IE9ピン留め

本と映画と政治の批評
by thessalonike5
アクセス数とメール
今日 
昨日 


access countベキコ
since 2004.9.1

ご意見・ご感想



最新のコメント
最新のトラックバック
以前の記事


access countベキコ
since 2004.9.1


















甦るルソー - 福島と三陸に「人民集会」と「一般意志」を
単にマニフェストの政策課題の実現だけでなく、福島の原発事故や東北の震災復興についても、問題解決は切断と飛躍の政治運動でしか果たせないのではないかと、そう思えて仕方がない。民主党政権や自民党政権に任せて、今の国会に任せて、何かが本当に解決するのだろうか。政治家たちは被災地に入り、10か月間、被災者の前で同じ言葉を言い続け、マスコミはそれを宣伝報道してきた。「今日からスタートです」、「来月中には必ず纏めます」。「今日から」とか「来月まで」とか、顔が変わる度に何度繰り返してきたことだろう。1/7の鎌田靖のNHKの番組では、被災地の失業者は12万人に上ると言い、その絶望的状況を『ワーキングプア』を思わせる取材と映像で報道した。私は、もう8か月以上前から、政府は被災地から人を追い出すのが狙いであり、わざと復旧事業を先送りして遅らせているのだと言い続けた。カネを出したくないのだと、官僚はカネを出す気はないのだと。官僚と政治家は、復興予算の策定と審議を意図的に遅滞させ、これを巧妙に「薄く広く」の増税の政治に繋げた。わずか9兆円の補正に半年も時間を浪費したのは、国民に所得税増税を呑ませる「ペイアズユーゴー」の洗脳工作に時間を要したからだ。しかし、年末に浮上した整備新幹線はどうだったか。3兆円は「財源の目途がついた」と官僚(NHKニュース)が言い、1日で決まって異論が出なかった。


整備新幹線の3兆円は「ペイアズユーゴー」ではないのだ。被災池復興の9兆円は「財源がない」のであり、「ペイアズユーゴー」なのだ。この政治の不条理を選挙の民意で変えることができるだろうか。投票の選択で被災地の人々を救うことができるだろうか。福島についても同じだ。この事故が人災であるなら、事故を起こした者には加害責任や過失責任が問われなければならないが、東電も、官僚も、政治家も、誰も刑事責任が問われない。泰然自若だ。御用学者もそのままで、原発の広告塔となった文化人も悠々自適、「原子力立国計画」を策定した当人もテレビで商売を続けている。事故が起きる前と何も変わっていない。官僚と政治家とマスコミは、虎視眈々と再稼働のタイミングを狙い、それを既定方針に据えて動いている。東電は、被害賠償のために電力料金を20%値上げすると平然と言いのけている。このまま選挙をやっても脱原発の実現はない。選挙中に論議や公約があっても、それは選挙後に反故にされるのが見えている。そして、モタモタしている間に、また大きな地震に遭い、原子炉の配管破断でメルトダウンの事故が再び起きる。国民にとって必要なのは、列島上の全原発を直ちに停止して廃炉することである。原発推進に関わる組織を廃止することだ。東電と関係機関を強制捜査し、責任者を逮捕訴追することだ。それを断行する政治権力もしくは政治機会が必要である。

官僚は被災地を復興する意思は毛頭なく、何かやっている素振りをして時間を稼ぎ、人口流出に追い込み、そこを無人の廃墟にするのが目的なのだと、私はそう言った。住民が故郷を棄て都会に出て行き、人が住まなくなれば、官僚政府はそこを復興する必要も責務もなくなる。それが官僚の本音で思惑だと幾度も口を酸っぱくして訴えたが、その見方が反響を呼ぶことはなく、公論として広がらず、昨年のネットの関心は放射能汚染と小沢一郎だけに集中した。愚にもつかない政局論と陰謀論の趣味談義で横溢した。また、左側は被災地をボランティアで救済する方向(新しい公共)に収斂し、被災地を政治で救う考え方は窒息させられ、その正論は地上から消えた。「薄く広く」の所得税増税も、何やらボランティアの篤志の延長のように意味づけられて了解され、収奪が慈善のように合理化されて観念され、その二重性の本質が隠蔽されている。挙げ句、今度はそのボランティア精神を若者と現役世代に向けよとばかり、年末には「薄く広く」の相互扶助の思想が消費税増税を推進するイデオロギーの支柱に化けている。市民はどこまでも身を削って人を助けるのだが、官僚は今年も4200億円を原子力に注ぎ込み、悠然と天下りと渡りを続け、独行・公益法人と特別会計を増殖し続けるのだ。市民政府という前提が日本から消えている。主権者という意識も、議会の意味も、政党の存在も。近代民主国家の原理が悉く雲散霧消している。

私は昨年、被災地に地域政党を興すべきだと提案した。政党がないことが現在の日本政治の根本的な問題だと考えた。被災地の人々の要求を汲み取り、それを政治に反映させようとする政党の活動が必要だと。今、OWSを見て、少し考え方が変わり始めている。否、正直に言うと、NHK-ETVの番組で「福沢諭吉と中江兆民」の特集を見て、福沢的な英国型二大政党制の限界を明確に感じ、ルソー的なラディカルな政治の理念と構想に惹き寄せられているのだ。政党ではないのだと、人民集会なのだと、そういう結論と確信に到達しつつある。OWSとルソーは結びつく。その二つを接着するのは、アナキズムとプルードンであり、直接民主制の導入であり、万人が統治の主体となるコミューンの理想である。明らかに、OWSの運動と実験はルソーを歴史の彼方から呼び起こすのであり、ルソーの哲学から近代民主主義を問い直す思索を動機づけ、それが形骸化する前の「人民主権」の理想を確認させるのである。日本人には、福沢に対する兆民の意義を再発見させ、日本国憲法の「国会は国権の最高機関である」とする条文を覚醒させるのだ。これはルソーの思想である。定評ある藤原保信の『西洋政治理論史』(早大出版部)から、ルソーを概説した部分を取り出してみよう。この本は叙述が分かりやすく、素人の読者にはありがたい。「ルソーの国家像がイメージとして結ぶものは、むしろ小規模なコミューン型の国家であろう」(P.363)。

「一般意志=主権は最初の社会契約によって形成される。だがそれはその後どのようにして継続的に発見され維持されるだろうか。(略)すでに主権は決して代表されないとして代議制を否定した以上、それは市民全体が参加する人民集会(peuple assemblé)に求めざるを得ないであろう。(略)『主権者は立法権以外の力を持たないから、法によってしか行動できない。しかも法は一般意志の正当な働きに他ならないから、人民は集会したときだけ、主権者として行動し得ることになるであろう』(社会契約論)。(略)ルソーは共和制下のローマの例などを挙げながら、可能性の幅を広げることを説くのである」(P.363)。ここで礑と気づくが、OWSが公園でやっていたGeneral Assemblyは、まさにルソーの「人民集会」だったのだ。藤原保信の説明は、さらに続けて、ホッブスとロックとルソーの三者を対比させ、その立論における立法と行政の関係という重要な点に着目し、ルソーの思想の特徴を浮き上がらせる。煩を厭わず引用を続けよう。「われわれはかかる主権者と政府との関係に触れておかなければならない。(略)ホッブズの場合には主権者は立法府にして同時に執行府であり、すべての権力を一手に掌握する絶対的な存在であった。一方、ロックの場合には、立法府と執行府を区別しながら、至高の権力を立法府としての議会に帰属せしめた。しかし同時に(略)執行府の相対的独立と立法府に対する牽制機能が認められていたのである」(P.364)。

「これに対してルソーにおいては、すでに述べたように、法を制定する権力こそ主権であり、したがってそれはひとり人民集会にのみ帰属する。そしてまさに執行府としての政府(gouvernement)は完全にかかる主権者に従属し、その意志(法)を執行する『主権者の公僕(ministre)』にすぎない。したがって政府と人民との関係は相互的な権利義務の関係としての契約では決してあり得ない。『(略)まったく委任もしくは雇用にすぎないのであって、その場合首長は(略)主権者から委ねられた権力を、主権者の名において行使しているのであり、主権者はこの権力を好きな時に制限し、変更し、取り戻すことができるのである』(社会契約論)。(略)ルソーの究極の理想とした政治の形態は、すべての人民が立法に参加する共和制にして、かつ執行にも加わる民主制であるということ(略)」(P.365)。このように藤原保信が整理して示すルソーの理想を、福島や三陸の問題を解決する政治としてイマジネーションしたとき、果たして思念はどのような具体像を結ぶのか。おそらく、それは政党ではないのだ。地域政党という方法ではなく、ルソー的な理念の方法化なのだ。つまり、人民集会(peuple assemblë)の結集と開催なのだ。そこに主権を措定するのだ。選挙に投票する有権者ではなく、政党に要求を委託する住民ではなく、福島の主権者として振る舞うのだ。福島の人民が集まり、OWSのように集会して、福島の一般意志を霞ヶ関とマスコミに示威し対峙することである。その民主主義の戦略の可能性がある。

むしろ、問題解決はその方向しかないのではないか。「ルソーにとって、まさに一般意志は決して個人の恣意や特殊意志の集合ではなく、全体の意志でありながら同時に個人の意志であり、しかも決して誤りなき意志として、ある種の神的理性の表現ですらあった」(P.366)。三陸の一般意志は、鎌田靖が制作して放送した1/7のNHKの番組でほぼ具体的に提示されている。一言で言えばカネだ。二重ローンの問題を解決し、地場の水産業と農業を再生させ、町と村に雇用を創出し、病院と学校とインフラを再建するカネである。残る作業としては、現行の予算から(毎年分)10兆円ほどを削ることで、東北大の財政学者の仕事だろう。福島の一般意志は、未だ明解な形になっているとは言えない。まずは、事故と被害拡大の責任者の処罰が先であり、刑罰をもって償わせるというところが第一段階だろう。東電と政府とマスコミの「工程表」を否定し、事故の原因と被害の実態を刑事裁判の手法で事実解明することが急務であり、誰がどれだけの補償責任を負うかを特定しなければならない。福島は三陸と違って人災であり、すなわち、人民集会は同時に裁判の性格を持つだろう。ラディカルな表現をすれば、東京裁判的な「福島裁判」の法廷が必要だ。ルソーは、英国の代議制を見て、英国の市民が主権者として自由なのは、議員を選挙する期間のみで、選挙が終われば奴隷になると言った。奴隷にならず、主権者であり続けるにはどうすればよいのか。福島と三陸の問題を政治で解決するということ、それを政治で解決する社会契約を考え試みること。

そのイマジネーションは革命の発想に違いない。


by thessalonike5 | 2012-01-11 23:30 | Trackback | Comments(5)
トラックバックURL : http://critic5.exblog.jp/tb/17590358
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
Commented by 33 at 2012-01-11 19:09 x
あけましておめでとうございます.

震災の復興についてですが,何度も現地に顔を出していますが,瓦礫の撤去等はかなり進みましたが,『復興』しているな.という感じはなかなか見られないですね.

都市計画を経験した者なら,なんとなく解っているかもしれませんが,新しい器を用意しても,同じような昔のコミュニティがまた戻るかのか......?
自分は成功例は聞いたことはありません.

陸前高田を例に出せば,本当に何もないんです.
行政主導で,無くなった役所,病院,公共施設をつくれば,シムシティみたいに,ぽつぽつ周りに人が住むか.といえば,そんなわけありません.住民が住むか?と言ってもコンビニも公共施設もないところには住めません.

本当にまっさらになると,鶏が先か,卵が先か.という議論になってしまっていて,本当に何から手を付けて良いのか,誰も解らないんですね.
名だたる都市計画事務所が現地に入ってますが,この街を1つ創る.というスケールで計画を立てた経験もないですし,どのプランを見ても,無理だと解ってるから,半笑いでプレゼンを聞いてますよ.

続く.
Commented by 33 at 2012-01-11 19:38 x
自分は,この震災の復興には,猛烈なお金の循環と生産活動の活性化だと思っています.

個人的には,ヴェルグルの労働証明書的な,5〜8年で減価償却される貨幣.被災県毎に『地域復興貨幣』を猛烈に発行すれば良いのに.と思ってますし,みんなそう言ってますよ.
被災県でしか使えませんから,被災者に配ったとしても,資本が他県や中央に流出することはありません.

なんだかんだ言って,財布にお金がパンパンに入っていると,人の心は高ぶります.
漁業関係で借金している人とか,もう財布にお金が入ってないんですよ.スカンピンってやつです.

ツールとしてのカネの使い方が下手ですよね......
陸前高田の市議会は,確か共産党が与党だったと思いましたので,ちょっと共産とか社民について言わせてもらうと,減価紙幣.どう考えても資本主義へのカウンターツールなのに,これをツールとして使えない.清貧臭がするんですよね.
この2党からぜんっぜん.そういう提案がない......

続く......かも......
Commented by 33 at 2012-01-11 20:01 x
減価・地域通貨ネタなので,もうちょっと投稿させてもらいます.

個人的には,地域や減価通貨に関しては,期間,場所を特定した事例では成功例が多かったと思います.
フィギアの祭典である,ワンダー・フェスティバルとかでも版権問題を解決するツールとして,確か使っていましたし(日本で通貨発行はタブーなので,見た瞬間,ヤバイと思いましたけど),ヨド○シとかのポイントカードは,資本の囲い込み機能という地域通貨のメリットを産業界が『地域→産業』で転用してる事例ですし.

ただ,このシステムの成功例を見ていると,ある程度スケールの小さい規模で座り心地がイイというか,国家レベルのスケールで使うには向いていない,という直感があって,道具は使い分ければ良いので,¥(マネー):?(通貨)の併用で良い.

民主党は沖縄ビジョン2008で,沖縄から地域通貨の導入を歌っていましたし,個人的に,『カネ=道具』として見ている人間が民主党にいる(裁判やってますけど......).
そういう人がいる限り,まだ政治に自分は期待をしてます.
革命する人達に,こういう日本にしたい.そういうビジョンや,何の知恵も無ければ混乱を生むだけです.
Commented by ABCD at 2012-01-11 20:32 x
人民集会の起草は、本当に良いように思えますが、それを指導するような人物が現れないと、なかなかうまくいかないでしょう。また、OWSのカレ・ラースンのように、それに関わる知識人のグループが必要のようにも思えます。

たとえば、周恩来のような人物がその中で現れてくれると良いのですが、今の日本では、橋下徹や、その劣化版である河村たかしのような大衆を煽動して、全体主義を蔓延させるような輩しか出てこないよう状況しか見えてきません。謙虚さ、人権や福祉を尊重するような指導者が現れると良いなと本当に思っております。
Commented by ブルー at 2012-01-11 21:03 x
政治家なんて どれも嘘つき いい加減

老若男女 全てが 政治不信の今日 筆者さんの いうとおりだと思います
権力者に いいようにされるのは ゴメンです
名前 :
URL :
※このブログはコメント承認制を適用しています。ブログの持ち主が承認するまでコメントは表示されません。
削除用パスワード 
昔のIndexに戻る ジジェクの『ポストモダンの共産... >>