昨年3つの「ウテナ」が終了した。TV版「ウテナ」と漫画版「ウテナ」と舞台版「ウテナ」である。TV版は「王子様はいない。あえて王子様になろうとする者は、こんなにつらい」という男性の女性に対する主張の出たラストになっていて、これは作品を創ったのがビーパパスの男性スタッフだったから、当然の結果だった。(さあ私とエンゲージして/さいとうちほ/CD)
緊張のあまり吐きそうになりながら観た「少女革命ウテナ」第39話「いつか一緒に輝いて」の放映日から、一年近い時間が過ぎようとしています。筆者の感想は「大変なものを見せられてしまった。どうしよう」でしたが、「期待はずれ」という評価もありましたし、「よくわからなかった」と言った人もいました。
「天上ウテナが王子様になって姫宮アンシーを救う」というラストを選んでいれば、「少女革命ウテナ」は、もっとわかりやすい作品になっていたはずです。アニメーションのクライマックスとしてそれは当然の結末であったはずですし、視聴者の多くがカタルシスを感じることのできる佳作となっていたことでしょう。
けれど、天上ウテナは「おせっかいな勇者様」になることはできても、「本当の王子様」になることはできませんでした。(注1)あれほどひたむきに姫宮アンシーを救いたいと願い、彼女のために命がけで闘った天上ウテナが、なぜ王子様になれなかったのでしょうか?
ビーパパスの一員である榎戸洋司によれば、「王子様、というのは、女の子がお姫様になるために必要な装置である」(少女革命ウテナ脚本集 下
薔薇の刻印/榎戸洋司/アニメージュ文庫)ということですが、男の子にとってもこれは同様のことではないでしょうか?王子様を王子様たらしめるのは、実はお姫様の存在で、男の子が王子様であるためには、彼が守ってあげるお姫様という装置が必要なのではないでしょうか?
自分に恋をして、自分を頼る女の子がいれば、男の子は自分を肯定することができます。自分を必要とする女の子に、己の存在理由を見いだすことができる、ということです。守ってあげるべき対象の女の子は、ある人にとっては「輝くもの」であったり、勝者の証であったり、純愛を捧げる対象であったりします。(注2)
けれど、もしも、お姫様がお姫様となることを拒否したら?王子様を拒絶してしまったら?
「私はお姫様にならなくていい」と思った女の子は、王子様という装置を捨ててしまうでしょう。お姫様に逃げられた王子様には、存在理由がありません。王子様のままでいられなくなった男の子は、「王子様ごっこ」の王子様になってしまいます。
「もういいんです…あなたはこの居心地のいい棺の中で、いつまでも王子様ごっこしていてください…」
「さよなら」
望まれていない王子様は、「少女革命ウテナ」の初期にも登場しています。「僕が君を…僕が君の美しい音色を守ってあげるよ」というのは第5話「光さす庭・フィナーレ」の薫幹の台詞ですが、それは結局「薔薇の花嫁は僕のものにしますから」ということで、滑稽なひとりよがりの「王子様ごっこ」でしかないわけです。アンシーにとっては「そこだ〜ウテナ様、やっちゃえ〜」であり、おせっかいな勇者様に対しては「ご苦労様」としか言いようがないわけです。(注3)
筆者の友人である邦田わとさんによれば、「姉を助けようとして川に飛び込んだ少年の名前を忘れてしまった、という有栖川樹璃の話を聞く男達が、妙にしんみりとしているのが意味ありげで印象的」だそうですが、筆者はそのように指摘されてはじめて、この場面で3人(西園寺夾一、桐生冬芽、薫幹)と有栖川樹璃の瞳が震えていることに、ようやく気付いたのでした。まるでひどく傷つけられたかのような表情でバーベキューを囲むデュエリストたちは、王子様をめざすということが、ひどく割に合わないつらい行為だ、と悟ってしまったのかもしれません。
川に落ちた女の子を助けようと飛び込んで、自分の方が溺れてしまい、大人に助けられた女の子は命を落とした自分の名前を忘れてしまう。王子様になるということは、そんなむなしい、愚か者でなければなし得ないものである、と彼らは知ってしまったのでしょう。(注4)
指輪をはめた彼らは、デュエリスト(duelist=決闘者)です。その勝利者には薔薇の花嫁が与えられ、世界を革命する力を手にすることができるといわれています。デュエリストであるということは、つまり、王子様をめざす者であるということなのです。
人よりも優れているという自覚があれば、王子様をめざすのは当然のことでしょう。けれど、王子様になれば、延々と送られてくるファックスに対応し続けなければなりませんし、救いを求めて押し寄せてくる人々の期待にこたえ続けなければなりません。
そのようにして、古今東西のヒーローは、何かを守るために命をかけて闘ってきました。(注5)それなのに、守ろうとした者に「守ってくれなくてもいい」と拒絶されたら、一体どうすればいいのでしょうか?「さよなら」と姫宮アンシーに捨てられた暁生の「どこへ行くんだ、アンシー!」という悲鳴のような叫びには、かつて王子様になろうとした者のつらさ、というよりは、男であることの悲哀さえ滲み出ていたように思います。(注6)
鳳暁生は、デュエリスト同士の決闘によって出現した最強の王子様の剣によってディオスの力を得ようとしていました。「薔薇の刻印の掟」と彼が呼ぶたくらみは用意周到に準備され、最強の剣を持つ天上ウテナが「世界を革命する者」に選ばれました。
「あの扉には、永遠の、輝くものが、奇跡の力がある」
「力があれば何でもできる。彼女を運命から解放することもできる」
「力がなければ、所詮誰かに依存した生き方しかできないのさ」
鳳暁生は、ディオスの剣より強い天上ウテナの剣を欲し、彼女を誘惑し、彼女と決闘し、そして姫宮アンシーの手で彼女を傷つけてそれを奪います。力に頼る者はより大きな力を求め、やがてその力に支配される(支配するのではなく)危険に近づくことになります。(注7)
「だけど、力をどう使うかは…俺が決めることさ」
鳳暁生は天上ウテナの剣で薔薇の扉に挑みますが、剣は折れ、「この剣でもまた駄目か」と呟くことになります。王子様の剣では、薔薇の扉を開くことはできなかったのです。
そして、剣によってではなく「ひたむきさ」で封印を開いた天上ウテナも、王子様になることはできませんでした。
「やっぱり僕は王子様になれないんだ。ごめん、姫宮…王子様ごっこになっちゃってごめんね」
このことは、何を表しているのでしょう?天上ウテナは、なぜ王子様になることができなかったのでしょうか?
天上ウテナが王子様として極まったところで姫宮アンシーに刺される、というのは実に効果的で面白い演出でした。
「そのとき、奇跡の力で僕は本当の王子様に…」
「どうせアニメでしょ、それって」
影絵少女のこの台詞には、「普通のアニメだったら王子様になれるところだけど、これはそういうお話じゃないよ」という警告が込められていたようです。(注8)
革命とは、支配されている者が、その支配のシステムを破壊することである。
少女革命とは、だから少女が、少女を支配するものから自由になる物語だ。(少女革命ウテナ脚本集
下 薔薇の刻印/榎戸洋司/アニメージュ文庫)
もし、天上ウテナが王子様になってしまったら、それは姫宮アンシーにとって、鳳暁生と天上ウテナが入れ替わるというだけで、革命とはなり得なかったでしょう。天上ウテナが王子様になる、ということは、「王子様とお姫様」というシステムを肯定することです。そのシステムを否定して、価値観の転換という革命を成し遂げるために、天上ウテナは王子様となってはならなかったのです。
「やはり彼女には革命は起こせなかった…」
「あなたには何が起こったかもわからないんですね」
そして、少女革命とはすなわち少年革命でもあることに他ならないのでしょう。女の子を支配していた「王子様とお姫様」というシステムは、男の子をも支配していたはずです。が、お姫様に求められなければ、王子様は王子様でいられなくなります。女の子がそう望まれなければ、男の子が王子様をめざす必要はなくなってしまうのです。そして、お姫様も王子様も存在しなければ、魔女も魔女ではなくなります。
システムから自由になった女の子と男の子は、一体どこへ向かうことになるのでしょうか?第39話のラストで私達の前に示されてのは、新しいシステムではなく「いつか一緒に…」という漠然としたビジョンです。
行く手の道程は、降る雪で定かに見えない。
だが姫宮アンシーは、毅然とした歩様で、その寒い道を歩きはじめた。(少女革命ウテナ脚本集
下 薔薇の刻印/榎戸洋司/アニメージュ文庫)
「王子様とお姫様」というシステムは、最近いろいろな不都合が目立つようになってきましたが、それでも何百年(もしかすると何千年)も機能してきたそれなりに便利なシステムです。
幾原邦彦監督は、このシステムを否定することの難しさを身にしみて感じていたはずです。姫宮アンシーの鳳暁生に対する思いは、このシステムの中で成立していました。この思いを断ち切ることがたやすいことならば、姫宮アンシーはあれほど悲しげな表情で天上ウテナを貫くこともなかったでしょう。システムが脆弱なものであるならば、姫宮アンシーと鳳暁生の絆は、とっくの昔に断ち切られていたはずなのです。
「少女革命ウテナ」の放映当時、筆者はよく友人たちと「一体どこに連れていかれるの?幾原は、私達をどこに連れていくつもりなの?」と言い合っていたものです。そして、第39話を観終えた後、まるで姫宮アンシーの行方のように、目的地は未だ定かではないように思われます。
希望的な未来を軽々しく口にすれば、それは安っぽいものになってしまいます。新しいシステムを提案すれば、それは新たな拘束となってしまうことでしょう。
安易な結論へ導かなかったこと、視聴者各々の問題として提示するのみにとどめたことがビーパパスの誠意なのだ、というのは、幾原邦彦監督へのあまりに好意的な解釈でしょうか?
(注1)様々な解釈が許されている第39話ですが、筆者は「天上ウテナはついに王子様にはなれなかった」という見解で話をすすめることにします。「天上ウテナは王子様になれた」という解釈も、美しいとは思うのですが。
(注2)薫梢は、登場時点で既に薫幹の「輝くもの」であることを拒絶しています。幼いお姫様のままでいてくれなかった薫梢(=妹)・薫幹(=兄)と姫宮アンシー・鳳暁生(血のつながった実の兄妹ではないらしい)、そして桐生七実(=妹)・桐生冬芽(=兄)の3組の対比には実に興味深いものがあります。
(注3)ミッキーって、かわいい顔してるくせに、実は西園寺夾一よりマッチョな王子様指向。体育会系だから、相手が年上か年下かで態度が全然ちがうし。
(注4)あっさりとデュエリストをやめた桐生七実の「あんなことやってらんないわよ。馬鹿馬鹿しい」「馬っ鹿じゃないの」は心地よいですな。
(注5)「あなたには守るべき人も、守るべきものもないというのに」とララァに言われたアムロやエヴァンゲリオンにむりやり乗せられたシンジ君は例外かも。
(注6)この時代に「男である」のは、「女である」よりつらいことだよねえ、と筆者は最近よく思うのです。「マッチョはいや」とか「フェミって気持ち悪い」とか否定ばかりされてたら、どーゆー「男」を目指せばいいのかわからなくなるよね。
(注7)世界の警察を自称して北ベトナムを爆撃したアメリカ然り、理想国家建設のために大量虐殺という手段をとったポル・ポト然り。
(注8)余談ですが、LDvol.1に収録されている幾原監督のインタビューは、あてこすりとしか思えません。
「かつて観たハリウッド映画的なものであるとか、かつて僕らが十代のころに観たアニメーションの情報であるとか、かつて僕らが面白いと思ったマンガであるとか(中略)そういう共通言語で面白いってことを煮詰めていくと、パロディになってるんだよね。模倣になっていくんだよね」
・西園寺の名前はくさかんむりの「きょういち」ですが、該当文字がないため「夾一」と表記しました。