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日蓮大聖人御書講義 十大部講義1 立正安国論 2


第三段 誹謗正法の由来を挙げ亡国を証す (0020-14~0021-16)
 第一章 仏法興隆をもって問難す (00204-01~0020-16)
 第二章 世人法の正邪を知らざるを喩す (0020-17~0021-01)
 第三章 仁王経等により悪侶を証す (0021-01~0021-05)
 第四章 法華経を引き悪侶を証す (0021-06~0021-11)
 第五章 涅槃経を引き悪侶を証す (0021-12~0021-16)
第四段 正法誹謗の元凶の所帰を明かす (0021-17~0024-04)
 第一章 正法誹謗の人・法を問う (0021-17~0022-01)
 第二章 法然の邪義撰択集を示す (0022-02~0023-03)
 第三章 法然の謗法を断ず (0023-04~0023-09)
 第四章 選択集の謗法を結す (0023-09~0024-04)
第五段 和漢の例を挙げて念仏亡国を示す (0024-05~0025-18)
 第一章 法然の邪義に執着するを示す (0024-05~0024-15)
 第二章 現証を以って法然の邪義を破す (0024-16~0025-05)
 第三章 中国における亡国の現証を挙ぐ (0025-05~0025-15)
 第四章 日本における亡国の現証を挙ぐ (0025-16~0025-18)
第六段 念仏禁止の勘状を奏否を明かす (0026-01~0026-12)
 第一章 法然の謗法を弁護す (0026-01~0026-03)
 第二章 仏法の衰微を歎ず (0026-04~0026-05)
 第三章 謗法訶責の精神を説く (0026-06~0026-08)
 第四章 法然等、上奏により流罪されるを示す (0026-09~0026-12)
第七段 布施を止めて謗法断絶を明かす (0026-13~0030-07)
 第一章 災難対治の方術を問う (0026-13~0026-18)
 第二章 国家安穏天下泰平の原理を説く (0027-01~0027-03)
 第三章 涅槃経を引き謗法訶責を説く (0027-04~0027-12)
 第四章 仙予国王の謗法断絶を示す (0027-13~0028-03)
 第五章 守護付属の文を挙ぐ (0028-04~0028-05)
 第六章 正法護持の方軌を示す (0028-06~0028-11)
 第七章 有徳王・覚徳比丘の先例 (0028-12~0029-11)
 第八章 念仏無間の文を挙ぐ (0029-12~0029-13)
 第九章 経証により謗法治罰を結す (0029-14~0029-17)
 第十章 国中の謗法を断ずべきを結す (0029-18~0030-07)

第三段 誹謗正法の由来を挙げ亡国を証すtop
第一章 仏法興隆をもって問難すtop

14   客色を作して曰く 後漢の明帝は金人の夢を悟つて白馬の教を得、 上宮太子は守屋の逆を誅して寺塔の構を成
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 す、 爾しより来た上一人より下万民に至るまで仏像を崇め経巻を専にす、然れば則ち叡山・南都・園城・東寺・四
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 海.一州.五畿.七道.仏経は星の如く羅なり堂宇雲の如く布けり、シュウ子の族は則ち鷲頭の月を観じ鶴勒の流は亦鶏
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 足の風を伝う、誰か一代の教を褊し三宝の跡を廃すと謂んや若し其の証有らば委しく其の故を聞かん。

 客は顔色を変えて言い返した
 中国・後漢の帝明は金人の夢を見、その意味を悟って仏法をインドから求め、わが国においては聖徳太子が仏教に反対する物部守屋の謀反を征伐して仏法を興隆し、寺塔を建立したのである。それより以来、上は天皇から下は万民に至るまで仏像を造立して崇め、経巻をひもとき読誦してきた。
 したがって比叡山・南都・園城・東寺をはじめとして四海・一州・五畿・七道の全国いたるところに仏法はくまなく伝播して、仏像・経巻は星のごとく連なり寺院は雲のようにたくさん建ち並んでいる。ゆえに舎利弗の流れを汲む人々はその観法を崇める立場を守り、あるいは付法蔵の二十三祖である鶴勒の流れを汲む者は、その教法を尊ぶ伝統を今日まで伝えている。しかるに釈尊一代の教えを破り汚し、仏法僧の三宝を廃し仏法が隠没してしまった等と誰がいえようか。もしこの証拠があるならば、詳しくその理由を聞きたいと思う。

講義
 この段では、たくさんの寺があり、数えきれないほど多くの僧侶があっても、正法を誹謗している。いわゆる邪宗教ばかりでは、けっして平和な社会、幸福な楽土を築くことはできない。のみならず、かえって災難が競い起こる旨を説かれているのである。
 まずはじめに、「
客色を作して曰く」とは、すでに前段で主人が四経の文を引き終わって、決して天下世上が諸仏衆経において捨離の心を生ずるというゆえに、客は顔色を変えて、そんなはずがないといって問難するのである。
 後漢の明帝の時を論ぜざれたのは、中国に仏法が渡ったことを示し、上宮太子の時を述べられたのは、日本における仏法流布を意味されたからである。すなわち、これ仏法東漸の歴史をの述べたものである。

仏教と神道の争い
 仏教が、わが国に伝来したのは、およそ1400年前であった。インドに発生し、釈尊によって説かれた仏教が、やがて中国、朝鮮を経由して、仏教有縁の国・日本に伝来したのである。
 仏教と神道が大きく争ったのは、この仏教伝来時と、明治維新の王政復古であったが、この両者とも、ほぼ100年足らずして仏教の勝利に終わり、神道も日本古来の神道として、あるべき位置におさまったことは、まことに不思議といわなければならない。
 わが国に仏教が伝来した年代については種々の説がある。最も一般にいわれているのは、日本書紀による第30代欽明天皇の13年である。百済国の聖明王が、その年の冬10月、西部の姫氏達率怒唎斯到契等を遣わし、釈迦仏の金銅像一躯、幡蓋若干、経論若干巻を献じたことが、日本書紀に記載されているからである。
 同じく日本書紀によれば、欽明天皇は、おおいに喜ばれて、その使者に「朕は古より此の如き微妙の法を聞かず、然れども朕自ら、之を決すること能わず」と仰せられて、群臣を集めて諮問せられ、仏教を奉ずべきかどうかを会議にかけられた。このとき、大臣蘇我稲目は仏教を信ずべきであると答え、物部大連尾興、中臣連鎌子は仏教を拝すべきでないと奏上した。欽明天皇は、仏教を蘇我稲目に賜わって、試みに礼拝しよと命じたのである。これが日本書紀に伝える仏法渡来の記録である。
 しかして仏教伝来の年について、学者には、なお異説がある。すなわち西暦538説がこれである。
 第一の根拠は、奈良時代の作である上宮聖徳法王帝説に、欽明天皇の御世戊午の年(05381012日、百済国聖明王が初めて仏像経教ならびに僧等を渡し奉ると記されている。これは欽明天皇の13年(0552)とは14年の差がある。(ただし戊午の年は、日本書紀では、宣化天皇の3年であり、欽明天皇の時代ではない)
 第二の根拠は、凝然の三国仏法伝通縁起に、宣化天皇即位3年歳次戊午年1212日に、百済国より仏法伝来とある。
 第三の根拠は、弘仁年間に伝教大師が比叡山に法華迹門の戒壇を建立することを奏請したのに対し、奈良の護命僧正が上奏して反対したが、そのなかに「欽明天皇歳次戊午、百済国、仏法を渡来し奉る」とある。これに対し伝教大師の反駁した顕戒論のなかには「天皇即位庚申、御宇正経32歳、謹案歳次歴都に戊午は無し、元興縁起は戊午歳を取りて已に実録に乖く」といわれている。
 しかして、伝教大師が顕戒論に引用した元興縁起は、正確には元興寺伽藍縁起流記資材帳といい、推古天皇21年の勅によって記されたものを本として記されたものである。この元興寺縁起のはじめに「斯帰島宮、天下治めす天国案春岐広庭天皇御世、蘇我大臣稲目弥仕奉時、天下冶めす7年、歳次戊午12月渡来、百済国聖明王時、太子像並びに、灌仏之器一具及び説仏起書巻一筺」と記されている。すなわち欽明天皇の7年に仏教伝来とある。これらの文献は、それぞれ多少の違いはあるが、ともに戊午の伝来をつたえている。最近の多くの史家は研究の結果、仏教伝来を、欽明天皇の7年、戊午の年(0538)説を唱えている。
 いずれにしても、これらの仏教伝来の年はあくまで公式に伝来した年であり、それ以前に、大陸との交通が開始されて以来、民衆主体の国民外交によって、あるいは帰化人等によって、仏教の信仰が逐次伝えられてきたことは、多くの記録によって明らかである。すなわち扶桑略記などに、継体天皇の16年春2月に、漢人の案部主、司馬達等が、大和国坂田原に草道を構え、仏像を安置し帰依礼拝したと記されている。
 このころから韓国は、百済・高句麗・新羅の三国が、半島の覇権をめぐって激しく抗争していた。百済は日本と組んで、北の高句麗、東の新羅の両国と対抗していた。仏教は当時百済において盛んであり、中国古典の学術や仏書の研究が寺塔の建立が興隆を示し、欽明天皇の6年(05459月には、聖明王の発願で、丈六の仏像を造り、願文を作り、同盟国、日本の太平と天皇の祝福を祈った。

蘇我氏と物部氏
 百済国の聖明王が仏像経論等を献じた時、欽明天皇は、群臣に仏教を奉ずべきかどうかを問われた。大臣蘇我稲目は、早速、西方の諸国がすべて仏教を礼拝していることをあげて、わが国も仏教を信奉ずべきであると奏上した。これに反して、物部大連尾興、中臣連鎌子は、わが国には古来神道があり、天下に王と拝すべきは百八十神であると主張し、仏教を排斥した。
 蘇我氏は竹内宿弥の後裔であり、大伴氏と共に進歩思想で、百済国と修交して、新文化を採用しようと務めていた。しかるに物部氏、中臣氏は、保守主義で、新文化を締め出そうとはかったのである。
 欽明天皇は、やむをえず、仏像を蘇我稲目に賜わり、試しみに礼拝するように命じた。蘇我稲目は、小懇田に仏像を安置し、さらに向原の宮殿を寺院とした。これが後の向原寺である。その後、一年を経て、疫病が流行した。神道を奉ずる物部氏、中臣氏は、これを幸いと「他国の神を礼する罰である」として圧迫を加え、はじめは、神道が優勢であった。これ仏法に対する第一回の迫害である。
 その後、30余年、仏教を信奉し続けた蘇我稲目は、用明天皇、推古天皇に対し、いかなることがあっても仏法を捨ててはならぬと懇願し遺言した。しかし蘇我稲目が死去するや、その翌年には、物部氏らは仏教の堂舎や靴像を焼いて難波の堀江に流した。これ仏法に対する第二回の迫害である。
 その後、敏達天皇の11年(0582)に、向原寺は桜井に移され、桜井道場となった。仏法伝来に功あった司馬達等の女、島女等の三人は出家して、日本最初の尼となった。敏達天皇は仏法を嫌って再び圧迫し、大臣蘇我馬子などの仏教信奉者の家の仏像や堂塔を破却し、三人の尼も追い出した。これ仏法に対する第三回の迫害である。
 用明天皇が即位されるや、蘇我稲目の遺言で仏法を信奉していたゆえに、ようやく仏法は明るさを取り戻した。蘇我馬子は後の聖徳太子、厩戸皇子とはかって、勅許をえて、三人の尼を呼び桜井道場を復活し、さらに豊浦寺をつくった。これらは後に元興寺となった。かくて、わが国の仏法は、はじめは、神道派に圧迫されたが、用明天皇、推古天皇および用明天皇の皇子である聖徳太子の保護によって、やがて興隆に向かった。
 用明天皇の崩御ののち、蘇我馬子は、聖徳太子、泊瀬部皇子、竹田皇子等と共に、物部守屋を討って滅ぼした。泊瀬部皇子は即位し崇峻天皇となり、蘇我馬子は大臣としての地位を固め、聖徳太子と組んで、日本の新文化を築くこととなる。
 徳に聖徳太子は、第34代推古天皇の摂政として、おおいに仏法を興隆した。みずから法華経を講じ、法華経等の義疏を著わし、仏教の精神を根本とした十七条の憲法を制定し、国家統一の指導原理とした。聖徳太子の建立した寺院は四天王寺、法隆寺はじめ7ヵ寺といわれ、小野妹子をはじめ遣隋使を中国に派遣し、仏法とともに、多くの大陸文化を日本にもたらしたのである。
 かくして、聖徳太子の時代になると、仏教と神道の争いも、ついに仏教の勝利に終わり、蘇我氏、物部氏等の争いを経た後、仏法は立派に興隆、確立された。
 日蓮大聖人は以上の経過について、四条金吾殿御返事に次のごとく述べられている。
 「此の国に仏法わたりし由来をたづぬれば天神七代・地神五代すぎて人王の代となりて第一神武天皇・乃至第三十代欽明天皇と申せし王をはしき、位につかせ給いて三十二年治世し給いしに第十三年壬申十月十三日辛酉に 此の国より西に百済国と申す州あり日本国の大王の御知行の国なり、其の国の大王・聖明王と申せし国王あり、年貢を日本国にまいらせし・ついでに金銅の釈迦仏・並に一切経・法師・尼等をわたし・たりしかば天皇大に喜びて群臣に仰せて西蕃の仏を・あがめ奉るべしや・いなや、蘇我の大臣いなめの宿禰と申せし人の云く西蕃の諸国みな此れを礼す・とよあきやまとあに独り背やと申す、 物部の大むらじをこし中臣のかまこ等奏して曰く我が国家・天下に君たる人は・つねに天地しやそく百八十神を春夏秋冬に・さいはいするを事とす、しかるを今更あらためて西蕃の神を拝せばおそらくは我が国の神いかりをなさんと云云、爾の時に天皇わかちがたくして勅宣す、此の事を只心みに蘇我の大臣につけて一人にあがめさすべし、他人用いる事なかれ、蘇我の大臣うけ取りて大に悦び給いて此の釈迦仏を我が居住のおはたと申すところに入まいらせて安置せり、物部の大連・不思議なりとて・いきどを程に日本国に大疫病おこりて死せる者・大半に及ぶ・すでに国民尽きぬべかりしかば、物部の大連・隙を得て此の仏を失うべきよし申せしかば勅宣なる、早く他国の仏法を棄つべし云云、物部の大連・御使として仏をば取りて炭をもつてをこし・つちをもつて打ちくだき・仏殿をば火をかけて・やきはらひ僧尼をば・むちをくわう、其の時天に雲なくして大風ふき・雨ふり、内裏天火にやけあがつて大王並に物部の大連・蘇我の臣・三人共に疫病あり・きるがごとく・やくがごとし、大連は終に寿絶えぬ・蘇我と王とは・からくして蘇生す、而れども仏法を用ゆることなくして十九年すぎぬ。
 第三十一代の敏達天皇は欽明第二の太子・治十四年なり左右の両臣は一は物部の大連が子にて弓削の守屋・父のあとをついで大連に任ず蘇我の宿禰の子は蘇我の馬子と云云、此の王の御代に聖徳太子生給へり・用明の御子・敏達のをいなり御年二歳の二月・東に向つて無名の指を開いて南無仏と唱へ給へば御舎利・掌にあり、是れ日本国の釈迦念仏の始めなり、太子八歳なりしに八歳の太子云く「西国の聖人・釈迦牟尼仏の遺像末世に之を尊めば則ち禍を銷し・福を蒙る・之を蔑れば則ち災を招き寿を縮む」等云云、大連物部の弓削・宿禰の守屋等いかりて云く「蘇我は勅宣を背きて他国の神を礼す」等云云、又疫病未だ息まず人民すでにたえぬべし、弓削守屋又此れを間奏す云云、勅宣に云く「蘇我の馬子仏法を興行す宜く仏法を卻ぞくべし」等云云、此に守屋中臣の臣勝海大連等両臣と、寺に向つて堂塔を切たうし仏像を・やきやぶり、寺には火をはなち僧尼の袈裟をはぎ笞をもつてせむ・又天皇並に守屋馬子等疫病す、其の言に云く「焼くがごとし・きるがごとし」又瘡をこる・はうそうといふ、馬子歎いて云く「尚三宝を仰がん」と・勅宣に云く「汝独り行え但し余人を断てよ」等云云、馬子欣悦し精舎を造りて三宝を崇めぬ。
 天皇は終八月十五日・崩御云云、此の年は太子は十四なり第三十二代・用明天皇の治二年・欽明の太子・聖徳太子の父なり、治二年丁未四月に天皇疫病あり、皇勅して云く「三宝に帰せんと欲す」云云、蘇我の大臣詔に随う可しとて遂に法師を引いて内裏に入る豊国の法師是なり、物部の守屋・大連等・大に瞋り横に睨んで云く天皇を厭魅すと終に皇隠れさせ給う・五月に物部の守屋が一族・渋河の家にひきこもり多勢をあつめぬ、太子と馬子と押し寄せてたたかう、五月・六月・七月の間に四箇度・合戦す、三度は太子まけ給ふ第四度めに太子・願を立てて云く「釈迦如来の御舎利の塔を立て四天王寺を建立せん」と・馬子願て云く「百済より渡す所の釈迦仏を寺を立てて崇重すべし」と云云、弓削なのつて云く「此れは我が放つ矢にはあらず我が先祖崇重の府都の大明神の放ち給ふ矢なり」と、此の矢はるかに飛んで太子の鎧に中る、太子なのる「此は我が放つ矢にはあらず四天王の放ち給う矢なり」とて迹見の赤梼と申す舎人に・いさせ給へば矢はるかに飛んで守屋が胸に中りぬ、はだのかはかつをちあひて頚をとる、此の合戦は用明崩御・崇峻未だ位に即き給わざる其の中間なり。
 第三十三・崇峻天皇・位につき給う、太子は四天王寺を建立す此れ釈迦如来の御舎利なり、馬子は元興寺と申す寺を建立して百済国よりわたりて候いし教主釈尊を崇重す、今の代に世間第一の不思議は善光寺の阿弥陀如来という誑惑これなり、又釈迦仏にあだを・なせしゆへに三代の天皇・並に物部の一族むなしく・なりしなり又太子・教主釈尊の像・一体つくらせ給いて元興寺に居せしむ今の橘寺の御本尊これなり、此れこそ日本国に釈迦仏つくりしはじめなれ。」(116506116714

幕末維新の排仏毀釈
 次に、仏教が神道によって激しく圧迫されたのは、江戸時代から明治維新にかけてであり、それが陰に陽に、第二次世界大戦まで続いた。
 仏教は江戸時代末期になると、徳川幕府の保護政策によって惰眠をむさぼり、まったく堕落の極に達した。江戸時代に排仏論を唱えた主な儒学者は、藤原惺窩より藤田東湖に至るまで、およそ40人を数えた。また国学者は、白井宗因などの12人、大名では徳川斉昭ら9人を数えた。
 特に国学者、神道家の排仏論は、いたずらに浅薄な感情論にすぎなかった。平田篤胤などは、仏教に対して悪罵の限りを尽くし、出定笑語などをあらわした。排仏論では僧侶の腐敗堕落を論じたものが、最も多かった。
 明治維新になると、さらに仏教排撃の性格が一変した。王政復古を遂げた明治政府は、天皇主権を強める必要上、天皇を神格化し、排仏毀釈の声は高まった。明治の欽定憲法は第一条に「天皇ハ神聖二シテ侵スヘカラス」と条文化して、天皇を神として、古来の神道に結びつけた。
 明治憲法には、近代国家としての対面を保つため、先進国の憲法に習って、信仰の自由を条文化する必要もあった。そして、神道のみを特に保護し、他の宗教を弾圧する必要もあった。かくて生まれた明治憲法の条文は「火本国民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信仰ノ自由ヲ有ス」というものであった。事実これによって信教の自由は明白に束縛され続けることになった。
 すなわち、明治憲法によって、一応は、江戸時代のキリスト教禁圧や、封建的なさまざまの宗教政策が撤廃され、弾圧の歴史も、ひとまず終焉となった。しかし、一方、政府は神道のみに特別な保護政策をとり、神道はしだいに国家的地位を確立していき、地方、仏教は王政復古の際の排仏毀釈の打撃から立ち直ったものの、だんだんに神道の前に屈服していったのである。
 特に、第二次世界大戦の軍部政府の時代に入ると、神社参拝は、国家的な強制を帯び、仏教のなかにも、田中智学を中心とする国家社会のごときは、あえなく神道に屈服し、完全に神道宣揚の徒となり下がった。政府は、この機に乗じて宗教団体法を制定して、いっさいの宗教を、大日本帝国の国民的支柱である神道のもとに強制的に結合させるという暴挙に出た。
 この時、断固として日蓮大聖人の大仏法を守り抜き、憲法の信教の自由の精神を貫いたのが、初代牧口会長であり、恩師戸田前会長であった。第二次世界大戦の終了と共に、神がかり的な宗教政策は一掃され、今日みられるごとく、真実の信教の自由が、平和憲法によって保障され、神道は国家の保護から解かれることになった。かくて、明治初期以来の神道による仏教の圧迫は、名実ともになくなり、仏教は勝利をおさめたのである。
 今や東洋仏法の真髄、日蓮大聖人の大仏法は、西方を、否、全世界を照らす太陽の仏法として、弘宣流布すべき時を迎えた。はじめにのべたように、仏法が日本に伝来したのは、インドより中国、中国より朝鮮、朝鮮より日本へという経済を経た結果である。ゆえに、この歴史的事実から、今日、日蓮大聖人の大仏法は、御本仏の予言のままに、日本から朝鮮へ、さらに中国へインドへと流布されるべき使命があると、吾人は強く訴えたい。そして、特に第二次世界大戦中に迷惑をかけたアジア民族に、幸福と平和を約束する最高の大乗仏教をお返しする時が来たことを強く叫ばざるをえない。

真実の仏法の存在
 「爾しより来た」以下は、日本の人々が仏教を尊重している。すなわち、仏教が国内に弘まっている状況を示し、「然れば即ち」以下は、国内に寺があり、仏教を信ずる者多きことを示している。
 次に日寛上人の安国論文段には「鶖子の族」等は通じて諸宗の磧徳をあげているとい、鶖子の族等は観を明かし、鶴勒の類は教を明かし、すなわち教観二門を明かすとしている。ゆえに第二章には「法師は諂曲にして」というのは、通じて諸宗をさすことをいうべきである。「鶖子の族」以下は、各宗派が盛んであることを説いて、日本は一国全体に仏教なきがごとく論じたのを弁駁しているのである。
 この考え方は、現代においてもまったく変わらない。各町村に寺があり僧侶があり、彼岸といい、お盆といい、寺に詣でる者も多く、日本は、今もなお、仏教興隆の国のように見える。しかるにその実情は、仏法の形骸のみであって、そこには真の仏法はない。このことを次の段において述べられているのである。

仏法東漸の歴史
 
ひるがえって、仏法発祥の国インドに仏法があるであろうか。また、仏法がかった流布した、中国、ビルマ、朝鮮に仏法があるであろうか。いまなお寺院があり、僧侶もいるかもしれぬ。だが、これらの国にまったく仏教なきことは明らかである。
 インドには、もはやまったく仏法の精神なく、ただヒンズー教の低級な教義、またカースト制度の極端な形式主義が横溢し、民衆の心をかたくしばりつけているではないか。中国においても、唐末に武宗皇帝が、仏教を破壊して以来、まったく仏法はなくなってしまっている。今ある寺院も、ことごとく形式化したものであり、民衆は儒教の事大主義、封建制に閉ざされて、今日に至っている。朝鮮に仏教なきことは、すでに論じたところである。
 また、ビルマ、ベトナム、タイ、カンボジア等の東南アジアの国々にも、寺院あり、僧ありで、あたかも仏教国のごとき観を呈しているが、ただ小乗教の形骸を守っているにすぎないのである。小乗教の戒律主義、人間性を無視した実践法、さらに現実否定よりくる怠惰とあきらめの風潮が、いかに民衆を毒してきたか、測り知れぬものがある。ここに、これらの国が、西欧列強にふみにじられる内部的原因をつくってしまった。
 されば、日蓮大聖人は、日本以外に仏法なきことを、顕仏未来記に、次のごとく仰せられている。
 「疑つて云く如来の未来記汝に相当れり、但し五天竺並びに漢土等にも法華経の行者之有るか如何、答えて云く四天下の中に全く二の日無し四海の内豈両主有らんや、疑つて云く何を以て汝之を知る、答えて云く月は西より出でて東を照し日は東より出でて西を照す仏法も又以て是くの如し正像には西より東に向い末法には東より西に往く、妙楽大師の云く「豈中国に法を失いて之を四維に求むるに非ずや」等云云、天竺に仏法無き証文なり漢土に於て高宗皇帝の時北狄東京を領して今に一百五十余年仏法王法共に尽き了んぬ、漢土の大蔵の中に小乗経は一向之れ無く大乗経は多分之を失す、日本より寂照等少少之を渡す然りと雖も伝持の人無れば猶木石の衣鉢を帯持せるが如し、故に遵式の云く「始西より伝う猶月の生ずるが如し今復東より返る 猶日の昇るが如し」等云云、此等の釈の如くんば天竺漢土に於て仏法を失せること勿論なり」(050801
 ここに、インドを発祥し、中国、朝鮮、日本と東漸してきた仏法は、つぎつぎと渡った国で栄え、インド、中国、朝鮮、その他の国々では、仏法の精神が失われ、最後の日本の国にとどまり、ここに開花し、特に奈良、平安初期の輝かしき仏教文化の興隆をみたのである。以来、日本以外に仏法なく、他の国々は、その後、仏法は長く埋没し、まったく閉ざされてしまったのである。
 だが、この日本の国においても、平安末期より、仏法は、まったく形骸化し、経文に「白法隠没」とあるごとく、釈迦仏法はことごとくその力を失ってしまった。だが、当時の民衆は、釈迦仏法に力なきことを知らず、いまだ尊重の念を廃せず、むなしい祈りをささげていた。各宗派は、競って大伽藍を構え、僧侶は、わが世の春を謳歌していた。だがその実体はまったくなく、仏法それ自体の力はなく、ただ世欲的な権威と結託し、民衆のうえに君臨していたにすぎなかったのである。その証拠は今日、厳然とあらわれた。当時盛んであった、真言、禅、念仏、律、天台宗等は、今は、まったく見るも無残な醜状を呈しているではないか。大聖人時代、まさに日の出る勢いであった建長寺、極楽寺、寿福寺、浄光明寺、多宝寺、長楽寺等、十一通御書に認められている寺院は、今やすっかり落ちぶれ、見る影もないのである。世欲的な権威と利害で結びついた寺院は、その政治権力の没落とともに、自身同じ運命をたどっていった。
 だが、大聖人の「仏法まったく地におちたり」との叫びは、僧侶が尊重され、大伽藍の目を奪っていた当時には、理解されなかった。この客人の「誰か一代の教を褊し三宝の跡を廃すと謂んや若し其の証有らば委しく其の故を聞かん」との質問は、当時の一般民衆の心をあらわしてあまりなきものがある。

楽土建設への前進
 今日、既成宗教は、まったく頽廃の極に達している。だが、民衆の事大主義は相変わらず根強い。そのうえ先祖崇拝または尊重の念も強く、また昔からの根強い習慣が残っている。また、死に対する恐怖は万人共通である。ここに既成宗教は、必死にしがみつき、取り入り、細々ながら余命を保っているにすぎない。
 それは、今日、創価学会の折伏によって、信者の数の減るのを必死に食い止めようとはかった既成仏教の各寺院が、いかなる挙に出たかによって、ますます明瞭である。彼らは埋葬拒否という悪辣な手段を講じた。これは昭和32年ごろから激しくなり、その後数年間にわたって続けられた。これこそ、彼らの宗教が、まったく堕落しきった証拠であり、民衆の弱味につけこみ、必死に余命を保たんとしながら、はかなく没落しゆくものであり、かつ日蓮大聖人の御金言の正しき証拠である。
 かくして、釈迦仏法が、まったく隠没し去ったことは、経文に照らし、仏法の方軌に照らし、さらになによりも末法にはいって今日にいたるまでの数百年の事実に照らし、火をみるよりも瞭々として明らかである。
 今日における仏法の真髄は、まさしく700年前に、この日本に建立された、日蓮大聖人の大仏法しかないのである。だが、既成の権威の壁は厚く、700年もの間、この大正法が日本にありながら、無智のゆえに、隠没されてしまった。
 しかしながら、今日、敗戦というきびしき現実を経験して以来、民衆の眼は徐々に開かれ始めた。既成の権威にとらわれず、新しい力を求めるにいたった。これらの人々は、勇を鼓し、自分の既成概念と戦い、幾多の障壁を打ち破って創価学会に入り、日蓮大聖人の仏法を信仰しはじめたのである。それはまさに時の流れであった。
 だが、忘れてならぬことは、いかなる時代においても、また洋の東西を問わず、燦然と輝く、新しき世紀、新しき時代、新しき文化を築くのは、民族のたくましき息吹、その世紀、時代、文化を渇仰する芽ばえであるとともに、それを推進し、戦い抜く、力強き指導者、実践者によってなされるという厳粛な事実である。
 その指導者の存在なくば、いかなる時代の潮流をも生み出すことはできない。また、誤れる指導者によれば、新しい息吹も熱も力も、誤れる方向に向けられ、民衆をして戦乱の巷に追いやり、業火に身を焼かしめ、ついには破滅に向かわしめるのである。しかして、創価学会の進む、新しき世紀、新しき時代、新しき文化は、民衆が生命の奥底より要求してやまぬ。絶対的な幸福、真実の恒久平和の世界である。これを身をもって示されたのが、戸田前会長であった。
 今日、創価学会の怒涛のごとき前進は、もはや、いかなる魔王、魔民たりとも食い止めることはできない。これあたかも、渓谷の水が一挙に大河にはいったごとく、暖められたワラの中の火が、一時に燃え上がるが如く民家の中に閉ざされていた、内奥の清浄なる生命が、その智慧と勇気と力とが、ほとばしり出て、新世紀を、新文化を築きゆく姿でなくして、なんであろう。
 ついに、日本に、太陽がのぼった。これからは仏法西漸の歴史がつづられるのだ。時あたかも、東洋は、大動乱の巷にあり、世界は行き詰まってきている。日本より、東洋へそして全世界へと、大正法が広宣流布しゆく前兆ではないか。東洋は、全世界は、日本の行く手に刮目している。日本に期待するところは絶大である。ジョージ・サートンいわく「東と西との律動を記憶せよ。すでに幾度かわれわれの霊感は東から来た。それが再び来ないという理由がどこにあろうか。恐らく偉大なる思想は今後もなお東からわれわれに達するであろう。われわれは、それを迎える心の準備をしておかなければならない」「新しい霊感は依然東洋から来るかもしれない。いな、なお来ている。これを自覚すれば、われわれは一層賢明となるであろう」と。
 アインシュタインいわく「今日の社会は、あまりにも科学が発達しすぎた。いまこれを使いこなす精神文明が発達しなくてはならない。それを私は東洋に期待する」と。
 では、彼らが期待するものは、現代の動乱と殺戮と無智のうずまく東洋であろうか。否、真実に偉大なる思想によって潤された新しき東洋であり、なかんずくそれをリードする未来の楽土日本であり、それを築くのは、大正法を持てるわれらしかないことを、世界に向かって宣言するものである。

第二章 世人法の正邪知らざるを喩すtop

18   主人喩して曰く仏閣甍を連ね経蔵軒を並べ 僧は竹葦の如く侶は稲麻に似たり崇重年旧り尊貴日に新たなり、但
0021top
01 し法師は諂曲にして 人倫を迷惑し王臣は不覚にして 邪正を弁ずること無し、

 主人は喩して言った。たしかにたくさんの寺院が棟を連ね経蔵も軒を並べていたるところに建っている。また僧侶も竹葦稲麻のごとくたくさんいる。それらの寺院や僧侶を一般民衆が崇重するようになってすでに久しく、しかもこれを尊ぶ民衆の信心の誠は日に日に新たである。しかしながら現在、国中にある一切の僧侶は心がひねくれてへつらう心が強く、一切大衆をしてふみ行うべき道を迷わしめている。国王はじめ臣下万民は無知のため、法の正邪をわきまえていないのである。

講義
 
現在の日本に仏教があるかないか。この点で主人と客の見解が食い違っている。
 客は仏教が伝来して以来数百年にわたり、多くの名僧が出現し、多数の寺院が建立さて、天皇・将軍をはじめ万民が、これを信仰しているのではないか。にもかかわらず、どうしてこの日本の国に仏法がないとうのかと、反問するのである。
 これに対し、主人は、そのように万人が信仰している宗派が、みな悉く邪宗邪義であり、今末法の時に適い、末法の機根に応じた正法が、まったく捨て去られている。しかも王臣ともに愚かで、無智で、仏法の邪正を見分けることができないから、ますます邪宗邪義が栄えているのだと喩されている。
 この主客の考え方の、根本的な違いは、客が、形式主義にとらわれているのに対し、主人は、実質を論じ、権威主義、形式主義を排し、仏法の邪正・高低・浅深という、問題の核心にふれていくのである。
 700年前より今日にいたるも、一貫して変わらないことは、人々は宗教を論ずるあまりに形式にとらわれ、宗教と名のつく者はみな善知識だと決めてかかって、宗教の邪正・高低・浅深にきわめて無頓着なことである。これが邪宗教の跋扈を許す根本原因である。
 この権威主義、形式主義にとらわれて、実質を見失うのは、人間の弱点である。かって、西洋においても、キリスト教会の「宗教的ドグマ」「教会の権威」は、未知の世界を知りたいという人間の自然の心の発露を巨大な圧力で押しつぶし、権威と形式でしばりつけたいまわしい歴史である。
 また、日本においても、戦時中の、あの神道思想への、一国あげての傾注は、思えば、愚かしい、狂気の沙汰であった。神道思想の善悪、是非を論ずることを許さず、権威と巨大な軍部の圧力が、民衆のうえに重々しくのしかかった。人々は神主は尊いもの、陸海軍の大将は立派な人物と決めて疑うことを知らなかったのである。
 しかも、それらの底流をみるときに、権威主義、形式主義は、民衆の生命の奥深くに根ざしていたのである。既成の権威のなかに閉ざされ、同調し、流されていく無気力と無智、そして自己保身に汲々となり、長いものにまかれろ式の事大主義、これらの風潮が、政治面においては、やがて、これに君臨する巨大な独裁権力を生むのである。宗教界においては、政治権力と利害で結びついた邪宗邪義が横行させ、それにより民衆の生命は、根底よりむしばまれてしまうのである。
 今日、われわれが折伏に行くと、いかに民衆の生命のなかに、これらの風潮が残存しているかが知らされるのである。
 ことに、自分の信仰している宗教が、邪宗教であると知らされるや、「先祖の宗教をけなすとはとんでもない」といって、烈火のごとくおこりだすなど、その典型である。自分の既存の知識、自分の既存の権威にしがみつき、必死に抵抗しようとする哀れな姿ではないか。
 日蓮大聖人は、こうした我慢偏執を捨て、真に宗教の正邪・善悪を検討することを教えられている。しかして、その実質を論ずれば、真実の仏法はまったく隠没し去り、仏法の形骸のみ残存していることが明らかになると、論じられているのである。
 ここに「但し法師は諂曲にして人倫を迷惑し」とは、当時の一般の僧のみならず、名僧・高僧とうたわれた極楽寺良観、建長寺道隆の本質をえぐられたものであり、「王臣は不覚にして邪正を弁ずること無し」とは、鎌倉幕府に真正面から切り込み、その愚迷を諌言された言葉である。まことに、一句のなかに、権威を恐れず、民衆のためを思い、ただ一人決然と戦われる雄姿を見るではないか。
 創価学会もんまた同様である。いかなる権威に迎合する必要もない。ただ真実を叫び、三類の強敵のアラシと戦ってきた輝かしき歴史が、今日の創価学会を築いている。これからも同じ道を進むのである。日本民族の幸福のため、世界の幸福のために、正々堂々と戦いの駒を進めていくのである。これこそ、最も強く、栄光ある大道ではないか。

第三章 仁王経等により悪侶を証すtop

01                                      仁王経に云く「諸の悪比丘多く名
02
 利を求め国王・太子・王子の前に於て自ら破仏法の因縁・破国の因縁を説かん、 其の王別えずして此の語を信聴し
03
 横に法制を作つて仏戒に依らず是を破仏・破国の因縁と為す」已上。
04
   涅槃経に云く「菩薩悪象等に於ては心に恐怖すること無かれ悪知識に於ては怖畏の心を生ぜよ・悪象の為に殺さ
05
 れては三趣に至らず悪友の為に殺されては必ず三趣に至る」已上。

 仁王経には「諸の悪い僧侶が多く名誉や利益を求めて国王・太子・王子などの権力者の前で、自ら仏法を破る因縁・国を破る因縁を説くであろう。その王はそれらの説かれた因縁をわきまえることができなくてその言葉を信じ、道理にすれた自分勝手の法制を作って仏戒によらない。これを破仏・破国の因縁となすのである」とある。
 涅槃経には「菩薩たちよ、狂暴な悪象等に対してはなんら恐れることはない。正法を信じていこうとする人の心を迷わす悪知識に対しては恐れなければならない。その理由は悪象に殺されても三悪道におちることはないが、悪友に殺されては必ず三悪道におちるからである」とある。

講義
 
一個人、一家庭を不幸におとしいれるのは邪宗教であり、邪義である。さらに一国を滅亡に導くもの、ほかならぬ邪宗教であることを示された御文である。この御文こそ、大聖人御在世当時にまったく符合しており、今日もその動きが見え始めている。二度と同じ轍を踏まぬためにも当時の状況をみておきたい。
極楽寺良観と国家権力の結託
 日蓮大聖人の時代において、大聖人を陰に陽に迫害しつづけた元凶は、極楽寺良観という人物であった。
 彼の師匠は、奈良西大寺の叡尊であった。叡尊は、もと真言僧であったが、律宗の復興に没頭し、橋をかけたり、貧乏人・病人を救済する等の慈善事業で、行基菩薩の再来とあがめられた。その弟子・忍性は、関東へ来て、律宗をひろめ始めた。彼は、巧みに幕府の要路者に取り入り、徐々に基盤を固めていったのである。
 ここに、北条重時という人物がいた。重時は、前の連暑で、執権長時の父であったが、法然門下の証空の弟子、修観に帰依して入道していた。彼は、鎌倉深沢にあった極楽寺という寺に別荘を構え、極楽寺入道と称していた。彼の存在は、念仏者が幕府の権力と結ぶうえに、まことに好都合であった。
 また、立正安国論の書かれたちょうどその年、やはり北条一門の北条実時が、武蔵国金沢に、やはり念仏寺院である称名寺を建てた。これは今も金沢文庫で知られているが、このように念仏は、幕府の周辺に強大な勢力を占めていた。日蓮大聖人が立正安国論を著わし、念仏宗を「此の一凶」と断じたのも、まさに念仏宗と権力者の緊密な結託があり、亡国の道を歩んでいたからである。
 時頼は、これを完全に黙殺して、なんの反応もしなかった。それどころか、一か月ほどのちに日蓮大聖人の破折に、腹を立て興奮した念仏者たちは、闇夜にまぎれて大挙して松葉ヶ谷の草庵を襲撃し、放火乱入して斬りかかってきた。日蓮大聖人は、難をのがれて、一時下総の富木五郎胤継の宅に身を寄せられた。
 だが、日蓮大聖人の破折は、さらに強く、きびしく続けられた。いよいよ腹を立てた念仏者たちは、告訴し、大聖人は、ついに伊豆に流罪されたのである。
 この松葉ヶ谷の焼き打ち、伊豆への流罪の黒幕であり、張本人であったのは、ほかならぬ極楽寺良観であった。自身尊敬していた法然の実態が究明され、選択集の邪義を破折されたがゆえに、なにかにとりつかれたように、大聖人の迫害に狂奔したのであった。
 良観が、最も取り入ったのは、寺地の選定に参画したことをもって、その背景がわかるではないか。そして、その翌々年、北条重時が死ぬとその葬儀の導師となり、ついに鎌倉に居を移し、さらに権力者に取り入ることに専念し、その看板に慈善事業を掲げたのであった。
 彼は、まず、奈良から、当時有名であった師の叡尊を招く運動を起し、ついにそれに成功した。あたかも、今日、宗教屋が有名人を招いて、自宗の宣伝に努めるごときものであった。ために重時の子・業時はもちろん、時頼も、彼の奸智にたけた宣伝に傾倒し、まもなく、良観は時頼の招請を受けるようになった。これらは、大聖人が、伊豆へ流罪されていた間の出来事であった。
 文永4年(1267)良観はついに鎌倉に入って極楽寺に住し、極楽寺良観と称されるにいたった。金沢の称名寺にも良観の息のかかった審海がはいった。さらに、これに前後して、良観は、多宝寺の長老のほか、数ヵ寺の別当になった。
 彼の慈善事業は、自分が二百五十戒を堅くたもった聖者であると見せかける、売名的な行為であった。また、幕府に取り入らんがための手段であり、その本質は、名声欲、権勢欲にかられたものであった。しかも、彼の慈善事業の背景には、幾多の民衆の嘆きがあった。
 聖愚問答抄にいわく「我伝え聞く上古の持律の聖者の振舞は殺を言い収を言うには知浄の語有り行雲廻雪には死屍の想を作す而るに今の律僧の振舞を見るに布絹・財宝をたくはへ利銭・借請を業とす教行既に相違せり誰か是を信受せん、次に道を作り橋を渡す事還つて人の歎きなり、飯嶋の津にて六浦の関米を取る諸人の歎き是れ多し諸国七道の木戸・是も旅人のわづらい只此の事に在り眼前の事なり汝見ざるや否や」(047612)と。
 飯嶋の津とは、鎌倉の東南の端、材木座海岸の東南、三浦半島のつけ根のところに突き出しているのが、飯島崎で、その内側を海岸という。ここで良観は通行税を取り、その金で、慈善事業を行ったり、橋をかけたりしていたが、そのために多くの人たちが苦しんだのであった。これで良観が、もはや、自分で税を取るような権限があったことがわかるとともに、多くの人の犠牲のうえに、売名的な慈善行為がなされていたことが明らかである。

慈善事業という名の売名行為
 
余談になるが、慈善事業が、他の多くの人々の犠牲をともなったことは、殺生禁断の場合にもあらわれている。寛元2年(1244)大和の一荘官、結崎十郎入道が、叡尊に説法を請うために、その所領四郷の殺生禁断を誓ったために、どんなに荘民の生活が圧迫されたか測り知れない。文永10年(1273)北条実時が金沢郷六浦荘戸堤の内の入江にいける殺生を禁断したが、これも六浦一帯の漁民の生業を奪い、塗炭の苦しみにおとしいれた。さらに弘安4年(1281)多田院供養に先立ち、別当良観の計らいにより、幕命をもって本堂四方十町の殺生が禁断されたが、これが多田荘の住民の生業を奪い、大きな苦痛をもたらした。あまりの苦痛に耐えかねて、それに違反する者が多いので、その後再三にわたり厳命するという愚劣な挙に出たのであった。しかも、多田院の伽藍がだんだん修造され荘厳を加えたが、そのために、年々の荘役の加重に、どんなに人々は苦しんだことか。さらに慈善事業自体も、当時、餓死戦上にあった民衆を本源的に救済しうるものではなく、たえず争いのタネとなっていった。すなわち、当時の最底辺の人々たちは、施主に対して施物を強制するのが当然となり、はては非人宿同士の競争がこうじて、たえず争乱が繰り広げられた。
 所詮、慈善事業は、小善にすぎない。民衆を本源的に幸福にする道に叛逆し、自己の売名のために小善をなせば、かえってそれは大悪である。民衆の貧欲をそそり、はては三悪・四悪の世界をかもし出し、ついには奈落の底につきおとしてしまうのである。しかも、その資金を得るために、他の人々の犠牲を強要するにいたっては、慈善にあらずして、我利我利亡者の偽善にすぎぬではないか。今のキリスト教の各事業はこの観点から見直されるべきである。
 だが、当時の人々は、良観の正体がわからなかった。名声はとみにのぼり、幕府の権力者は、良観を厚く重んじた。
 日蓮大聖人は、この良観こそ、権力者にこびへつらい、権力と結託し、民衆を嘆きのどん底に追いやる元凶なることを喝破され、生き仏のごとく、六通の羅漢のごとく尊崇されていた良観に対し、断固破折を加えられた。
 文永5年、閏正月18日、蒙古国より「速く通好の使いを送り来れ、然らば兵を用いん」という牒書が幕府に到着した。大聖人の予言はいよいよ事実となった。実に立正安国論の上書より九年目のことであった。
 しかし、幕府は、大聖人の教えをなんら用いようとしなかった。そこで、大聖人は、45日、法鑒房に「安国論御勘由来」を、さらに821日、11ヵ所に痛烈な諌状と破折の書状を送り、公場対決を迫られた。これが、いわゆる十一通御書である。
 時の執権北条時宗に対しては、立正安国論の予言が的中したことをあげて「日蓮は聖人の一分に当れり未萠を知るが故なり」(016902)と御確信を述べられ、「諌臣国に在れば則ち其の国正しく争子家に在れば則ち其の家直し、国家の安危は政道の直否に在り仏法の邪正は経文の明鏡に依る」(0170-01)と、熱誠あふれる諌言をされ、さらに「所詮は万祈を抛つて諸宗を御前に召し合せ仏法の邪正を決し給え、澗底の長松未だ知らざるは良匠の誤り闇中の錦衣を未だ見ざるは愚人の失なり」(017009)と、公場対決を叫ばれた。
 また、実際に国家の権限をことごとくにぎっていた平左衛門尉頼綱に対しては、同じく立正安国論の予言的中を述べ「然る間重ねて訴状を以て愁欝を発かんと欲す爰を以て諌旗を公前に飛ばし争戟を私後に立つ、併ながら 貴殿は一天の屋梁為り万民の手足為り争でか此の国滅亡の事を歎かざらんや慎まざらんや、早く須く退治を加えて謗法の咎を制すべし」(017102)と諌言し「御式目を見るに非拠を制止すること分明なり、争でか日蓮が愁訴に於ては御叙い無らん豈御起請の文を破るに非ずや」(017108)と、幕府の理不尽な態度を指摘し、さらに、同じく公場対決せよと呼号なされている。

良観に対する大聖人の破折
 このように、幕府の要路者への、至誠の諌言をなされるとともに、当時の宗教界に君臨する、極楽寺良観、建長寺道隆等に対しては完膚なきまでに破折を加えられ、正々堂々と公場対決を申し込まれた。良観に対する書状を次に示そう。
 「西戎大蒙古国簡牒の事に就て鎌倉殿其の外へ書状を進ぜしめ候、日蓮去る文応元年の比勘え申せし立正安国論の如く毫末計りも之に相違せず候、此の事如何、長老忍性速かに嘲哢の心を翻えし早く日蓮房に帰せしめ給え、 若し然らずんば人間を軽賎する者・白衣の与に法を説くの失脱れ難きか、依法不依人とは如来の金言なり、良観聖人の住処を法華経に説て云く「或は阿練若に有り納衣にして空閑に在り」と、阿練若は無事と翻ず争か日蓮を讒奏するの条住処と相違せり併ながら三学に似たる矯賊の聖人なり、僣聖増上慢にして今生は国賊・来世は那落に堕在せんこと必定なり、聊かも先非を悔いなば日蓮に帰す可し、此の趣き鎌倉殿を始め奉り建長寺等其の外へ披露せしめ候、所詮本意を遂げんと欲せば対決に如かず、即ち三蔵浅近の法を以て諸経中王の法華に向うは江河と大海と華山と妙高との勝劣の如くならん、蒙古国調伏の秘法定めて御存知有る可く候か、日蓮は日本第一の法華経の行者蒙古国退治の大将為り「於一切衆生中亦為第一」とは是なり、文言多端理を尽す能わず併ながら省略せしめ候」(017401
 なんたる確信に満ちた大師子吼であろうか。あの、わが世の春を欧歌し、日本国全体の尊敬を一身に集めていた良観の本質は、ここに見事に浮き彫りにされた「長老忍性速かに嘲哢の心を翻えし」と揶揄されるなど、悠悠たる御境涯であった。しかも「三学に似たる矯賊の聖人」あるいは「僣聖増上慢にして今生は国賊・来世は那落に堕在せんこと必定なり、聊かも先非を悔いなば日蓮に帰す可し」等と、その破折は痛烈をきわめた。さらに、絶対の確信をもって、公場対決を迫られている。もとより、極楽寺良観は、仏法それ自体の研鑽に励んで、その智徳のために名声を得たのではない。慈善事業で人をあやつり、幕府にたくみに取り入って、それまでの地位を築き上げたのであった。されば、大聖人より正面きった対決の書状をつきつけられたときの驚愕はいかばかりであったろうか。
 これに対し、この時の日蓮大聖人の、死をものともせず、国を救わんとの決意は、弟子檀那への御状のなかにありありと拝することができる。
 「大蒙古国の簡牒到来に就いて十一通の書状を以て方方へ申せしめ候、定めて日蓮が弟子檀那・流罪・死罪一定ならん少しも之を驚くこと莫れ方方への強言申すに及ばず是併ながら而強毒之の故なり、日蓮庶幾せしむる所に候、各各用心有る可し少しも妻子眷属を憶うこと莫れ権威を恐るること莫れ、今度生死の縛を切つて仏果を遂げしめ給え、鎌倉殿.宿屋入道.平の左衛門尉・弥源太.建長寺・寿福寺.極楽寺・多宝寺.浄光明寺・大仏殿.長楽寺已上十一箇所仍つて十一通の状を書して諌訴せしめ候い畢んぬ 定めて子細有る可し、日蓮が所に来りて書状等披見せしめ給」(017701)と。
 その時は、なんの手答えもなかった。また、なんの波乱もなかった。しかし、それは表面上のことであり、その裏面では、極楽寺良観、建長寺道隆を先頭に、七大寺の僧たちは、困惑し、狼狽し、大聖人をなんとかして迫害し、なきものにしようと、その対策に狂奔したのである。
大聖人と良観の祈雨の勝負

 文永6年、7年は無事に暮れた。そして時は文永8年。
 その年の2月下句より6月まで全国的な大旱魃が続き、民衆は飢饉のため、苦悩のどん底に追いやられた。執権北条時宗は、関東諸国の地頭より、日照りが続いて稲作が案じられるとの報告を受け取り、極楽寺良観に雨乞いを命じた。良観はなんのためらいもなく、満々たる自身をもって引き受け、鎌倉じゅう、否、日本国中の上下万民も「生仏の良観さまが雨乞いをしてくれる」といって喜んだ。
 このことをいち早く知られた日蓮大聖人は、これこそ破折の鉄槌を加えるべき時と考えられ、「法華経の行者日蓮、対面を遂げ、申し入れたきことあり」という書状を持たせて、極楽寺へ使いを走らせた。
 これによって、極楽寺から周防房と入沢入道という二人の念仏者がやってきた。大聖人は、この二人を通して、良観に次のように申し入れをされた。
 「七日の内にふらし給はば日蓮が念仏無間と申す法門すてて良観上人の弟子と成りて二百五十戒持つべし、雨ふらぬほどならば彼の御房の持戒げなるが大誑惑なるは顕然なるべし、上代も祈雨に付て勝負を決したる例これ多し、所謂護命と伝教大師と・守敏と弘法なり」(115717
これを聞いた良観は非常に喜んだ。これこそ、これまで幾多煮え湯をのまされてきた大聖人を思い知らせる好機だと思ったのであろう。また、必ず7日のうちに雨を降らせる自信があったからであろう。さっそく愚かにも、このことを鎌倉中にふれまわってしまった。そして彼は「弟子・百二十余人・頭より煙を出し声を天にひびかし・或は念仏・或は請雨経・或は法華経・或は八斎戒を説きて種種に祈請」(1158-05)するという盛大な修法を始め肝胆くだいて祈禱したのだった。
 ところが3日たっても4日たっても雨は降らず、ただ「
あせをながし・なんだのみ下して雨ふらざりし上」(0912-10)ばかりであった。さらに彼は数百人の僧を加えて必死になって祈禱を続けた。
 だが「
四五日まで雨の気無ければたましゐを失いて多宝寺の弟子等・数百人呼び集めて力を尽し祈りたるに・ 七日の内に露ばかりも雨降らず」(115806)というありさまであった。
 これに対し、日蓮大聖人は、三度使いをつかわして催促された。ちょうど7日目の申の時、大聖人の使者は、「
いかに泉式部と云いし婬女・能因法師と申せし破戒の僧・狂言綺語の三十一字を以て忽にふらせし雨を持戒・ 持律の良観房は法華真言の義理を極め慈悲第一と聞へ給う上人の数百人の衆徒を率いて七日の間にいかにふらし給はぬやらむ、是を以て思ひ給へ一丈の堀を越えざる者二丈三丈の堀を越えてんややすき雨をだに・ふらし給はず況やかたき往生成仏をや、然れば今よりは日蓮・怨み給う邪見をば是を以て翻えし給へ後生をそろしく・をぼし給はば約束のままに・いそぎ来り給へ、雨ふらす法と仏になる道をしへ奉らむ七日の内に雨こそふらし給はざらめ、旱魃弥興盛に八風ますます吹き重りて民のなげき弥弥深し、すみやかに其のいのりやめ給へ」(1158-08)と、大聖人の仰せどうり叫んだのであった。
 良観は、涙を流してくやしがった。弟子たちも歯ぎしりしてくやしがった。
 苦しまぎれにもう7日の猶予を願いたいということになった。ところがその結果も下山御消息に「
今の祈雨は都て一雨も下らざる上二七日が間前よりはるかに超過せる大旱魃・大悪風・十二時に止む事なし」(035010)とあるがごとく、良観の大惨敗に帰したのである。
 これによって、良観は大聖人に帰伏するどころか、いよいよ第三類の僣聖増上慢の本性を発揮し、ありとあらゆる策謀をめぐらした。まことに卑怯というべきである。また、彼が二百五十戒をもっていることなど、彼がこの敗北で約束をたがえたことによって、まったくの虚偽であったことが、青天白日のもとにさらされた。
 祈雨の法が終わってからまもない78日、良観は配下の浄光明寺行敏をして挑戦状を送ってよこした。大聖人は、その背後にある陰謀を見抜かれて、しばらく動静を見られたのち
「条条御不審の事・私の問答は事行き難く候か、然れば上奏を経られ仰せ下さるるの趣に随つて是非を糾明せらる可く候か、此の如く仰せを蒙り候条尤も庶幾する所に候、恐恐謹言」(0179-聖人御返事)と返事され、あくまでも公場対決を要望された。
 そこで、良観もいたしかたなく、行敏に大聖人を問注所に訴え出たのであった。これまた大聖人に、訴えの根拠となる理由をいちいち破折され、再駁の状をだすことができず、そのままとあってしまった。

良観と平左衛門尉頼綱の結託
 だが、良観は、手を変え品を変え、裏面から幕府の権力者を動かして、大聖人を迫害しようとした。
 その時の様子は、種種御振舞御書に「さりし程に念仏者・持斎・真言師等・自身の智は及ばず訴状も叶わざれば上郎・尼ごぜんたちに・とりつきて種種にかまへ申す」(091103)とあり、報恩抄には「禅僧数百人・念仏者数千人・真言師百千人・或は奉行につき或はきり人につき或はきり女房につき或は後家尼御前等について無尽のざんげんをなせし程に最後には天下第一の大事・日本国を失わんと咒そする法師なり、故最明寺殿・極楽寺殿を無間地獄に堕ちたりと申す法師なり御尋ねあるまでもなし但須臾に頚をめせ弟子等をば又頚を切り或は遠国につかはし或は篭に入れよと尼ごぜんたち・いからせ給いしかば」(032212)とあり、また妙法比丘尼御返事には「極楽寺の生仏の良観聖人折紙をささげて上へ訴へ建長寺の道隆聖人は輿に乗りて奉行人にひざまづく諸の五百戒の尼御前等ははくをつかひてでんそうをなす」(141616)等と仰せられているなかに、その光景がまざまざとまのあたりに見られるような気がする。
 そしてついに、良観は平左衛門尉を動かした。平左衛門尉といえば、当時の執権の家司と侍所の所司を兼ねた、幕府の要路者中でも第一人者である。北条幕府の政務は、評定制であるが、最後の決定権は執権が握っていたので、執権の執事たる家司の政治上の権力は、絶大なものがあった。のみならず、侍所の所司として軍事、警察権をも握っていた。実質的には政治と軍事の大権を、みずからの手中におさめていたのである。しかも、祖父三代にわたってその任にあったので、頼綱の権威は、不動のものとなっていた。彼のライバルは安達泰盛で、秋田城之介といい、大聖人も御書の中で、平左衛門尉を「平等」といい、秋田城之介を「城等」といわれ、並び称されていた。この二人が、当時の鎌倉幕府を実質的に牛耳っていたのであり、執権時宗はこの二人の勢力のうえに築かれた存在であったといっても過言ではない。読売新聞社編「日本の歴史4」には、このことが次のように述べられている。
 「時宗ともっとも近い関係にある二人の重臣の勢力争いである。一人は前にも名前のでた安達泰盛であり、他の一人は時宗の家令の頼綱である。安達氏は代々北条氏と姻戚関係を結び、北条氏を隆盛にすることによって、自分も勢力をのばしてきたような豪族であって、泰盛もその娘を時宗にとつがせており、評定衆、恩賞奉行、上野国の守護などを兼ねて、御家人中随一の名望家であり、また町石とよばれて、いまも高野山に残る里程標を建てたり、高野版と呼ばれる印刷経典を刊行したりするほどの富の持ち主でもあった。一方の頼綱はいわば北条家の総支配人であって、もともと御家人よりは身分の低い武士であるが、北条氏の権力が強まるにしたがって、彼の発言力もしだいに大きくなり、政界の実力者にのしあがってきた。つまり泰盛と頼綱は、時宗を動かす陰の人物ということになるが、この二人がしだいにしのぎをけずる間柄になる。
 してみると、執権時宗の権力は、実は泰盛と頼綱の勢力均衡のうえに、わずかな安定を保ったようなもので、幕府の対外政策がこのような激烈な政争を超越して、時宗個人の胆略と意志だけで決定されたとは、どうしても考えられない」
 この二人の争いは、のちに平左衛門尉の勝利に帰し、独裁政治を行ったことは、ここでは省略する。
 ここに宗教界の名声、地位、尊崇をほしいままにした極楽寺良観と、絶大なる権勢、軍事力、警察権等を一手に握った平左衛門尉頼綱とが、利害のために結託し、大聖人を迫害するという挙にでたのであった。すでに、良観の祈雨に応援したのは平左衛門尉であった。諸宗を誹謗し、武器を隠匿しているという罪状で告発された。
第二の国諌と竜の口法難
 文永8910日、日蓮大聖人は奉行所に呼び出された。平左衛門尉直々の取り調べである。だが、逆に裁くものが裁かれるごとく、平左衛門尉は、大聖人に徹底的に破折されてしまった。
 「
故最明寺入道殿・極楽寺入道殿を無間地獄に堕ちたりと申し建長寺・寿福寺・極楽寺・長楽寺・大仏寺等をやきはらへと申し道隆上人・良観上人等を頚をはねよと申す、御評定になにとなくとも日蓮が罪禍まぬかれがたし、但し上件の事・一定申すかと召し出てたづねらるべしとて召し出だされぬ、奉行人の云く上のをほせ・かくのごとしと申せしかば・上件の事・一言もたがはず申す、但し最明寺殿・極楽寺殿を地獄という事は・そらごとなり、此の法門は最明寺殿・極楽寺殿・御存生の時より申せし事なり。
 詮ずるところ、上件の事どもは此の国ををもひて申す事なれば世を安穏にたもたんと・をぼさば彼の法師ばらを召し合せて・きこしめせ、さなくして彼等にかわりて理不尽に失に行わるるほどならば国に後悔あるべし、日蓮・御勘気をかほらば仏の御使を用いぬになるべし、梵天・帝釈・日月・四天の御とがめありて遠流・死罪の後・百日・一年・三年・七年が内に自界叛逆難とて此の御一門どしうちはじまるべし、其の後は他国侵逼難とて四方より・ことには西方よりせめられさせ給うべし、其の時後悔あるべしと平左衛門尉に申し付けしかども太政入道のくるひしやうに・すこしもはばかる事なく物にくるう
」(091104
 この大聖人の痛烈な破折、至誠の国諌は、満場を圧した。その一言一句に、心打たれる者、うつつをぬかす者、激怒を含む者等々、だがその御境涯は、悠々たる大海原にも似たものであった。
 その翌々日、912日、逆上した平左衛門尉は、まるで謀反人を捕える以上に、物々しく胴丸を着、烏帽子をかぶり、武装した数百人の武士を引き連れ、松葉ヶ谷の庵室に乱入し、狼藉の限りを尽くした。そして、平左衛門尉の家来の一人、少輔房という人物が、大聖人のもとにつかつかと歩み寄って、法華経の第五の巻で大聖人の顔を三度さいなんだのである。この時、日蓮大聖人は、大音声をもって、平左衛門尉を叱咤された。撰時抄にいわく「
去し文永八年九月十二日申の時に平左衛門尉に向つて云く日蓮は日本国の棟梁なり予を失なうは日本国の柱橦を倒すなり、只今に自界反逆難とてどしうちして他国侵逼難とて此の国の人人・他国に打ち殺さるのみならず多くいけどりにせらるべし、建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきはらいて彼等が頚をゆひのはまにて切らずば日本国必ずほろぶべしと申し候了ぬ」(028711
 それから、大聖人は、竜の口の処刑場に向かわれる。だが、その夜の不思議な現象に、ついに処刑できず、しばらく相模の国依智にとどまられ、やがて佐渡の国へ流罪と決定されたのである。このときも、鎌倉に火つけや強盗殺人がしきりに起こり、これは大聖人の弟子がやったことだと、とりざたされた。これまた念仏者の謀略であり、その背後に、良観がいたことはいうまでもない。
 こうした良観の仕打ちに対し、大聖人は、次のごとく、痛烈な破折を加え、良観の偽善の面をはぎとられている。
 「
法華本門の行者・五五百歳の大導師にて御座候聖人を頚をはねらるべき由の申し状を書きて殺罪に申し行はれ候しが、いかが候けむ死罪を止て佐渡の島まで遠流せられ候しは良観上人の所行に候はずや・其の訴状は別紙に之れ有り、抑生草をだに伐るべからずと六斎日夜説法に給われながら法華正法を弘むる僧を断罪に行わる可き旨申し立てらるるは自語相違に候はずや如何・此僧豈天魔の入れる僧に候はずや」(115707
 以上、良観の行動を中心に、邪宗教の悪侶たちが、いかに権力に取り入り、権力者と緊密なつながりをもっていたが、そして、正法の行者を迫害したかを見てきた。これこそ、仁王経の「諸の悪比丘多く名利を求め、国王・太子・王子の前に於て、自ら破仏法の因縁・破国の因縁を説かん、その王別えずして此の語を信聴し横に法制を作って仏戒に依らず是を破仏・破国の因縁と為す」の文そのものではないか。「諸の悪比丘」とは、当時の念仏者・真言師たちであり、別しては良観である。「名利を求め」とは、まさに、当時の僧侶の実態であり、良観の本質である。「国王・太子・王子」とは、当時の指導者階級であり、その前で「破仏法の因縁・破国の因縁を説かん」とは、まさしく権力者に取り入り大謗法の教えを説き、あまつさえ、大聖人を死へと追いやらんとした、良観の行動どのものではないか。これ、国を滅ぼし、仏法を乱す元凶にあらずして何であろうか。「其の王別えずして此の語を信聴し」とは、当時の幕府の権力者たちが、みな彼らの甘言にだまされて、特に平左衛門尉がなんら思慮分別もなく、大聖人の迫害に狂奔してきたことなど、その典型ではないか。
 「横に法制を作って仏戒に依らず」とは、罪なき大聖人をおとしいれんとして、数々の罪状をデッチ上げ、あるいはにせものの御教書を作ったりしたではないか。また熱原の法難に際して多くの罪なき農民を、ありもしない罪状で告発し、理不尽な裁判をもって、ついには、神四郎等の熱原の三烈士の首を刎ねたではないか。
 「是を破仏・破国の因縁と為す」とは、その後鎌倉幕府の運命が、これを如実に物語っているではないか。また、その後の日本の運命も、まさに破仏・破国へと向かっていったではないか。これは、すでに前述のごとくであり、まことに、恐るべきは邪宗教であり、最も忌むべきものは、邪宗教と政治権力との結託である。

今日における邪宗教と政治権力の結託
 太平洋戦争中は、形は変われども、まったく700年前と同じことを繰り返していた。神道と国家権力の結託、また、あらゆる宗教がことごとく妥協し、神道のもとに統一される等、さらに、その末期に近衛文麿が、日本にどうしても勝算がなくなった時、高野山に祈禱を頼んだことなど、まさしく邪宗教の害毒を知らざる哀れな姿であった。これ、破仏・破国の因縁であり、ついに国は滅び去ってしまった。

第四章 法華経を引き悪侶を証すtop

06   法華経に云く「悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲に未だ得ざるを為れ得たりと謂い我慢の心充満せん、 或は
07
 阿練若に納衣にして空閑に在り 自ら真の道を行ずと謂いて人間を軽賎する者有らん、 利養に貪著するが故に白衣
08
 の与めに法を説いて 世に恭敬せらるること六通の羅漢の如くならん、 乃至常に大衆の中に在つて我等を毀らんと
09
 欲するが故に国王・大臣・婆羅門・居士及び余の比丘衆に向つて誹謗して我が悪を説いて是れ邪見の人・外道の論議
10
 を説くと謂わん、 濁劫悪世の中には多く諸の恐怖有らん悪鬼其の身に入つて 我を罵詈し毀辱せん、濁世の悪比丘
11
 は仏の方便・随宜所説の法を知らず悪口して顰蹙し数数・擯出せられん」已上。

 法華経には「悪世の中の僧侶は心がひねくれて、仏法に不正直であり、いまだになにもわかっていないのに、自分は悟りを得ていると思い自分の『我』を慢ずる心が充満している。あるいは人里離れた静かな山寺などに袈裟・衣を著けて閑静な座におり、自ら仏法の真の道を行じていると思いこんで、世事にあくせくする人間を軽んじ、賤しむであろう。彼等は自らの私腹を肥やすために金品をむさぼる故に、在家の人たちのために説法して、世の人からあたかも六神通を得た羅漢の如く恭敬・尊敬されている。乃至常に大衆の中にあって正法をたもつ者をそしるために、国王や大臣・波羅門・居士および諸の僧侶に向かって正法の行者を誹謗し、悪い点を作り上げて『この人は邪な思想を持っており外道の論議を説いている」というであろう』という。
 濁りきった悪世の末法においては諸の恐怖がある。邪宗邪義がこれらの国王・大臣の身に入いて、正法の行者をののしったり、謗り、はずかしめたりするであろう。末法にこれらの悪比丘たちは方便・権教が仏の機根に随って説いたものであることを知らないでこれに執着し、かえって正法たる法華経の行者の悪口をいい、顔をしかめて憎み、一度ならず二度までも正法の行者を追い出すであろう」とある。

講義
 これは、有名な勘持品の二十行の偈で、三類の強敵を説いた未来記である。この文と、日蓮大聖人とのお振舞いをみるに、あまりの一致に驚嘆し、かつは、仏法の偉大さを心底より実感せずにはおれぬではないか。この二十行の偈を、三類に分けるとつぎのようになる。
 第一類=俗衆増上慢 諸の無智の人の悪口罵詈等し及び刀杖を加うる者有らん我等皆当に忍ぶべし
 第二類=道門増上慢 悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲に末だ得ざるを為れ得たると謂い我慢の心充満せん
 第三類=僣聖増上慢 或は阿練若に納衣にして空閑に在り自ら真の道を行ずと謂いて人間を軽賎する者有らん、 利養に貪著するが故に白衣の与めに法を説いて世に恭敬せらるること六通の羅漢の如くならん、乃至常に大衆の中に在つて我等を毀らんと欲するが故に国王・大臣・婆羅門・居士及び余の比丘衆に向つて誹謗して我が悪を説いて是れ邪見の人・外道の論議を説くと謂わん、濁劫悪世の中には多く諸の恐怖有らん悪鬼其の身に入つて我を罵詈し毀辱せん、濁世の悪比丘は仏の方便・随宜所説の法を知らず悪口して顰蹙し数数・擯出せられん」
 日蓮大聖人は、諸御書に、この勧持品二十行の偈を身読したのは、自分以外にないと断言されている。そしてこの事実をもって、御自身こそ、法華経に予言された、末法の全民衆を救済する御本仏であるとの確信に立たれているのである。
 開目抄上にいわく「
我が身の法華経の行者にあらざるか、又諸天・善神等の此の国をすてて去り給えるか・かたがた疑はし、而るに法華経の第五の巻・勧持品の二十行の偈は日蓮だにも此の国に生れずば・ほとをど世尊は大妄語の人・八十万億那由佗の菩薩は提婆が虚誑罪にも堕ちぬべし、経に云く「諸の無智の人あつて・悪口罵詈等し・刀杖瓦石を加う」等云云、今の世を見るに日蓮より外の諸僧たれの人か法華経につけて諸人に悪口罵詈せられ刀杖等を加えらるる者ある、日蓮なくば此の一偈の未来記は 妄語となりぬ、「悪世の中の比丘は・邪智にして心諂曲」又云く「白衣の与に法を説いて世に恭敬せらるること六通の羅漢の如し」此等の経文は今の世の念仏者・禅宗・律宗等の法師なくば世尊は又大妄語の人、常在大衆中・乃至向国王大臣婆羅門居士等、今の世の僧等・日蓮を讒奏して流罪せずば此の経文むなし、又云く「数数見擯出」等云云、日蓮・法華経のゆへに度度ながされずば数数の二字いかんがせん、此の二字は天台・伝教もいまだ・よみ給はず況や余人をや、末法の始のしるし恐怖悪世中の金言の・あふゆへに但日蓮一人これをよめり」(0202-10
 上野殿御返事にいわく「
勧持品に八十万億那由佗の菩薩の異口同音の二十行の偈は日蓮一人よめり、誰か出でて日本国・唐土・天竺・三国にして仏の滅後によみたる人やある、又我よみたりと・なのるべき人なし・又あるべしとも覚へず、及加刀杖の刀杖の二字の中に・もし杖の字にあう人はあるべし・刀の字にあひたる人をきかず、 不軽菩薩は杖木・瓦石と見えたれば杖の字にあひぬ刀の難はきかず、天台・妙楽・伝教等は刀杖不加と見えたれば是又かけたり、日蓮は刀杖の二字ともに・あひぬ、剰へ刀の難は前に申すがごとく東条の松原と竜口となり、一度も・あう人なきなり日蓮は二度あひぬ、杖の難にはすでにせうばうにつらをうたれしかども第五の巻をもつてうつ、うつ杖も第五の巻うたるべしと云う経文も五の巻・不思議なる未来記の経文なり」(155702
現代の三類の強敵
 
この三類の強敵は、今日、われわれも常に経験するところである。
 まず第一の俗衆増上慢につては、御義口伝に「
一文不通の大俗なり悪口罵詈等分明なり日本国の俗を諸と云うなり0748第七有諸無智人の事02)と述べられている。すなわち、一般の人々の悪口、罵詈雑権が俗衆増上慢である。これはわれわれが信心するやいなやあらわれてくるものである。普段は、心よく交際し、暖かく話し合い、助け合う中の人が、たちまち血相を変え、激怒をはらんで、大声で罵声を放ち、あるいは陰に回り、悪口をなすのである。まるでおこったことのないような人までが、この信心のはなしとなると、決まって、怒りだしたり、猛反対するのは、まことに不思議であり、ぶつほうの原理の正しさを、ひしひしとわが身に体験するのである。だが所詮、人々の生命の奥底は、妙法へと向かっているのである。どんなに反対しようが、悪口しようが、それ自体、のがれようのがれようと賢明なるがゆえであり、その実相は、大御本尊へと向かう姿なのである。事実、今日、五百数十万世帯の学会員が、はじめは大なり小なり反対した人々であり、なかには激しい憎悪と怒りをぶちまけた人さえいるのである。この人々が、今や口に大御本尊の偉大さを讃嘆し、喜喜として、希望多き日々を送っているのは、まさに、そのなによりの証明ではないか。
 次に、第二類の道門増上慢については、「
悪世中比丘の悪世とは末法なり比丘とは謗法たる弘法等是なり、法華の正智を捨て権教の邪智を本とせり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は正智の中の大正智なり」(0749第八悪世中比丘の事)と述べられている。
 自宗の正義を貫くなんらの信念もない宗教は、ただ利益のため、世法のために連合し、おのが宗教を守らんとする、卑怯な、醜い創価学会に対する批判、これ「邪智にして心諂曲」のものではないか。邪な教義に毒され、さも大学者のごとく装い、正法を盲評する悪僧等は、まさに「末だ得ざるを為れ得たりと謂い。我慢の心充満せんに当たる輩ではないか。
 わが創価学会の歴史からいえば、戸田前会長の会長就任の昭和26年ごろから、昭和30年の小樽法論を境として、道門慢の力は衰えてはいるが、以後、宗教上の論争をうることもなく、既成宗教の最後の抵抗ともいえる埋葬拒否等の墓地問題も、昭和345年ごろを頂点として、その後、法律論において、彼らの主張の非合理が明らかにされる判決が出て、終止符をうっている。
 されば、広宣流布の大前進と、民衆の覚醒により、これらの邪宗教も、しだいに没落していくことは必然であるが、これらの宗教が、海外に根をはりつつあることも見逃すことはできない。日本から海外へ逃避した邪宗教は、やがて世界広布の時がきたなら、どこに逃げるのであろうか。また邪宗教が、なんとか創価学会に対抗しようとして、連合軍を作っているものもあるが、いかに策謀を講じようと、あせり、あがこうが、ただおのれの墓穴を掘っているのみである。「
彼等は野干のほうるなり日蓮が一門は師子の吼るなり」(119008)「師子を吠る犬は腸くさる」(108013)等の御金言に照らし、それは歴然たるものである。
 もはや、彼らに創価学会に抵抗する力がなく、これからの戦いは、僣聖増上慢との闘いであり、この勝利こそ広宣流布実現の最後の砦であろう。

現在は僣聖増上慢との戦い
 第三の僣聖増上慢とは、現在では、世界的尊敬を集めている一流の評論家、学者、あるいは一流日刊紙等の誹謗中傷をさす。また、政治家、財界人等の権力者が、国家権力を盾に、陰に陽に迫害してくることをいうのである。これに往々にして先の道門増上慢たる邪宗教が結託することは、前章に述べたごとくである。
 かって、戸田前会長は、広宣流布の前提として、僣聖増上慢の出現する時がくると、つねづね申されていた。その時とは、まさしく今である。以前は、彼ら権力者、評論家、学者等は、学会に対して冷静を装っていた。というより、小バカにしていた。だがいよいよ創価の大折伏戦が展開し、新しい日本の建設に立ち上がるや、既成の権威にしがみとく連中は、驚愕し、あわてて本気になってその進出をはばもうとしてきているのである。
 学会の目的は、民衆を幸福にする以外のなにものでもない。生命の限りなき尊厳を説ききる日蓮大聖人の仏法を奉じ、あらゆる人々が心の底より望んでやまぬ、幸福な平和な社会を築くこと、ただそれだけである。これ真の民主勢力であり、平和勢力であり、仏の軍勢である。この進出を食い止めようとするものは、いかにうまいことを言おうが、その実体は反民主主義勢力であり、保守反動であり、魔軍である。しかして、学会の前進が本門の時代にはいるにつれ、魔もいよいよ本格的となってきている感が深い。いにしえの大聖人時代においては、大聖人を迫害した平左衛門尉の本質は、民衆の幸福を奪い、恐怖と不幸とを与える悪魔であった。その誕生は、大聖人滅後のあの恐怖政治である。
 だが今日は順縁広布、化儀の広布の時代である。彼らにいつまでも、民衆の幸福を奪われたままでおいておく時代は過ぎ去った。これからは、日蓮大聖人の仏法を根底に、幸福にめざめ、汝自身の内に秘めた力を知り、社会に目を瞠いた民衆が、有智の団結をもって築く時代である。今や民衆の心は、滔々と流れゆく大河の如く、動いていつのである。大悪大善御書にいわく「
大事には小瑞なし、大悪をこれば大善きたる、すでに大謗法・国にあり大正法必ずひろまるべし、各各なにをかなげかせ給うべき、迦葉尊者にあらずとも・まいをも・まいぬべし、舎利弗にあらねども・立つてをどりぬべし、上行菩薩の大地よりいで給いしには・をどりてこそいで給いしか、 普賢菩薩の来るには大地を六種にうごかせり」(130001)と。すでに三類の敵人あらわれたり。必ずや大正法が広宣流布し、社会の安泰・平和が実現するこちは、大聖人の御金言に照らし、絶対なりと確信するものである。しかして、迦葉尊者よりも、舎利弗よりも、百千万億倍すぐれたる大歓喜をもって、さらに広宣流布をめざして前進するものである。

第五章 涅槃経を引き悪侶を証すtop

12   涅槃経に云く「我れ涅槃の後・無量百歳・四道の聖人悉く復た涅槃せん、正法滅して後像法の中に於て当に比丘
13
 有るべし、持律に似像して少く経を読誦し 飲食を貪嗜して其の身を長養し 袈裟を著すと雖も猶猟師の細めに視て
14
 徐に行くが如く猫の鼠を伺うが如し、 常に是の言を唱えん我羅漢を得たりと 外には賢善を現し内には貪嫉を懐く
15
 唖法を受けたる婆羅門等の如し、実には沙門に非ずして沙門の像を現じ邪見熾盛にして正法を誹謗せん」已上

 涅槃経には「仏が入滅して後、幾百千年という長い年月を過ぎると、仏法を正しくひろめる聖人たちもことごとく入滅するであろう。正法一千年が過ぎて像法時代となり、ころに像法の終わりから末法にかけての時代に、次のような僧が現れるであろう。その僧は外面は戒律をたもっているように見せかけて、少しばかりの経文を読み、食べ物を貪って我が身を長養している。その僧は袈裟を身にまとっているけれども、信徒の布施を狙うありさまは、猫がねずみをとらんとしているごとくである。
 そして常に『自分は羅漢を得た』といい、外面は賢人・聖人のごとく装っているが、内面はむさぼりと嫉妬を強く懐いているのである。偉そうな顔をしているがなにひとつ説法もできなければ、信者の指導もできない、法門のことを聞かれても答えられないありさまは、ちょうどインドの波羅門の修行のひとつである唖法の術を受けて黙り込んでいる連中のようである。実際には、正しい僧侶でもないくせに僧侶の姿をしており、邪見が非常に盛んんで正法を誹謗するであろう」とある。

16 文に就て世を見るに誠に以て然なり悪侶を誡めんずばあに豈善事を成さんや。                ・

 教文によって世相を見ると、まことに経文どおりである。このような腐敗・堕落した僧侶を誡めなければ、どうして善事を成し遂げることができるであろうか。

講義
 
我れ涅槃の後・無量百歳・四道の聖人悉く復た涅槃せん、正法滅して後像法の中に於て
 この涅槃経の経文が、釈尊滅後2000年以後の末法の時代を示すことは、明白である。すなわち日蓮大聖人は、下山御消息に、この涅槃経の同文を挙げて、次のように、仰せである。
 「
此の経文に世尊未来を記し置き給う。抑釈尊は我等がためには賢父たる上明師なり聖主なり、一身に三徳を備へ給へる仏の仏眼を以て未来悪世を鑑み給いて記し置き給う記文に云く「我涅槃の後無量百歳」云云仏滅後二千年已後と見へぬ、又「四道の聖人悉く復涅槃せん」云云、付法蔵の二十四人を指すか、「正法滅後」等云云 像末の世と聞えたり、「当に比丘有るべし持律に似像し」等云云今末法の代に比丘の似像を撰び出さば日本国には誰の人をか引き出して大覚世尊をば不妄語の人とし奉るべき、俗男俗女比丘尼をば此の経文に載たる事なし但比丘計なり比丘は日本国に数を知らず、然るに其の中に三衣一鉢を身に帯せねば似像と定めがたし唯持斎の法師計相似たり一切の持斎の中には次下の文に持律ととけり律宗より外は又脱ぬ、次下の文に「少し経を読誦す」云云相州鎌倉の極楽寺の良観房にあらずば誰を指し出だし経文をたすけ奉るべき、次下の文に「猶猟師の細視徐行するが如く猫の鼠を伺うが如く外には賢善を現し内には貪嫉を懐く」等云云両火房にあらずば誰をか三衣一鉢の猟師伺猫として仏説を信ず可し、哀れなるかな当時の俗男・俗女・比丘尼等・檀那等が山の鹿・家の鼠となりて猟師・猫に似たる両火房に伺われたぼらかされて今生には守護国土の天照太神・正八幡等にすてられ他国の兵軍にやぶられて猫の鼠を捺え取るが如く猟師の鹿を射死が如し、俗男・武士等は射伏・切伏られ俗女は捺え取られて他国へおもむかん王昭君・楊貴妃が如くになりて後生には無間大城に一人もなく趣くべし」(034804
 以上の御文のごとく、大聖人は、涅槃経の経文を、滅後2000年已後の末法において極楽寺良観のような悪侶が、出現することを、御在世中の鎌倉時代に約して、釈しておられるのである。日寛上人は文段に「像法なおしかなり、いわんや末法をや、ゆえに像法というなり」と仰せである。しかして、この涅槃経の経文を、化儀の広宣流布の時代たる現状に約せば、いかなることになるのであろうか。
涅槃経の現代的意義
 この経文は、まったく現代の宗教界の実態を浮き彫りにしてあまりあるものがある。
 今日において、最も悪らつなものは、宗教界を装う宗教事業家、すなわち宗教屋である。日本全国の寺々には、お布施をもらうための寺であり、日本全国の宗教屋は、ただ偉そうに飾り立てて金を集めるのが目的である。
 自分は生仏であるとか、生神様であるとか、上行菩薩であるとか、無辺行菩薩であるとか、ひどいのになると日蓮再来とかいいだして人々をまよわせ、また姿は、あたかも宗教家であるかのような格好をして教義には眛く、都合主義の教義をこしらえ、信者から金をしぼりとる様は、まさに「持律に似像して少く経を読誦し飲食を貪嗜して其の身を長養し袈裟を著すと雖も猶猟師の細めに視て徐に行くが如く猫の鼠を伺うが如し
」の文そのままではないか。
 しかもまた、自分はさも聖人のごとく、見せかけ、心の中では貧欲のかたまりであり、善人をうらみ、嫉妬し迫害するのは、まことに「
外には賢善を現し内には貪嫉を懐く」偽善者であろう。少し教学について突っ込むと「唖法を受けたる婆羅門」すなわち人間の言葉を忘れる修行をしたもののごとく、だまりこくって返事をしない。これは、かっての小樽問答における身延派の代表のあの醜態ぶりを見れば明らかである。これこそ、真実を教えず、否、知らずして、甘現で人をあやつることのみにたけた詐欺漢であろう。そのうえ金をしぼりとるのでは、追剥に等しいではないか。これ「沙門に非ずして沙門の像を現し邪見熾盛」の者であり、されば「正法を誹謗」する挙に出るのである。
今日の指導者階級の姿にも符合
 また、この文は、単に宗教家にとどまらず、政治家、評論家、学者等にも通ずるものである。
 「持律に似像して」とは、さも教養人、文化人のごとく装うことである。「少く経を読誦し」とは、少しばかりの自分の才智を誇ることであり「
飲食を貪嗜して其の身を長養し」とは、不幸な民衆の上にあぐらうぃかき、私利私欲にふけることである。「袈裟を著すと雖も」とは、昔は、袈裟をつけていれば、僧侶として尊敬をうけた。がが、今日、僧衣を見ただけで尊敬心をもつという人はあまりいない。元来、袈裟は春秋左氏伝に「衣身の章なり」とあり、その注に「章は貴賤を明らかにするなり」とあるごとく、今日においての袈裟は、まさに評論家、頭取、重役等の看板であり、国会議員のバッジであり、大臣のポストである。
 「猶猟師の細めに視て徐に行くが如く猫の鼠を伺うが如し」とは、すべて名聞名利であり、人気取りに没頭し民衆に媚びへつらい、また他の有力者に取り入る洋であろう。選挙の時に、候補者が、票集めに狂奔し、民衆に取り入り、実現しようという意志がないにもかかわらず、票のために政策を並べ立て、あるいは金品で人々をあやつり、または恩を売り、義理でしばり、あらゆる手段を講ずるあの様は、まさしくこの文のとおりである。しかも、その心は、獲物を狙う漁師のごとく、鼠を伺う猫のごとく、さらには狼のごとく、虎のごとく民衆を食いものにすることは必定である。
 「常に是の言を唱えん我羅漢を得たりと」とは、自分ほど偉いものはないという、思い上がりであり、うぬぼれである。わずかばかりの知恵ですべたがわかったこのように思う錯覚である。よく創価学会のころを知らずに、よく調べもせず勝手に、学会批判をなす者がいるが、これなどもこの文にあたるであろう。
 「外には賢善を現し内には貪嫉を懐く」とは、さも、聖人君主のごとく振舞い、心の中は、自分の利益のみを思い、常に他人のよくなることを憎み、怨嫉をいだくことである。今日の指導者の中に、真実に民衆の幸福を思い、不幸の人が幸福になることを、最も喜び、人生の生甲斐をする人が何人かいるが、まことに残念なことではあるが皆無に等しき現状である。いかに、地位を得ようと、名声を得ようと、それ自体が人間の価値を決めるものではない。むしろ名聞名利に狂奔するならば人生の堕落者であり、敗残者である。これ、今日の政治家、財界人、評論家の大半の姿なのである。
 「唖法を受けたる婆羅門等の如し」とは、何ら定見がなく、権力にもおおむね時流迎合する輩であり、かつ、自分に危険があるときは、その問題についてはまったく黙して語らなかったり、たえずそれを避けようとして、言を左右する卑怯な者のごときである。人々の思惑を気にかけ、たえずそれによって発言をすつ等は、これ何の信念もなき、オウムのごときであり、まさに唖法そのものであろう。
 「実には沙門に非ずして沙門の像を現じ」とは、民衆の幸福を願う指導者のような顔をして、その実は、民衆を足蹴にし、民衆の幸福を奪う悪人のことである。「沙門」とは、通常出家して仏道を修める者の通号である。だが本来の意味は、勤息と訳し「善法を勤修して悪法を止息する者」の意であり、広く論ずれば民衆救済の指導者すなわち、民衆のため、社会のため、一身を投げ出して戦う人は「沙門」に通じよう。だが、現代の指導者は、形のみ偉ぶり、その実質は、名利にとらわれたもののみ多く、まことに残念でならない。だらに、これらのものが第三類の僣聖増上慢として、創価学会を中傷し、迫害してくるのは「邪見熾盛」のためであり、「正法を誹謗せん」の文のごとくである。
 以上、日蓮大聖人は、仁王経、涅槃経、法華経の文を引き、いかに形の上では、仏法が盛んのように見えても、実質は、まったく地におちたことを述べられている。しかしてこれらの文と、大聖人の時代の世相とまったく符合しているがゆえに「文に就て世を見るに誠に以て然なり」と仰せられているのである。この大聖人の一言は、そのまま、現代にも通ずるものである。まことに、これらの経文は、現代の世相を映し出したる明鏡であり、仏法の方程式が、いかに時代移り、人は変われども、万古に変わらざる原理であるかとの明証である。
真実の幸福への善事

 ここに「善事」とは、一般大衆を真実の幸福へ導くことである。善とは、個人の行為が、社会に対する関係の中で、美の価値と利の価値を社会に提供することで、これにも小善・中善・大善と分けなければならない。小さな社会、たとえば農村の部落に利益になることは、農村部落の善ではあるが、その上の社会、たとえば村民社会全体の損になることは、その上の社会からみれば、その小さな社会の善は悪になるのである。農民社会の利益は、農民社会の善ではあるが、それが国家社会に不利益であれば悪となる。それを要約すれば、小善が中善に敵対すれば悪となる。中善が大善に敵対すれば大悪となる。
 大善にして至高善とは、全人類社会に幸福を与えるということである。その幸福を、根本的に与えきる唯一の道は、仏法の根本、末法御本仏の真意たる三大秘法の南無妙法蓮華経を信ぜせしめることである。されば、大悪の本源たる邪宗教を打ち破らずば、真実、幸福の善事はなされぬことは明らかである。ここに「
悪侶を誡めんずばあに豈善事を成さんや」と仰せられたのである。

第四段 正法誹謗の元凶の所帰を明かすtop
第一章 正法誹謗の人・法を問うtop

17   客猶憤りて曰く、 明王は天地に因つて化を成し聖人は理非を察して世を治む、 世上の僧侶は天下の帰する所
18
 なり、悪侶に於ては明王信ず可からず 聖人に非ずんば賢哲仰ぐ可からず、 今賢聖の尊重せるを以て則ち竜象の軽

0022
01 からざるを知んぬ、何ぞ妄言を吐いて強ちに誹謗を成し誰人を以て悪比丘と謂うや委細に聞かんと欲す。

 客が前にも倍して怒っていうには、明王は治世について天地の道理に則して民衆を化育し、聖人は理と非理を公平に立て分け行政を行う。今世間の高僧たちは、いずれも天下万民があまねく帰依しているところである。もしそれが悪侶であれば明王は信じないであろうし、それらの高僧が聖人でないならば、世の指導者たちがこれらの人を仰ぐわけがない。今、世の賢人や聖人がそれらの名僧を尊重しているのを見て、世で仰いでいる僧侶たちが竜象ともいうべき高僧であることがわかる。それなのにどうして妄言を吐いて、強いて誹謗し、誰のことを悪僧というのか、それを詳しく聞きたいと思う。

講義
 この段は、世の中を乱し、民衆を不幸のどん底に沈ませた最も悪い僧侶の代表として、法然を取り上げ、法然の著わした撰択集が邪法を弘め、正法を誹謗する元凶となっていることを明らかにしている。
 「客猶
憤りて曰く」とは、前段においては色を作し憤ってほぼ問うてきたが、この段では前段における主人の答えに対して、客は前にも倍してますます憤りを増して主人に質問をしてきたので「猶憤りて」というのである。前段において、主人は、客の問いに対して、この日本の国には、たしかにたくさんの寺があり、僧侶も数えきれないほどたくさんいるが、いずれも正法を誹謗した邪宗教ばかりで、そのために、社会は幸福にならないのみか、かえって災難が競い起こる結果になってしまったと、三災七難の本源を指摘したのである。
 ところが、客にしてみれば、この答えはまったく予想外であり、かつ不可解なものであった。世の僧侶はいずれも天下万民から尊敬の的となっている人たちばかりで、主人のいうような悪侶ではないというのである。もし、主人のいうような悪い僧侶であったならば、世の人々が尊敬するわけでもないし、そのような宗派が興隆を誇るはずがないではないか。というのである。そこで、そのようなことをいうならば、具体的に誰をさして、悪侶というのか、というのが、この段の問いである。
宗教の正邪を決するもの
 「世上の僧侶は天下の帰する所なり」とは、近代以前においては、僧侶が社会の知識階級であり、指導的階層であったことを考えなければならない。たとえば、現代の最新の科学技術に相当する大陸の諸文化を、まず最初にわが国にもたらしたのは、仏法修学のため大陸へ渡った学僧たちや、宋から弘経のために渡来した僧たちであった。
 こうした僧のなかには、彼の地で医術や土木工法や農法までも学んできて、それを応用指導する者も珍しくなかったのである。これらの特殊技術が、仏教信仰と結びついて、僧侶の社会的地位を、いやがうえにも高めていたのである。
 かつての真言の弘法が唐へ留学したとき、大陸に上陸してまず足を向けたのは長安の都であった。彼はここで、もっぱら灸や土木の工法を学び、その後わずかに仏法を聞きかじって帰ってきた。真言のごとき邪法しか知らなかったのも、このゆえで、帰国後の彼は、まず灸や土木工事で名を売り、その名声に便乗させて真言の邪法を弘めたのである。
 大聖人当時の律宗の良観や、禅の栄西、道元も手口は同じである。表面は、こうした技能をもって社会に貢献しているように見せかけながら、恐るべき邪法をもって、人々を地獄へ堕とし、三災七難を起していったのである。
 法然については、別に詳しく論ずるので、ここでは簡単に述べるが、彼こそ当時、日本国じゅうを風靡した浄土宗の教祖であり、勢至の再誕か、阿弥陀の化身とまでいわれるほど、死後ますます、尊敬を集めていったのである。
 しかも、それを尊崇しているのは、無智盲目の庶民百姓ばかりでなく、公卿、武家から天皇、執権までも熱心に信じ、仰いでいる。賢明であり、学識もある。これらの人々でさえも尊崇しているほどの僧であるから、その僧が悪侶であり、不幸の原因などといっても信じられないというのが、客の言葉である。
 だが、大部分の人が賛成し支持しているからといって、それが正しいとは必ずしもいえない。また、有名な政治家や学者が信仰しているからといって、その宗教が正しいとは必ずしもいえない。
 たとえば、中世ヨーロッパにおいては、民衆も、高名な学者や指導者も、あげてキリスト教神学を尊び、それが正しいと信じて疑わなかった。しかし、近世の夜明けとともに、神学の誤りはつぎつぎと明らかにされ、万人が認めざるをえなくなってきたではないか。
 戦前のわが国における国家神道も同じである。当時の民衆、指導者のなかで、はたして何人がその誤りを明確に意識し、それを主張したであろうか。
 その反対に、支持する者が少ないからといって、それが誤っているとはいえないことも、コペルニクスやガリレオ等の例から、明らかであろう。
 宗教の正否を決するものは、その教義であり内容である。その教義の浅深勝劣の判定によってはじめて、正しいか、否かが決定されるのである。
 しかして、物理学のことは物理学者に、経済学のことは経済学者に、仏教のことは仏教を最もまじめに、真剣に学んでいる者に聞くのが当然である。ゆえに、われわれは宗教に関しては、わが、創価学会に聞くべきであると主張するのである。
 さて、このように大勢の民衆から尊敬される立ち場であればこそ、その謗法の罪は一層重い。かって初代牧口会長は、創価論のなかで、同じ罪でも社会的に重要な立ち場にある者の場合は、それだけ大悪となると教えられた。これを、世間話にあてはめるならば、誰にも理解できる。
 仏法は見えざる世界の原理を説く。そのためなかなか納得しがたいが、道理は同じことである。法然はじめ僧侶たちは、世の人々から尊敬されているがゆえに、多くの人々を地獄に堕とし、世の中に大きい害毒を流す。したがって、その罪はきびしく弾劾されなければならないのでる。
明王・聖人と聖人との関係
 また、日蓮大聖人は、この段の客の問いを通じて、真の指導者のあり方を述べられている。すなわち「明王は天地に因つて化を成し聖人は理非を察して世を治む」のところは、社会の指導者のあるべき姿を明確に示されたものである。ここでいう明王とは、文中においては鎌倉時代の権力者、すなわち、京都の朝廷あるいは鎌倉幕府、別しては北条氏をさしているが、現在のわれわれの立ち場から拝するならば、現在の政治そのものであり、またそれを司る政治家、為政者のことである。また、聖人とは大学者とも、また政治の中心的人物とも拝することができる。
 「明王は天地に因つて化を成し」とは、すなわち、一国の政治、また為政者というものは「天地に因つて」 一往は宇宙のリズム、再往は社会のことである。 すなわち、社会の働き、民衆の微妙な心、要望に、時代の潮流等を察知していくということである。「化を成し」の「化」とは、元来「徳を以って人民を導き感ぜしめ、善良なる風俗習慣を作る義」である。すなわち今日においては、抽象的なものでなく、どのように具体的に、時代に応じ、社会を繁栄させ、民衆の生活を安定させていくことができるか、ということである。単に理論のための理論ではなく、机上の空論でもなく、どのようにして、民衆を指導し、しあわせにしていくかというかとが、指導者、政治家の最大の問題である。
 しかるに、現実はどうか、まったく、これと逆である。いつも民衆から離反した政治、私利私欲のためならは、民衆の不幸をなんら顧みようとしない政治、悪から悪へ、闇から闇へ、国のほんの一握りの人々のために、多くの大衆を犠牲にしている政治、はたして、わが国に、真の政治家ありやと疑うものである。民衆の幸福を考慮しないものが、どうして政治家、また指導者といえるか。現在のわが国の政治は、いわゆる政治以前の大人のケンカそのものではないか。政治以前の政治を、政治家以前の政治家がやっているといったら、いいすぎであろうか。「聖人は理非を察して世を治む」 ここで理非を察してとは、正しき道理であるか否かを明確に分け、さらに、それを政治の根本理念として、いかなければならないということである。「世を治む」とは、その学説、主張、研究、抱負等を、具体的な政治の場面に反映させ、あくまでも、民衆の生活の安定を目標としていかなければならない。すなわち民衆の幸福、大衆福祉の実現こそ、政治の要諦である、ということである。
 現在は、政治の乱世であるため、理非を察してではなく、利害を根本として社会が運営されている観がある。そして、恐るべきことは、そのような政治であっても、それをなんとか革命していこうという気力さえ、国民の大半が喪失してしまったことである
 すなわち、政治家はもちろんのこと、学者も、評論家も、この濁りきった政治をどのように革命していったらいいのか、見当もつかず、ついには現在の姿が、あたかもあたりまえのように、考えられてしまっているという情けない状態である。それにつづく民衆にいたっては、まったくの半身不随の状態である。
 これ、民衆の生命それ自体が濁りきってしまった姿である。これを打開する方途を見いだされぬ限り、腐敗せる土壌、脆弱な土台のうえに、いつも、劣悪な政治が繰り返されているだけである。極端な人間無視の政治が行われるのも、所詮、その底流は、民衆の無気力、無智、惰弱な生命にある。この状態を、人間性をしばりつける道徳や、精神修行で打開できぬことは当然である。

 では明王と聖人は何によって生ずるか、これが大問題である。そもそも人間の生命を本源的に変革する唯一の道は、日蓮大聖人の仏法しかないのである。政治にせよ、経済にせよ、教育にせよ、またその他のあらゆる文化は、ことごとく“人間”の営みであり、人間生命の具体的な表現である。この人間それ自体を善導し、変革し、最高に発揚させる根源の方途すなわち正しい仏法を教える人、これ仏法上の「聖人」の立ち場であり、これを土台として、具体的に民衆の幸福を願い、権力政治ではなく、慈悲の政治を実現し、大衆の福祉を、現実に社会に、国家にあらわしていく人、これ「明王」と「聖人」の立ち場なのである。
 過去の歴史をひもといてみるとき、真に民衆のことを思い、国家のことを考えて、せいじを行う指導者の出現したときは、その国家はおおいに繁栄し、国民はとみに充実した。だが、悪い為政者に支配されたときの国家や、国民は、まったく悲惨な目にあわされているのである。その善悪を決定したものは、実に指導者が持った法の正邪・高低であった。
 いま、国の内外に大きな問題をかかえたわが国は、いまこそ明王・聖人すなわち真実の民衆の指導者の出現を待っているものといえるのであろう。一日も早く濁りのない、清らかな政治が行われることを、祈り続けてきたわれわれ国民にとって、明王・聖人の出現こそ、待望ひさしきものである。われわれは今日まで、どんなにか耐え忍び、明王・聖人の出現を求めてきたことか。だが、これは所詮無理であり、あきらめざるをえないことは明瞭となった。
 もとより、仏法の原理に照らし、創価学会が明王・聖人となる以外になきことは必然であるが、ここに「王」とは、独裁者の「王」ではなく、民衆それ自体であり、または、民衆のなかより出、民衆の与望を担い、民衆の幸福のために戦う真実の指導者の意である。また、聖人というのも、民衆から離れた指導者を意味するのではなく、有智の民衆は直結し、民衆を真に幸福に導く指導者である。創価学会が第三文明建設に立ち上がり、あらゆる分野に有為な人材を送らんとしているのも、まさにこの実践以外のなにものでもない。

第二章 法然の邪義選択集を示すtop

02   主人の曰く、 後鳥羽院の御宇に法然と云うもの 有り選択集を作る則ち一代の聖教を破しアマネく十方の衆生
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 を迷わす、 其の選択に云く 道綽禅師・聖道浄土の二門を立て聖道を捨てて正しく浄土に帰するの文、 初に聖道
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 門とは之に就いて二有り 乃至之に準じ之を思うに 応に密大及以び実大をも存すべし、 然れば則ち今の真言・仏
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 心・天台・華厳・三論・法相・地論・摂論・此等の八家の意正しく此に在るなり、 曇鸞法師往生論の注に云く謹ん
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 で竜樹菩薩の十住毘婆沙を案ずるに云く 菩薩・阿毘跋致を求むるに二種の道有り 一には難行道 二には易行道な
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 り、 此の中難行道とは即ち是れ聖道門なり 易行道とは即ち是れ浄土門なり、 浄土宗の学者先ず須らく此の旨を
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 知るべし設い先より聖道門を学ぶ人なりと雖も 若し浄土門に於て其の志有らん者は 須らく聖道を棄てて浄土に帰
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 すべし又云く 善導和尚・正雑の二行を立て 雑行を捨てて正行に帰するの文、 第一に読誦雑行とは 上の観経等
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 の往生浄土の経を除いて 已外・大小乗・顕密の諸経に於て 受持読誦するを悉く読誦雑行と名く、 第三に礼拝雑
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 行とは上の弥陀を礼拝するを除いて 已外一切の諸仏菩薩等及び 諸の世天等に於て 礼拝し恭敬するを悉く礼拝雑
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 行と名く、 私に云く此の文を見るに 須く雑を捨てて 専を修すべし 豈百即百生の 専修正行を捨てて 堅く千
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 中無一の雑修雑行を執せんや 行者能く之を思量せよ、 又云く 貞元入蔵録の中に始め 大般若経六百巻より 法
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 常住経に終るまで 顕密の大乗経 総じて 六百三十七部二千八百八十三巻なり、 皆須く 読誦大乗の一句に摂す
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 べし、 当に知るべし 随他の前には暫く定散の門を開くと雖も 随自の後には還て定散の門を閉ず、 一たび開い
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 て以後永く閉じざるは唯是れ念仏の一門なりと、 又云く念仏の行者必ず三心を具足す可きの文、 観無量寿経に云
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 く同経の疏に云く問うて曰く 若し解行の不同・邪雑の人等有つて 外邪異見の難を防がん 或は行くこと一分二分
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 にして群賊等喚廻すとは即ち別解.別行・悪見の人等に喩う、私に云く又此の中に一切の別解.別行・異学・異見等と
0023
01
 言うは是れ聖道門を指す已上、 又最後結句の文に云く 「夫れ速かに生死を離れんと欲せば 二種の勝法の中に且く
02
 聖道門を閣きて選んで浄土門に入れ、 浄土門に入らんと欲せば 正雑二行の中に且く諸の雑行を抛ちて 選んで応
03
 に正行に帰すべし」已上。

 主人が答えて言う。
 後鳥羽院の御代に法然という僧があって選択集をつくった。この書によって釈尊一代の説法を破りあまねく一切を迷わしたのである。
 その選択集で道綽禅師は聖道門・浄土門の二門を立てて、聖道門を捨てて正しく浄土門に帰すべしと説いたが、これについて法然が考えると、はじめに聖道門とは、これについて大乗・小乗の二つがあり、大乗の中に顕教・密教・権教・実教等がある。これに準じて思うに、聖道門として捨てなければならないのは小乗・権大乗はもちろんのこと、まさに密大の真言も、実大の法華も聖道門として捨てるべきである。したがってこれらの経によって立てているところの真言宗・禅宗・天台宗・華厳宗・三論宗・法相宗・地論宗・摂論宗等の八宗は正しく顕密・権密の相違はあっても、みな聖道門として捨て去り、浄土の一門に帰すべきである。
 曇鸞法師の往生論の註には、次のごとくいっている。謹んで竜樹菩薩の十住毘婆沙論を案ずるに、菩薩が不退転の位を求めるのに、二種の道がある。一つは難行道であり、二には易行道である。
 このなかの難行道とは、すなわち聖道門であり易行道とはすなわち浄土門のことである。浄土宗の学者はすべてこの旨を知るべきであり、たとえ以前から聖道門を学んでいる人であっても、もし浄土門に入って学びたいという志のあるものは、すべからく聖道門を捨てて浄土門に帰すべきである。
 また善道和尚が正雑の二行を立て、雑行を捨てて、正行に帰すべきであると述べた文は次のようである。
 第一に読誦雑行とは浄土宗の依経である観経等の往生浄土の経を除いて、それ以外の大乗教・小乗教・顕教・密教の諸経を受持読誦するをことごとく読誦雑行と名づけるのである。第三に礼拝雑行とは阿弥陀仏を礼拝する以外は、いっさいの諸仏菩薩等および諸の世天等に対して、礼拝し恭敬するのをことごとく礼拝雑行と名づけるのである。
 以上の文について法然の見解をまとめていうならば、われらはすべからく雑行を捨てて專修念仏を修業しなければならない。どうして百人が百人とも必ず極楽浄土へ往生できる専修正行の念仏を捨てて、千中無一、すなわち千人の中で一人も成仏することのせきない法華経等の雑修雑行に堅く執着する道理があろうか。仏道を修業するものはよくよくこの事を考えるべきである。
 またいわく、中国唐の僧円照が選んだ貞元入蔵録のなかには、大般若経六百巻から始まって法常住経に至るまで、顕教・密教の大乗経は総じて六百三十七部二千八百八十三巻あるが、これらは皆、読誦大乗の一句に摂して、一束にして捨てるべきであり、釈尊の本意は、ただ念仏だけである。
 まさに知るべきである。仏が観経等を説いたときには衆生の機根に応じて説いた隋他意法門である。定散の二門等種々の行を示したが、いよいよ釈尊の本意である隋自意の法門念仏を説いたのちは、かえって前に説いた定散の門を閉じてしまった。一度開かれた後永久に閉じない門は、ただ念仏の一門のみである。
 またいわく、念仏の行者は必ず三心を具足しなければならないとの文。この文は観無量寿経にあり、善導の同経疏には「問うて言う。もし念仏の行者と知解も修業も同じでなく『念仏は邪教だ』などという邪雑の人があって・・・」また「外邪異見の難を防ごう」また「涅槃経や大論にある、一歩か二歩か進まぬうちに群賊等が良民を呼び返すという喩は別解・別行・悪見の人を群賊にたとえているのである」と。この善導の文について法然が考えるには、いっさいの別解・別行・異学・異見等と善導が言っているには、聖道行の人人をいうのである。
 最後の結句の文では「それ、すみやかに生死の苦しみを離れようと欲するならば、二種の勝れた法のなかで、聖道門をさしおいて浄土門にはいりなさい。浄土門にはいろうと欲するならば正行・雑行のなかで諸の雑行をなげうって選んでまさに正行に帰して専ら弥陀を信じ、念仏を修行していきなさい」とあり、以上が選択集の内容である。

講義
 すでに客が、悪侶とは一体、誰かと問うたのに対し、今、答えの意は、謗法の悪僧の元凶として法然の名を挙げ、その選択集の邪義を徹底的に破折されたのが、本章である。法然は選択集を作って、捨閉閣抛といい、仏教を破り、民衆を迷わしたがゆえに、法然を悪比丘としたのである。
 すなわち、この時代の宗教界の実態は、国の大半が念仏者となって、法然に帰依していた。他に天台、真言、禅、律などの諸宗もかなりの勢力をもち、活動もしていたが、浄土宗の発展ぶりに較べれば、天台、真言、律は停滞期にあり、法相、華厳等は没落期、禅宗は、まだ微々たる勢力でしかなかった。いわば念仏は開創以来数十年を経て、旭日の勢いを示している新興宗教の覇者だったのである。しかも、それが権経をもって実教を破る仏教破壊の思想で、悪鬼、魔神の邪教であることは歴然としていた。経文に照らし、三災七難の元凶であることも明々白々である。
 このゆえに、日蓮大聖人は、その念仏の開祖たる法然の名を挙げて、特に法然が選択集を作って捨閉閣抛と称し、仏教を破り民衆を迷わしている実体を示して、これの折伏に立ち向かわれたのである。しかしながら、主人のいう悪侶とは、単に法然一人にとどまるものでない。総じては、いっさいの邪宗僧侶を全部含めているのである。
 なぜかならば、すでに第一段の問いにおいて、客をして「然る間或は利剣即是の文を専にして」から「万民百姓を哀れんで国主国宰の徳政を行う」まで、国じゅうのあらゆる宗教がそれぞれ力の限りを尽くして、国難退治の祈禱を行っているにもかかわらず、一向に効き目がないばかりか、ますます災難、不幸を増長するばかりであると嘆かせている。このことは、いかなる宗教も三災七難を対冶できないことはもとより、結局、彼らこそ災難を増長させている原因であることを物語っている。
 さらに、先に仁王、涅槃、法華の各経文を引いて示されたが、これらの文に該当する僧は、どの宗派にも共通である。そうした僧は、ことごとく仏法のなかの怨であり、天魔外道の輩なりと断じられるのである。法然は、その最も凶悪なる代表として挙げられたのである。今日、浄土宗、真宗、真言宗、禅宗、等々の既成宗教から、明治時代以降および戦後に誕生した新興宗教に至るまで、宗教界のすべての僧、教祖、幹部に、この経文がピッタリと符合している事実を痛感するものである。また、その邪義をつくる手口も、本章で示されている法然のそれと、まことによく似ている点に注目すべきであろう。
 法然は、
曇鸞、道綽、善導の邪義をさらに発展させて種々に邪義を構えた。これが、いかにずるがしこい、卑怯な方法で行われたか、少しく検討していけば明瞭である。
 まず聖道門と浄土門との立て分けは、道綽の安楽集にある邪説である。だがこれは、爾前の諸経を聖道、浄土の二門に立て分けて、聖道門を捨てて、浄土門に帰すべしと述べているのであってまだ法華経を含めていない。
 だが、法然は、選択集において、聖道門に法華経を含めて、これを捨てよと論じたのである。すなわち「準之思之」の四字で、拡大解釈し、道綽の立てた聖道・浄土の二門を法華経にまで及ぼしたわけである。すべて、この調子で、曇鸞の難行道・易行道、善導の正行・雑行の邪説を「準之思之」の四字で拡大解釈し、法華経誹謗の大重罪をおかしているのである。
 これについては、大聖人は、守護国家論で次のごとく述べられている。
 「
問うて云く竜樹菩薩並に三師は法華真言等を以て難・聖・雑の中に入れざりしを源空私に之を入るるとは何を以て之を知るや、答えて云く遠く余処に証拠を尋ぬ可きに非ず即選択集に之を見たり、問うて云く其の証文如何、答えて云く選択集の第一篇に云く道綽禅師・聖道浄土の二門を立て而して聖道を捨てて正しく浄土に帰するの文と約束し了つて、次下に安楽集を引いて私の料簡の段に云く「初に聖道門とは之に就て二有り・一には大乗・二には小乗なり大乗の中に就て顕密権実等の不同有りと雖も今此の集の意は唯顕大及以び権大を存す故に歴劫迂回の行に当る之に準じて之を思うに応に密大及以び実大をも存すべし」已上選択集の文なり、此の文の意は道綽禅師の安楽集の意は法華已前の大小乗経に於て聖道浄土の二門を分つと雖も我私に法華・真言等の実大・密大を以て四十余年の権大乗に同じて聖道門と称す「準之思之」の四字是なり、此の意に依るが故に亦曇鸞の難易の二道を引く時亦私に法華真言を以て難行道の中に入れ善導和尚の正雑二行を分つ時も亦私に法華真言を以て雑行の内に入る総じて選択集の十六段に亘つて無量の謗法を作す根源は偏に此の四字より起る誤れるかな畏しきかな005206
 この法然の邪義がいかにして作られていったかは、あとでさらに詳しく論ずることにして、まずあのような低級、卑劣な邪義が、なぜ当時あのように蔓延したか、これを明らかにするために、ここで当時の宗教界における法然の地位、法然の一生、法然の選択集の破折の順でのべてみたい。
民衆の無智につけこんだ法然
 延暦13年(0794)の平安京遷都以来、絢爛たる文化を誇った良き時代も11世紀にはいると、政治の腐敗、仏教界の堕落、僧兵の横暴、武士団の勃興と、世の中は物情騒然たる時代となり、相次ぐ天災、飢饉のなかに、人々は不安の毎日を余儀なくされていた。
 それまで天台宗を中心としていた仏教界は、その内側における葛藤から、腐敗、乱脈をきわめ、しかも保元、平治の乱、さらに源平の合戦と、相次ぐ戦乱にみずから巻き込まれて、人々を救うなんの力もないことを露呈したのである。こうして現世を穢土として嫌い、浄土往生を願う念仏思想が、次第に民衆のなかに溶け込んでいった。
 しかも、永承7年(1052)は、釈尊滅後ちょうど2000年、すなわち末法にはいる年とされ、従来の煩瑣な理論を持つ仏教は功力はないとし、単純な、新しい宗教の出現を渇望していったのである。
 法然の念仏思想は、こうした時代の風潮に便乗したもので、それまでの天台・真言のように難解な教義はなんら必要とせず、いっさいを捨てて、ただ念仏を唱えることによって、極楽往生できるというきわめて単純なものであった。法然に帰依したものの大部分が、朴訥無学な武士や諸民であったことは、既成仏教と根本的に異なる点であった。彼らにとっては、わずらわしい教義はなんら必要ではなかった。専修念仏の信仰は、聞くだけでうっとりとするような極楽浄土を慕うムード、狂信的な踊り念仏の流行、若い念仏僧が美声を張り上げて歌う和讃等々、いわば現代のモンキー・ダンスやロックンロール、ジャズ等のような形で民間に浸透していったのである。それは、まったく精神異常以外のなにものでもなかった。
 このあと、すぐ述べるところであるが、少しく仏教を知り、冷静に考えてみるならば、法然の教義は実にたわいのないものであり、しかも正法を誹謗した恐るべき邪説であることが、すぐ判断できたはずである。のみならず、比叡山の学僧のなかに、これを破折して世に警告を発した人も少なくなかった。だが、一般民衆にはなにもわからないまま、疫病が流行するように蔓延していったのである。
 法然によって説かれた専修念仏の教えは、その弟子たちの手によって、たちまちのうちに全国に流布し、わが国は上下をあげて、この邪義に心酔してしまった。なかでも前に述べたように、時宗の一遍等は、全国をくまなく遍歴して、邪教を弘め、無智な民衆をたぶらかしていったのである。
 この時代は、法然の念仏のほか、禅宗が北条時頼を後ろ立てに得て、発展し、栄西、道元、道隆などの僧を中心として、隆盛をはじめている。律宗でも、良観が、巧みに幕府に取り入って、自己の保身、勢力の拡張を推し進めている
法然の一生
 ここで法然の生い立ち、その一生を略述してみよう。法然は長承2年(1133)美作国久米郡に生まれた。父の漆間時国は久米郡の押領使で、母も土地の豪族の出であった。法然が9歳の時、父時国は多年にわたって争いを続けてきた土地の預所明石定明に夜襲を受けて殺されてしまった。このような事件は当時の社会にあっては、役人同士の争い、中央官僚と地方豪族の争いとしてよくあったもので、特に珍しいことではなかった。
 浄土宗側の伝記によれば、この夜襲の際、臨終の父は法然に対して、仇討ちを厳にいさめ、一切衆生が安易に救済される法門を開顕するために、出家するよう諭したというが、幼名を勢至丸といったこととともに、当時の記録になくはなはだ疑わしい。久安3年(1147)、15歳の時、母に暇を乞い、比叡山に登り、持宝房源光の室にはいり、ついで功徳院皇円に移り、11月に剃髪受戒して円明善弘と名のった。
 ここで3年間修学したのち、18歳の時、黒谷の慈眼房叡空の弟子となり、ここで法然房源空と改名した。この黒谷で、彼は慧心僧都の「往生要集」をはじめ、諸宗の章疏を学び、なかんずく、善導の「観経疏」の「一心専念弥陀名号」の文をみて、
承安5年(1175)、43歳の春、浄土宗の邪義を構えたのである。
 彼の教義の特色は、それまでの仏教界の中心であった天台宗等が、難解な教学を旨としたのに対して、戒定慧の三学をはじめ、一切経を捨てよ、閉じよ、閣け、抛てと唱え、ただ阿弥陀に対する強い信仰を強調したことである。これによって、一般庶民を引きつける力を持つ結果とはなったが、それは、まさに仏法を隠没する暴義でもあった。
 また、布教の仕方も、従来、僧侶は山中にはいったり、いかめしい寺院の奥深くにあって、庶民のなかでも、遊女や賤民と話したり、顔を合わせたりすることはなかった。これに対して法然らは、そうした婦女子にも積極的に近づいて、布教を進めていった。こうして、多くの無学な武士階級や一般庶民が、つぎつぎと念仏を唱え始めた。貴族のなかでは関白九条兼実らも帰依し、法然の教義は上下に伸張していったのである。
 ために比叡山、興福寺などの旧仏教から嫉視されるようになり、たびたび念仏禁止の上奏がなされた。だが、最初のうちはこの上奏も、いずれも却下され、沙汰やみとなっていた。しかるに
建永元年1206)、法然が74歳の時、彼の弟子で美貌、美声の噂の高い安楽と住蓮が開いた念仏の会合に、後鳥羽院の留守を利用して、数人の女房が出席した。そして、彼女たちが安楽、住蓮と密通したという噂がひろまったのである。これが、院の大きな怒りを呼んでしまった。
 年が明けるとともに、法然門下の僧侶は次々と捕えられ、安楽、住蓮の二人は死刑、そのほか法然自身も讃岐に流罪に処されたほか、多くの門弟が島流し、追放をいい渡された。
 浄土宗ではこれを法難と称して美化しているが、女性問題、風紀問題で弾圧されたことが、なにが法難か。これを国難を救うためわが身を惜しまず諌暁され、ために三類の強敵を呼び起こした大聖人の法難とくらべるなら、まさに天地雲泥の違いがあるではなか。
 法然は道々、遊女や漁師など庶民に布教を続け、
承元51211)許されて京都に帰ったが、翌年、80歳で没した。その後嘉禄3年(1227)すなわち、彼の死後15年、延暦寺の僧徒の訴えによって、念仏禁止の勅宣が下され、墓および堂宇は破壊され、遺骸は鴨川に流された。
仏教に全く依らない選択

 
法然は、その生涯において、幾つかの著作を試しみたが、その代表とされるのが「選択本願念仏集」である。彼の構えた邪義は、この一書に集約されており、これが以来700年間、日本民族を苦しみ続けた念仏の害毒の源である。
 この選択集に対する破折は、日蓮大聖人の諸御書で論じられているが、なかでも体系的に完膚なきまでに破折し尽くされたのが「守護国家論」である。今、立正安国論で破折されているのは、ごく大網をとって論じられている。しかし、これだけでもすでに明瞭なごとく、選択集の邪義の拠りどころは、すべて、
曇鸞、道綽、善導、慧心僧都の人師のせつであって、仏説たる経文に対しては、亳も考察し、依拠としていないのである。
 なぜ、仏説を依処としないか、それは、法然が唱えようとしている教義が、経文のどこにも説かれていないからである。すなわち法然の浄土宗とは、仏教とは名ばかりで、内容的には仏教とはなんの関係もない、法然経にすぎない。
 およそ仏教と名のる以上は、その主張に誤りのないことが、経文のうえで、証明されるものがなければならない。こういえば、現代科学の帰納法的思考しか知らぬ人々は「それでは発展性がないではないか」と反論するかもしれない。
 この反論は、一応は尤もである。だが、東洋哲学の真髄たる仏法は、そうした帰納法とは本質的に違う演繹法に立つものであることを知らなければならない。すなわち、仏の悟り、境地は絶対的なものであって、そこにいっさいの原理があり、源がある。仏の説いた八万四千の法門には、すべてが説き尽くされているのである。このゆえに、仏の金言、仏の予言に反する説は、邪説と断ずることができるのである。これが仏教者の信念であり、鉄則である。
 さらに一般的に論じても、もしも仏の説と異なった説を立てる以上は、仏の説のどこに誤りがあるのかを明確にしたうえで立てられるものでなければならない。それをまったく無視して、しかも異説を唱え、そのうえに、ただ独断的に、浄土三部経のみが正しくて、他はすべて誤りであるから捨てよ等というものは、民衆を盲目視し、ばかにしているにもほどがあるといわねばならない。
 しかして、そうした根拠のない邪説に、ただ盲目的に従って、低級なる三部経にのみ執着して、最高の法華経をはじめ、仏の経説を捨てる民衆は、愚かといって、なんのいいすぎであろうか。この盲目の民衆をきびしく叱り、めざめさせて正法を教えられたのが日蓮大聖人である。
 目をさまし、生気に戻って眼を開いて見るならば、末法衆生の主師親、すなわち御本仏は、日蓮大聖人にほかならないことがわかるのである。その末法御本仏、日蓮大聖人の説かれる成仏得道の大白法こそ、三大秘法の大御本尊である。
 ここで、この立正安国論で、特に、本章等において、法然の邪義を責めるにあたり、難行道、聖道門、雑行のなかに法華真言を含めている我見を、特に強調されている所以がある。
「実教より之を責むべし」
 法華真言とは、大聖人御在世当時でいえば、一応は比叡山自体ともいえる。したがって一見、これは、法然の浄土宗を責めて、天台宗に帰依せよと主張されたかのように思われるむきもあろう。
 だが、大聖人の御真意が、天台宗のごときでないことは、冒頭の客の質問に、天台宗の祈禱も一向に効き目がないと嘆かせられていることからも明白である。ではなぜ、ここで法華真言と申されたのか。これは、すなわち、権実相対の立ち場で論じられていることを知らなければならない。
 如説修行抄にいわく、
 「末法の始めの五百年には純円・一実の法華経のみ広宣流布の時なり、此の時は闘諍堅固・白法隠没の時と定めて権実雑乱の砌なり、敵有る時は刀杖弓箭を持つ可し 敵無き時は弓箭兵杖何にかせん、今の時は権教即実教の敵と成るなり、一乗流布の時は権教有つて敵と成りて・まぎらはしくば実教より之を責む可し、是を摂折二門の中には法華経の折伏と申すなり」(050313
 浄土宗が依経とする阿弥陀経は権教である。わが国においては、伝教大師の出現によって、実教たる法華経の広宣流布が成し遂げられている。しかるに、今になって、浄土宗がひろまったというかとは、権実雑乱以外のなにものでもない。しかも、法然が、法華経を捨てよ、閉じよ、閣け、抛てというのは、まさに権経即実経の敵となる姿ではないか。
 この時には「実教より之を責む可し」なのである。このゆえに権実相対の立ち場から、大聖人は権教たる阿弥陀経に対して、実教たる法華経を立て、権仏たる阿弥陀如来に対して実教たる釈迦如来を立てられたのである。これにより、法華経こそ最高唯一の教なることを知り、さらに法華経の経文のうえから、末法に出現せられた日蓮大聖人こそ、経文に予言せられた末法の御本仏であり、大御本尊以外に幸福になる道はないことを、知りやすくせんがためである。かつ、同じく法華経といい実教といっても、天台仏法の法華経でないことは、ないことは、観心本尊得意抄に「設い天台伝教の如く法のままありとも今末法に至ては去年の暦の如」(097209)等とあることから明瞭である。如説修行抄の「純円・一実の法華経」「一乗流布」というのも、末法流布の三大秘法の謂なのである。
 末法の民衆の生命力を増し、絶対的幸福の人生を遊戯せしめる本源こそ、法華経本門寿量品の文底に秘沈された、三大秘法の仏法にほかならない。しかして、これが最も根本的な大良薬なのである。日蓮大聖人の御本意は、あくまでもこの大良薬を服せしめることにあるのであって、天台仏法に帰依せよと仰せられているのでは、毛頭ないことを知るべきであろう。
浄土宗教義の成立
 
さて、法然の邪義の所以のさらに深いのは、仏の経説によらず、人師の謬説によっていること、さらに、この人師の説を曲げてしまっているということである。これを明かすため、曇鸞、道綽、善導がどのような謬説を立てそれを法然がどのように邪悪化したかを概要しょう。
曇鸞について
 曇鸞は5世紀末から6世紀にかけて、いわゆる南北朝時代の人で、はじめ四論を学んだがのちに病にかかって長生不死の法を求め、江南に道士、陶弘景をたずねて仙経を得て北に帰った。しかるに、洛陽で菩提留支に会って、その法を聞き、たちまち意を翻して仙教を焼き、もっぱら浄土教に帰依した。魏の帝王の帰依をえて親鸞の名をもらい、并州大厳寺に住み、晩年は石壁山玄中寺に住んだ。
 著書に「往生論註」二巻、「略論安楽浄土義」「讃阿弥陀仏偈」などの浄土教に関するものから、「療百病雑方丸」三巻、「論気治療方」一巻といった道教式の医書まである。往生論註は、その代表的著書で、菩提留支が訳した天親菩薩の「優婆提舎願生偈」を、竜樹菩薩の「十住毘婆沙論」の易行品等の所説を取り入れて論じたものである。
 竜樹、天親は正法時代に出現した正師で、その所説は権大乗経の流布に本意があり、権大乗のなかで浅深勝劣を明かしたのであった。そこでは、権大乗と実教とは明確に立て分けて論じられていた。曇鸞の「往生論註」も、難行、易行の二道を立て分けたが、あくまでも権大乗の諸経のなかでの論議で、法華経を難行道に入れることはしていない。法華経までも一緒に論じたのは、法然が初めてつくった自分勝手な邪説にほかならないのである。
 日蓮大聖人は、これを破折して「守護国家論」に次のように述べられている。「釈迦如来五十年の説教に総じて先き四十二年の意を無量義経に定めて云く「険逕を行くに留難多き故に」と無量義経の已後を定めて云く「大直道を行くに留難無きが故に」と仏自ら難易・勝劣の二道を分ちたまえり、仏より外等覚已下末代の凡師に至るまで自義を以て難易の二道を分ち此の義に背く者は外道魔王の説に同じきか、随つて四依の大士・竜樹菩薩の十住毘婆沙論には法華已前に於て難易の二道を分ち敢て四十余年已後の経に於て難行の義を存せず、其の上若し修し易きを以て易行と定めば法華経の五十展転の行は称名念仏より行じ易きこと百千万億倍なり、若し亦勝を以て易行と定めば分別功徳品に爾前四十余年の八十万億劫の間の檀・戒・忍・進・念仏三昧等先きの五波羅蜜の功徳を以て法華経の一念信解の功徳に比するに一念信解の功徳は念仏三昧等の先きの五波羅蜜に勝るる事百千万億倍なり、難易・勝劣と云い行浅功深と云い観経等の念仏三昧を法華経に比するに難行の中の極難行・劣が中の極劣なり。」(005311)と。
 このように、雑行、易行を論ずるならば、法華経が最も易行であることを、仏みずから定めている。このゆえに、曇鸞ですら、法華経を難行道に含めることをはばかったのである。しかるに法然は、仏説に背き、曇鸞の教えも踏みにじって、法華経を難行道に入れ、これを捨てよ等という、大謗法を犯している。
道綽について
 道綽は6世紀後半、唐代の僧で、生まれたのは曇鸞の死後20年である。したがって、曇鸞・道綽は、直接のつながりはない。玄中寺をたずねた道綽が、その碑文を見て、当時の末法思想に便乗して曇鸞の思想をひろめたのが、その真相である。道綽は、はじめ讃禅師について涅槃学を学んだが、曇鸞の碑文を見て浄土教を立て「安楽集」等を著した。
 その所説は、法華経以前の大小乗教について、聖道門、浄土門の二つを分かち、聖道門は千中無一すなわち千人修行しても、一人も成仏できない。浄土三部経のみが百即百生の教説であると主張したのである。
 これについても、法然は「私の料簡」として「初に聖道門とは之に就いて二有り、一には大乗・二には小乗なり大乗の中に就て顕密権実等の不同有りと雖も今此の集の意は唯顕大及以び権大を存す故に歴劫迂回の行に当る之に準じて之を思うに応に密大及以び実大をも存すべし」と述べ、理不尽にも、法華経さえも千中無一の聖道門である。と断定している。これまた、仏説をないがしろにする大謗法であり、浄土宗の祖と崇める道綽の本意をすら踏みにじったものであることは、論をまたないであろう。
善導について
 善導も唐代の僧で、生まれたのは山東省とも安微省ともいい、詳らかではない。少年時代、法華経、維摩経を読み習ったが、たまたま仏寺中の西方変相の絵を見て、浄土に生まれようと願いをたて、観無量寿経に専念するようになったという。その後、玄中寺で道綽の教えを受け、また終南山妙真寺、長安の光明寺と転々した。
 その修行は、30余年間、寝処を定めず、道を歩くときは目をふせて女性を見ないようにしたとか、日々托鉢し、それを大衆に施した等々という。また、阿弥陀経を書写すること十万巻、浄土の変相三百鋪を描いて、領布し、塔寺の損壊を見れば必ず修復した等々といわれる。こうした姿は、大聖人御在世当時の忍性良観等と同じで、経文の「持律に似像して」云云にあたる。
 外面は高徳道綽並びなき名僧のごとくであるが、その教義は、釈尊、天台の正義に反する己義で、人を地獄に突き落とす天魔・外道以外のなにものでもなかった。
 著作は「観無量寿経疏」「往生礼讃」「般舟賛」「観念法門」等があり、儀式には音楽的要素を取り入れたのも善導に始まるといわれる。
 しかし、高僧という評判は天下に響き、多くの無智の男女が帰依して、阿弥陀経読誦30万遍、日課称名10万遍等という念仏信者も現われ、往生を願って自殺する者が絶えなかった。
 善導自身、大勢の信者がその極楽往生の様を見ようと集まってきているなかで、寺の前の柳の木に縄を掛け、首をくくった。しかるに、前にも述べたように、枝が折れるか縄がきれるかして、善導は地面に落ち、背の骨を折って77夜、苦しみ悶えて息絶えていったのである。このように、善導は、みずから念仏者の極楽往生はウソであり、むしろその末路は、無間地獄に堕ちることを証明したのである。
 善導の教えは、釈尊の教えに反して極楽往生を理想とし、四十余年末顕真実の権教に執した点で、あくまで邪教であった。しかし「往生礼讃」の正行・雑行の立て分けは、ひとえに摂論宗を破るための所判であって、法華経を雑行に入れる意図は毛頭なかった。これを勝手に作り変えて、法華経を雑行に含め、天台等を群賊いれたのも法然である。現身に堕地獄の相を示した善導以上に、法然の受ける罪報は大きいことを知らなければならない。
 曇鸞、道綽、善導ともに、その説は、所詮、仏の真意たる法華経に反する邪説であった。しかし、法華経をもって、捨てよ等という決定的な謗法ではなかった。このゆえに、守護国家論に大聖人は「多分は本論の意に違わず」と申されているのである。
慧心僧都について
 法然が浄土信仰に転ずる動機となったのが慧心の「往生要集」である。慧心は、比叡山第18代座主慧恵大師の弟子で、教相を重んずる檀那流に対して、観心を重んずる慧心流を立てた学僧である。「往生要集」は表面的に見れば浄土宗を宣揚しているようであるが、その大文第十の問答料簡の中の第七、諸行勝劣の念仏と法華経の一念信解の功徳を比べて、一念信解の方が念仏三昧より百千万億倍勝ると結論している。
 すなわち、「往生要集」は法華経がいかに勝れているかを説くために著したものである。だが、これには、なお念仏的な臭いが残っており、それに気づいた慧心は、権少僧都の職を辞任してまで、前非を悔い、さらに「一乗要訣」を著わして、法華最勝の義を鮮明に論じているのである。
 これを法然が読みきれず、単に浄土宣揚の書と受け取ったのは、法然がいかに無智であり、浅学であったかを証明するものといわざるをえない。あるいは、己義を荘厳するために、つごうのよい所だけをとったのであろうか。
 しかし、以上は、与えて論じたのであって、奪って論ずれば、慧心が法然の邪義の淵源になったことは事実である。撰時抄には、慧心を師子身中の虫と断じられている。「法然が念仏宗のはやりて一国を失わんとする因縁は慧心の往生要集の序よりはじまれり、師子の身の中の虫の師子を食うと仏の記し給うはまことなるかなや」(028004)と。
 また、同じく撰時抄に「日蓮は真言・禅宗・浄土等の元祖を三虫となづく、又天台宗の慈覚・安然・慧心等は法華経・伝教大師の師子の身の中の三虫なり」(028613)と。
 現代においても、学者のなかには、法然をもって、あたかも中世日本の生んだすぐれた思想家であるかのごとく論ずる人が少なくない。だが、法然の思想が、どのようにして組み立てられているかを、厳密に研究するならば、およそ思想、哲学とはいえない、飛躍であり独断であり、邪説であることがわかるはずである。
 また、法然をもって宗教的改革者であるとする人々もある。これも、法然が晩年の元久元年(1204)弟子がふえて、叡山の衆徒が専修念仏の禁止を天台座主に要求したとき、弾圧を避けるため、他宗の悪口をいってはならない等の七箇条の禁制を定め、師弟190人が連署して天台座主に出している。その内容は
   一、阿弥陀仏以外の仏菩薩を謗らない。
   二、他教の人と好んで論争しない。
   三、他教の人にその信仰を捨てさせない。
   四、念仏門では無戒と称して婬酒食肉を勧めたりしない。
   五、勝手に自分の教義を立てて人と争ったりしない。
   六、唱導で無智の人々を教化しない。
   七、誤った教えを偽って師範の説としない。
 の七箇条である。しかし、すでに膨大化し、突っ走り始めた狂騒の民衆は、法然の手にも負えなくなってしまい、ついに朝廷による念仏一門禁圧を招いたのである。
 いっさいの宗派を邪義なりと断じ、経証を引いて、哲学的に論証し、謗法の者を即刻断絶せよと、師子王のごとく叫ばれた日蓮大聖人と比べれば、まさに天地雲泥の違いがあるではないか。ここに、われわれは、正義と邪義、仏と魔との本質的な相違を見ることができるのである。

第三章 法然の謗法を断ずtop

04   之に就いて之を見るに 曇鸞・道綽・善導の謬釈を引いて聖道・浄土・難行・易行の旨を建て法華真言惣じて一
05
 代の大乗 六百三十七部二千八百八十三巻・一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て皆聖道・難行・雑行等に摂して、
06
 或は捨て或は閉じ 或は閣き或は抛つ此の四字を以て 多く一切を迷わし、 剰え三国の聖僧十方の仏弟を以て皆群
07
 賊と号し併せて罵詈せしむ、 近くは所依の浄土の三部経の唯除五逆誹謗正法の誓文に背き、 遠くは一代五時の肝
08
 心たる法華経の第二の「若し人信ぜずして 此の経を毀謗せば 乃至其の人命終つて阿鼻獄に入らん」の誡文に迷う
09
 者なり、

 この法然の選択集を見ると念仏の祖である中国の雲鸞・道綽・善導の謬釈を引いて、聖道と浄土・難行と易行の旨をたて、の法華・真言をはじめ、総じて釈尊一代の大乗経三百六十七部二千八百八十三巻のいっさいの経文といっさいの諸仏・菩薩および諸天善神を信仰することを皆、聖道門・難行・雑行等に入れてしまって、あるいは捨てよ、あるいは閉じよ、あるいは閣け、あるいは抛ての四字をもって一切衆生を迷わしている。そのうえにインド・中国・日本の三国の聖僧や十方の仏弟子をもってみな群賊といい、念仏の修行を妨げるものであるとして、これらの聖僧に悪口をあびせている。
 このことは近くは彼等が依経としている浄土の三部経の中に説かれている法蔵比丘四十八願中の第十八願に「念仏を唱えていけば必ず極楽浄土に往生できるが、ただ五逆罪の者と正法を誹謗する者を除く」との誓文に背き、遠くは釈尊一代五時の説法のうち、その肝心である法華経第二巻譬喩品第三の「もし人がこの法華経を信じないで毀謗するならば、その人は命終わってのち阿鼻地獄に入るであろう」との釈尊の戒文に迷うものである。

講義
 前章に法然の選択集を長く引いたのに対し、本章では経文の中の文証を引いて、これを破折されたのである。
 はじめに「雲鸞・道綽・善導の謬釈」とあるが、これは今奪って論じたものであって、前章の講義の中に引いた守護国家論の中にある文証になんら違するものではない。前章においては、法然の邪義から見るならば、中国の三師の釈は「多分は本論の意に違わず」と述べられたもので、これは与えて論じたものである。
 同様の例として、当世念仏者無間地獄事にいわく「浄土の三師に於ては書釈を見るに難行・雑行・聖道の中に法華経を入れたる意粗之有り、然りと雖も法然が如き放言の事之無し」(010914)。これは与えて論じたものである。同じ御書に奪って論じて、次のごとく仰せである。「三師並に法然此の義を弁えずして 諸行の中に法華・涅槃並に一代を摂して 末代に於て之を行ぜん者は千中無一と定むるは近くは依経に背き遠くは仏意に違う者なり」(010905
 なぜ与えて論ずるかといえば、法然の邪義に比べれば、三師の邪義など物の数ではないという立ち場から法然の悪を強く指摘するためであり、再往奪って論ずるのは、法然の邪義は、三毒の邪義のうえに形成されたものであり、三師の邪義を挙げ、さらに法然の邪義のいかに謗法きわまりなきものであるかを強く示されるのである。ともに法然の邪義に焦点を向けられるためである。
法然こそ誹謗正法の張本人
 
まことに法然こそ、中国の三師の誤った解釈にさらに輪をかけて、法華経をはじめとする釈尊一代の聖教を浄土の三部を除いては、聖道門、難行道、雑行としてしまい、一切経を捨てよ、閉じよ、閣け、抛てと「捨閉閣抛」の四字をもって上下万民を迷わした張本人なのである。
 そのうえ、法然は法華経等を正しく伝えた聖僧、および十方の仏の弟子を群賊とし、自己の邪義のうえに、さらに聖僧罵詈の罪を犯した。
 こうした法然の邪義に対し、日蓮大聖人は、一つは彼らの依経としている弥陀の三部経のなかから、他の一つは法華経の経文から、二つの文証を引いて破折を加えられたのである。この三つの経文のうち、弥陀三部経の経文は、彼ら念仏者の立ち場を一応認めて、与えて論じられたものであり、法華経の文は、奪って論じたものである。まず、彼らが依経としている三部経の一節「唯五逆誹謗正法を除く」の経文であるが、これは大無量寿経のなかに法蔵比丘の四十八願の第十八願として「設い我仏を得んに十方衆生至心に信楽して我国に生まれんと欲し乃至十念せん若し生ぜずんば正覚を取らじ唯五逆と誹謗正法とを除く」と説かれている。
 この法蔵比丘の四十八願について、少しく説明を加えるならば、過去無数劫に然燈仏等の五十三仏があらわれた後、世自在如来が出現し、民衆を教化した。そのとき一人の国王がその仏の説法を聞いて随喜し、信心の心を起こし、ついに王位を捨てて僧侶となり、法蔵比丘といった。そして菩薩道を修行し、自分の仏国土を荘厳しようと願い、世自在王仏に、これまでもろもろの仏たちとは、どのように荘厳したかを教えてくださいと頼んだ。そこで世自在王仏は二百一十億の諸仏の先例を説いた。法蔵比丘は四劫の間思索し、そのなかのよい例を選択して、みずから仏のもとへ行って自分の国土を荘厳し、浄化するという四十八願を立てた、というのである。
 その第十八願が先の経文であり、その仏国土は、娑婆世界から西方へ十万億仏国をすぎたところにあると説いた。これが、念仏宗で説く、極楽往生であり、このことから、彼らは、この世の中は穢土で、死んでのち西方の極楽浄土へ往生すると説いているのである。
 ところが、彼らが念仏を唱えると、極楽往生できるという唯一の依処たる法蔵比丘の第十八願のなかに、明確に「唯五逆と誹謗正法を除く」と示されているのである。
 たとえば釈尊が「四十余年未顕真実」といって説かれた爾前経であるにせよ、彼らの依経としている三部経を一応正しいものと認め、念仏を唱えたとしても、百人が百人、必ずしも極楽浄土へ行かれないということが、法蔵比丘の四十八願のなかにはっきりしているのである。
 五逆罪を犯したものと、正法を誹謗したものとは、いかに阿弥陀仏を念じようとも、極楽浄土へ生ずることはできない。このことはほかでもない彼らの依経のなかに明示されているのである。にもかかわらず、その断わっているところを隠し、誰もが西方浄土へ行けるようにいいふらしたのは、いかなるわけか。ここにつごうの悪いところは削除するという、邪宗教特有の奸智にたけた悪侶の姿を見いだすではないか。
 さらに日蓮大聖人は第二番目として、奪った立ち場から法華経譬喩品の一節「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば乃至その人命終って阿鼻獄に入らん」をもって、破折されている。
 まず、ここで引かれた譬喩品の前後をみると「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん、或は復顰蹙して疑惑を懐かん。汝当に此の人の罪報を聴くべし、若しは仏の在世若しは滅度の後に其れ斯くの如き経典を誹謗すること有らん、経を読誦し所持すること有らん者を見て軽賤憎嫉して結恨を懐かん、此の人の罪報いを汝今復聴け、其の人命終って阿鼻獄に入らん」とあり、以下に正法を誹謗した時の苦悩、悲惨のありさまが、詳しく説かれている。
 これらの点については、すでに第一段第二章に詳述したとおりである。そのどれを取り上げても、誹謗正法がいかに恐ろしいことであるかを示されているのである。
念仏の開祖・信者の悲惨な結末
 日蓮大聖人は、念仏無間地獄の姿を善導、法然等の開祖の臨終のようすから、次のように教えられている。すなわち、当世念仏者無間地獄抄にいわく、
 「而るに汝等が本師と仰ぐ所の善導和尚は此の文を受けて転教口称とは云えども狂乱往生とは云わず、其の上汝等が昼夜十二時に祈る所の願文に云く願くは弟子等命終の時に臨んで心顛倒せず心錯乱せず心失念せず身心諸の苦痛無く身心快楽禅定に入るが如し等云云、此の中に錯乱とは狂乱か而るに十悪五逆を作らざる当世の念仏の上人達並に大檀那等の臨終の悪瘡等の諸の悪重病並に臨終の狂乱は 意を得ざる事なり、而るに善導和尚の十即十生と定め又定得往生等の釈の如きは疑無きの処に十人に九人往生すと雖も一人往生せざれば猶不審発る可し、何に況や念仏宗の長者為る善慧・隆観・聖光・薩生・南無・真光等・皆悪瘡等の重病を受けて臨終に狂乱して死するの由之を聞き又之を知る、 其の已下の念仏者の臨終の狂乱其の数を知らず」(010514
 このように、念仏者の臨終の姿は、一洋に悲惨そのものである。これこそ無間地獄に堕ち行く姿でなくてなんであろうか。前章でも詳しくみたとおり、狂乱のあまり、庭先の柳によじ登り、大地に落ちて7日間地獄の苦しみのうちに死に絶えた善導、死後、勅により墓をあばかれ鴨川に捨てられた法然、それにつづく善慧、隆寛、聖光、薩生、南無、真光等の高位の弟子がいずれも悪瘡の重病で、狂乱のまま息絶えていった厳然たる事実、まさしく経文の「命終って阿鼻獄に入る」姿そのものではないか。
 立宗の開祖、宗祖が、このような状態であるから、弟子檀那にいたってもけっして例外ではないはずである。「大檀那等の臨終の悪瘡等の諸の悪重病並に臨終の狂乱は意を得ざる悪瘡事なり」とは、このことを仰せられたものであり、「じょうど門に入って師の跡を踏む可くば臨終の時善導の如く自害有る可きか、念仏者悪瘡として頸をくくらずんば師に背く咎有る可きか如何」との大聖人の破折を、念仏者は一体、なんと答えられるのか。
 法然の死後、その残した邪義、害毒のゆえに、どれはどの人が不幸のどん底に堕とされたことか。念仏を強盛に信仰していけばいくほど、その一家が悲惨となっていく。この姿こそ法然の立てた教義が、まったくの邪義であるとのなによりの証拠である。日蓮大聖人が四箇格言のなかで「念仏無間地獄」と一言のもとに破折された以上、その教えに逆らって念仏に執着するものがあれば、いかなる人といえども必ず、不幸悲惨の日々をすごさなければならないのである。
堕地獄疑いない念仏者
 700年前、国民のほとんどを帰依させるまでに隆盛を極めた念仏宗も、今日では、わが創価学会の進軍の前に、はかないあがきを示しているにすぎない。念仏がかくまでも没落し、国民の大半から見放された状態となってしまったのも、所詮は彼らの教義が低級、幼稚のためであり、低級なる思想、宗教は必ず没落していくとの明確な証明である。
 さらに敷衍して、この法華経の文を考えるならば、法然の念仏に限らず、末法の法華経たる大御本尊を誹謗するいっさいの輩は、皆、堕地獄疑いなき者である。
 日蓮大聖人御在世当時、大聖人に敵対した者に例をとるならば、この定理は一分の狂いもなくあてはまっている。
 聖人御難事には、次のごとく法罰の現証を述べられている。
 「大田の親昌・長崎次郎兵衛の尉時綱・大進房が落馬等は法華経の罰のあらわるるか、罰は総罰・別罰・顕罰・冥罰・四候、日本国の大疫病と大けかちとどしうちと他国よりせめらるるは総ばちなり、やくびやうは冥罰なり、大田等は現罰なり別ばちなり」(119005
 ここに大田親昌・長崎次郎兵衛の尉時綱・大進房は、熱原の法難の際、日蓮大聖人の一門を迫害した連中であり、厳然と罰があらわれ、落馬し、悶絶し、死んでいったのである。
 また、大聖人の御在世を通して、大聖人をはじめ、その門下に激しい弾圧を加えたのは、時の権力者、平左衛門尉頼綱であった。
 この平頼綱は、大聖人御在世中、鎌倉幕府のなかにあって、現代でいえば、警視総監の地位につき、文永8912日の竜の口法難、つづく佐渡流罪と、数々の法難のうちでも、最も大規模に、また冷酷に大聖人をはじめ、その門下を弾圧した張本人である。
 また、大聖人が出世の本懐たる三大秘法の大御本尊を認められたのは、弘安21012日であったが、この大御本尊御図顕の直接の縁となった、熱原法難の際、その大迫害の最高責任者も同じく平頼綱であった。
 だが、そうした断圧当時には、頼綱も、またその周辺になんの不幸もなかった。むしろ大聖人御入滅後3年たった弘安811月には、幕府内にあって勢力を競い合っていた安達泰盛一派を討って、北条氏のもとにおける地位は盤石のものとなった。この争いは一般に霜月騒動と呼ばれているが、この騒動後頼綱の地位は、まったく旭日の勢いで、北条氏をしのぐとさえいわれるほどであったが、彼の行った政治は恐るべき専権と恐怖の政治であった。
 頼綱の子平宗綱、飯沼判官助宗、弟の長崎光綱らがにわかに権力を握って、中央に進出してきた。霜月騒動後、その恐怖政治は約8年間続いた。頼綱の権力はいまやとどまるところを知らず、執権貞時もようやく、身辺に不安をおぼえ始めた。永仁元年413日、鎌倉では大地震が起こり、将軍の邸宅をはじめ建長寺など諸寺が顛倒焼失し、死者は2万余人におよんだ。
 「保歴間記」の伝えるところによると、嫡子の宗綱が「父・頼綱は弟の飯沼判官助宗将軍にしようと企んでいる」と執権貞時に密告したという。頼綱にこの陰謀があったかどうかはわからないが、執権をしのぐ権勢をもっていたことは確からしい。永仁元年422日、ついに執権貞時も腰をあげ、討手を差し向け、頼綱の輩を急襲、頼綱と助宗は自害、長男宗綱は佐渡へ流罪、以下一族郎党はすべて逮捕されてしまった。かの熱原法難から数えてちょうど14年後、大聖人滅後11年目の出来事である。
厳然たる罰と功徳
 仏法はどこまでも峻厳であり、その哲理にあてはめていったときは、いささかの例外もない。信ずるものには偉大なる功徳があり、敵するものには厳然たる罰があるのである。
 されば、聖人御難事にいわく「過去現在の末法の法華経の行者を軽賎する王臣万民始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」(119002
 撰時抄にいわく、
 「日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり此れをそしり此れをあだむ人を結構せん人は閻浮第一の大難にあうべし」(026611)と。
 「始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」 まさに、そのとおりである。この御金言は大聖人御在世の時代はもちろんのこと、現代の創価学会の活動にも、まさに明確にあてはまっている。正法誹謗の罰の恐ろしさを、今さらのように痛感しないではいられない。
 戦時中、牧口初代会長、恩師戸田会長が投獄した官憲の責任者、過酷な取り調べを行った検事、戦後の学会再建を妨げた数多くの多数の僧侶、かの有名な小樽法論で身延側の講師として登場者、今日まで悪らつきわまる弾圧を試しみようとした官憲の者等々、一々名をあげれば、すべて事件後、まともな生活をしている者はいない。かの牧口会長、戸田会長を投獄せしめた主謀者は絞首刑になり、大川周明は発狂し、そのはか、ある者は不慮の事故で横死し、ある者は妻子を失い、あるいは事故で廃人になった者等、まったく悲惨そのものである。
 これこそ、わが創価学会が、仏意にかなった正しい宗教団体であり、全世界を救いきっていく大使命である、明白な証拠といえるのではないか。
 信仰をしていても、毎日の生活のなかに、なんら価値が得られないような宗教が、どうして正しい宗教といえるであろう。
 厳然たる罰と功徳があってこそ、真の宗教である。わが創価学会が、一大和合僧団として、今日、かくまで発展をみたのは、信仰していったときには、絶大なる功徳があり、いかなる不幸も打開しきっていく力ある宗教なるがゆえである。また、反対したときには、厳然たる罰が出ることも、われわれは個々の例をとおして知ることができた。
 今後とも、われわれの戦いの行く手には、数々の障魔がたちはだかるであろう。だが、それのいずれも、誹謗正法の者は堕地獄の哲理に照らし、必ずや仏の軍勢が勝つとの大確信をもって、勇敢に進んでいこうではないか。

第四章 選択集の謗法を結すtop

09      是に於て代末代に及び人・聖人に非ず・各冥衢に容つて 並びに直道を忘る・悲いかな瞳矇をたウず痛い
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 かな徒に邪信を催す、 故に上国王より下土民に至るまで 皆経は浄土三部の外の経無く 仏は弥陀三尊の外の仏無
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 しと謂えり。

 この法然の邪義に対して、今の世はすでに末代であり人々は凡愚で、聖人のことごとく法の邪正をわきまえることができない。ゆえに僧も俗も皆暗い道に入って成仏の直道を忘れってしまっている。また悲しむべきことは、誰一人としてこの謗法を責める者がいない。痛ましいことにはいたずらに邪信を増すばかりである。
 それゆえ、上は国王から下は万民に至るまで皆、経といえば浄土の三部経以外になく、仏といえば阿弥陀仏としの脇士である観音菩薩と勢至菩薩の三尊以外には仏はないと思っている。

12   仍つて伝教・義真・慈覚・智証等或は万里の波涛を渉つて渡せし所の聖教或は一朝の山川を廻りて崇むる所の仏
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 像若しくは高山の巓に華界を建てて以て安置し 若しくは深谷の底に蓮宮を起てて 以て崇重す、 釈迦薬師の光を
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 並ぶるや威を現当に施し 虚空地蔵の化を成すや益を生後に被らしむ、 故に国王は郡郷を寄せて 以て灯燭を明に
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 し地頭は田園を充てて以て供養に備う。 

 しかしながら、一方、伝教・義真・慈覚・智証等が、あるいは万里の波濤を渡ってもたらした経典や、あるいは全国をめぐってあがめた仏像は、あるいは高山の頂に仏堂を建てて安置し、あるいは深谷の底に僧坊を立てて安置し、崇重した。
 しかして、叡山の西塔に安置された釈迦如来、あるいは東塔止観院・根本中堂に安置された薬師如来は光を並べて威光を現当二世におよぼし、同じく横川般若谷に安置された虚空蔵菩薩、戒心谷に祀られた地蔵菩薩も、ともにいよいよ利益を今生と後生に施して、万民の崇拝するところであった。ゆえに国主は一郡・一郷を寄進して燈明料とし、地頭は田畠を寄進して供養した

16   而るを法然の選択に依つて則ち教主を忘れて 西土の仏駄を貴び付属を抛つて 東方の如来を閣き唯四巻三部の
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 教典を専にして 空しく一代五時の妙典を抛つ 是を以て弥陀の堂に非ざれば 皆供仏の志を止め 念仏の者に非ざ
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 れば早く施僧の懐いを忘る、 故に仏閣零落して瓦松の煙老い僧房荒廃して庭草の露深し、 然りと雖も各護惜の心

0024
01 を捨て並びに建立の思を廃す、 是を以て住持の聖僧行いて帰らず 守護の善神去つて来ること無し、 是れ偏に法
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 然の選択に依るなり、 悲いかな数十年の間百千万の人魔縁に蕩かされて 多く仏教に迷えり、 傍を好んで正を忘
03
 る善神怒を為さざらんや円を捨てて 偏を好む悪鬼便りを得ざらんや、 如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を
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 禁ぜんには。

 しかるに、法然の選択集によって、情勢は一変した。すなわち教主釈尊を忘れて西方の阿弥陀如来を尊び、釈尊の付属をなげうって天台・伝教の建立した東方・薬師如来を閣き、ただ四巻三部の浄土宗の依経を專ら信仰して、釈尊一代五時の聖教をむなしく抛ってしまつた。このゆえに阿弥陀如来の堂でなければ、仏を供養しようとの志を捨て、念仏の僧でなければいっさいの布施をしなくなってしまった。ために仏閣は落ちぶれて、屋根は苔が生えて松のごときながめとなり、立ちのぼる煙も細々と、僧坊も荒廃して生い茂る庭草の露が深い。しかしながら、そのような状態になっても、人々は法を護り惜しむ心を捨て、これを建立しようとの思いもなくなってしまった。
 このゆえに、寺を住持する聖僧は去って帰らず、守護の善神も去ったまま二度と帰ってこない。これもひとえに法然の選択集によって起きた災いである。悲しいことには数十年の間に、百千万の人が法然の魔縁に蕩かされて、多く仏法に迷ってしまった。傍の念仏を好んで、正の法華経を捨てるならば、どうして善神が怒らないわけがあろうか。円教である法華経を捨てて、偏頗な念仏を好んで、どうして悪鬼が便りを得ないでいられようか。災難を根絶するにはかの千万の祈りを修するよりは、この一凶である法然の謗法を禁じなければならないのである。

講義
 前章で、法然の選択集を経文によって破折されたのに引き続いて、本章では、浄土宗の隆昌が、天台仏法を衰亡させ、仏教の正統学派の流れを濁乱させて、亡国の根源となっていることを指摘されている。この文だけを読むと、天台宗を復興せよと申されているかのようであるが、大聖人の御真意がそうでないことは、前々章にも述べたとおりである。
 本章末尾の「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」は、三災七難の元凶は、法然の邪義にあり、これを禁ずることが、災難対治の要諦であるとの大師子吼である。当時の国の上下を挙げての念仏信仰を思うならば、このように叫ばれる大聖人に、大迫害が嵐のごとく襲いかかることは火を見るより明らかであった。にもかかわらず、それを厳然と叫んで、幕府を諌暁される大聖人の御確信と、日本民族を救わんとされる大慈悲は、末法御本仏にあらずしては、ありえないところである。
 この師子吼をみても、日蓮大聖人を、勇気ある坊さんだ、憂国の志士である等の評価しかできない知識人や歴史家がほとんどであったが、これがいかに皮相的な観察であり、とりもなおさず、みずからの浅薄さを表明する以外のなにものでもないことは明瞭であろう。
 はたして大聖人は、この年の827日には、嫉妬した念仏僧たちにそそのかされた民衆によって、松葉ヵ谷の草庵を焼き打ちされた。ついで、翌、弘長元年512日には伊豆に流罪されている。その後も、小松原の法難、竜の口の頸の座、佐渡流罪等々、数多くの大難にあわれた。そのすべての淵源は、この御断言にあったのである。だが、大聖人は一毫も退かれてはいない。
 もし、人々のいうような、単なる勇気であるならば、一度の迫害で主張を引っ込めてしまうのが普通である。前にも述べたように、法然のごときは、選択集で、浄土三部経以外のいっさいの経を閉じよ、阿弥陀如来以外のいっさいの仏を捨てよ等と論じながら、叡山の衆徒が念仏禁止を陳情しただけで、たちまち師弟190人で自戒を申し合わせているではないか。まさに、吠える臆病犬の観がある。
 またヨーロッパにおいては、ガリレオのごとき高名の科学者でさえ、その地動説の撤回を法王庁から迫られるや、これを引っ込めている。署名したあと、小さな声でそれでも地球は回っていると呟いたというが、撤回を認めたことに変わりはない。これに対して、日蓮大聖人が、その何倍も恐るべき権力を敵に回しながら、生涯正義を叫び抜かれたということは、単なる勇気ではなく、深い深い心の奥底から発せられたものであることを知らなければなるまい。すなわち、この大聖人の教えを聞かなければ、現世には国を滅ぼし、民衆は未来永劫に阿鼻の炎にむせぶことになる。これを救うために、大聖人はみずからの御生命を投げ出されたのである。
 民衆をしあわせにするのは、自分以外にないとの強い責任感は主の徳である。邪法の迷いから覚めさせ、正道を教えんとの偉大なる智慧は師の徳である。しかして、全民衆を子のごとく憐れみ、それを救うために身命を投げ出される大慈悲は親の徳である。この主師親の三徳こそ、御本仏であらせられることの証明である。「如かず彼の万祈を修せんよりはこの一凶を禁ぜんには」の一句のなかに、もったいなくも、主師親の三徳を具備された御本仏の境地を拝することができるのである。
 佐渡御書にいわく、
 「日蓮は此関東の御一門の棟梁なり・日月なり・亀鏡なり・眼目なり・日蓮捨て去る時・七難必ず起るべし」(095718
 此関東の御一門とは、時の為政者たる鎌倉幕府であり、その棟梁であるとは、全日本民衆の主君なりとの御断言である。日月は、いっさいの生ある者の能生、能養の徳をあらわすゆえに親の徳である。亀鏡、眼目は、いっさいを映し、正邪を明らかにするがゆえに、師の徳である。この主師親三徳具備の日蓮大聖人によらなければ、三災七難を避けることはできないとのお言葉である。
是に於て末代に及び人・聖人に非ず
 すでに時代は末法にはいり、人は仏法の正邪の分別がつかない愚かな衆生が充満し、いたずらに邪法に迷っていることを嘆かれてうるのである。
 ここで末法ということについて考えてみたい。大聖人は減劫御書に、人間が進歩するにつれて、悪の智慧が勝ってくることを指摘され、それに対して、いかなる仏法が救いの手をさしのべてきたかを述べられている。しかして、末法について、
 「
今の代は外経も小乗経も大乗経も一乗法華経等もかなわぬよとなれり、ゆえいかんとなれば衆生の貪・瞋・ 癡の心のかしこきこと大覚世尊の大善にかしこきがごとし、譬へば犬は鼻のかしこき事人にすぎたり、又鼻の禽獣をかぐことは大聖の鼻通にも・をとらず、ふくろうがみみのかしこき・とびの眼のかしこき・すずめの舌のかろき・りうの身のかしこき・皆かしこき人にもすぐれて候、そのやうに末代濁世の心の貪欲・瞋恚・愚癡のかしこさは・いかなる賢人・聖人も治めがたき事なり、其の故は貪欲をば仏不浄観の薬をもて治し・瞋恚をば慈悲観をもて治し・愚癡をば十二因縁観をもてこそ治し給うに・いまは此の法門をとひて人を・をとして貪欲・瞋恚・愚癡をますなり」(146511)と述べられている。
 まことに、現代の人間像をあますところなく述べられているではないか。宗教界において、仏が衆生を救済するために説いた仏法は、歪められ、方便の教は実教の哲学で荘厳され、ことごとく人を悪道に突き落とす邪教とされてしまった。自然科学においては、人類の幸福を推進すると期待された原子力の発見は、大量殺人の凶器として利用されている。思想界において、虐げられた無産階級を解放するはずのマルキシズムは、新たな独裁政治のもとに、民衆を抑圧する結果とさえなっている。
 これらは一例に過ぎない。将来、われわれは、善の智慧によって、全てを人間の幸福を増すものに変えていかなければならない。しかして悪の智慧を打ち破るためには、善の大智が必要である。
 同じく減劫御書にいわく、
 「
しかれば代のをさまらん事は大覚世尊の智慧のごとくなる智人世に有りて・仙予国王のごとくなる賢王とよりあひて・一向に善根をとどめ大悪をもつて八宗の智人とをもうものを・或はせめ或はながし或はせをとどめ或は頭をはねてこそ代はすこし・をさまるべきにて候へ。法華経の第一の巻の「諸法実相乃至唯仏と仏と乃ち能く究尽し給う」ととかれて候はこれなり、本末究竟と申すは本とは悪のね善の根・末と申すは悪のをわり善の終りぞかし、 善悪の根本枝葉をさとり極めたるを仏とは申すなり」(146607)と。
 すなわち、仏の智慧たる南無妙法蓮華経の大法をもって、はじめて、末法衆生の貧・瞋・癡の悪を破ることができるのである。また、同時に、この仏法の体を改めることによって、世間の影は自然と改まるのである。天台いわく「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」と。大聖人いわく「仏法は体なり、世法はかげなり、体曲がれば影ななめなり」云云と。
 科学の問題も、思想・社会・政治・経済等の問題も、その歪みを是正し、真に民衆の幸福のために生かしていく秘訣はここにあるといっても過言ではない。妙法の広宣流布こそ、いっさいの文化を本来の文化たらしめる源泉なりと主張してやまない。
末法に関する現代的考察
 さて、ここで、末法ということについて、現代的に考察すると、どうなるか。いうまでもなく、末法とは「末の法」の意ではなく「仏法の功力が消滅し、穏没する時」のことである。しかして、ここでいう仏法とは、釈迦仏法をさすのである。
 しかし、こういうと、仏法の知識のない人は、さまざまな疑問を生ずるに違いない。釈迦仏法とは何か。 仏法は釈迦が説いたもので、他に何があるのか。 功力がなくなるとはどういうことか。 等々。
 およそ、仏法は仏の説いた教えであるが、その仏には三世十方の仏といって、数えきれないほどたくさんの仏がある。その仏の一人一人が、それぞれの法を説くのである。釈迦仏の法は法華経二十八品であり、日蓮大聖人の法は三大秘法の南無妙法蓮華経である。また、法華経には、過去に不軽菩薩が現われて、二十四文字の法華経を説いたと説かれている。そして、これらそれぞれの仏法に、正法時代・像法時代・末法時代がある。
 正法とは、仏に深い縁のある衆生が生まれてくる時代で、したがって、法は正しく、浄らかに伝えられていく。像法に入ると、生まれてくる衆生の機根は劣り、仏法は形式に流れていく。末法になると、生まれてくる衆生はその法とはまったく縁がなく、仏法は名ばかりで、まじめに修行する人もいないし、救う力もなくなるのである。
 このような原理は、仏法に限らず、すべての思想についていえる。たとえば、経済思想についてみよう。アダム・スミスの自由主義経済学は、資本主義経済の成長過程においては、充分に効力をもち、指導性ももっていた。しかし、資本主義経済が各国で成長を遂げ、一方では、その市場網が全世界をおおい尽くし、他方、国内の労働力が余剩をもたないところまで動員され尽くしてしまうと、もはや彼の経済論理をもってしては、律しきれなくなってしまったのである。
 それに代わるものとして現われたのが、マルクス主義である。すなわちマルクスは、国内労働市場における問題点に着目し、資本家と無産階級の対立を宿命的なものとして、プロレタリア革命による共産社会の樹立を唱えた。確かに、マルクス思想は、資本家が賃金をできるだけ安くし、商品をできるだけ高く売り、利潤を貪ることのみを考え、労働者はそのために搾取されるのみであるという事態が進行している限りにおいて有効であった。
 だが、労働者が団結して資本家と話し合い、資本家も折れて、これに応じ、適当に互いの福利向上を図るという事態、さらに国家がその統制権をにぎり、福祉国家を実現しようと努力するようになると、マルクス主義は完全に指導性を失ってしまったのである。
 同様に、外国市場の開拓、争奪戦に対して、その帝国主義性を摘発したレーニン思想も、やはり、現代では指導性を失ったと断ぜざるをえない。こうした歴史の中に、アダム・スミス哲学における末法、マルキシズムにおける末法、マルクス・レーニン主義における末法を見ることができる。
末法を憧憬した天台・伝教
 しかしながら、彼らは、ただ、自己の思想哲学を最高のものと確信して酔っているのみであった。凡夫の凡夫たる所以といえようか。これに対し、仏法は人間生命をかいめいした哲学である。だが、仏は三世を通観して誤りがない。釈尊は、みずからの法の将来を予言して、大集経にいわく「我が滅後に於いて五百年の中には解脱堅固、次の五百年は禅定堅固(以上千年)、次の五百年は読誦多聞堅固、次の五百年は多造搭寺堅固(以上二千年)、次の五百年は我が法の中に於いて闘諍堅固して白法隠没せん」と。
 はじめの千年間を、釈迦仏法によって民衆が解脱し、禅定を得るゆえに正法といい、次の千年を読誦多聞・多造搭寺の形式のみ盛んなるがゆえに像法という。そして、最後の第五の五百歳は仏法穏没のゆえに末法というのである。
 このように、末法の時代とは、釈尊の仏法が隠没する時代である。同時に、法華経の文底に秘沈された大仏法が出現し、流布する時代でもある。法華経湧出品で、上行菩薩を上首とする六万恒沙の本化の菩薩が出現し、大法流布の付属を受けたのはこのためである。
 ゆえに、正像の正師たちは、すべて末法を賎しみ嫌うのではなく、その大法を恋い慕っているのである。
 遵式の筆にいわく「始め西より伝う猶月の生ずるが如し今復東より返る猶日の昇るが如し」と。遵式は中国栄代の天台宗の僧で、22歳で国清寺にはいり、一生を天台の教法流布に捧げ、門弟1000人を超えたといわれた高僧である。その遵式が、西より伝わった釈尊の仏法を月に譬え、東の日本より出現する末法の大法を太陽に譬えているのである。
 像法時代の仏といわれた天台大師は「後の五百歳遠く妙道に沾わん」と、妙法流布する末法の世に憧れている。また、伝教大師も「当今、人機みな転変して都て小乗の機無し、正像稍過ぎ已って末法太だ近きに有り法華一乗の機今正しく是れ其の時なり」と。この言葉の中にも、むしろ末法を憧憬している心が伺われるではないか。
 だが、正しく仏法を知らない人々は、末法の到来をいたずらに不安に戦いた。事実、末法に入った平安時代末期の日本は、民心を無常感に追いやるような、乱れた世相でもあった。貴族文化の頽廃と無気力化、加えて武士階級の台頭による兵乱の連続、相次ぐ天変地変、僧兵の暴挙等、仏教界自体も乱脈に乱脈を極めていた。
 したがって、この人生を無常とし、この世界を穢土とする現実否定的な考え方が、有力になっていったのは、自然の勢いであった。現世を否定して、西方の浄土に憧れ、自力の法門より他力本願の易行を唱える浄土宗がもてはやされたのである。それはいわば、人間の真理の弱味につけ込んだ詐欺であり、民衆の悩みの解決を極楽往生にすりかえた、卑劣きわまりない教えであった。
 これと対照的に現実を凝視し、経文に照らし、敢然と取り組んで、解決の方途を叫ばれたのが日蓮大聖人である。そして、大聖人は末法万年尽未来際の大仏法を説かれたのである。
釈迦仏法について
 
釈尊の説いた仏法を検討すると、それは、指導階級、知識階級のための宗教であることがわかる。全民衆の信仰すべき、真実の仏法は、日蓮大聖人によって初めて説かれたといえるのである。また、大聖人の仏法は本因妙の仏法であり、迹である。釈迦仏法は日蓮大聖人の仏法が出現する準備的教えにほかならない。
 その証拠をまず教主について見るならば、釈尊は、インド・カピエラ城の太子として生まれた。何一つ不自由のない少年時代を過ごし、19歳にして、人生の無常を知り、これを解決するために出家し、30歳で悟りを開いたという。極端にいえば、このような境遇の人の説くことが社会の底辺に生まれ、貧困の生活を送っている民衆に、実感をもって信じられているということは、実際問題、不可能である。これは観念的な憧憬の気持ちを起させることはできよう。だが、真実の生命の共鳴は期し難い。
 それに対して、日蓮大聖人は、みずから「栴陀羅が子なり」と述べられてるごとく、安房国の貧しい漁師の子として生まれられた。そして、生涯、貧しい凡夫僧の姿で、三障四魔・三類の強い敵と戦い、しかも御本仏として全民衆救済の大仏法を建立されたのである。われわれと同じ凡夫であり、貧しい姿であったが、ただ法によって尊極無上の人生、いかなる権力も破壊うることのできない、絶対的幸福の境涯が確立できることを示されたのである。この日蓮大聖人の教えに、誰人が共鳴しないでいられようか。
 次に、説かれた法門についてみよう。釈尊の法門は、一代50年の説法、八万法蔵におよぶ。その極説である法華経にしても、本迹合わせて28品もあり、その哲学を学ぶことは煩雑という以外にない。これに対して、日蓮大聖人の仏法は七文字の法華経であり、本尊、題目、戒壇の三大秘法に、いっさいの仏法がことごとく含まれてしまう。ゆえに、万人が即座に法門の究極に達し、その実践をすることができる。
 修行の方法について見ると、釈迦仏法は、受持・読・誦・解説・書写の五種の修行を実践しなければならない。法華経28品を受持するだけでも困難であるのに、これを読み誦んじ、解説し、書写するとなれば、相当の智能と時間的、経済的余裕がなくてはできない。いわゆる貴族仏教と称する所以はここにある。すなわち、みずから働かないで収入を得、時間的にも経済的にも恵まれている王族や貴族、あるいは地主や隠居であって、初めてできる修行だからである。
 現代の社会に、はたしてこのような修行をできる人が何人いるであろうか。一般の労働にたずさわっている人人はもとより、芸能人もスポーツマンも政治家も、まことに多忙である。むしろ、一般人以上にびっしり詰まったスケジュールに追い回されている。こんな修行ができるのは、せいぜい有閑階級と、専門の僧侶ぐらいのものであろう。
 以上は、釈迦仏法について、きわめて常識的に、表面だけを論じてみたに過ぎない。仏教哲学に立ってこれをみれば、本已有善と本末有善、熟脱と下種益、本因妙と本果妙等々、幾多の観点から論ずることができる。結論としていえることは、釈迦仏法が、一部の上層階級の信仰であるということができる。したがって、今、本文で、伝教、義真等が法華経迹門を広宣流布したといっても、それは、あくまでも貴族階級の信仰にすぎなかった。本文にも「故に国主は郡郷を寄せて以て燈燭を明にし地頭は田園を充てて以て供養に備う」と仰せられているとおりである。一般庶民の信仰は、原始的な呪術であり、あるいは婬祀邪教化した仏教の亜流であった。
 この過程は、大聖人なきあと、大聖人の正義を知らず、天台仏法に執着した五老僧の流れが、いずれも竜神や鬼子母神や、大黒、稲荷等を取り入れて、低俗、邪悪な謗法の栖み家と化していった姿にも認められる。
 法然が、現在でも学者に高く評価されているのは、こうした特権階級専用の既成仏教に対して、初めて、仏教を底辺の民衆のものとしたという意味からである。だが、法然が浄土宗を弘めた結果は、民衆を無気力にし、風俗を紊乱し、天変地変を惹き起こし、さらに無間地獄に突き落としたのであった。そして、徳川時代には、文字どおり封建主義支配の御用宗教となって、民衆を圧迫し続けたのであった。
 大聖人の仏法は、民衆が真に、思想的自由を獲得した戦後になって、興隆し始めたのである。このことは、大聖人の仏法こそ、真実の民衆の宗教であり、民衆を救う力ある宗教であるとの証左であると叫ぶものである。


第五段 和漢の例を挙げて念仏亡国を示すtop
第一章 法然の邪義に執着するを示すtop

05   客殊に色を作して曰く、 我が本師釈迦文浄土の三部経を説きたまいて以来、曇鸞法師は四論の講説を捨てて一
06
 向に浄土に帰し、 道綽禅師は涅槃の広業を閣きて 偏に西方の行を弘め、 善導和尚は 雑行を抛つて 専修を立
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 て、 慧心僧都は諸経の要文を集めて念仏の一行を宗とす、 弥陀を貴重すること 誠に以て然なり又往生の人其れ
08
 幾ばくぞや、 就中法然聖人は幼少にして天台山に昇り 十七にして六十巻に渉り並びに八宗を究め具に大意を得た
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 り、 其の外一切の経論・七遍反覆し章疏伝記究め看ざることなく智は日月に斉しく徳は先師に越えたり、 然りと
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 雖も猶出離の趣に迷いて涅槃の旨を弁えず、 故にアマネく覿悉く鑑み 深く思い遠く慮り遂に諸経を抛ちて専ら念
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 仏を修す、其の上一夢の霊応を蒙り四裔の親疎に弘む、 故に或は勢至の化身と号し或は善導の再誕と仰ぐ、 然れ
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 ば則ち 十方の貴賎頭を低れ一朝の男女歩を運ぶ、 爾しより来た春秋推移り星霜相積れり、 而るに忝くも釈尊の
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 教を疎にして 恣に弥陀の文を譏る 何ぞ近年の災を以て 聖代の時に課せ 強ちに 先師を毀り 更に聖人を罵る
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 や、 毛を吹いて疵を求め皮を剪つて血を出す昔より今に至るまで此くの如き悪言未だ見ず惶る可く慎む可し、 罪
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 業至つて重し科条争か遁れん対座猶以て恐れ有り杖に携われて則ち帰らんと欲す。

 客は憤怒の色を増していった。
 我が本師釈迦牟尼仏が浄土の三部経を説いて以来、曇鸞法師は初めは竜樹菩薩の中観論等の四論を学んだが、これを捨てて一向に浄土念仏に帰した。また第二祖道綽は初め涅槃宗によって修行したが、この涅槃の広行を閣いて、ひたすら念仏の西方浄土往生の願行を弘め、善導和尚は雑行を抛つて専修念仏を立て、慧心僧都は諸経の要文を集めて、念仏の一行を宗とした。阿弥陀仏を貴び重んずることはまことにもってこのとうりである。また念仏の功徳によって往生できた人は数えきれないほどたくさんいるではないか。
 なかんずく法然上人は、幼少のときから比叡山にのぼり、一七歳の時に法華経の億義である天台・妙楽の書六十巻を読み、さらに天台・真言をはじめとする八宗の教義を窮め尽くし、つぶさにその大意を得られた。そのほか一切の経論を七回も読み返し仏法の教義をのべた章疏や歴史に関する伝記類も一冊として窮めみなかったものはなく、その智慧は日月に等しく徳は日本や中国の先師たちもはるかに越えていた。しかしこのようであったけれども、なお聖道門の天台流では出離の道に迷い成仏の境涯をわきまえることができなかった。ゆえに、いっさいの経論をぜんぶ見、その内容をことごとく考えた上で末代相応の行を深く思い遠く思慮をめぐらして、ついに諸経を抛ち、專修念仏の行を立てられたのである。そのうえ、夢に善導をみて霊応を受け、いよいよ確信を深めて、あまねく天下に念仏を弘めた。ゆえに民衆は法然をあるいは勢至菩薩の化身と号し、あるいは善導和尚の再誕かと仰いで、貴賤老若男女を問わず、国中がみな厚く法然を信仰するに至ったのである。
 それより以来、すでに長い年月を経て今日にいたった、しかるにあなたはもったいなくも、いっさいの災難の根源は法然にあるといって釈尊の説かれた念仏の教えをおろそかにし、弥陀をほしいまに謗っている。なにゆえに最近におこった災いをもって、聖代の法然に源があるとして、強いて念仏の祖師たちをそしり、さらに法然上人をののしるのか。法然上人に対する悪口は、まるで毛を吹いて強いて疵口を求め皮を切ってわざわざ血を出すようなもので、ありもしないことを無理にこじつけて、人をそしる罪をおかすものではないか。昔より今日にいたるまでこんな悪言は見たことがない。あなたはその罪をおそれて口を慎なさい。そういう悪口をいうあなたの罪はいたって重く、その罪科はかならず問われるであろう。あなたと対座しているだけでも与同罪を受ける恐れがあるので、杖にたずさわってさっそく帰ろうと思う。

講義
 前段において、主人が法然の名をあげて悪比丘といい徹底的に破折し、また現代の災難がひとえに数十年前の法然の邪義において生じた、と主人が説くのを聞いて、客はとうとう怒りだしてしまった。客が憤怒して顔色をさらにかえたので「殊に色を作して」というのである。これに対して、主人が、礼儀を失った国は乱れ、念仏を弘めて亡国となった中国と日本の先例を示していくのが、この第五段である。すなわち、前段には文証を挙げ、この段では理証と現証を説き出されるのである。
客殊に色を作して
 これは、われわれが折伏する時によくある例で、一般的に現在の宗教は邪宗教だと言っているときには、わりあいに素直に聞いても、君の最も崇敬し信仰しているそれが、最も邪宗教で極悪であると決めつけられれば、たちまちにおこって席を立つようなものである。
 この場合に、客は法然が論破されたので、同座することさえけがらわしいから帰るといいだした。これに対する主人の態度は、まさしくわれわれの折伏の鑑である。客がおこったからこちらも一緒におこっては、折伏にならない。怒った客に対し、主人たる日蓮大聖人は、御本仏としての絶対の御確信と、相手を思う慈悲の一念に徹し、笑みを浮かべ、しかも妥協するのではなく、むしろ、もっと峻厳に、もっと痛烈に道理のうえから、現証の上から、諄々と説いていくのである。
 客のいいぶんは、まことに単純かつ常識的であり、皮相的である。曇鸞・道綽・善導・慧心僧都源信等が、みな念仏以外にないと論断したのだから、間違いないだろうというのである。しかも、当時一般にいわれていることをなんの検討もなく、得意然として語る様は、まことに今日の知識人・評論家・似非宗教家が、宗教を語る姿そのままではないか。
 また、この客人の“常識”がいかに誤ったものであるかは、たとえば、慧心僧都に対する見解に如実にあらわれている。「諸経の要文を集めて念仏の一行を宗とす。弥陀を尊重すること誠に以て然なり」云云とあり、慧心僧都の著書をまったく読まずに、世間でいわれていることをそのまま鵜呑みにしていることがわかる。
 前にも述べたごとく“常識”といものは、誤った認識である場合が多い、いったん頭のなかに特定の物の見方が固定してしまうと、もはや新しい目で、真実を追求することができなくなってしまう。
 さらに、客のいいぶんが、法然のことにおよぶ段は、いかに当時の人々が法然を尊敬し、信頼していたかがよくわかる。法然の一生および、その邪義の成立までの経過については、すでに第四段第二章において詳しく述べたが、法華経誹謗の低劣な邪義にもかかわらず、こうした悪僧一流の巧妙な手腕によって、天皇・法王をはじめ、貴族や武士階級に取り入り、法然の名は、当時人々の上下に知れ渡った。
故に或は勢至の化身と号し或は善導の再誕と仰ぐ、然れば則ち十方の貴賎頭を低れ一朝の男女歩を運ぶ
 この一節こそ、いかに法然が当時の人々から、生き仏のように思われていたかを如実に示している。文中「善導の再誕」等とは、念仏家の相伝で阿弥陀の化身であるという。このように、いかに邪説であっても、うまく理論をこしらえて我が身を飾り立てると、世の人は尤もと思って、深く信じきってしまうのである。それというのも、釈尊一代の仏法の浅深高下を知らず、釈尊出世の本懐を悟り得なかったからである。釈尊の弟子と称して、釈尊の出世の本懐を知らぬとは驚き入ったものである。また、時の人は、小乗教と大乗経の差異、権教と実教の差異、本迹二門の区別等を知らなかったのせある。まして教相・観心・文上・文底等は知り得ようはずがない。ゆえに仏教に迷ったのである。現在においてはさらに甚だしく、仏教の概念すら、知っている者は、きわめてわずかである。なんの宗教でも、みな釈尊が説いたものだからといい思い込んでいる。そのために、インチキ宗教家に易々と騙されていくのである。しかも、このことが一家を不幸にして、一国を衰微させるということに気づく者は、ただの一人もいないのである。
而るに忝くも釈尊の教を疎にして恣に弥陀の文を譏る何ぞ近年の災を以て聖代の時に課せ強ちに先師を毀り 更に聖人を罵るや
 これは、釈尊をはじめ、法然の教義をそしるだけならまだしも、最近相次いで起きている災難の原因を、わざわざ法然の時代まで遡り、その責任を法然に転嫁するとは何事であるか、という客のいいぶんである。
 それゆえ、そのような行為は「毛を吹いて疵を求め皮を剪つて血を出す」ことだと、客は反論するのである。
 この客人の発言をみるときに、まことに思想が、その低き哲学、低き宗教であっても、人間生命に対し影響するところが、いかに大きいかを痛感するのである。むろん、低き哲学、低き宗教にも必ず行き詰まりがある。矛盾は絶えずつきまとう。だが、それが大勢の意見であり、また権威ある人々の信奉するものとなると、人々は少少の矛盾を感じても、気にもとめず、その権威と伝統に従うのである。その権威ある人々を少しでも批判すれば、たちまち理性を失い、感情に走り、激しい怒りを顔面にたたえ、批判する人をののしり、迫害してくるものである。
 だが、いつまでもそれが人々の心をとらえることはできない。やがて矛盾と行き詰まりは表面立ち、既成の権威と伝統はもろくもくずれ、ついにはその生命を奪われるのである。今日、念仏の寺々は、ほとんどさびれ、大伽藍を構えているものとして、寂しい、わびしい、空虚なものでしかない。
 だが、大聖人当時においては、念仏宗は、日本全国にひろがり、民衆の生命の奥深く浸透していったのである。
 特に法然に対する信奉は、異常なまでに高まっていた。念仏の寺々はにぎわいを見せ、僧侶は裕福な生活を満喫していた。されば、日蓮大聖人が、ほうぜんこそ、「此の一凶」と示されたのであるから、当時の人々の驚きは絶大なものがあった。その民衆の心をくまなく知られていた大聖人は、ここに客をして、あれほどの高徳の人をまるであら捜しでもするごとく、悪口をいうのはあまりひどいではないか、それは罪悪だと、問わしめたのである。
 これは、なにも大聖人の時代のみではない。西欧中世においても、キリスト教会が絶大な権威を誇り、少しでもそれに異論を唱えたり、教会の権威を脅かすと考えられたものは、恐るべき非難と迫害とにあったではないか。キリスト教のごとき、幼稚であり、低級な理論が、まるで金科玉条のごとく信奉され、教会の最高権威者たちの批判などすれば、それを聞いた民衆は、激怒し、批判した人に対し悪魔のごとき思いをなしたのである。
 まだ、われわれの記憶にも生々しい太平洋戦争中も、神道を国を挙げて信奉したではないか。そして、少しでも真実のことをいおうものなら、「非国民」とののしられて、力ずくで抑えられたであろう。わが創価学会が、神道の非なるを指摘し、その狂気の姿こそ、亡国の道なりと断ずるや、迫害し弾圧し、ついに牧口初代会長、戸田前会長を投獄したのであった。これまた同じ原理ではないか。しかして、結局、正義は邪義を打ち破ったのである。今日において、私は、されを初めて、厳然と事実の証拠のうえからいいきることができる。そしてさらに時とともに、大聖人の仏法こそ、世界人類を救うただ一つの光明であることが、りかいされることも、われらの絶対の確信である。
此くの如き悪言未だ見ず惶る可く慎む可し
 「此くの如き悪言」とは、日蓮大聖人が法然の邪義を、あらゆる角度から徹底的に破折したことをいったものである。当時の社会にあって、念仏が最も信仰されていた時代に、その中心者である法然を徹底的に破折された大聖人の言葉は、念仏者にとってみれば許しがたい悪口雑言であった。
 だが、当時の社会にあって、これほど尊敬されている者なればこそ、いっさいの不幸の元凶なりとして、大聖人は真正面から堂々と破折に向かわれたのである。この大聖人の大確信こそ、われら大聖人門下生、創価学会員の精神にほかならない。この大聖人の破折の勇姿を見よ。今日われら創価学会員以外に誰人が、この精神、この振舞いを継承しているであろうか。今なお、創価学会の折伏をさして、まるで、学会がつくりだした独特の砲撃方法のように考えるひとがいるが、とんでもない誤りである。ましてや、邪宗日蓮宗のごときが、そのようなことを口にするにいたっては、その一事をもってしても、彼らが日蓮大聖人の門下生でないことは明瞭である。時流に迎合し、真実を曲げ、安逸をむさぼる者は「仏法中怨」の責めを蒙る経文にあてはまるではないか。
 日蓮大聖人の御一生は終始一貫、破邪顕正の生涯であられた。法然をはじめとする数々の邪義に毒された日本国民を根底から救いきるとの確信に立たれての御一生であった。その御一生は、民衆を不幸におとしいれる邪宗・邪教・邪智との、一刻の休みもなき戦いであったともいえる。
 その大聖人の破邪顕正の折伏精神こそ、わが創価学会の今日までの一貫して変わらざる根本精神である。創立以来、今日までの学会の歴史、戦いは「折伏」の二字につきる。われわれは、今や五百数十万世帯を数える世界最大の宗教団体と成長したが、この国土からいっさいの邪宗教が姿を消すまで、大聖人のおしえのままに邁進する決意である。しかして、それは権力を用いるのではなく、あくまでも思想体思想の対決であり、正法にめざめた民衆の叡智と理性が、人間性を失わしめる、恐るべき邪宗教を追放することを信じてやまぬものである。

第二章 理証を以って法然の邪義を破すtop

16   主人咲み止めて曰く 辛きことを蓼の葉に習い 臭きことを溷厠に忘る善言を聞いて 悪言と思い謗者を指して
17
 聖人と謂い正師を疑つて悪侶に擬す、 其の迷誠に深く其の罪浅からず、 事の起りを聞け委しく其の趣を談ぜん、
18
 釈尊説法の内一代五時の間に先後を立てて権実を弁ず、 而るに曇鸞・道綽・善導既に権に就いて 実を忘れ先に依

0025
01 つて後を捨つ末だ仏教の淵底を探らざる者なり、 就中法然は其の流を酌むと雖も其の源を知らず、 所以は何ん大
02
 乗経の六百三十七部二千八百八十三巻・並びに一切の諸仏 菩薩及び諸の世天等を以て捨閉閣抛の字を置いて 一切
03
 衆生の心を薄んず、 是れ偏に私曲の詞を展べて全く仏経の説を見ず、 妄語の至り悪口の科言うても比無し責めて
04
 も余り有り 人皆其の妄語を信じ 悉く彼の選択を貴ぶ、 故に浄土の三経を崇めて 衆経を抛ち極楽の一仏を仰い
05
 で諸仏を忘る、誠に是れ諸仏諸経の怨敵聖僧衆人の讎敵なり、 此の邪教広く八荒に弘まり 周く十方に遍す、

 主人は悠々と笑みをたたえて、客の帰ろうとするのを止めていわく。
 辛い蓼の葉ばかりを食べている虫はその辛さを知らない。臭い便所の中に長くいる虫もその匂いがわからなくなってしまう。長年邪法に染まった人はこれと同じで、あなたは私のいう言葉を聞いて逆に悪言と思い謗法を犯している法然を指して聖人といい、正師たる日蓮を疑って悪侶のように思っている。そのような迷いこそまことに深く、その罪はまことに重い。事の起りを聞かんとするならば、その理由を話してあげよう。
 釈尊は、一代五十年の説法のうち五時に分けて、前後を立て権実を分けられた。しかるに念仏の祖である雲鸞・道綽・善導は仏説に反して権について肝心の実を忘れ、五十年の説法のうち、先の四十余年に説いた権教によって、最後の八年間に説いた肝心の法華経を忘れてしまっている。これは仏法の奥底を知らない者である。
 なかんずく法然はこれらの雲鸞・道綽・善導の流れを継いでいるといいながら、その源である三師が、権実の教えに迷っていることを知らないのである。そう断定する理由は何かといえば、大乗経六百三十七部二千八百八十三巻ならびにいっさいの諸仏菩薩および諸の世天等に対して「捨てよ・閉じよ・閣け・抛て」の四字を勝手に置いて一切衆生の心を軽んじてしまった。これはひとえに法然自身が勝手につくった言葉であって、まったく釈尊の経文を見ない説である。これは妄語の至りで、その悪口の罪科は他にくらべることができないほど重く、いくらその罪を責めても責めたりないのである。しかも世の人々は皆この妄語を信じ、法然の選択集を尊んでいる。ゆえに浄土の三部経をあがめてその他の一切経を抛ち、阿弥陀仏のみを仰いで他の諸仏を忘れている。まことに法然こそ諸仏諸経の怨敵であり、一切の聖僧、大衆の讎敵である。しかもこの邪教は広く天下に弘まり、あまねく十方に遍満してしまった。

講義
 
客が、浄土の三部経は釈尊が説いたものであり、曇鸞・道綽・善導・慧心は、他の法門を捨ててこれに帰依したのである。なかんずく法然は一切経を学んだうえで、念仏を修したのであるから、間違いないのだと主張するのを、徹底的に破折されるのである。
 まず「釈尊説法の内一代五時の間に先後を立てて権実を弁ず」とは、客の「我が本師釈迦文浄土の三部経を説きたまいて」のいいぶんを破折されたのである。
 すなわち、釈尊みずから、40余年の説法を終わって、最後の8年、法華経にはいるにあたり、無量義経で「四十余年未顕真実」と述べ、それまでの経はすべて方便であるゆえに捨てよと説いている。しかるに浄土三部経は、その40余年の説法であり、仏の教えに従うならば捨てなければならない。それを客は知らないで執着している。これば仏説に反する謗法といわなければならない。
 法然が依拠としている曇鸞・道綽・善導らも「権に就いて実を忘れ権教に執し、そのなかで聖道・浄土・難行・易行・正行・雑行を論じているのにすぎないのである。
 したがって、法華経も聖道・難行・雑行にいれて捨閉閣抛せよと論じた法然に比べれば、まだ罪は浅いものの、「末だ仏教の淵底を探らざる者」ということは免れない。
 なかんずく法然は、この曇鸞の流れをくむとはいっても、その源たる三師の誤りを知らない。仏の経文にどのように説かれているかを見もしないで、自分勝手に曇鸞らの説を正しいとし、加えて、自分流にさらに謗法の輪をかけているのである。
 法華経のみを最高唯一とすることは、三世十方の仏菩薩が来集した会座で決定されたところである。しかして、法華経のみが一切衆生を成仏させる正法である。したがって、この法華経を捨てよと説き、民衆を騙すことは、三世十方の仏の敵であり、諸経の精神に反するものである。また、民衆の成仏得道、すなわち、絶対的幸福境涯確立への道を断ちきってしまうことになる。
 念仏無間地獄抄にいわく「而るに浄土宗は主師親たる教主釈尊の付属に背き他人たる西方極楽世界の阿弥陀如来を憑む故に主に背けり八逆罪の凶徒なり違勅の咎遁れ難し即ち朝敵なり争か咎無けんや、次に父の釈尊を捨つる故に五逆罪の者なり豈無間地獄に堕ちざる可けんや」(009712)と。
 またいわく「浄土の三部経とは釈尊一代五時の説教の内第三方等部の内より出でたり、此の四巻三部の経は全く釈尊の本意に非ず三世諸仏出世の本懐にも非ず唯暫く衆生誘引の方便なり譬えば塔をくむに足代をゆふが如し念仏は足代なり法華は宝塔なり法華を説給までの方便なり法華の塔を説給て後は念仏の足代をば切り捨べきなり、 然るに法華経を説き給うて後念仏に執著するは塔をくみ立て後足代に著して塔を用ざる人の如し豈違背の咎無からんや、然れば法華の序分・無量義経には四十余年未顕真実と説給て念仏の法門を打破り給う、正宗法華経には正直捨方便・但説無上道と宣べ給て念仏三昧を捨て給う之に依て阿弥陀経の対告衆長老・舎利弗尊者・阿弥陀経を打捨て法華経に帰伏して華光如来と成り畢んぬ、四十八願付属の阿難尊者も浄土の三部経を抛て法華経を受持して山海慧自在通王仏と成り畢んぬ、阿弥陀経の長老舎利弗は千二百の羅漢の中に智慧第一の上首の大声聞・閻浮提第一の大智者なり肩を並ぶる人なし、阿難尊者は多聞第一の極聖・釈尊一代の説法を空に誦せし広学の智人なり、かかる極位の大阿羅漢すら尚往生成仏の望を遂げず仏在世の祖師此くの如し祖師の跡を踏む可くば三部経を抛ちて法華経を信じ無上菩提を成ず可き者なり」(009801
 これを主人は「妄語の至り悪口の科言うても比無し責めても余り有り」と慨嘆されるのである。この主人の慨嘆はいいかえるならば、日蓮大聖人の御精神でもある。いやしくも日蓮大聖人の弟子である以上は、法然の邪義を徹底的に追及し、責めて責めて責め抜いていくべきである。また、同じように仏説に背き、民衆を不幸にたたき落とす魔物が、一切宗教の本性である。妙法流布の暁まで、いっさいの邪宗教の息の根を止めるまで、折伏に折伏を続けていこうではないか。

辛きことを蓼の葉に習い臭きことを溷厠に忘る善言を聞いて悪言と思い
 昔も今も、まったくこのとおりである。大聖人御在世当時、法然の邪義に毒された人々は、自分がその毒のゆえに不幸になっていることもわからず、かえって、それに気づかせ、救い出そうとした大聖人を恨んだのである。「臭きことを溷厠に忘る」の表現もぴったりではないか。
 現代にも、同じく不幸のなかに悶々としている人がなんと多いことか。そして、先祖代々の宗旨に執着して、その宗義を知らず、人々を救おうとする善言を悪言と思って憎み、謗者である邪宗の僧侶や指導者たちを聖人のごとく敬う等々、あらゆることが逆になっている状態である。
 この転倒の姿は、ひとり宗教界にとどまらず、政界にも、経済界にも、教育界にも、あらゆるところにあらわれている。正しい節操のある政治家は、バカにされ、のけ者にされ、あげくは暴力団に襲われて殺されることも珍しくない。経済界においても、一国の繁栄、民衆の興隆、世界平和の推進のために立つ事業家は、まことに少ない。否、皆無といっても過言ではない。そうした高潔な人材が育たないような、汚れきった「溷厠」のごとき泥沼の世界となってしまっているからである。
 教育界も同様である。本当に教育に情熱を燃やし、誠意を尽くすより、政治的に立ち回る人の方が重んじられ出世するという、情けない実態ではないか。そして、大部分の人は、大学を卒業して就職した当初は、純粋な気持ちで情熱はもってはいるが、やがて周囲の実情に気づくにつれて、保身のため、出世のため、打算的となり、それがあたりまえと思いこむようになってしまう。すべて改革しなければならないことばかりである。だが、少し勇気ある人が出ても、あまりの壁の厚さに、なにもできずに手をこまねいているばかりである。
 人間には本質的に、現状に甘んずる傾向が存するものだ。それが、たとえ悪い状態であることはわかっていても、そこから出ること、それを変えることを嫌う気持ちがある。「住めば都」という言葉があるが、これはそうした人間性の一面をまことに端的に、表現したものである。半面、いっさいの現状に安んずることを嫌い、常に新しいものを求めてやまない性情もある。それが青年の特質でもある。
 宗教革命は、青年の進取的な気槪によって遂行されるものである。既成のものに執着えうる老いたる人々は、その老獪な悪智慧を働かせて、さまざまに妨害するであろう。だが、われわれは、過去もいっさいの妨害を乗り越えてきたし、未来も、いっさいの障壁を打ち破って進んでいくのである。肉体的な老若を問わず、創価学会員のこの若々しい気風こそ、妙法の不老不死の理の立証である。濁乱の世に染まぬ清浄さ、経文に説かれている如蓮華在水の姿ではないか。
 日本の現状を見るとき、政界の腐敗堕落、またそれに対する国民の極端な不信、その裏にあって政界以上の汚れをみる経済界、なんらの教育理念ももたない教育界、こんな状態で、国家としての満足な成長があったならば、むしろ不思議である。しかしながら、このように腐敗堕落させてしまったのも、所詮は、それを司っている一人一人の人間であり、さらに、その人間を堕落させたのは、憎むべき邪宗教である。
 結局、世の乱れのいっさいの根源をつきとめていくならば、邪義邪宗にまで遡らざるをえない。しかして、その邪義を唱えて、世を乱した者こそ、悪人のなかの極悪人である。
釈尊説法の内一代五時の間に先後を立てて権実を弁ず
 釈尊一代の説法は、勝劣浅深がはっきりしており、混同する道理はまったくない。
 ここで、われえわれは、宗教にはその勝劣浅深を明らかにする基準があることを知らなければならない。今日、創価学会の折伏に対して「どうして人の宗教を悪くいうのか」とか「人の宗教をけがすような宗教は嫌いだ」とか「本人が好きでやっているものを、他人がとやかくいうのはおかしい」等と反駁してくる人がある。このような批判をするのは、宗教を正しく理解していない人々である。冷静に一つ一つの宗教を吟味していくならば、「どの宗教でもかまわない」などという暴論は、けっして出てくるわけはないのである。
 どの宗教でも同じというのは、あらゆる宗教が同じ本尊を持ち、同じ修行を行ない、同じ教義を説いてこそいえるであろう。現実に一つ一つまったく違う以上、その相違を認識し勝劣浅深を検討するのが、近代人の態度である。
 しかるに、現代の人々は、宗教に対してまったく盲目的であり、およそ浅薄なる知識しか持ち合わせていない。特にわが創価学会に対する批判の内容をみるとき、それは単なる感情によるもので、理論的な裏づけをもって反対しているものは皆無である。批判することを生活の糧としている「評論家」の言にいたっては、取り上げるも愚かなほどである。
 しかも、宗教に対する一般的な批判のなかで、われわれがよく耳にするものは、「宗教とは非科学的なものである」という盲心的な批判である。
 そのような言葉を口にする人に限って、その日常の行動たるや、まったく非科学的な場合が多いのである。建設工事の起工式や竣工式のとき、神道が何であり、そうすることにどういう意味があるかも知らないで、信妙な顔をして、神主の祈禱を受けるひとたち、正月といえば、普段はなんら関係のない神社仏閣へ参詣する人たち、それらの人々の行動は、どうみても科学的とはいえない。
 科学性を重んずる現代人であるならば、まず宗教を科学的に検討してみよ、と私は訴えたい。そうすれば、なぜ創価学会員が、他の宗教を邪宗教というのか、おのずからわかってくるであろう。
 宗教とは、生命の本質を解明したものであり、生活の根本法を説き明かしたものである。それゆえ、宗教を誤ることは、人生、生活の根源を誤ることになる。われわれが不幸になるのは窮極においては、その根本の生活法ともいうべき宗教が低級であり、かつ誤っている点に原因がある。したがって、宗教の内容、本質もきゅうめいせず、また、先祖からのものであるとか、習慣であるからといって、そのまま鵜呑みにしてよいわけがない。根本法なればこす、最も高く、正しいものを求めて、価値ある人生としていくのが、文明人のあり方といえる。
 現在、日本には、世界じゅうのあらゆる宗教が存在しており、文部省の統計によれば、宗教法人の数はおよそ18万とおわれている。しかしながら、そのほとんどの人は、それらの宗教を判別し、批判していく基準原理を知らない。
 このように、多くの宗教が乱立しているのは、日本人がいかに宗教に対して無批判であるかの証左でもある。無批判とは、反近代的、非科学的の意にほかならない。
 また、無批判が信教の自由であるかのごとくいう人がいるが、これもいかに幼稚な錯覚である。単に無関心、無批判であるためならば、自由の獲得に尊い血を流す必要は毛頭なかったのだ。正しいものと邪なものとを批判し、邪なものを捨て、正しいものを信ずるために、人類の信教の自由をかち取る戦いが行われたのである。人類は真に納得のできる正しい信仰をもってこそ、先覚者の苦闘の意義あるものとすることができるのであろう。
宗教批判の原理
 およそ、すべての物に測る基準があるように、宗教にも、その正邪・勝劣を測る基準がある。その基準によって測っていくならば、いかなる宗教も、厳格にその成否が決定され、誤りのない宗教が選び出されてくる。この宗教を測る基準を「宗教批判の原理」というのである。宗教批判の原理としては、文・理・現の三証、宗教の五網、五重相対、四重興廃、三重秘伝等たくさんあるが、ここでは三証、宗教の五網、五重相対の三つんついて述べる。
文・理・現の三証
 三証とは、文証・理証・現証のことである。
 文証とは、文献上の証拠の意で、その宗教がいかなる経典をよりどころとしているかということである。仏教ならば、各宗各派、おのおのが依経としている経文がある。キリスト教の聖書、イスラムのコーラン等、いずれも文証である。およそ、経典や教義のないような宗教とは、宗教とはいえない。これらの各宗教の経典、そこに説かれている教義を比較検討してみるならば、仏教以外の宗教の教義は、仏教に比べて、はるかに低い教えであることをただちに知ることができるのである。
 理証とは、以上の文証があるとしたうえで、その文証が哲学的に究明して、現代科学と矛盾せず、かつ理論としてあらゆる人が納得できるかどうかという問題である。いかに経文が立派であっても、説かれている内容が支離滅裂で、科学的価値がなかったならば、これは捨てなければならない。哲学とは、思惟することであるが、正しい宗教は合理的であり、普遍妥当性をもっていなければならない。同一原因は、時と所によらず同一結果を具現し、すべての人々を幸福に導くものでなくてはならないのである。
 さらに、現証とは、経文に説かれ、理として示されているところが、実際生活のうえに証明されることである。本来、真実の宗教の意義は人間革命にあり、個人個人の宿命を打開して絶対的幸福を得さしめることが目的である。したがって、この理を完全に説明できる哲学がなくては、真実の宗教とはいえない。しかして現証とは、その宗教を実践することにより、いかなる証拠が現実の生活に現われるという実験証明である。
 日蓮大聖人も、この現証に最も重きをおかれ、安国論にも以下の本文のように、唐の例や日本の承久の乱の例を引き邪教が国家に及ぼした現証を教えられている。
 弘安2年に認められた聖人御難事にいわく、
 「大田の親昌・長崎次郎兵衛の尉時綱・大進房が落馬等は法華経の罰のあらわるるか、罰は総罰・別罰・顕罰・冥罰・四候、日本国の大疫病と大けかちとどしうちと他国よりせめらるるは総ばちなり、やくびやうは冥罰なり、 大田等は現罰なり別ばちなり、各各師子王の心を取り出して・いかに人をどすともをづる事なかれ」(119005
 現証があるかないか、これこそ宗教の正否を決するものである。大聖人は現証が最も大切であることを、三三蔵祈雨事に「
日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず」(146816)と仰せられている。
 かくのごとく、宗教を論ずるにああっては、証拠を第一とする。日蓮大聖人を末法の御本仏と断定するのも、文証としての法華経のうえに明らかであり、その文証どおりに大聖人が振舞われたがゆえに、われわれはそれを信ずるのである。
 
よく、西欧の考古学的な仏教学者の影響で、釈尊の説いた教えは根本仏教のみで、他の小乗教・大乗経は後世につくられたものであるといって、これを否定する生半可な学者がある。そのようなことは、小乗教がまず弘まり、ついで大乗教が弘まったという仏法流布の方程式を知らないところから起こったものであろう。インドにおいても中国においてもかって論議されたし、近代日本の国学者などからも出されたことがある。古代仏教は伝承によって伝えられたので、これを文献的にうんぬんすることは所詮無理なのである。
 仏法は生命哲学である。小乗教より大乗教、大乗教のなかでも法華経が最も勝れていることは明白である。法華経を否定する人々は、機械や知識の奴隷になっているのである。主体的に、理性ある人間としてみれば、そのようなことは取るに足りないことである。もったいない話であるが、一つの譬えでいえばよくわかる。ある人が、
 某有名メーカーの製品と信じていた、優秀なラジオがあったとする。ところが、よく調べると、それは、そのメーカーの製品でなかった。だからといって、そのラジオの性能の優秀であることに変わりはない。有名ラベルさえあればよいという人はともかく、賢い人なら、機械が優秀であること自体を喜び、それを重んずるであろう。
 仏の経典もまた然りである。大切なのは経文が優れていることであり、説かれている哲理が高く、深く、正しいことである。日蓮大聖人のお振舞いは、法華経に説かれているのと寸分の違いもなく、大聖人の建立された三大秘法の大御本尊の力は、経文に説かれているとおりに、今、われわれの生活に実証されている。
 この現実の証拠をもって、また、われわれの主体性に立って、学問や知識の奴隷と化した学者たちの主張が、いかに愚かであるかを知ることができる。
五重の相対
 内外相対、大小相対、権実相対、本迹相対、種脱相対の五つをいう。
 内外相対とは、内道と外道の比較論である。内道とは仏教、外道とは仏教以外の宗教、すなわちキリスト教、儒教、イスラム教、バラモン教等である。この二つを比較すると、内道である仏教の方が、外道よりはるかにすぐれている。その比較の基準は因果の理法の有無である。
 仏法は因果の理法を根幹として、原因があれば必ず結果があると説き、これが一法則のごとく定まっている。ゆえに科学である。しかるに外道においては、この因果論がはっきりと説き明かせておらず、また因果を無視した説が多く、仏法に比較すると、はるかに低級といわざるをえない。
 たとえば、キリスト教等で天地創造説を立てる。天地創造以前は無であり、混沌である。すでにここに因果律は成り立たない。いわんや一つのパンから無数のパンを出したり等の、いわゆる奇跡と称するものは、因果無視の典型である。大聖人は唱法華題目抄に「
但し法門をもて邪正をただすべし利根と通力とにはよるべからず」(001616)に、と述べられている。「法門ををもて邪正をただせ」とは、因果の道理である。奇跡のごときは絶対にありえないと断言されているのである。
 このようにいえば、創価学会で病気がなおる等というではないか、という人があるかもしれない。だが創価学会でいうのは、あくまでも信心によって本人の生命力が増し、福運がついて病気を克服するという、現代医学でも証明されつつある道理にかなっていつのである。いわんや仏法哲理、生命哲学に照らせば、明々白々の原理が存するのである。
 大小相対とは、仏教のなかにも大乗教と小乗教がある。小乗教は釈尊が説法を始めてから、三七日間の華厳経についで、最初の12年間に説いた経である。これを依経とした宗派は、わが国では倶舎・実成・律宗等があったが、いずれも今は消滅している。小乗教以後の説教を大乗教という。小乗教が戒律を主体とし、修行が複雑であるうえ、単にその個人をしか教えないのに較べ、大乗教は、法の内容が高度で、しかも修行は簡単である。ゆえに多くの衆生を救える大乗にたとえるのである。今日、この小乗教は、ビルマやチベットなどの東南アジアで行われているが、厳しい戒律と修行を青年に要求し、むしろ近代社会としての発展を阻害する結果となっている。一方、わが国でも、天理教や日蓮宗各派がこれを取り入れているが、使い古した暦のごとくで、むしろ低級な邪教ぶりを証明しているにほかならない。
 権実相対とは、大乗教のなかにも権大乗教と実大乗教とがあり、実大乗教の方が勝れているのである。権大乗教は華厳経の21日の説法、方等部の16年間の説法、般若部の14年間の説法で、浄土宗、禅宗、真言宗、法相宗、三論宗等が、この権大乗教の経文をそのよりどころとしている。この教えは、いずれも仏が衆生の機根を調えるための方便として説いた経文で、いまだ真実の教えである宇宙の根本原理、生命の実相観は説かれていない。それを説き明かしたのは、実大乗教、すなわち法華経である。ゆえに権大乗教は実大乗教にはるかに劣るのである。
 本迹相対とは、実大乗教のなかでも、本迹二門があり、迹門に対して本門が勝れているということである。釈尊は一代の説法の肝心として、最後の8年間に1828品の法華経を説いた。その28品のうち、前14品を迹門、後14品を本門というのである。迹門においては、釈尊がこの世に生まれて、30歳で初めて成仏したという始成正覚を前提として、生命の理論上の実相観を述べている。しかるに本門においては、永遠の生命観のうえに立って、宇宙および生命の実相を説き明かしたのである。
 迹門の迹とは「影」の意で、本門の本とは「本体」、永遠の生命である仏が、初めて仏になるという姿を示し、その立ち場で説く本門であるゆえに迹門というのである。したがって、仏が本地において説いた本門のほうが、はるかに勝れていることはいうまでもない。
 この本門の説法を聞くことによって、法華経迹門に至るまで成仏することのできなかった迹化の菩薩や人天の大衆も、初めて成仏することができたのである。しかしながら、迹門はもとより、本門といえども、日蓮大聖人の仏法と比較した時には、天地雲泥の相違がある。釈尊の教えは末法においては、なんの利益もないのである。
 種脱相対とは、仏になるこれこそ最も肝心の法門である。すなわち、仏法において、大切なことは、種・熟・脱の三義である。
 種とは下種のことで、仏になる根本の原因をつくること、すなわち、仏に会って仏になる種を植えることをいう。熟とは、過去の下種が薫発し調養することであり、脱とは下種された仏種が調養して、ついに仏と等しい境涯を得ることをいうのでる。これみな仏法の大利益であるがゆえに、三益といい、それぞれ下種益・熟益・脱益というのである。
 さて仏教において、釈尊は以上の三つのうち、どの利益を在世の衆生に与えたかというと、それは脱益なのである。すなわち、過去五百塵点劫の世において、自分が下種し、結縁した衆生が、その長い間、調養し、さらにインドに、釈尊と同時代に生まれてきて、その教えを聞いて調養し、ついに法華経にいたって仏の境涯を得たのである。ゆえに釈尊の出世の本懐は過去の下種を熟し脱せしめんがためである。
 しかして、過去に下種されながら、釈尊の在世に得脱しなかった者たちは、正法1000年間、像法1000年間に仏法を修行して調養し脱したのである。すなわち像法時代には、薬王菩薩の後身である天台大師が出現して、理の一念三千を摩訶止観に説いて熟益を施した。ずっと過去に下種されていた人々は、この天台の熟益の教えによって、調養しつつ、自然に得脱したのである。
 されでは、末法はどうであろうか。われわれ末法の衆生は、釈迦仏法にはなんの結縁もないのである。いわゆる本末有善の衆生といって、過去に釈迦仏法によって下種されたこともなければ、当然、熟益の功徳をうけたこともない。そういう善根はいっさい積んでいないのである。したがって、釈尊50年の経々によっては、成仏もできないし、現世に成仏の証拠としての幸福もつかみ得ないのである。されば末法の衆生は、現世において初めて下種を受け、直達正観といって、末法の正法の仏力・法力によって、ただちに仏の境涯にいたるのである。この下種仏法の本仏こそ、日蓮大聖人である。
 釈迦仏法では、五百塵点劫という長い期間を修行してようやく成仏するのに対し、日蓮大聖人の仏法は、一生成仏といって、この一生の間に成仏を得ることができる。すなわち、下種仏法といっても、下種するだけをいう意味ではなく、下種・調熟・得脱を具えているのである。受持即観心といって、この妙法を受持し三大秘法の御本尊に南無妙法蓮華経と唱える、その当体がすでに仏身なりと説かれるのである。このように、凡夫の身そのままで成仏することを即身成仏という。
 下種の仏法と脱益の仏法とは、以上のように根本的に違っており、末法今時においては、脱益の仏法を捨てて下種の仏法を採らなくてはない。これを種脱相対して仏法を批判するというのである。
 世の人々は、法華経というと、釈尊の28品の法華経だけだと思い込んでいるが、法華経には何種類もの法華経があり、釈尊以後だけでも三種の法華経がある。釈尊の28品は脱益の在世当時の法華経で、熟益の法華経は、像法時代の天台の摩訶止観であり、末法下種の法華経は日蓮大聖人の南無妙法蓮華経である。
 日蓮大聖人、観心本尊抄にいわく「再往之を見れば迹門には似ず本門は序正流通倶に末法の始を以て詮と為す、在世の本門と末法の始は一同に純円なり但し彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字なり」(024916)と。

宗教の五網
 五網とは教・機・時・国・教法流布の先後の五つである。この五つの条件に適った宗教でなければ正しい宗教とはいえない。
 まず教とはいかなる教えが最高であり、民衆を物心ともに幸福に導くことができるかを判断することである。この判断の基準は、すでに見てきた三証・五重の相対によるのであるが、大聖人は教機時国抄の中で、次のように仰せられている。
 「所以に法華経は一切経の中の第一の経王なりと知るは是れ教を知る者なり、但し光宅の法雲・道場の慧観等は 涅槃経は 法華経に勝れたりと、清涼山の澄観・高野の弘法等は華厳経・大日経等は法華経に勝れたりと、嘉祥寺の吉蔵・慈恩寺の基法師等は般若・深密等の二経は法華経に勝れたりと云う、天台山の智者大師只一人のみ一切経の中に法華経を勝れたりと立つるのみに非ず法華経に勝れたる経之れ有りと云わん者を諌暁せよ止まずんば現世に舌口中に爛れ後生は阿鼻地獄に堕すべし等と云云、此等の相違を能く能く之を弁えたる者は教を知れる者なり、当世の千万の学者等一一に之に迷えるか、若し爾らば 教を知れる者之れ少きか教を知れる者之れ無ければ法華経を読む者之れ無し法華経を読む者之れ無ければ国師となる者無きなり、国師となる者無ければ国中の諸人・一切経の大・小・権・実・顕・密の差別に迷うて一人に於ても生死を離るる者之れ無く、結句は謗法の者と成り法に依つて阿鼻地獄に堕する者は大地の微塵よりも多く法に依つて生死を離るる者は爪上の土よりも少し、 恐る可し恐る可」(044001
 日蓮大聖人は、法華経こそ勝れたり唯一絶対なりと知るのが、教を知る者なりと御断定である。しかして、この法華経とは、釈尊の28品の法華経でもなく、また像法時代の天台の摩訶止観でもない。下種下種、文底秘沈の南無妙法蓮華経の7文字の法華経である。この南無妙法蓮華経こそ末法唯一の教としることを教を知るというのである。
 機を知るとは、民衆の機根を知ることである。最高の教えである三大秘法の南無妙法蓮華経の大仏法も、正法・像法時代には弘めることができなかった。それは一つには、正像の民衆の機根と合致しなかったゆえである。逆に今末法現代において、仮に釈迦仏法が最高だとしても、悠長な歴劫修行では、民衆は納得しないであろう。もしも、そのような修行をするとなれば、社会生活の方が成り立たなくなり、幸福生活を実現することはできなくなってしまう。決局は有閑階級の気休めになってしまうことは必然である。今はやりの坐禅のごときは、まったく現代の民衆の機根に合わぬものであり、また経文書写も仏像崇拝等も、いずれも前時代的で現代の時代に適合したものとはいえない。
 三に、時を知るとは、現在は正・像・末のうち、末法の時代である。釈尊の予言どおり、釈迦仏法の功力は失われ、邪宗が横行している五濁の相を現じている。民衆は塗炭の苦しみに陥り、力ある宗教、真実の仏法の出現を待ち望んでいる。このような時こそ、日蓮大聖人の大哲理が弘まる時であると知ることこそ時を知るというのである。
 この時を知ることは、第一の教えを知るのとともに、五網のなかでも特に大切な問題とされている。これについて明かされたのが、「撰時抄」で、その冒頭に大聖人は「夫れ仏法を学せん法は必ず先づ時をならうべし」(025601)と述べられている。末法現代、民衆の機根は下劣になっているが、自然科学の発達によって、仏法の深遠な生命哲学が理解されやすくなっているのは、やはり時のしからしむるところといえようか。
 さらに国を知るとは、日本は実大乗有縁の国である。弥勒菩薩の瑜伽論にいわく「東方に小国有り其の中に唯大乗の種姓のみ有り」と。肇公の翻経の記にいわく「大師須耶蘇摩左の手に法華経を持し右の手に鳩摩羅什の頂を摩で授与して云く仏西に入って遺耀将に東に及ばんとす此の経典東北に縁有り汝慎んで伝弘せよ」と。この予言のとおりに、日本は日蓮大聖人御建立の一閻浮提総与の大御本尊がまします国である。しかも大聖人は顕仏未来記に、この大仏法が中国・インドへ帰ると予言されており、現にわれわれ創価学会員の手によって、一歩一歩それが現実となっている。このように日本こそ、大仏法建立の国であると知るを、国を知るというのである。
 最後に教法流布の先後とは、教機時国抄にいわく「五に教法流布の先後とは未だ仏法渡らざる国には未だ仏法を聴かざる者あり既に仏法渡れる国には仏法を信ずる者あり必ず先に弘まれる法を知つて後の法を弘むべし 先に小乗・権大乗弘らば後に必ず実大乗を弘むべし先に実大乗弘らば後に小乗・権大乗を弘むべからず、瓦礫を捨てて金珠を取るべし金珠を捨てて瓦礫を取ること勿れ」(043916
 わが国では、華厳・法相の権大乗が奈良時代に弘まり、法華経迹門が平安時代に広宣流布された。しかるに、権大乗の真言・浄土宗等が、この後に弘まって、国を乱し、民衆を苦しめたのである。しかも明治以降は、外道たる、まったく低級な神道を尊重したので、ついに亡国の悲劇を招いたのであった。一度、法華経が流布した以上、次に流布されるべき仏法は、法華経独一本門の大法でなければならない。これを教法流布の先後というのである。
 報恩抄にいわく、
 「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ」(032903)と。 すなわち、日蓮大聖人建立の三大秘法は、われわれ創価学会員の手によって、広宣流布し、末法万年尽未来際までの平和楽土を実現していくのである。


第三章 中国における亡国の現証を挙ぐtop

05                                                    抑
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 近年の災難を以て往代を難ずるの由 強ちに之を恐る、 聊か先例を引いて汝が迷を悟す可し、 止観第二に史記を
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 引いて云く「周の末に被髪・袒身・礼度に依らざる者有り」弘決の第二に此の文を釈するに 左伝を引いて曰く「初
08
 め平王の東に遷りしに 伊川に髪を被にする者の野に於て祭るを見る、 識者の曰く、 百年に及ばじ其の礼先ず亡
09
 びぬ」と、 爰に知んぬ 徴前に顕れ災い後に致ることを、 又阮藉が逸才なりしに 蓬頭散帯す後に公卿の子孫皆
10
 之に教いて奴苟相辱しむる者を 方に自然に達すと云いソン節兢持する者を呼んで田舎と為す 是を司馬氏の滅する
11
 相と為す已上。

 そもそもあなたは正嘉の大地震など近年の災難をもって、先年、法然が弘めたゆえんだとすることに、これを暴言と思い、恐れているが、いまここに若干の先例を引いて、あなたの迷いをはらしてあげよう。
 摩訶止観第二に史記を引いていわく。中国周代の末に髪を乱し裸で礼儀を守らない者がいた。と。この止観の文をさらに妙楽大師は弘決の第二に左伝を引いて解釈しているがそこには「周の国家は礼儀をもととして建てられたが、第十三代の平王の代に犬戎の侵略を避けて、都を東の洛邑に遷すとき、伊川で髪を束ねずばらばらにした姿で、野原で神を祭っているのをみた。その光景を見た識者は、あと百年もたたないうちに国は亡びるであろう。その先兆としてまず礼がほろびてしまつた。と予言した」とある。このことわざからもわかるように災難が起こるときは、まず」そのきざしが現れ、その後、災いが起こるのである。
 また同じ中国西晋の時代に、竹林の七賢の一人で有名な院籍という逸材がいた。彼は髪を乱し、着物もだらしなく着て、礼儀というものをまるで意に介さなかったが、当時の公卿の子弟がみな院籍にならって礼義を乱し、賤しいもの同士が互いに悪く言い合い相手をはずかしめ合うのをみて「彼等は自然の境涯に達したものである」と主張し、反対に礼義を重んずる慎み深い者を「あなたは田舎者だ」と呼んだ。すなわちこれを西普の王である司馬氏の滅亡する相となした。 とある。

12   又慈覚大師の入唐 巡礼記を案ずるに云く、 「唐の武宗皇帝・会昌元年勅して章敬寺の鏡霜法師をして諸寺に
13
 於て弥陀念仏の教を伝え令む寺毎に三日巡輪すること絶えず、 同二年回鶻国の軍兵等唐の堺を侵す、 同三年河北
14
 の節度使忽ち乱を起す、 其の後大蕃国更た命を拒み回鶻国重ねて地を奪う、 凡そ兵乱秦項の代に同じく災火邑里
15
 の際に起る、何に況んや武宗大に仏法を破し多く寺塔を滅す乱を撥ること能わずして遂に以て事有り」已上取意。

 また慈覚大師の入唐巡礼記を見ると次のように出ている。中国・唐の武宗皇帝は会昌元年に勅命を発して、章敬寺の鏡霜法師に国内の寺々に弥陀念仏の教えを弘めさせた。そのため、寺ごとに三日ずつ巡って説法したが、勅を発した翌年には早くも回鶻国の軍兵が唐の境を侵略してきた。また会昌三年には河北節度使が反乱を起こした。その後当時、唐の属国となっていたチベットが、再び皇帝の命を拒み回鶻国は重ねて国内に侵略してきた。そのため兵乱はあたかも秦の始皇帝・楚の項羽の時代と同じように、町も村も皆、災火に巻き込まれてしまった。ましていわんや武宗は仏法をおおいに破り、寺院を破壊する大謗法を犯したので、兵乱をおさえることができず、ついにはその罪により病となり、狂死してしまった。

講義
 この章は客の問いに「
何ぞ近年の災を以て聖代の時に課せ強ちに先師を毀り更に聖人を罵るや」あったのに対して、具体的例をもって破折されたのである。
 この章に引いた三つの例は、いずれも中国の例で、一に周の末、二に晋の時代、三に唐の末で、いずれも、国家が大きく乱れた例を引いている。
    一の周末の例は、仏法とは無関係の立ち場であっても一国の興廃には必ず前兆のあること。
    二の晋代の例は、外道においても国の興亡には必ず前兆のあること。
    三の唐末の例は、仏法においても、当初邪法が流布すれば、一国に災難が起きてくる。
 ことを現わしたものである。
周末の乱れ

 はじめに周の末についてみれば、西紀前12世紀に文王、武王によって建国された周は、はじめ、西の鎬京(現在の西安か)を都と定め、中国史を通じて、最も典型的な封建体制のしかれた時代であり、安定し、繁栄もしていた。ところが第十代の廣王の時代になると、さしもの周王朝も衰微し、滅亡の徴候を見せ始めた。廣王は圧政を続け、民衆の苦悩は、増大する一方であった。ために民衆の不平不満は高まった。これに対し王は、衛の国から巫女を呼び寄せて、王の悪口を言うものの名を神がかりで告げさせ、かたっぱしから謙疑者を松とらえて殺すという暴挙に出た。ついに周の都には大反乱が起こり、国民は立ち上がって王の宮殿を襲撃した。いのちからがら危地を脱した王は東方に出奔し、以来14年間、周は空位時代となった。その跡を継いで廣王の子で、英明な宣王が立ち、在位46年間、周室は大いに復興した。だが宣王といえども、晩年はうってかわって失政が多く、民衆の不満、反感は高まった。そこに、宣王あと、暗君幽王が立ったために、民衆は、再び苦悩のどん底に追いやられた。特に旱害が続き、陝西地方に大地震が起こったりして天災が重なったために、悲惨な状況は、筆舌に尽くしえぬものがあった。
 民衆が苦悩している時、幽王は、愛する褒姒の歓心を得るため、いろいろなばかげたことをやってのけた。たとえば、褒姒が少しも笑わないので、これを笑わせるために、外敵の侵入を知らせるのろしをあげさせた。四方から馳せ参じた諸候が、外敵の侵入がなかったので、拍子ぬけした顔をした。これを見て褒姒が大笑いした。褒姒の笑顔を見たい一心の幽王は、その後、幾度となくのろしをあげたので、諸候はのろしの合図をまったく信用しなくなってしまった。さらに幽王は、皇后の申后と太子を廃して、褒姒を皇后に、その子伯服を太子に立てようとしたため、皇后の一族は、西北の犬戎をそそのかして幽王を攻めさせた。幽王はのろしをあげて、諸候を召したが、集まるものとてなく、幽王は犬戎の手にかかって殺された。周の鎬京の都は陥落し、完全に夷狄の手中に落ちた。諸候はやむなく東にのがれて、もとの皇太子を立てて平王とし、東方の都洛邑(現在の洛陽か)で即位させた。この遷都をさかいに以前を西周、遷都後を東周と呼んでいる。この周代の社会構造は、中国歴史中、最も典型的な封建体制のしかれた時代であったが、東周となってからは、その制度も乱れるようになり、周王といえども、地方の一諸候と同程度の実力しか持ち合わせなくなった。
 この周の末を春秋戦国時代と呼ぶが、その時代は洛邑遷都から、晋が
魏、趙、韓の三つに分割された年まで、戦国時代をそれから秦の始皇帝が天下を統一した年までとするのが、普通の見解である。いずれにしても、この時代は春秋と戦国の二期に分けるとはいえ、その内容は西周の封建制度があらゆる面で解体し、次にくる秦漢統一国家の成立する準備の過程と一貫している。
 東周のはじめの頃は、国に
100余の諸候がおのおのの領土を治めていたが、春秋を経て戦国時代にはいると、弱国は強国に併合されて、秦・楚・燕・斉・韓・魏・趙のいわゆる戦国7雄が、広大な領土国家を形成するようになった、
 この時代には、各国も内には内乱に悩まされ、外には国家間の争いが絶えず、国土は荒乱し君主や郷大夫の亡命も珍しいことではなかった。戦争のたびごとに、それを調停する会議が設けられ、調停者として覇者と呼ばれる人々が出るようになった。なかでも、斉の桓公・晋の文公などは有名である。これらの覇者は時により国王に代わって、中原に出て秩序を保つ役割りを演じたりしたが、これがかえって諸国間の争いを激化させる一因にもなった。
世の乱れを救いきれなかった孔子の教え
 かくして、西暦前770年の遷都から前221年の秦の統一まで、約550年間も戦乱が続いた。これは驚異的な長さであり、特に、戦国末は悲惨であり、秦が趙に殲滅的打撃を与えた長平の戦いでは、秦将白起は、食糧不足のため趙軍のの降卒45万人を全部穴うめにして殺すなど凄惨をきわめた。この間いかに民衆がその中に巻き込まれて苦しんだかは想像にかたくない。
 礼儀が乱れることが、なぜ世の乱れの瑞相であったか。思うに、礼儀の乱れこそ、実に民衆の心の乱れのあらわれであり、民衆のいらだち、あせり自暴自棄、目的観の喪失、既存の権威への不信、不満等が、さまざまな姿、形ににじみ出たものであるからである。
 かって文王の時代に定められ、かたく守られていた周の礼儀は、時とともに次第に失われていったのである。それは、そのまま周王朝の運命を物語るものであった。西周は没落し、東周の時代になるといっそう礼儀はかえりみられず、周王朝は衰微の一途を辿っていった。この時代に、いかに礼儀が失われたかは、孔子が魯の国の年代記をもととして編纂した、紀元前722年から前481年にいたる241年間の歴史をつづった「春秋」に明かである。孔子の「春秋」は、孔子が、臣下として君を弑し、子として父を殺すという極悪非道の世を慨嘆し、周の礼を復興し、大義名分をただし、乱臣賊子の行動を批判するために、もとの年代記に多少筆を加えてつくったものといわれている。
 孔子の理想は、周公の定めた制度を復興し、周の礼に返ることであった。彼は、魯の定公のもとで大臣に任ぜられた。ところが、三桓氏をうち、豪族政治を打倒しようとした彼は豪族たちの反撃にあって、失敗し、前497ごろ国外に出奔したのだった。その後、彼は、晋・趙等の国々をまわり、礼を説き、それを具現すべきことを主張した。だが、どこの国でも彼の意見は取り入れられず、その間すんでのところで一命をおとしそうになったり、国境で立往生し、食糧がつきて7日間絶食するなど、13年間の旅行ですっかり心身疲れはて、失望のすえ、69歳のとき魯の国に帰った。このこと自体、儒教の限界であり、もはや、いったん失われた礼儀は、人為的にいくら復興しようとしても、復興できないことの証明であろう。すなわち、礼儀や頽廃は、民衆の生命の奥深くに根ざしたものであり、それに対し、再び形式的に礼儀を押しつけようとしても、もはや何の効果もなかったのである。この孔子の失敗した事実にも、そのころの礼儀の頽廃がいかにひどいものであったかが伺われるのである。また周王朝滅亡の姿であり、本文中に引かれた「百年に及はじ其の礼先ず亡びぬ」と識者の予言が的中したのも、まことにゆえあるかなと思うものである。
晋の衰微
 第二の晋の衰微について述べるにあたり、この時代の概観すれば、後漢の滅びた西暦202年から隋の建国589年までの約360年間は、まさしく動乱の時代であった。この時代は魏・蜀・呉のいわゆる三国鼎立の時代からはじまり、西晋となり、一時中国全体を平定、統一したが、北方異民族の侵入のために西晋(梁)は南に下って東晋となり、北に五胡16国、南に東晋と南北朝分かれて対立したのである。
 北朝(魏)は異民族の盛衰、興亡が激しく、わずか120年の間に成・漢・後趙・前燕・前凉・前奏・後燕・後奏・西泰・後凉・南凉・北凉・南燕・西凉・夏・北燕と大小16の王朝がめまぐるしく入れ替わった。こうした異民族王朝もやがて興った北魏によって統一され(0493)、しばらく平穏が保たれたが、6世紀の中途から再び乱れ始め。東魏・西魏の分裂、さらに北斉・北周と王朝が変わって隋の統一を待つことになるのである。
 一方、南朝は、東晋の時代がしばらく続いたあと、その乱脈極まりなき政治は、ついに再び激動期を迎え、420年に宋朝に変わり、ついで斉・梁・陳と王朝が交代し、589年北周とともに隋に滅ぼされ、南北統一が実現したのである。
 この間、400年間というものは、先のはるあき時代に劣らず、戦乱につぐ戦乱が続き、民衆の疲弊はその極に達していた。中国においては前漢・後漢の漢朝約400年間にわたる冶世の根底思想、理念として、孔子・孟子を祖とする儒家の哲理が行われていたが、漢末には、その孝悌、仁義を骨格とする思想の拘束に反抗するものが続出し、正統たる儒家思想は、次第にくずれさっていった。
 本文に引かれている
阮藉も、そうした反抗者ひとりで、阮藉を頭に嵆康・山濤・向秀・阮咸・劉伶・王戎の7人を、名づけて竹林の7賢と呼んでいる。阮藉が生まれたのは西暦210年であるから、漢王朝が魏の曹操に滅ぼされるちょうど10年前で彼が長じた頃は、三国鼎立の時代であったわけである。
 竹林の7賢といえば、聞こえもよく、いかにも聖人君子の集まりであるかのように思えるが、実際には、当時の行き詰まった世相に飽き飽きした者たちが、儒教倫理の形式主義をわざと無視し、酒を飲み、詩を吟じて気違いじみた行動を起こしたといった方が、ぴったりとしている。彼らは、当時魏を倒したあと西晋を建国した司馬氏らの一門や、礼教に縛られた人々を哀れな者共と見下し、そのような君子顔をしている連中は褌のシラミだといっては罵倒したのである。
 この7人のグループの人たちは、いずれも風変わりな連中ばかりで、7斗の酒を飲む者。琴を弾く者、死んだら何もいらないから酒壺だけを一緒に埋めてくれと頼む者、母が死んだ時、その葬式の席上で、酒肉を食らい、賭け事をしている者等々、要するに、奇行者の集まりだったわけである。
 この7人の首領格が阮藉で、彼が身だしなみもかまわず、だらしのない格好で登庁すると、それをきっかけとして若い人たちが皆それをまね、たちまちのうちに流行となってしまった。そして下品な言葉を使い、そのようにしてふるまうことが、あたかも立派な人であるかのような錯覚すらおこしてしまったわけである。
 こう論じてくると、こうした様相は何も竹林の7賢の時代に限ったことではなく、そのまま現代の世相にあてはまることがわかるではないか。次々と流行を追う若者たち、熱狂的に歌い、踊り、一時の陶酔に身をゆだねる現代青年の姿こそ、まさしく彼の時代をそのまま再現したものといっても過言ではあるまい。この一事をみても、いかに現代の社会が思想的には勿論、あらゆる面で行き詰まり、乱れきっているかがわかるであろう。

残虐非道の限り尽した八王の乱・永嘉の喪乱
 
さて、晋の時代の礼儀の頽廃は、そのまま政治の乱脈の象徴でもあった。魏の建国時代の政治、軍事に大功のあった司馬懿仲達の孫、司馬炎は、ついに魏をうばって晋を立て、武帝と称した。武帝は最初のうちは占田、課田の法という土地政策を施行するなど、意欲的な政治を行ったが、晩年は遊宴にふけり、皇后とその一門を寵愛して、政治はゆるみ、乱れた。石崇とか王愷等の豪奢の限りを尽くした人物があらわれたのもこのころである。竹林愷の7賢の一人である王戎は、実は極端に利己的な蓄財家であり、広大な邸宅や奴婢のおおいことは、洛陽しゅうに較べる者がなく、田園や水碓は天下に遍しといわれた。彼の夜の楽しみは、燈下に妻と財産勘定することであったという。しかも、邸にある李樹は年々の金儲けの一つであったが、そのよい李の種子が、他家で植えられるのをおそれて錐で核に穴をあけたとまでいわれる。竹林の7賢とほめはやされ、無為自然などといい、聖人ぶっても、本性はこんな人間だったのである。他の竹林の7賢の人々も、内容は違えども、大なり小なり共通する面があったと評したら酷であろうか。
 このような奢侈生活が流行しているなかに武帝が崩じ、暗愚な恵帝が即位するや、嫉妬深く、悪智慧に富んだ賈皇后を中心に閨閥間の争乱が生じ、また、かって武帝の時代に晋王室のまもりとして、周辺に配した同族の諸王のなかの有力野心家が、次々と叛乱を起こし、洛陽には殺戮がうずまいていた。いわゆる8王の乱である。この争乱の中で306年に恵帝は毒殺されてしまった。だが表向きは食中毒と公表された。
 この間、住民は、戦争、凶作、略奪に追われて、流亡し続けた。296年、297年には関中一帯に大飢饉が続き、かつ悪疫が流行した。米価の値上がりが甚だしく、一般の人々は、生きるために子を売り、妻を売った。
 298年には、いたるところ大洪水に襲われた。310年には北部一帯にイナゴの大群が発生し、村から村へ、いっさいの草木を食い尽くして行った。牛馬の毛までなくなったという。その上悪疫が大流行し、多くの人命が失われた。
 このような内部の争乱に乗じ、匈奴・羯・鮮卑・氐・羌の五胡の騎馬略奪部隊が侵入し、都市、部落を破壊し西晋の滅亡を決定的なものにした。とりわけ匈奴は勢力も大きく、その将軍劉淵は、自立して、漢王と称し、ついで皇帝と称した。劉淵のあとの4男の劉聡は、兄を殺して漢皇帝となり、残虐非道な殺戮をほしいままにした。一方、洛陽では、8王の乱の最後をなす東海王越は、懐帝の側近たちを殺して実権を握ったが、帝との間には不和が続いていた。それにつけ入って匈奴軍は、激しい攻撃を加えた。特に東海王越が死ぬや、匈奴の将軍石勒は、陰惨きわまる殲滅作戦を展開し、匈奴騎馬部隊に包囲された晋の武士10余万人は、四方から飛んでくる矢のなかでことごとく死に、死骸はやまのようになったという。
 東海王の太子以下一族、また大臣から土民にいたるまで、逃げ遅れたものはことごとく捕えられ殺されていった。諸稜墓もあばかれ、中の金品は略奪された。懐帝も捕えられ、あらゆる恥辱をけたあと殺された。これは313年の事件で、世に永嘉の喪乱と名づけられている。このあと、長安で西晋最後の皇帝が擁立されたが、勝ち誇った匈奴の騎馬部隊は長安にも侵入、おりから激しい飢饉のために、長安はなすすべを知らず、たちまち敗北に帰し、晋皇帝は殺され、ここに皇帝即位から52年で匈奴軍の蹂躙するなかに、西晋はその幕を閉じたのである。御文に「司馬氏の滅する」とあるのは、このような悲惨な事実をさすのである。

唐末・安禄山史思明の叛乱
 第三に、国の亡んだ例として、日蓮大聖人は唐の末の例をひかれている。唐代といえばその領土のおおきさといい、華麗な文化といい、中国の歴史中、最も栄えた時代であり、四方の異民族とも最も善隣友好を結んだ時代である。その都・長安は、西のバグダット、アレキサンドリアとともに、世界文化を中心地として人口も100万を越える賑わいを見せていた。特に高祖の跡を継いで皇帝となった第2祖太宗の時代は、賢王のもと、国力は充実の一途を辿り、貞観の冶と呼ばれる太平の一時期を画した。
 ちょうど陳の天台大師が、おりからの南三北七と乱立していた仏教を、法華経に統一してから約50年にあたり、儒教・道教に比して仏教が国の上下から篤く信仰されていた時代である。
 唐王朝はその後、一時王朝内部に叛乱があって動揺したが、第6代玄宗皇帝の時に再び国力は充実して、開元天宝の冶と呼ばれる太平の世を出現した。唐代を代表する華麗な文化は、この時代にほとんど完成され、その勢力は広く周辺の異民族を敬服させ、遠くペルシァ、ローマとも積極的な交流が行われた。
 しかし、この繁栄も玄宗皇帝の晩年からようやく乱れをみせ、諸国の安定のために設置していた節度使が、かえって勢力を得て叛乱を企て、安禄山が755年、次いでその部下の史思明が763年に、それぞれ朝廷に向かって叛旗を翻した。これらの叛乱は、やっとのことで鎮められたが、以後、中央の権力は極度に弱まり、地方の節度使は軍閥と化し、朝廷を脅かしたのである。
 第15代武宗皇帝が即位したのは、こうして唐王朝が風前の灯となった841年で、これは玄宗皇帝から約100年、唐代滅亡前60年にあたる。皇帝は即位するや会昌元年(0741)に勅を発して、鏡霜法師に命じて弥陀念仏の教えを各寺に伝えさせたという。ところが、その翌年には、唐の北西部に位置していたウイグル国が叛乱を起して唐の領土内に侵入、同3年には河北に派遣されていた節度使が叛乱を起こして朝廷をおびやかした。
 その後、唐の属国となっていたチベット国が唐の朝廷の命を拒み、異民族のウイグルの叛乱はますます度を加えるなど、唐朝の勢力は、まったく失墜した。武宗皇帝は、その原因を道士、趙帰真に問いただしたところ、趙は、仏教を弘めさせたのが原因と奏上したため、会昌5年(0846)、皇帝は勅を発して国内の仏寺44600余を破壊し、僧尼26万人に対して還俗を強制するなど、仏教に対して極端な弾圧政策をとった。このため、国の内外はますます騒然とし、皇帝自身も、会昌6年(0847)強度の神経衰弱と背疸のため悶死した。慈覚はこの死こそ、仏教を弾圧した罰であると、かの入唐巡礼記の中に書いている。

朱全忠唐を亡ぼし栄を建国
 その後、唐朝はさらに乱脈を続け、民情は悲惨をきわめた。財政難はひどく、節度使はますますさかのぼり、官官は横暴をほしいままにし、胡族の侵入はさらに激化した。この被害は、ことごとく民衆に集中し、流亡者が続出し、貧民は、飢餓の巷をさまよった。民衆の怒りはついに爆発点に達した。この機をとらえて、大規模な組織をつくり、武装した、闇塩商人の大反乱 黄巣の乱 が起きた。これが唐朝崩壊の決定的な一打となった。生活必需品である塩は、当時も専売制で、政府の重要財源の一つであった。だが国家財政の窮乏のため、塩価はおそろしいほど引き上げられ、ここに塩を求める民衆の苦悩に結びついて闇塩商人の暗躍が絶えなかった。政府はやっきになって取り締まったが、逆効果で、ついに黄巣を中心とする大規模な組織的叛乱となったのである。
 黄巣軍は、はじめ、江南へ南進し、広州をおとしいれた。このとき、黄巣軍によって殺されたアラビア商人は12万人にも達したといわれる。ここで豊富な財貨と軍需物資を確保した黄巣軍は、数10万の軍勢をもて「打倒唐朝」のスローガンのもとに、意気揚々と北伐を開始した。官軍はたちまち敗退し、880年、長安は占領された。黄巣は長安に無血入城、帝位につき、国号を大斉、年号を金統とあらためた。だが、彼らの占領も長くは続かなかった。大掠奪をほしいままにしたため、民衆が怒り、一方、唐軍が地方の軍閥と連合して反攻し、長安を包囲したのである。このため黄巣は長安を放棄、884年、朱温は黄巣を殺して、唐に下った。しかも、皮肉にも、この朱温は唐に亡ぼされたのである。
 朝廷は長安の黄巣を追い払った大功のある、外人部隊の酋長、李克忠を牽制うるために、朱全忠を優遇し、彼を開封の節度使に任じた。朱全忠はここで、着々と実力をたくわえていったのである。おりしも、長安の近くにある鳳翔の節度使李茂貞は、天下をとるべく、再三にわたって長安に攻め込んでいた。同じく天下をねらう朱全忠は、これを打つために大軍を擁して西に向かった。
 それ以前に、朱全忠は、彼の管轄下にあった洛陽の町に豪壮な御殿を作り、ここに皇帝を呼びよせ、自分が天下に号令しようとしていた。これに恐れをいだいた廷臣は、朱全忠が西に向かうや、皇帝を連れて李茂貞の本拠鳳翔城に逃げ込んだ、朱全忠は破竹の勢いで西進し、またたくうちに鳳翔を囲んだ、ここで攻防戦が数カ月つづいた。城内は食糧が尽きはててしまって餓死者が続出し、ついには人肉まで公然と売られていたといわれる。
 ついに城は明け渡され、勝ち誇った朱全忠は、ひとまず長安に引き返し、そこで宦官を根こそぎ殺戮し、また、計画どおり皇帝昭宗を洛陽に移した、ここにさしもの豪華な長安の都もまったくの廃墟と化してしまう。しかし、朱全忠の意に従わなかった昭宗は殺され、ついで13歳の哀帝が即位させられる。皇族たちは、皆殺しにされ、かくて、唐は20代、290年にして悲惨な末路を辿って、ついに去ったのである。
 以上の3例からもわかるように、国の興亡する時には必ずその前兆があり、春秋時代も、魏晋南北朝も、唐代末も、すべてその原理どおりになっていることは明らかである。特に唐の滅亡は、一つは邪教念仏衆の流行と、二つには仏教の弾圧と二つの原理が考えられ、大聖人の御在世に法然の念仏宗が大流行したのと、共通するものが考えられるわけである。

礼儀の頽廃による国の滅亡
 日蓮大聖人が、このように立正安国論をはじめ、多くの書の中で念仏宗、特に法然の名をあげ無間地獄の張本人、亡国の極悪人と破折されると「選択集が災難の原因というならば、法然が選択集を著わす以前には災難はなかったか」などと聞いてくる者もいたに違いない。
 災難対冶抄にいわく「
 疑つて云く国土に於て選択集を流布せしむるに依つて災難起ると云わば此の書無き已前は国中に於て災難無かりしか、答えて曰く彼の時も亦災難有り云く五常を破り仏法を失いし者之有りしが故なり所謂周の宇文・元嵩等是なり、難じて曰く今の世の災難五常を破りしが故に之起ると云わば何ぞ必ずしも選択集流布の失に依らんや、答えて曰く仁王経に云く「大王・未来の世の中に諸の小国王・四部の弟子諸の悪比丘横に法制を作りて仏戒に依らず亦復仏像の形・仏塔の形を造作することを聴さず七難必ず起らん」と、金光明経に云く「供養し尊重し讃歎せず其の国に当に種種の災禍有るべし」涅槃経に云く「無上の大涅槃経を憎悪す」等と云云、豈弥陀より外の諸仏諸経等を供養し礼拝し讃歎するを悉く雑行と名くると云うに当らざらんや、難じて云く仏法已前国に於て災難有るは何ぞ謗法の者の故ならんや、答えて云く仏法已前に五常を以て国を治むるは遠く仏誓を以て国を治むるなり礼義を破るは仏の出したまえる五戒を破るなり、問うて云く其の証拠如何、答えて曰く金光明経に云く「一切世間の所有る善論は皆此の経に因る」と、法華経に云く「若し俗間の経書・治世の語言・資生の業等を説かんも皆正法に順ず」と普賢経に云く「正法をもつて国を治め人民を邪枉せず是れを第三懺悔を修すと名く」と、涅槃経に云く「一切世間の外道の経書は皆是れ仏説なり外道の説に非ず」と、止観に云く「若し深く世法を識れば即ち是れ仏法なり」と、弘決に云く「礼楽前に駈せて真道後に啓く」と、広釈に云く「仏三人を遣して且く震旦を化す五常以て五戒の方を開く昔は大宰・孔子に問うて云く三皇五帝は是れ聖人なるか孔子答えて云く聖人に非ず又問う夫子是れ聖人なるか亦答う非なり又問う若し爾らば誰か聖人なる、答えて云く吾聞く西方に聖有り釈迦と号く」文。
 此等の文を以て之を勘うるに仏法已前の三皇五帝は五常を以て国を治む夏の桀・殷の紂・周の幽等の礼義を破りて国を喪すは遠く仏誓の持破に当れり
」(008314
 このように、仏法が流布する以前においては、五常が破れることによって国が亡びることは、多くの経釈に明らかであり「一切法之れ仏法」の原理によって、ますます助長するものであり、やがて一国の道を辿るしかないことを示すものである。

第四章 日本における亡国の現証を挙ぐtop

16   此れを以て之を惟うに法然は後鳥羽院の御宇・建仁年中の者なり、彼の院の御事既に眼前に在り、 然れば則ち
17
 大唐に例を残し 吾が朝に証を顕す、 汝疑うこと莫かれ汝怪むこと莫かれ 唯須く凶を捨てて善に帰し 源を塞ぎ
18
 根を截べし。

 こうしたことを考え合わせると、称名念仏は亡国のもとである。後鳥羽院が承久の乱で滅び去ったことは眼前の事実である。しかればすなわち中国においては唐の滅亡するという先例があり、我が朝では朝廷が臣下ともいうべき幕府に攻め滅ぼされたという証拠をあらわした。あなたは疑ってはならないし、あやしんでもならない。一刻も早く法然所立の念仏の凶を捨てて日蓮大聖人所弘の妙法たる善に帰依し、選択集を破ることによって災難の源をふさぎ、その亡国の根を断つべきである。

講義
 
前の中国の例に続き、本章では承久の乱を指摘して、浄土宗の弘まることが、一国の災いの原因であり、前兆であることを示されている。しかして、この先例をもって、災いの源をふさぎ、根を断つためには、元凶たる謗法を捨て、最高善たる正法に帰依すべきであると強調されているのである。
承久の乱の歴史的意義
 さて、ここで申されている「彼の院の御事」すなわち承久の乱は、いかなる事件であったか。一言で、その歴史を述べてみるとすれば、正に日本の主導権が京都の天皇、公卿から鎌倉の武士に移ったことを決定づけた事件ということができよう。
 すなわち、鎌倉幕府は、すでに源頼朝によって開かれ、いわゆる「東国武士」による統一という新しい時代が始まっていたのであるが、まだまだ朝廷方の意志を無視するわけにはいかなかった。このため、源家が三代で滅んだあとは、京から将軍を迎えてこれを奉ぜざるを得なかったし、特に西国に対しては鎌倉の威勢は無力に等しかった。
 さらに、幕府を構成している東国武士内においてすら、梶原景時・阿野全成・和田義盛等の草創期に重鎮が肩を並べ、互いに覇を競い合っていた。こうしたなかで、最後の勝利を獲ち取ったのが、頼朝の妻・政子を出した北条氏である。
 今から見ると、北条氏は東国武士の主力であったかのように思われがちであるが、事実は頼朝の外戚ということと、旗上げ以来の功臣ということ以外、なんの力もなかったのである。梶原・和田・三浦等の豪族に較べれば、取るに足りない存在でさえあった。
 この北条氏が政所別当としての地位を着々と強化し、巧みな策謀を駆使し、時には実力に訴えて、ついに執権体制を確立する時期もこのころである。かくして、三代将軍実朝の暗殺、幕府創立の重臣打倒等の事件が、京都方面にとって、幕府を倒す絶好のチャンスであるように見えたのも無理からぬ所であったろう。この倒幕の中心が後鳥羽上皇であった。
承久の乱発端・経過
 
上皇は、土御門道親を謀臣として、まず鎌倉方と仲のよい関白・九条兼実を排し藤原基道を後釜にすえた。
 そして上皇の寵妾・伊賀局や通親の死後は、代わって出てきた九条良経の義を入れ承元4年(1210)土御門天皇を退位させ、討幕に積極的な順徳天皇を即位させた。こうして王朝の故実風儀を興すかにみせかけながら、ひそかに院の藤原忠信・宗行・範茂らの近臣を集め、西国武士や脱落した御家人の結集を図った。
 内乱の口火となったのは、承久元年(1219)幕府が実朝の跡を継ぐべき将軍職に皇族の東下を要請したのを上皇が「いずれ誰かを選んで下向させるであろうが、今はダメだ」と体裁よく拒否し、院に接近した御家人、仁科盛遠の所領の返付と、伊賀局領である摂津の倉橋、長江二荘の地頭の改補を命じたことである。
 北条義時はこの時、朝廷側の強い態度に驚き、弟の時房に一千騎を与えて上洛させ、兼実派の道家の子で、当時わずか二歳の頼政を鎌倉殿に迎えることとし、上皇の要求をことごとく拒否したまま、鎌倉へ戻ってしまったのである。この事件は朝廷方の倒幕計画を挑発した。
 上皇は、まず承久3年(12114月、万一を考慮して順徳天皇から仲恭天皇へ位を譲らせ、ついで514日、鳥羽城南寺に流鏑馬と称して畿内の兵1700余を集め、その翌日、義時追討の宣旨を下し、三浦胤義に命じて京都守護、伊賀光季を襲わせて血祭りにあげた。この第一報が鎌倉へ伝えられると、幕府では政子を中心として、遠江以東14ヵ国の兵を徴し、義時と大江広元に軍政を見させ、西上軍の部署と決めた。
 総大将、北条義時が鎌倉を発った時は、わずか18騎であったが、たちまちふくれ上がり、「吾妻鏡」にはその数19万騎となったと記されている。これには多少誇張はあるにしても、上京するにつれて非常な大軍となっていったことは、まず間違いあるまい。東海道は時房と泰時、東山道は武田信光、小笠原長清、北陸道は北条朝時、結城朝広らをそれぞれ大将として、三方から攻めのぼらせた。
これを迎える朝廷方の軍勢は6万騎、これは西面の武士、関東方の脱略者、僧兵らの混成軍で、これを東海、北陸の二軍に分けて、幕府軍に対抗した。藤原秀康、三浦胤義、佐々木広綱らは美濃・尾張まで出陣し、宮崎定範、糟屋有久、仁科盛遠らは加賀へ出陣したが、両軍とも一撃で敗走するありさまであった。後鳥羽院上皇は、土御門、順徳上皇を連れて延暦寺へ難を避け、ついで賀画院に逃避した。
 しかし、近臣武将の要求で最後の一戦を試みることになり、勢多、宇治を中心に広瀬、淀、牧野、芋洗などの要所に敗軍の諸将を配置して戦ったが、613日、時房の軍が勢多口で山田重忠を破り、翌日には泰時の軍勢が宇治川を渡って源有雅、藤原範茂らを潰走させ、朝廷軍は武将もほとんど召し取られて、なんらなすすべもなく四散した。こうして京都は幕府軍によって占領され、上皇は賀陽院にあって門を閉じ、承久の乱は二ヵ月で終わりをつげた。
幕府三上皇を流し、断固たる処置
 この戦乱によって、京都は、かの保元・平治の乱、木曽義仲の乱入、源義経、範頼に率いられた東国武士の乱入と、相次いだ戦乱の傷の癒えないうちに、またもや焦土と化し、地獄さながらのありさまを呈した。承久記には、この時のもようが次のように記されている。
 「板東方の兵ごも、深草・伏見・岡屋・久我・醍醐・日野・勧修寺・吉田・東山・北山・東寺・四塚に馳せ散り、馳せ散り、或は一・二万騎、或は四・五千騎、旗の足を翻して乱入す。三公・卿相・北政所・女房・局・雲客・青女・官女・青侍・遊女以下に至るまで、声を立て、をめき叫び、立ちまよふ。天地開闢より、王城洛中のかかる事いかでか有らじ、かの保元のむかし、又平家の都を落ちしも、是ほどにはなかりけり。名をもをしみ、家をもおもう重代の者共は、ここかしこの大将にさしつかはされて、或は討たれ、或はからめとらる。其の外は(略)いつ馬にも乗り、軍したるすべもしらぬ者どもが、或は勅命に駈り催され、或は見物の為に出来る輩ども、板東の兵に追いつめられたる有様は、唯鷹の前の小鳥のごとし、射殺し、切りころし、首をとる事若干なり、板東の兵、首一つづつとらぬものこそなかりけれ。」
 後鳥羽上皇は615日、勅使を時房に送って討幕が自分の本意でないことを陳弁し、京都の秩序維持を依頼した。後堀川上皇をたて、院の近臣であった藤原基朝、平有範、藤原宗行らを斬首に処した。ついで後鳥羽上皇を隠岐、土御門上皇を土佐、順徳上皇を佐渡へ、それぞれ配流した。
 幕府はこのような大胆な処置をすると同時に、彼らの所領3000ヵ所を没収し、軍功のあった武将に与え、これを新補地頭とした。これによって、いままで幕府の権力のおよばなかった、西国の所領もその権力、御家人を植えつけることになった。そして時房、泰時を六波羅に駐在させて、南北の探提として、事実上、西国全域を支配させた。これによって、朝廷方は完全に幕府に屈し、幕府は、名実ともに、全国支配の実権を握ったのである。
 承久の乱の勝敗は、当時の人々の思想に大きな変動をもたらした。「一天万乗の大君」の軍勢は、哀れにも惨敗し、ひとたび発布すれば落花をも枝にかえすはずの宣旨は、今やその無力さを、万人の目の前に明らかにされた。「あずまえびす」とさげすんでいた武士たちの手で天皇は廃位され、三上皇は配流されるという、夢想だにしなかった驚くべき事件が、現実となって眼前に展開されたのである。
 鎌倉中期以後に書かれた、この承久の乱のもようを伝える書の多くが、後鳥羽上皇の失政を攻撃するかたわら、天下の民生を安定させることこそが、政治の最高の目的であるとして、断固、朝廷を打倒した義時の正当性を主張していることは、大いに注目すべき点である。
念仏の熱烈な信仰もむなしく
 この承久の乱は、かの法然の死後9年を経た事件である。本文には「法然は後鳥羽院の御宇、建仁年中の者なり」とあるが、建仁年中とは12011203年までの3年間を指したもので、建久9年に法然が選択集を著してから、ちょうど3年目、その邪義がようやく京方の上下に浸透して、既成宗教の比叡山をはじめ、興福寺等から、念仏禁止の声が次第に強くなって、中宮任子・上西門院・藤原経院・藤原兼実等の貴族が熱心な信徒となったため、京における法然一門の地位は、旭日の勢いであった。
 こうした中で、後鳥羽院上皇を中心とした朝廷側の公家の中から、倒幕計画が企てられていったわけであるが、念仏への熱烈な信仰、真言等への祈禱等、邪義邪法の害毒のゆえに、日本国始まって以来の天皇方の敗北、三上皇の流罪というみじめな結果を出現したのである。
 日蓮大聖人、富城入道殿御返事にいわく
 「去ぬる承久年中に隠岐の法皇義時を失わしめんが為に調伏を山の座主・東寺・御室・七寺・園城に仰せ付けられ、仍つて同じき三年の五月十五日鎌倉殿の御代官・伊賀太郎判官光末を六波羅に於て失わしめ畢んぬ、然る間同じき十九日二十日鎌倉中に騒ぎて同じき二十一日・山道・海道・北陸道の三道より十九万騎の兵者を指し登す、同じき六月十三日其の夜の戌亥の時より青天俄に陰りて震動雷電して武士共首の上に鳴り懸り鳴り懸りし上・ 車軸の如き雨は篠を立つるが如し、爰に十九万騎の兵者等・遠き道は登りたり兵乱に米は尽きぬ馬は疲れたり在家の人は皆隠れ失せぬ冑は雨に打たれて緜の如し、武士共宇治勢多に打ち寄せて見ければ常には三丁四丁の河なれども既に六丁・七丁・十丁に及ぶ、然る間・一丈・二丈の大石は枯葉の如く浮び五丈・六丈の大木流れ塞がること間無し、昔利綱・高綱等が渡せし時には似る可くも無し武士之を見て皆臆してこそ見えたりしが、然りと雖も今日を過さば皆心を飜し堕ちぬ可し去る故に馬筏を作りて之を渡す処・或は百騎・或は千万騎・此くの如く皆我も我もと度ると雖も・或は一丁或は二丁三丁渡る様なりと雖も彼の岸に付く者は一人も無し、然る間・緋綴・赤綴等の甲其の外弓箭・兵杖・白星の冑等の河中に流れ浮ぶ事は猶長月神無月の紅葉の吉野・立田の河に浮ぶが如くなり、爰に叡山・東寺・七寺・園城寺等の高僧等之を聞くことを得て真言の秘法・大法の験とこそ悦び給いける、内裏の紫宸殿には山の座主・東寺・御室・五壇・十五壇の法を弥盛んに行われければ法皇の御叡感極り無く玉の厳を地に付け大法師等の御足を御手にて摩給いしかば大臣・公卿等は庭の上へ走り落ち五体を地に付け高僧等を敬い奉る。
 又宇治勢田にむかへたる公卿・殿上人は冑を震い挙げて大音声を放つて云く義時・所従の毛人等慥に承われ昔より今に至るまで王法に敵を作し奉る者は何者か安穏なるや、狗犬が師子を吼えて其の腹破れざること無く修羅が日月を射るに其の箭還つて其の眼に中らざること無し遠き例は且く之を置く、近くは我が朝に代始まつて人王八十余代の間・大山の皇子・大石の小丸を始と為て二十余人王法に敵を為し奉れども一人として素懐を遂げたる者なし皆頚を獄門に懸けられ骸を山野に曝す関東の武士等・或は源平・或は高家等先祖相伝の君を捨て奉り伊豆の国の民為る義時が下知に随う故にかかる災難は出来するなり、王法に背き奉り民の下知に随う者は師子王が野狐に乗せられて東西南北に馳走するが如し今生の恥之れを何如、急ぎ急ぎ冑を脱ぎ弓弦をはづして参参と招きける程に、何に有りけん申酉の時にも成りしかば関東の武士等・河を馳せ渡り勝ちかかりて責めし間京方の武者共一人も無く山林に逃げ隠るるの間、四つの王をば四つの島へ放ちまいらせ又高僧・御師・御房達は或は住房を追われ或は恥辱に値い給いて今に六十年の間いまだ・そのはぢをすすがずとこそ見え候」(099306
 この御文の後半に「王法に敵を作し奉る者は何者か安穏なるや」とあるが、これは当時の天皇の権力に対する一般的な考え方で、一度、天皇が命を発するや、如何なることも成就しえないことはないというのが、朝廷はもとより、関東の武士の間でも強く信じられていた。したがって、いざ戦いとなれば、どちらの軍に天皇の宣旨が下ったかによって、忠臣ともなり、朝敵ともなったのである。それらの武士が、最も恐れたものは、朝敵の汚名であり、一度それが冠せられるや、その当時はもとより、一族郎党の全滅を意味するものであった。
 かの頼朝が石橋山に兵を挙げ、一旦は破れて落ちのびたが、関東の兵を、たちまちのうちに万余と集め得たのも、決局、皇子、以仁王の令旨を体しての挙兵という、最高の切り札があったからである。頼朝は挙兵から平家滅亡まで、たびたび以仁王の命旨であるとして、文書を発行しているが、その以仁王は、頼朝が挙兵する三月も前に、冶承4年(1180526日、宇治川の合戦で平氏の軍に敗れ、戦死を遂げているのである。しかし頼朝は最後までそのことを隠し、陣中に以仁王の令旨があるとして、全ての戦いに大義明文を立てたのである。
崩れ去った朝廷方の絶対的権威
 したがって、この承久の乱の時も、朝廷方は、後鳥羽院上皇の宣旨が下った以上、近畿地方の武士はもとより、遠国の武士も続々と集まってくるであろうと予想したことは当然であるし、反対に幕府側にしてみれば、何よりも恐れていたのは、天皇の宣旨に背いて出陣することに、関東の武士が、躊躇するのではないかということであったわけである。
 この時の朝廷方の空気は、院の宣旨も出たことであるし、あとは朝敵、北条義時の首が到着するのを待つばかりであるという、虫のよい話すら出ていた状態であった。これに対し幕府方は、はたして武士が集まってくるのか、また駆けつけた武士たちも、京都まで出陣する気があるかという、最悪の事態だったのである。「上皇の宣旨下る」の第一報が幕府に届けられた時、さすがの幕臣たちも動揺の色は隠せず、駆けつけた尼将軍、北条政子の涙を流しながらの演説を耳にして、初めて奮い立ったといわれる。
 「吾妻鏡」によれば政子の演説は次のとおりである。「皆、心を一にしてうけたまわるべし。これ最後の詞なり、故右大将軍朝敵を征罰し、関東を草創してより以降、官位といい、俸禄といい、その恩既に山岳よりも高く、溟渤よりも深し。報謝の志浅からんや。然るに今、逆臣の讒により非義の論旨を下さる。名を惜しむの族は早く秀康、胤義らを討ち取りて、三代将軍の遺跡を全うすべし。但し院内に参ぜんと欲するものは只今申し切るべし」
 また「承久記」は「人々見たまわずや、むかし東国の平家が宮仕えせしには、かちは出しにて、のぼりくだりしぞかし、故殿鎌倉をたてさせ給ひて、京都の宮仕へもやみぬ、恩賞うちつづき、たのしみ栄えてあるぞかし、故殿の恩をば、いつの世にか報じつくしたてまつるべき。身のため、恩のため三代将軍の恩墓をば、いかでか京家の馬のひづめにかくべき、今おのおの申し切るめし、宣旨に随わんと思われれば、まず尼を殺して、鎌倉中を焼き払いて後、京へは参り給うべし」と記し、居合わせた武士たち全員が、涙さながらに一致団結を誓い、立ち上がったと筆は留めている。
 しかしながら、いざ出陣となると、京まで一拠に攻めのぼれというものの、箱根、足柄の関で守りを固め、抗戦せよというものなど、意見はまちまちで、京まで出撃という結論に到達するまでには、かなりの時間を必要とした。この間のいきさつを「増鏡」では、次のように書いている。
 「『今度の合戦は味方に後ぐらい点など一つもない。心をつよくもって奮戦せよ、勝たずにふたたび箱根、足柄の山を越えるな』と父・義時から激励されて出発した泰時は、翌日唯一人戻って来て、天皇みずから京方の先頭に立って進撃して来た場合の処置について尋ねた、義時は『よくぞ尋ねた。その際は天皇の神輿に弓を引くことはできぬ。ヨロイを脱ぎ、弓の弦を切って降参せよ、だがそれ以外の時には千人が一人になっても奮闘せよ』と答えた。このことばを聞き終わるや否や、㤗時はふたたび馬にムチをあてて西上した」
 この時代のもようを伝えた書物はいくつかあるが、いずれも同工異曲のことが書かれており、一旦は朝廷に対する徹底的な抗戦を打ち出しながらも、なお何かすっきりしていない思いが、武士たちの心の中に残っていたことは事実だったのである。また、そのような状況であったりすればかそ、幕府側としては一刻も早く出陣して、野戦の中で彼らの団結をはかることが急務だったともいえる。
 それだけに、戦乱が終わったときの朝廷方、京方の驚きと、幕府側の喜びは、想像をはるかに越えるものであったことは、いうまでもない。勝利の報を手にした鎌倉の義時は「今は義時思うことなし、果報は王の果報には猶まさり参らせたりけれ」と叫んだと書は伝えている。
 京都は敗戦ということすら信じきれずにいたところ、幕府の処罰は予想をはるかに越えてきびしく、三上皇の島流しという、日本国始まって以来の大事件となった「あずまえびす」とさげすみ、バカにしていた東国の幕府が、おそれ多くも、天皇を思うがままに譲位させ、在位わずか70余日の天皇は廃位、後鳥羽上皇の兄、行助法親王が後堀川天皇として、即位させられたのである。かくして次第に弱まりつつあった天皇の権威は、この事件によって決定的に失墜してしまったといえよう。
仏法から見た承久の乱
 天皇の勅宣を絶対的なものとして頼り、それが出ただけで勝ったのごとく喜び、西国からの応援をあてにしてみずから武器を取って立とうとしない無気力さ、それは文字どおり念仏の害毒と呼ばずして、なんといおうか。
 のみならず、東寺等に仰せつけて、盛んに幕府方を調伏する真言の加持祈祷を行った。これまた、みずからを滅ぼす原因となったことは、大聖人が申されているごとく、還著於本人の理である。時代の変遷ともいえる。士気の違いともいえる。人心の動向の然ならしむところともいえる。だが、その最も根底にあって朝廷方の敗北を決定したものは、じつに謗法の害毒だったのである。
 さらにわれわれは、承久の乱を中心とする時代の転換を、日蓮大聖人の御出現、法体の広宣流布の時代的背景の一つと考えるならば、それが現代の化儀の広宣流布の時代的背景に、あまりにもよく似ていることに不思議をすら覚える。
 すなわち、一つは、従来の政治的権威、価値観の中心であった天皇制が政治上の権威も価値も失って、単なる象徴になってしまってことである。一つは律令制以来の旧い社会体制が壊れて守護・地頭制度が全国的に樹立されたこと、そして伝統的な貴族階級の主導権が失われて、いわば庶民・百姓の中から育ってきた武士階級がそれに代わったことである。
 なお挙げれば際限がないが、この法体の広宣流布の時代的背景に対応して、現代もまた、天皇の権限が実質上、消滅し、国民の象徴とされるという大転換があった。そして、社会体制も変革され、民主主義の世となった。まことに多くの点で共通しているではないか。
 これをもってしても、今こそ、正しく化儀の広宣流布の時であり、大聖人が「時を待つべきのみ」と申された。その時が来ていることを強く確信するものである。
 この段の最後に、日蓮大聖人は「汝疑うこと莫かれ汝怪むこと莫かれ唯須く凶を捨てて善に帰し源を塞ぎ根を截べし」と仰せられている。なんと偉大な確信に満ちた獅子吼ではないか。このお言葉どおり、この世からいっさいの不幸の根源を絶滅すべく戦っている団体こそ、わが創価学会なのである。われわれは、この大聖人の御金言を学会の永久の指針として、さらに全地球上から、不幸の根源を絶滅させ、平和世界を実現するために、さらに前進していくことを堅く誓うものである。

第六段 念仏禁止の勘状の奏否を明かすtop
第一章 法然の謗法を弁護すtop

0026top
01   客聊か和ぎて曰く 未だ淵底を究めざるに数ば其の趣を知る但し華洛より柳営に至るまで釈門に枢ケン在り仏家
02
 に棟梁在り、 然るに未だ勘状を進らせず 上奏に及ばず汝賎身を以て輙く莠言を吐く 其の義余り有り其の理謂れ
03
 無し。

 客はいささか和らいで言った。
 自分はいまだその奥底まで極め尽くしていないが、いくらか仰がれた意味が了解できた。しかしながら、京都から鎌倉にいたるまで、仏教界には枢要な位置についている数多くの名僧がいるが、そうした人々でさえ誰一人として、法然の謗法について幕府に訴えたものもなければ、天皇に上奏したものもいない。
 あなたは賤しい身分の人でありながら、たやすく念仏に対して醜い言葉を吐いているが、その義にはいまだ論議の余地がたくさんあり、その理はいわれがない。

講義
 前段のように、主人の理論整然たる破折を聞いて、客としても、当然、承服しにわけにはいかなくなった。ゆえに「客聊か和ぎて」と云われたのである。しかし、まだ法然への執着を断ちきることができず「日本には、たくさんの仏法権威者がいるが、いまだ、主人のいうようなかとは聞かない。あなたのような卑しい身分で、どうしてそんなことがいえるのか」と反駁するのである。
 今日、創価学会の折伏、行動に対しても、同じような批判がよくなされる。ジャーナリズムの学会批判記事に、必ず大学の宗教学教授や宗教評論家が顔を出すのは、同じ心理にもとづくといってよい。編集者も、こうした評論家や教授を仏教の権威者と信じ込んでいるのである。しかして、彼らが創価学会のことを悪くいえば、学会は悪いのだと思い、よくいえば、よいのだと思うのである。そこには編集者も、読者も、ともに、主体的な判断はない。
 これは、自己の理性、自己自身による観察、自分自身の判断力を放棄している姿である。人の眼を通してしか見ず、人がはってくれたラベルによってしか判断しようとしない。哀れむべき現象といわなければならない。
汝賤身を以て輙く莠言を吐く

 これは、社会的地位が低いからといってバカにし、貧乏人だからといって、その言葉を取り上げないという、愚かな考え方の代表である。この考え方は、現代にも根強く残っている。
 これがために、どれほど有為の人材が空しく埋もれてきたか、測り知れない。また、民衆の貴重な声が、不当に、残酷に封じられてきたことか。これに対して、優れた指導者とは、身分の貴賤上下に関係なく、有能な人材を見いだし、その能力を最も有効に発揮できる地位に配当する人だ。われわれは、全ての人が、その場を得て、思うがままに、社会の発展のために働ききってゆける社会を建設しなければならない。
 また「学会員は仏教については素人だ」という説には、既に昭和30年の小樽法論で、完膚なきまでに打ち破られている。以来、いかなる宗派のいかなる学僧も、わが学会の教学陣に対しては、一言たりとも正面きって言えない状態である。哀れにも、物陰に隠れて、ヤセ犬が吠えるごとく、時たま悪口をいっているに過ぎない。
 およそ、政治家はもとより、宗教評論家といえども、宗教についてはまたく無智であることを、民衆は知らなければならない。学者の中にも、歴史学的、思想史的に研究している人はある。だが、宗教の本質を知るためには、その宗教の精神を実践してこそ、正しい評価ができる。
 民衆の苦しみを見ても、これを救おうという情熱もなく、よそ事に考えている人々に、どうして、民衆救済のために身命を抛って戦っている批判をすることができようか。いかなる有名人も、仏法の慈悲の精神に立って、民衆救済のために折伏を行ずる、一学会員の足もとにも及ばないことを知るべきであろう。
 また、客が「然るに未だ勘状を進らせず上奏に及ばず」というのは、まったく知らないからであって、これから第六段第四章に述べられるように、延暦寺・興福寺等から、数度にわたって上奏が行われている。また、法然の選択集に対する破折も、法相宗の明慧の摧邪輪、三井寺の実胤大僧正の浄土決疑集、天台宗の隆真法橋の弾選択集等があり、それぞれの立ち場から理論的に破折しているのである。浄土宗の僧たちが、敢えてこれを隠していたために、客はされを知らなかっただけの話なのである。

第二章 仏法の衰微を歎ずtop

04   主人の曰く、 予少量為りと雖も忝くも大乗を学す 蒼蝿驥尾に附して万里を渡り 碧蘿松頭に懸りて千尋を延
05
 ぶ、弟子一仏の子と生れて諸経の王に事う、何ぞ仏法の衰微を見て心情の哀惜を起さざらんや。

 主人が言った。
 自分は器も小さくとるに足りない人物ではあるけれども、かたじけなくも大乗仏教を学んでいる。青蠅が駿馬の尾について万里を渡り、蔓は大きな松に寄って千尋も延びるという譬えもある。たとえ器量は小さいとはいえ、仏弟子と生まれて諸経の王たる法華経を信ずる以上、どうして仏法の衰微するのをみて、哀籍の心情を起こさないでいられようか。

講義
 
客の「汝賎身を以て輙く莠言を吐く」という増上慢の言葉に対して、自分は小さな器で取るに足らない者であると、あくまでも謙遜しながら、だが、かたじけなくも大乗仏法を学び、仏弟子として諸経の王たる法華経を信ずることができた。しかして、よくよく仏教をみるに、邪義のみが栄えて正法が衰微している。この状態をみて、どうして嘆かずにおられようかと、自身の心情を吐露されるのである。
予少量為りと雖も忝くも大乗を学す
 前章の「汝賎身を以て輙く莠言を吐く」という客の言葉に対して、徹底的に破折されたのである。すなわち、ここで、人間の価値はなんで決まるかということを、明らかに示しているのである。
 人は、意識するしないとにかかわらず、貧富・学歴・血統・身分あるいは地位等で、人の価値を決めようとする傾向をもっている。半面、それらのいずれをも、人間の価値判断の根本の基準とすることが間違いであることを知っている。金持ちだから偉いと誰かが言ったとすれば、大部分の人は反発するであろう。それを認める人は、拝金主義者の、ごく異常な部類とみなされるのがおちである。
 学歴についても、あの人は最高学府を出たから偉いという考え方は、決まって反発される。血統しかり、身分、地位しかりである。だが、理屈の上ではこれらを否定しても、現実にそうした場面にぶつかると、無意識のうちに、貧乏人より金持ちを、小学校中退より大学出を、平凡な生まれより名家の子を、小使いより社長を、ただそれだけの理由でそれぞれ尊ぶ。
 そこには明やかに、矛盾がある。この矛盾はどこから生じたかといえば、結論的にいって、人間の価値を決める明確な判断の基準がないことに帰着する。しかして、この一事が、愚昧で性悪な人間を大事なポストに置いて、その機構を停滞させ、その機構の中にいる人々を苦しませ、ひいては人間社会全体の発展と幸福を阻害する結果を生んでいる。
 ゆえに、いかなる基準をもって人を判断し、適材適所を実現していくかという将軍学、あるいは指導者学は、この判断基準を体得した人であって初めて顕現さえる。しからば、その基準は何か。すなわち、人の価値はいかなる法をもっているかで決まるのであり、大乗を学する人こそ最高の人格者なりといえるのである。このゆえに、法華経を換言すれば、現代の最高の将軍学であり、指導者学といえる。
 人にはおれぞれ、独自の思考・発言・行動・態度の基準をもっている。まったく何の基準もなく、規則性もなく、デタラメであるということは、極度の精神錯乱者以外にありえないのである。平常人の場合、ある者はきわめて本能的な衝動によることもある。子供のころからの、躾によることもあろう。また、ある者はその人が自分なりに築いた人生観・社会観に則った行動であることもある。
 その行動が、本人の意識のどの程度の深さから出てきたものかにかかわりなく、それらを一貫する一つの共通的な様式、傾向がある。それは意識の最も深層の部分に連なっていくのであり、これを、仏法の上からは法というのである。
 さまざまな意見、さまざまな行動をおこしながらも、その中に、その人らしさがにじみ出ているのもこのためである。利己的な物の考え方が、生命の奥深く染まりついている人は、自然とその言葉、行動、姿の中に、その本質的な傾向がにじみ出ているのは、まことに不思議である。
 したがって、その人がいかなる価値創造をなすことができるか、どれ程の力があるかということは、この法の勝劣、浅深によって決定されるのである。今、本文で「大乗を学す」と仰せられるのも、大乗という最高の法を持っているがゆえに、最も尊いのであるとの御確信である。ここで大乗とは、五重の相対の原理に照らして、法華経文底独一本門の大法であり、三大秘法の南無妙法蓮華経にほかならない。
 この道理を示された御文は、御書の各所にあり枚挙にいとまがない。「
法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊し」(1578-12)と。
 また、宝軽法重事には、釈尊・天台・妙楽の言葉を引かれている。
 「
妙法蓮華経第七に云く「若し復人有つて七宝を以て三千大千世界に満てて仏及び大菩薩・辟支仏・阿羅漢に供養せん、是の人の所得の功徳も此の法華経の乃至一四句偈を受持する其の福の最も多きには如かじ」云云」と。
 すなわち、金・銀・瑠璃等の七宝を三千大千世界に満てて仏・菩薩・
辟支仏・阿羅漢に供養する功徳より、法華経すなわち御本尊を受持する功徳のほうがはるかに大きいとの意である。世に金持ちと称する人のごときは、妙法受持の人に較べれば、まったく取るに足らない存在ではないか。
 また天台大師の法華文句の十に上の経を釈していわく「七宝を四聖に奉るは一偈を持つに如かずと云うは法は是れ聖の師なり能生能養能成能栄法に過ぎたるは莫し故に人は軽く法は重きなり」と。
 すなわち、妙法・御本尊を持つ功徳が、なにゆえこのように大きいかといえば、御本尊は三世十方の仏・菩薩・辟支仏・阿羅漢の師であるが故であると釈されているのである。
 妙楽大師は、天台大師の文をさらに釈して、法華文句記の十にいわく「父母必ず四の護を以て子を護るが如し、今発心は法に由るを生と為し始終随逐するを養と為し極果を満ぜしむるを成と為し能く法界に応ずるを栄と為す、四つ同じからずと雖も法を以て本と為す」と。
 すなわち、仏菩薩等の四聖が最初に発心したのも、法すなわち御本尊を根本としてであり、途中、修行したのも御本尊によって修行したのである。得脱したのも御本尊の力によってであり、得脱してのち、悟りの境涯を楽しみ、衆生を化導するのも、同じく御本尊を根本とするとの意である。
 したがって、この御本尊を持った人は、最も尊いのである。大聖人の宝軽法重事の文にいわく「法華経の最下の行者と華厳・真言の最上の僧とくらぶれば帝釈と援猴と師子と兎との勝劣なり、而るをたみが王とののしればかならず命となる、諸経の行者が法華経の行者に勝れたりと申せば必ず国もほろび地獄へ入り候なり」(147508)と。
 四信五品抄にいわく、
 「
問う汝が弟子一分の解無くして但一口に南無妙法蓮華経と称する其の位如何、答う此の人は但四味三教の極位並びに爾前の円人に超過するのみに非ず将た又真言等の諸宗の元祖・畏・厳・恩・蔵・宣・摩・導等に勝出すること百千万億倍なり、請う国中の諸人我が末弟等を軽ずる事勿れ進んで過去を尋ぬれば八十万億劫に供養せし大菩薩なり豈熈連一恒の者に非ずや退いて未来を論ずれば八十年の布施に超過して五十の功徳を備う可し天子の襁褓に纒れ大竜の始めて生ずるが如し蔑如すること勿れ蔑如すること勿れ」(034206)と。
 ゆえに、この妙法を受持する人は、三世十方の仏・菩薩の加護を受け、絶対に崩れることのない幸福生活を営むことができるのである。もし、この人を迫害して悩まし、苦しめ、あるいは悪口をいう者があれば、大罰を受けなければならない。経にいわく、
 「若し復是の経典を受持せん者を見て、其の過悪を出さん。若しは実にもあれ、若しは不実にもあれ、此の人は現世に白癩の病を得ん、乃至諸の悪重病あるべし」と。
 われら妙法を受持する者は、この偉大な法の恩を感じ、報恩の誠を捧げていかなければ、不知恩の輩となってしまうのである。
弟子一仏の子と生れて諸経の王に事う、何ぞ仏法の衰微を見て心情の哀惜を起さざらんや
 この言葉に示された、大聖人の御心情こそ真に仏法を学し、仏道修行を志す者の模範であり鑑である。
 今、大聖人が「弟子一仏の子と生れて」と申されているのは、外用の立ち場であり、われわれ仏道修行を志す者のあり方を教えられているのである。大聖人の御内証を拝する時、大聖人こそ人法一箇の御本仏であられることは明白である。
 御義口伝にいわく、
 「如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品の事の三大事とは是なり」(0752―第一 南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事―04
 南無妙法蓮華経は一切の能生能養能成能栄の師であり、それはまた、末法の法華経の行者、日蓮大聖人の宝号でもある。大聖人こそ人法一箇の御本仏なりとの意である。
 また、諸法実相抄にいわく、
 「されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く「如来秘密神通之力」是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし」(135811
 御義口伝下にいわく、
 「自受用身とは一念三千なり」(0759―第廿二 自我偈始終の事―02)と。
 日蓮大聖人の正しい仏法を知らない人は、仏といえば、3280種好の荘厳な様相を整えている姿を思うであろう。だが、そのような色相荘厳は、仏の生命のすばらしさを衆生に理解させ、渇仰させるために示された図式にほかならない。真実の仏は十界互具・一念三千の当体であり、凡夫相そのままである。
 別しては、日蓮大聖人が末法の仏であり、総じては、御本尊を受持する人は、すべて仏である。その仏性の湧現は、ひとえに仏の弟子として、護法のために不惜身命の戦いをなすことできまるのである。「仏法の衰微を見て心情の哀惜を起す」人こそ、仏弟子として真実の資格ある人といえよう。
 わが創価学会の精神の骨髄も、この一事に尽きる。末法民衆救済の唯一の正法を護持した創価学会は、戦時中からの大弾圧を受けて、正に衰微のどん底であった。戸田前会長は、この創価学会を再建させ、興隆して、最高の正法たることを世界に知らしめるため、一つには日蓮大聖人の御金言を虚妄にしないため、しかして、全民衆を苦悩の底から救い出さんために、立ち上がられたのである。
 恩師が第二代会長に就任された、昭和26年以来14年間、学会の発展は隆々たるものがあり、全世界の注視の的となるに至った。その原動力は、まったく護惜建立の精神に尽きるのである。だが、大聖人の御金言を実現する道はいまだ遥かに遠い。世界広布の前進は、休みなく続けられなければならない。
 聖愚問答抄にいわく、
 「汝実に後世を恐れば身を軽しめ法を重んぜよ是を以て章安大師云く「寧ろ身命を喪ふとも教を匿さざれとは身は軽く法は重し身を死して法を弘めよ」と、此の文の意は身命をば・ほろぼすとも正法をかくさざれ、其の故は身はかろく法はおもし身をばころすとも法をば弘めよとなり」(049610)と。
 信心の究極の姿は死身弘法である。法難にあって、華と散っていった熱原三烈士しかり、牧口初代会長しかり、また、今、順縁広布の時を迎えたわれわれは、このような法難に遭あなくとも、広布達成をめざし、民衆救済のため、一生涯を捧げて前進しゆくことが、不惜身命・死身弘法の姿であると断言するものである。

第三章 謗法呵責の精神を説くtop

06   其の上涅槃経に云く「若し善比丘あつて法を壊ぶる者を見て置いて 呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是
07
 の人は仏法の中の怨なり、 若し能く駈遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子・真の声聞なり」と、余・善比丘の身為ら
08
 ずと雖も「仏法中怨」の責を遁れんが為に唯大綱を撮つて粗一端を示す。

 そのうえ涅槃経には「もし善比丘が仏法を壊るものを見ても、そのまま見過ごして折伏もせず、追いだしもせず、その罪を責めもしないであるならば、その人はたとえ善比丘であっても仏法の中の怨敵である。もし、よくその謗法を追い出し、強折し、その罪を責めるならば、これこそわが弟子であり、真の声聞である」とある。
 自分は善比丘の身ではないが「仏法の中の怨」の責めをのがれるために、ここでは唯、大筋だけを取り上げて、ほぼその一端を示そう。

講義
 
この章は「仏法の衰微を見て心情の哀惜を起さざらんや」と前章に述べられたのに加えて、さらに涅槃経の文を引いて、法然をはじめとする邪義を破折せねばならぬ所以を説き示されている。
 経文中の「若し善比丘あつて法を壊ぶる者を見て置いて 呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり、若し能く駈遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子・真の声聞なり」の経文は、仏法が滅び、民衆が不幸に陥るのを防ぐために、二つの方程式を教えている
    第一は、仏法を破る邪説を立てた者を捨てておくことは仏法中の怨である。
    第二は、仏法を破る邪説の者を責めるものは、真の仏弟子である。
 仏法を滅ぼすものは、外部からの権力等によって寺や搭を破壊することよりも、内部にあって、仏法に名をかりた邪説を立てる者である。師子身中の虫とはこれである。ゆえに、仏が最も厳しく戒められたのは、仏法の中において、仏法を乱す者、すなわち謗法であった。その原理は、仏法以外の団体、社会、また個人の生命についても当てはまる。外部より殺される人間よりも、自己の不節制、不注意、病気等で死ぬ人間が圧倒的に多いことも、この原理の証左といえよう。したがって、また、法を破る者を見て放置するならば、その放置した者は重罪を犯したと同じ結果になるのである。
 日蓮大聖人は諸御書において、謗法の者や、謗法の行為そのものを堅く戒められ、謗法を責めなければ、成仏することはおろか、大罰を受けると教えられている。
 阿仏房尼御前御返事にいわく「少しも謗法不信のとが候はば無間大城疑いなかるべし」(130808)と。これは、おのおのの心に巣食う謗法不信を戒められた文である。
 さらに、曾谷殿御返事には、涅槃経の今の文を引かれて、「此の文の中に見壊法者の見と置不呵責の置とを能く能く心腑に染む可きなり、法華経の敵を見ながら置いてせめずんば師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし、南岳大師の云く「諸の悪人と倶に地獄に堕ちん」云云、謗法を責めずして成仏を願はば 火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなし・はかなし」(105606)と仰せである。
 すなわち、謗法を見ながらこれを責めなければ、自分が御本尊を拝んでいても、謗法の者と同じく、無間地獄に堕ちるのである。折伏を嫌って行じない人は、よくこの御文を拝すべきであろう。
 しかしながら、だからといって、非常識な行動をとることを勧めるのではない。道を歩いて、謗法の者と行き会ったからと、見知らぬ人に見知らぬ人に折伏しても、相手はおこるのみで、聞かないであろう。あくまでも身近な人で互いに知っている人を、座談会等の場で諄々と話し、謗法の邪義を納得させていくことが肝要である。
 開目抄にいわく、
 「慈無くして詐り親しむは是れ彼が怨なり」(023613
折伏活動こそ真の慈悲の振舞い
 折伏は慈悲の行為である。「
彼が為に悪を除く」の文のごとく、相手の心に巣くう悪を断ち、その人を根底より救いきる厳愛の振舞いである。
 現今の社会には、あまりにも慈悲の欠如が著しい。利己の人のみ充満し、最も民衆の幸福を願わなければならないはずの政治家や指導階層は、おのおのの野心を満たすことばかり考えているではないか。
 互いに憎しみ合い、嫉妬し合いながら、それでいて、言葉だけ和らげてお世辞を言い、甘言で相手の心に取り入ろうとする。しかも心の中は、貪欲に満ち満ち、他人の幸福など、少しも考えないのである。これ「慈無くして詐り親しむ」姿であり、欺瞞も甚だしいではないか。
 このような、欺瞞のうずまく社会にあって、慈悲に立脚し、心の底から真実を主張してやまぬ折伏活動こそ、仏法の方程式に適ったものであり、かつ時代をリードしていく、最高善の振舞いなのである。
 まことに、折伏こそ民主主義の先駆をなすものであり、真の寛容なる振舞いであり、民衆に真実の幸福を与えていく源泉である。すなわち、折伏は、あらゆる人々が平等に尊厳なる妙法の当体であるとの前提にもとづいて行なわれているのである。妙法の当体でなければ、なんで折伏する必要があろうか。
 われわれが折伏するのは、相手が駄目な人間であると、非難したり、悪口を言ったりするものではない。事実は、まったく逆であり、相手のもつ邪法を打ち破り、邪見、偏見におおわれていた、清浄無染にして、力強い、尊厳極まりなき、妙法蓮華経という大生命をあらわさんがためである。これ最も相手を尊敬する行為であり、かつ生命の尊厳を基調とする民主主義の先駆をなすものではないか。しかもまた、いかなる迫害にも屈することなく一切衆生の幸福を願って忍耐強く折伏していくことは、最大の寛容ではないか。
 今慎んで日蓮大聖人の御振舞いをみるならば、そこに獅子王のごとき勇姿を見るとともに、一切衆生を救う大慈悲が伺えるのである。
 日蓮大聖人は、あれゆる三類の強敵と戦い、邪宗邪義を破折し、正法正義を打ち立てられた、小松原の法難、松葉ヶ谷の焼き打ち、伊豆および佐渡への流罪、竜の口法難等々、その他、大小の難は数知れず起こった。だが、大聖人は、それらの迫害にも、一切衆生の幸福を願って微動だにすることなく、いよいよ御本仏の大確信に立たれたのであった。しかも、迫害した人々を恨むどころか、むしろ、それらの人々を善知識と呼ばれたのであった。
 種種御振舞御書にいわく、
 「
日蓮が仏にならん第一のかたうどは景信・法師には良観・道隆・道阿弥陀仏と平左衛門尉・守殿ましまさずんば争か法華経の行者とはなるべきと悦ぶ」(091707)と。
 さらに、あのように大聖人を迫害した北条執権に対しても「願くは我を損ずる国主等をば最初に之を導かん」(0509-11)とまで仰せられたのであった。これこそ、御本仏の大慈悲であった。
折伏に暴言、迫害は覚悟の上
 創価学会の折伏活動も、あくまでもこの仏法の精神、大聖人の御振舞いに立脚しているのである。
 だが、貧・瞋・癡の三毒充満し、利己の人のみ多き社会にあっては、人々のために尽くしていこう、民衆のために戦おうという純粋な行為がそのまま受け止められないのである。
 よく日蓮大聖人を鎌倉時代の一介の僧侶ぐらいに考えて、その行動が過激に過ぎたと批判したり、また、大聖人の弟子たる、わが創価学会の行動、折伏をファシズム等にむすびつけて考えるものがいる。だが、これらは、いずれも釈尊に始まる大仏法の流れを、何も知らない者の口にする言葉であり、貧しい人、苦悩に打ちひしがれている人々を救おうとする慈悲の精神など、微塵も理解できない人々である。相手が仏であれ、孔子であれ、帝王であれ、英雄であれ、あるいはシェークスピアであれ、ゲーテであれ、批判することは容易である。いわんや道理の通らぬ悪口をいうことなら、小学生でもできる。道理を窮め、根底にある精神を理解したうえで批判することは、並々ならぬ困難である。まして、自分が批判の対象としているこれらの先哲の遺業を、はたして自分にもできるかとうえば、とうていできる道理がない。したがって、相手が偉大であれば偉大であるほど、謙虚にその教えをまず聞くべきであろう。これができぬ人こそ、まさに偏狭であり不寛容であり、排他主義であり、傲慢であり、利己主義ではないか。
 しかしながら、折伏をすれば、三障四魔、三類の強敵が競い起こることは必定である。
 大聖人は開目抄にいわく、
 「
日本国に此れをしれる者は但日蓮一人なり。
 これを一言も申し出すならば父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来るべし、いはずば・慈悲なきに・にたりと思惟するに法華経・涅槃経等に此の二辺を合せ見るに・いはずば今生は事なくとも後生は必ず無間地獄に堕べし、 いうならば三障四魔必ず競い起るべしと・しりぬ、二辺の中には・いうべし、王難等・出来の時は退転すべくは一度に思ひ止るべしと且くやすらいし程に宝塔品の六難九易これなり
」(020009
 この御文は、いっさいの不幸の原因は、根本的には邪宗にある。これを知っているのは、日蓮大聖人ただ一人である。ゆえに、これをいわなければ無慈悲となり、自分も無間地獄の大罰をうけるであろう。いえば必ず魔が競い起こって提迫害を加えられるであろう。この二つの板ばさみの中にあって、遂に、どんなに難があってもいわなければならない、と大聖人は決意されたのである。
 されば、われわれも、あらゆる難や妨害は覚悟のうえで、日蓮大聖人の弟子として、折伏はどうしてもはさなければならない使命である。
 一時、この「折伏」の語が一般化して、信心していない人々の間で、何か強引に者を押しつけられた時など「折伏された」等と使われたことがあったが、折伏の真の意味は、相手の邪宗邪義に執着している心を破折し、この日蓮大聖人の正義に屈服させることをいうのであって、大聖人門下生として、最も貴く、気高い行為なのである。
 また、折伏行は、けっしてやさしい行為ではなく、特に末法においては難事中の難事であると、諸御書に教えられている。宝塔品の六難九易とは、末法において法華経をたもち、折伏することがいかに大変なことであるかを説かれたのも、次のとおりである。
 
諸の善男子よ、各おの諦らかに思惟せよ、此れは為れ難事なり、宣しく大願を発すべし、諸余の経典は、数恒沙の如し 、此れ等を説くと雖も、末だ難しと為さず、若し須弥を接って、他方の無数の仏土に擲げ置かんも、末だ難しと為すに足らず、若し足の指を以て、大千界を動かし、遠く他国に擲げんも、亦、末だ難しと為さず、若し有頂に立って衆の為に、無量の余経を演説せんも、亦、末だ難しと為さず、若し仏の滅後に、悪世の中に於いて、能く此の経を説かば、是は則ち難しと為す、仮使い人有って、手に虚空を把って、以て遊行すとも、亦、末だ難しと為さず、我が滅後に於いて、若しは自らも書き持ち、若しは人をしても書かしめば、是れは則ち難しと為す、若し大地を以て、足の甲の上に置いて、梵天に昇らんも、亦、末だ難しと為さず、若し大地を以て、足の甲の上に置いて、梵天に昇らんも、亦、末だ難しと為さず、仏の滅度の後に、 悪世の中に於いて、暫くも此の経を読めば、是れ則ち難しと為す、仮使い劫焼に、乾ける草を担い負いて、中に入って焼けざらんも、亦、末だ難しと為さず、我が滅度の後に、若し此の経を持って、一人の為めに説かば、是れは則ち難しと為す、若し八万四千の法蔵、十二部経を持って、人の為に演説して、諸の聴かん者をして、六神通を得せしめんも、能く是の如くすと雖も、亦、末だ難しと為さず、我が滅後に於いて、此の経を聴受して、其の義趣を問わば、是れは則ち難しと為す、若し人は法を説いて、千万億無量無数の、恒沙の衆生をして、阿羅漢を得、六神通を具せしめんも、是の益有りと雖も、亦末だ難しと為さず、我が滅度に於いて、若し能く、斯の如き経典を奉持せば、是れは則ち難しと為す」
 すなわち、この経文においては六つの難事と九つの易行とを掲げ、末法における折伏行が大変であることを教えられている。
    六難、 広説此経難・書持此経難・暫読此経難・少説此経難・聴聞此経難・受持此経難。
    九易、 余経説法易・須弥擲置易・世界足投易・有頂説法易・把空遊行易・足地昇天易・大火不焼易・広説得通易・大衆羅漢易  である。
 この九易のうち、どれ一つを取り上げても、けっしてでき得ることではないが、折伏行はそれ以上にむずかしいというのである。これほどの難事行であるゆえ、釈尊は薬王・弥勒・観音等の迹化の菩薩方には末法の化導を付属せず、日蓮大聖人を上首とする本化地湧の菩薩を大地より召し出して、付属されたのである。
折伏こそ宿命打破成仏の最直道
 折伏を行ずると必ず悪口をいわれ憎まれ嫌われる。これほどの大事でありながら誰一人として折伏されたことを喜ぶものはいない。大聖人は曾谷殿御返事に「
此法門を日蓮申す故に忠言耳に逆う道理なるが故に流罪せられ命にも及びしなり、然どもいまだこりず候」(105613)と仰せである。
 折伏するわれわれは、謗法の者の迷蒙を開き、仏果を得させようと努力するのであるが、折伏される方は、そうは取らず「
忠言耳に逆う」のである。だが、先の御文の「いまだこりず候」こそ、わが学会の折伏精神である。広宣流布をめざして、われわれは悪口をいわれようが、迫害されようが「いまだこりず候」と、莞爾として折伏行にいそしんでいかなければならない。
 創価学会がなぜ強いかといえば、それは創価学会の目的が全民衆の幸福にあるからである。われわれには、なんの野心もない。権力に迎合する必要もない。右でもなければ左でもない。われわれは中道をまっしぐらに進むのである。されば、折伏の功徳もまた絶大である。
 しかして、折伏は、御本仏、日蓮大聖人の使いとして、如来の事を行ずる行為である。ゆえに御本仏の冥々の加護が、日常の生活に現われると同時に、折伏の功徳によって強い生命力があふれ出てきて、世の中のことを処するに勇気が出るとの、以信代慧の原理により、御本尊を信ずる信心の智慧と化するので、この三拍子そろって、日常生活がぐんぐん改まってくるのである。
 これこそ経文にある「現世安穏・後生善処」の姿であり、また、折伏が成仏の最直道であり、必ず成仏できるという証拠でもある。
 およそ信仰していなくても、体が丈夫である。金に困らない等々、部分的な幸福条件を備えた者はいくらでもいる。だが、それらは、部分的であり、一時的な幸福であって、絶対的な幸福とはいえない。ゆえに、その半面には必ず不幸な条件をもっているのが現実である。これらの幸・不幸の現象は、根源をたどれば、過去世からの宿命である。日蓮大聖人の仏法は、この低い相対的幸福の境涯から脱却し、最高の絶対的幸福境涯に転換する仏法である。折伏を行ずることによって過去の宿習が一度に出るので、折伏すれば種々の難が競い起こるのである。この難によって宿命を打破していくのであるから、折伏の途上において種々の難に被ることは、むしろ喜びとしなくてはならないのである。
 佐渡御書にいわく、
 「
此八種は尽未来際が間一づつこそ現ずべかりしを日蓮つよく法華経の敵を責るによて一時に聚り起せるなり 譬ば民の郷郡なんどにあるにはいかなる利銭を地頭等におほせたれどもいたくせめず年年にのべゆく其所を出る時に競起が如し斯れ護法の功徳力に由る故なり等は是なり、法華経には「諸の無智の人有り悪口罵詈等し刀杖瓦石を加うる乃至国王・大臣・婆羅門・居士に向つて乃至数数擯出せられん」等云云、獄卒が罪人を責ずば地獄を出る者かたかりなん当世の王臣なくば日蓮が過去謗法の重罪消し難し日蓮は過去の不軽の如く当世の人人は彼の軽毀の四衆の如し人は替れども因は是一なり」(096007
不惜身命の信心で真実の幸福へ
 以上のごとく、日蓮大聖人も、強き折伏によって過去の重罪を消滅する姿を示されたのである。われわれもまた、大聖人の教えのごとく、折伏を行ずることによって、過去の罪を消し、宿命を転換することができるのである。
 ゆえに、折伏に際して競い起こってくる大小の難に対しては、不自惜身命の強い信心によって、これを打ち破ってこそ、絶対的な幸福境涯が得られるのである。
 撰時抄にいわく「
法華経の八の巻に云く「若し後の世に於て是の経典を受持し読誦せん者は乃至諸願虚しからず、亦現世に於て其の福報を得ん」又云く「若し之を供養し讃歎すること有らん者は当に今世に於て現の果報を得べし」等云云、此の二つの文の中に亦於現世・得其福報の八字・当於今世・得現果報の八字・已上十六字の文むなしくして日蓮今生に大果報なくば如来の金言は提婆が虚言に同じく多宝の証明は倶伽利が妄語に異ならじ、 謗法の一切衆生も阿鼻地獄に堕つべからず、三世の諸仏もましまさざるか、されば我が弟子等心みに法華経のごとく身命もおしまず修行して此の度仏法を心みよ」(029105
 佐渡御書にいわく「
強敵を伏して始て力士をしる、悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし例せば日蓮が如し、これおごれるにはあらず正法を惜む心の強盛なるべしおごれる者は必ず強敵に値て おそるる心出来するなり」(095708
 御義口伝にいわく「
身とは色法・命とは心法なり事理の不惜身命之れ有り、法華の行者田畠等を奪わるは理の不惜身命なり命根を断たるを事の不惜身命と云うなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は事理共に値0747第二不惜身命の事02
 これらの御文は、ともに不惜身命の信心こそ、真実の幸福への直道であることを教えられたのである。
 信心に限らず、一般に、ある目標に向かって、あらゆる難関と戦い、身命を打ち込んでいる人の生命には、躍動があり、リズムがある。またその姿は美しくも、すがすがしくもある。発明家が研究に没頭するのも、医者が病人をなおすために懸命になっている姿も、学者が真理の探究に身を打ち込んでいる姿等々、いずれも不惜身命に通ずるものである。だが、一方では浅きもの、低級なもの、誤れるものに、身命を抛つほどの哀れなことはない。
 最高のものに帰命していく人生こそ、真実の不惜身命である。すなわち、大御本尊に帰命することであり、全民衆の幸福のために、いかなる三類の嵐があろうが、身命を抛って戦うことが、最高に偉大なる人生であり最高に強い人生である。誰をも恐れる必要もないし、誰にこびへつらう必要もない。いっさいの振舞いがそのまま自体顕照であり、ゆうゆうたる人生であり、厳のごとく堂々としており、太陽のごとく光輝に満ち、大空の無限に広がりゆくごとく希望に満ちた人生である。


第四章 法然等、上奏により流罪されるを示すtop

09   其の上去る元仁年中に延暦興福の両寺より度度奏聞を経・勅宣・御教書を申し下して、 法然の選択の印板を大
10
 講堂に取り上げ 三世の仏恩を報ぜんが為に 之を焼失せしむ、 法然の墓所に於ては感神院の犬神人に仰せ付けて
11
 破却せしむ其の門弟・隆観・聖光・成覚・薩生等は遠国に配流せらる、 其の後未だ御勘気を許されず豈未だ勘状を
12
 進らせずと云わんや。

 そのうえ、さる元仁年中に延暦寺から、たびたび法然の邪義を禁止して欲しいとの上奏がなされ、その結果、それぞれ勅宣ならびに御教書が申し下されて、法然の選択集の版木を比叡山の大講堂に取り上げ、三世の仏恩を報ずるため、これを焼き捨てさせた。また法然の墓は感神院の奴僕である犬神人に仰せ付けて破却させてしまった。しかして、法然の高弟である隆観・聖光・成覚・薩生等は遠国に配流されてしまったのである。その後いまだにその御勘気がゆるされていない。どうしてあなたの質問のごとく、法然についていまだ誰も朝廷や幕府に対し勘状を提出した者がないといえるのか。

講義
 この章は、この段の客の問いのなかに「末だ勘状を進らせず上奏に及ばず」とあったのに対して、延暦寺、興福寺から数度にわたる上奏があり、ついに勅宣・御教書が下されて法然の一門が弾劾された事実まであることを指摘して反論したところである。
 すでに法然の一生、その邪義が成立した経過については第四段・第五段の各章で詳しく論じてきたので、本章では、法然の生前における一門と既成仏教との争い、法然没後の一門に加えられた弾劾、迫害、および没後今日までの念仏一門の推移を略述してみたい。
法然一門と既成仏教の争い
建久9年(11983月、法然は選択集を完成した。この時、法然は16歳、その一門は日々に隆盛を加え、比叡山・興福寺等、既成仏教にとっては、しだいに一大脅威となりつつあった。面倒な教義などいっさいなく、ただ弥陀念仏を修して、西方極楽浄土の往生を期せ、という単純な教義は、それまでの仏教の難解な教理に較べれば、はるかにはいりやすく、武士階級をはじめ、庶民への浸透は急速度で進んでいった。
 元久元年(1204)、ついに延暦寺衆徒は蜂起して専修念仏の禁止を天台座主に要求した。これに対し法然は、その弾圧を避けようとして弟子を集め、自戒すべき7ヵ条を掲げて弟子たちの同意を求めた。そして、みずから7ヵ条のあとに署名し、以下に190の弟子が連署し自戒を誓ったものとして天台座主に差し出したのである。この7ヵ条は現在、京都に残っている。
 法然はその7ヵ条のなかで「年来の間、念仏を修しているが、聖教に随順し、あえて人心に逆らわず、世間を驚かすこともなく、この30の間こともなくすごしてきた。ところがこの10ヵ年以後、無智不善の輩が次々とあらわれては弥陀の教えにそむくばかりか、釈尊の遺法もけがすようになった」と述べ「無智不善の輩」の行いとして、
   一、 阿弥陀仏以外の仏菩薩を謗ること。
   二、 別の教えを行う人と好んで論争すること。
   三、 別の教えを行う人にそれを棄てさせようとすること。
   四、 念仏門では戒律はないとして淫酒食肉をすすめ、戒律をみくだすこと。
   五、 勝手に自分の教義を立てて人と争うこと。
   六、 唱導で無智の人々を教化すること。
   七、 誤った教えを偽って師範の義とすること。
 の7ヵ条を掲げ、それらを戒めている。
 元久元年(1204)のこの出来事は、叡山の衆徒が叡山出身の法然をおさえることを座主に要求し、法然が自戒を誓った文書を座主に提出することによっておさまった。したがってこれは、どちらかといえば、天台宗内部の出来事ともいうべきものであった。
 ところが翌元久2年(1205)、事態は法然の予想をはるかに越えて深刻なものとなった。すなわち、法相宗の興福寺が念仏禁止を院に訴え出たのである。その奏状には、
   一、 新宗を建つる失。
   二、 新像を図する失。
   三、 釈尊を軽んずる失。
   四、 万善を妨ぐるの失。
   五、 霊神に背くの失。
   六、 浄土に暗きの失。
   七、 念仏を誤るの失。
   八、 釈尊を損ずるの失。
   九、 国土を乱すの失。
 という9ヵ条にわたる具体的な内容を掲げて、法然とその教団への批判をのべている。
 今度は、法然も、簡単にその鉾先をそらすわけにはいかなかった。しかしながら、院の貴族たちのなかにも熱心な念仏信仰者があり、法然の念仏を禁ずるのにためらいを感じている者も少なくなかった。決定的な結論が出せないまま月日は過ぎ、興福寺を中心とする旧仏教の勢力は、ますます強く弾圧を求めたのである。
 こうした矢先、すでにふれたように、たまたま後鳥羽院が熊野に参詣中、留守をあずかっていた院の女房数人が、おりから開かれていた念仏の会に出席し、僧安楽・住蓮と密通したという噂がひろまってしまった。これには後鳥羽院も激怒し、建永2年(1207)の新春早々、安楽・住蓮の二人を斬罪に処し、ついで法然一門の主だった者に対して、流罪を宣告した。
 法然は流罪中の土佐から、1年たらずで許されて戻ったが、京都にはいることは許されず、摂津にとどまっていなければならない状態であった。建暦元年(1211)暮れになって、ようやく入京は許されたが、すでに79という高齢で身体が衰弱し、建暦2年(1212)現在、知京都にはいることは許されず、摂津にとどまっていなければならない状態であった。建暦元年(1211)暮れになって、ようやく入京は許されたが、すでに79という高齢で身体が衰弱し、建暦2年(1212)現在、知恩院のある京都・東山大谷の地で没した。
 法然の流罪、ついでその死亡によって、いちじ念仏の教勢にとどまったかに見えたが、没後はまたしだいに勢力を強め、叡山・興福寺からは念仏禁止の奏状はたびたび提出され、一方では教義面から、これを破折を加える者も現われた。
 大聖人の念仏無間地獄抄にいわく、
 「
然る間斗賀尾の明慧房は天下無雙の智人・広学多聞の明匠なり、摧邪輪三巻を造つて選択の邪義を破し、三井寺の長吏・実胤大僧正は希代の学者・名誉の才人なり浄土決疑集三巻を作つて専修の悪行を難じ、比叡山の住侶・仏頂房・隆真法橋は天下無雙の学匠・山門探題の棟梁なり弾選択上下を造つて法然房が邪義を責む、しかのみならず南都・山門・三井より度度奏聞を経て法然が選択の邪義亡国の基為るの旨訴え申すに依つて人王八十三代・土御門院の御宇・承元元年二月上旬に専修念仏の張本たる安楽・住蓮等を捕縛え忽ちに頭を刎ねられ畢んぬ、法然房源空は遠流の重科に沈み畢んぬ、其の時・摂政左大臣家実と申すは近衛殿の御事なり此の事は皇代記に見えたり誰か之を疑わん」(010102
法然滅後、一門に加えられた弾圧
 法然滅後の経過をみるならば、没後5年目の謙保5年(12173月に、叡山の衆徒が蜂起して念仏禁止を訴え、元仁元年(12248月に、専修念仏禁止の令が出されている。そして、嘉緑3年(1227)には、安国論本文に記されているように、これら法然没後の弾圧、禁止のなかでも最大の規模のものが行われ、法然の墓の破壊、弟子たちの島流しが行われた。
 すなわち、この年の622日、延暦寺衆徒は専修念仏の邪義を訴えて蜂起し、勅許によって法然の墓を破壊し、ついで76日、念仏僧の隆寛・聖光らを島流しの刑に処して、念仏禁止を強く推し進めた。
 念仏無間地獄抄にいわく、
 「
法然房死去の後も又重ねて山門より訴え申すに依つて人皇八十五代・後堀河院の御宇嘉禄三年京都六箇所の本所より法然房が選択集・並に印版を責め出して大講堂の庭に取り上げて三千の大衆会合し三世の仏恩を報じ奉るなりとて之れを焼失せしめ法然房が墓所をば犬神人に仰せ付けて之れを掘り出して鴨河に流され畢んぬ」(010109
 これらの一連の事件については、そのつど、院から宣旨がだされていたわけで、この段の客の「勘状を進らせず、上奏に及ばず」はまったくの誤りである。
 嘉緑3年(1227)、山門に下された宣旨には、次のように認められている。
 「
専修念仏の行は諸宗衰微の基なり、茲に因つて代代の御門・頻に厳旨を降され殊に禁遏を加うる所なり、而るを頃年又興行を構へ山門訴え申さしむるの間・先符に任せて仰せ下さるること先に畢んぬ、其の上且は仏法の陵夷を禁ぜんが為且は衆徒の欝訴を優に依つて其の根本と謂うを以て隆寛・成覚・空阿弥陀仏等其の身を遠流に処せしむ可きの由・不日に宣下せらるる所なり、余党に於ては其の在所を尋ね捜して帝土を追却す可きなり、 此の上は早く愁訴を慰じて蜂起を停止す可きの旨・時刻を回さず御下知有る可く候、者綸言此の如し」(010117
 また同年1010日、関白から武蔵守北条泰時に下された御教書には「
専修念仏の事、五畿七道に仰せて永く停止せらる可きの由・先日宣下せられ候い畢んぬ、而るを諸国に尚其の聞え有り云云、宣旨の状を守つて沙汰致す可きの由・地頭守護所等に仰せ付けらる可きの旨・山門訴え申し候、御存知有る可く候、此の旨を以て沙汰申さしめ給う可き由・殿下の御気色候所なり、仍て執達件の如し」(0102-13)とある。
 さらに、念仏者追放宣旨事には、
 「
永尊竪者の状に云く弾選択等上送せられて後・山上に披露す弾選択に於ては人毎に之を翫び顕選択は諸人之を謗ず法然上人の墓所は感神院の犬神人に仰付て之を破郤せしめ畢んぬ其の後奏聞に及んで裁許を蒙り畢んぬ、 七月の上旬に法勝寺の御八講の次山門より南都に触れて云く清水寺・祇園の辺・南都山門の末寺たるの処に専修の輩身を容れし草菴に於ては悉く破郤せしめ畢んぬ其の身に於ては使庁に仰せて之を搦め取らるるの間・礼讃の声黒衣の色・京洛の中に都て以て止め畢んぬ、張本三人流罪に定めらると雖も逐電の間未だ配所に向わず山門今に訴え申し候なり。
 此の十一日の僉議に云く法然房所造の選択は謗法の書なり天下に之を止め置く可からず仍つて在在所所の所持並に其の印板を大講堂に取り上げ三世の仏恩を報ぜんが為に焼失すべきの由奏聞仕り候い畢んぬ重ねて仰せ下され候か、恐恐。
    嘉禄三年十月十五日
」(008908
 とある。
 日寛上人は立正安国論文段に、次のごとく申されている。「今謂く法然伝記の第7に准ずるに、法然・存生の昔は藤井元彦という俗名を付けられた後鳥羽院の御宇・建永2年(1207228日に土佐国へ流されぬ、およそ流罪は賢聖の常例なり、所謂・竺の道生は蘇山に流され、法道は江南に還され、一行禅師は菓羅国に放さる。然りといえども末だ俗名の事を聞かず、法然の俗名豈永代不易の恥辱にあらずや。滅後の今は墓所を破却せらる。これ第一の恥辱なり、慈覚大師事にいわく『
生の難は仏法の定例・聖賢の御繁盛の花なり死の後の恥辱は悪人・愚人・誹謗正法の人招くわざわいなり、所謂大慢ばら門・須利等なり』(102003)と。また大田殿許御書にいわく『或は閻魔王の責を蒙り或は墓墳無く或は事を入定に寄せ或は度度・大火・大兵に値えり権者は辱を死骸に与えざる処の本文に違するか』(100416)と。これに例して知るべし」とある。
 すなわち日寛上人は、大聖人の御書を引用しながら、痛烈に法然の驚くべき法罰の姿を明らかにされている。第一に存生には俗名をつけられて流罪されたこと、第二に死後には墓場を破却されたことは、仏法上、永代不易の第一の恥辱であると仰せである。
 このように、法然の教えが、いかに仏法を破壊する邪悪な説であるかは、歴然たるものがあった。智者、学匠はそれをよく知っていたのである。このゆえに、すでに生前から選択集に対する破折もあったし、為政者もこれを禁じた。だが、民衆は、選択集を破折した文を読んでいなかったがゆえに、結局は、悪鬼入其身の方程式で、邪義がひろまっていた。所詮、天台過時の法門の立ち場では、魔の根を断つことはできなかったのである。
 しかして、法然のやり方自体も、まことに魔物の原理そのままである。先にみずから選択集で、浄土宗以外のいっさいの仏・菩薩・経典を捨閉閣抛せよと説きながら、いざ弾圧があるとわかると、その主張を「無智不善の輩のしわざ」とすりかえたことなどは、その一例である。そして、九条兼実等の公卿に取り行って、権力との結託を進めていったのである。
 それを、あたかも法然は勢至の再誕だ、善導の後身だ等と喧伝し、邪義がまたたくまにひろまったのは、ひとえに民衆の無智にあるといっても過言ではあるまい。客の質問でもあるように、法然一門が禁止された事実すら、マスコミのない当時の民衆はまったく知らなかったのである。
衰亡の一途をたどる最近の浄土宗
 さらに、法念なきあと、今日までの間に、浄土宗においてどのような宗派が分かれたかを示すと、次のようである。このうち親鸞の浄土真宗は、内容的にも浄土宗とはまったく違うし、親鸞自身、法然の弟子であったかどうか疑わしい。しかし、一応ここでは浄土宗が主張しているものを、そのまま図表にした。
                ┌白旗派 (良暁)
                ├藤田派 (性心)
                ├名越派 (尊勧)
     ┌鎮西流 良忠(弁良)┼三条派 (道光)
     │          ├一条派 (然空)
     │          └木旗派 (慈心)
     │          ┌西谷流 (浄音)
   法然┼西山流───(証空)┼深草流 (立信)
     │          ├東山流 (証入)
     │          ├嵯峨流 (道観)
     │          └三鈷寺流(一遍)
     ├諸行本願寺義(長西)─────九品寺流
     ├多念義   (隆寛)─────長楽寺流
     ├一念義   (幸西)
     └浄土真宗  (親鸞)
 なお、このほか、法念常随の弟子と称する源智は、その滅後、廟所である知恩院を護持し、その系統が跡を継いだが、別流を称せず、鎮西流に合同している。また信空・湛空などという弟子たちも、それぞれ鎮西・西山流に合流している。
 現在、鎮西流の六派のなかでは、白旗流が大部分を占め、名越派がわずかばかりあるのみで、他の派は壊滅している。西山流のなかでは西山流・深草流のみ残り、また、諸行本願義・多念義・一念義の三派はなんら見るべきものはない。
 法然の教化が京都中心であったので、いまなお浄土宗は、近畿地方を中心に根を張っているが、弁良は九州方面、弟子の良忠は鎌倉に教団を開拓した。室町時代の応仁の大乱で京都市内各寺院は大打撃を受けたが、漸次回復し、江戸時代にはいってからは、徳川家の宗旨が代々浄土宗であったため、西は京都の知恩院、東は江戸・芝の増上寺を中心に栄えた。
 明治にはいってからは、徳川家の庇護も断たれ、廃仏毀釈に遭って、一時、衰微のきざしをみせたが、やがて当局に巧みに取り行って、財政面から挽回した。京都の知恩院と、東京の増上寺は仲が悪く、長年分裂対立していたが、話し合いがついて、昭和36年(1961)知恩院を総本山とし、東京の増上寺・長野の善光寺など7寺を大本山として、今日に至っている。
 一方、親鸞の浄土真宗は北陸、北関東にひろまっていたが、生前から分派を生じていた。現在も人口に真宗十派と称する派閥があり、親鸞の血統を伝えていると称する本願寺派、大谷派のほかに、興正派、高田派、仏光寺派、三門徒派、山元派、出雲路派、誠照寺派、木辺派の十派がそれぞれ独立している。今日、これらの中で最大の教勢と血統を誇る本願寺派や大谷派は、蓮如が出現するまで見るかげもない存在であったが、蓮如は応仁の乱(1467)当時の世相に乗じて、巧みな政治力を発揮し、一代で本願寺教団の基礎を築き上げたのである。
 現在、檀徒数は浄土宗300万人、真宗大谷派600万人と称しており、それだけに寺院や僧侶の数も多い。だが、平均して50世帯で一人の僧侶、少ないところでは10世帯の檀家ももたない零細寺院もあって、宗勢力の衰微はおおうべくもない。

再三にわたった念仏禁止の上奏
 本章の末尾に「其の後未だ御勘気を許されず」とあるのは、大聖人が立正安国論を著わされた文応元年(1260)になっても、まだ念仏禁止の令が解かれたことがいないことをいったものであって、隆寛・聖光らが流されてから33年を経ている。この間、天福2年(1234)延応2年(1240)にそれぞれ、念仏禁止の上奏がなされているのである。
 このように、法然の一門は、仏法の面から邪義であることはもちろん、社会的にも風紀を乱すものとして、勅宣・御教書が再三、下されたことは事実である。当時においても、大聖人が「然りと雖も恭敬供養する者は愚癡迷惑の在俗の人、帰依渇仰する人は無智放逸の輩なり、権者に於ては之を用いず賢哲又之に随うこと無し」と仰せられているように、分別を弁えた人々は、念仏を極度に嫌っていたようである。
 「
鳴呼世法の方を云えば違勅の者と成り帝王の勅勘を蒙り今に御赦免の天気之れ無し心有る臣下万民・誰人か彼の宗に於て布施供養を展ぶ可きや、仏法の方を云えば正法誹謗の罪人為り無間地獄の業類なり何れの輩か念仏門に於て恭敬礼拝を致す可きや、庶幾くば末代今の浄土宗・仏在世の祖師・舎利弗・阿難等の如く浄土宗を抛つて法華経を持ち菩提の素懐を遂ぐ可き者か」(0103-06) 世の念仏信仰の者は、この大聖人の御金言を拝し、一刻も早く、その邪法を捨てて正法に帰すことを訴えてやまない。

第七段 布施を止めて謗法断絶を明かすtop
第一章 災難対治の方術を問うtop

13   客則ち和ぎて曰く、 経を下し僧を謗ずること一人には論じ難し、 然れども大乗経六百三十七部二千八百八十
14
 三巻並びに一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て 捨閉閣抛の四字に載す其の詞勿論なり、 其の文顕然なり、 此
15
 の瑕瑾を守つて 其の誹謗を成せども迷うて言うか覚りて語るか、 賢愚弁ぜず是非定め難し、 但し災難の起りは
16
 選択に因るの由、 其の詞を盛に弥よ其の旨を談ず、 所詮天下泰平国土安穏は 君臣の楽う所土民の思う所なり、
17
 夫れ国は法に依つて昌え 法は人に因つて貴し国亡び人滅せば仏を誰か崇む可き 法を誰か信ず可きや、 先ず国家
18
 を祈りて須く仏法を立つべし若し災を消し難を止むるの術有らば聞かんと欲す。

 客はすなわち和らいで言った。
 経を下し僧を謗じているのは必ずしも法然一人ばかりとは論じ難い。あなただって浄土の諸経を下し、法然を謗じているのは同罪ではないか。しかしながら法然が、大乗経六百三十七部二千八百八十三巻ならびに一切の諸仏菩薩および世天等をもって捨閉閣抛の四字に載せたことは、その言葉はもちろんであり、その文ははっきりとしており、これは明らかに経を下し僧を謗じていることになる。だからといって、法然の捨閉閣抛等の四字は、あたかも美しい玉にわずかの傷があるようなものである。あなたは、このわずかな傷について強いて誹謗を加えている。しかしながら、法然は一体迷っているのか、すべてを覚っているのか、自分にはわからない。だから、あなたと法然とでは、ごちらが賢いのか愚かなのか、どちらの主張が是なのか非なのか、自分では判断がつかない。
 ただし、いっさいの災難が起こる原因は法然の選択集にある。との由を盛んに申し、いよいよそのことを強調されている。所詮・天下案泰・国土安穏は君主・万民がひとしく願うことである。一体、国家は法によって栄え、法は人によって貴いのである。国が亡び人々が滅するならば、仏を誰が崇めるであろう。法を誰が信ずるであろう。まず国家の安泰を祈って、しかるのちに仏法を立てるべきである。もしそのような災難を防ぎ、国家繁栄の術があるなら聞きたいものである。

講義
 この段では、人生の不幸の根源と、三災七難の淵源を断ち切り、真実の平和楽土を建設する方法は、国じゅうの謗法を禁ずることであると、断言されている。謗法を禁ずるとは、所詮、謗法の僧侶の命を断つことである。
 それをあかすに当たって、本章は客の疑問を掲げている。ここで客ののべて述べていることは、単に大聖人当時、すなわち、鎌倉時代の為政者ならびに民衆の考え方にとどまらず、現代人の宗教観、政治観にもそのまま該当するものがある。
経を下し僧を謗ずること一人には論じ難し
 主人の道理正しい話に、客は、ようやく納得してくる。特に法然が捨閉閣抛といって、法華経を誹謗したことは悪いのだと気がつく。しかし、徹底的に悪いことだとは、まだ思えない。ゆえに客は、この段にきて、和らいでいいながらも「経を下し僧を謗ずること一人には論じ難し」と、まだ疑問に感じている。
 この意は「経を下し僧を謗じているのは、必ずしも法然一人ばかりとはいえまい」というのである。すなわち言外には「しゅじんだって、浄土の諸経を下し、法然を謗じているのは同罪ではないか」という疑問があるわけである。しかし、もちろん、日蓮大聖人が、法然の捨閉閣抛は、まったく仏法に背反する邪見であるから、同列に論ぜられるわけがない。
 ここで日寛上人は「経を下し僧を謗ずること一人には論じ難し」等の文について、文段に次のように申されている。すなわち「かくのごとく点ずべし、客の意にいわく『経を下し僧を謗ずること一人には論じ難し、主人もまた浄土の経を下し法然を謗ずればなり』と云云、古点穏やかならず、一義にはこの八字の主人に約す。いわく『大乗経を下して衆僧を謗ずることは法然一人としては論判し難し』と云云、蒙これには牃するがごとし、今いわく、二義倶に末だ美からず」と。
 すなわち「経を下し僧を謗ずること一人には論じ難し」の御文を、一義には皆主人に約し、一義には皆法然に約する解釈が、古来、邪師によって行われてきたが、この二義は、ともに誤りであり、正しくは、日寛上人の仰せのごとく、客の意は「経を下し僧を謗ずること一人には論じ難く、主人もまた経を下し僧を謗じているのではないか」という意にあるのである。
 このように、立正安国論の解釈は、古来から、多くの人々によってなされてきたが、日蓮大聖人の御真意を正しく解釈しえたのは、ただ巨匠、日寛上人のみであり、他の邪宗各派の学者が、すべて誤りに満ちた謬釈をしていることは、まったく明白ではないか。
此の瑕瑾を守つて其の誹謗を成せども
 日寛上人の文段には、次のように、いわれている。
 「またかくのごとく点ずべし、この下の六句二十四字を古来の諸師はみな主人に約す、倶に穏やかならざるか。今慎んで案じていわく、この二句八字は主人に約し、次に迷の下の二句八字は法然に約し、三賢の下の二句八字は法然と主人とに約するなり。ゆえに今の問の意にいわく『経を下し僧を謗ずることに法然一人には論じ難し主人もまたしかればなり、然れども大乗経等を以って“捨”等の四字に載せたること選択の文分明なり、主人は此の瑕瑾を守って其の誹謗を成せども、法然は迷うて言うか、覚りて語るか、しかれば法然と主人との間・賢愚弁ぜず是非定め難し』等云云」。
 すなわち、この御文についても、古来、いろいろな読み方がなされてきたが、日寛上人は明白に読み方についての決定を下された法然が捨閉閣抛といって大乗教はもちろん、諸仏菩薩をすべて否定し去ったことについて、客も法然の誤りであることを納得する。しかし客は「この法然の捨閉閣抛の四字は、あたかも美しい玉にわずかのきずがあるようなものであり、主人が小さいきずに強い誹謗を加えるのは行きすぎだ。だからといって法然のいうことも、迷っているのか、さとっているのか、判断がつかなくなった。あなたと法然とでは、どちらが賢いのか愚かなのか、どちらの主張が是なのか、非なのか、自分でもわからなくなった」と心情を述べたのである。いずれにしても、客は法然に大きな疑いを生じてきたわけである。
 およそ、浄土三部経以外の経典を捨てよ、阿弥陀如来以外の仏菩薩を抛てとは、釈尊一代仏教のどこにも説かれていない。すでに破折されているように、これは曇鸞・道綽・善導らが勝手に立てた悪義を、法然がさらに増長せしめた邪義である。仏説にあらざる私の邪義を立てることは、仏弟子にあらずして仏敵である。
 のみならず、法然がが捨てよ閉じよ閣け抛てという一切経のなかに、釈尊一代仏教の肝心たる法華経が含まれている。これは、彼らが念仏を唱えれば極楽往生できるという唯一の依拠である、法蔵比丘の「唯五逆と誹謗正法の者を除く」という誓願さえはずれることになる。
 また、法華経は、いっさいの経典の究極であり、いっさいの仏菩薩の能生の根源である。浄土三部経は法華経を説くため、最も低い段階の足場にすぎない。阿弥陀如来は、法華経迹門の説法では、大通智勝仏の十六王子の一人として、迹門の釈尊の兄弟である。釈尊の本地を明かした本門の説法では、五百塵点劫に成道した釈尊がn化他のために迹を垂れた仏の一つになる。
 阿弥陀を尊んで釈尊を卑しみ、浄土三部経を崇めて法華経を捨てるのは子を尊んで親を賎しみ、弟子を崇めて師匠を罵る狂態である。しかも「
仏法は体のごとし世間はかげのごとし」(0992-14)と仰せのように、宗教界における本末顛倒は、必ず世法において、狂乱の姿となって現われてくるのである。
 ゆえに、法然の選択集は、まさしく毒薬の魂であり、悪魔の者と断ずべきである。其の誹謗を成せどもと客はいう。だが善いものを嫉んで悪くいうのが誹謗である。悪を悪と断じその罪を弾劾することは、むしろ正義を守るための絶対必要条件である。
 創価学会が折伏を行じて、今日に至った途上においても「学会は他宗の悪口をいうから嫌いだ」等、あるいは「宗教が他宗教を誹謗するのはよくない」等という人があった。今後も、出てくることであろう。
 だが、悪を追究することが禁じられるならば、一体、世の中はどうなることであろうか。警察は活動を停止し裁判所は門を閉じて、悪人はわが世の春と横行し、善良な民衆は不幸のどん底に突き落とされるに違いない。
 こうした国法上の混乱にもまして、最も恐ろしいことは、仏法の正義が失われることである。いかなる嫉妬、迫害、弾圧も恐れず、われらは勇敢に、護法のため、民衆の幸福のため、社会の繁栄のため、世界平和のために、邪義を粉砕していかなければならない。
所詮天下泰平国土安穏は君臣の楽う所土民の思う所なり
 いかなる時代の、いかなる国を問わず、社会の平和と国土の安穏、すなわち民衆が安心して日々の生活にいそしみ、人生を楽しんでいける社会の実現が、指導者も民衆も共に願うところであり、政治の要諦であるとの原理である。
 古来、中国において、天下泰平の理想社会をあらわすものとして、次のようなエピソードが用いられてきた。中国の伝統的な聖天子・堯の時代に、ある農家で一人の老人が腹鼓を打ち、土器を叩きながら、謳ってる。その文句は「日出でて作し、日入りて息う。井を鑿ちて飲み、田を耕して食らう。帝力何ぞ我に有らんや」というのである。
 すなわち、古代中国では、帝王の力、政治権力の存在が意識されないほど、民が安心しきって生業に励めることが天下泰平の理想的なあり方とされたのである。「天子は正しく南面せるのみ」というのも、同じ考え方から出た言葉である。逆にいえば、民衆にとって帝王の力が意識されたのは、重税を取り立てられ苦しめられるとか、災害や賊の跳梁によって悩み、帝王の力による対策を要望せざるをえない時であったともいえる。
 現代の社会は、こうした自給自足の古代社会とまったく異なる。工場で機械を作っている人も、サービス行に従事している人も、商人も、あるいは農業・漁業を生業としている人も、国の政策、さらには国際情勢の変動からの影響を免れることはできない。世界の涯に起こった動乱によって、急に景気がよくなったり、逆に暴落したりすることは、しばしば経験されるところである。
 いわんや、軍事科学の発達がもたらした驚異的な核兵器と、ほとんど世界を網羅する軍事ブロックの形成とによって、地球上のいかなる地点も、安全な所はないとまでいわれるようになってしまった。文字どおり人類は同じ一つの屋根の下にいるのであり、しかもそれは、恐るべき破壊力をもつ各種兵器が貯えられた火薬庫なのである。
 天下泰平とは、単に一国の平和であるのみならず、全世界の平和でなければならない。日本の国だけが平和と繁栄を謳っても、アジアの不幸と動乱、世界情勢の不安定によって、たちまち脅かされることは明瞭である。資本主義陣営に属する国も、共産主義陣営に属する国も、あるいはその中間にある諸国も、すべての国の指導者は、今こそ恒久平和の実現に全魂を傾けるべきである。
 また人間と人間の争いから起こる災いのみにとどまらず、いわゆる天災地変による不幸を解決する道は、仏法による以外にない。科学の発達した現代でも、アメリカ南部沿岸を襲うハリケーンの猛威は、年々莫大な被害を与えている。ソ連や中国における農業問題も、人為による改善の余地は多分にあるとはいえ、天然の条件によるところがきわめて大きい。科学の力も自然の威力の前には、まだまだまことに微々たるものでしかない。
 「君臣の楽う所土民の思う所」とは、平和こそ人間性本然の欲求であるとの意である。資本家の利益のため、指導者の名誉のために戦争し、民衆を犠牲にするようなことは、絶対にあってはならない。否、いかなる理由、目的にもせよ、戦争は断じてしてはならない。最も尊いものは人間の生命である。同じ人間でありながら、人命の義生もやむをえないなどというのは、人間としての資格をみずから放棄するのと等しいと知るべきである。
夫れ国は法に依つて昌え法は人に因つて貴し
 国の繁栄、民族の興隆は、必ずその根底となるべき法の浅深、高低によって決定されるとの原理である。客の言葉であるが、重要な真理を表わしているといえる。
 ヨーロッパの歴史を例をとってみても、古代ギリシァの都市国家は、それぞれ哲学、理念をもって維持されていた。美と哲学の文化をもって立ったアテネ、きびしい軍事教練と法治主義を根幹としたスパルタ等、それぞれに応じた興隆と発展を示している。
 ローマにもやはりローマらしい征服思想と統治思想があり、土木建設や事業面で、特色ある興隆を遂げた。中世諸国家は王権神授説を骨髄とする絶対主義政治、キリスト経の商業蔑視に基づく略奪主義が行われた。近代ヨーロッパの植民主義国家が、ルネサンスと、宗教革命を経て形成された啓蒙君主政治と、個人の自由主義を基礎理念するものであることも、周知の事実である。
 目を中国に移せば、儒教的封建主義によった周、道教思想と法治主義によった秦、儒教的王道主義によった漢、天台仏法を根幹においた隋・唐等、いずれも、その法は王朝の性格、文化圏の広狭、民衆の幸・不幸に大きい影響を与えている。むしろ、決定的要因となっているのである。
 ヨーロッパにおいては、きびしく縛られたスパルタの民衆より、伸び伸びとしたアテネの民衆のほうが幸福であったに違いない。後世の文化に及ぼした影響性もアテネのほうが大きい。人間性を無視した中世よりも人間中心的なローマの高度の分明と繁栄をもっていたし、そのローマは、自由・平等・博愛を旗印とする近代ヨーロッパのほうが、すぐれた文化水準に達したといえよう。
 中国についても、冷厳な法治主義によった秦は短命で滅び、礼教によった周は一応長命を保ったが、その後半は有名無実であった。秦より周、周より漢、漢より仏法によった唐のほうが、偉大な文化の華を咲かせ、広い地域に影響力をもち、政治的にも安定していた。唐朝の後半、武宗皇帝の仏教弾圧、浄土宗の流行と共に、急激に衰運をたどったことは、仏教の正邪が政治・経済・文化・民族の生命力に、いかなる関連性をもっているかを如実に物語っているといっても過言ではない。
 日蓮大聖人の妙法を根底とした第三文明が、最高の、人類の理想を具現する大文明であり、一閻浮提の仏法なるがゆえに、一国・一民族にとどまらず、全世界の、全類の未曾有の興隆と発展をもたらすことは、この道理よりして必然なりと叫ぶものである。
仏法の偉大さは人が実証
 
また「法は人に因って貴し」とは、いかなる法も、それを実践する人の実証の姿如何によって流布もするし、消滅もする。すなわち、伝持のひ人、実践者の重要性を意味する。すなわち、法をたもっている人が幸福になり、興隆し、福運を積んでいくことによって、その法の偉大さが証明される。反対に法をたもっている人が凶悪となり、残忍となり、みずから悲惨な末路をたどって滅び去ることによって、その法の低級さが証明されるのである。
 人生というものを考えた場合、いかなる人も、必ずなんらかの法を有している。多くの場合、それは体系化されず、哲学性をもたないこともある。だが、なんの法ももたないということは、いっさいの行動を動物的本能によってとっていることであって、人間としての理性がある以上は、そのようなことはありえない。
 その法の高低・浅深・正邪によって、生活の個々の行動の仕方、そして、それによって現われる結果が支配される以上、低いものより高いものを、浅いものより深いものを取るべきである。邪なものを捨てて、正しいものをもつことが肝要である。
 人の心の奥底にあって、あらゆる行動、思想ににじみ出てくる規範を、いっさいの哲学・思想・主義に対する信仰を含めて信心といい宗教というのである。されば信心といい、宗教といい、人が行動の規範としている法であって、祈りの儀式や、法衣や、数珠や、線香や、ローソク等の形式はあくまで枝葉にすぎない。その観点からいえば、共産主義に対する信奉も信心であり、宗教である。
 ここに宗教選択の大切である所以がある。日蓮大聖人は「妙法なるが故に人貴し」(1578-12)と仰せである。それでは「法は人に因って貴し」とは、逆になってしまうかというならば、今度は偉大な法をたもった者の立ち場になるのである。すぐれた法をたもったとしても、まだ充分に身につけることができず、その人の行動の一部を支配しているのみで、大部分の行動は相変わらず、古い低い法によって行われていることが多い。
 仏法という最高の法といかにして完全に合致し、全人格をこれによって満たしていくか、低い法による古いカスを追放していくかが、仏道修行であるともいえる。完全に合致したならば、これを成仏というのである。
 その過程は努力、精進である。仏法をたもった人が、どれだけこの努力、精進を積み重ねて、わが身に仏法の偉大さを体現していくかによって、法の興隆が決定される。
 創価学会の今日の発展、隆昌が恩師戸田前会長の獄中での不思議な体験、人間革命、広宣流布への情熱によって決定づけられたことを思い合わすべきである。「法は人に因って貴し」日蓮大聖人の仏法の興隆は、戸田前会長によって決定づけられ、そして今、500数十万世帯の創価学会員の燃ゆるがごとき信心、広布への決意、幸福生活の実証によって、全世界に、未来永劫に流布していくべき源泉が決定づけられてるのである。
先ず国家を祈りて須く仏法を立つべし
 国が亡び、人が死んでしまったならば、仏法を信奉することができない。したがって、まず国家、社会を安定して、しかるのちに仏法を立てるべきであるとの客の言葉である。
 すなわち、政治が主であって、宗教は従であるという考え方が、この根底にある。客とは、時の為政者、北条義時になぞらえているのであるから、これは当然であったかもしれない。
 今日においても、こうした考え方は、むしろ当時以上に支配的となっている。たとえば「原水爆戦争が起こって、地球上の全人類が滅亡してしまえば、仏法だの、広宣流布だのといっていられない。まず、平和のために、大衆運動を起こすべきだ」等の議論である。
 その底辺には、宗教を単に気休めや、形式や、精神修養ぐらいにしか考えない、宗教認識の恐るべき無智がある。「政治が先だ」という人は、それでは政治によって戦争を絶滅し、真実の恒久平和を実現する確信があるのか。過去の歴史を辿ってみるならば、たとえ本人は確信があるとしても、暗澹たるものをおぼえずにはいられまい。
 しかも、いつの時代の、どの国の民衆も、平和を望む心に変わりはない。だが独裁者の野望と権力の前に惨めに屈服し、あるいはみずからの心に憎悪と恐怖がうずまいて、戦乱のなかに自滅していったのである。戦争を憎み、平和を渇望するのも人間の心である。戦争を好み、利益と名誉を願うのも人間の心である。
 この人間の心を動かし、狂気を追放して正気となし、反目によらず団結で、すべての人の幸福をかち取ってく平和世界の実現は、法によって決定されるのである。すなわち宗教の正邪、仏法の正邪によって、国家社会ひいては全世界の安危が決まることを知らねばならぬ。このことは、主人の後段における主張によって次第に明らかにされるのである。
 エラスムスは言った。「戦争は獣のためにこそあれ、人間のためにはない。実に凶悪なものである」と。だが、その獣を人間にする法は、どこにあったか。 東洋仏法の真髄、日蓮大聖人の大生命哲学こそ、その唯一の秘法である。
 ゆえにわれらは、色心不二の大生命哲学をもって、一人一人の人間革命を遂行し、これを全世界に及ぼすことこそ、永遠にくずれざる恒久平和への直道なりと確信するのである。

第二章 国家安穏天下泰平を説くtop

0027top
01   主人の曰く、 余は是れ頑愚にして敢て賢を存せず唯経文に就いて聊か所存を述べん、抑も治術の旨内外の間其
02
 の文幾多ぞや 具に挙ぐ可きこと難し、 但し仏道に入つて数ば愚案を廻すに 謗法の人を禁めて 正道の侶を重ん
03
 ぜば国中安穏にして天下泰平ならん。

 主人のいわく。
 自分はもとより頑愚で、何も賢いわけでない。ただ釈尊の経文について少しばかり考えているところを述べてみたい。そもそも災難を治術する方法については、仏法の経典にも、また、仏法以外の書にもたくさん説かれており、のこらずここにあげることは到底困難なことである。ただし、仏道に入ってしばしば自分の考えをめぐらしてみると、結局謗法の人を禁止して、正法護持の人を重んずるならば、国中は安穏となり、天下は泰平となるであろうことは明白である。

講義
 三災七難を消し止めるには、どうすればよいのかとの前章の客の問いに答えて、本章からその方法を説き出されるのである。
 まず本章で、「謗法の人を禁めて正道の侶を重んぜば国中安穏にして天下泰平ならん」と述べられているのは、結論の極理である。しかる後に、第三章以下で、法華経・涅槃経の文を引いて、これを論証されているのである。
 いうまでもなく、謗法の人とは、浄土宗のみに止まるのではなく、禅宗・真言宗・華厳宗・法相宗等である。
 よく、立正安国論では、法然の選択集のみを謗法と訶責されているかのように論ずる人がいる。しかし、それは誤りである。特に法然の浄土宗を大きく取り上げられたのは、すでにしばしばふれたように、当時の宗教界の情勢をみれば、直ちに理解されるところである。
 法然が専修念仏を唱え始めたのは、日蓮大聖人御誕生のわずか48年前であり、法然の墓が勅命によって発かれ、高弟たちが流罪されたのは、日蓮大聖人の6歳のときであった。しかし、この数十年間に、専修念仏は戦乱と災害に脅える民衆の不安、末法思想の流行に乗じて、疫病がはやるように、全国津々浦々に広まった。念仏の哀音は日本国中をおおい、比叡山でさえ、これを認めなければ信者の庇護、寄進をうけられないほどの世相になっていたのである。武士の都、鎌倉の北条重時が浄土宗のために極楽寺を創立したのは、安国論御述作の前年である。
 この一事によって、国諌の書たるこの立正安国論が、謗法の代表としての法然の浄土宗を取り上げ、これを完膚なきまでに破折された所以は、瞭然である。だが、単に浄土宗のみの破折に終わっているのではない。
 十一通御書の建長寺道隆に当てた御状にいわく「夫れ仏閣軒を並べ法門屋に拒る仏法の繁栄は身毒支那に超過し僧宝の形儀は六通の羅漢の如し、然りと雖も一代諸経に於て未だ勝劣・浅深を知らず併がら禽獣に同じ忽ち三徳の釈迦如来を抛つて、他方の仏・菩薩を信ず是豈逆路伽耶陀の者に非ずや、念仏は無間地獄の業・禅宗は天魔の所為・真言は亡国の悪法・律宗は国賊の妄説と云云、爰に日蓮去ぬる文応元年の比勘えたるの書を立正安国論と名け宿屋入道を以て故最明寺殿に奉りぬ、此の書の所詮は念仏・真言・禅・律等の悪法を信ずる故に天下に災難頻りに起り剰え他国より此の国責めらる可きの由之を勘えたり」(017301)云云と。
 この日蓮大聖人の御心によって現代の宗教界を見るならば、既成仏教が連合体制をとり、大聖人の仏法を奉ずる創価学会を弾圧しようと図っていることや、新興宗教の徒輩が、新宗連を構成し、創価学会対策に躍起となっていることも、大聖人御在世当時と同じ方程式といえる。
 ゆえに、既成たると新興たるとを問わず、彼ら邪宗教こそが、現在の日本に起こっている三災七難の根本病源であることは明らかである。彼らの謗法を厳重に禁じて、正道の侶、すなわち創価学会に教えを乞うならば、必ずや国中が安穏になると共に世界平和が実現されることを、強く強く確信するものである。
余は是れ頑愚にして敢て賢を存せず
 示同凡夫のお立ち場から、謙遜された言葉である。また前問の「賢愚弁ぜず」に対する語である。また、日蓮大聖人の言々句々は、すべて仏の経文を依処とし、裏づけとして述べられている。そこには、毫もみずからの才を誇ったり、客観的裏づけのない無責任な発言はないのである。
偉大なる仏法の予言
 外道にせよ、仏教の僧にせよ、およそ予言者といえば、天の啓示を受けたとか、夢のお告げがあった等と称して、いつ、どこで、どのようなことが起こる等、というものである。そこには、言外に、自分が特別にこの啓示を受けたのだ、一般の者たちとは違うのだぞという。優越感、差別感がふくまれている。
 こうした予言者、啓示者は、正しい仏法においては用いないのである。「利根と通力には依るべからず」(0016-13)と、大聖人も厳に戒められているのである。成程、一見すると、こうした予言者の方が素晴らしく見えよう。だが、それは根底に客観的と哲学に裏づけられた普遍妥当性がない証拠ではないか。
 それに反して、日蓮大聖人は、この立正安国論で展開されているように、一つ一つ経文を引いて裏づけ、経文を示して結論を下されている。すなわち、ここに示された原理は、すべて事実の証拠と経文による裏づけと、哲学的論理性があるゆえに、いついかなる時代においても、またいかなる国土においても、共通する大原理なのである。
 700年前に認められたこの立正安国論は、単なる歴史的文献でもなければ、文学的著述でもない。700年後の今日にもそのまま通じ、民族の興亡と経済的対立、思想的、軍事的相克に苦悶する全人類に対する警告の書として、生き生きとして胸臆をえぐるのである。
 経文は仏の説法である。その時々に、思いつきや逃げ口上でいう無責任な指導者や、支離滅裂な評論家の言々句々とは、天地雲泥の相違がある。宇宙の本質を悟り、永遠の生命観に立脚した仏の言であるがゆえに、絶対に誤りのない真理である。
 また日蓮大聖人は、この立正安国論で述べ、予言された自界叛逆・他国侵逼の両難が寸分の狂いもなく現われたことを証拠として「日蓮に帰せよ」「日蓮が言に随え」と、大確信をもって、正法を教えられるのである。
 文永5年(1268)蒙古より使者が到着した。他国侵逼難の予言的中が明らかとなった時、11ヵ所に当てて認められた公場対決申込みのお手紙を拝してみよう。
 まず、執権・北条時頼への御状には次のように申されている。
 「抑も正月十八日・西戎大蒙古国の牒状到来すと、日蓮先年諸経の要文を集め之を勘えたること立正安国論の如く少しも違わず普合しぬ、日蓮は聖人の一分に当れり未萠を知るが故なり、然る間重ねて此の由を驚かし奉る急ぎ建長寺・寿福寺・極楽寺・多宝寺・浄光明寺・大仏殿等の御帰依を止めたまえ、然らずんば重ねて又四方より責め来る可きなり、速かに蒙古国の人を調伏して我が国を安泰ならしめ給え、彼を調伏せられん事日蓮に非ざれば叶う可からざるなり、諌臣国に在れば則ち其の国正しく争子家に在れば則ち其の家直し、国家の安危は政道の直否に在り仏法の邪正は経文の明鏡に依る」(016901)云云と。
 また、極楽寺良観の御状にいわく、
 「西戎大蒙古国簡牒の事に就て鎌倉殿其の外へ書状を進ぜしめ候、日蓮去る文応元年の比勘え申せし立正安国論の如く 毫末計りも之に相違せず候、此の事如何、長老忍性速かに嘲哢の心を翻えし早く日蓮房に帰せしめ給え」(017401)云云と。
 また多宝寺への御状にも、
 「若し日蓮が申す事を御用い無くんば今世には国を亡し後世は必ず無間大城に堕す可し」(017603
 と申されている
 「日蓮は聖人の一分に当れり」「彼を調伏せられん事日蓮に非ざれば叶う可からざるなり」「早く日蓮房に帰せしめ給え」等、いずれも、日蓮大聖人こそ末法の仏であり、蒙古の襲来の前には風前の灯となった日本国を救う者は自分以外にない、との御確信であられる。
 さらに、多宝寺への御状のごとく、大聖人の教えを実行しなければ、今生には日本を亡国に追いやり、来世には指導者も民衆も無間地獄に堕ちるであろうと仰せられるのは、明らかに末法御本仏の境涯以外の何ものであろうか。
 したがって、この立正安国論は、国家諌暁の書であり、あくまでも謗法を禁ずることを表に打ち出して建言されている。しかしながら、その御本意は、一般学者がいうような、法華経28品を用いることはない。この安国論に予言された自界叛逆・他国侵逼の二難が的中したことを証拠として、日蓮大聖人の教えを受ける以外にないと申されているのである。

広宣流布こそ立正安国の実践
 その時に、大聖人が教えてくださる正法、すなわち立正の正とは何か。これすなわち三大秘法の南無妙法蓮華経である。日蓮大聖人が出世の本懐として建立された一閻浮提総与の大御本尊が三大秘法総在の御本尊であり、この御本尊に帰命すること、その信仰を全世界に広宣流布することが立正安国の実践となるのである。
 三大秘法抄にいわく、
 「問う所説の要言の法とは何物ぞや、答て云く夫れ釈尊初成道より四味三教乃至法華経の広開三顕一の席を立ちて略開近顕遠を説かせ給いし涌出品まで秘せさせ給いし実相証得の当初修行し給いし処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり」(102103
 日蓮大聖人の説法の究極は、三大秘法にあるとの御断言であられる。ゆえに、安国論等で法華経を表に打ち出されているのは、一つには、権教である浄土宗を権実相対の立ち場から破折するために、実教である法華経を立てられたのである。もう一つは、同じく三大秘法抄に、
 「此の三大秘法は二千余年の当初・地涌千界の上首として日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相承せしなり、今日蓮が所行は霊鷲山の禀承に芥爾計りの相違なき色も替らぬ寿量品の事の三大事なり。
 問う一念三千の正しき証文如何、答う次に出し申す可し此に於て二種有り、方便品に云く「諸法実相.所謂諸法・如是相・乃至欲令衆生開仏知見」等云云、底下の凡夫・理性所具の一念三千か、寿量品に云く「然我実成仏已来・無量無辺」等云云、大覚世尊・久遠実成の当初証得の一念三千なり、今日蓮が時に感じて此の法門広宣流布するなり予年来己心に秘すと雖も此の法門を書き付て留め置ずんば門家の遺弟等定めて無慈悲の讒言を加う可し、其の後は何と悔ゆとも叶うまじきと存ずる間貴辺に対し書き送り候、一見の後・秘して他見有る可からず口外も詮無し、法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は 此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり」(102305
 とあるごとく、三大秘法がこの法華経に秘されているがゆえである。
 したがって、今、われら創価学会が一閻浮提の大御本尊に帰命し奉り、その住処を荘厳し、全世界へ化儀の広宣流布の戦いを進めていることは最も大聖人の御真意に叶った行動であると確信するのである。
治術の旨内外の間其の文幾多ぞや
 およそ、三災七難を対治する方法を説いたものは、内道すなわち、仏法においても幾多の説があり、外道においては、さらに多くの諸説がある。
 たとえば、早害等に対して、土地の沼や河川の主と称せられる蛇や竜神等に祈ることは、科学文明の発達した20世紀の昨今においても、少し田舎に行けば盛んに行われているところである。東京や大阪等の大都市において、近代建設の粋を集めたビルの屋上に、稲荷のホコラを祀り、社長以下社員が商売繁盛の祈願をするといった光景も、けっして珍しいことではない。その因って来るとこりは、宗教に対する、悲しむべき無智であることは論を俟たない。
 これと逆に、そうした不合理な行為を排斥するあまり、大生命哲学にもとづく、創価学会の行動をも、迷信とか無智とかで片づけようとする人々も少なくない。このようにいう人々自体、宗教に対する無智ということにおいては、まったく同じである。
 前者は宗教一般に対する無智であり、後者は日蓮大聖人の仏法に対する無智である。前者は宗教そのものを盲信しているのであり、後者は、宗教に関して自己が作り上げた幻影を盲信しているのである。おなじ無智と盲信が一方に肯定と表われ、一方は否定と表われたに過ぎないともいえる。前者は、多くの場合、一般民衆の哀れむべき実態であり、後者は、インテリと自称する人々の悲しむべき実相である。
科学万能主義の誤り
 こうした宗教に無智な現代の人々が例外なく頼るところは科学である。一方で因縁をかつぎ、稲荷や蛇等に祈りを捧げる人々も、科学の成果に対しては、これも盲目的に受け入れる。宗教否定論者に至っては、なおさらである。現代人の科学に対する信頼は、冷静に見る人の眼には、恐らく狂信的と映るほどであろう。
 風邪薬、栄養剤、ビタミン剤、目薬等の洪水は、この現代人の異常心理を如実に物語っている。薬さえ飲めば、ピタリと咳がやんで熱が下がる。疲労は一挙に吹き飛んで、モリモリと元気が出てくる。目がすっきりと美しく澄み、新聞広告の窓からニッコリ微笑んでいる女優のような目になるだろう。 等。その奥底には、現代科学に対する盲目的な信仰があるのである。
 同様のことは、早害や水害、冷害、台風等の天災についてもいえる。世界第一の大都市である東京で、水源地が干上がり、井戸は涸れ、都民は洗濯もできず、飲料水さえ思うに任せない事態になった。都民は一斉に都政の愚を突き、天災にあらず人災であると不満をもらした。果たして、人工降雨や海水を真水に変えてはどうか、などの議論さえ盛んに行なわれた。これも、科学に対する信頼がいかに全幅的なものであるかを物語っているといえよう。
 確かに、科学に頼ることは結構である。また、こうして災難を未然に防ぎ、被害を最小限に止め、民衆の苦難を減らすために、科学の働き得る分野は、無制限に残っている。したがって、科学を一層、急速に発達させ、未開拓の分野を一つ一つ征服していくことは大切である。
 だが、そうなる時を待つのみであっては、現実の民衆の苦しみを解決したことにはならない。10年、20年、100年後は、科学がそのような力をもつようになるかもしれない。また、そのような力をもつことを期待する。だが、それよりも大事なことは今である。未来に期するがゆえに、現在を犠牲にしてよいという法はない。止むを得ないということはあろう。だが、現時点で尽くせる方法があるのならば、それを用いるのが、賢明な指導者である。
 いわんや、科学の発達には、そのプラスの面と共にマイナス面があることも事実である。
 また、ある書は、語る。
 戦後20年、農薬の発達と普及とによって日本の農業、特に稲作技術は一変した。1960年代の日本農業からは、凶作という文字が消えたといっても過言ではない。異常低温や台風があっても、米の収穫高は平年並みである。米に関する限り、日本は万年豊作の国になった。
 農薬はウンカのような害虫を殺し、イモチのような病気を防いでくれるばかりか、雑草も絶やしてくれた。農民は真夏に腰を曲げ草取りの重労働から解放された。日本じゅうの田んぼを、農薬へヘリコプターが飛び回っている。その効用は、どれだけの形容詞を使っても使い過ぎるものではない。
 だが人々がその「効」だけを見つめているとき、その裏側の「罪」がしのびよってきていた。
 昆虫がいなくなったため、受粉できないリンゴの花が、色あせても枯れずに残っていく。やっと見つけたドジョウやフナは奇形だった。飛び出したまま帰ってこない働き蜂と、卵を生めない女王蜂。もだえ死んでいく雌牛。農薬に汚染されている桑を食べたカイコが、酔ったようにはい回り、口から濁った汁を吐き出し、やがて、身体が収縮して死んでしまう。
 こうした農薬の恐怖は、人間にも及んでいる。イモチの特効薬である有機水銀が、稲に少しずつ定着し、それを食べた人間の体内に貯まって“第二の原爆病”を生むかもしれない、といわれている。
 これは、農薬という、きわめて一小部分の科学が生んだ明暗の二面である。原子力の開発がもたらした悲劇については、今さらいうまでもない。この暗黒面の解消んついては、政治と科学とが坦っている重荷といえる。将来、真剣な検討と、綿密な研究とが要求される問題である。
 だが、ここにまた、もう一つの問題がる。それは、複雑、微妙であり、しかも、恐るべきことである。すなわち、こうした「罪」の面については、多くの具眼の士が早くから注目し、事実を挙げて警告しているにもかかわらず、問題が一般大衆の口にのせられるほど重大な事態になるまで、ほとんど顧みられないということである。
 ある問題については、何百人もの人が死んだり廃人になったりして、ジャーナリズムに取り上げられるようになって、初めて真剣に検討されるようになった。ある問題にいたっては、まったく顧みられず、それを世論に訴えようとした良識派は脅迫され、犠牲者は泣き寝入りをしなければならなかったということさえある。
 そこで、浮かび上がってくるのは、たとえば、農薬の例について見ると、ある種類の農薬を作るために、ある大会社は莫大な資金を注いで整備を整え、原料産地とも長期の契約を結んで量産体制している。その販売ルートについても、農業協同組合等と手を組んで、恒久的な体制を築いている。
 もしも、その薬の有害面から、研究しなおし、大幅に作りかえなければならないとすれば、研究資金もかかる。施設の手直しもしなければならない。消費者に対する啓蒙も、大幅な手間がかかる。現料産地との契約も変えなければならない。販売ルートには信用失墜である。第一、有害と認めた以上、即時に生産を停止しなければならないし、おれから新製品の量産にはいるまで、どうやって経営を維持していくのか。
求められる新しい理念と指導者
 しかも、この会社は、与党の保守政治家に莫大な資金を献金しており、その利害はそのまま、有力政治家たちの懐に影響してくる。少なくとも現在の日本においては、そうしたつながりが、政界と財界の間につくられている。したがって、一般農民に対して害を及ぼすことがわかっていても、政治的な圧力で良識の声は封じられ、現存の体制が維持されようとするのは、必然の理である。
 われわれは、ここに、現代政治機構の複雑かつ微妙な裏面を覗き見るとともに、人間生命の汚濁した奥底を知ることができるのである。日本の民衆は、封建時代の昔から「知らしむべからず、依らしむべし」の原則で為政者によって扱われ、「見ざる・聞かざる・言わざる」の態度を強いられてきた。その生活は、いっさいの楽しみやぜいたくは厳禁され、「百姓は生かすべからず、殺すべからず」とさえいわれる。非人間的な生活に馴らされてきたのである。
 日本の為政者の民衆に臨む態度の底辺には、こうした古くからしみついたものがあることも、かなしむべきことである。否定できない事実である。この無慈悲な指導者を追放して、慈悲の政治を実現する以外に、民衆の幸福はない。民衆が目覚め、古い絆を断ち切って、政治に対する無智と無関心を打ち破り、自己の理想へ希望をもって戦うようにならなければならない。
 また、そうした民衆の中から、民衆の苦しみを知り、民衆を愛し、民衆のために戦う、新しい指導者が出現して、政界に出なければならない。
 この民衆と指導者の自覚と奮起のためには、何が必要か。生命を躍動させ、情熱を燃え上がらせる、新しい理念が必要である。個人と社会に関する、力強い哲学が必要である。大衆が心を一つにして団結し、その同じ目的のために力を有効に発揮させていく、指導者が必要である。かつ、科学に対する盲信から現代人を目覚めさせ、科学のみならず現代機械文明の環境の中に自我を見失った現代人に、真の自我を確立させる、根本的なヒューマニズムが必要である。
 この一切の要求に応える唯一のものこそ、日蓮大聖人の色心不二の大生命哲学げあり、創価学会の基本理念であり、仏法哲学の実践による人間革命である。
 過去千数百年にわたって、日本民族の、こうした力強い自覚を隠滅し、無智と無気力におとしいれてきた張本人こそ、浄土宗をはじめとする邪悪な仏教の僧侶たちである。正しい仏法が人間の心を、浄らかで、強く明るくするのに対して、邪な教えは、濁らせ、弱々しくし、理性の眼を閉じさせてしまう。
 このゆえに、民族の生命力は衰え、独創性は消え、分明は沈滞する。思想は陰険となって狭い国土で、骨肉相食み、動物にも劣る醜態を繰り返していく。この正報が依報に反映し、三災七難を呼び起こすことは既に論じたとおりである。したがって「謗法の人を禁めて正道の侶を重んぜば国中安穏にして天下泰平ならん」と申されているのである。

第三章 涅槃経を引き謗法呵責を説くtop

04   即ち涅槃経に云く「仏の言く唯だ一人を除いて余の一切に施さば皆讃歎す可し、 純陀問うて言く云何なるをか
05
 名けて唯除一人と為す、 仏の言く此の経の中に説く所の如きは破戒なり、 純陀復た言く、我今未だ解せず唯願く
06
 ば之を説きたまえ、 仏純陀に語つて言く、 破戒とは謂く一闡提なり其の余の在所一切に布施すれば皆讃歎すべく
07
 大果報を獲ん、 純陀復た問いたてまつる、一闡提とは其の義何ん、仏言わく、純陀若し比丘及び比丘尼・優婆塞・
08
 優婆夷有つてソ悪の言を発し 正法を誹謗し是の重業を造つて永く改悔せず心に懺悔無らん、 是くの如き等の人を
09
 名けて一闡提の道に趣向すと為す、 若し四重を犯し五逆罪を作り自ら定めて 是くの如き重事を犯すと知れども而
10
 も心に初めより怖畏懺悔無く肯て発露せず 彼の正法に於て永く護惜建立の心無く 毀呰・軽賎して言に過咎多から
11
 ん、 是くの如き等の人を亦た一闡提の道に趣向すと名く、 唯此くの如き一闡提の輩を除いて其の余に施さば一切
12
 讃歎せん」と。

 涅槃経には「仏のいわく『ただ一人を除いて、他の一切の人に布施するならば、皆はその布施行を讃嘆するであろう』と、これに対して釈尊の弟子純陀が質問するには『どういう人を名づけてただ一人を除くというのですか』。仏いわく『今ここで唯一人とは破戒のものである』純陀がまた質問する『自分にはどうしてもまだよく分かりませんもっとくわしく教えて下さい』仏いわく『破戒のものとは一闡提のことである。一闡提以外の一切の人に布施すれば、皆讃嘆され大果報を得るであろう』純陀が重ねて質問する『一闡提とはどういうことですか』仏いわく『純陀よ。もし僧尼および俗男俗女が、粗悪なことばをもって正法を誹謗し、そのような正法誹謗の重業を作ってしかもそれを長く悔い改めようとせず心に懺悔しようとしないであろう。そのような人を名づけて一闡提の道に趣くというのである。あるいはまた殺・盗・淫・妄語等の四重罪を犯し、父母を殺す、破和合僧などの五逆罪を作り、しかも自分でそのような重罪を犯すことを知りつつも最初から心に恐れを慎んだり懺悔する心が少しもなく、また仮にそのような心があったとしても、表面には少しもそれを示さず懺悔しない。しかして正法を惜しみ建立する心など少しもなく、かえって正法を破り、悪口をいい、いやしんでその言葉はあやまりだらけであろう。そのような人のことをまた一闡提の道におもむくものとするのである。ただこのような一闡提の人たちを除いて、それ以外に布施するならば、一切が皆讃嘆するであろう」とある。

講義
 
天下安泰・国土安穏は冶術か、謗法の人を禁しめて正道の侶を重んずることであることを明かすに先立って、謗法の人、一閻浮提の人とはいかなる者なのか、また、釈尊は一闡提人をどのように処せよと教えられているのかを、涅槃経を引いて明かされるのである。
 すなわち、涅槃経によれば、一闡提人とは「僧尼男女を問わず、麤悪の言を発し、正法を誹謗し、無間地獄に堕ちる重罪を犯しながら、永く悔い改めず、心に懺悔のない人」であり、「四重・五逆を犯し、その罪を自ら知りながら怖れる心もなく、懺悔もなく、正法を護持しようという心もなく、かえってこれを誹謗するような人」である。
 しかして、今末法において、正法とは、日蓮大聖人御建立の三大秘法の大御本尊である。されば今日において正法を破る一闡提人とは総じて大聖人の仏法を信ぜず、誹謗をし、御本尊を拝さぬ者、またいっさいの邪宗邪義に執着する僧尼及び俗男俗女のことである。なかんずく、正法を毀謗してやまず、一切衆生を不幸のどん底に追いやる各宗派の悪侶こそ、まさしく一闡提中の一闡提であり、涅槃経の指摘する一闡提とは、別してこれを指すのである。
破戒とは謂く一闡提なり
 破戒とは、戒を破る者をいう。戒とは戒めで、外道においては、教祖や、その後継者の立てた各種各様の戒がある。島崎藤村の小説「破戒」が、父の戒を破るという内容であることは周知のとおりである。キリスト教、ユダヤ教ではモーゼの十戒、バラモン教ではヴェーダに記された各種の戒、儒教では孔子の論語、道教では老子、荘子の述作にそれぞれ戒が説かれている。
 経により異なる仏教の戒律
 仏教について戒を見ると、小乗教・権大乗教・実大乗教と、経門の浅深、仏の境涯の高下によって、その意味する実体も違いがある。
 仏教における戒とは、天台大師の菩薩戒疏にいわく。
 「戸羅ここに翻じて戒となす。戒とは何の義があるか、義は警に訓ずるなり、三業を警策し、縁の非を離れて、その因を明らかにするによるなり。古の所伝の如きは、防非禁悪、以って戒と解す。然るに戒は善悪に通ず、律義また然なり。普ねく挙げて以って戒の義を釈すべからざるも、経論の如きは、多く善戒に従う。義に約して名を得たり」と。
 「善悪に通ず」とは、たとえばヤクザの世界にはヤクザの掟がある等の意である。今、仏法においては「非を防ぎ悪を止める」との本来の意義をとって、戒を防非止悪と釈するのである。しかして、これを受持すれば、煩悩業苦の因を離れ、清涼の果を得る故に清涼と訳し、悪を禁じ非を防ぐ故に禁と釈し、悪を止め善を得る故に止得と訳し、好んで善道を行じ、自ら放逸に流れないが故に性善とも釈すのである。
 釈尊の教えの中で、小乗教は戒を中心としたものである。従って、小乗戒は最も数が多く煩雑でもある。なぜ釈尊が戒を重んじたかについて、その背後には、当時のインドの一般民衆の風潮を考えなければならない。即ち、当時のインドでは、享楽主義の傾向が強く、何よりもこの風潮を打ち破る必要があったのである。
 その内容は、俗男俗女に対する五戒・八斎戒、出家のために十戒、また具足戒といって比丘に250戒・比丘尼に500戒、さらに3000の威儀、80000の細行等である。
 これに対して、大乗教では、民衆の済度のために勇猛精進する実践修行が中心となり、小乗の戒は、この実践の中に含まれていると説かれるのである。
 内容としては、梵網経の十重禁戒と48軽戒、涅槃経の菩薩五種戒、事理二戒、軽重二種戒、十種戒、菩薩地持戒等の九種戒、大智度論の八律義戒、二種および三種戒、華厳経の八種戒と十種戒がある。また諸大乗教を通じて説かれている戒として三聚義戒がある。
 三聚浄戒とは、一に摂律義戒といって、いっさいの律義を摂受する義である。律とは律法禁止、儀とは儀制軌範をいう。小乗の五戒・八斎戒・十戒・250戒・500戒はすべて、ここに含まれるのである。
 二に、摂善法戒といって、菩薩が行ずる所の戒は、八万四千法門ならびにいっさいの善法を摂聚するのである。これによって、先の摂律義戒で身・口・意の所作の善の所作の善に加え、聞・思・修の三慧・六波羅蜜等、ことごとく無上菩提に回向することになる。
 三に、摂衆生戒といって、菩薩の四弘誓願である。これによって、菩薩の慈・悲・喜・捨等の一切を摂するのである。
 次に、法華経の戒には、一乗戒、三如来室衣座の戒、四安楽行の戒、普賢四種の戒の四つがある。一乗戒とは、法華経を受持することである。三如来室衣座の戒とは、大慈悲為室、柔和忍辱衣、諸法空為座で、衣座室の三軌ともいう。法師品に説かれている。普賢四種の戒とは、普賢品に「一には諸法に護念せられ、二には衆の徳本を植え、三には正定聚に入り、四には一切衆生を救う心を発するなり」とある。この四法を成就することをいう。
 以上、釈迦仏法の各教法に説かれている戒を見てもわかるように、教法の内容が低いほど戒が煩多で厳しい。したがって、その戒を全うできる人は、階層的にも特殊化され、数の上でも極めて限定されてくるのである。むしろ、小乗の250戒、500戒にいたっては、完全に実行することはできないのが当然といって過言ではない。
 教法が優れていれば優れているほど、煩雑な行法は枝葉末節となって比重が軽くなり、不必要となる。かえって、根本をかくす害悪ともなるのである。実践が簡略化すれば、それだけ、どのような立ち場の人であっても、修行することができる。すなわち、広範囲の衆生を救済することができるので、大乗というのである。
末法の戒は受持即持戒
 
さて、それでは、末法のおいては、何をもって戒とするのか。すなわち、受持即持戒といい、大御本尊を受持することに尽きるのである。
 教行証御書にいわく、
 「此の法華経の本門の肝心・妙法蓮華経は三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為せり、 此の五字の内に豈万戒の功徳を納めざらんや、但し此の具足の妙戒は一度持つて後・行者破らんとすれど破れず 是を金剛宝器戒とや申しけんなんど立つ可し、三世の諸仏は此の戒を持つて法身・報身・応身なんど何れも無始無終の仏に成らせ給ふ」(128210)と。
 御義口伝にいわく、
 「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉り権教は無得道・法華経は真実と修行する是は戒なり防非止悪の義なり」(074402)と。
 大学三郎殿御書にいわく「設い世間の諸戒之を破る者なりとも堅く大小・権実等の経を弁えば世間の破戒は仏法の持戒なり」(1025-)と。
 また四信五品抄にいわく、「問うて云く末代初心の行者何物をか制止するや、答えて曰く檀戒等の五度を制止して一向に南無妙法蓮華経と称せしむるを一念信解初随喜の気分と為すなり是れ則ち此の経の本意なり」(034009)と。
 上に挙げた諸文から、末法における戒は、ただ一つ、三大秘法の大御本尊を信じ、南無妙法蓮華経と唱えることであることは明瞭である。初信の行者に対しては布施、持戒等の五波羅密を廃することである。このゆえに、無量義経では「末だ六波羅蜜を修行する事を得ずと雖も六波羅蜜自然に在前す」と説かれているのである。
 なお、ここで五波羅密を制止するというのは、般若波羅密は、以信代慧の信として、末法修行にも重要な位置を占めてるから、これを除いて五波羅密というのである。
 末法においては、同じく四信五品抄に「末法の中に持戒の者有らば是れ怪異なり市に虎有るが如し此れ誰かず可き」(034112)との伝教大師の言葉を引かれているように、持戒の者はありえない。また、不必要なのである。これを「末法無戒」という。
 この末法無戒とは、題目さえ唱えていれば悪事を働いてもよいという意味ではない。南無妙法蓮華経の修行によって、自然に六波羅蜜の徳、もろもろの戒等が具わってくるのである。
 三世諸仏総勘文教相廃立にいわく、
 「所詮己心と仏身と一なりと観ずれば速かに仏に成るなり、故に弘決に又云く「一切の諸仏己心は仏心と異ならずと観し給うに由るが故に仏に成ることを得る」と已上、此れを観心と云う実に己心と仏心と一心なりと悟れば臨終を礙わる可き悪業も有らず生死に留まる可き妄念も有らず、一切の法は皆是れ仏法なりと知りぬれば教訓す可き善知識も入る可らず思うと思い言うと言い為すと為し儀いと儀う行住坐臥の四威儀の所作は皆仏の御心と和合して一体なれば過も無く障りも無き自在の身と成る此れを自行と云う」(056916)と。
 この文に己心とあるのは、われわれの信心の一心一念であり、仏身とは御本尊である。御本尊に向かって南無妙法蓮華経と唱え奉り境智冥合することが、末法の観心である。受持即観心であり、また受持即持戒となるのである。
 このように、末法においては、正法を受持することが持戒であるので、正法を受持せず、護惜建立の心なく誹謗誹謗する一闡提を破戒というのである。したがって、破戒とは、一往、信心しない人いっさいの人々に通ずるが、再往、一切衆生の善心を破り、不幸をもたらす邪宗教の輩こそ、破戒の中の破戒であることはいうまでもない。
其の余の在所一切に布施すれば皆讃歎すべく大果報を獲ん
 一闡提以外のあらゆるいっさいの人々に布施するならば、皆その行い闡を讃歎するであろうし、また、その行ないによって大果報を得るであろうとの意である。
 涅槃経のこの文は、布施をすることをすすめることに本意があるのではない。一闡提、謗法を排除することを教えるために説かれたことを知らなければならない。それによって、善良の人々が謗法、一闡提となって無間地獄に堕ちるのを防ごう、また、無間地獄に堕ちるべき業因をすでにつくっている謗法、一闡提人をも、悔い改めさせることによって、その罪を軽減させてやろうとの大慈悲であることもいうまでもない。
法の布施と財の布施

 本来、布施には、財の布施と法の布施とがある。財の布施とは物品を与えることであり、法の布施とは、正法をもって衆生を救う行為であり、今われら創価学会が勇猛精進している折伏行がそれである。
 末法の衆生は、貧・瞋・癡三毒熾盛の衆生であるとは、仏の予言である。正しくそのとおり、欲張りで、怒りっぽく、ひがみっぽく、愚かである。もし、こうした衆生を、財の布施のみで幸福にすることができると考えたならば、恐らく大変な失望を感ぜずにはいられなくなるであろう。
 衣食住を満たしてやれば、次はラジオやテレビ、ゴルフセット等々、娯楽品がほしがるようになる。それが満たされると、男なら自動車や飛行機、女なら宝石や貴金属、毛皮のコート等々、恐らく、その欲望は際限なく広がっていくに違いない。そして、自分のもらったものと隣の人がもらったものを較べてみて、あるいは、ひがむ人も出てくるに違いない。恩を感ずるどころか、かえって与えてくれた人を恨み、怒る人も出てくるであろう。
 これに似た事実は、われわれの日常生活で絶えず見受けられる。また、北欧諸国等の社会福祉政策の徹底している国で、民衆が無気力化しているという事実、この一点からも、唯物論的な幸福論や共産主義国家をめざす理想社会、資本主義諸国のいう“豊富な社会”が、いずれも、大きな錯覚の上に築かれた幻の城にすぎないことがわかるのである。
 物の布施には限りがある。だが、法の布施には限りがない。大御本尊の信心を教えることにより、病気の人は健康体に、貧乏の人は金持ちに、精神的異常の人は正常になる。これは、本人が大御本尊に題目を唱え、折伏を行ずることによって境智冥合し、偉大な生命力と福運と智慧とを発揮することができるようになったからである。金や物を与えるのではなく、金や物を手に入れることができる力と智慧と福運が大御本尊を拝むことによって、つちかわれるのである。したがって、この大御本尊を人々に教えてあげること、すなわち折伏は最も偉大な布施行といえるのである。
 而して、その折伏は、三世十方の仏みな讃嘆するのであり、行ずる人はみずから大果報を得る源泉であることを知るのである。
 ここに一闡提の謗法の者に対する布施を禁じられたのは、物の布施であって法の布施ではない。むしろ一闡提人に対しては、物の布施を禁ずることが実は法の布施になるのである。それは一闡提の生命を断ち、不幸の原因を取り除くことになるからである。一闡提人に対しては強折することが、最高の法の布施であり、これは絶対になさねばならないのである。
懺悔について
 一般に懺悔というと、キリスト教独特のもののように思っている人が多い。だが、本来の懺悔とは、仏法にあるのであって、キリスト教のそれは、もともとの「悔悛の秘蹟」といったのを、仏法に無智な人が懺悔と名づけたに過ぎない。
 キリスト教の懺悔とは、カトリック教会で行っている秘蹟の一つである。その考え方は、まず彼らは入信する時の洗礼によって、その受洗者のすべての罪は赦されるとする。しかし、受洗後、罪に堕ちる者もある。この者たちの救いのために、いわゆる悔悛の秘蹟を行なう、というのである。
 悔悛の秘蹟を授ける資格があるのは、司祭と司教で、これを受ける者は洗礼を受けた者に限る。そして、犯した罪に対して心から悔いて、司祭または司教の前で、それをいいあらわさなければならない。司祭、司教は告白者の罪の償いを命じ、赦免の言を与えるのである。
 これは、実に奇妙なことといわざるをえない。司祭、司教といえども、過ち多き人間であることに変わりはないはずである。極端な例だが、ローマ法王庁に陰謀と野心と恐怖と堕落が渦巻いていたのは、その全盛時代に当たる数百年前のことではないか。司祭、司教が教会王国を形成して、農奴や商人を獄卒が囚人を扱うように苛責し、血をしぼり肉をもぎ取ったのも、やはり彼らの全盛を誇った中世ではないか。
 一体、彼らに何の資格があって、人の犯した罪を赦したり、償いを命じたりすることができるのか。彼らこそ、その先輩が、民衆の父祖に対して行った虐待の罪に対し、赦しを乞うというほうが、まだしも筋が通っている。これは要するに、無智な民衆の罪悪感に乗じて、何の関係もない悪者が操ろうとする、詐欺にほかならない。これが、キリスト教の懺悔の実体である。
 それでは、真実の懺悔、仏法の懺悔とは、どのようなものか。法華経の結経である普賢経にいわく、
 「一切の業障海は、皆妄想より生ず。若し懺悔せんと欲せば、端坐して実相を思え、衆罪は霜露の如し、慧日能く消除す」と。
 実相とは、生命の本質、宇宙の極理であり、南無妙法蓮華経である。この大法を日蓮大聖人は一閻浮提総与の大御本尊として、御図顕あそばされたのである。すなわち、経文の心は、いかなる罪の人も大御本尊に向かって端坐し、真剣に題目を唱えるならば、罪は太陽が霜や露を消すようにことごとく消える、との意である。これを大荘厳懺悔というのである。
 上の普賢経の文について、御義口伝には、次のように説かれている。
 「衆罪とは六根に於て業障降り下る事は霜露の如し、然りと雖も慧日を以て能く消除すと云えり、慧日とは末法当今・日蓮所弘の南無妙法蓮華経なり、慧日とは仏に約し法に約するなり、釈尊をば慧日大聖尊と申すなり法華経を又如日天子能除諸闇と説かれたり、末法の導師を如日月光明等と説かれたり」(0786―第四一切業障海皆従妄想生若欲懺悔者端坐思実相衆罪如霜露慧日能消除の事)
 すなわち、法に約して南無妙法蓮華経、人に約して日蓮大聖人、その人法一箇の大御本尊こそ、一切衆生の業障を消滅する慧日なりとの御金言である。
 また、これに加えて、同経には刹利、居士すなわち民衆の指導者として行うべき五種の懺悔の法を説いている。
    第一は、 三宝を謗ぜず、正法を行ずる者に留難をなさず、大乗を持つ者を供養、尊重し、自らは甚深の教法、第一義空即ち、南無妙法蓮華経を心に念ずることでる。
    第二は、 父母に孝養し、師長を恭敬すること。
    第三は、 正法をもって国を治め、人民を邪枉しないこと。
    第四は、 六斉日には、力の及ぶ限り不殺を行ぜしめる。
    第五は、 深く因果を信じ、一実の道を信じ、仏は滅し給わずと知ること。
 である。
 御義口伝にいわく、
 「末法の正法とは南無妙法蓮華経なり、此の五字は一切衆生をたぼらかさぬ秘法なり、正法を天下一同に信仰せば此の国安穏ならむ、されば玄義に云く「若し此の法に依れば即ち天下泰平」と、此の法とは法華経なり法華経を信仰せば天下安全たらむ事疑有る可からざるなり」(0786-第五正法治国不邪枉人民の事)と。
 すなわち、日蓮大聖人の大生命哲学をもって、民衆を、今世はもとより、未来永劫にわたって、平和世界に住せしめることができるのである。

第四章 仙予国王の謗法断絶を示すtop

13   又云く「我れ往昔を念うに閻浮提に於て大国の王と作れり名を仙予と曰いき、 大乗経典を愛念し敬重し其の心
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 純善にソ悪嫉リン有ること無し、 善男子我爾の時に於て心に大乗を重んず婆羅門の方等を誹謗するを聞き聞き已つ
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 て即時に其の命根を断ず、 善男子是の因縁を以て是より已来地獄に堕せず」と、 又云く「如来昔国王と為りて菩
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 薩の道を行ぜし時爾所の婆羅門の命を断絶す」と、 又云く「殺に三有り謂く下中上なり、 下とは蟻子乃至一切の
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 畜生なり唯だ菩薩の示現生の者を除く、 下殺の因縁を以て地獄・畜生・餓鬼に堕して具に下の苦を受く、 何を以
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 ての故に是の諸の畜生に微善根有り 是の故に殺す者は具に罪報を受く、中殺とは凡夫の人より阿那含に至るまで是

0028top
01 を名けて中と為す、 是の業因を以て地獄・畜生・餓鬼に堕して具に中の苦を受く・上殺とは父母乃至阿羅漢・辟支
02
 仏・畢定の菩薩なり阿鼻大地獄の中に堕す、 善男子若し能く一闡提を殺すこと有らん者は 則ち此の三種の殺の中
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 に堕せず、善男子彼の諸の婆羅門等は一切皆是一闡提なり」已上。

 また涅槃経聖行品には「自分は昔、過去世において閻浮提の大王の王となり仙予と名乗っていた。しかして大乗経典を愛念し、敬い重んじてその心は純善であり、粗悪の心や人をねたんだり、物惜しみするようなことはなかった。善男子よ自分はその時大乗を重んずるあまり、波羅門が大乗の実理を誹謗するのを聞いて、即座にこれを殺害してしまった。善男子よ、自分はこの波羅門を殺した因縁によって、それ以降地獄に落ちないのである」とあり、また、涅槃経梵行品には「如来は昔、国王となって菩薩の道を行じたとき、若干の波羅門を殺害した」とある。
 同じく梵行品には「いわゆる殺生の罪は下・中・上の三つがある。下とは蟻の子をはじめ一切の畜生を殺すことである。ただし菩薩の示現生のものは除く。下殺の罪によって地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ち、つぶさに下の苦を受ける。なぜならば諸の衆生にもすべて、わずかではあるが善根がある。その故に殺したならば、その罪報を受けるのである。中殺とは凡夫の人より阿那含果の賢人にいたるまでを中といい、これらのものを殺すと、その業因により、やはり三悪道に堕ちて中の苦をうけるであろう。上殺とは父母をはじめ声聞界の最高位である阿羅漢、縁覚界の辟支仏、不退に入った菩薩を殺す罪であり、これは大阿鼻地獄に堕ちるのである。善男子よもし一闡提を殺すものはすなわちこの三種の殺の中に入らない。善男子よかの正法を誹謗する波羅門等は、一切皆この一闡提である」とある。

講義
 
謗法の者を対治せよと仰せられる裏づけとして、たとえ殺しても仏法上の罪は受けないことを涅槃経の文を引いて証明されるのである。謗法がいかに憎むべきものであるか。その流す害毒がどれほど大きいか、この一事をもってしても瞭然たるものがあるではないか。
 およそ、この経文は、仏法を暖かい慈愛の教えにしか知らない現代人にとっては、驚天動地の説法であろう。「これが、あのお釈迦さまの言ったことだろうか」と耳を疑う人もいるかもしれない。そのような人は、まず、自己がこれまで持っていた仏法観が、まったく皮相的であったことを知るべきである。そして、仏のもつ深遠な哲理、力強い指導性を、心を謙虚にして求めるべきである。
 すでに、多くの経文を引いて、繰り返し論じられてきたように、三災七難の根本原因は、この社会に、邪法、邪宗がひろまっていることにある。飢饉・疫病・戦乱・水害・早害・冷害等々の天災や人災によって、死んでいった人々の数は、測り知ることすらできない。
 すなわち、これらの人命を奪い、民衆の生命力を衰えさせ、国土を荒廃させた張本人こそ、謗法、一闡提の僧たちなのである。彼らは魔物以外の何ものでもない。しからば、魔物を対冶して、人々が安心して生活していける社会にしていくことは為政者の義務である。この道理から、謗法の命を断ぜよと仰せられているのは当然といえるのである。
 法蓮抄には、この安国論の要点を、みずから次のように示されている。
 「彼の状に云く詮取此の大瑞は他国より此の国をほろぼすべき先兆なり、禅宗・念仏宗等が法華経を失う故なり、彼の法師原が頚をきりて鎌倉ゆゐの浜にすてずば国正に亡ぶべし等云云」(105305
 また、撰時抄にいわく、
 「去し文永八年九月十二日申の時に平左衛門尉に向つて云く日蓮は日本国の棟梁なり予を失なうは日本国の柱橦を倒すなり、只今に自界反逆難とてどしうちして他国侵逼難とて此の国の人人・他国に打ち殺さるのみならず多くいけどりにせらるべし、建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきはらいて彼等が頚をゆひのはまにて切らずば日本国必ずほろぶべしと申し候了ぬ」(028711
 上の御文に拝されるように、日蓮大聖人自身も、涅槃経の文によって「邪宗の者どもの頸を切れ」と叫ばれたのである。これひとえに謗法を憎むゆえであって、人殺しを承認されているのではない。仏の慈悲は、母の慈愛ではない。父の厳愛に譬えられる。一切衆生を慈愛するからこそ、悪に対しては厳格である。
 ゆえに、この後の文で「釈迦の以前仏教は其の罪を斬ると雖も能忍の以後経説は則ち其の施を止む」と申されているのである。日寛上人は「頸を斬れ」とは対治悉檀、「施を止めよ」は為人悉檀に約すと教えられている。すなわち、謗法の心を断ち切り、謗法の行為を殺せとの意である。
 今、われら創価学会員が、既成宗教各派、新興宗教の輩を、堂々たる折伏戦、言論戦をもって責め、彼らの邪義・邪法を完膚なきまでに打ち破るのは「頸を斬れ」とのお心に応えることになるのである。また、彼らに迷わされて、檀信徒、会員となっている民衆を、正義に目覚めさせて、邪宗教から離れさせているのは「施を止む」に叶う行為といえよう。
生命の尊厳
 生命の尊厳を余すところなく説ききった哲学は仏法以外にない。仏法こそ最高唯一の生命哲学である。
 およそ、人間生命について、人は古来、おのおのの立ち場から、さまざまに考えてきた。だが、それらは、単に表面のみを見た皮相的なものであり、かつ、部分観である。したがって、実に千差万別である。ここでは、一応、性善説とに分けて考えてみよう。
 まず、性善性に属するものに、孟子がある。彼いわく「人性の善なるや、なお水の下に就くが如きなり」と。すなわち、人の性は水が高きより低きに流れるごとく、自然に向かうもなだというのである。書経にいわく「人は万物の霊」と。すなわち、人間は生まれつき性善であるというのが、性善説の主張である。
 これとまったく反対に、人間は本来、悪の性分であるというのが性悪説である。荀子のいわく「人の性は悪、その善なる者は偽りなり。 古の聖王、人の性悪なるをもって、これが為に礼儀を起し、法度を制し、もって人の惰性を矯飾してこれを正す」と。すなわち、性悪なるがゆえに、礼、法が必要だというのである。
 過去の思想をみるに、一般に洋の東西を問わず、性善説より性悪説の方が優勢であったようである。アメリカのプラグマティズムの創始者、ジェームズも、性悪論者の一人である。いわく「生物学的に考察すると、人間は最も恐ろしい猛獣であり、しかも同じ種族を組織的に餌食にする唯一の猛獣である」と。この言葉は、戦争の残酷さ、愚かさ、ヒトラーやスターリンの行った大量虐殺等を思い合わせてみると、首肯せざるをえない真理を含んでいるともいえる。
 また、こうした、互いに相反する性善・性悪両説の中庸をとって、本来、両面があるのだとする考え方も古くからある。たとえば、中国の楊雄が「人の性は善悪混ず、其の善を修むれば善人となり、其の悪を修むれば悪人となる」といい、ヨーロッパではアウグステイヌスが「神は人間を、その本質が天使と獣類との中間に存するものとして作り給えり」というのが、それである。
 今、結論的にいって、両面説が真実に近づいていることはいうまでもなかろう。但し、それが、どうしてそうなのかを、生命の奥底から解明するには、仏法の十界論、一念三千論に求めるいがいにはない。治病大小権実違目に大聖人は、次のように説かれている。
 「善と悪とは無始よりの左右の法なり権教並びに諸宗の心は 善悪は等覚に限る若し爾ば等覚までは互に失有るべし、法華宗の心は一念三千・性悪性善・妙覚の位に猶備われり元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(099706)と。
 また、三世諸仏総勘文教相廃立にいわく、
 「善に背くを悪と云い悪に背くを善と云う、故に心の外に善無く悪無し此の善と悪とを離るるを無記と云うなり、善悪無記・此の外には心無く心の外には法無きなり故に善悪も浄穢も凡夫・聖人も天地も大小も東西も南北も四維も上下も言語道断し心行所滅す」(056310)と。
 ここに善といい悪というも、生命の本体と外界との関係性の問題であり、善悪一如なるところが、生命の実相であると明かされている。今の下にいわく「然れば八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり、此の八万法蔵を我が心中に孕み持ち懐き持ちたり我が身中の心を以て仏と法と浄土とを我が身より外に思い願い求むるを迷いとは云うなり 此の心が善悪の縁に値うて善悪の法をば造り出せるなり」(056317)と。
 生命の尊厳というも正しい生命観に立った上での生命尊重でなければ、生命尊重といっても、所詮は空理空論である。
 性善説に立つ人も、性悪説を唱える人も、およそ狂人でもない限り、生命の尊厳については必ず認める。それは本能的な生存意識から出てくるものともいえる。しかしながら、生命を惜しむことが心の奥底にはそれを感じながら、封建的な道義感や騎士道精神が優先して、むしろ卑怯とされる傾向も少なくなった。
 ヨーロッパ哲学において、人間生命の尊厳こそ価値の実体であることを明言したのは、ドイツの哲人カントであった。すなわちいわく「人間は単なる手段でなく目的であり、世界の内なる一切のものは、それ自身の価値をもたないが、ひとり人間のみは人格として価値をもつ。この人格の内なる人間性を尊重するという価値感情が尊厳である」と。
 これは価値哲学の立ち場から、生命の尊厳なる所以を説いた言葉である。その意味では、従来の漠然たる尊厳論より一歩進んだものといえる。
 いっさいの人間の活動は、いいかえれば、その生命の働きである。しかして、その活動の成果が、生命の幸福増進に帰着することが、万人共通の願いである。人間の生命、またその活動が国家のため、政治、経済等の機構のため、機械等の物質のために犠牲にされることは不幸というほかない。いわんや、人間の叡智、努力が、人類を破滅させるために費やされるとすれは、これは最大の悲劇である。
 われわれは、あくまでも生命尊厳をすべてに優先し、一切の思想、行動の根幹としていかなければならない。また、そのような世界にしていかなければ、人類の幸福、平和もありえないであろう。
 しかるに現実は、現代ほど人間性が危機にさらされた時代はかってない。ヒューマニズムという思想は古代からあった。しかるに、人類はこの思想を一度として確立したことはないのである。どうしてそうなのか、これを知るためには生命尊厳の思想が、どのように移り変わってきたかを、振り返ってみる必要がある。人間生命の尊厳を守るという時、いったい、何に対してか、いかなる事態からか、ということを明らかにしなければならない。
真のヒューマニズムの確立
 人間生命を何よりも尊重すべきであるという考え方をヒューマニズムという。これは美しい言葉である。だが、問題は二人の人間、二つの階級、二つの民族が不俱戴天の敵同士になったとき、そのヒューマニズムは何に対してのヒューマニズムになるかである。
 古代ギリシァでヒューマニズムが叫ばれた時、それは多くの奴隷たちを度外視したものであった。否、婦人たちさえも、このヒューマニズムの対象から除かれていたのである。
 ヨーロッパ中世においても同様である。それは、特権的な貴族たちだけのヒューマニズムであったり、ブルジョアだけのものであった。この下にうごめく、かれらの衣食住を作っている民衆は、まったく存在を考慮されてはいなかった。近世、近代における民衆もしかりである。
 マルクスがプロレタリアートの団結を叫び革命を呼号したのも、所詮は、この虐げられ、無視された人々のヒューマニティーのためであった。だがプロレタリア独裁への革命を叫ぶ彼の思想は、旧来の支配階層の人々のヒューマニティー、革命体制に反対する人々のヒューマニティーを必然的に無視せざるをえなかった。
 一部の人のみヒューマニズム、他を犠牲にしてもかまわぬという思想は、これを極限に押しすすめた時、ドイツ民族を至高とし、スラブ民族をそれに仕える奴僕とし、ユダヤ民族は虐殺せよと説いたナチズムとなる。
 また、白人のみのヒューマニズムが、黒人虐待、有色人種蔑視として、今も幾多の惨事を惹起していることは、周知のとおりである。南アフリカのアパルトヘイト、アメリカの黒人問題、ソ連における黒人留学生冷遇事件等、数え挙げれば際限がない。
 人類数千年の歴史は、まさに異なる民族同士の相克の歴史であり、異なる階級同士の闘争の歴史である。民族と民族、階級と階級とがおのおの異なっても、相手の人格を認め尊重し合い、それぞれ特性を生かして平和に暮らしていける日は、いつくるのであろうか。否、いかにすれば実現できるであろうか。
 われわれは、人間の人間に対する、こうした幾多の考え方の実相を見た時、その根底にはなんらの哲学、理論もないことに気づく。何をもって人間生命を尊しとするか。生命とはいったい何か、等の問題については誰人も末だ明快な解答を出していない。ただ漠然とした気持ちの上に立ってヒューマニズムが云々されているに過ぎない。
 それはあたかも根のない木であり、土台のない家であり、生命のない大理石の像であり、エンジンのない自動車のごときである。見た目は美しくも生命がなく、人々の争いを解消する力もなく、いったん、国際情勢の急変によって戦争が始まるか、あるいは独裁者が出現してテロを使い始めるような事態にもならば、忽ちにして吹き飛んでしまう、はかない存在である。
 今、世界の人類は、人間の尊厳が脅かされている未曾有の危機に直面している。機械文明の発達による人間疎外、人類32億を一瞬に抹殺してしまう原水爆戦争等、これらは過去のいかなる時代にもなかった現象である。国家と国家、民族と民族、階級と階級とが互いに分かれて争っている間に、その勝者も敗者も共に絶滅してしまう恐るべき敵が迫ってきているのだ。しかも、それは人間がみずからの手で作り出したものなのである。
 したがって、世界平和こそ、人類が直面している最大の課題であり、他の何ものにもまして守らなければならないのは、人間生命であるとの思想が確立されなければならない。
仏法の中に説かれている尊厳論
 しかるに、人類の叡智といわれる人々が、今なしていることは何か。国連総会、軍縮協定、核実験停止条約、平和アピール等々である。言葉は美しいが、いざ行動となると、その根底には、自国の利益があり、思想の対立があり、民族的偏見が相変わらず拭い去られてはいない。その対立が、新しい紛争を惹起し、憎悪のもつれ合いを深めている。
 われらは、生命の尊厳を、本格的に自覚する道は、東洋仏法の真髄、日蓮大聖人の生命哲学による以外にないことを、全世界の民衆に、指導者に、訴えてやまない。この自覚に立ったならば、国家的利益も、思想の対立も民族的偏見も、高山から沼沢を見下すがごとく明らかとなり、こうしたものに捉われて、いたずらに争いや対立を繰り返すことの愚が、はっきりと自覚できるのである。
 日蓮大聖人の白米一俵御書にいわく、
 「いのちと申す物は一切の財の中に第一の財なり、遍満三千界無有直身命ととかれて三千大千世界にみてて候財も.いのちには・かへぬ事に候なり」(159604)と。
 三千界、三千大千世界とは、古代インドの宇宙観の一つである。現代の天文学的知識をもって考えるならば、銀河系宇宙に相当する。地球一個に含まれているあらゆる宝、富といえども、一個の人間の命には代えられないとの意である。これはどの人間生命の尊厳を説ききった哲学・宗教・思想が他のどこにあろうか。
 だが、この尊厳論に較べて、現実の人間はあまりにも弱く、あまりにも惨めである。戦時中の日本では、立った一枚の徴兵礼状で、生命を捨てなければならなかった。今も、多くの国で、それは現実問題として、存在している。その他、飢えて死んでいく人、病気に倒れて死ぬ人、ふとした手違いで死んでいく人、憎まれ殺される人、わずかの金を奪われて死んでいく人、災害で死んでいく人等々、これでは、仏法が説く尊厳を、いったい誰が保障してくれるのか。仏法が説くところは、現実離れしているのではないか、という疑問が湧いてくる。
 だが「仏語実不虚」仏の言葉は真実にして誤りなしと、仏みずからが断言されている。そして、その尊厳を、単なる観念論ではなく、事実の上に確立していく方法として、仏道修行を教えられているのである。この仏道修行を全うして、目的である仏界の生命を湧現した時に初めて、この尊厳が、単に頭の中で描いたり、言葉で表現したものではなく、自己の生命力、充実感、外界に対処する力と智慧として実証される。すなわち、永遠の生命観、宇宙即我の境涯を実感し、一念三千の法理を悟った時に、わが生命は、常楽我浄の人生を生ききっていくことができるのである。
 およそ、自己という存在を価値のあるものに高めていく責任は、所詮、自己自身が負っている。もとより、世間では、生まれつきの家柄や身分、周囲の人とのつながり等が左右することもあろう。しかし、それは、その人の本質的なものに関係するのではなく、表面だけのことに過ぎない。いっさいの飾りを取り去った後に残る真の自分は、やはり自分の責任である。
 科学者は、科学者として研究と実験と思索を重ねていかなければ、立派な科学者になることはできない。事業家しかり、政治家しかり、技術者しかり、教育者しかり。しかして、それらはすべてに共通な人間としての力、人間としての価値、人間としての尊厳、その向上、教育、鍛錬の最高唯一の道こそ、仏法の修行、信行学に励むことである。
 すなわち、日蓮大聖人の教えを信じ、自行化他にわたる南無妙法蓮華経を信じ、東洋仏法の真髄、色心不二の大生命哲学を学びきっていく以外にない。また、その御遺命を奉じ、化儀の広宣流布達成へ、不惜身命の戦いをなしきっていくことが、自己の人間完成、一生成仏への大道である。
 されば、これを妨げんとする者は、人類にとって最大の敵であり、最も憎むべき魔物なりと断じて、何の言い過ぎであろうか。
 涅槃経にいわく、
 「菩薩摩訶薩、悪象等において心に怖畏すること無く、悪知識においては怖畏の心を生ぜよ、何をもってのゆえに、この悪象等は唯よく身を破りて心を壊る能わず、悪知識は二倶に壊るゆえに、この悪象等は唯一身を壊り、悪知識は無量の善身無量の善心を壊る。この悪象等は唯よく不浄の臭き身を破壊す、悪知識はよく浄身および浄心を壊る。この悪象等はよく肉身を壊り、悪知識は法身を壊る。悪象のために殺されては三趣に至らず、悪友のために殺されては必ず三趣に至る、この悪象等は但身の怨となり、悪知識は善法の怨とならん、このゆえに菩薩、常にもろもろの悪知識を遠離すべし」と。
 悪象とは、凶悪で、手に負えない力がある、最も恐ろしい野獣として、インド人が恐れたものである。現代人に当てはめれば、近代兵器、核爆弾等に譬えられようか。それよりも恐るべきは悪知識、すなわち、邪法邪義によって民衆を導き、無間地獄に突き落とす謗法の僧等である。
 ゆえに、これらの謗法の僧を憎み、彼らを追放し、善良なる民衆を天魔波旬の凶手から守ることは、最も偉大なヒューマニズム運動といえるのである。
是の因縁を以て是より已来地獄に堕せず
 釈尊が過去、仙予国王として、菩薩の道を行じていた時、婆羅門が正法を誹謗するのを聞いて、即座にその命を断った。この正法を護惜建立する心によって、以来、地獄に堕ちないという善根を作ったのである。
 次に引かれている経文のように仏法上、殺生の罪に三種の別がある。下殺とは蟻の子から牛や豚、猛獣にいたるいっさいの畜生を殺す罪である。これらにも、微笑ながら善根があるから、殺した者は、その度合に応じて地獄・餓鬼・畜生界の苦を受ける。だが、殺した善根が微笑であるゆえに、下の苦すなわち軽い苦しみですむというのである。
 同様にして、中殺とは、凡夫で小乗の悟りである。声聞の四果の中の阿那含までの人を殺した罪である。先の畜生に較べて、これらの人・天・声聞の衆生は、はるかに大きい善根を持っているから、より大きい苦を受ける。
 上殺は、声聞の最上の悟りである阿羅漢から、辟支仏すなわち縁覚、不退位の菩薩、また自分の父母を殺す罪で、これは地獄の中でも、最も恐ろしい阿鼻地獄に堕ちるのである。ここで実に1中劫、20小劫の間、苦しまなければならないといわれている。1小劫は、通説によると、1600万年から2000年を引いた159,980,000年であるから、想像もつかない恐ろしさである。
 さて、殺生の報いは以上のとおりであるが、正法誹謗の者は、上の畜生にもはいらないのである。その因縁を佐渡御書に、次のように説かれている。
 「般泥オン経に云く「当来の世仮りに袈裟を被て我が法の中に於て出家学道し懶惰懈怠にして此れ等の方等契経を誹謗すること有らん当に知るべし此等は皆是今日の諸の異道の輩なり」等云云、此経文を見ん者自身をはづべし今我等が出家して袈裟をかけ懶惰懈怠なるは是仏在世の六師外道が弟子なりと仏記し給へり、法然が一類大日が一類念仏宗禅宗と号して法華経に捨閉閣抛の四字を副へて制止を加て権教の弥陀称名計りを取立教外別伝と号して法華経を月をさす指只文字をかぞふるなんど笑ふ者は六師が末流の仏教の中に出来せるなるべし、うれへなるかなや涅槃経に仏光明を放て地の下一百三十六地獄を照し給に罪人一人もなかるべし法華経の寿量品にして皆成仏せる故なり但し一闡提人と申て謗法の者計り地獄守に留られたりき彼等がうみひろげて今の世の日本国の一切衆生となれるなり」(095816)と。
 すなわち、正法誹謗の徒は地獄の衆生なりとの御断言である。
 しかして、正法誹謗のために地獄において受ける苦は、現世に悔いても千劫の長きにわたる。悔いない者は無数劫の間、無間地獄に沈淪するのである。訶責謗法滅罪抄にいわく、
 「法華経誹謗の者は心には思はざれども色にも嫉み戯れにもソシる程ならば経にて無けれども法華経に名を寄たる人を軽しめぬれば上の一劫を重ねて無数劫・無間地獄に堕ち候と見えて候、不軽菩薩を罵打し人は始こそ・さありしかども後には信伏随従して不軽菩薩を仰ぎ尊ぶ事・諸天の帝釈を敬ひ我等が日月を畏るるが如くせしかども始めソシりし大重罪消えかねて千劫・大阿鼻地獄に入つて二百億劫・三宝に捨てられ奉りたりき」(112507)と。
 謗法の重罪がいかに恐るべきか、この文に明らかである。
 したがって、このような重罪をつくる謗法を斬る、すなわち命を断ずるということは、殺生の罪を受けないのみでなく、自身が絶対に地獄に堕ちない原因をつくったことになるのである。
 もとより、仙予国王の場合は婆羅門を殺したのであるが、釈尊以後の仏法においては、布施を止めることが、正しいあり方である。また「殺す」というのも、その肉体を殺すのではなく、この謗法の心を殺すとの意に解すべきである。
 今、われわれが折伏を行じ、世のいっさいの謗法に対して果敢な攻撃を展開していることは、この経文の元意に照らして、永久に地獄に堕ちないという原因をつくっているのである。また、われらの折伏戦によって、既成仏教の僧侶たちも、新興宗教の指導者たちも、生存を脅かされ、減少しつつあることは、地獄の獄卒を退治していることに通ずるではないか。
 大聖人のいわく「無間地獄の道を塞ぎぬ」と。地獄の獄卒が横行している仏国土などありえない。仏の弟子として、仏国土建設のため、民衆を一人として地獄へ落とさぬために、この世界から悲惨の二字を追放しきるまで、折伏んつぐ折伏を勇気百倍して続けていくのである。

第五章 守護付属の文を挙ぐtop

04   仁王経に云く「仏波斯匿王に告げたまわく・是の故に諸の国王に付属して比丘・比丘尼に付属せず何を以ての故
05
 に王のごとき威力無ければなり」已上。

 仁王経には「釈尊が波斯匿王に告げていわく。正法を護持するためにはどうしても武力・権力が必要であるから、僧尼に付属しないで、諸の国王に付属するのである。なぜかならば、謗法の悪人が武力で仏法を破ろうとする時に、僧や尼には、王のような威力がないからである。」とある。

講義
 
この人王経受持品の文は、守護付属の依文である。国王とは、君主政治における王であるが、総じて、政治権力を持つものである。したがって、民主主義社会にあっては主権在民であり、この国王とは民衆から選ばれた政治家と解することもできるが、正法を証明させ納得させる力、すなわち、広宣流布への不自惜身命の信心をもって前進していく力である。
弘宣・伝持・守護の三付属
 守護付属とは何か。仏が説かれた法を受け継ぎ、それを流布する使命は仏弟子にある。如来の法を如来の使いとして説き弘め、全世界を信仰せしめる実践がなければ弟子ではなく、そこには師弟相対の原理は成り立たない。仏が弟子に令法久住のために法を授け、その広宣流布の使命を託すことを付属というのである。
 しかしながら、一言に流布するといっても、そのためには、あらゆる角度の条件が整わなければならない。また、様々の立ち場からの働きをする人が出なければならない。
 四条金吾殿御返事にいわく、
 「正法をひろむる事は必ず智人によるべし、故に釈尊は一切経を・とかせ給いて小乗経をば阿難・大乗経をば文殊師利・法華経の肝要をば一切の声聞・文殊等の一切の菩薩をきらひて上行菩薩をめして授けさせ給いき、設い正法を持てる智者ありとも檀那なくんば争か弘まるべき・ 」(114801)云云と。
 また、法華初心成仏抄にも
 「末法今の世の番衆は上行・無辺行等にてをはしますなり此等を能能明らめ信じてこそ法の験も仏菩薩の利生も有るべしとは見えたれ、譬えばよき火打とよき石のかどと・よきほくちと此の三寄り合いて火を用ゆるなり、祈も又是くの如しよき師と・よき檀那と・よき法と此の三寄り合いて祈を成就し国土の大難をも払ふべき者なり」(055015)と、仰せである。
 日寛上人は撰時抄文段に弘宣・伝持・守護の三つを立てて、次のように述べられている。
 「一には弘宣付嘱、謂く四依の賢聖は釈尊一代所有の仏法を時に随い機に随い演説流布するなり、嘱累品に云く『若し善男子・善女人あって如来の智慧を信ぜん者には、当に為に此の法華経を演説し聞知することを得せしむべし、其の人をして仏慧を得せしめんが為の故に、若し衆生有って信受せざらん者には、当に如来の余の深法の中に於て示教利喜すべし』と。此の中に余の深法と云うは爾前の諸経なり、既に法華経に対して余と云う故なり、若し台家の意は余の深法只是れ別教、余法深教は即三教に通ず云云。但し次第三諦所摂を以ての故に爾前の諸経は即是れ三教なり、故に大義異なること無きなり。
 二には伝持付属、謂く四依の賢聖は如来一代の所有の仏法を相伝受持して世世相継いで住持する故なり、涅槃経第二に云く『我今所有の無上の正法悉く以て摩訶迦葉に付嘱す。当に汝等の為に大依止と作ること猶如来の如くなるべし』等云云。統紀四に此の文を釈して云く『迦葉能く世に継で伝持するを以てなり』又第五に云く『迦葉独り住持に任ず、是れを以て祖祖相伝住断えざるなり』楞厳疏に云く『覚性三徳秘蔵に安住し、万善の功徳を持して失わざる故に住持と云うなり』今寺主以て通じて住持と云うは此れ等の意に依るなり』云云。
 三には守護付属、謂く国王檀越等如来一代所有の仏法を、時に随い能く之れを守護し法をして久住せしむるなり、涅槃経第三に云く『如来・今無上の正法を以て、諸王・大臣・宰相・比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷に付嘱す、是の諸の国王及び四部の衆応に諸学人等を勤励して戒定慧を増長するを得せしむべし』又涅槃経に云く『内に智慧の弟子有って甚深の義を解り、外に清浄の檀越有って仏法久住す』等云云。此の中に戒定慧は一代及び三時に通ずるなり、若し末法に在っては文底秘沈の三箇の秘法なり、具に依義判文抄に會て之を書するが如し、故に之れを略するのみ」と。
守護付属実践する創価学会
 守護付嘱は、国王檀越等、すなわち在家の者に対して、大聖人の仏法を守護し永久にこれを伝えていきなさいとの御命令あそばされたのである。妙法流布の方程式といえよう。
 さて、時に随いとは、一国の謗法、軍部の正法弾圧が第二次大戦の大敗北をもたらし、大聖人の他国侵逼難の御予言が正しく事実となって現われた。神道を中核に行われた宗教統制は、信教の自由によって崩れ去り、既成仏教の勢力もまた、経済的基盤を奪われた。宗教は宗教の場で、純粋に正邪を争うことができる舞台が作られたのである。これすなわち、広宣流布の時が来た証拠ではないか。
 機に随いとは、神道も仏教も、封建思想とともに、その権威を失墜してしまった。その空虚に乗じて、戦後、一方ではキリスト教が、もう一方からは共産主義が洪水のように流入した。だが、それらは、大乗仏教によってきた高度な日本民衆の心を捉えることはできなかった。ごく一時的に、軽薄な人々にもてはやされはしたが、所詮、思想的混乱を生むものでしかなかった。今はそのどちらも、音楽やダンス等の誤楽で、ムードに弱い、ごく少数の青年たちを引き留めているに過ぎない。
 今、民衆は、力ある新しい理念を欲している。生命の奥底から希望と勇気と確信を湧現していくことのできる哲学・宗教を欲求している。巨大な機械文明、複雑な社会機構、恐るべき核戦争の脅威、人類の前に立ちはだかるこれらの問題は、正しく未曾有の難問である。それを解決していく生命力、叡智、そして団結の絆は、日蓮大聖人の色心不二の生命哲学に求める以外にない。
 国王とは、現代に約していえば、一往は総じて民衆である。再往は、その民衆のなかから選挙によって議員となり、大臣となり、政治権力をもって正法を守護し、民衆の幸福のため、広宣流布のために戦っていけとの仏勅と拝すべきであろう。
現代の国王とは民衆のこと
 しかして、その国主とは、国家の主権を持つ者である。鎌倉時代においては幕府の執権であり、江戸時代は徳川将軍、明治以降は天皇であった。現代においては、主権在民なるがゆえに、民衆である。
 よく「国王」という言葉に対する封建時代からの考え方が抜け切らぬためか、権力を利用して辿るのではないか等の疑惑を懐く人がある。むしろ、その旧来の思想に毒された感覚を哀れに思わずにはいられない。
 弘宣流布とは、民衆が胸を張って「国主とはわれわれのことである」と叫び、かつ行動していける、真の民主主義の現実であるとさえいえる。すでに日蓮大聖人は700年前に、この理念を示されている。かつ、大聖人の御一生は、上下貴賤を問わず、全民衆救済に身命をなげうたれての戦いの連続であられた。われわれが実現せんとしているのは、仏法民主主義の根源であり、最高の模範は、大聖人の御振舞にほかならないのである。
 広宣流布達成の儀式がいかなるものであるかは、われわれ凡智をもって測り知ることはできない。だが、それがいかなるものにせよ、その時こそ、民衆が心の底から幸福を享受できる時代であり、国が最高に繁栄した時代であることだけは断言できる。そして、民衆が心から希望し、喜び、期待する中に、広宣流布の儀式は行われるのである。
 法華初心成仏抄にいわく、
 「法華経を以て国土を祈らば上一人より下万民に至るまで悉く悦び栄へ給うべき鎮護国家の大白法なり、但し阿闍世王・阿育大王は始めは悪王なりしかども耆婆大臣の語を用ひ夜叉尊者を信じ給いて後にこそ賢王の名をば留め給いしか、南三・北七を捨てて智顗法師を用ひ給いし陳主・六宗の碩徳を捨てて最澄法師を用ひ給いし桓武天皇は今に賢王の名を留め給へり、智顗法師と云うは後には天台大師と号し奉る最澄法師は後には伝教大師と云う是なり、今の国主も又是くの如し現世安穏後生善処なるべき此の大白法を信じて国土に弘め給はば万国に其の身を仰がれ後代に賢人の名を留め給うべし」(055007)と。
空前の宗教革命
 フランス革命は、ルソー、モンテスキュー思想を根底に、政治革命をもってフランス社会を復興させた。ロシア革命はマルクス・レーニン思想によって経済・政治革命を行ない、ロシア民族の生命を更新した。また、現在の中国は、マルクス、毛沢東の思想をもって、その革命を成し遂げた。
 これらの革命は周辺の諸国に大きい波動を与え、後世に幾多の教訓と手本を残した。そこに果敢に戦い、革命のために命を捨てた人々の名は、歴史の上に永久に記念されている。だが、悲しいかな、思想の低級さのゆえに、流血の惨事を免れることができなかった。
 今、われわれがなさんとする事業は、日蓮大哲学を生命哲学を根底に、偉大なる宗教革命を成し遂げようとするものである。3000年前の仏教、2000年前のキリスト教、1000数百年前のイスラム教は、世界の文明を一変させ、現代をも、なお規制しているといっても過言ではない。
 しかし、これらの諸宗教は、今や形骸化し、新しい息吹きを生み出す力は消失した。現代世界の人類の要求に応えて出現する大聖人の仏法は、色心不二の最高の哲学である。この宗教革命が、現代の政治・経済・教育・科学・芸術等のいっさいの分野に、若々しい、力強い、新しい生命を呼び起こしていくことは、当然である。さらに末法万年尽未来際にわたって、源泉となることも絶対に間違いないと確信するものである。
 されば、今、この偉大なる宗教革命の先駆として、日本の広宣流布のために戦うことは、何とすばらしい栄誉ではないか。われわれの活動が全世界より模範とあおがれ、後代永久に名をとどめることになるのである。歓喜勇躍して、偉業達成へ前進していこうではないか。
 また、現在、創価学会に対し、悪口をいい、つとめてその意義を過小評価しようとする人々も少なくない。後世の人々から、陰険で小心な、時流を知らぬ、愚か者であったと笑われぬよう、眼を開いて真実を認識すべきであろう。

善男子正法を護持せん者は五戒を受けず威儀を修せず応に刀剣・弓箭・鉾槊を持すべし
 仏の正法たる日蓮大聖人の大御本尊を受持した者は、五戒を修する必要はない。御本尊を受持することが持戒になるからである。このことについては前述したとおりである。
 さらに日寛上人の安国論の文段には、次のように仰せである。
 「余
疏十・十三。経にいわく『いわゆる正法とはすなわちこれ如来の微密の蔵なり』と云云。ゆえに正法とは意・実に文底の秘法を指すなり。今文の『護持正法』とは正しく在家の護法を明かすなり、ゆえに章疏四・三十三にいわく『善男子護持正法は広答、二となす、一には在家・二には出家なり、在家の護法はその元心の所為を取る、事を弃て理を存して匡しく大教を弘むゆえに護持正法という、小節にかかわらざるゆえに不修威儀という』と。開目抄下にこの疏文を引いて『出家在家の護法』というのは出家の二字・恐らくは剩せりこれ科目なり何ぞ釈文とせんや、蒙九・七十のごとし、『恐らくはこれ後人の写し謬りなるべし』云云」と。
 ゆえに、ここで「正法を護持せん者」とは、在家の護法を明かすことは明白である。それでは、在家はどのような修行、活動が正しいかといえば「
刀剣・弓箭・鉾槊を持すべし」と説かれているのである。また、五戒を持する者は大乗の人といえない。正法を護ることが大乗であり、そのために、正法を護る人は刀杖等の武器を持つべきであるというのである。
 いうまでもなく、この当時は、武力専横の時代である。国内に悪人が充満しても、これを取り押さえる警察力もなかった。したがって、謗法の者が武力をもって正法を圧迫することは常套手段であったし、彼らから正法を護るためには武力による以外になかったのである。
 ゆえに、この経文を見て、仏教は武力主義かというのは、およそ見当違いも甚だしいといわなければならない。そのような人は、飢えた猛獣の群棲するジャングルを、銃一つ持たずに行けというのと等しいからである。
 日蓮大聖人御自身も三条小鍛冶宗近作の名刀をお持ちであられた。御書にも、北条弥源太が刀を御供養したことが記されている。また、日興上人も、二十六箇条遺誡置文に、
 「
一、刀杖等に於ては仏法守護の為に之を許す161816
 と、申されている。

 このように、刀剣・弓箭・鉾槊を持することは、それで殺人を行なうことが目的であったのではない。いわんや、イスラム教の「右手に剣・左手にコーラン」や、キリスト教の十字軍のように、布教のための侵略のために武力も用いるのでもない。正法を護ることが目的であり、そのための止むを得ざる手段として所持を許されたのである。
 このことは、大聖
43歳の御時、安房の小松原で東条景信の一党が大聖人を殺害しようと襲ってきたのに対し、工藤左近尉吉隆、鏡忍房等が刀をもって大聖人をお守りしたことにも窺われる。刀剣なくして、正法を護り切ることのできない時勢であったことを知らなければならない。
 弥源太殿御返事にいわく、
 「
殿の御もちの時は悪の刀・今仏前へまいりぬれば善の刀なるべし、譬えば鬼の道心をおこしたらんが如し、あら不思議や不思議や、後生には此の刀を・つえとたのみ給うべし、法華経は三世の諸仏・発心のつえにて候ぞかし、但し日蓮をつえはしらとも.たのみ給うべし、けはしき山・あしき道.つえを・つきぬれば・たをれず、殊に手を・ひかれぬれば・まろぶ事なし、南無妙法蓮華経は死出の山にては・つえはしらとなり給へ」(122701)云云と。
 所詮、現代は、法治主義の時代であり、政治権力の時代である。化儀の広宣流布の時を迎えて、競い起こる三障四魔、三類の強敵も、個人的な怨嫉から一族郎党を率いて襲いかかってくるような規模ではない。むしろ、政治権力、言論界等と組んで、より多角的に、より大規模に襲ってくる時代とさえいえる。
 この時にあたって、正法護持のために、取って立つべき「
刀剣・弓箭」は、ほかならぬ言論の力である。
 仏道修行といえば、過去の釈迦仏法のごとく静かな山間僻地に逃避して、思いをこらすことであるとか、単に経を読むことが、あるいは行ない澄まして善行を修するとか、という考え方が、大部分の現代人の仏教観である。これ大なる誤りである。正法護持のため、広宣流布達成のために、智慧をは働かせ、師子王のごとく勇敢に、戦っていくことが最も正しい仏道修行であることを知らねばならない。

第六章 正法護持の方軌を示すtop

06   涅槃経に云く「今無上の正法を以て諸王・大臣・宰相・及び四部の衆に付属す、正法を毀る者をば大臣四部の衆
07
 当に苦治すべし」と。

 涅槃経には「今、無上の諸王・大臣・宰相およに僧尼・在家の人たちに付属する。もし正法を破るものがあるならば大臣・四部の衆はまさにきびしくこれを対冶していきなさい」

08   又云く「仏の言く、 迦葉能く正法を護持する因縁を以ての故に是の金剛身を成就することを得たり善男子正法
09
 を護持せん者は五戒を受けず威儀を修せず応に刀剣・弓箭・鉾槊を持すべし」と、又云く「若し五戒を受持せん者有
10
 らば名けて大乗の人と為す事を得ず、 五戒を受けざれども正法を護るを為て乃ち大乗と名く、 正法を護る者は当
11
 に刀剣器仗を執持すべし刀杖を持すと雖も我是等を説きて名けて持戒と曰わん」と。

 また「仏がいうには、迦葉よ自分はよく正法を護持した功徳・因縁をもって、こ仏身を成就することができたのである。善男子よ、正法を護持する在家のものは五戒を持つこともなく、威儀も修めないで刀剣・弓箭・鉾槊を手にとって謗法を責めるべきである」とあり、
 また涅槃経金剛身品には「もし五戒を受持するものがあるなら、その人たちは大乗を行ずる人ということはできない。たとえ五戒を受けなくても、正法を護る人を大乗の人と名ずけるのである。正法を護るものは、まさに武器を持つべきである。たとえ武器を手にとっても自分はこれらの人を名づけて持戒と呼ぶのである。」とある。

講義
 本章は、涅槃経に説かれた守護付嘱の文を示されるのである。最初に引かれているのは、前章の人王経の文とほとんど同じである。ここでは、人王経の文面に出ていなかった「付嘱の法」が「無上の法王」と明らかにされている。無上とは有上に対して、これより上のものはない、最高であるとの意で、即即文底深沈の大法たる三大秘法の南無妙法蓮華経である。
 また、人王経で、単に「王」と訳されていたのが、ここでは「諸王・大臣・宰相及び四部の衆」となっている。日寛上人の文段には「諸王とは国王や親王である」とあり、さらに「是れ則ち国王・親王・大臣・宰相・四部の次第・残闕なきか」とある。すなわち四部の衆とは比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷でるが、別しては在家である優婆塞・優婆夷を強く指したといることは諸王・大臣・宰相と並べられている点からも、当然理解されることであろう。
 このように「諸王・大臣…」と並べて記されているのは、諸御書に「王臣一同に」あるいは「王臣万民一同に」と仰せられているのと同じでる。日蓮大聖人の仏法は、特権階級の御用宗教でもなければ、低級な邪教でもない。全民衆の崇めるべき信仰でり、王すなわち指導者の側にとっても、その政治の依るべき支柱であり、民衆にとっても、偉大な力の源泉であるとの御確信を、拝することができないではないか。
 ここで「正法を毀る者をば大臣四部の衆当に苦治すべし」とあるから、正法を持つ人が政治権力をにぎって、反対者に弾圧を加えるのではないかと危惧する人もいよう。すなわち、ここで教会主義国家との相違を明らかにしなければならない。
キリスト教の政治関係
 ローマ帝政初期、ネロ皇帝等によって激しい弾圧を受けたキリスト教は、西歴0313年にはコンスタンティヌス帝によって公認され、0395年にはテオドシウス帝からローマ国教としての地位を獲得するまでになった。西ローマ帝国が0476年に滅亡した後も、ローマ教会は着実に北方異民族を感化し、0800年、フランク族の王、カールを神聖ローマ帝国の大帝に任ずるのとひきかえに、ラヴェンナを教会領として贈られ、ここに教会国家としての出発をみたのである。
 その後、ローマ法王を頂点とするキリスト教会は、広大な法王領を有し、傘下に無数の領地を有する司教団を擁し、宗教的権威とともに巨大な世俗権力をも行使するようになった。領地からの課税はもとより、全ヨーロッパにおいて10分の1税、初収入料を民間から徴収した。法王グレゴリウス7世、インノケンレリウス3世の時代は、まさにその絶頂期で、当時、法王庁の収入は、ヨーロッパ総国王の総収入を越えたといわれる。
 こうした教会の世俗権の増大は、必然的に皇帝や国王、諸侯との衝突を免かれることができなかった。皇帝ハインリッヒ4世はグレゴリウス7世にカノッサで膝を屈し、のち武力を整えて法王を南イタリアに追い、これを憤死させた。また、法王アレクサンデル3世に屈したフリードリッヒ1世、ベケットの柩に額ずいた英王ヘンリー2世の話はあまりにも有名である。
 世俗君主以上に、強欲で苛酷な僧職に対する憎悪、その生活の堕落、頽廃ぶり、陰険な僧職領主のために、十字軍遠征の留守に領地を乗っ取られた騎士への同情…等、当時の社会を描いた文学には、こうした主題が実に多い。キリスト教の無慈悲さと、民衆のキリスト教会に対する怒りが如実に感じられるのである。
 したがって、中世にあらわれた政治学説も、ほとんどが法王と皇帝との対立抗争をめぐって説かれている。法王の優越を主張する者は、天国への鍵をあずかったのは使徒ペテロであり、それは法王に譲られてきた。法王は太陽であり、皇帝は月である。法王は神の国を司り、皇帝は地上の国を、法王より任されて統べる、霊界と俗界を治める二つの剣があるが、その所有権は共に法王にあり、皇帝は俗界の剣の使用権が許されるに過ぎない、等の説を立てた。
 これに対して、皇帝を支持する者は、二つの剣について法王の優位は一応は認めるが、俗界の剣は、法王を通してではなく、神から直接、皇帝に与えられたものだと反発した。マキアベリが君主論を説いたのも、ダンテが帝国論を説いたのも、その根底には、皇帝を擁護し、法王を排斥する意図があったのである。
 宗教の権威が政治権力をにぎって政治に介入する。いわゆる教会国家主義という事実は、ガルヴァンの神聖国家等にも認められる。だが、それは、いずれも、権力と権力との醜い争いであり、民衆に対しては貪欲な搾取をもって望む、無慈悲きわまりない苛政にほかならなかった。
 こうした事態は、キリスト教が政治を、哲学的、思想的に指導できる理念の何ものも持たないがゆえに生じたのであった。また、キリスト教には人間性を変える力もなかった。むしろ、より貪欲に、より陰険に、より残酷にしてしまったと結論せざるをえない。
 たとえば、中世における宗教裁判は、ジャンヌ・ダークをはじめ、多くの女性を魔女と決定して、残虐な火あぶりの刑に処したではないか。ジョルダーノ・ブルーやヨハネス・フス、ガリレオ・ガリレイ等の偉材をさえも、あるいは灰にし、あるいは沈黙させたではないか。また、数々の宗教戦争の徹底的な虐殺ぶりも、キリスト教信仰の人間性に欠けるものを物語っている。聖バーソロミューの虐殺、30年戦争の惨劇を想起せよ。実に30年戦争では新旧両派が外国の応援を頼んで殺し合い、ドイツの人口は1600万人から700万人に激減したのである。
 人々が恐れるべきものは、まず何よりもこの残酷さ、非情さ、徹底的に相手を憎悪する感情の激しさである。それはひとえに、キリスト教が愛を説く教えであるところからきている。愛は憎と表裏の関係にあることは、日常、だれもが経験するところである。愛の教えとは、実は憎の教えにほかならない。
政教分離説き明かす仏法
 これに対して、仏教は慈悲の教えである。慈悲は、絶対的なものであり、裏かえしても慈悲である。釈尊の教えを見れば一目瞭然である。たとえば釈尊にあれほど迫害を続けた提婆達多も、天王如来の記別を受けて救われるではないか。提婆にそそのかされて、釈尊を弾圧した阿闍世王も悔いてのち、悪痩を癒してもらい、寿命も延ばし、仏滅後は、経典結集を行って、仏法流布に重大な役割りを果たしているのである。
 また、阿育大王や
迦膩色迦大王による仏法流布においても、異教徒に対して弾圧を加えたなどという事例は、一つとしてない。異説を主張する者が出てきた時は、必ず公の場で法論させ、王をはじめ大臣・学者・大衆に、どちらが道理正しく理路整然としているかによって、正邪を判定せしめたのである。
 すなわち、正しい仏法ということは、その説くところが道理に適っており、現実の証拠と経文上の証拠が厳然としてあるものでなければならない。したがって、宗教上の正邪の争いは、あくまで宗教の場で決せられるのである。このゆえに、正法を護持した者が、異教の信者を宗教的、思想的理由で敵対する者を弾圧したという事実は仏教以来3000年間、ただひとつとしてない。西欧において、1648年、30年戦争のあとで樹立されたごとき信教の自由は、仏教世界においては、自然の形で3000年来行なわれてきたのである。
 しかも、仏教では、僧侶が政治権力を握るという原理はまったくない。前章の付嘱論で、伝持付嘱と守護付嘱と、劃然と分かれているように、僧は僧としての本文をまっとうし、正法を守護する使命は、在家の人、すなわち一般社会人としての生活を基盤に置く人によって行われるのである。これ政経分離の厳然たる証拠ではないか。
 仏教が政治に影響をおよぼすのは、何よりもまず、仏法を実践、修行する人を慈悲の精神に立たせることである。すなわち、政治の運営、法の遂行が慈悲という基礎の上に行なわれるようになることである。しかして、仏法哲学に説かれている、仏の智慧、また哲理は、政治・経済・教育等、いっさいの文化を指導していく理念を提供するであろう。かくして、人類の叡智は限りなく発展し、文化の水準は飛躍的に高まることも絶対であると確信する。
 したがって「正法を毀る者をば大臣四部の衆当に苦治すべし」というのも、仏教の本来のあり方からいって、何ら信教の自由を否定するものではない。あくまでも、宗教の正邪は宗教の場で争い、決せよとの意である。
 歴史をひもとくならば、むしろ、つねに迫害され、弾圧されてきたのは正法の側である。この経文は、邪宗教に迷わされて正法護持者を弾圧する権力者に対して覚醒を促し、ひいては正法護持者自身が権力を持つことによって、同じく権力をもちあるいは権力と結託して、正法を弾圧する謗法者から、正法を護れとの方程式を述べたものと解すべきである。
 今、さらにこの点を明確にするために、信教の自由の問題について論旨を展開してみよう。

信教の自由について
 信教の自由は、人間の本然的な欲求といっても過言ではない。しかしながら人類の歴史は、長い間、その実現を見ることがなかった。ヨーロッパにおいては、30年戦争後のウェストファリア条約で新旧両派の間で原則的に認められたが、ある宗教に対する自由の確認は、さらにそれより下るのである。
 すなわち、自由を求めるヨーロッパ人によって開かれた新大陸、アメリカで1787年に憲法に明記されたのを嚆矢とする。ついで大革命後フランスで、1791年、人民の尊厳と自由・平等を謳う人権宣言が発表された。
 この精神は、ナポレオンの欧州遠征に伴って各地に伝えられ、1808年にはバイエルン憲法、1831にはベルギー憲法、1848年のスイス憲法、オランダ憲法、ドイツ憲法、1867年にはオーストリア憲法と、各国が続々信教の自由を制度として確立したのである。
 しかし、今なお、一定の宗教を国教とし、あるいは公認教としている国も少なくない。イギリス、イタリア、スペイン等は国教主義であり、カナダ、ニュージーランド、アルゼンチン等は準国教制を建て前としている。自由主義陣営に属する国々において、実体はこの程度である。
 一方、共産主義陣営を見ると、マルクス主義は「宗教はアヘンなり」と断定し、宗教全体に対して批判的である。また、民衆の間では、かなり多くの老人は旧来のギリシァ正教やイスラム教に執着をもっているし、反宗教的に教育された青年たちの間でも、宗教的な心の支えを求める気運が芽生え始めている。しかし、そうした動きを露骨には圧迫しなくとも国是としては、あくまでも無宗教を立てるので、精神的には大きい圧迫となっている。さらに教会、寺院外での布教を禁じられているので、これも信教の自由を疎外いている部類といえる。
 これに対して、アジアにおける歴史をたどってみると、専制主義であるだけに、様々であるが、慨して儒教、道教、ヒンズー教、イスラム教を立てた君主は、必ず仏教信者を迫害している。逆に仏教信者である君主は、他の宗教の布教に対して、大幅に自由を許していることが観取される。
 前者の例おしては師子尊者を殺害した檀弥羅王、法道三蔵を流罪した
徽宗皇帝、中国仏教を壊滅的に破壊した唐の武宗等がある。後者の例としては、インドの阿育大王、迦膩色迦大王、中国の天台大師の時代の陳主、日本の伝教大師の時代の桓武・嵯峨・平城の三帝が挙げられる。
 しかも正法を迫害した前者の場合は、必ずその裏にバラモンないしヒンズー教、儒教、道教の僧、修道者が権力者をそそのかしている事実が認められているのである。これに対し後者の場合は、必ず法の正邪を公場で争わせ明確にしている。
 このことから、われわれは、信教の自由を妨げてきたものは、ほかならぬ邪宗教ないし低級宗教であったと結論することができるのである。うなわち、他の宗教と論争しても堂々と勝てるという哲学的裏づけ、確信のない宗教が、権力と利益と名誉を独占するために、権力と結託して他宗派を圧迫してきたのである。
 東洋で、正法が流布された時代には、完璧な信教の自由が確立されたのは、このためであった。ヨーロッパにおいて、圧迫の連続であったのは、キリスト教も、それ以前の神話も、キリスト教内部に派生した諸宗派も、この哲理と確信のない、低級思想であったゆえである。ようやく近代になって信仰の自由が確認され始めたのは、キリスト教の無気力と不合理がはっきり認識され、実質的に見放され始めたからである。
 いわば、キリスト教世界も、イスラム教世界も、あるいは仏教内の邪宗各派においても、信教の自由とは、実は無宗教化の謂にほかならなかった。おれがためにもたらされた、精神的空白を嘆く声も出始めており、わが国の場合にこれに便乗して、国家神道の復活を唱える反動主義者もある。だが、所詮、自由の空気を吸った民衆を再び縛りつけることは、できようはずもない。また、断じてあってはならない。

近代日本の信教の自由
 わが国においては、
明治22年(1889211日に発布された大日本帝国憲法で、すでに信教の自由は保障されている筈であった。すなわち第28条にいわく「日本国民ハ、安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ、信教ノ自由ヲ有ス」と。だが、事実は、神社神道の国教化が進めあれていった。そして軍部政権下の昭和18年(1943)、創価学会に対する弾圧となったのである。
 一国謗法の罪、正法護持者弾圧の罪が、一国を滅亡させるに至ったのである。これに対し、連合国側は、早くから日本軍国主義の源が国家神道であることを見抜いていた。戦時下の昭和20年(19455月、すでにポツダム宣言は「言論・宗教及び思想の自由並に基本的人権の尊重」を確立せよと、要求していた。
 終戦後の昭和20年(19451014日、連合国総司令部から「政治的、社会的及び宗教的目的に対する制限除去の件」という覚え書が発せられ、1215日「国家神道の禁止」に関する指令が出され、明治体制下に日本の信教の自由を阻んできた元凶は、完全に骨抜きにされたのである。
 しかして昭和22年(194753日より施行された、新しい日本国憲法は、基本的人権の確立を謳い、信教の自由を明確に規定したのである。すなわち第20条に「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国からの特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。何人も宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。国及びその機関は、宗教教育その他のいかなる宗教活動をしてはならない」とあるのが、それである。
 ここでいう「特権」とは、かつての神道のごとき国教的地位とそれに伴う利益等を意味する。また「政治上の権力」とは立法権・課税権・裁判権等で、これらは、かつて寺院が、その所有する荘園に対して行使した権力であるが、今は国家および地方公共団体以外にはない。この「政治上の権力」の中に、国民として当然持っている選挙権、参政権をふくめるがごとき発言をする者がある。無認識の至り、まことに笑止といわざるをえない。
 このように、新憲法によって確立された信教の自由は、いかなる宗教も、権力の援助を受けることなく、純粋に宗教としての優劣、正邪を争そう舞台を実現したのである。
 すなわち、信教の自由とは
    第一に、宗教上の信仰について、特定の宗教を信ずること、その信仰を変えること、すべての宗教を信じないことは、いっさい、個人の自由であって、国家権力や政治権力は何ら干渉を加えてはならないということである。
    第二に、宗教的教義を宣伝し普及することも、個人の自由権に属することであって、それに対して、国家権力や、特定の宗教について援助したり、疎外したりすることはできないのである。
 洋の東西を問わず、その宗教の正邪・教義の浅深に関係なく、権力と結合した宗教は必ず堕落している。信教の自由は、むしろ宗教にとって最も喜ばしいことといわなければならない。
 新憲法によって実現された信教の自由の尊さを日本において、最も深く理解しているのは、わが創価学会であるといっても過言ではなかろう。
 今こそ遂に、青天白日のもとに正法を叫び、妙法流布に前進できる大道が開かれたのである。かくして、民衆の中にとけこんで、座談会を開き、膝を突き合わせて語り、あるいは新聞を発行して、書籍を出版して、あらゆる言論戦を展開して、今日の発展を築いたのである。信教の自由があればこそ、今後も永久に発展していくことは絶対に間違いない。
 開目抄にいわく、
 「
善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし、大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をごせよ、父母の頚を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし」(023202)と。
 いかなる誘惑も迫害も、物の数ではない。万が一にも自分の法門・教義・哲学が智者に破られるようなことがあれば、その智者には従うであろうが、それ以外の大難は風の前の塵のごときものである、との強い強い御確信であられる。
 「
智者に我義やぶられずば」とは即信教の自由を前提にしてのお言葉である。権力によらなければならないような、虎の威をかる狐と、この大聖人の師子王の雄叫びと、正に天地雲泥の相違があるではないか。

第七章 有徳王・覚徳比丘の先例top

12   又云く 「善男子・過去の世に此の拘尸那城に於て仏の世に出でたまうこと有りき歓喜増益如来と号したてまつ
13
 る、 仏涅槃の後正法世に住すること無量億歳なり余の四十年仏法の末、 爾の時に一の持戒の比丘有り名を覚徳と
14
 曰う、 爾の時に多く破戒の比丘有り是の説を作すを聞きて皆悪心を生じ刀杖を執持し是の法師を逼む、 是の時の
15
 国王名けて有徳と曰う 是の事を聞き已つて護法の為の故に 即便ち説法者の所に往至して 是の破戒の諸の悪比丘
16
 と極めて共に戦闘す、 爾の時に説法者厄害を免ることを得たり 王・爾の時に於て身に刀剣鉾槊の瘡を被り体に完
17
 き処は芥子の如き許りも無し、 爾の時に覚徳尋いで王を讃めて言く、 善きかな善きかな王今真に是れ正法を護る
18
 者なり 当来の世に此の身当に無量の法器と為るべし、 王是の時に於て法を聞くことを得已つて心大に歓喜し尋い

0029top
01 で即ち命終して阿シュク仏の国に生ず而も彼の仏の為に第一の弟子と作る、其の王の将従・人民・眷属・戦闘有りし
02
 者.歓喜有りし者.一切菩提の心を退せず命終して悉く阿シュク仏の国に生ず、覚徳比丘却つて後寿終つて亦阿シュク
03
 仏の国に往生することを得て 彼の仏の為に 声聞衆中の第二の弟子と作る、 若し正法尽きんと欲すること有らん
04
 時当に是くの如く受持し擁護すべし、 迦葉・爾の時の王とは即ち我が身是なり、 説法の比丘は迦葉仏是なり、迦
05
 葉正法を護る者は是くの如き等の無量の果報を得ん、 是の因縁を以て我今日に於て種種の相を得て 以て自ら荘厳
06
 し法身不可壊の身を成す、 仏迦葉菩薩に告げたまわく、 是の故に法を護らん優婆塞等は応に刀杖を執持して擁護
07
 すること是くの如くなるべし、 善男子・我涅槃の後濁悪の世に国土荒乱し 互に相抄掠し人民飢餓せん、爾の時に
08
 多く飢餓の為の故に発心出家するもの有らん 是くの如きの人を名けて禿人と為す、 是の禿人の輩正法を護持する
09
 を見て 駈逐して出さしめ若くは殺し若くは害せん、 是の故に我今持戒の人・諸の白衣の刀杖を持つ者に依つて以
10
 て伴侶と為すことを聴す、 刀杖を持すと雖も我是等を説いて名けて持戒と曰わん、 刀杖を持すと雖も命を断ずべ
11
 からず」と。

 涅槃経金剛身品には「善男子、過去の世に拘尸那城において歓喜増益如来という仏が出現になった。その仏が入滅したのち、如来の正法は無量億年という長い間続いた。その最後、あと四十年間で仏法がまさに滅せんとしていたが、そのとき法をかたくなに持った一人の受持即持戒の僧がいて、その名を覚徳といった。其の時に多くの破戒の悪比丘があって覚徳比丘が、経を護持宣流し諸の悪比丘を制して蓄罪等の破戒を戒める。正しい説法をするのを聞いて、皆悪心を起こし、刀や杖を持って、この覚徳比丘を殺そうとして迫った。その時の国王を有徳王といったが、王はこの覚徳比丘に危険が迫っていると聞き、法を護るために武器をとってすぐさま覚徳のところへ行き、これらの悪比丘と全力をあげて戦った。その結果、覚徳比丘は殺される厄難を免れることができたが、戦った有徳王は全身に刀剣や鉾槊の瘡をこうむり体に傷のないところは芥子粒ほどもないありさまであった。これをみて覚徳比丘は王を讃めて言った「善きかな善きかな、今、王は真に正法を護った人である。未来世において王の体はまさしく無量の法器となるであろう」と。王はこの時、正法を聞くことができ、大いに歓喜しそのまま息を引き取り阿閦仏の国に生まれた。しかも阿閦仏の第一番の弟子となった。そして有徳王の将従・人民・眷属など、王とともに戦ったもの、王の戦いをみて歓喜したものは、みなそれぞれ退転せず、信心をまっとうして死んだのち、ことごとく阿閦仏の国に生まれた。覚徳比丘も、その後命が終わって同じく阿閦仏の国に生まれ、彼の仏の声聞衆中、第二番目の弟子となった。もし法が尽きんとするときには、まさにかくのごとく正法を受し、擁護すべきである。
 迦葉よ。その時の有徳王とはすなわち我が身である。説法をした覚徳比丘は迦葉仏である。迦葉よ、正法を護るものはこのように無量の果報を得るのである。この因縁の故に自分は今日において、種々の相を得て自らを荘厳し、絶対に壊れることのない法身を成就することができたのである。
 このゆえに、正法を護ろうとする男子の信徒等は、有徳王のようにまさに刀杖を手に取って正法を擁護すべきである。善男子よ、自分が涅槃してのち、末法に入り国土は荒れ乱れはてて、人々は互いに土地や財産を奪いあい、そのため人民は飢餓にひんするであろう。そのときに飢餓からのがれようと、生きていくため発心し、多くの出家するものが現われるであろう。それらの人をなずけて『禿人』というのである。この禿人の輩は正法を護持するものをみて、そのところを追い払い、あるいは殺し、あるいは害するであろう。その故に、自分はいまの持戒の人・僧が、刀杖を持つ諸々の在家の人々を伴侶とすることを許すのである。刀杖は持ってはいるけれども、正法を護るが故に、これを持戒と名づける。ただし、刀杖を持すといっても、防御のため護法のためで、謗法の者の命を断ってはならない。」とある。

講義
 前章の「正法を護持せん者は五戒を受けず威儀を修せず応に刀剣・弓箭・鉾槊を持すべし」文を受けて、正法を末法において護持する方軌について、さらに正法を弘持する覚徳比丘、それを刀杖をもって殺そうと迫る破戒の比丘と戦って覚徳比丘を護りぬく有徳王、もれ末法の広宣流布戦いの原理を示している章である。
有徳王・覚徳比丘
 有徳王・覚徳比丘については、大般涅槃経金剛身品第二の文であり、大聖人は三大秘法抄にも引用されている。
 過去の世に倶戸那城に歓喜増益如来という仏が出現したことがある。その仏が入滅した後、如来の正法は無量億年という長期間にわたって続いた。その最後、あと40年間で仏法が滅しようといていた時に、正法を堅く持った、ただ一人の比丘がいて、名を覚徳といった。その時、多くの破壊の悪比丘がいて、この覚徳比丘を殺そうとした。
 これを知った有徳王は武器を執って駆けつけ、これらの悪比丘たちと果敢に戦い、覚徳比丘を守り抜いたのである。だが、この時、有徳王は、全身に刀剣、矢、矛などの傷を受け、体に完きところ寸分もない状態であった。覚徳は王の生命をかけた信心の姿勢を「善きかな、王、いま真にこれ正法を守る者なり、未来の世に、この身まさに無量の法器となるべし」と賛嘆した。王はこの覚徳のこの教えを聞き終わって心大いに歓喜して亡くなったのである。王はその後、護法の功徳力により、阿闕仏の国に生じその仏の第一の弟子となった。また、王とともに戦った将兵や人々も同じく阿闕仏の国に生まれたのである。さらに、覚徳比丘もその因縁により阿闕仏の国に生じ、その仏の声聞衆中、第二の弟子となった。
 この話をした後、釈尊は有徳王とは実は今の自分であり、覚徳比丘は迦葉仏であると説き、もし、正法が滅せんとするときは覚徳比丘のごとくに正法を受持し、有徳王のように正法を守護すべきであると説いたのである。
 このエピソードは、権力者である王が一宗派を守るという党派的な闘争を示すものではない。覚徳比丘とは人間として仏法の精神を体現する人であり、それを命をかけて守るのが有徳王である。
 有徳王は、みずからは幕者にあって、軍隊に命じて戦わせたわけではない。王自身、全身に傷を受け、死んでいったということからすると、あくまで正法を惜しむ一個の人間として、自ら先陣に立って戦ったのである。また、共に戦った「将従・人民・眷属」がいると経典にとかれているが、彼らも、「歓喜有りし者」とあることから考えると、命令され戦いに加わったのではなく、自発的に戦ったと考えられる。有徳王が覚徳比丘を守ったのは、内なる仏法の精神を守ったことに通ずる。

第八章 念仏無間の文を挙top

12   法華経に云く 「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば即ち一切世間の仏種を断ぜん、 乃至其の人命終して阿鼻
13
 獄に入らん」已上。

 譬喩品には「もし人が法華経を信じないで毀謗するならば、すなわち一切世間の仏種を断ちきってしまう。(乃至)その人は命終して阿鼻地獄に入り、無間の苦しみを受けるだろう」とある。

講義
 この文は、法然の撰択集を破折される段で、念仏無間の文証として既に引かれたものである。ここに、再び引用して、謗法の恐るべき所以を明かされている。
 現代の、特に青少年には「其の人命終して阿鼻獄に入らん」といっても、死後の生命も信じないし、無間地獄の恐ろしさなど、想像できないであろう。大部分の人は、地獄など迷信かお伽話のように思っているかもしれない。
 それは、ひとえに浄土宗をはじめとする既成仏教が、長い間、御用宗教となり、特権の座にあぐらをかいて、宗教としての使命も、資格も、失ってしまったからにほかならない。そのため、民衆は地獄といえば、針の山や血の海があり、大火焰が渦巻いている。絵巻の光景しか思い浮かべることができなくなってしまったのである。
 だが、すでに述べたように、地獄とは、われわれの生命の苦悩の境涯にほかならない。激しい病苦に責められて、苦しみ悶える人、罪を犯して追われる人、あるいは悪の泥沼に足を踏み入れて、抜け出すに抜け出せず苦悩する人等々、平和な社会にも、地獄の苦しみは厳然とある。
 さらに、世界に目を転じ、あるいは過去に想いを馳せた時、泥沼のごとき戦争に肉身を失い、国土を焼かれ、化学兵器に身体を毒されて苦しんでいるベトナム民衆は眼前ではないか。父母・兄弟・姉妹・妻子も、家畜以下、ハエや蛆虫がバクテリアのように殺害されたユダヤ民族の悲劇はつい20年前のことである。
 「地獄などウソだ、そんなことは作り話だ」という人は、もしも自分が、ベトナム民衆の一人だったら、もしかユダヤ人だとしたら、こんな気持ちでいられるであろうかと考えてみるがよい。しかも、彼らとて、現実にそうした不幸に直面するまでは、そのような事態をも夢にも想像しなかったに違いない。
 人間の生命を現世のみの存在としても、いつ、こうした不幸に陥るともしれない。一生、そんな目に会わないとは、誰人も断定できないのである。いわんや、仏は、生命は永遠であり、過去・現在・未来の三世にわたって続くと説かれている。
 われわれの現在の姿は、過去にその因を求めなければならないし、未来の因は現在にあるのである。しかして日蓮大聖人は、現世の終わりであり、未来への第一歩ともいうべき臨終の相こそ仏法の大事であると、次のようにお示しである。
 妙法尼御前御返事にいわく「
大論に云く「臨終の時色黒き者は地獄に堕つ」等云云、守護経に云く「地獄に堕つるに十五の相.餓鬼に八種の相.畜生に五種の相」等云云、天台大師の摩訶止観に云く「身の黒色は地獄の陰に譬う」等云云、夫以みれば日蓮幼少の時より仏法を学び候しが念願すらく人の寿命は無常なり、出る気は入る気を待つ事なし・風の前の露尚譬えにあらず、かしこきもはかなきも老いたるも若きも定め無き習いなり、されば先臨終の事を習うて後に他事を習うべしと」(140403
 又いわく「
大論に云く「赤白端正なる者は天上を得る」云云、天台大師御臨終の記に云く色白し、玄奘三蔵御臨終を記して云く色白し、一代聖教を定むる名目に云く 「黒業は六道にとどまり 白業は四聖となる」」(140414
 千日尼御前御返事にいわく「
人は臨終の時地獄に堕つる者は黒色となる上其の身重き事千引の石の如し善人は設ひ七尺八尺の女人なれども色黒き者なれども臨終に色変じて白色となる又軽き事鵞毛の如しヤワラカなる事兜羅緜の如し」(131611
 教行証御書にいわく「
一切は現証には如かず善無畏.一行が横難横死・弘法・慈覚が死去の有様.実に正法の行者是くの如くに有るべく候や」(127916
 日寛上人の三重秘伝抄にいわく「如是相とは譬えば臨終に黒色なるは地獄の相、白色なるは天上の相等の如し」
 このように仏法哲理の上に明らかであるにもかかわらず、現代人に、永遠の生命などありえない。三世の生命観は迷信だという考え方が支配的であることは、悲しむべきである。もし生命が偶発的なものだとするならば、現実に個人によって種々の能力差、性格の相違、容姿の違いがあるのを、どう説明するのか。単に遺伝や環境論からの説明はつくかも知れないが、しからばそういう遺伝のもとに生まれ、そのような環境の中で育たなければならなかったのはなぜか、となると、何の解明もできない。
 わからないから偶然で片づけるのは、科学精神の放棄にほかならない。自分にもわからないがゆえにこそ、それを解明した哲学を謙虚に求めるべきであろう。その求めて止まぬ旺盛な探究心、真理を会得しようという努力、これを真の近代精神といわずして、何といおうか。
 少なくとも、自己の既成知識で包みきれないから、みずから探究する努力を放棄して、偶然とか迷信とか妄想とかの言葉で片付けてしまうのは、無智、蒙昧、固陋の人でることを強く訴えておきたい。

第九章 経証により謗法治罰を結すtop

14   夫れ経文顕然なり私の詞何ぞ加えん、 凡そ法華経の如くんば大乗経典を謗ずる者は無量の五逆に勝れたり、故
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 に阿鼻大城に堕して永く出る期無けん、 涅槃経の如くんば設い五逆の供を許すとも謗法の施を許さず、 蟻子を殺
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 す者は必ず三悪道に落つ、 謗法を禁ずる者は不退の位に登る、 所謂覚徳とは是れ迦葉仏なり、有徳とは則ち釈迦
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 文なり。

 経文はこのようにはっきりしている。自分勝手な言葉をどうして加える必要があろうか。法華経に説かれているとおりであるならば、大乗経典を謗ずるものは、無間の五逆罪にもすぐれた重罪である。ゆえにそれらのものは阿鼻大城におちて、無量劫のあいだ出ることはできないのである。また涅槃経の通りであるならば、たとえ五逆罪を犯したものに供養することを許しても、謗法の人に対して供養することは絶対に許されない。蟻の子を殺すものは必ず三悪道に堕ちるが、謗法を禁ずるものは定めて不退の位に登るであろう。その証拠としていわゆる覚徳比丘は迦葉仏で、有徳はすなわち釈尊であると説かれている。

講義
 
これまで引かれた仁王経・涅槃経・薬師経の文をまとめて、謗法の者を絶対に責めなければならないことを結論されている。したがって、この段の意は、これまでの各章で述べたとおりであるので、ここでは改めて述べる必要はあるまい。
私の詞何ぞ加えん

 すでに述べたように述べたように、日蓮大聖人の御説法は、全て仏の経文をあくまで依り所として行なわれている。このことは、竜樹菩薩・天親菩薩・天台大師・伝教大師等、正法の伝灯者に共通する重大事である。
 天台大師のいわく「修多羅と合せば緑して之を用いよ文無きは信受す可からず」と。伝教大師いわく「仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ」。竜樹菩薩、大智度論にいわく「修多羅に依るとは白論なり修多羅に依らざるは黒論なり」云云と。
 修多羅とは、梵語のスートラで、経という意である。いかに世間から名僧知識といわれる人の言葉であっても、仏の金言である経文に反することは、絶対にこれを用いてはならないとの戒めである。
 しかるに、法然の撰択集の論旨を見ても明らかなように、依拠とするところの曇鸞・道綽・善導の人師の所説であって、仏の経文によっていない。しかも、曇鸞・道綽らの所説は、竜樹菩薩の言葉を我見で解釈し、これにみずからの邪見を加えて作り上げたものにほかならない。それを、さらに法然の邪見で邪悪化しているのであるから、二重・三重の毒となってしまっているのである。
 ひるがえって、日蓮大聖人御入滅後、五老僧たちは大聖人の御書を焼き、天台沙門と名乗り、天台流の教義をもって我見をひろめたのである。これ師敵対の大謗法ではないか。
 富士一跡門徒存知の事にいわく、
 「
彼の五人一同の義に云く、聖人御作の御書釈は之無き者なり、縦令少少之有りと雖も或は在家の人の為に仮字を以て仏法の因縁を粗之を示し、若は俗男俗女の一毫の供養を捧ぐる消息の返札に施主分を書いて愚癡の者を引摂したまえり、而るに日興、聖人の御書と号して之を談じ之を読む、是れ先師の恥辱を顕す云云、故に諸方に散在する処の御筆を或はスキカエシに成し或は火に焼き畢んぬ」(106404)と。
 何たる浅見、何たる愚かさ、五老僧といえども、大聖人を御本仏と知らざること、このありさまであったのである。不聞三宝名、雖近而不見の経文そのままではないか。
 今、われらは、創価学会の正義によるがゆえに、大聖人の御本仏であることを知り、人法一箇の大御本尊を拝することができた。その福運は、どのような譬えをもってしても説き尽くすことはできないであろう。

大乗経典を謗ずる者は無量の五逆に勝れたり
 大小とは、穢土の此岸より浄土の彼岸へ、衆生を運ぶ乗り物の意から、多くの衆生を救済する教えを大乗、少しの人しか救えない教えを小乗という。普通、五重の相対等で、三蔵教を小乗というのに対して、通別円の三教を大乗といい、これをさらに区別して、通別二教を権大乗、円教を実大乗といっている。
 それでは、ここに「大乗経典」といわれているのは、通別円のいずれの経典を誹謗しても、無量の五逆に勝れるという意味と思う人がいるかもしれない。それは、大なる誤謬である。末法今時においては、ただ文底秘沈の大法、本地難思の妙法蓮華経の一法をもって、真実の大乗経典となすのである。
 小乗大乗分別抄にいわく、
 「
夫れ小大定めなし一寸の物を一尺の物に対しては小と云い五尺の男に対しては六尺七尺の男を大の男と云う、外道の法に対しては一切の大小の仏教を皆大乗と云う大法東漸通指仏教以為大法等と釈する是なり、仏教に入つても鹿苑十二年の説・四阿含経等の一切の小乗経をば諸大乗経に対して小乗経と名けたり、又諸大乗経には大乗の中にとりて劣る教を小乗と云う華厳の大乗経に其余楽小法と申す文あり、天台大師はこの小法というは常の小乗経にはあらず十地の大法に対して十住・十行・十回向の大法を下して小法と名くと釈し給へり、又法華経第一の巻・方便品に若以小乗化・乃至於一人と申す文あり天台妙楽は阿含経を小乗と云うのみにあらず華厳経の別教・方等般若の通別の大乗をも小乗と定め給う、又玄義の第一に会小帰大・是漸頓泯合と申す釈をば智証大師は初め華厳経より終り般若経にいたるまで四教八教の権教諸大乗経を漸頓と釈す泯合とは八教を会して一大円教に合すとこそ・ことはられて候へ、又法華経の寿量品に楽於小法・徳薄垢重者と申す文あり、天台大師は此経文に小法と云うは小乗経にもあらず又諸大乗経にもあらず久遠実成を説かざる華厳経の円乃至方等般若法華経の迹門十四品の円頓の大法まで小乗の法なり、又華厳経等の諸大乗経の教主の法身・報身・毘盧遮那盧舎那・大日如来等をも小仏なりと釈し給ふ」(052001)と。
 本来、大乗といい、小乗というのは、相対的なものである。バラモンや儒教・道教の外道に対すれば、一切仏教は大乗である。今度は一代仏教内で論ずれば、三蔵教は小乗であり、通別円は大乗である。さらに、その大乗の中で、通別の権教は小乗であり、法華の円教が大乗である。法華経二十八品の中では、前十四品の迹門は小乗であり、後十四品の本門が大乗である。
 この釈尊一代仏法中、大乗の中の大乗である法華経本門も、受量品文底の独一本門に対すれば小乗となり、独一本門こそが真の大乗となるのである。
 観心本尊抄にいわく、
 「
一品二半よりの外は小乗教・邪教・未得道教・覆相教と名く」(024906)と。
 ここで、一品二半とは、天台所立の略広開顕の一品二半ではなく、大聖人御正意の末法流布の大法たる、広開近顕遠の一品二半である。すなわち、末法において、三大秘法の南無妙法蓮華経以外は、全て、小乗教であり、邪教であり未得道教、覆相教であるとの仰せである。
 そのゆえは、上野殿御返事に「
今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(154611)と申され、高橋入道殿御返事にも「法華経は文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず」(145816)と仰せられていることによって、明白である。
 したがって、今、本文で「大乗経典を謗ずる者は、五逆罪を数えきれないほど犯した罪よりもさらに重い」と申されているのは、日蓮大聖人の建立あそばされている三大秘法の大御本尊を誹謗する者との意である。これを知らなければ、無間地獄の罪を免れる術は、絶対にない。
設い五逆の供を許すとも謗法の施を許さず
 この御文は、たとえ五逆罪を犯したものに供養することを許しても、謗法の人に供養することは絶対に許されないとの意である。すなわち謗法を固く禁ずることの大事なことを力説されているのである。
 教機時国抄には、「
法華経を謗ぜん者をば正像末の三時に亘りて持戒の者をも無戒の者をも破戒の者をも共に供養すべからず、供養せば必ず国に三災七難起り供養せし者も必ず無間大城に堕すべきなり」(043908)とある。
 また、したがって正法の聖僧は謗法からの供養を受けることも絶対にないのである。日寛上人の文段には、次のように仰せである。すなわち「すでに謗法の人の供養することを許さず、何ぞ謗法の人の供養を受けんや。主君耳入免与同罪にいわく『
但し法華経の御かたきをば大慈大悲の菩薩も供養すれば必ず無間地獄に堕つ、五逆の罪人も彼を怨とすれば必ず人天に生を受』(113304)すなわち今文の意に同じきなり。教機時国抄もまた今文に同じ。乗明聖人御返事にいわく『劣る仏を供養する尚九十一劫に金色の身と為りぬ 勝れたる経を供養する施主・一生に仏位に入らざらんや、但真言・禅宗・念仏者等の謗法の供養を除き去るべし、譬えば修羅を崇重しながら帝釈を帰敬するが如きのみ』(101206)これ謗法の供養を受けざるの明文なり、豪3635のごとし、御義口伝下にいわく『謗法の供養を受けざるは貪欲の病を除くなり』(0755第八擣簁和合与子令服の事06)、日興上人二十六箇条遺誡置文にいわく『謗法の供養を請く可からざる事』(161815)云云」と。

第十章 国中の謗法の断ずべきを結すtop

18   法華涅槃の経教は 一代五時の肝心なり 其の禁実に重し誰か帰仰せざらんや、 而るに謗法の族正道を忘るの
0030top
01   人・剰え法然の選択に依つて弥よ愚癡の盲瞽を増す、是を以て或は彼の遺体を忍びて木画の像に露し或は其の妄
02
 説を信じて 莠言を模に彫り之を海内に弘め之をカク外に翫ぶ、 仰ぐ所は則ち 其の家風施す所は則ち其の門弟な
03
 り、 然る間或は釈迦の手指を切つて弥陀の印相に結び或は東方如来の鴈宇を改めて西土教主の鵝王を居え、 或は
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 四百余回の如法経を止めて 西方浄土の三部経と成し 或は天台大師の講を停めて善導講と為す、此くの如き群類其
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 れ誠に尽くし難し是破仏に非ずや是破法に非ずや是破僧に非ずや、此の邪義則ち選択に依るなり。

 法華・涅槃の経教は迦尊一代五時の説法のうち、その肝心である。そのゆえに戒めは実に重いのである。誰がそれに従わないでいられようか。しかるに諸衆は元来、謗法の徒輩にしてまた法華経の正道を忘れた人であり、さらに法然の選択集によって、ますます愚痴の盲目ぶりを増し、謗法の度を加えている。このゆえにあるいは法然の遺体を木像に刻み、絵像として描いたり、あるいは法然の妄説を信じて選択集などのまことしやかな邪言を版木に彫り、これを刷って日本国中のいたるところ、いなかのすみずみまで弘め歩いている。いまや国の上下を問わず、仰ぐところは法然の家風、すなわち念仏であり、布施をするといえばその門弟にたいしてのみというありさまとなった。
 このような状態であるから、或は釈迦像の手を切って阿弥陀の印相に結び変え、あるいは東方薬師如来の祭ってある寺を改めて、西方阿弥陀如来の像を据え、あるいは天台宗の第三祖・慈覚大師の時以来、4百余年間も続いてきた法華経を書写する如法経も、浄土の三部経を書写するように改められ、あるいは毎年十一月二十四日に行われてきた天台大師講を停止して、善導講としてしまった。このような謗法の徒輩はとうてい数えきれない。これこそ破仏・破戒・破僧之好の行為でなくて何であろうか。これらの邪義はすなわちすべて法然の選択集によるものである。

06   嗟呼悲しいかな、如来誠諦の禁言に背くこと、 哀なるかな愚侶迷惑のソ語に随うこと、早く天下の静謐を思わ
07
 ば須く国中の謗法を断つべし。

 このような大衆が如来の悟りの禁言にそむいているのは、実に悲しいことであり、愚侶にすぎぬ法然の迷いの言葉に従っていることは、まことに哀れなことである。一刻も早く天下の泰平を願うならば、まず何よりも国中の謗法を断絶すべきである。

講義
 当世の謗法の輩が、釈尊を忘れ、またその釈尊の教えを正しく引き継いだ天台・伝教等の、仏法の正統を見失ったばかりか、法然の邪義に迷わされ、破仏法の行為が国じゅうに充満していることを指摘されている。
三宝について

 「而るに謗法の族・正道を忘るの人・剩え法然の選択に依って弥よ愚痴の
瞽を増す」について、日寛上人は文段に「この二句は諸宗は元来謗者にして正道を忘れたる人なることを明かすなり、その上、選択に依っていよいよ愚盲を増すゆえに剩えと云うなり」と仰せである。
 「是破仏に非ずや是破法に非ずや是破僧に非ずや」とは、浄土宗の輩の行為が仏法僧の三宝を真っ向から破壊する仏教にほかならないことを糾弾されたのである。釈迦像を改造して阿弥陀にするのは破仏である。法華経の如法経を浄土三部経にすり替えているのは破法である。天台大師講を善導講に変えたのは、破僧である。
 聖徳太子の十七条憲法にいわく。
 「篤く三宝を敬へ」と。
 法華経寿量品にいわく、
 「我が浄土は毀れざるに、而も衆は焼け尽きて憂怖諸の苦悩、是の如き悉く充満せりと見る。是の諸の罪の衆生は、悪業の因縁を以って、阿僧祇劫を過ぐれども、三宝の名を聞かず」と。 
 このように、三宝は仏法上、きわめて重視されている。ゆえに三宝を正しく立てるか否かによって、その宗教の正邪が決定されるのである。まして、仏・法・僧の三宝を破壊し、否定し、あるいは誤れる三宝を立てるものは、ことごとく謗法となる。
 究竟一乗宝性論第三にいわく「真宝は世に希有なり、明浄および勢力あり、能く世間を荘厳し、最上なり不変なり」と。この希有・明浄・勢力・荘厳・最上・不変の六義をもって仏・法・僧を三宝となすのである。
 仏宝とは、宇宙の実相・永遠の生命を見究め、一切衆生に対して主師親の三徳を具備された仏である。法宝とは、その仏の教法であり、僧宝とは、仏の教法を正しく伝持する僧である。この三宝のいずれが欠けても、正しい仏道修行はできない。したがって、成仏、絶対幸福の境涯を会得することができないのである。
 このゆえに、三宝の恩を報ずることは、一切の報恩の中でも、特に重視されている。四恩抄には、次のように説かれている。
 「
 釈迦如来・無量劫の間・菩薩の行を立て給いし時一切の福徳を集めて六十四分と成して功徳を身に得給へり、其の一分をば我が身に用ひ給ふ、今六十三分をば此の世界に留め置きて五濁雑乱の時・非法の盛ならん時・謗法の者・国に充満せん時、無量の守護の善神も法味をなめずして威光・勢力減ぜん時、日月光りを失ひ天竜雨をくださず地神.地味を減ぜん時、草木・根茎・枝葉・華菓・薬等の七味も失せん時、十善の国王も貪瞋癡をまし父母.六親に孝せず・したしからざらん時、我が弟子無智・無戒にして髪ばかりを剃りて守護神にも捨てられて活命のはかりごとなからん比丘比丘尼の命のささへとせんと誓ひ給へり、又果地の三分の功徳・二分をば我が身に用ひ給ひ、仏の寿命・百二十まで世にましますべかりしが八十にして入滅し、残る所の四十年の寿命を留め置きて我等に与へ給ふ恩をば四大海の水を硯の水とし一切の草木を焼て墨となして一切のけだものの毛を筆とし十方世界の大地を紙と定めて注し置くとも争か仏の恩を報じ奉るべき、法の恩を申さば法は諸仏の師なり諸仏の貴き事は法に依る、されば仏恩を報ぜんと思はん人は法の恩を報ずべし、次に僧の恩をいはば仏宝法宝は必ず僧によりて住す、譬えば薪なければ火無く大地無ければ草木生ずべからず、仏法有りといへども僧有りて習伝へずんば正法・像法・二千年過ぎて末法へも伝はるべからず」(093402
 それでは、正しい三宝とは何か、という点が、次の問題となる。これについては、正法・像法・末法の三時によって弘まる法が異なる。それに応じて、仏の宝も、僧の宝も変わってくることを知らねばならない。
 正像末の三時の正しい三宝の立て分け方を示すと、次のようになる。

正法時代
   一  小乗の三宝
      仏 丈六劣応身の釈尊
      法 四諦・十二因縁の法門
      僧 声聞の四果、縁覚等の比丘。迦葉・阿難等付法蔵の人々
   二  権大乗の三宝
      仏 三十二相八十種好の勝応身の仏
      法 通教・別教の諸経
      僧 十住、十行、十回向、十地等の菩薩。竜樹・天親等の論師
像法時代
   三  法華迹門の三宝
      仏 始成正覚の円仏
      法 迹門理の一念三千
      僧 法華会上の声聞・縁覚・薬王の後身といわれる天台・伝教
   四  法華本門の三宝
      仏 久遠五百塵点劫成道の釈尊
      法 本門事の一念三千
      僧 上行菩薩
         ただし、本門の三宝は、天台大師が迹面本裏の立ち場で用いたもの。いわゆる文上脱益の配立である。も
         しこれを末法の文底下種事行の一念三千に対すれば、本迹事理の一念三千といえども、共に理の一念三千
         となる。また、佐渡以前の大聖人も外用の辺で、この本門の三宝を立てられている。
末法
   五
      仏 久遠元初の自受用身、即、日蓮大聖人
      法 事行の一念三千南無妙法蓮華経
      僧 血脈付法の日興上人

 日寛上人、当流行事抄にいわく、
 「久遠元初の仏宝、豈異人ならんや即ち是れ蓮祖大聖人なり、五百塵点劫の当初・毎自作是念・以何令衆生・得入無上道・速成就仏身・此の大秘願力を以て即ち末法に出現し自ら身命を惜しまず此の大法を授与す、此の如き大慈悲心・豈末法の仏宝に非ずや。
 久遠元初の法宝とは即ち是れ大御本尊是れなり、釈尊の因行果徳の二法・妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与う於我滅度後・応受持斯経・是人於仏道・決定無有疑云云此の如き大恩・香城に骨を摧き雪嶺に身を投ぐるとも寧ろ之を報ずるを得んや、
 久遠元初の僧宝とは即ち是れ開山上人なり、仏恩甚深にして法恩も無量なり、然りと雖も若し之を伝えずんば即ち末代今時の我等衆生曷ぞ此の大法を信受することを得んや、豈開山上人の結要伝授の功に非ずや・然れば即ち末法出現の三宝は其の体最も明らかなり」と。
 およそ、日蓮大聖人が末法の御本仏にあられることについては、法華経の予言との符合で、誰人も疑う余地のないところである。大聖人御自身の御書にも、開目抄の「
日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり」(023705)撰時抄の「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし、これをもつてすいせよ漢土月支にも一閻浮提の内にも肩をならぶる者は有るべからず」(028408)等々、明言されているとおりである。
早く天下の静謐を思わば須く国中の謗法を断つべし
 仏法は勝負である。信心に妥協はない。謗法を責めて責めて責抜いて、これを追放して初めて、信心している者も、信心していない者も、安心して暮らしていける平和世界が実現するのである。但し、これは総じての意であり、みずからの宿命を打開し、永遠の幸福を樹立するためには、信心する以外にないことはいうまでもないのであろう。
 如説修行抄にいわく、
 「法華折伏・破権門理の金言なれば終に権教権門の輩を一人もなく・せめをとして法王の家人となし天下万民・諸乗一仏乗と成つて妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり」(050205)と。
 上の御文は、国じゅうの謗法を断ち、広宣流布するならば、かかる理想世界が出現するとの仏のお約束である。

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