01.冬の森にて
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常冬の森。
地平の彼方までを埋め尽くす根雪と乱立する針葉樹。青空を覆い隠す灰色の雲だけが、その世界の全てだった。
およそ人の寄り付かぬ僻地には一つの城があった。古城と呼んで差し支えない、文字通りに中世から変わらぬ姿で存在し続ける城。
その城に住まう者達はある妄執に囚われていた。千年余りに及ぶ懇願。行き過ぎた祈りは狂気に染められ、彼らを憎しみに駆り立てた。
かつて自らのものであったものを、他者と争い奪い取らなければならなくなったことへの憤怒。都合三度の闘争を経てなお未だ手に掴めていないという事実に対する絶望。自らの家系における術者の戦闘能力の低さに嘆きを覚え──
彼らは誇りを金繰り捨て実利を選び、外来の魔術師を招き入れた。
千年の純血を保ってきた彼ら──アインツベルンにとってそれは苦渋の決断であった。余所者を招き入れるということは自らの力では勝ち得ないと認めるも当然の所業。自分達の無能さを曝け出すにも等しい愚行だ。
それでも彼らは恥も外聞も誇りも純血も、それら全てを捨て去ってでも求め欲した奇跡を手に掴み取ると決断した。
失われた第三法。
消えた天の杯。
悲願を遂げる為ならば、どんな汚泥さえも啜って見せると、アインツベルンは狂気により妄執を肯定した。
彼ら狂信者の期待を一身に背負った招かれし者──衛宮切嗣は、走り去る少女の背を追いかけながら、真綿の雪を踏み締めていた。
切嗣がアインツベルンに招かれたのは既に二十年も前のこと。
本来ならば十年前に闘争の幕は開く筈だった。
けれど予定された開演の時刻になっても幕は上がらず、切嗣は長い時をこの城で過ごす羽目になった。
切嗣がアインツベルンの誘いを受けたのは、彼にも祈りと呼べるものがあったからだ。
六十年に一度の魔術師の祭典。
聖杯を巡るバトルロイヤル。
七人のマスターと七騎のサーヴァントの殺し合い。
ただ一組の勝者にだけ、胸に抱いた祈りを叶える権利が与えられる。
アインツベルンの悲願はその最終地点。しかし切嗣の目的は彼らの悲願が成就する際に生まれる魔力の余波だけで叶えることが出来る。
奇跡を起こす聖杯ならば、この世界の内側において作用するほぼ全ての願いを叶えるだけの力を宿しているという。
世界の外側を目指す典型的な魔術師の悲願や聖杯の正しい用途を求めるアインツベルンの妄執にも切嗣は興味がない。彼にあるのは純真無垢な祈りだけ。子供の頃に抱いた愚昧な夢を、今なお見続けている。
「なにしてるのー、おそいよー!」
前方を走る少女──イリヤスフィール・フォン・アインツベルン……切嗣の実子の声を聴きながら、苦笑を浮かべる。
妻であるアイリスフィールとの間にもうけた子。彼女の出生がたとえアインツベルンの当主であるユーブスタクハイトの要請であったとしても、切嗣はイリヤスフィールに愛情を持って接してきた。
血に塗れたこの手で我が子を抱くことが許されぬ罪であると知りながら、その温かさに涙した。この二十年余りは、強迫観念に衝き動かされ続けてきた衛宮切嗣にとって幸福と呼んで差し支えのない時間だった。
五年ほど前に死別した妻を含めて、三人で過ごした時間。二人きりになっても、変わらぬ笑顔を浮かべ続けてくれた愛娘。
身に余る幸福。相応しくない幸福。人でなく、命の多寡を量る天秤であり続けた切嗣にようやく訪れた、人並の幸福。
……それを僕は、これから切り捨てようとしている。
差し迫る開幕の時。
十年遅れの開催となる第四次聖杯戦争。
切嗣の手には既に参戦の証である令呪が宿っている。
十字架を模した三画の令呪。
それは切嗣の背負った罪の重さを表し、烙印の如き熱を帯びている。
……それだけじゃない。僕は、イリヤを────
「もうっ! キリツグ!?」
いつの間にか足を止め、掌に浮かぶこれまで浴びた返り血を幻視していた切嗣の前に、粉雪よりもなお白い髪の少女が頬を膨らませ紅玉の瞳で見上げていた。
「一緒に遊んでくれるって約束したのにっ! キリツグったら上の空じゃないっ!」
「……ああ、ごめん。ちょっと考えごとをしていたんだ」
膝を折り、目線を合わせ頭を撫でる。少女の瞳は子供扱いするなと叫んでいたが、それも数秒で霧散した。少女はすぐに、悲しげに眉を寄せた。
「キリツグ……泣いてるの?」
「え……?」
驚き、男は空いた手で頬に触れる。そこには筋張った自身の顔があるだけで、涙の跡は見られない。
「泣いていないよイリヤ。僕は、泣いちゃいない」
「ううん、キリツグは泣いてるよ。心が、泣いてる」
「──────」
言われて気付いた。いいや、ただ目を逸らしていただけだ。
切嗣がこれより赴く闘争の果てに、彼が願った祈りを叶えるものがある。人の手では決して為し得ない奇跡でも、万能の願望機なら叶えてくれる。
戦場を横行し、命を賭して求め続けても決して叶わなかった願いがこれより始まる闘争の果てには必ず叶う。
その為にアインツベルンの手を握り返した。二十年、微温湯に浸り続けた。その最中においても、堕落することを恐れ常に自身の身体に鞭を打ち続けてきた。
事実として切嗣は心を燃やしている。これより臨むのは悲願を叶える為の戦いだ。長く苦悩と共にあった半生にようやく決着を見ることが出来る。
これが世界で流れる最後の流血であることを思えば、心は何処までも冷たく固く鉄になろう。
だが同時に、その為の犠牲を偲んでいる。
自らの祈りを叶えるということは、この幼子を犠牲するということ。如何にイリヤスフィールがこの闘争の為に調整を施されたホムンクルスであり、聖杯をその身に宿した存在であったとしても、その犠牲を簡単には許容出来ない。
かつての切嗣であったのなら、いとも容易く切り捨てただろう。だが今は違う。彼女の生まれからずっと、その成長を見守ってきた。妻と共に我が子の息災を祈り続けてきた。先立った妻の想いを受け取り、惜しみない愛情を注いできた。
それを切り捨てなければならないという葛藤。
最も守り通したいものを見捨てなければ叶えられない願い。
そして今更道を違えることの出来ない、己の生き方に絶望する。
初めに犯した原罪を贖う為に走り続けてきた。
そうすることで『彼女』の犠牲を無意味なものにせずに済むと思っていた。
理想の尊さが余りに遠すぎて、膝から崩れ落ちそうになっても必死の思いで駆け抜けてきた。
どうしてその犠牲を裏切れよう。
我が身可愛さに、我が子可愛さに捨てられる程度の罪ならば、切嗣はこんなにも苦悩していない。
結論は始めから決まっていた。
だから心は泣いていたのだ。
何の罪もない我が子を自らの薄汚い理想の糧にしなければならない、その罪の重さに心は慟哭の悲鳴を上げていたのだ。
「ごめんな……イリヤ」
切嗣は切り捨てるだろう。
心を鉄に変えて。
自らの祈りの為にイリヤスフィールの人生を。
自らの願いの為にアイリスフィールの想いを。
自らの理想の為に、この二十年余りの幸福を。
この城で手に掴んだ全てを捨て去り、蒙昧な夢の果てへと走り続ける。
「泣かないで」
膝から崩れ落ちた弱い男を、少女は慈愛をもって抱き締める。その小さな身体と腕を精一杯に広げ、すすり泣く父の全てを抱き止める。
「大丈夫だよ、イリヤはキリツグの味方だから」
少女を殺す為の戦いに臨む男を肯定する。たとえ世界の全てが男の敵になっても、少女だけは彼の味方であり続けると。
「キリツグがアインツベルンに招かれて、お母さまと出会って、私が生まれた。そして一緒に暮らした今までの時間は、イリヤにとっての宝物だから。
大切な……大切な想い出をくれたキリツグの夢を叶える為なら、イリヤはどんなことだって出来るよ。だから──」
少女は想いの全てを込めて、男の額にキスをした。
言葉では語り切れない心の全てを、たった一つの仕草に込めて。
「イリヤ……」
「一つだけ、訊いてもいい?」
「……ああ」
「キリツグはお母さまと……私と過ごしたこの時間は、幸せだった……?」
「ああ……勿論だ……」
だからこそ心は悲鳴を上げ、涙を流している。過ぎた幸福と夢見た理想の狭間で、ちっぽけな人でしかない衛宮切嗣は枯れ果てるまで涙を零し続けている。
それでも自分自身とこれまでの犠牲を裏切れない切嗣は、少女の命を糧に祈りを叶える為に銃を執る。
血と硝煙の匂いに身を包んで。
罅割れた鉄の心の隙間から涙を零しながら。
理想の果てへと駆け抜ける。
「うん……そっか。うん、イリヤも……幸せだったから」
少女は自らに与えられた幸福を噛み締める。本来ならば与えられもしなかったかもしれない幸福だから。
十年の開催の遅延のお陰で少女は人並の幸福を手に出来た。父と母の愛情を一身に受けて育つことが出来た。
元よりこれから巻き起こる戦いの為に調整を施された存在だ。母であるアイリスフィールのように早世を約束されている身。ならば彼女にとってもこの二十年は、過ぎた幸福だったのだ。
身に余る幸福を手に入れ、そして父の祈りの為の礎になることが出来る。だから少女は泣かないのだ。この身の犠牲に涙を零してくれる父がいるから。胸に抱いた理想と比して、それでも苦悩してくれる父がいるから。
その涙にこそ、イリヤスフィールは救われている。
「さあ、行こうキリツグ。願いを叶えに。理想の果てに。夢は見るものじゃなくて、叶えるものでしょう?」
「ああ」
差し出された少女の手を握り返す。柔らかな手。小さな掌。その温かさに触れながら、男は在りし日の自分へと立ち返る。
少年の日々に見た夢想──正義の味方。
その夢を張り通す為に。
世界でたった一人、正義の味方に味方してくれる少女と手を繋ぎながら。
男は戦場へと、その一歩を踏み出した。
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