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04.剣と弓
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 天と地の狭間。
 夜の闇とそれを照らす地上の明かりの境界線上に、真紅の主従は並び立つ。

 射手は第一射を放ったままの姿勢で着弾点を見やり、車内から逃れ超遠距離からの奇襲狙撃を回避せしめた主従を見咎め、細めた双眸を僅かに見開いた。

 敵である彼らがこの予見さえ不可能な筈の狙撃を回避したからではない。彼と彼女の存在にこそ、瞠目せざるを得なかった。
 いや……彼らが敵であると認識していたからこそ狙撃を行ったのだ。それでも何かの間違いではないかという思いを、晒された姿を見て消し飛ばされたのだ。

「外したわね」

 冷たい視線を眼下へと投げる主の色のない言葉が吹き荒ぶ強風の中に零れる。赤い弓兵は動揺を心の奥底に押し込め、視線を横へと投げ掛けた。

「敵はこちらが矢を放つ前に反応したようだ。でなければ回避など不可能な一射を放ったつもりだ。サーヴァントはともかく、マスターは殺せると踏んでいたのだがな」

「言い訳は必要ないわ。次の矢を番えなさい」

「……了解した、マスター」

 まるで感情のないマスターの言葉に従い、アーチャーは次弾を弓に番える。

 召喚からこっち、何もかもが彼の想像と思惑を裏切り続けている。何が原因であるかなど考察するだけ時間の無駄だ。どうせ答えなど現段階で導き出せる筈もなく、その答えを知ったところで胸中に渦巻く絶望は拭い去れない。

 自らの目的から逸脱した聖杯戦争。己を招いた少女に感じた違和感が、彼らの存在を認識することで確固のものとなった。
 確信は彼の絶望をより深く黒く塗り潰すもの。聖杯では叶わぬ願いを抱く、アーチャーの一縷の希望を断つにも等しい結果論。

 胸に秘めた願いが叶わぬものと知りながら、それでも弓兵は弓を執る。

「…………」

 引き絞られていく弦の軋みを強風の中に聞きながら、少女は視線を眼下に向けたままに髪を僅かに掻き上げた。

 彼女にとっても誤算の連続。本来彼女が招来しようとしたサーヴァントは父が収集した触媒の中でも選りすぐりの一つを用いた黄金の君。遍く英霊の頂点に位置する王者である筈だった。

 召喚には一切の不備はなく、粗さえも見当たらなかった。完璧と呼んで相違ない入念な準備の上、父の期待を背負い行った召喚は、意中のサーヴァントを引き当てることが出来なかった。

 今、傍らに立つ弓兵は彼女──遠坂凛の喚び出そうとした黄金とは異なる者。

 何が原因でこの赤き弓兵が招かれたのかは分からない。何故黄金の君が凛の呼び声に応えなかったのかは永遠の闇に葬られたまま。
 凛は己の喚び出したサーヴァントと共に十年遅れの聖杯戦争を勝ち抜かなければならなくなった。

 現在このセンタービルの屋上に陣取り、緒戦の幕を開いたのもその為だ。父の落胆を払拭し、アーチャーの実力を確かめる為の試運転。
 自身の名を思い出せないなどと嘯く英霊崩れにせめて力量を披露させようという凛の思惑だった。

 少女と呼んで差し支えのない年齢で既に魔術師として半ば完成に至った少女は、そんな不出来な己のサーヴァントに欠片も信用を預けていなかった。
 周囲に張り巡らせた感覚の糸は弛まぬままに引き伸ばされ、若干背の低いビル群は元より眼下、頭上をもその監視範囲に据えている。

 流石に数キロも先の標的を発見出来たのはアーチャーの慧眼があってのものだが、認識さえすれば姿形を目視することなどそう難しいものではない。

 引き絞られた弓より放たれる第二射。夜の闇を引き裂く赤い魔力を込められた必殺の魔弾は吸い込まれるように標的に向かい、今度は真正面から迎撃された。

「…………」

 アーチャーは決して手など抜いていない。矢に込められた魔力の力強さは凛をして瞠目に値するもの。迎撃が可能なのは同類たるサーヴァントだからであり、それを真正面から斬り捌けたのは敵の手腕に拠るところが大きい。

 風が渦を巻いているかのように刀身を覆い隠す不可視の得物。構えから見る限り、槍使いではないだろう。

 ……ならあれがセイバー。最優の誉れ高き剣の英霊。

 父が最強の英霊の触媒を所有していなければ、凛もまた最優の英霊を求めていたことだろう。それだけセイバーというクラスが有する能力値は破格であり、他のクラスを圧倒して余りある。

 しかしそんな追憶こそが詮無きもの。既に召喚は行使され、傍らには招かれし紅の弓兵の姿がある。

 素性は不明で宝具の正体すら不確か。信頼を預けるにはおよそ不適格であり、共に戦場を駆け抜けるには不足であり不満がある。
 この男が嘘を吐いていない証拠はなく、真実を黙秘している可能性も考えた。令呪に訴えることも可能だったし、それを補うだけの計略も存在した。

 凛はそれら全てを一笑に附し、現状を維持することを求めた。

 完璧であり完全であることを望まれ、そう振舞い続けてきた彼女らしくもない愚策。しかしそれは彼女にしか理解し得ない矜持ゆえのものであり、たった一粒胸に残った遠い郷愁の残滓。

「アーチャー」

「なんだ」

 告げられるまでもなく次弾を装填しようとしていた従者は視線を向けぬままに応える。

「貴方は最初、言ったわよね。この私が召喚した者が、最強でない筈がないと」

 喚び出そうとした黄金の君よりも、この自身こそが少女には相応しいと、そんな大言壮語をのたまった。
 父はそれをこそ失笑で済ませ、召喚の場を後にしたが、凛は違った。

 この弓兵の招来が遠坂家に根付く忌まわしき呪いの産物ではなく、別の何か──凛の及びもつかないものから齎されたギフトであるのなら、この召喚には意味があるのではないかと考えた。

 如何なる聖遺物を用いようと遠坂凛はこの弓兵を招く運命にあった……そんな乙女チックな妄想は心の贅肉と切り捨てるべきノスタルジーだが、過去を振り返ることにも省みることにも今更では意味がない。

 見据えるべきは今であり先だ。
 この正体不明の弓兵を従えて、聖杯の頂へと駆け上がる。

「ならそれを証明して見せなさい。私に貴方は信頼に足る者だという証を提示して見せて」

 胸に輝く真紅の宝石を握り締め、少女は男の背中に囁いた。

 弓を矢を番えたまま、従者は視線を滑らせる。力強き意思を秘めた少女の美しい瞳。吸い込まれそうなほど鮮やかな、それでいて弛まぬ決意を滲ませた双眸を見やり、僅かに口元を歪めた。

「承知したマスター。この私は君に相応しきサーヴァントだと、この一戦で以って証を立てよう」

 ぎちりと軋んだ弦はより強く弓を撓らせ、込める魔力の量は先ほどの一射と二射を凌駕する。空気をも凍らせるほどの冷たい魔力の胎動が屋上を染め上げ、吹き付ける風とて生温く感じるほどの刃を為す。

 冷徹な魔術師。
 彼の知る彼女ではない誰か。
 それでもきっと、彼女は変わることなくあの少女である筈だ。

 その確信を今の一言で得ることが出来た。
 ならば後は、向けられた信頼と期待に応えるのみ。

 ……この狂い回る戦いの緒戦を、貴方と君を相手に行えることもまた、与り知らぬ何かの縁なのだろう。

 遥か見据える敵手に一方ならぬ想いを馳せながら、彼の手にする矢は波動の高鳴りを続けていく。

 ……手は抜かない。この身は遠坂凛の騎士だ。目的の果たせぬこの世界で、ならば彼女の為にこの手は剣を執ろう。

 胸を過ぎる追想。
 遠い日の記憶。

 降り頻る雨の中に見た笑顔。
 月の雫の舞う静かな夜の逢瀬。

 郷愁を断ち切るように。
 番えられた矢は射手の手を離れ、暗い夜に墜落を開始した。


/


 空より降る紅の星。
 溢れる魔力は尾を引き、まるで箒星のように地上へと落下する。

 遥か数キロもの彼方から刹那の内に迫る魔弾を迎撃するのは最優の剣士。主たる切嗣をその背に庇い、橋上にて迫る二射を弾き飛ばす。

「はぁ……!」

 衝突は一瞬、弾き飛ばされた矢は空中を舞い川面へと消えていく。後に残ったのは冬木大橋の鉄骨を軋ませる残響だけだった。

「マスター、指示を!」

 切嗣を背にしている以上、セイバーは独断では動けない。セイバーが敵手目掛けて切り込めばマスターを無防備に晒すことになる。
 こんな馬鹿げた遠隔射撃はたとえ魔術師であろうと迎撃など不可能だ。鷹の目を持つアーチャーからは逃げることとて難しい。

 攻めるにしてもこの距離だ、詰め寄るだけで嵩張るほどの時間を要するし、その間マスターを庇い続けるのはセイバーとて厳しいと言わざるを得ない。

 だからセイバーは指示を求めた。攻めるにしろ退くにしろ、切嗣の意思がなければ立ち行かない。

「…………」

 切嗣は冷静に状況を観測する。
 今この場での最善を、持ち得る札の中から選択する。

 迫る三射。先の二撃よりもなお膨大な魔力を注ぎ込まれた矢は、セイバーの剣戟に弾かれこそしたものの、より重い響きを伴い冬木大橋を揺るがした。

 この状況はアーチャーの独壇場。彼我の距離は狙撃手の間合いだ。他を寄せ付けぬ一方的な連続射撃。このまま続ければ何れセイバーは膝を屈し、切嗣諸共に微塵も残さず吹き飛ばされるだろう。

「セイバー、全力でアーチャーの下まで駆け抜けろ」

 切嗣の選択は後退ではなく前進。
 聖杯の頂を目指して何処までも駆け上がるのみ。

「なっ!? それではマスターが……!」

「問題ない。おまえの速度についていく」

 切嗣の身を包む強化の魔術。アーチャーの第一射から逃れることを可能とした脅威の身体強化はキャスターからの恩恵だ。

 切嗣がイリヤスフィールのサーヴァントを選択する時、他のクラスの優位を捨ててまで欲したものこそが魔女の恩恵に他ならない。
 知り得る限り最高峰の魔術師として有名を馳せた裏切りの魔女を、その性質を度外視してまで求めたのはその為だ。

 無論イリヤスフィールの防護面からの選択が第一であったが、切嗣にも恩恵を授けられる者となればキャスターのクラス以外に有り得なかった。
 イリヤスフィールの破格の令呪を以ってすれば魔女の裏切りを防ぐこともそう困難なことでもない。何より切嗣の監視の目とセイバーの剣がある限り、あの魔女は従い続ける他ないのだ。

 リスクを封じた上で手にした神代の魔女からの強化付与。切嗣が自身に施すものより数段位階の高いそれは、彼女の力量の高さを物語る。
 けれどそれでも切嗣は所詮人間だ。破格の恩恵を授かろうとも、英霊の全力疾走には届くまい。

 それを覆すものこそが、

「固有時制御(Time Alter)────」

 切嗣自身が求めた魔人の力。

「────三倍速(triple accel)」

 セイバーとの繋がりを得ることで効力を発揮する聖剣の鞘の回復能力。自身の力量を超えた魔術行使による破滅とて、その超速再生は覆す。

 ただしそれは不死を約束するものではない。あくまでダメージを回復するに留まり、ダメージそのものを完全に無効化するには至らない。
 切嗣は体内で炸裂する固有時制御の反動を聖剣の鞘の回復能力で癒しながら、残る鈍痛に耐えて英霊に拮抗する。

 駆け出した切嗣の疾走は最速の呼び声高いランサーには劣るものの、もはや人間の領域を逸脱していた。
 切嗣に遅れることコンマ以下でスタートを切ったセイバーとて、気を抜けば刹那の内に追い抜かれかねないほどの超加速。

 神代の魔女の強化と聖剣の鞘の加護。双方がなければ為しえない限界を超越した疾走を以って四射目の矢が放たれるよりも早く大橋を渡りきる。

 迫る轟音。
 大気を斬り裂く破裂音。

 標的に近づいた分だけ威力は増しており、込められた魔力量もまた増大している以上、先の魔弾よりも強烈な威力を伴い箒星は飛来する。

 されど魔術師殺しの傍らにあるのは最優の誉れ高き剣の英霊。その中でも最上位にも程近い場所に座するこの白銀の騎士の力量を以ってすれば、捌き切ることなど何ら難しいものでもない。

 足を止めぬままに魔力放出を踏み切りに乗せ、切嗣の前に躍り出たセイバーは四射目もまた斬り伏せる。甲冑越しに手を伝う衝撃を受け流し、止まらぬ疾走を続けるマスターへと追い縋る。

 次の狙撃がより強力な魔力を込めたものである仮定するのなら、次弾発射までの予測時間は三十秒を越える。今の切嗣とセイバーの速さならば、街中へと充分に辿り着ける。

 人気の疎らな深夜とはいえ、駅前広場には僅かではあれ人影はあるだろう。そこまで辿り着けるのなら敵はもう安易な狙撃は出来なくなる。
 無関係な人々の犠牲を厭わず、神秘の露見さえ恐れないのなら可能だろうが、な緒戦でそこまでの無理を行う者は少ない筈だ。

 だから人気のあるところまで行けば魔弾の射手から逃れることは可能だが、

 ……それでは決定的な勝利にはならない。

 アーチャーの狙撃能力を看破した今、そのまま捨て置いていい筈がない。
 弓兵の精密射撃を以ってすれば先のように認識の外から狙い撃つことは難しくはないだろう。

 ここでアーチャーを取り逃がすと言うことは背中に憂慮を残すということ。

 拠点で眠りに落ちた瞬間に矢が襲ってくるかもしれない。他の敵との戦闘中に横槍を入れられるかもしれない。いつ寝首を掻かれるかと怯えたまま、戦い続けることほど恐ろしいものはない。
 自身も狙撃の心得のある切嗣だからこそ、アーチャーの脅威を見誤らないのだ。

 ……初撃で殺せなかったことが最大の失策であり、そのまま姿を消さなかったこともまた落第点だ。

 狙撃の信条は一撃必殺。殺せると確信するまで引き鉄を退くことは許されず、もしも外してしまったのなら存在を悟られる前に離脱すべきだ。
 あの弓兵が如何に高い狙撃能力を有していようとも、狙撃手としての心構えが足りていない。ならば刺せる隙は充分にある。

 止まらぬ疾走を続け、敵の注意を引く為に駅前広場を迂回しセンタービルを目指す。途中降り注いだ牽制と思しき流星群は全てセイバーが捻じ伏せた。

 そしてビルの立ち並ぶオフィス街へと侵入を果たす。センタービルはもう目の前。オフィス街へと入ったことで、狙撃は容易ではなくなっている。如何に新都で最も高い場所に陣取ろうとも、雑多な街中にあの威力の矢は放てまい。

 しかし切嗣にもまた誤算があった。

 彼の考える狙撃の常識はあくまで人の領分だからこそ常識足りえるもの。人の領域を逸脱した、人ならざる英霊にとって、そんな当たり前は通用しない。

 耳を劈く金切り音。高く大気を軋ませる轟音を伴い、その漆黒の牙は飛来した。有り得ぬ方角から。センタービルより放たれた魔弾は、空の果てで軌道を捻じ曲げ、定められた標的へとその進路を折り曲げた。

「くっ……!?」

 セイバーをして足を止め十全な姿勢で受け止めなければならないほどの魔力を込められた魔弾。切嗣達がこの距離まで肉薄することを始めから想定していなければ叶わない威力を伴い、そしてその真価は次の一瞬にこそ現われた。

 弾き飛ばした筈の矢が空中で旋回し、変わらぬ威力を秘めたままに再度セイバー目掛けて飛来する。

 其は標的を射抜くまで疾走を止めぬ漆黒の牙。
 射手が存在し続ける限り永劫外れぬ照準を約束する魔剣の鏃。

 赤原を往く緋の猟犬が、その顎を重く開いた。


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