気象・地震

文字サイズ変更

幸福のかたち:3・11後の選択/1 71年・甲子園 磐城高「小さな大投手」

 ◇白球に託す再生 転落、逃避…故郷再訪「被災者励ましたい」

 故郷を逃れ、20年の歳月が流れた。過去を明かさず、北関東にあるコンビニエンスストアで働く。勤務を終えると、寄り道せずに真っすぐ家に帰る。その繰り返しの日常に自らをうずめていた。

 昨年3月11日の東日本大震災。レジに立っていると、たばこの箱がバタバタと床に落ち、ワインの瓶が粉々に散った。ニュースが、福島県内の最大震度を6強と伝えた。封印していた故郷への思いが、せきを切ってあふれ出した。

    ◇    ◇

夏の甲子園で力投する田村隆寿さん=1971年8月撮影
夏の甲子園で力投する田村隆寿さん=1971年8月撮影

 高校時代は165センチの体にエースナンバーを背負い、地元の期待を一身に集めた。71年夏の甲子園。福島県立磐城高のエースだった田村隆寿さん(59)は、打者の膝元に曲がりながら落ちるシンカーを武器に準決勝まで3試合を完封した。決勝で1点を失い惜敗したが、故郷ではオープンカーでのパレードが用意され、約1万通のファンレターが届いた。

 最盛期に2万人を超す労働者がいた地元いわき市の炭鉱は、その春に閉山。衰退の一途をたどる町の市民は、田村さんに再興への希望を見いだした。翌年に連載が始まった人気野球漫画「ドカベン」の小柄なエースとも重なり「小さな大投手」は伝説となった。25歳で安積商(現・帝京安積)の監督に就任、母校と聖光学院でも指揮を執り、甲子園に計3回導いた。

 プロの誘いはなかった。頂点はあの夏なのに、周囲はいつまでもヒーローであることを求めた。本当の自分との隔たりにいら立ち、歯車が狂った。グラウンドを離れるとたがが外れ、酒やマージャン、競馬に興じる。負けると、同級生や教え子に5万円、10万円と無心を重ねた。高利の業者にも手を出し、借金は1億円を超えた。

 92年1月。JR福島駅の高架下に車を乗り捨て、電車に飛び乗った。甲子園の土も、教え子も、すべて置き去りにした。母親がバブル期に保険の外交で蓄えた5000万円を返済に充てたが、焼け石に水だった。4950万円の借金を残して自己破産し、野球も仲間も失った。妻と長女、長男の一家で身を隠すように暮らした。「このまま消えてしまいたい」。何度も思った。

    ◇    ◇

 原発事故が故郷に追い打ちをかけた。何かできないか。でも、受け入れてもらえる自信はない。ふがいない姿もさらせない。

 放射線の影響は野球にも影を落とす。練習不足のまま夏の甲子園に出た聖光学院は、2回戦で敗れた。かつて自分がデザインしたユニホームを着た選手たちがテレビの中で泣いていた。

 「俺の悩みなんてちっこいこと」。そう思った時、磐城高野球部の準優勝メンバーで県高校野球連盟理事長の宗像治さん(58)の顔が浮かんだ。

 故郷の野球を忘れた日はなかった。「おさむ、頑張ってくれよ」。ひたむきなプレーが、苦境に立つ人たちを勇気づける。そのことを、身をもって知っている。宗像さんに会いたいと思った。

    ◇    ◇

 毎年、母の命日の9月5日だけ、実家に戻り、誰にも会わずに帰る。「田村の名前を口にするな」。裏切られた地元の失望は今も大きい。それでも、今を逃せば一生後悔する。

 意を決してハンドルを握り、3時間半の道のりを福島市に向かった。昨年12月20日。懐かしい町に近づくにつれ、山並みが白く変わり始めた。緊張をほぐすかのように、大きく息をついた。

 「たくさんの人に迷惑をかけた」。20年ぶりに宗像さんと向き合った。福島駅を出て東京・新宿にたどり着いたこと。新聞配達や健康食品の販売をしながら東京や千葉で暮らしていたこと。空白の日々を初めて語った。

 甲子園の記憶がよみがえる。あの夏、センターの守備に立つ「おさむ」に見守られ、炎天下で406球を投げた。一球たりとも気を抜かなかった。

 「俺はピッチャーだから」。ボールには魂が宿ると、今も信じる。球児を、観戦する人を、被災者を励ましたい。その思いを、真新しい白球に託す。「俺が贈るボールを試合で使ってほしい」。こう伝えると、宗像さんが言葉を返した。「故郷を思う田村の気持ちがうれしい」

信夫ケ丘球場に立つ田村隆寿さん。ボールを握ると、奮い立つ自分がいた=福島市で2011年12月20日、竹内幹撮影
信夫ケ丘球場に立つ田村隆寿さん。ボールを握ると、奮い立つ自分がいた=福島市で2011年12月20日、竹内幹撮影

 40年前に福島大会優勝を決めた信夫ケ丘(しのぶがおか)球場に立ち寄った。福島の高校野球界に戻ることはできないと分かっている。それでも、逃げ続ける自分と決別するきっかけを求めていた。「自分を呼び覚ます何かをもう一度持ちたい。小さな子にボールの投げ方を教えるだけでもいい」

 マウンドに立ち、土の感触を確かめた。あの夏の高揚が全身を包む。生き直すことができると思えた。【鈴木梢】

    ◆    ◆

 激しい揺れと家々を押し流す津波、そして広がる放射能汚染。当たり前のようにあると信じていた日常を失った時に考えた。被災地の苦境に思いをはせ、生き方を見つめ直した。東日本大震災の後で迎えた新しい年。小さな一歩を踏み出した人たちの姿に、震災後の「幸福のかたち」を見つけたい。=つづく

毎日新聞 2012年1月1日 東京朝刊

 

おすすめ情報

注目ブランド

特集企画

東海大学:山下副学長「柔道家として教育を語る」

学生時代の思い出から今の日本の課題まで

縦横に語ってもらった。

毎日jp共同企画