ」、と思い込む非信者の人間も大勢いるのである。
はっきり言いましょう。創価学会の行いが悪いのであり、日蓮の教えが悪いのではない。
創価学会が日蓮の正しい教えを“悪用”しているのだ。
此の題目には余事を交へば僻事なるべし。『御講聞書』
ここでいう「余事」とは、池田大作を仏だ、とか思い込んだり、財務だとかいって信者から金を巻き上げたり、高額な仏壇を買わせて、汚れた金を増やして蓄える行為をいうのである。もはや創価が仏法を弘通する義はどこにも見られないのである。
法華経と日蓮の教えを悪用して、私腹を肥やし、他人の幸せを奪い、現世を楽しんでばかりいる創価学会の幹部なんかは、日本の朝敵、万死に値する。
ここでいう「余事」とは、池田大作を仏だ、とか思い込んだり、財務だとかいって信者から金を巻き上げたり、高額な仏壇を買わせて、汚れた金を増やして蓄える行為をいうのである。もはや創価が仏法を弘通する義はどこにも見られないのである。
法華経と日蓮の教えを悪用して、私腹を肥やし、他人の幸せを奪い、現世を楽しんでばかりいる創価学会の幹部なんかは、日本の朝敵、万死に値する。
創価・正宗(富士派)の最大の誤りは、日蓮本仏論を展開して、釈迦を下し、日蓮を持ち上げている所だ。日蓮が久遠元初自受用報身如来であり、その再誕であるが故に末法の本仏だ、などと決め付けているが、一体どこに、日蓮が釈尊を上回る、本仏だという証文があるのか?
経典、御書のどこにも見られないではないか。日蓮本仏論は、後世の人が勝手にでっち上げたでたらめでしかない。法華経の譬喩品には「世間の父なり 一切衆生は 皆是れ吾が子なり」という経文がある。日蓮を含めた一切衆生が釈尊の子であって、日蓮が親で、釈迦が子なのではない。
また撰時抄の序には、「釈子 日蓮」と書かれている。日蓮自ら、自分は釈迦の子である、と断言している。子が親に勝るわけもなく、日蓮が釈尊に劣るということだ。このように、経文・御書ともに、釈迦が本仏、日蓮が子(菩薩)であることは明らかだ。
日蓮を本仏と持ち上げて、釈尊を見下して敬心がないのは、娑婆世界の人間として、親不孝の不届き者である。このように、創価・正宗は日蓮と法華経の教えを弘めるように見えて、返ってその教えを破壊しているのだ。信じるべからず、近寄るべからず。
経典、御書のどこにも見られないではないか。日蓮本仏論は、後世の人が勝手にでっち上げたでたらめでしかない。法華経の譬喩品には「世間の父なり 一切衆生は 皆是れ吾が子なり」という経文がある。日蓮を含めた一切衆生が釈尊の子であって、日蓮が親で、釈迦が子なのではない。
また撰時抄の序には、「釈子 日蓮」と書かれている。日蓮自ら、自分は釈迦の子である、と断言している。子が親に勝るわけもなく、日蓮が釈尊に劣るということだ。このように、経文・御書ともに、釈迦が本仏、日蓮が子(菩薩)であることは明らかだ。
日蓮を本仏と持ち上げて、釈尊を見下して敬心がないのは、娑婆世界の人間として、親不孝の不届き者である。このように、創価・正宗は日蓮と法華経の教えを弘めるように見えて、返ってその教えを破壊しているのだ。信じるべからず、近寄るべからず。
創価学会なんかは日蓮を日蓮大聖人、日蓮大聖人と持ち上げているが、裏では釈迦なんか末法には役立たずの無用の仏と貶して、三宝の内、仏宝を破っている。創価が考える仏宝は、とんでもないことに日蓮であり、釈迦こそがこの世界の真の救済者、真仏であるのに、それを払いのけてそこに日蓮を当てはめるのは大きな誤り。釈迦に対する不敬罪も甚だしい。実には法華経と日蓮を崇めているようで法華経と日蓮の教えに背いているのである。
日蓮仏法とかやかましく言っているが、日蓮が説かれた仏法なんて一つも無い。日蓮は釈迦の説かれた法(釈迦仏法)を末代の我々に解説してくださっているのだから、日蓮は仏ではなく、日蓮仏法など端から存在しないのだ。
日蓮仏法とかやかましく言っているが、日蓮が説かれた仏法なんて一つも無い。日蓮は釈迦の説かれた法(釈迦仏法)を末代の我々に解説してくださっているのだから、日蓮は仏ではなく、日蓮仏法など端から存在しないのだ。
創価学会の喧伝文句に勝利、勝利とあるが、一体何に対して勝利することが目的なのか?ただ自分たちの信者を増やして、勢力を拡大して、敵対勢力を抑えることが勝利と言えるか?そんな教えは法華経や日蓮の御書の中にあるか?
この世で勝利したとしても、死んだ後、つまり来世で無間地獄に堕ちてしまったら、大敗北と言える。来世なんか無い、地獄なんか無いと思い込んで、一向に現世ばかり見て、後世を信じない者は日蓮の弟子以前に仏教徒ですらない。
逆にこの世で惨めな生活をして、財物が貧しけれども信心を貫いて、多くの嫌がらせに耐え、大難を受けて負けたように見えても、死後、霊山浄土に詣でて速やかに仏に成れたとしたら、これこそ真の勝利と言えよう。現世に幸せを多く受けたかどうかで勝ち負けは決められない。
また日蓮師の教えは、現世に福を受けることよりも、後世の幸福を重んじていることを知らないのか?御書を読めば、日蓮師は現世よりも後世を重視すべきであると再三説かれているではないか。
現世は朝露や電光の如く儚く、夢のまた夢のようであると言われる。現世に財物を蓄えて、美食や色情に耽ったとしても、その楽しみは一瞬にして過ぎ去る。その百年にも満たない一瞬の時間の幸せだけを追い求めて、後世の三悪道(地獄・餓鬼・畜生)を流転する苦しみを顧みないのは、本当の愚か者と言える。
創価は現世の利益を充実させることばかり追い求めて、後世の利益を顧みない時点で、日蓮師の教えに背いている。後世なんかどうでもいいと考えているのか?
「恐れても恐るべきは後世、慎みても慎むべきは来世也。」と日蓮師は言われている。(聖愚問答抄)
創価は日蓮の教えを守っているように見えて、その実は背いているのである。地獄の人間を増やして勝利勝利と喧伝するのは、自らの大敗北を招いているのだ。さっさとその邪悪な教義を捨てて、純粋に日蓮師の教えに帰依せよ。
この世で勝利したとしても、死んだ後、つまり来世で無間地獄に堕ちてしまったら、大敗北と言える。来世なんか無い、地獄なんか無いと思い込んで、一向に現世ばかり見て、後世を信じない者は日蓮の弟子以前に仏教徒ですらない。
逆にこの世で惨めな生活をして、財物が貧しけれども信心を貫いて、多くの嫌がらせに耐え、大難を受けて負けたように見えても、死後、霊山浄土に詣でて速やかに仏に成れたとしたら、これこそ真の勝利と言えよう。現世に幸せを多く受けたかどうかで勝ち負けは決められない。
また日蓮師の教えは、現世に福を受けることよりも、後世の幸福を重んじていることを知らないのか?御書を読めば、日蓮師は現世よりも後世を重視すべきであると再三説かれているではないか。
現世は朝露や電光の如く儚く、夢のまた夢のようであると言われる。現世に財物を蓄えて、美食や色情に耽ったとしても、その楽しみは一瞬にして過ぎ去る。その百年にも満たない一瞬の時間の幸せだけを追い求めて、後世の三悪道(地獄・餓鬼・畜生)を流転する苦しみを顧みないのは、本当の愚か者と言える。
創価は現世の利益を充実させることばかり追い求めて、後世の利益を顧みない時点で、日蓮師の教えに背いている。後世なんかどうでもいいと考えているのか?
「恐れても恐るべきは後世、慎みても慎むべきは来世也。」と日蓮師は言われている。(聖愚問答抄)
創価は日蓮の教えを守っているように見えて、その実は背いているのである。地獄の人間を増やして勝利勝利と喧伝するのは、自らの大敗北を招いているのだ。さっさとその邪悪な教義を捨てて、純粋に日蓮師の教えに帰依せよ。
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