ミャンマーの蕎麦
調査研究本部研究員 伊藤俊行
つい5、6年ほど前まで、日米関係は「蜜月」と呼ばれていた。
小泉純一郎首相とジョージ・W・ブッシュ大統領の時代だ。倦怠期のごとき現状からすると、何もかもうまくいった錯覚すらあるが、ハネムーン(蜜月)のカップルだってけんかするように、衝突もあった。対ミャンマー政策は、その一つだ。
よく「米国追従」と言われる日本が、ことミャンマーに関しては、この国の人権状況を憂慮する米国の意に反し、軍事政権との関係を保ってきた。ブッシュ政権でアジア政策を仕切った知日派も、この国の話題になると、露骨に日本への不満を示したものだ。
日米蜜月が始まる前の1999年、自民党の加藤紘一元官房長官に同行してミャンマーを訪ねたことがある。麻薬の原料となるケシの栽培をソバ栽培に転換する日本主導の事業を視察する旅だった。
ヤンゴンから中国国境に近いシャン族の村まで軍のヘリで飛ぶ。中国の貨幣が使われ、軍政と対立する少数民族に囲まれた山村で、この貧しい地域がソバで安定収入を得られるようになれば、治安も改善し、麻薬撲滅にも貢献できると、日本は考えた。案内役は、後に首相となるキン・ニュン氏(2004年に失脚)が務めた。
当時のミャンマーは、資源も、市場としての魅力も乏しいと考えられていた。その時代に、米国の不興を買ってまでこの国を大切にした理由は、「中国のすぐ南の親日国を維持することが重要」(加藤氏)という発想だ。米国に同調して圧力政策をとっても、政治体制はすぐには変わらないし、むしろ中国依存が強まるだけだ。せっかく中国の南側を塞ぐ親日国があるのだから、そこを味方にしておく方が、安全保障上は得策だという戦略的思考だった。
それから10年余。米国は昨年、対ミャンマー政策を転換した。人権状況に改善の動きはあったが、見切り発車の印象も否めない。この豹変に対し、日本では、「我々が正しかった」という自賛の一方、「失敗した」と嘆く声も聞かれる。
失敗説によると、米国は原油を依存するサウジアラビアなど「利用価値」の高い国での人権状況には沈黙し、「利用価値」の低い国には厳しいダブルスタンダードだから、日本は「中国の台頭→中国けん制のためのミャンマーの利用価値の増大→米国の政策転換」の流れを予測し、もっと大胆に動くべきだった。それなのに、米国への遠慮で中途半端な関与に終わり、存在感を示せなかったというわけだ。
確かに、玄葉外相のミャンマー訪問がクリントン米国務長官の後追いと映るようでは、切歯扼腕したくもなるだろう。
日米は蜜月の後、鳩山政権で「夫婦げんか」をし、依然、ぎこちない。その中で迎えた2012年は、蜜月期でもぶつかった別の問題、すなわちイランの核問題が厄介だ。欧州連合による原油禁輸で、国際社会の視線は、イランとの結びつきが深い日本に注がれる。日米関係にとっても難しい一年になりそうだ。
そんな時、事情や背景が異なるにせよ、日本外交のたたずまいという意味では、ミャンマーを巡る経験に学ぶことはあるはずだ。
ちなみに、ソバ栽培は、政変に揺さぶられながらも収量を増やし、「ミャンマー高原そば」として日本で販売されるまでになっている。
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