2011年も終わりが近づいてきました。
今日は少し長めにブログを書こうと思います。
眠いけどね!!
此方の写真は9月某日、
青森県八戸市にある『こどもの国』というところに行った時の写真です。その日は雲一つない晴天で気持ち良かったです。思わず息子に野球を教えました。
はやく10億円プレイヤーになってもらって毎月おこずかい貰ってアラドに課金したいです(ぇ
今年は色々あったと思います。地震、台風等の自然災害、政治、経済、年の最後の最後にはキムちゃん死去とかありましたよね。
その中で私は余裕のダントツで地震が一番記憶に残っています。実際に被災しました。
いまさらですが、当時どのような状況だったかここに書いてみます。
3月11日
当時私は、当社に転職して未だ1年しかたっていません。3月10日から始まった新入社員が『何について学んだか』を簡単に発表する報告会のようなものがありました。もちろん私も対象で、年齢的?に最後の方で発表することになりました。3月11日14時30分頃、私の発表が始まりました。イメージとしては大学の論文発表みたいな感じですかね。PPTを使ったり、レーザーポインタを使ったりと工夫しながら発表しておりました。一連の発表が終わり、質疑応答も無事おわり、さぁ最後の『ありがとうございました』と言おうとしたところ・・・・
ビュインビュインビュイン
ビュインビュインビュイン
ビュインビュインビュイン ←表現あってる?w
なんぞ。。この音 火事でもあったんかな
と思っていたら
カタカタ・・・スーパーバイブレーションな感じの超細かい揺れが来ました。
『あーなんだ地震か』
私は震度5強くらいまで体験したことがあり、今まで地震で被害を受けたことがなかったので軽視していました。
数秒後
すさまじい音を立てて建物が揺れ始めました。
余裕で座り込みました。
①とりま机めちゃくちゃ
②人大パニック
③悲鳴
④蛍光灯落ちる
⑤窓ガラス割れる
⑥壁こわれる
⑦ドア動かなくなる
⑧電気消えて暗い
⑨外はサイレンの嵐
⑩外で叫び声
⑪車同士がぶつかる音
悪夢ですよ悪夢
建物が壊れるかと思いました。
すぐに嫁に電話したところ、全員無事。ならOK
この地震のでかさは間違いなく直下型だろと思ったら、あらま不思議。全然遠いではないか。ケイタイで確認したら宮城県で震度7・・・。こちらは震度6強でした。とりあえず会社の車を借りて、青森県八戸市にある職場に行き、早急に出動しなければなりません。盛岡→八戸市は普段1時間半あれば着きますが、その日は街灯と信号機がお亡くなりになっているので、6時間ほどかかりました。渋滞ハンパナイ。
途中コンビニによりました。
静まり返った店内。
行列の最後尾は店の外です。
食糧はほとんどなかったです。
おにぎり、スパゲティー、弁当ゼロ
みんなポテトチップスを持ったり・・・
じゃがりこ持ったり・・・
ウィダーインゼリー持ったり
最後の方はつまみしかありませんでした。
私は運よくハンバーガーを買う事が出来ました。
本当はある分買い占めたかったのですが
皆さんそんな様子はなかったので、お互い譲り合いながら、暗い店内で文句ひとつ言わず、ただただ無言で並んでいました。
店員さんこそ、その場からすぐに逃げたかった事でしょう。そんな店員を気遣ってなのか、ほぼ全員の客が『ありがとうございます』『頑張ってください』などと声をかけており、女性店員の方はすこし涙が出ていました。
車でパンを食べながらひたすら職場に向かっている時、何度も何度もAMラジオから
『余震です止まってください』
『直ちに車を止めて安全を確保してください』
『落ち着いてください』
『揺れが収まってから行動してください』
余震は全て震度5以上。1時間に震度4以上が23回きた時間帯もありました。
地震が来てから1時間くらいの話でしょうか。
津波の被害情報が入りました。
耳を疑う事ばかり言っており、その時は大げさ?みたいに感じていたのは正直なところです。
職場に戻りました。
長旅でした。
所長の一言
『おい・・・これ見ろ』
そこには映画のような津波の映像
なんだこれ?日本で起こっているのか?と思いました。
職場に集まったメンバーは暫く映像を眺めて無言でした。
こんなに大きい地震であったことを、映像を見て初めて知りました。
集まったものの、電気は使えず、電話もつながらない。
地区の会議で日中に見送りすることになりました。
その時はなんとか電話もつながり、家に着いたのは2時40分。長い長い一日が終わりました。
この後も色々ありましたが、当日の事は一生忘れないでしょう。
いやー、死ななくてよかった本当・・・。
明日はアラド戦記についての記事を書こうと思います。
長文になりましたが、ここまで読んで下さって有難うございました。
by hana華30
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