2012/1/10
イルミナティと外交問題評議会
(イルミナティに関する最も優れた解説―1967年の講義録)
マイロン・C・フェイガン
国連は、合衆国から主権を奪おうとする大きな陰謀と、アメリカ国民を国連の世界統一独裁体制の中で奴隷化しようとする企みの中心的存在である。この企みの方法と理由は、ほとんどのアメリカ国民の目から隠されている。
わが国と自由世界全体を脅かすこの恐るべき危機についてなぜ我々が無知であるか、その理由は単純だ。マスコミ、とくにテレビ、ラジオ、報道機関、そしてハリウッドが、この陰謀の首謀者によってことごとく絶対的に支配されているからだ。
周知のように、国務省、国防総省、ホワイトハウスは大胆にも「我々にはニュースを検閲し、真実ではなく、人々に信じさせたい内容のことを語る権利と権限がある」と宣言してきた。
彼らがこの権限を獲得できたのは、この大きな陰謀を実行する彼らの親分がそのように命じたからであり、その目的は、人々を洗脳し、合衆国を、国連を中心とする世界統一政府という奴隷制度に組み込むことにある。
このシナリオを書いているのは誰か その1
まず次のことを念頭においていただきたい。すなわち、15万の我々の息子を殺し、不具にした、いわゆる朝鮮における国連の警察活動は、この計画の一部であった、と。まさにそれは、議会による開戦宣言を経ずに開始され、今我々の息子の命を奪っているベトナムにおける戦争や、我々の息子たちがこれから殺されようとしているローデシアと南アフリカに関する計画と同じように、国連の計画の一部だった。
しかし、朝鮮において殺され、ベトナムで今殺されているすべてのアメリカ人、そのすべての母親が知らなければならない極めて重要な事実とは、我々が自分の国を守り、憲法を擁護するために選んだワシントンのいわゆる我々の指導者たちは、実は裏切り者であり、彼らの背後には、比較的少数の人々からなるグループが存在するということだ。これらの人々の目的とは、世界統一政府を作り、その悪魔的な計画の中で世界全人類を奴隷化することにある。
この悪魔的な計画について説明するにあたり、まずその起源(18世紀の中頃)を明らかにし、計画の実行者の名前を挙げ、さらに、現在の状況について述べてみたい。最初に、今後の説明を分かりやすくするために、FBIが用いる「彼はリベラルである」という表現の意味を明らかにしよう。
我々の敵、世界統一政府樹立をもくろむ陰謀家たちは、「リベラル(自由主義者)」という言葉を、活動の実態を隠すための隠れ蓑にしてきた。リベラルという言葉は、無垢な人道主義者のイメージを想起させる。しかし、自分のことをリベラルと称する人間、もしくは、リベラルと呼ばれている人間は、実際のところ「赤」ではない。
この悪魔的な計画が始まったのは、それが「イルミナティ」という名前で活動を開始した1760年代のことである。イルミナティを創設したのは、アダム・ヴァイズハウプトというユダヤ人である。彼は、カトリックに改宗し、カトリックの司祭になったが、その後、当時誕生したばかりのロスチャイルド家の要請により、棄教し、イルミナティを結成した。
ロスチャイルド家は、この計画の実行に資金を提供した。フランス革命以降すべての戦争は、様々な名前と偽装のもとで活動するイルミナティの操作による。私が、「名前と偽装のもとで」と述べたのは、イルミナティの存在が明るみに出され、その悪行が知られるようになると、ヴァイズハウプトと協力者たちは名前を変えて活動しはじめたからである。第一次世界大戦直後、合衆国において、彼等は「外交問題評議会(CFR)」を設立した。CFRは、実質的に合衆国におけるイルミナティとその組織にほかならない。
首謀者は最初のイルミナティ陰謀家たちを支配しているが、その事実を隠すために、そのほとんどが自らのもともとの名前をアメリカ流の名前に変えた。例えば、ディロン家、クラレンスとダグラス・ディロン(米国財務省長官)の本当の名前は、ラポスキーである。これについては後ほど述べることにする。
イギリスにおけるイルミナティの類似組織は、「イギリス国際問題研究所」である。似たようなイルミナティの組織がフランスやドイツ、他の国々で、異なる名前のもとで活動している。さらに、CFRを含むこれらのすべての組織は、非常に多くの下部組織や前線組織を持っている。それらは、様々な国々の活動のあらゆる局面にかかわり、その奥深くに侵入しているが、これらの組織の活動はことごとく、国際銀行家たちの操作とコントロールのもとにあり、彼らもまたロスチャイルド家の支配下にある。
ナポレオン戦争において、ロスチャイルド家のある支部は、ナポレオンに資金を提供し、別の支部は、イギリス、ドイツ、その他の国々に戦費を提供した。
ナポレオン戦争の直後に、イルミナティは「すべての国々は、戦争によって窮乏・疲弊しているので、どんな解決法でも喜んで受け入れるだろう」と考えた。ロスチャイルド家の傀儡どもは、いわゆるウィーン会議を開き、会議の中で最初の国際連盟を創設しようとした。これは、彼らによる世界政府の最初の試みであった。彼らは「ヨーロッパ諸国の政府のトップたちは、我々に大きな負債を背負っているので、我々の手下となることを進んで、もしくは、いやいやながらでも受け入れるだろう」と踏んでいた。
しかし、ロシア皇帝は、陰謀の存在を見抜き、それを完膚なきまでに破壊した。当時ロスチャイルド王朝の主であったネイサン・ロスチャイルドは烈火のごとく怒り「いずれ私か私の子孫が、ツァーとその家族を根絶やしにするだろう」と誓った。この誓いは、1917年に子孫によって成就した[訳注:つまりロシア革命]。
念頭においていただきたいのは、イルミナティは事を行うに際して短期的な視点に立たないということだ。通常、陰謀家は、自らの目的をその生涯のうちに達成することを期待するものだが、イルミナティの場合は違う。たしかに、彼らもその目的を自分の生涯の間に実現することを願っているのだが、イルミナティは、非常に長期的な視点に立って物事を実行している。数十年かかろうと、数世紀かかかろうとお構いなしだ。彼らは自分の子孫を陰謀の実現に捧げ尽くしている。
さて、話をイルミナティの草創期に戻そう。アダム・ヴァイズハウプトは、キリスト教を捨て、サタン的陰謀に荷担するまで、イエズス会で訓練を受けた教授としてエンゲルストック大学で教えていた。当時金貸し業を営んでいた新興のロスチャイルド家が、あの古くから伝えられていたシオン議定書を改訂し、その現代版を作るために彼を雇い入れたのは、1770年のことだ。シオン議定書は、そのはじめから、次のような目的を持っていた。すなわち、イエス・キリストが「サタンの会堂」呼んだ世界の最高支配権を獲得し、サタン的な独裁を通じて世界に破局をもたらすこと、そして、その破局を生き延びた人類に対して悪魔の思想を押し付けること、である。
ヴァイズハウプトは、その作業を1776年5月1日に終了した。読者は、なぜ今日まで、すべての共産主義国にとって5月1日が偉大な日として祝われているかお分かりだろう(5月1日は、アメリカ法律家協会が「法律の日」として定めた日でもある)。それは、ヴァイズハウプトが計画を作成し、それを実行に移すために正式にイルミナティを設立した日である。
この計画において、すべての既存の政府と宗教は破壊に値する。この目的を達成するために、ヴァイズハウプトが「ゴイズム」(つまり人間家畜)と名づけた大衆は、あらゆる政治的・社会的・経済的、その他の問題において、互いにいがみ合う陣営に分断されねばならず、その陣営の数は時間が経つにつれてますます増えつづけなければならない。これこそまさにわが国が直面している状況である。
対立する陣営に武器を与え、互いに戦わせ、弱らせ、その国民政府と宗教的組織を徐々に自滅に向かわせなければならない。もう一度言うが、これもまさに世界が直面している状況だ。
ここで、イルミナティの計画の主要な特徴を強調しなければならない。彼らの世界支配の青写真である「シオンの長老の議定書」が発覚し、衆目にさらされるようになった場合には、彼らは、疑惑の目を自分からそらすために、すべてのユダヤ人を地球上から消し去るだろうということである。
もし読者がこれを聞いてあまりにも過激だと感じるならば、彼らが、自らリベラルな社会主義者であったヒトラーを擁立し、60万人のユダヤ人の焼却処分を許したことを思い起こして欲しい。ヒトラーは、堕落したケネディ、ウォーバーグ家、ロスチャイルド家から融資を受けていた。
さて、なぜこの陰謀家たちは、その悪魔的組織の名称として「イルミナティ」という言葉を選んだのだろうか。ヴァイズハウプト自らが「この言葉は、ルシファーから来ている」と述べた。ルシファーとは、「光を持つ者」という意味である。[訳注:聖書のイザヤ14章12節でルシファー(明けの明星)とは「悪魔」の意]
ヴァイズハウプトは、自らの目的を「すべての戦争を防止させるために、知的に有能な人々に世界を支配させ、世界統一政府を作ること」にあるとした。これは嘘である。彼は「地上の平和」という言葉を餌として用いる。これはまさに、国連を設立するために1945年に陰謀家たちが用いた「平和」と同様の餌である。この餌を用いて――繰り返すが、ロスチャイルド家の資金に基づき――ヴァイズハウプトは、2千人ほどの追従者をリクルートした。その中には、芸術や文学、教育、科学、金融、産業の各分野における最も有能な人々が含まれていた。
その後彼は、「大オリエントのロッジ」という名のメイソン・ロッジを設立し、秘密の本部とした。さらに繰り返すが、これもすべて、ロスチャイルド家の命令による。
ヴァイズハウプトの活動計画では、イルミナティは、目的遂行のために以下のことを実行しなければならなかった。すなわち、あらゆる政府の様々なレベルの高官を支配するために、金銭的及び性的な賄賂を利用すること。
ひとたび影響力のある人々が、イルミナティの嘘や騙し、誘惑に乗るや、彼らは、自分及び家族のメンバーに対する政治的、他の形の恐喝、経済的破壊の脅し、秘密の暴露、金銭的損害、殺害の脅しによって、がんじがらめに縛られることになる。ワシントンにいる、どれだけ多くのトップの高官たちが、CFRによるまさにこの方法によって操作されていることか。どのくらい多くの、国務省、国防総省、その他の連邦機関、ホワイトハウスの同性愛者がこの方法で支配されていることか。
イルミナティと大学の教職員は、名門の家系に属し、世界に関する学識を有する、ずば抜けて頭脳明晰な学生を啓発し、彼らに対して国際主義に関する特別な訓練を受けるよう促さねばならなかった。そのような訓練は、イルミナティが選んだ人々への奨学金を通じて実現した。これで読者は「ローズ奨学金」がどのようなものであるかがお分かりだろう。つまり、それは「世界統一政府以外に、繰り返される戦争と争いに終止符を打つ手段はない」という考えを吹き込むために存在するのだ。これこそ、国連をアメリカ人に受け入れさせる方法だ。
ローズ奨学金 に関係するアメリカの学者の中で最も著名なのは、時々ハーフ・ブライト[中途半端な秀才]と呼ばれることもある上院議員ウィリアム・J・フルブライトである。投票記録によれば、彼はイルミナティである。このような学者はみな真っ先に「特殊な才能や頭脳を持つ人々には、才能のない人々を支配する権利がある。なぜならば、大衆は、金銭的・知識的・精神的に、自分にとって何が最善であるかを知らないからだ。」という考えを吹き込まれる。
ローズ奨学金と類似の奨学金のほかにも、今日3つの特別なイルミナティの学校が、スコットランドのゴードンズタウンと、ドイツのサレム、ギリシアのアンアヴリータに存在する。これらの3校は有名であるが、その他にも秘密の学校が存在する。イギリスのエリザベス女王の夫フィリップは、彼のおじロード・ルイス・マウントバッテンの勧めにより、ゴードンズタウンで学んだ。マウントバッテンは、ロスチャイルドの親戚であり、第二次世界大戦後イギリス艦隊提督になった。
イルミナティに騙され、その軍門に下った影響力のあるすべての人々と、特別な教育と訓練を受けた学生たちは、諜報高官として利用され、あらゆる政府の背後でエキスパートとして活動しなければならなかった。彼らは、行政機関の長に対して、結局のところはイルミナティの世界統一政府の秘密計画に益し、彼らがそのために選ばれた政府や宗教を破壊することになる政策を採用するように働きかけた。
現在アメリカ政府の中でそのような人々がどれだけいるだろうか。ディーン・ラスク、ロバート・マクナラマ、ヒューバート・ハンフリー、フルブライト、キークル、・・・。
おそらく、ヴァイズハウプトの計画で最も重要な指令は、当時、唯一のマスメディアであった報道機関の完全掌握であった。それは、人々に届くすべてのニュースと情報を捻じ曲げ、大衆に「世界統一政府こそ、今日の多くの問題を解決する唯一の解決法である」と信じさせるためであった。
誰がアメリカのマスコミを所有し、支配しているのだろうか。ハリウッドにおけるほとんどすべての映画を所有しているのは、レーマン家とクーン・レーブ・アンド・カンパニー、ゴールドマンサックス、その他の国際銀行家である。アメリカ全土のラジオとテレビは、これらの国際銀行家に所有され、支配されている。
これと同じことが、すべての首都圏の新聞と雑誌、さらに共同通信社やUPI通信などの通信社について言える。このようなメディアのトップは、今日のアメリカにおけるイルミナティ組織=CFRを構成する国際銀行家のお飾りにすぎない。
これで、なぜ国防総省の報道機関シルヴェスターが大胆にも「政府には、人々に対して嘘をつく権利がある」と宣言したのかお分かりだろう。つまり、それは「CFRが支配するアメリカ政府には、洗脳されたアメリカ国民に嘘をつき、その嘘によって信用を得る権利がある」ということを意味しているのである。
再びイルミナティの草創期に話に戻そう。18世紀後半に、イギリスとフランスは、世界の2大大国であったため、ヴァイズハウプトは、イルミナティに、米独立戦争をはじめとする植民地戦争を準備し、イギリス帝国を弱体化させ、1789年にはじまるフランス革命を開始するように命じた。
しかし、1784年に、神の御業により、バヴァリア政府がイルミナティの存在をかぎつけた。もしフランス政府がその証拠を拒絶しなければ革命は起こらず、フランスは救われたことだろう。
神はこのように働かれた。ヴァイズハウプトがフランス革命を起こすように命じたのは1784年のことである。ツヴァイフというドイツ人作家がそれを書物に記した。そこには、イルミナティとヴァイズハウプトの全計画が記されていた。この本が、ロベスピエールが指揮するフランスのイルミナティのもとに送られた。ロベスピエールは、ヴァイズハウプトによってフランス革命の準備のために選ばれた人間であった。
フランクフルトからパリに向かう急使がローレストンにおいて雷に打たれて死んだ。 警察が死体の上にあったその反体制の文書を発見し、しかるべき政府部署に渡した。 注意深い調査の結果、バヴァリア政府は、ヴァイズハウプトが新たに組織した「グランド・オリエントのロッジ」と彼の最も影響力のある組織の手入れを命じた。
新たな証拠をもとに、当局は、それが、戦争と革命を利用して世界統一政府の樹立をもくろむイルミナティの計画を記した真正の文書であることを確信した。ロスチャイルド家に率いられた彼らが、今日の国連と同様、世界統一政府の樹立と同時にそれを乗っ取る計画がそこに記されていた。
1785年、バヴァリア政府は、イルミナティを非合法組織と指定し、「グランド・オリエント」のロッジの閉鎖を命じ、1786年、計略の全詳細を公表した。その本の英語表題は、「イルミナティ組織による原文」であった。その陰謀の全体像を記した書物は、ヨーロッパの教会と国家のすべての首長に送られた。しかし、イルミナティの力――実際はロスチャイルド家の力――は強大であり、この警告は無視された。イルミナティという言葉は禁句となり、彼らは地下に潜った。
同時に、ヴァイズハウプトは、イルミナティに対して、「青いメイソン」のロッジに潜入し、さらに、すべての秘密結社の内部に自らの組織を作るように命じた。自分が国際主義者であること、そして、行動によって神を捨てたことを証明できたメイソンだけが、イルミナティへの入会を許された。それ以降、これらの陰謀家たちは、自らの革命的、体制転覆の活動を隠すために、博愛主義者と人道主義者の仮面をつけた。
イギリスのメイソン・ロッジに潜入するために、ヴァイズハウプトは「スコットランド・ライト」の高位のメイソン、ジョン・ロビソンをヨーロッパに招いた。ロビソンは、エジンバラ大学の自然哲学教授であり、エジンバラ王立協会の会長であった。彼は、イルミナティの目的が善意の独裁制を築くことにあるという嘘を信じなかったが、己の正体を隠し、ヴァイズハウプトの信任を得、その計略書の改訂版を入手し、調査した。
とにかく、フランスの国家と教会の首長たちがこの警告を無視した結果、1789年に革命が勃発した。これは、ヴァイズハウプトの計画の実現であった。ロビソンは、他の政府にも危険を知らせるために、1798年に『すべての政府と宗教を破壊する計略の証拠』という名の本を著したが、警告は無視された。それはまさに、アメリカ国民が国連と外交問題評議会(CFR)に関する警告を無視しつづけてきたのと同じである。
さて、ここに、聞く者に衝撃を与え、怒りを招くことになるかもしれない事実がある。それは、トマス・ジェファーソンとアレクサンダー・ハミルトンがヴァイズハウプトの弟子(管理人注 :ヴァイスハウプトはインゴルシュタット大学でキャノンローの教授))だったということである。ジェファーソンは、政府から放逐されたときに、ヴァイズハウプトの最強の擁護者の一人であった。当時新興の組織として現れたニューイングランドの「スコティッシュ・ライト」のロッジにイルミナティを入り込ませたのはほかでもない彼だ。
1789年、ジョン・ロビソンは、アメリカのすべてのメイソンの指導者たちに対して、ロッジの中にイルミナティが侵入したことを警告した。1789年7月19日にハーバード大学総長デイビッド・ペイペンは、卒業者たちに同様の警告を発し、イルミナティの影響がアメリカの政治と宗教に対していかに及んでいるか、またその過程がどのように完成したかについて講義した。ニューイングランドのメイソンロッジを設立したジョン・クインシー・アダムズも警告を発した。
アダムズは、メイソン最高階級であるウィリアム・L・ストーン大佐に3通の手紙を書いた。その中で彼は、ジェファーソンがイルミナティによる政府転覆のためにメイソンロッジを利用していると暴露した。これらの3通の手紙は現在もウィッテンブルグ・スクエア図書館(フィラデルフィア市)に所蔵されている。端的に言うと、民主党創立者ジェファーソンは、イルミナティのメンバーであった。このことは、現在の民主党の性質を少なくとも部分的に説明している。民主党にイルミナティが浸透している以上、今日忠実なアメリカニズムというものがまったく消えうせてしまったのも当然なのだ。
ロシア皇帝アレクサンダー1世によるウィーン会議での反撃に、イルミナティの陰謀はびくともしなかった。ただ「この事件によって世界統一の理念が一時的に潰えた」と理解したイルミナティに戦略変更を促したに過ぎなかった。ロスチャイルド家は、計略を持続させるには、ヨーロッパ諸国の金融制度への支配を強化する以外にはないと考えた。
話は遡るが、ワーテルローの戦いの結果は計略によって誤って伝えられた。ロスチャイルドが、ナポレオンが負けたという話を広めた結果、イギリスの株式市場はパニックに陥り、すべての株が暴落した。ネイサン・ロスチャイルドは、紙くず同然になったすべての株をただ同然で買い占めた。
これにより、彼は、イギリス経済を完全に支配し、ヨーロッパ経済のほとんどすべてを支配した。その直後に開かれたウィーン会議の結果が自分にとって不利な形で終わったため、ロスチャイルドは、イギリスに働きかけ、「イングランド銀行」を設立し、それを完全な支配下に置いた。その後、ヤコブ・シフを通じて、アメリカにおいて「連邦準備法」を作らせ、それを通じて、合衆国の経済を秘密裏に支配した。
合衆国におけるイルミナティの活動について話そう。1826年、ウィリアム・モルガン大尉という人が、イルミナティに関する完全な証拠とその秘密の計画及び目的をすべてのメイソンと一般大衆に知らせなければならないと考え、その陰謀の首謀者の名前を暴露した。
イルミナティは、すぐに被告人欠席のままモルガンを裁判にかけ、反逆罪の宣告を下し、さらに、イギリスのイルミナティ、リチャード・ハワードなる人物に命じて、処刑を実行した。ハワードは国境近く、正確に言うとナイアガラ・ゴージで、ある筋の情報をもとにカナダに逃亡をはかったモルガンを捕らえ、殺害した。
この事件は、ニューヨークにおいて、アヴェリィー・アレンによる証言によって確認された。彼は、宣誓後に「私は、ハワードがニューヨークの聖ジョーンズ・ホールの『ナイト・テンプラーズ』の集会でモルガンの処刑について報告したのを聞いた」と語った。彼はさらに、ハワードをイギリスに送り返す手はずについても証言した。
アレンの宣誓供述書はニューヨーク市公文書保管所に所蔵されている。メイソンと一般大衆の中で「その殺人事件に対する世間の非難により、合衆国の北部において半数近くのメイソンが脱退した」という事実を知っている人はほとんどいない。
この事件について議論するために開かれた会議の議事録の写しは、今も確かな場所に保管されている。また、その極秘文書には、イルミナティの首謀者たちが、そのようなひどい歴史上の事件を学校において教えないように画策しているとも記されている。
1850年代のはじめに、イルミナティはニューヨークにおいて秘密の会合を開いた。この会合にライトという名の一人のイギリス人イルミナティが参加した。出席者は「イルミナティは、無政府主義者と無神論者のグループとすべての反体制グループを束ね、コミュニストという名の国際的組織を設立するために活動している」と告げられた。
「コミュニスト」という言葉が始めて使用されたのは、この会合においてである。それは、全世界を恐れさせ、恐怖におびえる諸国民をイルミナティの世界統一体制に組み込むために編み出された究極の兵器であり、恐怖の用語であった。
「コミュニズム」は、イルミナティによる戦争と革命の準備のために作られた体制である。この新しい計画の資金集めのために委員会が設立され、そのリーダーとして、フランクリン・ルーズベルトの直系の先祖クリントン・ルーズベルト、ホラス・グリーリー、チャールズ・デイナ、及び当時一流の新聞発行者たちが任命された。
もちろん、そのほとんどの資金を提供したのは、ロスチャイルド家であり、この資金は、イギリスのソーホーにおいて『資本論』と『共産党宣言』を執筆していたカール・マルクスとエンゲルスへの融資に利用された。ここで明らかなのは、コミュニズムとはいわゆる思想ではなく、イルミナティの目的を達成するための秘密兵器・悪鬼の言葉であるということだ。
ヴァイズハウプトは、1830年に死亡する前に、この古い陰謀組織イルミナティを改造した。異なる名前を隠れ蓑にして、すべての国際組織とグループにエージェントを送り込み、彼らをそのトップの座に据えることによって、それらを組織化し、資金提供し、導き、支配するという計画であった。
このエージェントとして主な人物は、合衆国においては、ウッドロウ・ウィルソン、フランクリン・ルーズベルト、ジャック・ケネディ、リンドン・ジョンソン、ディーン・ラスク、ロバート・マクナマラ、ウィリアム・フルブライト、ジョージ・ブッシュ等である。
さらに、カール・マルクス がイルミナティのあるグループの指導のもとに『共産党宣言』を執筆していたとき、フランクフルト大学教授カール・リッターは、他のグループの指導のもとで反論を執筆していた。
陰謀全体を支配する人々の狙いは、2つの思想の違いを利用して、人類を対立するグループに分裂させ、その互いの乖離を次第に広げ、おのおのに武器を持たせて、互いに戦わせ、破壊することにあった。とくに彼らがターゲットにしたのは、すべての政治的・宗教的組織であった。
リッターが開始した仕事は、彼の死後、他の者に受け継がれ、ニーチェ主義の創始者ドイツの哲学者フリードリヒ・ウィルヘルム・ニーチェによって完成された。このニーチェ主義は、後にファシズムに発展し、ナチスを生み、第一次世界大戦と第二次世界大戦に道を開いた。
1834年に、イタリアの指導的革命家ジュゼッペ・マッツィーニがイルミナティによって選ばれ、全世界においてその革命計画を指揮した。彼は、1872年に死ぬまで、この計画のために働いたが、死ぬ数年前に、アルバート・パイクという名の米軍大将にイルミナティへの加入を勧めた。パイクは、世界統一政府という考えに惹かれて加入し、その後、ついにはこの悪魔的陰謀組織のトップにまで昇りつめた。
1859年から1871年まで、パイクは世界を巻き込む3つの大戦と様々な革命を引き起こすための軍事的ブループリントを作成した。彼は、この3つの世界大戦を通じてイルミナティの計略は進展し、20世紀において最終段階に達すると考えた。再度繰り返すが、これらの陰謀家たちは、短期的な結果を求めない。彼らは非常に長期的な視点に立って事を実行する。
パイクは、自分の仕事のほとんどをアーカンソー州リトルロックの自宅で行った。しかし、数年後、マッツィーニのヨーロッパにおける革命活動の影響により、イルミナティの「グランド・オリエント・ロッジ」に疑いの目が向けられるようになると、パイクは「新改革パラディアンライト」と呼ばれる組織を設立した。
彼は3つの「最高評議会」を設立した。一つはサウスカロライナ州チャールストン、一つはイタリアのローマ、もう一つはドイツのベルリンにあった。彼はマッツィーニに命じて、世界の戦略的に重要な場所に23の下部評議会を作らせた。それ以来、これらの評議会は、世界革命運動の秘密の本部となった。
マルコーニがラジオを発明するずっと前に、イルミナティの科学者たちは、パイクと評議会長のために秘密の通信を可能にする手段を開発していた。諜報高官たちはなぜ、例えばオーストリア皇帝[フェルディナンド1世]のセルビアでの暗殺のような一見すると互いに関連性のない事件が全世界で同時に発生し、それが戦争や革命に発展したのか疑問に感じていた。しかし、この秘密の通信手段が明らかになったことにより、その謎は氷解した。
パイクの計画は、効果的かつ単純であった。コミュニズム、ナチズム、政治的シオニズム、他の国際的運動の組織化を命じ、それらを通じて世界戦争と少なくとも2つの革命を用意することを求めた。
第一次世界大戦は、ロシア帝政の壊滅を目的としたイルミナティの戦争であった。ロスチャイルドは、ウィーン会議においてロシア皇帝によって自らの計画が台無しにされたことに怒り、ロシアを無神論共産主義の橋頭堡にするとの誓いを立てた。
イルミナティのエージェントが作り上げたイギリスとドイツ両帝国間の対立関係は、この戦争への下準備であった。戦後確立したコミュニズムの体制は、他国の政府の破壊と宗教の弱体化のために利用された。
第二次世界大戦を準備したのは、ファシストと政治的シオニストの対立である。読者は、ヒトラーの資金提供者が、クルップ、ウォーバーグ、ロスチャイルド家、他の国際銀行家たちであり、60万人とも言われるヒトラーの虐殺によって、ユダヤ人国際銀行家たちにはいかなる害も及ばなかったということに着目すべきである。
この虐殺は、世界の人々の心に、ドイツ人への敵意を植え付け、彼らに戦争を仕掛けさせるのに必要であった。端的に言えば、第二次世界大戦は、ナチズムを破壊し、政治的シオニズムの勢いを増し、ひいてはパレスチナにイスラエルを建国するための戦争だった。
第二次世界大戦中、国際コミュニズムの連合体が創設され、キリスト教国の連合体と肩を並べるほどになった。コミュニズム連合がそれだけの力を得るようになると、今度はその力を封じ込め、抑制し、最終的に社会的破局に向かうように誘導された。周知のとおり、ルーズベルト、チャーチル、スターリンは、その政策を実行し、トルーマン、アイゼンハワー、ケネディ、ジョンソン、ジョージ・ブッシュもそれとまったく同じ政策を実行してきた。
第三次世界大戦の下準備をしているのは、政治的シオニストとイスラム世界の指導者たちとの間で深刻化しつつあるいわゆる対立である。この対立を煽るために、様々な名のもとでイルミナティのエージェントたちが活動している。
世界は第三次世界大戦に向けてこのように誘導されている。すなわち、全イスラム世界と政治的シオニズム(イスラエル)を互いに戦わせ、それと同時に、他の国々をこの問題をめぐって分裂させ、互いに争わせ、物理的・精神的・霊的・経済的に徹底して疲弊させる。
思考力のある読者の中で誰が「中近東と極東において進行する陰謀は、そのような悪魔的目標を達成するための計画である」ということを疑うだろうか。アルバート・パイク自身、マッツィーニへの1871年8月15日付の手紙の中でこれらの計画をはっきりと明かした。パイクは、第三次世界大戦後に、世界征服を目指す人々によって、空前絶後の社会的大変動が起きると語った。
マッツィーニへの手紙(ロンドンの大英博物館に所蔵)から引用すると、
我々は、無政府主義者と無神論者を世に解き放ち、社会的大変動を引き起こす。恐怖に戦くすべての国民は、絶対的無神論――つまり、奴隷制と血で血を洗う最悪の騒乱の起源――の姿を目撃する。その後、いたるところで、人々は少数の世界革命家から自分の身を守るために戦わざるをえなくなる。そして、これらの文明破壊者たちとキリスト教に幻惑されている多くの人々を根絶やしにする。導きとリーダーシップを失った彼らは、一つの理想を求めるようになるが、自分の崇敬の念をどこに向けるべきか知らない。この時、彼らは、ついに全世界の人々の目に明らかにされたルシファーの純粋な教えを通じて真理の光を受け入れる。これは、キリスト教も無神論も同時に征服され、絶滅に追い遣られた後に生じる反動の結果である。
1872年にマッツィーニが死んだ後、パイクは、もう一人の革命指導者アンドリアン・レミーをその後継者とした。レミーの後継者こそが、レーニンとトロツキー、そして、スターリンである。彼らの革命運動を資金面で支えたのは、イギリス・フランス・ドイツ・アメリカの国際銀行家たちであり、その上に君臨していたのがロスチャイルド家である。
たしかに、現代の国際銀行家たちは、キリストの時代の両替商のように、巨大な陰謀の一つの駒またはエージェントとして、あらゆるマスコミの背後に潜む黒幕となり、我々に「コミュニズムはいわゆる労働者の運動である」と信じさせようとしている。
国際銀行家―とくにロスチャイルド家―の支援によって動く国際自由主義者は、1776年以降、すべての戦争と革命の両陣営に資金を提供してきた。このことを証明する真正の証拠文書が、イギリスとアメリカの諜報高官の手元にある。
今日陰謀に携わっている人々(合衆国ではCFR)は、アメリカ連邦準備制度などを通じて政府に高利で金を貸すことによって我々の政府に影響力を行使・支配し、我々を戦争に誘導している(例:ベトナム戦争。この戦争は国連が作った)。その目的は、パイクの計略を推進し、無神論コミュニズムとキリスト教全体を第三次世界大戦に引き入れ、世界規模だけではなく、各国の国内でも戦乱を引き起こすためだ。
1700年代の後期に陰謀の中心地として選ばれたのは、ドイツのフランクフルトであった。マヤール(メイヤー)・アムシェルがロスチャイルド家を創始したのもこの地である。アムシェルはロスチャイルドと名乗り、文字通り悪魔に魂を売った他の国際的な資金提供者と手を結んだ。1786年にバヴァリア政府によって計画が暴露されてからは、本部をスイスに、その後ロンドンに移した。第二次世界大戦後(ヤコブ・シフとアメリカに住むロスチャイルド家の子弟の死亡後)、アメリカ支部の本拠は、ニューヨーク市のプラット・ビルディングに移った。もともとシフの下で活動していたロックフェラー家は、イルミナティのために、アメリカにおける金融操作を引き継いだ。
陰謀の最終段階において、世界統一政府の指導部は、陰謀の実現に身を捧げていることが証明された独裁者なる王、国連のトップ、CFR、少数の億万長者、経済学者、科学者によって構成されるだろう。その他の人々はすべて、実質的な奴隷としてこの体制に組み込まれるだろう。
アメリカ連邦政府とアメリカ国民はどのようにイルミナティの世界統一の計略に飲み込まれていったのだろうか。常に念頭においていただきたいのは、国連は、この世界統一を目的とした、いわゆるリベラルな陰謀の舞台として設立されたということである。
合衆国の乗っ取り計画の基礎作りは、南北戦争の時代に始まった。すでに述べたように、ヴァイズハウプトと初期の首謀者たちがこの新世界を見過ごしていたということではない。ヴァイズハウプトは彼のエージェントたちを、独立戦争の時代にこの地に送り込んだが、ワシントンは彼らより上手だったということだ。
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2012/1/9
神なしの現実
世俗化の本質
われわれが直面している「神なし」の現実とは、社会現象的には「世俗化」の現実を意味している。
だいたい19世紀から今日に至るまでのわれわれが生きているこの時代を、多くの宗教社会学者や歴史学者は、歴史的世俗化過程(secularization)の時代とみなしている。(3)
ただし、そこで用いられる「世俗化」という言語概念の意味は多義的である。
元々、世俗化は、「聖なるもの」に属すると考えられていた場所や空間がこの世の人間的な目的のために用いられることを意味した。
F. ゴーガルテン(F.Gogarten)は、西欧社会の世俗化の開始をルターの宗教改革に置き、宗教改革が修道院的な禁欲生活に抵抗し、中世の「聖−俗」二元論的倫理観を退けることによって、世界観と教会に関する理解を根本的に変革し、教会の各施設を一般の目的のために使用し始めたことに起因すると指摘する。(4)
この指摘の妥当性はともかくとして、今日では、たとえば、カトリックであれプロテスタントであれ、宗教改革以後のキリスト教が導入された日本のキリスト教会では、教会堂は、ただ礼拝のためだけではなく学校や幼稚園の教室や遊び場、地域住民の集会場などといった多面的用途で用いられているし、その事情は、他の仏教や神道の神社仏閣でも変わりがない。
あるいは、かって「聖なるもの」として考えられてきたものは、歴史的遺産として観光資源の一つになり変わっている。
「世俗化」は、第一義的には、聖なるものの俗化という、そうした社会現象を伴う宗教学的概念にほかならない。
しかし、世俗化の概念は、そうした社会現象的な次元の問題以上に、厳密には、西欧キリスト教社会の歴史的没落現象を意味する歴史概念として理解されなければならない。
M.ハイデッガー(M.Heidegger)によれば、それは、超感覚的な世界の優位性を説く伝統的な形而上学的思惟が、近代科学、あるいは近代哲学で主張された人間主義、理性主義の運動のために、次第に勢力を失い、没落過程に入っていること、とりわけキリスト教的西欧文化の崩壊の徴表を意味している。(5)
その意味では、世俗化は、近代西欧史に顕著に現われた一つの歴史概念にほかならないし、西欧キリスト教社会の中での制度宗教としてのキリスト教の全体的没落現象を意味している。
しかし、その現象の根底に、近代的思考の根本としての理性の解放と人間論的転換があることを見る時、この現象が人間と宗教的超越、あるいは聖なるものとの関係の普遍的な現象であることに気ずくはずである。
M.ウェーバーは、世俗化を「世界の非魔力化と合理化の普遍的過程である」(6)と規定している。
つまり、世俗化は、呪縛的であった宗教からの人間の自己解放の歴史的過程に他ならず、より根源的には、人間の理性的判断の領域において、客観性の名の下で、現象学的に現存在を現存在として認識しようとすることによって、あらゆる超越概念を排除し、作業仮設としての神を棄却することを意味している。
つまり、政治、経済、諸科学に内在する事実の構造について、もはや宗教的後見なしに、事柄そのものの現象を解明し、その分析と認識に基づいてあらゆる行為が行われることを意味しているのである。
従って、世俗化の背景には、西欧近代社会の中で押し進められてきた啓蒙主義以降の人間の理性の自由な行使と「自律(Autonomie)」への知的情熱が息吹いているのであり、真の世俗化は、そのことによって、精神的、法的、社会的、政治的なあらゆる特権や差別から、あるいは不正義と感じられてきた支配から自己を解放するものに他ならない。
それ故、「神」という超越概念の名の下で呪術的支配を行ってきた制度としてのキリスト教が無用のものとなり、全体的に没落していくのは、「自律」の必然的過程であり、宗教が、ここで過去の遺物である古い「神」概念を持ち出すことは、無意味であるばかりか有害ですらある。
反世俗的であることと宗教的であることを同義であるかのように考える偽神秘主義的宗教理解は、人間の自立の過程を疎外する。そしてそれはさらに、非キリスト教的で、非聖書的ですらある。
しかし、残念なことに、このことはこれまであまりきちんと整理されてこなかったきらいがある。その無理解が、いつでも、宗教的か世俗的かの二元論的対立を生み、一方では宗教がまったく棄却されるか、あるいは、世俗化が進んでいるアメリカや日本でのように反社会的カルト宗教を生み出すかのどちらかとなってしまったのである。
これらのことは、近代以降の人間が歴史的現象としてたどってきた世俗化過程を、単なる現状是認的な終末論なき世俗主義(secularism)と厳密に区別し、神の啓示の現在化を歴史における超越の内在性として認識することによってもたらされる人間の実存的自律過程として理解し、聖書自身が人間のその自立を促していることを認識することで、いっそう明らかになるであろう。
神なしの現実
聖書における「神なし」のススメ(1)
聖書は人間の自立を神の名において促す。
旧約聖書において、たとえば「十戒」の第三戒は、主の名をみだりに唱えることを禁止する。神は、人間の極限的な限界状況において人間を救い出す神ではあるが、その神の救いの御手は、神自身の自由な愛の必然性に基づいて差し伸べられるのであり、人間が自己自身の必要性に応じて「神の名」を用いることを禁じられる。
それは、人間自身が神に依存した生を送るのではなく、自らの自由と責任において自立していくことを望まれるということを意味している。
「自立」とは、自らの為し得ることは、少なくとも自らの手で引き受けていこうとする責任を負う行為の基本的な精神の有り様をいう。
その意味で、「十戒」に代表されるような神に対する本当に深い信頼と愛は、必然的に、たとえそれが不条理として感じられようとも、与えられた世界と自己の生を自ら責任をもって引き受けようとする「自立の精神」を促すはずである。
自立の精神は深い信頼に基づいて初めて生まれるものにほかならない。だから、「主の名をみだりに唱えてはならない」のであり、「主よ、主よ、と言う者が救われるわけではない」のである。
信頼は自立を生み、疑いは依存と隷属を生む。信頼することと依存することは、まったく別の精神の形態であり、依存は隷属しか生まないが、全き信頼は自立と自由を生み出す。
信仰の父アブラハムは、最愛の息子イサクを殺さなければならないという不条理を最後まで自らの責任において担おうとした(『創世記』22:1−19 )。
沈黙のヨハンネス その1参照
沈黙のヨハンネス その2
沈黙のヨハンネス その3
『野の百合・空の鳥』の第一部第二節では、野の百合と空の鳥のもとにある沈黙には、「あれか−これか」が存在していることが語られている。多くの場合、人の思い煩いは、「あれか−これか」の選択の思い煩いではないだろうか。人生は選択の連続であり、「あれ」を選択しても思い煩い、「これ」を選択しても思い煩う。そして、たとえ小さな選択であれ、その選択によって人生は決定的に変わってしまう。
そして、この「あれか−これか」の選択の究極のものは、あるいは、いつも最終的に繋がっていくのは、宗教的な表現をすれば、「神か、それとも他のものか」という選択である。だから、キルケゴールは、「あれか−これか」の選択は、すべてのことにおいて絶対的に神に与するか、それとも神をないがしろにするかの、少しの妥協も許さぬ二者択一である、と言う。そして、真の沈黙が神の前で自分自身を委ねる時に起こるとしたら、沈黙は神へ与する行為であり、自己を委ね、神の意志へ服従しようとするの第一条件となる。
自然は沈黙し、自己を委ね、絶対服従の姿を持つ。そのため、自然においては神の意志が直ちに成る。たとえば、百合はどんな不幸な場所におかれても、従順に自己の運命に服して、美しさの限りを尽くして、その花を咲かせる。百合や鳥は服従以外に何事もなしえない。人は、この百合や鳥の姿から、服従、すなわち自己を委ねる道を学ぶことができる。
だが、人間は自ら意志を持つが故に、自らこの「委ねる道」を作り出すのに成功しなければならない。動かすことのできぬ神の意志に、絶対的に服従して、そこで「委ねる」行為によって、神の意志が成るような「徳」を作り出すように努力せよ、とキルケゴールは言う。沈黙し、委ねることによって神の意志が成る。 「私が弱いときに、神は強い(強く働く)。だから、誇らなければならないとしたら、自分の弱さを誇ろう」そのような「徳」を作り出すこと。これこそ、常に「あれか−これか」の前に立たされる人間の謙遜な姿であり、自らの宿命を自ら引き受けていく人の姿に他ならない。
野の百合と空の鳥は、「どうすることもできない自分自身と現実」を自ら引き受けることを、その沈黙の姿のうちに教えている。』
彼はその不条理を自己の試練として受け止めたのであり、神の名を持ち出してその不条理から逃れようとしたのではなかった。イサクに向かって最後の剣をあげたのは、神ではなく、あくまでも彼自身であったし、神への絶対的な深い信頼の中で自分の行為の結果を自ら引き受けていこうとする決断だけが、その時の彼を支えたのである。
彼はそれを試練として受け止めた。ある不条理の苦悩が「試練」として受け止められたということは、その不条理を自らのものとして担おうと決断したということを意味している。
この決断が為されないところでは、苦悩は「試練」としてではなく、苦悩として止まり続ける。それ故、この決断は、神に最も大きな信頼を寄せるが故に、そこで神に依存して不条理から逃れようとすることを自ら拒否するのである。
また、預言者は、その託された預言の言葉を、自己の生涯のすべてをかけて担わなければならなかった。そのことに最も苦悩したのはヨナとエレミヤに代表されるが、ヨナはニネベの町の「とうごまの木」の下で、神の真実と計り知れない恵みの大きさに思いを寄せていくし、エレミヤは廃虚となったエルサレムで、「来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。」(『エレミヤ書』31:33−34)と語る。
「主を知れと教えない」ということは、人々が深く神の愛と信頼を心に刻んでいるので、もはやあえて「神」について語る必要がないということである。
それは、人間が、その深みにおいては神への信頼に基づいて、現象においては、その深みから導かれてすべてのことを自己の自由と責任において決断し行為することを意味している。
ここでは、宗教が伝統的に持ってきた「超越的なもの」に対する悪しき依存的体質が全く否定されている。
そして、神は「隠れた神」となり、内在の神となることが宣告されているのである。
聖書における「神なし」のススメ(2)
聖書は人間の自立を神の名において促す。
何よりもナザレのイエスは、神に信頼して生きることを示したのであり、依存して生きることを教えたのではなかった。
彼は、神と隣人を愛することにおいて、神を神とし、人間を人間とするところに、真実の人間の姿があることを教えた。
律法学者によって最大の戒めを問われたイエスは、旧約伝来のシェマーを挙げた(『マルコ』12:28−34、及び平行記事)。
それは、人が神を神とするところでこそ、人間を人間となし得るし、人間を人間とするところでのみ、人が真実の神を見い出し得ることを意味している。
イエスにおいて受肉した神は、「神であることを固執せず、自らその高みを放棄し、まったき人間となられた」(『フィリピの信徒への手紙』2:6−8)神であり、その信仰告白は、神が内在においてこそ自らを顕現するものであることを意味している。
「人間を人間とする」ところでは、神は、エレミヤの「新しい契約」で語られたように、あくまで、「隠れた神」であり、内在の神である。
そして、この神の受肉による内在性は、人間が、神を持ち出し、それを振り回すことを厳然と拒否し、謙遜さの中で自らの責任において自らを引受ていこうとする自立へと、人間自身を促すのである。
十字架上で「おまえが神なら、自らを救ってみよ」と罵られた時のイエスの沈黙による静かな拒絶は、そのような「自立の精神」の姿そのものにほかならない。自分の十字架を負って歩む者だけが、彼を支える見えない神の無限の愛の大きさを知ることができる。彼は、苦難の杯を飲むことが、全面的に自己の決断に基づくものであることを知っている。
新約聖書のパウロと初代教会教父たちの信仰上の戦いの一つは、グノーシス主義の「魔術的世界理解」であった。
彼らは、その戦いにおいて、自己の理性の判断可能な領域に基づいて、それらを「愚かな作り話や空しい哲学(知識)」として認識することができたのである。
そして、新約聖書における終末論から導かれた倫理的勧告は、すべて、「自分の足で、揺るがぬ土台の上に立って生きること」を勧めるのである。パウロは、「人は、自らまいた種を、自ら刈り取らねばならない」(『ガラテヤの信徒への手紙』6:7−8)と述べる。
こうした聖書が示す「人間の自立」への促しは、必然的に人間の依存的な状態や「魔術的なもの」への隷属を否定し、自立のための自己の理性的判断領域を拡大していく方向をたどることになる。
近代西欧社会は、そのことを、科学技術の発明と発見、市民社会の形成と言う社会構造の変革を通して、思いのほか急速なスピードで押し進めてきたのである。今日の驚くほどに発達した科学技術の認識と方法の背後には、この「自立の思想」が息吹いているのである。
人間の自立を求め、理性の自由な行使を主張した啓蒙主義は、本質的にはキリスト教思想の子であり、西欧近代社会以降における「世俗化」は、その意味でも、聖書的歩みの長い歴史的必然的過程であるといえる。聖書は、神の内在によって人間の自立を進めるのである。
ただし、この受肉によって啓示された神の内在性、つまり、神の啓示の現在化を歴史における超越の内在性として認識するということは、歴史を人間の進歩の総計とみなしたり、「神なし」に進行する世俗化を人間的実存の何らかの到達点とみなすような浅はかな楽観主義を意味しない。
その意味では、F.ゴーガルテンが指摘したように、「世俗化」と「世俗主義」は厳密に区別されなければならない。
世俗化と世俗主義
F.ゴーガルテンは、「世俗化」と「世俗主義」を厳密に区別した。(7)
彼は、進展していく世俗化を聖書の「成人性」の概念や「世界に対して責任を委託された神の息子」という概念で説明しようとした。
『ガラテヤの信徒への手紙』4章で述べられているように、人間は、もはや後見人が必要な子供ではなく、成人した息子となったのであり、世俗化は、その神の息子の「成人性」にほかならないと言うのである。そして、人間は、成人した神の息子として世界を正しく保持するようにと招かれていると言うのである。
彼は、世俗化をキリスト教信仰に基づく「成人した神の息子」の概念で積極的に評価し、むしろこれをさらに押し進めるべきだと主張する。
彼のこの主張は、啓蒙主義以来の、神に依存しないで生きようとする人間の自立の精神の確立の神学的後づけとして意味をもつだろう。
しかし、彼のこの「成人性」の理解には、現代人を現状肯定的に成人した人間としてみなし、この現代人を世界の上に立って管理する者としてしまう悪しき人間中心主義的な精神的植民地主義の危険性が存在する。
彼が「成人した神の息子」としてみなしたのは、神と人間と自然(世界)を未分化のままに神話的表象に包んで崇拝していた自然宗教的環境から脱出して科学的合理精神を身につけている人間にほかならないが、それを「成人性」とみなすことには疑問が残るし、それが聖書が告知する人間の姿であるかどうかは厳密に問われなければならない。
また、人間が世界を管理する存在であるという主張は、自然と世界を自らの手で技術的に支配し、利用し、服従させようとする他の多くの西欧キリスト教思想家たちも犯してきた誤りの一つではあるが、人間は弱さと限界を抱えて生きなければならない生物として自然の一部にすぎないし、世界の上ではなく、世界の中で、世界と共に生きるものにほかならない。
しかし、その問題は別にしても、F.ゴーガルテンは、成人した神の息子が、ちょうど放蕩息子が父を捨てて困窮に陥ったように、神を見失った姿を「世俗主義」と呼んで世俗化と区別した。「世俗主義」は世俗化の堕落であり、世界を自らの手で救おうとして、かえって人間を疎外し、隷属化する。
このような世俗主義は、近代における世俗化の誤った道である、と言うのである。(8)
「神なし」を誤解し、神を見失った世俗主義は、彼が指摘するとおり、受肉した神の真実の内在性に基づく自立的存在の根拠を見失っているが故に、人間を徹底的にニヒリズムの深淵に落とし込んでしまう。
ニヒリズムは世俗主義の徹底した姿にほかならない。このニヒリズムは、存在の根拠を喪失させるが故に、絶えざる意味喪失を引き起こし、やがて、その意味喪失に疲れてしまい、すべてを絶えず断念しつつも、ついには手当りしだいのものを絶対化していくようになる。
ニヒリズムは、常に偶像礼拝へ傾斜していく。 F.ニーチェは、近代の「神なし」の自立した人間の姿を求めたにもかかわらず、神の真実の内在性を見失ったために、結局、「超人」と言う偶像礼拝に陥った。
彼の「超人」の思想は、時代の一般的気分を先鋭化し先取りしたものであったが故に、偶像礼拝の最も危険な思想的傾向を示し、「超人」ではありえない現実の人間の弱さと罪深さに対する差別と抑圧の因子を本質的にその中に含んでいる。
世俗主義に陥って、差別と殺戮を繰り返した20世紀初頭の歴史が、そのことを明瞭に示している。
そして、20世紀後半になって、ニヒリズムが生み出す刹那的な一時的気分によって、現代人の多くが、生の根本的空しさを覚えることなしに何一つ為し得ないという精神的な破滅的状態へと追い込まれている。
分裂と不安が、この時代を支配しているのである。ニヒリズムの克服は、人間にとって思想史上の最大の課題である。
現代の代表的童話作家のM.エンデ(M.Ende)は、「永遠の概念」を失い、真実の存在の意味を失った世俗主義の姿を、『モモ』の中で「時間泥棒」に無意識のうちに時間を盗まれて、生きる喜びを失った人々の姿として、また、希望や幻をもって生きることが「虚無」に犯されて滅んでいく姿を『はてしなき物語』で描き出している。(9)
結局、世俗主義は、「人間の自立」という世俗化の中で、その自立的であろうとする人間の現存在を支える神の内在性を見失うことによって、世俗化そのものの根源を喪失し、人間のあらゆる活動分野において、統一のない、限りない虚無の現象化を示すものにほかならないのである。
この世俗主義の問題を克服するためには、神の内在性が、再び、さらに深い意味で回復されなければならないのではないだろうか。
つまり、「神なし」に生きる現実の深みで、「神と共に」あることの逆説的意味が再獲得されなければならないし、受肉したキリストの十字架は、まさにその逆説を差し示しているのである。
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2012/1/9
神の超越性は個人の内面にあり
「
神の超越性は個人の内面に存在する」というK.Wiseman氏(Alias 小副川幸考氏)の言葉に素直に耳を傾けましょう。(転載許可済み)
キリスト教倫理の形成と超越
原文
ヘレニズム世界で発生したキリスト教の信仰思想は、その影響領域の社会的拡大と共に古代ギリシャの哲学思想との融合を試みた。
管理人注 :ヘレニック文明社会が同時代の東方諸文明に対して加えた圧力は,その応答としてキュベレ崇拝,イシス崇拝,ミトラ教,キリスト教,および大乗仏教を出現させた。また,バビロン文明社会に対する軍事的圧力は,ユダヤ教とゾロアスター教を出現させた。イスラム社会は,コーランの原典の中に示されている指示にもとづき,イスラム以外のいくつかの宗教を宗教的真理を部分的に示す真正の啓示として認める態度を継承したが元来ユダヤ教徒とキリスト教徒とに与えられていたこの承認が,のちにゾロアスター教徒とヒンズー教徒にも拡張されるようになった。
拙稿:アウグスティヌスの復活論 その1参照
『ヘレニズム文化爛熟期の地中海世界に進出したキリスト教が、当時の宗教思想と対決しなければならなかった最も根本的な問題は、先に見たように復活の問題でした。霊魂の不滅と輪廻転生の宗教的雰囲気にいた人々にとって、キリストの福音が告知したキリストの復活と、信じる者が終わりの日の復活にあずかるとの希望は、新鮮で衝撃的な救済の告知でした。それだけに、キリスト教に対する批判も復活の信仰に集中したわけです。ローマ帝国の度重なる過酷な迫害に信徒たちが勇敢に耐えることができたのも、復活にあずかる希望があったからでした。キリスト教はこの復活の信仰によって他の諸々の宗教とローマ帝国に勝利した、と言っても言い過ぎではないと思います。
(上のキリスト教はこの復活の信仰によって他の諸々の宗教とローマ帝国に勝利した,に関して管理人注 :『不可知論者に神を冒涜する機会が与えられた。勝利者となる宗教は通常,競争相手の主要な特徴のうちのあるものを引き継ぐことによって勝利を獲得するからである。勝利を得たキリスト教のパンテオンにおいて,マリアの,神の偉大なる母への変貌という形で,キュベレやイシス(ISIS)の姿が再現しているし,また戦うキリストのうちにミトラなどの面影が認められる..............なぜキリスト教は,ユダヤ教の,神は愛であるという洞察を承認し,宣言した後に,それと相容れない,ユダヤ教のねたむ神の概念(注:ユダヤ教のねたむ神の概念は『あなたはわたしのほかに,なにものをも神としてはならない』(出エジプト記第20章3節)にも見られる)をふたたび取り入れるようになったのか。それ以来絶えずキリスト教に大きな精神的損害を与えてきたこの逆行は,キリスト教がカイサル崇拝との生死にかかわる争いにおいて勝利を得るために支払った代価であった。教会の勝利によって平和が回復されたのちも,互いに相容れないヤーウエとキリストとの結びつきは解消するどころか,かえって一層強化された。勝利の瞬間に,キリスト教殉教者の非妥協的態度が,異教や異端を迫害するキリスト教会の不寛容に移行したのである。(注:特に13世紀のスペインで顕著であった)』....ですから木村氏の言うようにローマ帝国に勝利したのではないのです。 )
その原理的な姿は、すでに新約文書のパウロ書簡にちりばめられている「倫理的勧告」や『使徒言行録』の著者によって記述された「アレオパゴスの説教」(『使徒言行録』17章16-34節)などに見られるが、最も顕著で積極的な姿は初期キリスト教弁証家たちの神学思想に現れている。
彼らは、聖書の神がギリシャ哲学の説く神とは別の神ではなく、むしろそれに優る最高の神であることを主張することをもってキリスト教の弁証を開始したのである。
アテナゴラスやテオフィロスやユスティノスは、当時のストア哲学やプラトン哲学、特にネオプラトニズムが「デミウルゴ(Demiurgo)」 という概念で説いた形而上学的超越概念をもって聖書の神概念を説明したし、アレキサンドリア学派の教父たちは、プラトン的な神概念をキリスト教信仰内容の概念的形成の尺度として採用している。(8)
拙稿:聖書ものがたり・使徒言行録参照
そして、この流れが西洋キリスト教神学の全体の方向を決定したアウグスティヌスを経て中世に至るのである。
聖書の神がプラトン的な形而上学的超越概念と同定されることによって、倫理的な事柄は、その神理解から自動的に導き出される理性の実践的な行為となり、道徳的なことはその超越によって基礎づけられた自然の道徳法則の概念から必然的に出てくる要求や理想として理解され、倫理学に対する原理的な注意は、せいぜい、教会内における建徳的な魂の訓練か教会共同体の秩序の維持以外には、ほとんど払われなかったのである。
しかし、この初代キリスト教神学が倫理学的原理に対して熟慮しなかったことは、直ちに、それが倫理的な事柄に対する無関心を意味しない。
むしろ、本質的に道徳的エートスを持つキリスト教信仰思想から、彼らは積極的にこの世界における人間の理想的な姿を問い、個々の場合についても、例えば国家や兵役、奴隷制、教育、家庭、富の問題などに重要な見解を示している。(9)
ただ、それらがユダヤ・ヘレニズム的道徳観と自然法的倫理観の無原則の混同の中で、原理的に形而上学的最高存在としての神を根拠にして、そこから形而下の一切の存在を秩序づけることができると考えられたのである。
アウグスティヌス(Augustine)の神学体系である二王国論「神の国(De Civitate Dei)」は、その流れの頂点に位置するように思われるし、宗教改革者M.ルター(M.Luther)が「善きわざは信仰によってのみ生じる」(10)と論じた源流もそこにある。
拙稿:聖書ものがたり・イザヤ書参照
そして、神学的には、この方向は倫理学の教義学的基礎づけといった方向を取ることになるのである。
しかし、西欧社会の中で、キリスト教会的な文化統制が一応の安定を見せた中世において、文化全体を支配する価値観や倫理的な諸要求と個人の魂の建徳的訓練のための諸命題を結合させる倫理学が、世界観や文化全体を明確に認識するために必要不可欠なものとなっていったが、そのために神学自体はかえってギリシャ哲学との結合を濃密にし、キリスト教の根本思想から展開されるようなキリスト教倫理学ではなく、道徳的自然法をアリストテレスの倫理学と同一視して、ただ自然法的な道徳法則から生じるすべての倫理的目的を教会の究極的目的に従属させようとしたのである。
こうして、自然法を正しく解釈し、具体的事例をキリスト教的調停へと導くための司祭の指導が制度化され、神の恵みに伴う超自然的秩序に属するための一種の修道倫理が形成され、特に神の恩寵によって引き起こされた英雄的で禁欲的な行為を内容とする倫理学とこの世界の現存在の自然的目的から生じるような自然的、哲学的な、家庭生活や国家、経済、科学、芸術といった世俗的な諸々の関心を取り扱う倫理学が形成されていく中で、その倫理学的二元性が、一種の宗教的功利主義の枠組みの中で位置づけられたのである。
しかし、こうした中世カトリック的倫理の二元性は、社会構造が聖俗二元論的に静的に固定した存在の秩序として受け入れられている場合には有効であり得たかもしれないが、社会全体においても教会自身においても、ある種の歴史的必然としての世俗化が、初めは物理的経済的に、やがては存在論的精神的に進行するにつれ、社会構造の急激な変動とともに、それを位置づけていた枠組みそのものが崩壊し、せいぜい極端な保守主義と制度化された教会のゲットー化を生み出すぐらいにしか意味を見いだせなくなるのである。
M.ルターの宗教改革は、そのような宗教的功利主義の枠組みに入れられていた倫理の二元性 を破棄することから始まった。
聖−俗の枠組みを外して、「聖書のみ」、「恵みのみ」、「信仰による義」といったような信仰告白的標語が次々と語られ、「義人にして同時に罪人」という逆説的表現の中で、罪のゆるしと和解をもたらす神の恵みの福音への信仰は、人を罪の領域から愛と信頼の領域へと導き、その信仰によって、人は神と隣人への愛へと促されるのであり、そこですべての世俗的目的と秩序とから自由であるという「キリスト者の自由」においてすべての人に愛をもって仕える義務を負うという新しい「愛の倫理」が語られようとした。
この神と隣人への愛という動機によって、社会的、政治的、法的実践が基礎づけられ、福音理解に基づく人間の現存在の倫理的要請が再解釈されたのである。
信仰によって神から与えられた良心に基づいて行為する自由な人間、行為の責任を負う責任主体としての人間の形成が説かれ、その自由と責任の根源としての神の愛についての教説の中で、あらゆる倫理的な事柄が新たに理解されようとした。
そこで、倫理学はいつでも福音理解に基づいて神と世界と人間と救済の概念を示す教義学の中で取り扱われ、その結果、キリスト教倫理学の古典的な問題が再登場したのである。
つまり、信仰と信仰共同体である教会に集中しつつ、国家、法、戦争、教育、哲学を含めた芸術や科学、この世の財、身分、職業などに対してどのような態度をとるべきかという問題である。
そして、ここに至って、神の超越性はその超越性を保持しつつ見事に内在化しようとしたのであり、近代哲学者のカントの人格理念に基づく倫理学もそこから生じたと言えるのである。
しかし、宗教改革後の西欧プロテスタント正統主義は、そのことによってかえって、宗教改革的「愛の倫理」を徹底させるのではなく、科学者や哲学者や法学者がそれ自体の学問的追求との関連で導き出す客観的事実の主張の中で、信仰を主観の領域に限定する傾向から、キリスト教倫理学をただ教会内の、あるいはキリスト者の個人的私生活の在り方を道徳的に問うものへと限定していったのである。
「十戒」と「山上の説教」は内面化され、アブラハムの神は哲学者の神とは異なり、中世カトリックの二元論的構造とは異なった倫理の二重構造がキリスト教倫理学を宗教的特殊倫理学の中に限定していったのである。
人は、個人として与えられた境遇の中で信仰深く、まじめで、誠実な服従心をもって、神の召命に基づいて、自然法的諸要求、つまり国家組織や経済組織の要求に従うことを最善のこととし、あらゆるところで、その自然法的諸要求が先行する中で、神の超越性はただ個人の内面にのみ存在するようになったのである。
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イエス30歳の時ヨルダン川のバプティスト・ヨハネより洗礼を受ける。プロテスタントはイエスの誕生が西暦4年であり世界の終末は2026年に来るという考え方をしている。
また、この宗教改革的「愛の倫理」は、その倫理的要請の前提としてもっていた神の創造の秩序への確信が社会変動と世俗化の中での近代市民社会における個人の権利と自由意識の高揚によって崩壊していく中で、次第に信仰者の個人的領域にのみ有効性をもつか、形而上学から解放されてそれぞれ独自に超越的な神との関連なしに考察されるようになった自然と世界についての科学的認識とは全く別の、単なる宗教的次元の倫理として位置づけられるようになり、西欧倫理思想史の中で、宗教改革者たちの意図とは別の方向へ進んでいったのである。
そして、近代諸科学の合理的認識による理性と認識における形而上学的超越からの解放というコペルニクス的転回は、 国家、経済、社会構造を含めた人間のすべての行為をそれ自体に内在する合目的性から理解するようになり、宗教的な事柄もまた、人間の経験的認識によって取り扱われる諸現象の一つとして部分化したのである。
それはカントの「わたしは信仰に席をあたえるために、知識を廃棄しなければならなかった」(11)という言葉によく表明されているように思われる。
こうして、倫理学は西欧近代社会において、それまでその基礎づけ、もくしは究極的目的として前提されていた形而上学的超越、あるいは神といった枠組みから離れて、独自に近代哲学的倫理学へと向かったのである。
一般的な傾向として、人々は理性によって到達可能な現に存在するものの経験的現象世界に思惟を傾け、数理学的思考が中心となり、人間と世界は数値による比較が可能な経済原理に基づいて理解されるようになった。
たとえば英国ではロック(J.Locke)の経験主義的流れの中で、神学的、教義学的前提なしに、社会と文化生活の行為と目的を人間の理性に基づくそれ自身の道徳性から追求し、自然法に基づく自然状態としての自由と平等が主張され、フランス革命やアメリカ独立戦争を導く要因が生み出されていったのである。
このようにして、倫理学は「人間性の追求の学」としての歩みを進め、神に代わって人間の道徳感情や宗教感情、もしくは先験的(ア・プリオリ)な理性的了解事項がその前提として置かれるようになったのである。
それは、かって古代ギリシャにおいて、超越的神々を人間に無関係な世界外存在として弾き出し、内在の原理のみに従って生きることを主張したエピクロスの亡霊の近代的出現であるとも言えるかもしれない。
西欧思想史全体にわたる背骨のような根本的問題としての「超越と内在」の問題は、近代科学によってもたらされた客観的認識の方法によって明瞭に分離され、超越性は現存在の内在的目的表象へと変形されていき、倫理学は、たとえそれが宗教倫理学であったとしても、内在論的倫理学となった。
そして、この倫理学は、人間と社会の哲学的、心理学的分析成果を前提にして、あらゆる存在現象の個々の事柄を取り扱うがゆえに、ある特定の歴史と状況下における個別の倫理学となり、その個別の領域から全体性が志向されることがあっても、それはただ部分的になされるだけに過ぎなくなったのである。
現代の倫理学的分裂状況はそこに由来する。そして、キリスト教倫理学は、ますます特殊宗教倫理学のひとつとなり、その有効領域をせばめ、信仰と経済的、社会的な実生活の分離が進展していったのである。
キリスト教神学において、こうした近代のエピクロス的亡霊に対する抵抗は、初めはカントの道徳哲学の影響下で行われた。
ドイツ敬虔主義と啓蒙主義および近代自然科学の客観的認識の主張の中で育ったカントは、ルソー(J.Rousseau)のヒューマニズムとの出会いによって、その偉大な天才的思考力を用いて人間の理性を認識論的に厳密に分析し、人間理性の先験性(ア・プリオリ)に基づく倫理学を哲学の総体として形成した。
カントは、人間の道徳性の原理が人間の「人格性」に基づく「自律(自己立法−Autonomie)」にあることを明白にし、「善」なるものとしての人間の理性的意志に基づく倫理の根本原理として、「それが普遍的法則となることを、それによって汝が同時に欲しうるところのその格率(Maxime−主体的行為の原則)に従ってのみ行為せよ。」(12)という断言的命令法則を打ち出し、それぞれの主観的行為の大前提(格率−Maxime)と客観的普遍的法則との綜合を「人格」概念において試みたのである。
それは、カントが彼の哲学において、それまで西欧思想史の根本問題として横たわっていた超越と内在、主観と客観、個人と世界、特殊性と普遍性などの二律する概念を明瞭に区別すると同時に、そのことによって人格の実践理性の要請として両者を包み越える絶対的で永遠なる神に帰依して行くという人間の倫理的行為の静態的基礎づけを厳密におこなったことを意味している。
そして彼は、そこから意図的に倫理学を主観的意志のア・プリオリに必然的な諸規定の教説として提示し、彼以後の倫理学の方向を決定づけ、哲学的倫理学は、やがてシラー(J.C.von Schiller)やフィヒテ(J.G.Fichte)を経てヘーゲル(Hegel)に至るドイツ観念論の中で、それまで倫理学的前提とされてきた形而上学的超越を人間精神と自我、もしくは精神の弁証法的運動の中に解消し、歴史と実存の諸問題へと向かったのである。
また、ヘーゲルを批判したキルケゴール(S.Kierkegaard)に始まり現代に至る実存倫理学も、神の超越性が人間の真の実存の回復に不可欠の問題として問われるにせよ、実存の弁証法の中での「緊張」として内在的な人格機能として考えられていることから、その倫理学的構造はカントの批判哲学のG線上の延長であるように思われる。
カントの影響を受けたキリスト教神学者たちは、カントが、従来の形而上学的超越に基づく上からの倫理学とは全く異なる純粋実践理性のア・プリオリの要請としての超越(神)を見定めつつ自律的意志の倫理学を形成し、しかも、その倫理が不可避的に個人の外に立つ法授与者の理念に入って行くという、つまり、「為すべき当為(sollen)」の背後で善を命じる「法授与者」の存在へと目を向けざるを得ないという「倫理から宗教へ」向かう基本的倫理学構造を保持していたことから、倫理学の補完もしくは形而上学的保証としてキリスト教を位置づけ、神について語る代わりに人間の道徳性の完全な姿を神という言葉の下で模索した。
ここに至って、神学もまた、ヘルマン(W.Herrmann)の主観的神学やトレルチの歴史主義的神学のように内在論的神学の方向へと向かったのである。19世紀を代表する神学者の一人であるシュライエルマッハー(F.E.D.Schleiermacher)はカントの認識理性のア・プリオリに対して、「宗教感情」もしくは「宗教意識」を人間精神のア・プリオリとして捕らえ、宗教を形而上学から切り離し、人間の全体的な人格性の中心にあるものとして位置づけ、倫理学をその人間の行為の諸目的の普遍的客観的規定へと向かわせた。
従ってそこでは、倫理学は、行為の客観的価値を規定する国家、社会、法、芸術、科学、家族、宗教(教会)などの実質的目的へ向かう実質的価値の倫理学となり、キリスト教をそれらの実質的価値目的へと向かう「精神」の強化原理として理解することによる文化哲学となる。
そして、それによって彼は、キリスト教信仰の精神化を行ってしまったのである。
こうした内在論的神学におけるキリスト教倫理学の構造は、ある意味では、神がイエス・キリストの「受肉」において自らの超越性を放棄し、完全な内在において自己を啓示したというキリ スト教信仰の使信の必然的帰結であると同時に、世俗化していく社会変動の中で人間のすべての領域において形而上学的超越を否定して人間の行為と存在を理解可能な理性の限界内で思惟してきた近代知性の必然的結果であるとも言える。
こうした内在論的神学に対して、20世紀になって、バルト(K.Barth)に代表される弁証法神学者たちは、明瞭に「否」を告げ、再び、「神の言葉の啓示」に基づいて、つまり、倫理を「神の戒め」から、もちろん決定論的にではなく弁証法的にではあるが、再構築しようとした。
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Karl Barth
そこでキリスト教倫理は、「神の行動によって規定された人間の行動についての学問」(E.Brunner)となり、プロテスタント神学においては、あの宗教改革の原理であった福音理解に基づく人間の現存在の倫理的要請という観点からキリスト教倫理学の再構築が試みられてきたのである。
しかし、超越概念が意味を失う世俗化された社会の中では、超越概念に基づく教義学的教説と現存在を全くの現存在の側から認識しようとすることとの分離が明瞭となり、ボンヘッファー(D.Bonhoeffer)が提示したような「そもそもキリスト教倫理は存在しうるのか」(13)といった根本的な問い直しが起こってきたのである。
従って、キリスト教倫理学の基本問題は、超越論的倫理学と内在論的倫理学をいかに綜合するかということにかかっている。この問いは、さしあたり、キリスト教の使信と倫理的規範の関係、広義には宗教と倫理との関係の問題として問われる。
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2012/1/9
1937年の映画・無敵艦隊 はDVDで買って見られるといいでしょう。イギリスという小さな島国が海賊紳士ドレークによっていかに変貌をとげてゆくか......歴史の勉強にもなります。
Video Global Agenda of Elite
上はCIAのプロパガンダビデオです。
『【5月12日 AFP】歯に衣着せぬ発言で知られる、英女王エリザベス2世(Queen ElizabethII)の夫のエジンバラ公(Duke of Edinburgh)フィリップ殿下(Prince Philip、86)。英国では12日から、フィリップ殿下の結婚式60年を振り返るドキュメンタリー番組が放送される。この番組の中で、フィリップ殿下は「食料価格の高騰は人口が多すぎることが原因だ」などいつもの率直な物言いを披露しているという。
「The Duke: A Portrait of Prince Philip(公爵:フィリップ殿下の肖像)」は、英民放テレビ局ITVによる2部構成のドキュメンタリーで12-13日に放送される。これまで、エリザベス女王の影であまり目立たず、単独で注目を集めることがなかったフィリップ殿下の素顔に迫る異例のドキュメンタリー番組となっている。
11日の英日曜紙メール・オン・サンデー(Mail on Sunday)によると、フィリップ殿下は「食料価格が高騰しているが、一般にこれは食料不足によるものだと考えられている。だが、実際は人口が増えすぎたために食料需要が大きくなりすぎたことが原因だ」と指摘し、「恥ずかしいことではあるが、誰も対処法が分かっていないんだ」と語ったという。
同紙によると、フィリップ殿下は、失言癖があり気難しいとされるイメージを払拭するとともに人生の「形見」を映像として残したいとの意図から今回の密着ドキュメンタリーに同意したという。
番組では、フィリップ殿下の環境活動家としての一面にも触れられ、環境保護や人口問題、動物保護などにも言及するという。フィリップ殿下は、自身の環境保護論を広げるために、環境保護活動家とローマ法王のような宗教指導者を団結させることを考えているという。(c)AFP』
エリザベス女王が王位についた頃は,とるに足りない島国であったイギリスは,彼女の治世中に,将来大海洋帝国になるきざしを見せ始め,当時スペイン,ポルトガルの独占財産と思われていた新世界の富や領土の獲得競争に割り込み始めた。しかしエリザベスの臣下たちの興味は,これらの遠い島々に殖民することよりも,ペルーの金,西インド諸島の砂糖や香料など,信じられないくらい神秘的で異国風の産物にあった。
プリマスの船長の息子ジョン・ホーキングスは,ポルトガル奴隷商人のお株を奪い,スペイン領アメリカで,アフリカの黒人奴隷の売込みをやって成功を収めた。彼の活躍は,莫大な利益を上げたので,エリザベス女王もこれを黙認し,後にはその功により,彼を海軍財務長官に任命した。しかし海賊行為を「ぼろもうけ」であるとともに「愛国行為」にしたのは,水夫あがりの「海賊紳士」フランシス・ドレークであった。熟練した航海者であったドレークは,二隻の帆船でスペインの本拠地を襲い,フェリペ二世の大帆船を分捕った。帰国の戦場で,彼は公文書で「戦時中でないときに敵の本拠地を攻撃するとはなにごとか」との叱責を受けたが,女王からの秘密文書には「よくやった,おめでとう」とあった。そして女王は,分捕品の分け前を快く受け取ったのである。
ドレークのもっとも華々しい活躍は,1577年から1580年にかけてのゴールデン・ハインド号による遠征だった。それはマジェランに次ぐ二番目の世界周航であった。マジェラン海峡から太平洋に入って南太平洋岸の殖民都市を荒らした後,ペルー沖でスペイン最大の財宝船を拿捕して金銀エメラルドなどを奪い,その後北上して,今日のカリフォルニア海岸に上陸,さらにポルトガル領植民地で大量の香料を入手し,インド洋を横断して帰還した。その分捕り品総額は,イギリス王室の丸一年の収入より多かった。
女王はデッドフォードの船着場に,ドレークの船を訪ねた。甲板にひざまずくドレークの肩に剣をあてた女王は「お立ちなさい,サー・フランシスよ」と呼びかけてナイト(勲爵士)に叙し,その功績にむくいたのであった 。(管理人注 :この場面は映画「無敵艦隊」でのハイライトシーンでもある)(平凡社刊:世界を創った人びと14:エリザベス一世・近代イギリスの夜明け46ページより)
■
地球2分割
1494年6月7日、スペインのトルデシリャスで驚くべき条約がむすばれた。スペインとポルトガルが、カネと女に目がなく、カトリック教会の権威を失墜させ、史上最悪の教皇とうたわれたアレクサンデル6世をそそのかし、地球を2分したのである。
原文
この傲慢不遜(ごうまんふそん)な取り決めは、歴史上、「トルデシリャス条約」とよばれている。具体的には、「1494年以降に発見されるキリスト教徒以外の土地を、西経46度37分の経線を境に、西側はスペイン、東側はポルトガルものとする」もちろん、土地の住人は知るよしもない。
トルデシリャス条約とは?
15世紀末、こんなノー天気な条約を結ぶほど、ポルトガルとスペインは有頂天だった。そして、その100年後、大航海時代はスペインとポルトガルの最終決戦へ。大航海時代の本質は香料貿易であり、香料を産するアジアへのルートを制した者が勝つ。16世紀末、この条件を満たすのはポルトガルとスペインだけであった。ポルトガルは喜望峰経由の東回り航路を、スペインは太平洋を横断する西回り航路をおさえていたからである。
■大イベリア帝国
ところが、大航海時代を制したのはスペイン、ポルトガルではなかった。大航海時代につづく、近代の植民地戦争をみれば、明らかだ。19世紀以降、世界中に植民地帝国を築いたのは「欧米列強」、つまり、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、ロシアだった。では、300年の間に、スペインとポルトガルに何が起こったのか?
「欧米列強」は、スペイン・ポルトガルにくらべ、自力で優っていた。スペイン・ポルトガルは、保守的なカトリック王国で、探検も貿易も王室の管理下で行われた。一方、イギリス、ドイツ、オランダ、アメリカはプロテスタントの国である。プロテスタントの教えでは、金儲けはたとえ神の前でも、恥じる必要はない。それどころが、プロテスタントの一派、カルヴァン派にいたっては、商売そのものが奨励されたのである。
スペイン・ポルトガルを直接おとしめたのは、オランダとイングランド(のちのイギリス)で、この2国には共通点があった。第1に、植民地事業が民営化されたこと。第2に、宗教が金儲けに寛大なプロテスタントだったこと。本来、私物化できない植民地を、国から譲りうけ、本来、責められるべき金儲けを、教会から正当化される。やる気が出てあたりまえ。オランダとイングランドの商人たちは、自分の命を顧みず、大海に乗り出していった。
この頃、スペインは南アメリカの銀山を独り占めにし、目もくらむ大金を手にしていた。16世紀から17世紀中頃までに、スペインに持ち込まれた銀は約1万6000トン。2008年の銀の平均価格(53円/g)を適用すれば、8500億円にもなる。ところが、その40%がスペイン王室の金庫に収められた。こんな、やらずぼったくりでは、やる気は失せる。入植者にできることといえば、こそくな方法で、小金をくすねることぐらい。彼らは現地の女と結婚し、土着化し、国への忠誠心も失せていった。1400年代、ポルトガル海上帝国 を築いた勇敢な先祖たちの物語は、遠い昔話になっていたのである。
ではなぜ、自力に優る欧米列強は出遅れたのか?この時代、アメリカ合衆国はまだ存在せず、他のヨーロッパ諸国も自分のことで手一杯だったのである。たとえば、ドイツはまだ国が統一されておらず、イングランドとフランスは「百年戦争」をダラダラと戦っていた。
1453年、百年戦争が終わると、今度は、イングランドで「薔薇(ばら)戦争」がはじまった。王位をめぐり、イングランドの貴族がランカスター家派とヨーク家派に分かれ、戦ったのである。この内戦は、1455年から1485年まで続くが、この間に、ポルトガルはアフリカ西岸を支配し、黒人奴隷貿易を軌道に乗せた。
一方のフランスは、百年戦争が終わると、一息ついて「イタリア戦争」に突入した。1494年、フランス王シャルル8世が大軍を率い、イタリアに攻め込んだのである。目的はナポリ王国の王位で、
「血筋では自分に王位継承権がある」
がシャルルの言い分だった。当たらずとも遠からずだが、分裂中のイタリアも、このときは助け合いの精神を発揮した。結局、フランス軍は何も得ないまま、イタリアから撤退する。ということで、フランスもイタリアも、大航海時代どころではなかったのである。
また、17世紀前半、大航海時代を制するオランダも、この頃は、ブルゴーニュ公国の一地方にすぎなかった。この地方は、ネーデルラントとよばれ、豊かな経済力と、洗練された文化をもっていたが、政治的には自立していなかった。ということで、16世紀末のヨーロッパで、スペイン・ポルトガルに対抗できる国はなかったのである。
1581年、大航海時代の決勝戦が始まった。スペイン軍がポルトガルに侵攻したのである。1581年4月、ポルトガル議会はスペイン王をポルトガル国王として受け入れた。大航海時代を制した2つの王国が1つになり、地球上で最強の世界帝国が出現したのである。無敵の大艦隊を有し、アジアへの東回り航路と西回り航路を独占する「太陽が沈まぬ大イベリア帝国」。ところが、この時を境に、スペインの凋落がはじまる。
■エリザベス女王(1世)
1485年、イングランド王位をめぐる薔薇(ばら)戦争が終わり、ヘンリー7世が即位した。これがチューダー朝である。有能で勤勉なヘンリー7世のもと、戦争で荒廃したイングランドは回復にむかった。1509年、跡を継いだヘンリー8世は、父王の遺言にしたがい、兄の未亡人キャサリンと結婚した ・・・ 死んだ兄の妻を弟がめとる?
道義的に問題がありそうだし、この頃、イングランドはカトリック教国で、この結婚を実現するには、ローマ教皇の許可が必要だ。なぜ、そこまでして、キャサリンにこだわったのか?一も二もなく、スペイン王室への気兼ね。キャサリンは、スペイン王国を共同統治するカスティーリャ女王イサベル1世と、アラゴン王フェルナンド2世の娘だったのである。
ところが、父王が死んでしばらくすると、ヘンリー8世はたががはずれてしまった。思いどおりにならないと、すぐに伝家の「王権」を抜く。つまり、やりたい放題。キャサリンとの間に男子ができないと、お気に入りの侍女アン ブーリンと結婚し、男子を産ませようとした。もちろん、カトリックは離婚は認めない。
そこで、ヘンリー8世はローマ教皇に対し、
「キャサリンとの婚姻は本当は無効だった」
と主張した。根拠がないわけではないが、見え見えの屁理屈で、まず、神聖ローマ皇帝カール5世が反対した。カール5世はスペイン王でもあり、キャサリンの甥(おい)だったからである。しかも、ローマ教皇クレメンス7世は、カトリックの守護者スペインには頭が上がらない。こうして、ヘンリー8世の屁理屈は却下された。
ところが、それであきらめるヘンリー8世ではなかった。なんと、自分で宗教団体を創設し、カトリック教会と離別したのである。これが、現代までつづく「英国国教会(イングランド国教会)」だ。政治的にはプロテスタント、教義的にはカトリック、とよくわからないが、仏教徒からみれば、まぁ、キリスト教。ただ、
「国王が教会の首長もかねる政教一致」
という点でユニーク。
こうして、ヘンリ−8世は、キャサリンと離婚、念願のアンとの結婚をはたした。ところが、そのアンが産んだのも女の子。その後、ヘンリー8世は5人の妻をとっかえひっかえ、離婚と処刑を繰り返したあげく、この世を去った。文化以外に大した功績を残さなかったヘンリー8世だが、1つだけイングランドに財産を残した。アンが産んだ女の子、後のエリザベス女王(1世)である。
1558年、紆余曲折をへて、エリザベス1世が即位した。実母アン ブーリンは、エリザベスを産んだ後、実父ヘンリー8世により、国家反逆罪、姦通罪、近親相姦の罪で斬首されていた。男子を産まなかったからである(ヒドイ話だ)。そのため、若き日のエリザベスは、私生児として扱われ、父王の死後、ロンドン塔に幽閉されたこともあった。そして、陰謀が渦巻く中、慎重に生きのび、イングランド王までのぼりつめたのである。このような過酷な体験が、彼女を強く、聡明にした。こうして、エリザベス1世は、18世紀以降の大英帝国の礎を築いたのである。
■幻の北極海航路
エリザベス1世が即位する10年前、ジョンブル魂にとんだイングランド人たちは、新しい土地を求めていた。ポルトガル人やスペイン人が、植民地で濡れ手に粟をつかむの見たからである。とはいえ、ヨーロッパからアジアに到るルートは、すでにスペインとポルトガルが支配していた。イングランドの選択肢は2つしかない。既存のルートを奪うか、新しいルートを見つけるか。さすがのイングランド人も、超大国スペインと争うのは気後れした。ということで、東回りでも、西回りでもない、第3の航路(あるかどうかもわからないが)。
初めに、イングランド人が思いついた航路は、大胆不敵だった。ロンドンから、氷河におおわれた北極海を抜けて、アジア(中国)に達する「北極海航路」。現代でさえ、北極海を航行できるのは原子力潜水艦ぐらい(魚をのぞく)。もっとも、最近は地球温暖化が進み、北極海の氷がとけだし、船でも航行可能になるという。イングランド人のアイデアは、500年早かったのである。
1553年、北極海航路の最初の探検が行われた。計画によれば、ロンドンから北東に向かい、北極海経由で中国に達する。このコースを地球儀で確認しよう。まず、イングランドから北海に入り、北極海を通過し、ベーリング海峡を抜け、南下して中国へ到る。21世紀でも不可能なこの航海に、16世紀イングランドのヒュー ウィロビーが挑戦した。案の定、出港早々に遭難する。北海のノルウェー沖、つまり、北極海に入る前に。
ところが、さすがはジョンブル魂。ウィロビーはロシアの港になんとか着岸し、それから、陸路を進んでモスクワへ。そこで、ロシア皇帝イヴァン4世に拝謁し、ロシアとの通商をとりつけた。しかし、ウィロビーの探検もそこまで。モスクワからユーラシア大陸を横断して中国まで行くにはムリがあった。馬の背中に小荷物をのせて、片道1年では商売にならない。それが可能になるのは、シベリア鉄道が開通した後である。
イングランド人が、次に目をつけたのが北西航路だった。ロンドンから北西にむかい、アメリカ大陸の北の海を通過し、ベーリング海峡を抜けて、アジアに到る。だが、アメリカ大陸の北の海は、小島や入り江が入りくんだ大迷路で、入ったが最後、生きては帰れない。正確なマップかGPS、もしくは、熟練したイヌイットの旅先案内人が必要だ。こうして、イングランドの北極海航路は幻に終わった。
■ドレイク船長
こんな八方ふさがりの状況で、エリザベス1世(エリザベス女王)が即位した。エリザベス女王は、それまでの方針を大転換し、スペインと敵対する。まずは、イングランド人がスペインの植民地をうろつき、略奪することを黙認した。イングランドの海賊や商人にとって、エリザベス1世は幸運の女神だった。古いことわざに、こういうのがある。
「幸運の女神に後ろ髪はない」
幸運の女神が現れたら、間髪を入れず前髪をつかめ!通り過ぎたら、つかむ髪がない、つまり、チャンスは1度きり。
海賊、探検家、奴隷商人の肩書きをもつイングランド人ジョン ホーキンスは、この教訓に忠実だった。さっそく、アフリカ西岸に行き、黒人奴隷を買いつけ、カリブ海の農園主に売りつけたのである。カリブの農園は奴隷が不足していたのに、スペイン役人の不手際で、奴隷の供給が滞っていた。ホーキンスは、そこに目をつけたのである。ところが、まずいことに、アフリカ西岸もカリブ海もスペインの支配地だった。スペイン王室はイングランドに厳重に抗議した。
そんな緊迫した中、大事件がおこる。ホーキンスの船団が嵐に遭い、メキシコのスペイン領に寄港したところ、スペイン側に砲撃されたのである。船団はなんとか脱出したものの、イングランドに帰還できたのはわずか1隻だった。ところが、スペインが取り逃がしたこの1隻が歴史を変える。この船に若き日のフランシス ドレイクが乗っていたからである。
生還したドレイクは、その後、スペインの植民地を荒らし回り、スペイン船を沈め、最後にはスペインの無敵艦隊を壊滅させた。それが契機となり、スペインの凋落が始まった。ささいな撃ちもらしが、歴史を変えたのである。
この砲撃事件は、イングランドに衝撃を与えた。ホーキンスがスペイン領に寄港したのは、嵐を避けるためであり、それを攻撃するとは何ごとか!国力をかえりみず、スペインと一戦交えるべしという主戦論まで出た。しかし、エリザベス1世は冷静だった。好戦論を黙殺した上で、イングランドの海賊が、報復のため、私利私欲のために、スペイン領を荒らし回ることを黙認したのである。
スペイン植民地の略奪に最も貢献したのは、先のフランシス ドレイクだった。ホーキンス同様、海賊、探検家、奴隷商人、のちに海軍提督も兼任する。似たもの同士、お仲間、ところがこの2人、本当の親戚だったというウワサもある。ドレイクは、先の砲撃事件以来、スペインへの復讐に燃えたが、頭が切れ、冷静で、大胆だった。そんなドレイクが目をつけたのがスペインの銀塊輸送である。
前述したように、この頃、スペインは南アメリカの銀山を独占していた。問題は、産出した銀をスペイン本国までどうやって運ぶかだ。まず、ペルーのヤオ港まで運び出し、船に積み、北上してパナマまで運ぶ。そこで、キャラバンを編成し、パナマ地峡をとおり、カリブ海沿岸の港まで運ぶ。そこから、船でスペインまで運ぶのである。ドレイク一味は、カリブ海の港の近くで待ち伏せし、銀を強奪した。それも、1度や2度でなかった。スペインはイングランドに厳重に抗議したが、エリザベス1世は黙殺した。
ドレイク船長は海の男だった。1577年12月13日、5隻のガレオン船を率い、プリマス港を出港し、アジアに向かった。彼がとったコースはスペインの西回り航路である。ドレイク船団は、マゼラン海峡を回り、北上し、南アメリカ西岸のスペイン植民地を荒らし回った。その後、太平洋を横断し、スパイス アイランド(香料諸島)、インドをへて、プリマス港に帰還した。3年にもおよぶこの大航海は、「ドレイクの世界周航」とよばれている。
マゼランの世界周航、それに続くスペインの苦難の航海をみれば、太平洋を横断する航海が、いかに危険かがわかる。それをドレイクは難なくやってのけたのだ。並外れた航海術の持ち主だったのだろう。コロンブスやマゼランに匹敵するほどの。さらに、ドレイクは海戦では無敵だった。このようなドレイクの優れた資質が、8年後のアルマダの海戦で、スペインの無敵艦隊を壊滅させたのである。
イングランドに帰還したドレイクは、今度は、スペイン本国の港を略奪する。海賊にやらせることで、国の責任を回避しつつ、スペインの体力をそぎ落とす。イングランドのこんなやり口に、スペイン王室は爆発寸前だった。そんな折、導火線に火をつけるような事件が起こる。
■ネーデルラント
ネーデルラントは、現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルクを含む地域である。中世以降、毛織物のフランドルを中心に、ヨーロッパで最も進んだ地域に発展した。一方、政治的には自立せず、15世紀に入っても、ハプスブルク家の支配下にあった。ハプスブルク家とは、中世から20世紀にかけ、ヨーロッパの王を輩出した大名家である。1549年、ハプスブルク家のカール5世がスペイン王を、弟のフェルディナント1世が神聖ローマ帝国を継承したが、この時、ネーデルラントはスペインの支配下に入る。
スペイン王室は、カトリック世界の盟主を自認し、周囲もそれを認めることを望んでいた。カール5世が隠居し、跡を継いだフェリペ2世は、そんな意識が過剰な人物だった。1517年に始まった宗教改革で、プロテスタントが勢力をのばすと、フェリペ2世はこれをとことん弾圧した。とくに、プロテスタントが多数を占めるネーデルラント北部に対して ・・・
1559年、ネーデルラント総督に就任したマルゲリータは、プロテスタントを徹底弾圧した。「異端審問」という超法規的な手法までもちだして。異端審問とは、キリスト教の異端者を裁く制度で、ろくな証拠がなくても、有罪に持ち込める。そのため、ローマ教皇の許可が必要だったが、教皇もカトリックの盟主スペイン王にはさからえない。
一方、プロテスタントを異端と断じるには問題があった。彼らが、悪魔信仰や、怪しい異端の聖書を信奉していたわけではないからだ。彼らの信仰の原点は、カトリックと同じキリスト教の正典である。ネーデルラントの有力者たちは、理不尽な異端審問を中止するようマルゲリータ総督に要求し、彼もしぶしぶそれを認めた。ところが、その間、プロテスタント勢力はさらに増大する。
1567年、業を煮やしたフェリペ2世は、ネーデルラントに大軍を派遣する。これで片がつくはずだったが、スペインにとって最悪の結果となった。八十年も戦争を強いられたあげく、ネーデルラントが独立(オランダ)したのである。
この「八十年戦争」は、1568年、亡命中のオラニエ公が祖国ネーデルラントに侵攻したことに始まる。初めは、スペインに対する単なるレジスタンス運動だったが、やがて、独立戦争へと拡大していく。1579年には、ネーデルラントでユトレヒト同盟が結成され、翌年までにネーデルラント北部7州が加盟した。南部諸州が加わらなかったのは、カトリックが多数を占めたからである。
オラニエ公のなりふり構わぬ奮戦で、多くの都市がユトレヒト同盟になびいていく。スペインは軍事力で圧倒するのに、なぜ、反乱軍ごときに苦戦するのか?ひょっとして、協力者がいるのでは?フェリペ2世は、海賊を野放しにしているあの憎たらしいエリザベス1世をおもった。イングランドに鉄槌を下さねば ・・・ フェリペ2世はイングランドとの戦争を本気で考えはじめる。
スペイン国王たる者が、思い込みで戦争をふっかける?ところが、フェリペ2世の疑念は事実だったのだ。オラニエ公は、「海乞食」といわれる寄せ集め船団で、スペインの通商破壊を繰り返したが、その基地の一つがイングランドのドーバーにあった。つまり、イングランドは本当にネーデルラントを支援していたのだ。ドレイクの件といい、ネーデルラントの件といい、スペインにとってイングランドは我慢ならない「ならず者国家」だった。そんな中、火に油を注ぐような事件が起こる。
■
メアリー スチュアート事件
イングランド女王エリザベス1世は、海賊ドレイクがスペイン領を荒らし回るのを、見て見ぬふりをし、その後、おおっぴらに公認した 。また、ネーデルラントがスペインに謀反すると、影でコソコソ援助した。これだけでも、スペイン国王フェリペの堪忍袋の緒は切れそうだった ・・・
1568年、エリザベス1世は、メガトン級の爆弾をかかえていた。いそうろうのメアリー スチュアートである。メアリーは元スコットランド女王で、わけあって国を追われ、イングランドに逃げ込んでいた。ところが、彼女は、3杯目をそっと出すような奥ゆかしい「いそうろう」ではなかった。エリザベス1世をさしおいて、自分こそがイングランドの王位継承者だと触れまわったのである。
たしかに、メアリーはエリザベス1世より出が良かった。メアリーの母方はフランス貴族だし、父方はテューダー朝創始者の直系。一方のエリザベス1世は、父こそイングランド王だが、母方は4代前にさかのぼれば農民。血筋と人柄を考慮すれば、メアリーは油断のならない人物で、エリザベス1世にとって不倶戴天(ふぐたいてん)の敵だった。
一方、イングランドにとってもメアリーは爆弾だった。彼女が敬虔なカトリック教徒だったからである。この頃、イングランドの国教は英国国教会で、その首長を国王が兼任していた。つまり、政教一致。他の宗派の反発は必至で、実際、カトリック教徒の反乱は後を絶たなかった。こんな状況で、もし、反抗的なカトリック教徒がメアリーのもとに結集したら ・・・ 宗教対立どころか、国を2分する内戦に発展する。そんなこんなで、メアリーはエリザベス1世やイングランドにとって、生ける大量破壊兵器だったのである。
そんな中、火に油を注ぐような事件が起こる。カトリック教徒のバビントンがエリザベス1世を暗殺しようとしたのである。ところが、計画は事前に発覚、メアリーが関与していたことが判明した。メアリーは有罪となり、1587年2月8日、巨大な斧で首を落とされた。
じつは、メアリーは生前、スペイン国王フェリペに手紙を出していた。その内容は、たわいもないグチから、危険な陰謀まで、色々。もっとも、フェリペにとって手紙の内容はどうでもよかった。カトリックの王族メアリーが、カトリックの盟主たる自分を頼ってくれた、そのメアリーをエリザベス1世が処刑した ・・・ こうして、スペイン国王の堪忍袋の緒は本当に切れてしまった。
■アルマダの海戦
1588年5月28日、スペインの無敵艦隊がリスボン港を出港する。13隻の大型船に、3万人が乗り込んだ。その大半が陸兵である。後世、「アルマダの海戦」とよばれるこの戦いは、ほんとうは陸上戦だったのだ。スペイン側の計画によれば、イングランドに上陸し、イングランド軍をけちらし、エリザベス政権を倒す。ことがうまくはこべば、海賊ドレイク一派を一掃できるし、ネーデルラントはイングランドの支援を失い、独立も頓挫する。ところが、あれほど熱心に祈ったのに、神はスペインに味方しなかった。
1588年7月21日、歴史に名高いアルマダの海戦が始まった。スペイン側は、初戦でつまづき、そのままズルズル敗戦、9日後、すべてが終わった。無事帰還できたスペイン兵はおよそ半分。スペインの無敵艦隊は、イングランドに上陸する前に、その勇ましい名とともに、海のもくずと消えたのである。
じつは、開戦前から、スペイン敗北の予兆はあった。出陣の3ヶ月前、スペインの偉大な提督サンタ クルス公が死去し、海戦に不慣れなメディナ シドニア公が総司令官に任命された。一方のイングランド側は、総司令官はチャールズ ハワード、実際の指揮官はフランシス ドレイクである。ドレイクは、日がな海賊稼業に明け暮れる戦闘と略奪の達人だった。両軍の将兵の練度にはかなりの差があった。
兵装もしかり。スペイン艦隊はカノン砲、イングランド艦隊はカルバリン砲である。カノン砲はいわゆる重砲で、砲弾が重く、破壊力はあるが、射程距離が短かい。一方のカルバリン砲はその逆。どんな破壊力があろうが、砲弾がとどかないと意味がない。また重いカノン砲を搭載すれば、船も大型化し、動きも鈍くなる。実際、鈍重なスペイン艦隊は高速なイングランド艦隊の「ヒット・アンド・アウェイ」にほんろうされた。
スペイン王国はこの海戦を境に、世界の覇権争いから脱落していった。この通説は、結果論的には当たっているが、国が衰退する原因は1つではない。国家の趨勢を決めるのは「ヒト×モノ×カネ×体制」で、この点で、スペインとポルトガルは、イングランドやオランダに遅れをとっていた。つまり、衰退期の入り口で、「アルマダの海戦」でトドメを刺されたのである。
■オランダ人気質
酷暑を想わせる南国の海岸に、ズングリとした帆船が接岸している。それを満足そうに眺める中年の男女。男は黒いハットに黒い上下服、女は黒いワンピース。真夏の炎天下、黒の冬服でトータルコーディネート?謎はもう一つある。この中年の男女が手を握りあっていること。ところが、顔をみると、愛を語り合う齢でもない。
これは、17世紀のオランダの画家コプが描いた絵画で、題名は「オランダ商船のバタヴィア帰還」。厚着の中年男女はオランダ商人の夫妻で、帆船は夫婦が所有する商船である。場所はジャワ島のバタヴィア、現在のジャカルタだ。バタヴィアは、17世紀に胡椒の一大集散地となり、オランダ香料貿易の拠点として栄えた。
このあまり有名でない絵画には、17世紀オランダの歴史が凝縮されている。17世紀初頭、ネーデルラントの北部7州はスペインから独立し、ネーデルラント連邦共和国を建国した。これが現在のオランダである。独立を成し遂げ、意気揚がるオランダ人たちは、ポルトガルに遅れること200年、植民地事業にのりだした。そんな彼らを精神面でささえたのが「キリスト教カルヴァン派」だった。
カルヴァン派は、ルターの宗教改革で生まれたプロテスタントの一派で、ジャン カルヴァンが唱えたカルヴァン主義によっている。カルヴァン派は「金儲けは善」とされたので、商工業者に人気があった。もっとも、何でもありと言うわけではない。金儲けはいいが、贅沢や浪費は悪とされたのである。つまり、稼いでも、貯金するだけ ・・・
先の絵画には、こんなオランダ人気質が凝縮されている。商売繁盛のためなら命を惜しまず(ジャワ島まで進出)、貿易で財を築いても(商船を所有)、質素な習慣を守り(黒い冬服)、律儀に夫婦のきずなを確かめ合う(握り合う手)。このような生き方は、神の思し召しにかなうとされ、商人たちは率先して実践した。オランダ人は酷暑の中でも、神の教えと祖国の伝統を守り、スペイン・ポルトガル人は暑さの中でどっぷり土着化していった。
■オランダ人の航海
オランダ人の最初の航海は、1595年に行われた。コルネリス デ ハウトマンが、東回りでジャワ島に達したのである。ハウトマンの航路は、同じ東回りでもポルトガルとは違った。ポルトガルの東回り航路は、
「喜望峰 → アフリカ東岸を北上 → インド洋 → マラッカ → スパイスアイランド」
一方、ハウトマンの東回り航路は、
「喜望峰 → インド洋 → ジャワ島 → スパイスアイランド」
つまり、「アフリカ東岸を北上」がスッポリ抜けている。その秘密は貿易風にある。貿易風とは、一年中一定方向に吹く風で、北半球では北東の風、南半球では南東の風である。ハウトマンは、この貿易風にのって、一気にインド洋を横断したのである。
ところで、北東の風も南東の風も、東進すると逆風になるのでは?心配無用、帆船は縦帆(じゅうはん)さえあれば、逆風でも前進できる。風向きと垂直方向に推進力を得る魔法(ベルヌーイの法則)と、ジグザグ航法によって。もちろん、順風に比べれば航行速度は落ちる。
1596年、ハウトマンの船団はジャワ島のバンテン港に着岸した。当時、この地はバンテン王国の支配地で、胡椒の仲介貿易で栄えていた。ハウトマンはここで、半ば強引に香辛料を手に入れ、オランダに帰還する。ヴァスコ ダ ガマのインド航路発見に遅れること100年。しかし、この航海には歴史的な意義があった。貿易風が初めて利用されたこと、オランダ海上帝国の始まりとなったことである。
オランダの野望は西方にも向けられた。1598年、ズングリとしたオランダ船がブラジル沿岸に現れ、ポルトガルの植民地を襲い始めた。1624年にはオランダ西インド会社が設立され、オランダ人たちは怒濤のごとくブラジルに押し寄せた。ブラジル北東部を占領すると、オランダは次にアフリカに侵出する。1637年に、ポルトガルの奴隷貿易の拠点エルミナを占領し、多数の黒人奴隷をブラジル植民地に送り込んだ。結局、オランダは、南アメリカのサトウキビ栽培と労働力となる黒人奴隷の供給、つまり、ポルトガルの植民地事業を丸ごと乗っ取ったのである。
ところが、1640年、状況は一変する。ポルトガルが、30年戦争のどさくさにまぎれ、スペインから独立したのである。このとき、オランダはポルトガルと休戦条約を締結したため、オランダ西インド会社はポルトガル領を攻撃できなくなった。さらに、1644年、農園主たちに人気のあったオランダ総督マウリッツが、オランダ西インド会社と対立し、本国に送還されてしまう。ブラジルは不穏な空気につつまれ、翌年には反乱が起こった。結局、この混乱は10年も続き、1654年、オランダはブラジルから完全に撤退する。
アジアで無敵だったオランダが、なぜ、南アメリカで敗退したのか?スパイス アイランドでは、スペイン・ポルトガル・イングランドを一掃できたのに。南アメリカではポルトガル1国に敗退?原因は2つ考えられる。オランダの最大の関心事は香料で、サトウキビは二の次だったこと。さらに、ブラジルに入植したポルトガル人はやる気満々だったこと。
アジアに入植したポルトガル人は、祖国を忘れ、土着化していった。アジアにはすでにインフラも文化もあったからである。一方、ブラジルは未開の地で、すべて一から築くしかなかった。ある意味、ブラジルはポルトガル人にとって第2の祖国だったのである。これは決して誇張ではなく、証拠もある。
1808年、ナポレオン戦争の時代、ポルトガルがフランス軍に占領されたとき、ポルトガル王室はリオ・デ・ジャネイロに遷都した。さらに現在、ポルトガル語を話す地球上最大の国はブラジル。19世紀に入っても、ブラジルのポルトガル人だけは、かつてポルトガル海上帝国を築いた覇気を忘れなかったのである。
■オランダ東インド会社
話をハウトマンの航海に戻そう。ハウトマンの船団が持ち帰った香辛料はわずかだったが、オランダは歓喜に包まれた。香料貿易のメドが立ったからである。1602年、アジアの香料貿易を目的とするオランダ東インド会社が設立された。この会社は、現在の株式会社の原形で、先に設立されたイギリス東インド会社とは一線を画していた。投資した資本を1航海ごとに精算し、株主に返す必要がなかったのである。そのぶん、オランダ東インド会社のほうが長期的なビジョンに立つことができた。
オランダ東インド会社の当面の目標は2つあった。
1.ジャワ島に基地をつくること。
2.香料貿易を独占すること。
この大目標を達成すべく、オランダは、スパイス アイランドからイングランドとポルトガルを追い払った。このような「選択と集中」は、17世紀前半、オランダに目覚ましい成功をもたらしたが、17世紀後半には一転、没落へと導いていく。永遠に正しい戦略などありえないのだ。
1605年、オランダ東インド会社は、スパイスアイランド(香料諸島)に最初の船団を送り込んだ。戦果は上々、テルナテ島からポルトガル人を駆逐し、アンボイナ島(アンボン島)の占領に成功する。当時、テルナテ島はチョウジ(丁子)を、アンボイナ島はニクズクを独占的に産していた。この2つはスパイスとよばれ、香辛料の最高級品とされた。
次に、オランダが狙ったのはマラッカである。マラッカは、インド洋とスパイス アイランドをむすぶ要衝で、ポルトガルが支配していた。1606年、マテリーブ デ ヨング率いる13隻のオランダ艦隊がマラッカを攻撃した。占領はできなかったものの、インドから救援にきたポルトガル艦隊に大打撃を与えた。こうして、ポルトガル海上帝国は事実上崩壊した。香料貿易の覇権争いはオランダとイングランドにしぼられたのである。また、1609年、オランダは日本の平戸に商館を開設している。
1619年、やり手のヤン ピーテルスツーン クーンが東インド会社の総督に就任した。クーンは、バンテン王国が支配するジャワ島西端をさけ、東方のバタヴィアに商館をおいた。それ以降、300年におよぶオランダ支配の礎を築くのである。クーンは、知力、決断力、行動力に富む優秀な指揮官だったが、コチコチの帝国主義者だった。彼の頭には、香料貿易の独占しかなかった。他国と妥協することも、国益をグロスで見ることもない。このような唯我独尊が、彼を不名誉な歴史的事件の主犯にしたてたのである。
■アンボイナ事件
スパイス アイランドの一角、アンボイナ島は、ニクズクの産地として知られた。大航海時代、ニクズクを産したのは、アンボイナ島とバンダ諸島のみ。当然、ヨーロッパ列強の争奪の的となった。1512年、まずポルトガルがアンボイナ島に進出、その後、オランダがポルトガルを駆逐した。1615年には、新たにイングランドが進出し、オランダと激しく争った。
本題に入る前に、あまり重要でない「イングランド」と「イギリス」の使い分けについて。「イギリス」の正式名称は「グレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国」で、1801年に成立し、1927年に現在の国名になった。国土は、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの4つのブロックからなり、北アイルランドを除くすべてがグレート・ブリテン島にある。グレート・ブリテン島北部にあるのがスコットランド、西南部がウェールズ、残りがイングランドである。
イングランドは、13世紀末にウェールズ、1707年にスコットランドを併合し、グレートブリテン王国となった。この歴史をみれば、大航海時代が終わる1650年頃までは、「イギリス」ではなく「イングランド」と表記すべきである。ところが、一般的には、1600年代以降「イギリス」と表記されることが多い。ということで、以下、イングランドをイギリスと表記する。
話をアンボイナ島に戻そう。1600年代初頭、オランダとイギリスは、ニクズクをめぐり、激しく争っていた。そんな中、アンボイナ島で恐ろしい事件が起こる。1623年2月、オランダ商館をうろつく怪しい人物が、オランダ側に逮捕された。彼はイギリス商館員で、オランダ商館をスパイしていたのである。
この男を拷問したところ、驚くべき事実が判明した。イギリス側がオランダ商館を襲撃するというのである。オランダ側は、先手をうってイギリス商館を襲撃、身の毛もよだつ拷問で、陰謀の裏を取った。そして、翌月には、商館員20名を処刑したのである。これが歴史に名高いアンボイナ事件である。
この頃、ヨーロッパ本国では、オランダとイギリスは、不毛の香料戦争を終わらせようとしていた。オランダ東インド会社とイギリス東インド会社の合併話まであがっていたほどである。ところが、アンボイナ事件が伝わると、交渉は決裂。オランダ東インド会社総督のクーンも管理責任を問われ、解任された。ところが、ここに謎がある。
ヨーロッパ本国で、東インド会社の合併話まで出ているときに、イギリス商館がわざわざ、オランダ商館を襲撃するだろうか?オランダ側はイギリス側の自白をとったというが、手足を切断するほどの拷問だった。これでは、自白を強要された?と疑われてもしかたがないだろう。とすれば、怪しいのはクーンである。オランダ政府の弱腰をののしり、イギリスとの徹底抗戦を叫び、頭のてっぺんから足のつま先まで帝国主義者だったクーン。そもそも、総督以外、誰がこんな大それたことを命じられるだろう。
■オランダ海上帝国
真相はともかく、この事件で一番得をしたのはクーンだった。イギリスは香料貿易から撤退するし、4年後にクーンは東インド会社総督に返り咲いたからである。しかし、長期的に見れば、この事件はオランダに衰退を、イギリスには繁栄をもたらした。香辛料価格の下落が始まると、香料貿易に特化したオランダは没落、一方、イギリスはインド経営で巨万の富を築くからである。
アジアにおけるオランダの大攻勢は、1640年に始まった。1641年、なんとか持ちこたえていたマラッカのポルトガル要塞が陥落。1652年には喜望峰に中継基地を建設し、「オランダ → 喜望峰 → ジャワ島」航路を確立した。1663年にはインド本土に侵攻し、ポルトガル商館を次々と占領した。その後は、台湾、マカオ、長崎にまで進出する。こうして、17世紀半ばには、オランダ海上帝国が確立したのである。
このような発展過程で、オランダは世界有数の金満国にのし上がっていた。とはいえ、どんな大金持ちでも、1日100食は食べれない。人間の消費には限界があるのだ。こうして、オランダで「カネ余り」が始まった。余ったカネの行き先は、今も昔も変わらない ・・・ 投機。歴史上初の経済バブルはこうして起こった。
この時、バブルを引き起こしたのは土地でも株でも、サブプライムローン証券でもなかった。見た目も麗しいチューリップ。そのため、この事件は歴史上「チューリップ バブル」とよばれている。チューリップ バブルは、1634年に始まり、2年後にピークをうち、翌年には暴落した。後から思えば、虚しい騒動だが、初めはささやかなチューリップ栽培から始まった。
美しいチューリップを咲かせて、人に自慢している間はよかった。そのうち、品薄の球根が珍重されるようになり、
「買いたい人 >> 売りたい人」
の結果、価格がジリジリ上がり始めた。人々は、花を咲かせることより、珍種を手に入れることに夢中になり、やがて、チューリップ投機が始まった。大量の資金がチューリップ市場になだれ込んだが、チューリップの球根はすぐには増えない。結果、球根の価格は暴騰した。
たとえば、「セムペル アウグストゥス」なる珍種の球根は、最高値で1万3000フロリンの値がついた(※3)。この頃、オランダの水兵の月給が10フロリンだったので、球根1個が給与100年分!?それでも、資金が市場に流入し続ける限り、チューリップの価格は上がり続けた。つまり、この時点では、誰もが儲かったのである。
一方、素朴な疑問もわく。球根1個が100年分の給与に値するか?である。綺麗な花は他にもあるし、食べるにしてもタマネギのほうが美味い(たぶん)。一体、どこにそんな価値があるのか?と誰かが思ったら、おしまい。株、不動産、インチキ金融商品、チューリップ、何であれ、将来上がると思うから買うのであって、下がると思って買うバカはいない。つまり、誰かが不安にかられ、売りにまわれば、暴落が始まる。こうして、チューリップバブルは幕を閉じたのである。
■大英帝国
先のアンボイナ事件を機に、イギリスは香料貿易をあきらめ、インドの植民地経営に専念するようになった。もちろん、アンボイナ事件の恨みを忘れたわけではない。イギリスの商館員が、八つ裂きにされ、処刑されたのである。さらに、オランダが香料貿易を独占していることも、イギリスは気に入らなかった。
1651年、イギリスは、植民地貿易からオランダを締め出すため、航海条例を発布した。オランダはこれに反発し、1652年から3次にわたる英蘭戦争が始まった。この戦争は、互いに本国を突くことはなかったため、目に見える勝敗はつかなかった。それでも、オランダの損失は大きく、以後、2度と世界の1等国に名を連ねることはなかった。ちょうどこの頃、ヨーロッパ人の侵出は地球全域におよび、長かった大航海時代も終わりを告げようとしてた。
一方、イギリスは、大航海時代に続く、新しい植民地時代を築こうとしていた。植民地から収奪するだけでなく、植民地に自国の製品を売りつけるのである。最初、イギリスは自慢の毛織物を持ち込んだが、暑いインドでは需要がなかった(あたりまえ)。そのかわり、イギリスはインドで素晴らしい貿易品を見つけた。「キャラコ(木綿)」と「インディゴ(藍色の染料)」である。
当時、ヨーロッパでは木綿は存在せず、夏服や下着はリンネル(麻)が使われていた。ところが、インド綿は、肌触りが良く、吸湿性が高く、安価なので、たちまち、リンネルを駆逐した。また、インディゴは藍色の染料で、従来の染料にくらべ、色が鮮やかで、色あせしにくかった。また、ベンガル地方では、火薬の原料となる硝石も産した。こうして、インドはイギリスにとって最も重要な植民地になったのである。
その後、イギリスは中国の紅茶も取り込み、植民地事業を拡大していった。そして、18世紀後半には産業革命が起こり、蒸気機関の勇ましい轟音とともに、イギリスは世界帝国へと駆け上がっていく。その後、新興国アメリカも加わり、欧米列強は世界中に支配地を拡大していった。長い歴史を持つ、多様な文明と民族を破壊しながら。これが、現在のグローバリゼーションの起源となった。
グローバリゼーションとは、多種多様な価値を、欧米式基準でふるい落とす弱肉強食エンジンのことである。この不気味な装置が地球に広がったのが、大航海時代だった。この間に、多くの民族や文明が破壊された。では、大航海時代は人類にとって災いだった?残念ながら、そうとも言い切れない。
かつて、ほ乳類は地中で暮らしていた。地上に出れば、最強の恐竜に食われるからである。ところが、6500万年前、恐ろしい隕石衝突により、恐竜は絶滅した。衝突で吹き上げた粉塵が太陽光を遮断し、光合成が消滅し、植物が絶滅。続いて、植物を食べる小動物が死滅、地上に恐竜のエサはなくなった。
一方、ほ乳類は地中にあるわずかな食糧で生きのびることができた。この新しい環境で、弱肉強食エンジンは、小さなほ乳類を残し、巨大な恐竜をふるい落としたのである。その結果、ほ乳類は進化を続け、人類が誕生した。つまり、我々が存在しているのは弱肉強食のおかげなのである。もちろん、環境が変われば、新たな弱肉強食エンジンが始動し、人類は滅ぶだろうが。
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