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[31015] 【習作】東方宝石翼(東方project、幻想入り)
Name: しむらむ◆f31c7ff0 ID:6ec63e55
Date: 2012/01/06 23:57
 東方宝石翼(とうほうほうせきよく)

 紅魔館の謎を0から追い求める物語
 リベンジ作
 全10章前後の予定

 ※この作品は東方projectの二次創作になります
 ※原作に存在しない独自の設定があります
 ※R15の要素があるかもしれません(タイトルに記載するべきか検討中)

~あらすじ~
 ニートと呼ばれる人種になってから八年目、男は変わらない日常生活を過ごしていたある日、いつものように眠りから目覚めたら、そこは見知らぬ場所だった。
男が困惑する中、一人の人物が訪れる。元の日常生活を取り戻すため、男は動き出すが―――、

2011/12/29 第一章
2011/12/31 第二章
2011/01/06 第三章
第四章 目標1週間以内



[31015] 第一章前
Name: しむらむ◆f31c7ff0 ID:6ec63e55
Date: 2011/12/30 11:51
01


 どうしてこうなってしまったんだろう、と不意に思うことがある。

 『少年』は間違いなく、優秀であった。
 周りから褒められたいというたった一つの思いが、少年の原動力となって、誰よりも勉学を努力してきた。
 代表役が必要になった時は、率先して自分から引き受けて、皆を引っ張った。
 あらゆるスポーツ大会に出場して、数々の好成績を収めてきた。
 一種の大会で大人と交えて優勝したことがあり、テレビや雑誌などで大きく紹介されたこともあった。その年は、世間から注目された人物となっていた。
 友達が沢山できた。
 好きな子と仲良くなれた。
 両親からは最高の息子と褒め称えられ、少年の欲しいものは望みのままに手に入れてきた。
 最後の壁、名門校の入学試験を難なくと乗り越えて、当時中学三年生の少年は輝かしい未来が待っていた。
 両親、彼女、友達、同級生、親戚、学校の先生、近所の人、誰もがそう思っていた。
 少年もそう確信していた。

 そのはず……だった。

 義務教育を終えて、少年が気づいた頃は、部品工場に勤めていた。
 急変した環境、過酷な肉体労働、窮屈な人間関係、賃金への不満。
 少年はそれに耐え切れず、半年も経たない内、逃げるように工場から去った。
 その日から、新しい仕事を探すことも、勉強をすることも無く、パソコンの前にただ座る日々が続いている。
 『少年』を卒業して、現在二十四歳。
 性別男性、職業無職。
 一言で言えば、駄目人間と呼ぶ。

 今から約二年前、両親が交通事故で亡くなった。
 最初は『よくある作り話の展開』だと楽観的に思っていた時期もあった。
 葬式を終え、両親の居ない生活を数日過ごしたある日、自宅に残された食糧が遂に尽きてしまった。
 今まで母が食事を用意してくれていたのだが、もうこの世に両親は存在しない。
 当たり前のことなのに、知っていたはずなのに、男はその瞬間になるまで全く自覚していなかった。
 その時になって初めて、親のありがたみというものを実感した。
 ただそれだけで、それ以上の感情は持たなかった。
 男の瞳には、涙を忘れていた。

 両親が亡くなった後も特に何もせず、遺してくれた財産で何とか生き延びている。
 十六歳から引きこもり生活、――つまり、不衛生な生活が始まり、今年で八年目を迎える。
 後々の生活に不安を抱いたことが無い。今まで培ってきた自己への自信もそうだが、両親が遺してくれた財産は結構な金額だったので、まだ三十年ぐらいは大丈夫だろうと頭の中で計算していた。
 そして、今日もパソコンの前に座って、延々とインターネットオンラインゲーム、通称”ネットゲー”を続けている。

 朝から昼へ、昼から夜へ、刻々と時が過ぎていく中、男は一歩も動かなかった。
 キーボードを叩く音。
 マウスを押す音。
 パソコンが起動している音。
 それだけが部屋の中で響いていた。

 男が動いたのは夜中の三時頃。
 空腹と喉の渇きがピークを迎えると、男は重い腰を上げる。
 男は少し離れた位置にある大きな棚へと移動して、予め買い溜めしていた食糧を漁り始めた。
 男が好む食糧はパンやカップラーメン。約一週間分の食糧が大きな袋に詰められていた。
 大きな袋に腕を入れて、無造作に食糧を選ぶ。

 数分後、男は食べ始めた。
 時間が惜しいのか、かなり速いペースで喉に流しこみ、すぐに食べ終えた。
 用済みとなった容器は左隣にあるゴミ袋へ放り投げ、男は再びモニターと向き合う。

 ほぼ同時刻。
 ゴミ袋が擦れる音、もしくは何かと何かが数回接触したような音が室内に響いたが、男は気にしていなかった。
 男が投げた容器はゴミ袋に入らず、床に落ちていた。
 すでにゴミ袋はゴミで溢れていた。

 日が昇り始めた頃、男は眠っていた。
 前かがみの姿勢を取り、腕を枕の代わりにして、静かに眠っていた。

 安眠中。
 男の足元から小さな切れ目みたいな”モノ”が突如現れた。
 そして、瞬く間に切れ目が大きく開き、座席と男を飲み込んだ。
 大きく開かれた”ソレ”は男を飲み込んだ後、最初の切れ目の形状に戻り、やがて消えた。

 朝から昼へ、昼から夜へ、刻々と時が過ぎていく中、その部屋は人が存在していなかった。
 パソコンの起動している音だけが、部屋の中で響いていた。


02


 男の目がゆっくりと開く。
「……?」
 見慣れない天井が映った。
 男は体を覆う柔らかい掛け布団に視線を移し、次に辺りを見渡した。
「…………」
 ゴミが無い綺麗な部屋で、一言で言えば質素な部屋だった。
 ある物といえば、衣服を収納する小さなタンスと、今使っているベッド、そして丸椅子ぐらいしか無い。
 男は上半身を起こし、ベッドから足を下ろして、その場でぼんやりとしていた。

 それなりの時間が過ぎた頃、男の頭が少しずつ働き始め、 
「…………ここ、どこだ?」
 久しぶりに声を発した。
 男は見覚えの無い場所に戸惑いながらも、キョロキョロと首と視線を動かして、窓の存在に気づく。
 ゆっくりと立ち上がり、おぼつかない足取りで窓へ向かった。
 そして、景色を遮る分厚いカーテンを開き、窓越しで外を眺めた。

 とてつもないほど、広い景色だった。
 空はこれ以上の無い綺麗な夕焼けで染まっており、もうすぐ夜になることを男は理解した。
 正面を見ると、辺り一面広い湖と大きな山が見えていた。
 少し下を見ると庭らしきものが見えて、色取り取りの花や植物が咲いていた。庭の知識は分からないが、植物の状態を見る限り、小まめに手入れをしている様子だった。
 男は慣れない手付きで鍵を開け、大きく窓を開いた。
 ひんやりとした冷たい風が顔に当たり、より男の目を覚まさせる。
 男は頭を乗り出し、建物の様子を見渡した。
 この建物は、赤に近い茶色のレンガで覆われていて、下を覘くと一段目、二段目と窓が並んでいた。
 左右を見渡すと、三段目の窓が並び、横の長さは随分と広い距離を持っている。
 上を覘くと、屋根の先端が見え、最低でも三階建ての建物だと男は理解した。
 男は自然が溢れる景色をしばらく眺めた後、窓を閉めた。

 男は後ろへ振り返り、再びベッドへと腰を掛けて、上半身を倒した。
 その姿勢のままで、男は体を休めていた。
「……………………」
 目は開いたままだった。

 天井を眺めてから数分後。
 外に出る、という発想をようやく思いついた直後、扉から甲高い音が二回響いた。
 聞き慣れない音で少々戸惑ったが、男は”ノック”という単語を思い出す。
 男は返事をせず、上半身を起こし、扉の方向へ視線を動かした。
「失礼します」
 女性らしきの声が聞こえ、同時に扉がゆっくりと開かれた。


03


 男は戸惑っていた。
 室内に入ってきたのは若い女性の人で、肌が白く、凛とした綺麗な顔立ちをしていた。
 見た目だけで憶測すると、十八か十九ぐらいの歳だろうか。二十四歳の男よりも、容易に年下と判断できるほどの若さを感じ取れる。
 女性の着ている服装も特徴的で、男を戸惑わせる時間を大幅に増やしていた。
 その女性の姿は、半袖の白のブラウスの上に紫色のワンピースを着込んで、首元にリボンタイで結び、腰に短い白いエプロンを巻きつけて、頭にフリルだらけのヘアバンドで髪留めをしていた。
 髪の色は、青の色をベースに白色やら灰色やら銀色やらを混ぜたようなよく分からない色をしていて、その髪の毛は肩まで伸びていた。そして、前髪の両端に胸まで届く長い三つ編みを作っていて、先端に緑色のリボンで留められていた。その三つ編みは後ろの髪より大分長い。
 どう考察しても、女性の姿は男が想像する”メイドさん”に近かった。
「…………」
 男の戸惑いは解かれる事が無かった。
「お目覚めでしたか」
 女性はほんの少し微笑みを見せ、そう話し掛けてきた。
 とても聞き取りやすい声だった。
「あ、あの」
 男は数ヶ月ぶりに人に対して呼びかけて、
「ここはどこでしょうか?」
 精一杯の敬語で話し掛けた。
 女性はすぐに答えず、男へ向かって歩み始めた。
 男は息を呑み、その場で待ち続ける。

 腕を伸ばせば届きそうな距離で、女性は立ち止まり、事務的な口調で答える。
「ここは我が主、レミリア・スカーレット様が治める紅魔館(こうまかん)でございます」
「へ? は?」
 訂正、とても聞き取りにくい声だった。
 男は理解し難い言葉に苦悩している時、女性はベッドの隣にある丸椅子に腰を掛けた。
「えー、と。ここは、どこの病院ですか?」
 男は言い直して、再度問い掛けた。
「ここは病院ではありません」
 女性は特に表情を変えずに答えた。
「え? ここは、東京のどの辺にあるんですか?」
「トウキョウ? それは何を示しているのでしょうか?」
「へ?」
 全く会話にならない。
 胸の奥から様々な疑念を思い浮かびながら、男は再度問いかける。
「ここは、日本のどの辺ですか?」
「ニホン、ですか? 何の事でしょう?」
「…………は?」
 男は我慢できなくなった。
「ふざけて……、いるんですか?」
 言葉を詰ませながらそう言うと、女性は明らかに不機嫌となった表情を見せた。
 先ほどよりも、やや強い口調で女性は言う。
「ふざけておりません。今一度申し上げますが、ここは我が主、レミリア・スカーレット様が治める紅魔館です」
 れみ? こーまかん?
「そして、貴方は一昨日の未の刻に、領内の庭で倒れている所を美鈴が見つけました」
 おととい? みのこく? めいりん?
「貴方から、妖力や魔力の類を感じません。パチュリー様の魔法で侵入の知らせを聞いた時は驚きました」
 ようりょく? ぱちゅり? まほう?
「異質な者が侵入したと聞いて警戒していたのですが、レミリア様の命で部屋へ運ばせて頂きました。……先に問います。貴方は何者ですか?」
「え?」
 女性はゆっくりと椅子から立ち上がった。
「すぐに処分するつもりでしたが、レミリア様から止められていました」
 女性がそう言うと、突如目の前から姿を消した。
 一瞬の出来事だった。
 男の視線の中に、女性の姿はどこにも無い。
「なっ!?」
 ここでようやく男は驚きの声を上げる。
 そして更に、
「ひっ――!」
 左肩にポンと”何か”を置かれて、男の体を大きく震わせた。
 視線を向けると、そこには肌白い綺麗な左手が見えて、先ほどの女性のものであると男が理解した直後、
「――!」
 別の”何か”で男の顎を持ち上げられた。
 男は頭を動かさず、視線だけでそれを見た。
 そして、”それは”何であるのかすぐに判明した。
 反射的に動こうとしていた体も急停止する。
 視線の先にあったものは、刃物。
 室内の薄い光を反射させて、ギラギラと輝いていた。
 そんな凶悪なモノ――俗に言う”ナイフ”を、女性の右手にしっかりと握り締めていた。
 ひんやりとしたその感触は、女性が持つナイフが本物であることを疑わせなかった。
「ッ!」
 息を凍らせて、男は極力動かないようにしていたが、それでも男の首に少しだけ食い込み、小さな傷を作っていた。
 男は全く動けなかった。
「ですが、レミリア様の脅威となるならば、貴方を今この場で処分します」
 男は全く動けなかった。


04


 ほんの数秒、静寂な時が流れていたが、男にとっては長い長い数秒だった。
 首元にナイフのようなものを突きつけられて、少し食い込んでいるような感触によって、男の体から次々と汗を噴出させた。
「もう一度言います。貴方は何者ですか?」
 ピリピリとした厳しい声が、背後から突かれる。
「俺は……八年間ニートをしている……ただの人間だ。お前みたいな……ケダモノ以下じゃない」
 男は必死になって、言葉を作っていた。
「ニート? それは何ですか?」
「ニートは……、何もしていない人間のことだ……」
 男は言葉を続ける。
「そうだ……、ニートは社会の枠から外されたクズの人間のことだ。死んだって誰も悲しんだりしない……! 無能力で、何も才能の無い人間だ! 両親のありがたみだって、死んでから初めて分かるクズの人間だ! 俺はそういう人間だ!」
 男は一言一言、そしてゆっくりと力一杯言い続けた。
「もういいよ。早く殺せよ。もう何度も自殺を考えた事がある。ちょうど良い機会だ。早く殺せよ。今なら……、死ぬ勇気がある」
 黙って聞いていた女性は、
「なるほど」
 その一言だけ呟いた。
 女性の持つナイフがゆっくりと首元から離れ、左肩に置かれた手も離れて行った。男は安堵の息を吐き、ゆっくりと後ろへ振り返ると、
「え?」
 そこに、女性の姿は無かった。
「刃物を突きつけても」
 全く違う方向から女性の声が聞こえた。
 頭を前に戻すと、後ろに居たはずの女性が扉の前に立っていた。
「私に対して何もされなかったということは、レミリア様に会わせても大丈夫ということですね」
 女性はドアノブを回し、音を立てずに扉を開けた。
「レミリア様は貴方に会いたがっています。私は用がありますので、一度失礼させて頂きます。少ししたら、また迎えに来ます」
 力で圧倒された女性に対して、男は何も言うことができなかった。黙って、話を聞く事しかできなかった。
「逃げようとしないでくださいね。そのまま頭を冷やすと良いでしょう」
 女性は丁寧に頭を下げ、数秒後に頭を上げた。完璧な動作だった。
「それでは失礼します」
 そう言ってから、反対側のドアノブを持って、音を立てずに閉められた。


05


 ベッドに腰を掛けて、傷を付けられた首元に指で擦りながら、
「一体何なんだ……」
 男は独りで呟いていた。
「ここは東京じゃない? 確かに外の風景は自然だらけだし、他の建物が見当たらなかった。東京でそういう場所はあまり無いはずなのに、というかあるのか?」
 男は自問自答して、少し考えた後、
「いいや、無い」
 首を強く振って否定する。
「開拓を尽くした東京で、そういう場所はもう無いはずだ。あの人の言う通り、確かにここは東京じゃない。でも、そうしたら、ここはどこだ? 家で寝ていたはずの俺が、何をどうしたらここに辿り着くんだ?」
 答えがでない思考を続けて、
「……………………」
 やがて男は全身の力を抜いて、
「分からない……」
 上半身だけを後ろに倒した。
 衝撃を吸収するような鈍い音と、きしむような金属音が男の耳に入る。
「あの人は」
 女性との会話の一部を思い浮かべて、男は呟く。
「日本を知らないと言っていた。どう聞いても日本語を話しているのに、それでもあの人は日本を知らないと言っていた。今まで日本に住んでると思っていたけれど、二十四年間、俺は勘違いしていたのか? それとも、日本という国名が俺の知らない間に変わってしまったのか? 俺の話している言葉が日本語じゃなかったとか?」
 垂らした足をベッドに乗せて、体を回転させた。
「どう考えても、あの人がふざけてるとしか思えない……」
 全身をベッドに収めて、楽な姿勢になったところで、男は女性の姿を思い出す。
「変な服を着ていたし、ナイフを持ってるし、普通に考えれば、銃刀法違反で逮捕されるんじゃないのか? ……持っているだけならまだしも、ナイフを使って他人に脅してくる時点で、もう色々とアウトだ。もしも、問われた時に何も言わなかったら、本当に殺されていたのかもしれないな……」
 男の額に苦渋な汗がにじみ出た。
 一息吐いて心を落ち着かせて、男は女性とのやり取りを思い出していく。
「いきなり消えたり現れたりで、まるで手品を見せられたような気分だ。……もしも、あれが手品の類では無かったとしたら……」
 男は想像して、首を振って否定した。
「……あまり、考えたくは無いな。俺の動体視力が相当に落ちてしまったのか、もしくは、視力が数日で急激に悪くなってしまったのか……。……でも、あれは本当に消えたとしか……」
 思考に入って数秒後。
「名前ぐらい、聞いておくべきだったな。……それでもし、日本人の名前だったら、やっぱりあの人がふざけていると判断できるんだけど……。でも、あの髪と肌は日本人離れしているし……。今思えば、外人、になるのか」
 数秒後。
「ようりょく、まほう、あの女の人が言っていた言葉、だよな。俺の聞き間違えじゃないよな? ようりょくって、ゲームや漫画によく出てくる妖力のことか? という事は、まほうは、魔法か?」
 更に数秒後。
「ふっ。あははははは。一体何だよ、あの人の頭が狂っているだけのか? ここは、漫画の世界じゃないんだぞ。堂々とそんな言葉を吐くなよ。馬鹿馬鹿しい」
 更に更に数秒後。
「それに”れみれあ”って誰なんだ? ”れみれあ”で合ってたか? まぁ、そんなことはどうでもいい。どう考えても日本人の名前じゃない。そのうえ、俺に会いたがっているとかどういう物好きだよ。ニートの実物を見て笑いたいだけなのか?」
 更に更に更に数秒後。
「それともアレか? 人の名前じゃなくて物の名前か? ……いやいや、俺に会いたがってるということはやっぱり”人”になるよな。今更、誰かと会うなんて……、嫌過ぎる。でも、挨拶ぐらいはしておかないと駄目か。多分、俺を助けてもらった、はずなんだよな。実感が全く沸かないけど」
 数秒後。
「そういえば、一昨日倒れていたとか言ってたよな。ということは二日間寝ていた訳か。人間ってそんなに眠れるものなんだな。……ん?」
 男は何かに気づき、
「一昨日? あ!」
 ベッドから急に立ち上がった。
「今日はシクレアモンが出てくる日じゃねぇかああああああぁぁぁ!」
 両腕を頭を抱え、これまでに無い最大の叫び声を上げた。
 シクレアモンとは、ネットゲーに存在するシークレットレアモンスターのことであり、ネットゲーに携わっている者は皆して”シクレアモン”と呼ばれている。
 ネットゲーの世界では怪物が腐るほど存在するが、その中で”シクレアモン”は本当に数が少ない。例えるなら、特盛ご飯に最高級の米をたった一粒だけ混ぜて、そこからその一粒を探し当てるかのような見つけにくさだ。男は日頃から、年に数回しか会えないシークレットレアモンスターを巡って旅をしている。もちろん、ネットゲーの世界のことであるが。
「まずい! 今からでも家に帰らないと! ”仲間”に見放される!」
 次の行動は早かった。
 『館の主に挨拶する』ということをすっかり忘れて、男は急ぎ足で扉へ向かい、手早くドアノブを握り締めて、勢いよく扉を開いた。
 可能であれば、そのまま自宅まで駆け抜けようとしたのだが、
「あっ……」
 男が一声放つと同時に、足がピタリと止まってしまう。
 初めて間近で見た扉の先に、
「逃げないように、と先ほど申し上げたかと思いますが」
 先ほどの女性の姿があった。
 腕を組み、男の進むべき道を立ち塞いでいた。
 怒りと笑顔の両方を感じ取れるような表情をしていた。


06


 男は室内に押し戻された。
 女性は扉を閉め、男の方に振り返る。
「次回からは、許可なく逃げようとしたら罰を与えますので、念を入れて置いてくださいね」
 優しげに話しかけてくる女性の言葉に、男は黙って聞くことしかできなかった。
 懐に凶器を忍ばせ、素性を知れない女性に、男はただ恐れていた。
 女性の話が続く。
「さて、先ほど申し上げましたが、これからレミリア様と面会します」
「…………」
 ”れみれあ”じゃなく”れみりあ”だったか、と男は思い、少しだけ苦笑いした。過去の記憶とどう照合しても、やはり聞き覚えが無い名前だった。少なくとも、外人であることは間違いなく、人と会うことを嫌っていた男は、どこまでも気分を落ち込ませていった。
「しかし、そのような汚れた姿でレミリア様と面会させる訳にはいきません」
「…………」
 それを聞いた男は僅かに嬉々するが、同時に複雑な気持ちにもなっていた。
 確かに女性の言う通り、男の姿は多少なりとも汚れているかもしれないが、決められた日時にまとめて洗濯はするし(ネットゲーの定期メンテナンスの合間だが)、幼い頃の癖で歯も毎日磨いている。下着も頻繁に履き替えて、シャワーも浴びる時はちゃんと浴びている。男の不衛生な生活は時間の割り当て方であって、食と運動以外の自身に関しては、そこまで不衛生とは思っていない。……そう思っていたい。
 ただ、人と会う機会がほとんど無くなったので、外出する時は長すぎる髪を帽子で、髭はマスクで覆い隠している。そこら辺だけは勘違いして欲しくないと男は思っていたが、口にすることはなかった。更に言えば、”どうせならこのまま会わなくても良いのに”と男の淡い気持ちも持っていたが、こちらも口にすることはなかった。言葉にすれば、色々と面倒になることを男の直感で判断していた。それに、見た目の問題で面会させる訳にはいかないなら、このまま帰してくれる可能性も期待できた。一秒でも早く、この場から解放されることを望んでいた。
 男は”何も言うまい”と口を閉ざしていたつもりだったが、
「話を聞いていますか?」
「は、はい……」
 言葉の圧力が強く、自然と口が開いてしまう。
 女性は言う。
「今から入浴してもらい、同時に髪の毛を散髪してもらいます。男性用の服装も調達しましたので、貴方に貸し出します」
「え?」
 男の期待が、見事に挫かれた瞬間だった。
 何が何でも、この女性は”れみりあ”とやらに会わせたいらしい。
 どうにか回避したい男は、どう言うべきか悩んでいたが、
「時間が惜しいので、すぐに行動します。貴方……床に座りなさい」
「……はい?」
 女性からそう告げられ、男に求められるその行動の意味について考えるが、
「……えっと……」
 全く理解できなかった。
 言葉が淀み、体も立ちすくんでしまう。
「座りなさい」
「……はい……」
 女性の苛立ちに察知して、男は仕方なく腰を掛けた。

 すると、


07


 男は混乱していた。
 少し前のことだ。
 男は女性の言われた通り、床に腰を掛けた。

 その直後、風景が変わった。

 質素な部屋だったものが一転して、洋風の作りを感じさせる脱衣所らしき場所に、男は居た。
 そう、ただ普通に座っただけで、別の場所に移動してしまったのだ。
 床の質感が変わり、空気も、部屋の光も、違う。
 別の場所に移動したとしか思えなかった。
「…………」
 訳が分からないの一言である。
 男は混乱しつつも、ゆっくりと立ち上がった。
 辺りを再度見渡すと、やはりどう見ても脱衣所だった。
 側面には、金属で作られた大きなカゴと、それを収納する大きな棚が。
 正面と背後には、それぞれ作りが違う扉があった。
 背後の扉は、鍵付きの重厚な扉で、その先はどうなっているかは分からない。
 正面の扉は、薄いスモークを掛けられたスライド式の扉で、その先は浴場があることを容易に想像できた。
 何度確認しても、さっきの部屋とは全てが変わってしまっている。
「では」
「……!」
 真後ろから声が聞こえた。
 男は声に反応し、後ろに振り返ると、数歩で届く位置に女性が立っていた。
 絶対に居なかったはずなのに、どうなっている?
「早速ですが、入浴して来てください。妖精達に手伝わせますので、手短にお願いします」
「ようせい……?」
「はい、そうです。では、私は用がありますので先に失礼します」
「あ、ちょっと待っ――」
 男は女性に何かを言おうとしたが、
「――え?」
 突然女性の姿が一瞬にして消えてしまった。
 辺りを見渡しても、女性の姿が無い。
 その場で待っても、現れる気配が無い。
 一人取り残されて、呆然としたまま、数十秒過ぎた頃、
「消えたり現れたり一体何なんだよ……。俺の目、本当におかしくなっているのか」
 男がそう呟いている時、
「こんばんわ」
 声が聞こえた。
 あの女性の声とは違って、もっと幼く、可愛らしい声が聞こえた。
 男は声が聞こえた方向、右隣に顔を振り向くと、
「えっ? あ――」
 小さな少女が三人並んでいた。
 先程の女性の服と酷似している部分が多く、この人達もメイドさん(恐らく)ということをすぐに理解できた。
 できたのだが、
「…………」
 男の前に立つ少女達は、”普通”では無かった。
 その少女達は、顔立ちが幼く、男の胸の高さに届くか届かないかの小さな体格をしていて、見た目だけで推測すると十歳も満たない幼さを感じさせた。
 そして、不気味なことに、三人とも似たような顔立ちになっていて、背中に”羽みたいなもの”が薄っすらと横に広がっていた。三人とも同じ顔というのは百歩譲って”アリ”だとしても、背中の羽の存在が、どうしても”普通”では無いと思わざる得なかった。
 男は頑なにその存在を否定したかったのだが、体格の割にはやけに視線が高かったので、恐る恐る足元を見てみると、女性達は地面に立っておらず、一言で言えば浮いていた。
 女性が言っていた”ようせい”とは恐らくこの人達の事であり、人間とはまた別の生き物が存在していることを、素直に認めるしかなかった。
 男は妖精さんの異形な姿に驚いている内に、
「さくやさまから、おふろにいれるようにといわれました」
 一人の妖精さんが、男に話し掛けてきた。
「さくや?」
 男は首を傾げ、
「うわっ!?」
 三人の妖精さんに囲まれた。
 男は服を脱がされ……というより引き裂かれ、文字通り身包み剥がされると浴場に連行された。
 男と妖精達が居なくなった脱衣所に、破られた服装が散らばっていた。


08


 広い浴槽だった。
 後五十人は入っても、まだスペースが有り余るぐらいの広さだった。
 男はその浴槽の広さに感嘆している時、
「わあっ!」
 男の意思関係なく、突然”何か”の力で、体が宙に浮かび上がった。
「え? え?」
 男は手足を動かして抵抗するが、思ってもいない方向にぐいぐいと体が引っ張られ、予め置かれていた金属製の椅子の上でようやく止まった。そして、
「うわぁ!」
 急に下の方向へ引っ張られ、椅子の上で尻餅をついた。
「イッ!」
 男は鈍い痛みで苦しんでいた頃、何時の間にか一人の妖精さんが近くに居て、
「……ふへ?」
 男は情けない声で驚いていた。
 そこには、
「み、水ぅ?」
 丸い水の塊が、男の眼前でぷかぷかと浮いていた。
 その大きさは妖精さんよりも一回り、二回りも大きいものだった。近くに居る妖精さんは、その水の塊に手をかざしていた。
 水の塊の正体、妖精さんの行動、その関連性について考えていたが、
「うわっ!?」
 男の思考を待ってくれず、水の塊が不意に動き出した。
 それなりの速さで近づく水の塊は、男の体に触れた瞬間、球体の形が崩れて派手に弾け飛び、
「――!!」
 声にならない奇声と共に、万遍なく男を濡らしていった。その水は温かかった。
 腕を使って急いで顔を拭くと、
「…………」
 水の塊がまた目の前にあった。
 そして、繰り返し水をぶつけられる。

 途中止めるように叫んだが、容赦なくぶつけられた。
 逃げ出そうにも体が自由に動かず、繰り返しぶつけられた。
 何度も何度も、ぶつけられ続けた。

 たっぷりとお湯を浴び続け、次第に男の全身が温まってきた頃、三人の妖精さんが男に集合した。
 それぞれの妖精さんの手元には、泡立てたタオルを抱えていて、四方八方から男を磨き始めた。
 相変わらず体が動かすことができず、ごしごしと磨かれ、
「うぐっ!」
 顔の表面もごしごしと磨かれ、
「っ……!」
 鼻が詰まって、
「…………――――」
 口から泡を吹いて、
「――――――――」
 動かぬ男に髪の毛をワシャワシャと掻き乱した後、水の塊を男にぶつけ、
「――がっ、はぁ……。げほっ……死ぬかと思った……」
 全身の泡と共に、臭いやら汚れやらを完全に洗い流した。
 男の怒りが沸々と募り、妖精達に文句を言おうとしたが、休む間もなく、
「わあっ!」
 一度体験した”何か”の力によって、男を広い浴槽の上に移動させられ、それなりの高い位置で静止してから、
「ぬおおわああ!!」
 急に力が失ったかのように、そのまま落とされた。
 頭から落ちて、水を吐いて、息を整えていた頃、くすくすと笑う妖精さんの姿を男は捉えた。
 そして、恨みの言葉をぶつける暇も無く、
「そのまま、はいっててね」
 可愛らしい声で妖精さんに言われ、三人とも浴場から飛び去った。
「…………」
 文字通り、”飛び去って”いった。

「……はぁ」
 男は深いため息を吐きながら、妖精さんに言われた通り、お湯に浸かっていた。
 もちろん、すぐに逃げることを考えていたが、引裂かれた服のことを思い出して、諦めるしかなかった。
「む?」
 どこかで、水を叩くような音が際限無く続いていることに、男は気づいた。
 音の大きいところへ視線を向けると、滝のように水面を叩いている場所を発見し、上になぞっていくと何かの動物を模した銅像が設置されていて、大きく開いた口からお湯を吐き続けていた。
「……悪くないな」
 男はそれを見て、銅像の近くに寄り、その音を――滝のように浴槽へ叩く水の音を聴いて、心を静かにする。
「”れみりあ”とやらに会ったらすぐに家へ帰ろう。今日こそは念願のレアアイテムが手に入る予感がする。後発組になったからには、今の内に考えておかないと」
 男は今の現状を整理して、ため息を吐いた。
 脳内で今後の予定を組み込み、自分に言い聞かせるように呟き始める。
「――シクレアモンの出現時間がランダムだから、今回は何時出てくるかが鍵になる。さっき外を見た時は夕方だったから、最短で見積もったとしても、後二時間の余裕があるはずだ。それに、シクレアモンは遅れて出現することが多いから、平均すると半日以上……長くても一日以上の余裕がある。仮に最短で出現したとしても、討伐するまで時間はかなり掛かるから、多少遅れたとしても余裕で間に合うはずだ。……でも、後発組になるのは変わり無いから、家に帰ったら仲間と連絡を取り合って、それで――」
 男はぶつぶつと呟き続け、
「おまたせしました」
 不意に妖精さんの声が響いた。
 男は考え事を中断して、妖精さんの方へ体を向ける。
「ん?」
 三人の内、一人の妖精さんが木製の箱を抱えていることに男は気づき、
「これから、カミノケとヒゲをきります」
 妖精さんに言われて、あの中にその道具が入ってることを理解した。
 妖精さんの言葉に違和感を感じて、更に言えば、今までの妖精さんの乱暴な立ち回りに懸念していた男は、すぐさまに、
「自分でやり――」
 自分でやることを提案しようとした、その瞬間、
「うわあ!?」
 またもや何かの力で体を持ち上げられ、強制的に移動させられた。
 骨身に沁みる衝撃で椅子に座らされ、箱から刃物を取り出した妖精さんの姿を見て、男は慌てて”自分でやる”と今度こそ主張するが、妖精達に一蹴される。
 そして、眼前に刃物を運ばれて、
「……あ」
 遂に男は絶望した。


09


 メイド姿の女性は、男の姿を見て、
「さっぱりしてきたようですね」
 そう感想を漏らしていた。
「ははは…………」
 男はやつれ顔を隠せないままに苦笑いするが、女性の言葉の通り、男の姿は随分とすっきりしていた。
 伸びていた髭は取り除かれ、ボサボサの髪の毛を短く整えられ、服装もスーツぽいものに着せられ、以前の男の姿と比べると別人のように異なっていた。
 着慣れぬスーツ、履き慣れない靴、自身の急激な変化に男は戸惑を隠せない。
「貴女達もご苦労様、元場に戻っていいわ」
 女性は三人の妖精達にそう言うと、妖精達は男に向かって頭を下げた。
「しつれいします」
 そして、妖精達はその場から飛び去った。
「…………」
 男は最後まで、妖精さんの姿を目で追っていた。
「さて、貴方」
「え?……はい」
 女性に呼ばれて、男は視線を移した。
「名前をまだ伺ってませんでしたね。教えて頂いても宜しいですか?」
「あ……」
 そういえば、そうでした。
「俺の名前はRABI――」
 違う。ハンドルネームじゃない。
 男は数回、頭を振った後、
「俺の名前は――」
「ラビ様ですね」
 言い直そうとした矢先、女性の言葉が割り込む。
「あ、いや……」
 男はすぐに訂正しようと思ったが、
「私の名前は十六夜咲夜(いざよい・さくや)と申します。自己紹介が遅れて、申し訳ございません」
 いきなり自己紹介されて、そして聞き取れなかった。
「いざ――? え、何?」
「十六夜、咲夜です」
 聞き慣れない名前だった。一度で聞き取れるはずが無い。
「いざよい、さくやさん?」
 確認のため、聞いてみた。女性は頷く。
「はい、そうです。では早速ですが、レミリア様の部屋へご案内致します。ラビ様、参りましょう」
「えっと、それで俺の名前は――」
「ラビ様、レミリア様がお待ちしております。急ぎましょう」
「あ、はい……」
 十六夜さんに気圧されて、男は払拭しきれない気持ちを抱きながら、後ろに付いて行った。
「…………」

 十六夜咲夜。

 その名前は、日本人ぽいような気がしてならない。


10


 俺は今、”れみりあ”とやらに会いにいく最中だ。
 長い廊下を進んだり、階段を上ったりと、初めて館内を歩き回った。
 進む道の全ては、似たような景色が延々と続いていて、窓の数が異様に少なく、館内はとても薄暗かった。
「…………」
 館の広さを感じながらも、俺は黙って歩き続けていた。
 道中、十六夜さんと会話することは一切無かった。
 それゆえ、俺の緊張は極限にまで膨らんでいった。

 長く歩き続け、十六夜さんは扉の前に立ち止まった。
 俺も立ち止まり、十六夜さんの様子を伺いながら、その扉を眺めた。
「…………」
 今まで、似たような扉を何回か通り越してきたが、この扉だけは明らかに異彩を放っていた。彫刻を細かく施され、毎日磨き上げてるかのような光沢感を感じさせた。扉の前には、踏むのに躊躇したくなるほどの重厚な絨毯が敷かれている。
「……ここが……」
 ここが目的地だと容易に推測できた。寧ろ、できない方がおかしいぐらいだ。
 俺は心を落ち着かせようと、右手を使って胸を押さえる。
「この先に、レミリア様がお待ちしております」
 十六夜さんはそう言ってから、手を丸めて扉を叩いた。
 数回、甲高い音が辺りに響いて、


「入れ」


「え?」
 思わず俺は、驚きの声を上げてしまう。
 扉の奥から聞こえたその声は、明らかに女性の声だった。
 しかも、かなり幼く聞こえた。
「……男だと思ったら、女だったのか……」
 俺は前方に立つ十六夜さんに聞こえないように、小さく小さく呟いた。
「はい、レミリアさんは女性の方です」
「え? あ、いや……すみません……」
 小さく呟いたはずなのに、十六夜さんの耳に届いてしまったらしい。
 俺は酷く動揺してしまうが、一度の呼吸で落ち着きをすぐに取り戻した。
「…………」
 先程の声は、間違いなく女性のものだった。
 ”入れ”のたった一言だけで、募っていた緊張感がすっかりと消えてしまったのだ。
 よく考えてみたら、”れみりあ”という名前は女性ぽいような感じがする。
 どうして女性であることを想像できなかったんだろう、と俺は思っていた。
 十六夜さんは丁寧な動作で、扉を開いた。
「失礼します」
 十六夜さんは一礼して扉を潜り、部屋へ入っていた。
「……失礼します」
 俺も十六夜さんを見習い、続いて部屋へ入っていった。


11


 扉を潜った先には、広々とした一つの部屋があった。
「……凄い……」
 というよりも、宝物庫と称した方が正しいのかもしれない。
 天井、壁、床のどの方向に視線を向けても、工芸品や美術品といったものが飾られていて、多種多様の宝が一つの部屋にまとまっていた。そのうえ、その一つ一つが圧倒的な品質を誇っていて、この館の財力を思い知らされた。
 だが、ただの宝物庫として成り立たない理由は、生活用品と思われるものが用途に合わせて設置されている点である。
 例えば、中央にあるガラス細工のテーブル。あれは人が使う生活用品だ。おまけに、二人分の陶磁器のカップと受け皿が並べられていて、その隣にお洒落なティーポットと小さな観葉植物が置かれてあった。
 他にも、赤レンガで組み込まれた薪のストーブ、皮細工のふんわりとしたソファー、貴金属を贅沢に使ったハイチェスト、ワインビンが収納されている骨細工のダイニングボード、巨大な獣の剥製で額縁代わりにしている等身大のミラー。
 こうして見ていれば、人が住んでいる部屋であることは間違いないらしい。
 俺は部屋の様子をその場で眺めて続けて、そして、
「ッッ!!」
 今になって、”人”が居ることを初めて気づいた。
「……えっ? え?」
 どうして人の存在に気づけなかったんだろうと、俺は酷く動揺する。
 その人は、特に視界を遮られていない場所で、堂々と座っていた。
 一番最初に目に付いたガラス細工のテーブル、その向かい側に人が存在していた。
「…………」
 俺の不注意もあるかもしれないが、妙な違和感を感じてならない。『部屋の豪華さに圧倒されて、気づくのが遅れてしまった』という言い訳を自分自身にできなくもないが、例えそうだったとしても、それで納得できるはずがなかった。
 何せ、俺は人がいると思い込んでこの部屋に入ったわけだから、視界に入れば何らかの反応を起こせたはずであり、しかも目立つテーブルを見て気づけなかったという己の注意力の無さのこともあって、ショックがショックを呼び、心の負荷が大きく募るばかりであった。
「……………………」
 こうして、完璧にアプローチのタイミングを逃してしまったのだ。
 掛けるべき言葉すら思いつかず、どう反応すれば良いのか分からない。
 そもそもが、
「…………」
 あの人が、この館の主……なのだろうか?
 あまりにもイメージと掛け離れすぎて、思考が追いつかなくなってくる。
 館の主と思われるその人物の姿は、やたらと背丈が低く、身長が足りないせいか、小型の椅子に座っても足先が宙に浮いていた。
 服装はピンク色が目立ち、フリルだらけのブラウスにスカート、大きな赤いリボンを腰に巻いて、背後に蝶々の一部を覗かせていた。
 そして、服装に合わせているのか、赤いリボンを巻いたフリルだらけの帽子を着用していて、綺麗な青髪が肩の長さまで伸びていた。また、その青髪は遠目から見ても、しなやかうえにふんわりとしていて、まるで作り物のような『不自然な美しさ』を感じさせた。
 肌の色が雪のように白く、普段外に出ない俺よりも、右隣に立っている十六夜さんよりも、明らかに白い肌になっていた。そして、俺の目が狂っていなければ、背中に骨と皮で構成された大きな”黒い翼”が見えていた。
 一言で言えば、人形そのものである。というか人形にしか見えない。もし、あれが十六夜さんの主ならば、年齢はいくつになる? 見た目だけで判断すると、十歳前後になるだろう。……どう見ても、どう考えても、この館の主とは思えなかった。何故かあの人形は、コップを持って美味しそうに啜っている姿が俺の目に映るが、恐らく視覚の勘違いだろうと思いたい。きっと、本当の館の主はどこかに隠れているはずだ。そう思いたい。……そう思わないと、何が何だか分からなくなる。
 というよりも、翼が背中に着いている時点で”人”であるはずが無く、もしも、アレが館の主ならば、人間相手のように接することができるのかどうか全く分からない。どう対応すれば良いのか、簡単に思いつくはずが無いのだ。人形は人形らしく、動かないで居て欲しい。……と思っていたいのに、頼むから翼を動かさないでくれ。動いている姿は完全に気のせいだと思いたい。あ、また動いた。気のせい気のせい。
 それにしても、自立的に動く人形とは、全く持って恐ろしいの一言である。その人形が良く出来ているのは分かったから、館の主とやらの姿をそろそろ出て来て欲しい。……にしても、先ほどから気になる人形の鋭い視線が痛い。透き通るような赤い瞳が、完全に俺を認識しているように思えるのは何故だ。作り物とは思えないほどの精巧さを感じさせる。……人形の存在も、翼のことも、否定したい気持ちでいっぱいだが、とてもそうは思えなくなってきた。人形も翼も本物。あの瞳も、本当に生きているような眼をしている。あれこそ正に、究極の造形美と評しておくべきだろうか。今の俺は完璧に騙されている。
 あの人形は今でも俺を睨みつけている。本当に良く出来ている人形だ。さて、本命の館の主はどこに隠れているのだろう。というか出てきてください。お願いします。
 頭の中で迷走しながら、アレコレと考えている時だった。
「人間、前に来なさい」
 一瞬で人形説を崩された。はい、あれが館の主ですね。ははは。
「……………」
 やたらと幼い声の指示に従い、俺は何も答えずに恐る恐る前へ踏み出した。
 一歩、また一歩、あの人形さんへと近づいて行った。
 近くもなく、遠くもない微妙な距離で俺は何となく踏み止まった。
「人間、名前は?」
 突然の不意な質問に俺は言いよどんだ。
「あ……えっと」
 本名で言うか、勘違いされた名前で言うか、悩んでいる時、
「お嬢様、彼の名前はラビと申します」
 十六夜さんがそう言った。
「え?」
 俺の右隣に居たはずの十六夜さんが、何時の間にか人形さんの隣に立っていたことに動揺してしまう。これもまた、俺は気づくことができなかった。
 思考の死角に突かれたかのような、妙な感覚。精神的なダメージというものは、恐らくこのことに当てはまるのだろう。
「……えっと……はい……」
 後三秒ほどで本名を言うつもりだったが、この際どうでもよくなってきた。どうせ俺の名前なんて、大した意味は持たないのだから。
「そう、ラビね――」
 人形さんは手に持っていたコップを持ち上げ、
「変な名前ね」
 一口、二口、静かに飲み始めた。
「……………………」
 一方俺は、人形さんの言葉に強烈なショックを受けていた。
 剥き出しの怒りを露にして、
「おいおい、初対面の俺に突然変な名前って言うのは失礼じゃないか? そういうことは心の中で留めて置けよ。俺はいつもそうしている」
 とは、実際に言わず、
「それに、RABIという名前はネットゲーの世界でトッププレイヤーと謳われているハンドルネームだ。大規模公式大会の時、初回から参加していて、連戦連勝の百戦錬磨を成し遂げている。簡単に変な名前と言って欲しくない。他人の名前に文句言うのは間違いだ」
 とも言わず、
「……すみません……」
 極力無表情を維持して、これしか言い返せなかった。密かに猛反論した俺の怒りの言葉は、表情に出ていないことを祈るばかりである。……余計なことは何も言うまい。
 人形さんは皿の上にコップを戻してから、
「人間、席に座りなさい。許可するわ」
 向かい側にある椅子に指した。
「さっき名前教えたばかりなのに人間よばりですか?」
 と心の中で思いつつ、何も言わずに俺は椅子へ向かった。……余計なことは何も言うまい。
 向かう途中、十六夜さんも同時に動き出していて、座りやすいように椅子を動かしてくれた。
「どうぞ」
「ありがとう、ございます」
 言い馴れないお礼の言葉を述べ、椅子に座る。
 そして、正面にいる人形さんへと顔を向けた。……直視するのはかなり辛いので、やや下に向けていたが。
「咲夜、人間にお茶を淹れてあげなさい。私と同じもので良いわ」
「かしこまりました」
 十六夜さんは手馴れた手付きでコップに注いだ。
 良い感じに湯気が立っている茶色の液体から、濃縮したかのようなフローラルの香りが漂い、俺の鼻に優しい刺激を与えてくれた。素直に美味しそうである。
「紅茶です。そのままで召し上がりください」
「あ、りがとうございます」
 また失敗した。
「私と同じものを口にするわけだから、感謝しなさい。人間」
「……ありがとうございます」
 今度は完璧に言えた。あまり感謝の気持ちは無いが。
 俺はコップを持ち上げ、一口飲んだ。

「――!!」

 これは、


12


 別に、毒が入っていたわけではない。
 十六夜さんが淹れてくれた紅茶は本当に美味しい。
 今の状況を忘れそうになるほど紅茶が美味しい。
 ひたすらに美味しい。
 超美味しかったのだ。
「……驚いた」
 感想を述べる予定なんて全く無かったはずなのだが、思わず言葉が漏れてしまう。
 紅茶ってこんなに美味い飲み物だったっけ? 紅茶ファンになりそうだ。
 俺は紅茶を五割ほど飲んで、
「味はどうかしら? 人間」
 人形さんにそんなことを聞かれた。俺は素直に答える。
「美味しいです。今まで一番の」
 俺がそう言うと、人形さんは誇ったような表情をした。
「当然よ。咲夜が淹れる紅茶は幻想一よ」
 俺は何も言わず、コップの水面を覗く。
 俺の顔が小さく揺れていた。
 確かに、十六夜さんが淹れる紅茶は最高に美味いけれど、
「…………」
 げんそういちって何だよ。
 幻の一位ってことかよ。
 永遠に評価されないじゃん。
 一体どういう表現だよ。
 そう思いながらも決して言葉にせず、俺は残りの紅茶を一気に飲み干す。……余計なことは何も言うまい。
「お褒め頂きありがとうございます。お嬢様」
 十六夜さんの声を聞いて、俺は少しだけほっとする。
 十六夜さんが何かを言ってくれるだけで、この場の雰囲気が良くなるのは間違いなかった。
「あら、本当のことよ。咲夜」
 人形さんは微笑んでいた。
「…………」
 人形さんの言う通り、この紅茶は美味の頂点を越えている。何をどうしたらこの味になるのか不思議でならない。飲み切った後だが、俺の舌はまだ紅茶を欲しがっていた。
「そういえば、私の自己紹介がまだだったわね」
 前に座る人形さんはそう言った後、手に持っていたコップを小さな皿に重ねて置いた。
「…………」
 この人形さんの名前は、既に何回か聞いてある。
 確か、”れみりあ”という名前だったはずだ。
 後ろの名前は何だったかな。
「紅魔館の主、レミリア・スカーレットよ。覚えておきなさい」
 ああ、そんな名前でしたね。
 ”れみりあ・すかぁーれっと”、”れみりあ・すかぁーれっと”、”れみりあすかぁーれっと”。
 よし覚えた。俺天才。
「よろしくお願いします。レミ――」
 紅茶パワーで意気揚々として放った俺の言葉は、最後まで言い切ることができなかった。

 強烈な痛み。

 俺の言葉が消し飛んで、右頬に激痛が走った。
 体がぐらつき、椅子に強く圧し掛かる。
「…………?」
 思わず頬をなぞると、指に赤い液体が付いていた。
 久しく見たそれは、嫌な臭いを漂わせる。
 一体、俺の体に何が起きたのか。
「人間、私の名前を軽々と口にするな」
「……え?」
 どうやら、あの人形さんがやったらしい。
 急に怪我をする体質では無くてホッとする反面、疑問が生まれる。
 席から一歩も動いていないのに、どうやって俺に傷つけたのか?
 どうして、人形さんは怒っているのか?

 分からない。

 何が起きたのか本当に分からない。
「…………」
 俺は何も言えなくなっていた。
 痛みが少しずつ強くなっていく。
 首元に血が伝う感覚もする。
「さて、お話をしましょうか。人間」
「…………」
 もう嫌だ。
 この人形と会話したくない。
 帰りたい。
 帰ってネットゲーしたい。




[31015] 第一章後
Name: しむらむ◆f31c7ff0 ID:6ec63e55
Date: 2011/12/30 11:56
13


 豪華を尽くした部屋の中で、面会という名の尋問が続く。
 一人は、西洋風の歴史を感じさせるスーツ姿の男。
 一人は、凶悪な翼が似合わない着せ替え人形のような少女。
 一人は、紫と白のメイド姿の若き女性。
 男は怯え、少女は睨み、女性は見守る。
 この状況で先に口が開いたのは、当然少女の方からだった。
「人間、どうやって紅魔館まで来たのかしら?」
「…………」
 それは俺も聞きたいです。
 嘘を言うメリットが全く考え付かないので、素直に答えることにした。
「分かりません。……何時ものように自宅で寝ていて、目を覚ましたらここにいました」
「……なるほど」
 人形さんはそれだけ言って、静かに目蓋を閉じた。
 何かを考えている様子を伺えた。
 そして、
「……………………」
「……………………」
「……………………」
 部屋の中はとても静かになった。
 会話を提案された身としては、この状況をどうすれば良いのか全く分からなかった。会話事体があまり好きでない俺にとって、沈黙は寧ろありがたいものなのだが、解放されなければ意味が無い。
 十六夜さんも黙ったままで、身動きが取れない俺は、仕方なく人形さんを待つことに選んだ。
 時間だけが、無駄に浪費されていく。

 数十秒ほど過ぎた頃、十六夜さんは紅茶が入ったポットを持ち出して、人形さんのコップに継ぎ足していた。俺は羨ましそうにそれを眺める。
 そして、人形さんの分を淹れ終えると、十六夜さんは俺に向かって歩き出した。心の中で嬉々する中、目の前のコップに茶色の液体を注いでくれた。俺は軽く頭を下げて礼をするが、本当は子供のようにはしゃぎたい気持ちになっていた。
「…………」
 なかなか人形さんが動かないので、紅茶を啜りながら、俺は部屋を見渡すことにした。
 視線に映るものは数々の家具と美術品。それぞれが、金属、ガラス、木材、骨、皮、鱗などをふんだんに使われ、部屋の豪華さがやはり目立っていた。中にはよく分からない素材で作られた物もある。
 今この場で一番目立つものと言えば、部屋の片隅にあるカーテン付きの巨大なベッドだろう。漫画とかゲームとかしか見た事ないが、実物を見ると存在感がかなり大きい。人形さんは毎日あそこで寝ているのだろうか。
 そして、一番奥には壁一面の巨大な窓とベランダの姿が見えていた。窓の両端に今まで見た中で一番大きいカーテンが垂れ下がっており、外に小さな白い机と二脚の椅子が設置されていた。
 部屋の中は灯火によってそれなりに明るいが、外から入る月明かりがより強く部屋の中を明るくさせている。こういう雰囲気は好きな方だ。
「…………」
 ああ、そうか。もう夜だったのか。
 もしかしたら、既にシクレアモンが出現しているかもしれないな。
 すまぬ、我が戦友達よ。
 俺がいなくても、頑張ってくれているよな。
 帰ったら、必死に謝ろう。
「人間」
「……っ!」
 いきなり話しかけないで欲しい。びっくりするじゃないか。
 俺は、視線を人形さんの方へ戻した。……やはり直視するのは辛いので、ちょっとだけ下に落とす。
「……何でしょうか」
「咲夜から聞いたけど、咲夜に”殺してくれ”とか”自分はクズの人間だ”とか”死ぬ勇気がある”とか言ったそうね?」
「いっ――!」
 十六夜さあああああん!!
 俺の恥ずかしい過去を他人に言わないでくれえええええぇぇぇっ!!!
「お嬢様、もしかして……」
 沈黙を守っていた十六夜さんが、人形さんに話し掛けた。
「ええ、そうよ」
「お嬢様……」
 会話の意味が分からない。
 嫌な予感しかしない。
 というより恥ずかしい。
 死にたい。死にたくないけど、死にたい。
「人間、貴方に仕事をしてもらいたい」
「なっ!?」
 唐突な要望。
 強烈な奇襲。
 頭の処理が追いつかない。
「引き受けてくれるわね?」
「へ……? は?」
 何だ、この流れは。
 人形さんの言っている言葉の意味は理解できる。
 でも、情報不足にも程があるだろう。
 何か言い返すか? それとも、即座に拒否するか?
「………………」
 ここで断ったら、俺は何をされる?
 痛い目に遭うのは、もう御免だ。回避できるなら回避したい。
 でも、この人形さんの性格を考えたら、思い通りにならないと知ったら、次は殺されるかもしれない。
 その予感は強い。
 悪い予感ほど明解に感じるのは、あの人形さんがそういう雰囲気を放っているからだ。
 もう少し長く生きていたいなら。
 少なくとも、この場をやり過ごしたいのなら。
 承諾する以外の選択肢は無いのだろう。
「……ッ!」
 でも。
 俺だって。
 俺だって!
 言いたいことがあって、ここまで来たんだ!
「俺は――!」
 俺は勢いよく立ち上がった。
 反動で椅子が大きく揺れ、両手をテーブルに叩きつけて、
「家に帰りたいッ!」
 力強く叫んだ。
 多分、俺の人生の中で一番勇気を振り絞った言葉だと思う。
 余計なことを言うまいと決心してはずが、湧き水のように溢れ出てくる感情によって、その誓いがどこかに流れて消えていった。視線を下に落としながらも、俺は言葉を続ける。
「目が覚めたら、違うところにいるなんてどういうことだよ! 日本でも東京でも無ければ、ここは一体どこなんだよ! どう見ても日本人じゃないお前達がなんで日本語を話せるんだよ! 仕事だって俺は八年間やっていないんだ! 今更できるはずがないだろう! それに今日はシクレアモンが出てくる日なんだ! 俺の楽しみを潰しやがって、俺に何をやらせるんだよ! それになんで十六夜さんは、突然姿を消えたり、現れたりすることができるんだ! あの妖精達だってそうだ! 妙な力で俺を動かせるとかどういうことだよ! この館には俺より才能のある奴が沢山いるんだろう!? 俺に頼まずに他の奴にやらせればいいじゃないか!」
 俺は一度大きく息を吸い、
「俺はただ、家に帰りたいだけなんだッ!!!!!」
 最後に大きく叫んだ。


14


 呼吸を整えるまで、荒い呼吸を何度も繰り返していた。
 人形さんは何も言わない。
 何もしてこない。
 表情の変化も無い。
 ただ黙って座っているだけ。
 十六夜さんも、何も口を出さず、静かに不動を守っていた。
「座りなさい、人間」
 人形さんは言った。口調の変化も無い。
 ちょうど足の疲れを感じていた俺は、人形さんの言葉に従い、椅子に腰を掛けた。
 そして、気を落ち着かせようと深い呼吸を繰り返した。
「……取り乱して、すみませんでした……」
 俺は小さく、小さく謝罪の言葉を言った。
 人形さんの方へ視線を戻さず、両手を膝に当て、頭を垂らした状態で椅子に座っていた。
 人形さんの表情はどうなっているのか、今の機嫌はどうなっているのか、確かめる勇気が無かった。
 俺が謝罪の言葉を述べてから数秒後、
「ここは貴方の知る世界では無い。外来人」
 人形さんの声が聞こえた。
「……がいらいじん?」
「外の世界から来た者を、私達は外来人と呼んでいる。貴方からは、妖力も霊力も魔力も感じない。それに見慣れない服を着ていたという咲夜の報告のことも考えれば、外来人としか思えないわ」
「…………」
 ああ、外国人のことですか。
 確かにここは、日本では無いことぐらい何となく分かっていたさ。
 でも、そうしたら、俺を外国人と呼ぶお前達は、一体何者なんだ。
「……貴女達は、一体なんですか?」
「私は、誇り高き吸血鬼よ」
 人形さんから、疑い深い言葉が返ってきた。
 思わず俺は、垂らしていた頭を上げた。
 脳内より先に、体が反応した。
「きゅうけつ……き?」
 無意識にオウム返しをする。
 頭の中で、その言葉の意味を薄々と理解していた。
「そうよ」
 人形さんの短い肯定。
「…………」
 翼が付いている時点で、普通じゃないと何となく分かっていた。
 だが、ここまで常識から外れた存在だったとは、一ミリたりとも思わなかった。
 素直に信じるには難しいが、しかし、この人形さんから感じる威圧感は相当なものだ。背中にある翼が本物となると、あの生々しさも、あの凶悪さも、全てが本物ということになる。実際に飛べるかどうかは分からないが、あの翼で飛行することも可能になのだろう。
 未だに信じられないが、吸血鬼という言葉は恐らく真実。堂々としたその威風が、本物であることを匂わせているのだ。
 だとしたら、
「……すると、十六夜さんも吸血鬼……?」
「咲夜は人間よ」
 人形さんの短い否定。
 まさかの否定で俺は混乱する。
「……人間が、突然消えたり現れたりしない」
「咲夜は”時を操る程度の能力”があるからね。時間を止めることぐらい、できて当然よ」
「……………………」

 ……は?

 何を言っているんだ?
 時を操る能力?
 俺の聞き間違えか?
 十六夜さんが突然目の前から消えたり、背後に現れたりしたのも、その能力のおかげだと言いたいのか?
 俺が床に座った時、突然浴室へ移動したのも、その能力を使ったということになるのか?
 ……確かにそれで、今までの不思議現象を全て説明できるかもしれない。
 でも、
「…………」
 それでも俺は、納得できるはずが無い。
 この部屋までに案内する時は、俺達は徒歩で向かった。
 主を待たせたくないのなら、同じように使えば良いはずなのに、何故使わなかった?
 いやいや、それ以前に時間を止めるだけで俺が移動するのはおかしい話だ。
 わざわざ俺の体を持ち上げて運んだとでも? ――とても考えにくい。
 分からない。
 全く分からない。
 とにかく、十六夜さんはそういう能力がある。
 そう理解するしか無い、のか?
「…………」
 いいや、違う。そんなものは存在するはずが無い。何かのトリックでそういう見せ方になっていると考えるべきだ。”時間を止める”とか簡単なことを言っているけれど、空想に近い理論や仮説がいくつか存在しているとはいえ、今の技術じゃ絶対に不可能のはずなんだ。
 それを個人で扱えるなんて、存在するはずが無い。存在してはいけない。
 そんな非科学的なことを言われても、俺は信じない。
 信じられるはずが無い。
 そんなの存在していたら――、

 まぁ、そんなことはどうでもいい。
 信じるとか信じないとかそんなことよりも、家に帰る方法をこの人形さんから聞きださなければならない。
 ここは日本どころか、俺の知っている世界ではないのだから。
「……どうしたら、元の世界に帰れますか? 帰る方法があるんですか?」
「元の世界に帰せそうな人物なら、心当たりがあるわ」
 その言葉を聞いて、俺は思わず席から立ち上がる。
「本当か、ですか!?」
 とっさに反応した言葉と、言い慣れない丁寧な言葉が混ざる。
 俺は顔を上げた。
「本当よ」
 人形さんの不敵な笑みを見て、俺はすぐに悟った。
「……でも、タダでは無いですよね……」
「当然よ」
 やはり予想通りだった。
 俺の頭が垂れ下がる。
「……何をすれば?」
「仕事をしてもらえば紹介してあげるわ」


15


「仕事をしてもらえば紹介してあげるわ」
 目の前に座る”れみりあ・すかぁーれっと”さんはそう言った。
 間違いなく、そう言った。
「……………………」

 いやいやいやいやいやいやいや、俺に仕事しろ? 無理だよ。無理、無理。確かに一時は、ニートから抜け出さなきゃとか思ったことがあるよ? でも、両親が遺した金はまだ大分あるし、第一仕事探すのはまだ二十年後の話だ。俺はただ、ネットゲーやりたいだけで、それ以上の望みなんて無い。今までの生活で世間に迷惑掛けていないつもりだし、金がある以上、仕事をする必要なんて無いはずだ。いや、待て待て、仕事しないと家に帰れないんだよな? つまり、今のままだとネットゲーができないんだよな? あれ、そうしたら仕事しないとダメなのか? でも、八年間ニートを貫いたプライドがあるし、今の社会情勢を見ているとニートも悪くないはずだ。今まで仕事をしなくても普通に生活ができていたのに、わざわざ家に帰るためだけで仕事をするなんて愚かな選択肢だ。馬鹿馬鹿しい。第一仕事したら人生負け組だろう。人間の寿命は七十年前後だとして、その内、仕事のために四十年余りを費やす? 今の俺にはありえない考え方だ。ああ、でもネットゲーはまだやりたいし、やり残したことが沢山あるし、そう考えるとプライドを捨ててでも仕事するしか無いのか? いや、待てよ。あの人形さんは百パーセント帰れるとは言ってないよな? つまり、仕事損する可能性だってあるんだよな? 帰らせるという話じゃなくて、紹介するという話だけだったし。だったら、仕事うんぬんの前にその帰してくれる人物とやらを先に紹介してくれてもいいじゃないか? 大体仕事をした後、紹介してもらって”はぁ? できるわけないじゃん”とか言われたら意味が無いじゃないか。そうなったらどうしてくれるんだよ。何か保障してくれるのか? そういう可能性があるなら、一度断って適当に探し回るのも一つの手か? 用は帰してくれる人物を探し当てれば良いだけだろう? ああ、でも窓から景色を覘いた時、森と山と湖しか無かったんだよな。第一、この世界に人なんているのか? でも仕事するぐらいなら、まだそっちに賭けた方がいいよな? いやいや、そもそも仕事を断ったらどうなる? 下手したら殺されるんじゃないのか? 断ったら無事に帰してくれる気配が全くしないよな? おいおい、ふざけるなよ。俺には仕事なんて元から無理な話だろう? もういいや、断ろう。俺には無理な話だ。例え殺されても、仕事するぐらいなら死を選んだ方が良い。その方が良いに決まっている。でも、ネットゲーがやりたい。やり残したことが沢山ある! 畜生、畜生、畜生! なんという条件を出しやがるんだ! どうすればいいんだ? どうすれば最善な行動になるんだ? もし神様が存在しているのなら、もし今のこの状況を見てくれているのなら、教えてくれ。俺はどうすればいいんだ? このまま決められないなら、コインでも投げて決めるか? あーでも、手持ちに今コインなんて持ってねぇよ。

「仕事するの? しないの?」
 人形さんにそう言われ、夢の世界から現実へ引き戻されたかのような感覚で、我に返った。
 当然、答えができてるはずがなかった。
「え、っと…………」
 言いよどみながら、究極の二択を選ぼうと必死になってるが、まだ決まらない。
 そんなこんなで痺れを切らしたのか、目の前に居る人形さんはスッと手を伸ばし、
「痛っ!!!」
 何かが飛んできて、俺の右頬に激痛を走らせた。肉体が左へ傾き、椅子と一緒に倒れてしまう。
 俺の見間違いで無ければ、人形さんの手先から、赤くて丸い物体みたいなものが超高速で向かい飛び、俺の右頬をかすらせた。
 とっさに手で頬を覆っても出血が続いていた。
 あっという間に俺の手が赤く染められていく。
「……う……うぅ……」
 最初の傷でこうなったのか。二度目の傷でこうなったのか。俺には分からない。
 激痛で思考力も落ちてきた。頭が回らない。
 早く帰りたい。ネットゲーしたい。
「早く決めなさい。殺すわよ」
 目の前に居る『吸血鬼』は再び手を伸ばした。
 俺は殺されることを覚悟した。
 やっぱり俺は――、

 仕事なんてしたくありません。


16


 痺れを切らした吸血鬼に、二重の傷を作られた俺は、
「俺を待つ戦友達よ……、一足先に逝ってくる……」
 激痛に耐えながら、小さく呟いていた。
「お嬢様」
 不意に十六夜さんの声が響く。
「何?」
「ラビ様はまだ目覚めたばかりで、体力がほとんど回復しておりません。しかもラビ様の境遇を考えれば、この状況は過酷かと思われます。望んでもいないのにラビ様は故郷から離され、『幻想郷』に引き込まれてしまいました。まだ、頭の中では相当混乱していることでしょう。そして、ラビ様は八年間仕事をしていないと申しておりました。見知らぬ世界で突然仕事をしろというのも大変な事かと思います。一度休ませては如何でしょうか?」
 十六夜さんは吸血鬼にそう言った。
「それは、同じ人間としての意見かしら?」
「はい」
 そして、吸血鬼は長く考えて、
「……ふぅ。咲夜の言う通りね……」
 短く息を吐いて、俺に向けられた手をゆっくりと下げた。
 しかし、鋭い視線は俺に向けられたままだった。
「優柔不断の情けない外来人」
「…………」
「その態度は何? 私が貴方を呼んでるのよ。返事は?」
「……はい」
「ふん。仕方ないから休息の許可を与えるわ。……咲夜、そこのゴミ人間を連れて行きなさい。部屋が汚れるわ」
「かしこまりました」
 吸血鬼は椅子から立ち上がり、体をくるりと後ろに振り返った。大きな翼を見せつけながら、俺から離れるように部屋の奥へと進んでいった。
「ラビ様」
 心配そうに俺を見る十六夜さんに声を掛けられる。
「参りましょう。傷の手当てを致します。立てますか?」
「…………」
 十六夜さんの手を借りて、俺は立ち上がった。呆然とする中で、十六夜さんは俺の肩を持ち上げて、優しく俺の左腕と腰を包んでくれた。
 入り口へと歩を進め、部屋から後をしようとしたその瞬間、俺は何となく背後を覗いた。
 部屋の奥へと視線を移して、そこにいるはずの吸血鬼を追ってみたが、
「……?」

 その姿は、どこにも見当たらなかった。


17


 部屋の扉を潜ると、浴場でお世話になった妖精さん達の姿が並んで待っていた。その内、一人の妖精さんが箱を抱えていて、十六夜さんに近づく。
「ありがとう。あの辺りに置いてくれるかしら」
 十六夜さんは妖精さんに指示した後、
「血を流したままでは辛いでしょうから、ここで応急処置をします」
 そう言ってから、廊下の壁側に座るように頼まれた。
 素直に従い、指定された場所に腰を掛けた。十六夜さんも膝を折って近くに座り、木箱の蓋を開けて何かを探っていた。
「…………」
 箱の中を見てみると、沢山のビンが均等に収められていて、十六夜さんは並んでいるビンの中から一つ取り出し、
「塗り薬を付けます。最初、痛みを感じるかもしれませんが、すぐに和らぎます。我慢してください」
「…………」
 十六夜さんはビンの蓋を開けて、丸々とした棒で中身を掬い上げた。棒先に乳白色のクリームがたっぷりと付着していて、
「そのまま動かないでください」
 そう告げられた後、十六夜さんの腕が俺の右頬へと伸ばしていった。
「っ!」
 痛かった。


18


「傷の具合はどうでしょうか?」
 先程までに感じていた鋭い痛み――ハンマーで右頬と脳に叩き殴られるかのような痛みが、嘘のように消えていた。
 右頬に柔らかい綿布みたいなものを貼られた俺は、素直に答える。
「……自分でもビックリするぐらい痛みが感じません。でも、口を動かすのが少しやりにくいです」
 十六夜さんは少し微笑んだ。
「それは良かったです。ですが、右頬の肉を抉られてますから、しばらくその状態が続くと思います」
 俺はその言葉に驚いた。
「? そんなに酷かったんですか」
「ええ」
 十六夜さんは治療に使ったものを全て箱に戻して、蓋を閉じた。
「頬の肉が抉られて、右耳の一部も失ってる状態です。また後ほど、治療させて頂きます」
「……はい、ありがとうございます」
 治療して貰っている時に気づいたが、俺の右耳も怪我していたらしい。自分の姿を確認できないので分からないが、十六夜さんによると耳たぶが失ってるとのこと。”耳も応急処置しますね”と言われるまで全く気づかなかった。耳に触れて確認しようと思った時もあったが、傷口に触れる度量があるはずも無く、流石に控えていた。
「……服を汚して、すみません……」
 俺は謝った。
 十六夜さんの服装の一部に、俺の手形がくっきりと残されていた。咄嗟に右頬を抑えていた時の俺の右手で、十六夜さんの服装にベッタリと触れてしまったのだ。
 そして、流血で廊下を点々と赤く濡らし、借りた服も、十六夜さんの服装も、俺の不注意で赤色に染めていた。血の臭いも今も酷く、少なくともこの場は充満していたと思う。
「ラビ様、必要がありません」
 十六夜さんは首を振って否定した。
「感謝することも、謝ることも、必要がありません」
 俺の両手を掴み取り、前に運ばれた。
 そして、懇願するかのような表情で、十六夜さんは言う。
「どうか、お嬢様のことを許してください」
「…………」
 流石にそれだけは、すぐに答えることができなかった。
 答えられないまま数秒が過ぎて、やがて俺の両手は静かに下ろされた。
「ラビ様」
 十六夜さんはゆっくりと立ち上がった。
 ほんの少しだけ微笑んで、
「――お腹が空いているでしょう?」


19


 別室へ案内されて、食卓の前に座っている俺は、
「……………………」
 テーブルの上に並べられた料理に圧倒されていた。
 絶妙な火加減で焼き上げた茶褐色のパン、粒が多い五種のジャムソース、花飾りの熱々スープ、音がたぎる厚切りのステーキ、白身魚の煮付け、茹でた野菜の盛り合わせ、生果実を添えたアイスクリーム、ビン詰めにされた香辛料、そして例の紅茶。
 匂い、見た目、全てが俺の食欲をそそらせた。しかし、どの料理も元の食材が分からない。少なくとも肉、魚は見たことが無いものだ。
「失礼します」
 軽く後ろに振り返ると、十六夜さんの腕の姿が現われた。持っていたナプキンをそっと胸に掛けられる。
「……ありがとうございます」
 血で汚れている服に、ナプキンを着けてもあまり意味が無いと思っていたが、口には出さなかった。
 汚れたのは俺だけで無く、十六夜さんの服も相当に汚してしまったはずだが、どこかで着替えたのか、俺の血の跡は見当たらなかった。
「まかないものですが、怪我をさせたお詫びに腕を振るわせて頂きました。どうぞ、召し上がってください」
「本当に、良いんですか?」
「はい。本当はラビ様の服装を召し替えてからお食事にしたかったのですが、服も限りがありまして……」
「全く問題無いです!」
「ありがとうございます。――さぁ、料理が冷めてしまいます。どうぞ、召し上がってください」
「……で、では」
 俺は勢いよく食べ始めた。


20


 誰かの手料理を食べるというのは、何時以来だろうか。
 酷く、懐かしく感じる。
「……………………」
 ああ、そうだ。
 両親が亡くなる前までは、毎日。
 ……毎日。
 母の手料理を食べていたんだ。
 いつもタイミングが悪くて。
 ネットゲーをやっている時に呼ばれて。
 俺は当然のように母の呼ぶ声を無視して。
 それでも母は俺を呼び続けて。
 それで俺は痺れを切らして。
 迎えに来た母を……、殴ってしまったんだよな。
 そして、母の顔に怪我をさせて。
 それ以降は、ドアの前に食事を置いてもらうようにしてもらって。
 ――よく考えれば、母と最後に言葉を交わしたのも、あれが最後だったのか。
 あの時、俺は酷い事も言ったよな。
 暴言を振って。
 暴力を振って。
 母を泣かせて。

 ――俺はどうしようもなく、クズな人間だ。

 本当に、どうしようもない。

「ラビ様」
 不意に十六夜さんに声を掛けられた。
 何か返事をしようと思ったが、
「……あ」
 目の前の光景が、歪んで見えていた。
 慌てて持っていたフォークを手放し、腕を顔に近づけ、軽く目を擦った。
 歪んでいた光景は元に戻った。
 腕を見ると、服が何かで濡れていた。
 そして、十六夜さんの方へ顔を向けようとしたが、
「……っ」
 目の前の光景が再び歪み始めた。
「ラビ様、どうぞ」
 十六夜さんの声が聞こえたと同時に、右手に何かを渡された。
 手の感触だけでタオルだということをすぐに理解できた俺は、タオルで顔を覆い隠した。
 俺は何度も何度も、目蓋を拭いた。
「ラビ様、大丈夫ですか?」
 十六夜さんの声が聞こえた。
 俺はタオルを顔から遠ざけて、しっかりと前を見据えて答える。
「……っ、……大丈夫です」
「傷が痛むのですか?」
「いいえ、全く痛くないです。少し昔の事を思い出して……、もう大丈夫です、大丈夫です」
 俺はタオルを膝の上に乗せ、テーブルに落ちていたフォークを持った。
 このままの勢いで、食べ始めようかと思ったが、
「…………」
 自身の食欲が落ちていることに気づいた。
「……十六夜さんは食べないのですか?」
 何となく聞いてみた。
 十六夜さんは特に表情を変えずに答える。
「気にする必要はございません」
「……そうですか……」
 会話が続かない。
「あの人は……本当に吸血鬼ですか?」
 これまた何となく聞いてみた。
 十六夜さんはこれまた表情を変えずに答える。
「はい、紛れもなく吸血鬼です」
「……血を吸うんですよね」
「そうですね」
「……やっぱり、そうですよね……」
 会話が続かない。
「……良い天気ですね」
「今は夜ですよ」
「……そう、でしたね」
「…………」
 やはり、会話が続かない。


21


 俺は静かに紅茶を啜って、食事を休んでいた。
 十六夜さんは俺が食事するのを見守るだけで、自分からは話し掛けてこない。
 静寂な雰囲気は普段の生活で慣れてるはずだが、誰か一人傍にいるだけでこんなにも雰囲気が変わるとは思わなかった。今までのこともあって、正直この雰囲気は、とても居心地が悪いものだった。
 この雰囲気を変えるために、俺は沈黙を破る事にした。
「……あ……えっと……」
 とはいえ、すぐに話題が思い浮かばなかった。
 聞きたいことが沢山あったはずなのに、頭の中がぐるぐると回って言葉が出てこない。
 俺は必死になって頭を動かして、あることを思い出した。
「そういえば」
 俺はまだ、お礼の言葉を言っていなかった。
 十六夜さんは俺の声に反応し、こちらに顔を向ける。
 少し首を傾げて、俺の言葉を待っていた。
「さっきは、助けてくれてありがとうございました」
 椅子に座ったまま、軽く頭を下げた。
 十六夜さんの反応は意外なもので、
「何の事でしょうか?」
 全く意味が伝わっていない様子だった。
「ええと、あの人――レミリアさんの部屋で、あの時に十六夜さんが助けてくれなかったら、この程度の怪我だけで済まされなかったと思っています」
 この程度の怪我と言う割には、大怪我の分類に入りそうな気がするが、”殺される”よりかはマシだと思っていた。――実勢に、殺される寸前まで来ていたと思う。十六夜さんへの感謝が尽きない。本当の意味で命の恩人と思っている。
「なので、ありがとうございました」
 もう一度お礼の言葉を言ってから、頭を下げた。
「ああ、そのことですか」
 はい、そのことです。
 俺は言葉の代わりに頷く。
「感謝をする必要がありません」
「……?」
「助けたつもりは全くありませんでしたから」

 ホワッツ? え、何、どういうこと?

 今一瞬、頭の中で色々なことを思い浮かんだが、相手は怖い吸血鬼ではなく、何かとお世話になっている十六夜さんなので素直に聞いてみることにした。
「……どういうことでしょう?」
「私がお嬢様に言った言葉は、全て”提案”です。最終的な決断は、全てお嬢様にあります」
「…………」
「もし、お嬢様がラビ様に対して何かをされたとしても、私は止めることがありません」
「……そうですか」
「はい。なので、感謝をする必要がありません」
 俺は少しだけ考えて、席から立ち上がった。
「でも、結果的に助けてもらったような気がしますので、お礼をさせてください。ありがとうございました」
 自分なりの、精一杯のお礼の仕方だった。
 十六夜さんはどう思っているか分からないが、
「……はい、どういたしまして」
 ほんの少し、ほんの少しだけ、微笑んでいるように見えていた。


22


 すでに腹が破裂しそうな状態だったが、俺は再びフォークを握り、無造作に料理を口の中に突っ込んでいた。所々、口から食べカスを零し、胸に掛けられていたナプキンを汚していった。
 そして、右頬が怪我しているためか、”噛む”という単純な作業にかなり苦労していた。少しでも負担を軽くしようと、ほとんどの料理を丸呑みして、強引に胃袋へ流す。
 一方、十六夜さんは、済んだ食器を回収したり、空になったコップに紅茶を淹れてくれたりと、俺のために働いてくれていた。
 時間を掛けて、ほとんどの料理を綺麗に平らげた。
 これ以上の無い満腹感を抱いていた頃、十六夜さんに聞いてみることにした。
「十六夜さん」
「はい、何でしょうか?」
「あの人が――レミリアさんが言う仕事の内容って、どういうものですか?」
 十六夜さんはすぐに答えず、少し間を置いて答えた。
「私もお嬢様から直接話を聞いた訳ではありませんので詳しく存じませんが、恐らく”妹様”と会わせようとしているのではないかと思っています」
「いもうとさま? 妹が居るんですか?」
「はい」
「では、レミリアさんの両親も?」
「いいえ、この紅魔館に存在する吸血鬼はお嬢様と妹様だけです」
「……それで、その妹さんと会わせて俺に何をさせようと?」
「恐らく、妹様の遊び相手にしようと、考えているのではないでしょうか」
「遊び相手、ですか?」
「はい」
「……でも、相手は吸血鬼ですよね?」
「はい」
「……俺、血を吸われたりしませんか?」
「存じません」
「え? 分からない、ですか?」
「はい」
「……そう、ですか……」
 もしも、十六夜さんの言う通りの仕事内容だとしたら、それは危険な仕事、割に合わない仕事ではないだろうか。
 十六夜さんの口から出た仕事内容は、”遊び相手をすること”。これだけの情報なら名目上は仕事だとはいえ、喜んで引き受けていただろう。本当に遊ぶだけで家に帰れるなら、俺にとっても理想的な取引だ。
 でも、相手は吸血鬼だ。吸血鬼の妹は吸血鬼であり、痛い目に遭わせられている俺にとって、それは恐怖としか言えないのだ。
 それに、知っているのは吸血鬼という名前だけで、吸血鬼そのものについては何も知らない。
 それなのに、
「…………」
 人間と吸血鬼が遊ぶ? 普通に考えれば、絶対にありえないことだ。吸血鬼と遊んだ事がある人間なんて、見たことも無いし、聞いたことも無い。
 妹様とやらが、俺の想像するような吸血鬼だとしたら、俺はどうなる? 死ぬか、大怪我をするか、どちらかしか想像することができない。どうイメージしても、五体満足で無事に遊び終えるとは思えないのだ。――考えれば考えるほど、この仕事は論外だ。遊びという名の処刑にしかなりえない。
 信頼に値する十六夜さんの予想で、この内容。十六夜さんの予想が外れていたとしても、どうせロクなものではないだろう。家に帰るために命を掛ける――それは、あくまでも最終手段だ。もっと安全で、確実な方法があるはず。
「…………」
 断ろう。
 この仕事、絶対断ろう。
 俺は心の中でそう決意した時、
「でも」
 十六夜さんの言葉が割り込んだ。
「これは私の勝手な予想です。もしかしたら、別の仕事を依頼するかもしれません」
 もう何て言われようとも、仕事を断ります。
「ラビ様、もう間もなくお嬢様と再面会の時間になります。そこで、仕事の内容を伺ってみると良いでしょう」
 聞く必要はありません。
 絶対、断ります。
 俺はテーブルの影で決意の拳を握り締めていた。


23


 産まれてから二十四年。
 かつて味わった事がない至福の食事を堪能した後、十六夜さんの案内で、別室に移動した。
 案内された部屋は、俺が最初に居た部屋とよく似ていて、タンスとベッドぐらいしか無い質素な部屋だった。
 十六夜さんは”しばらく、この部屋でお待ちください”と言い残し、部屋から去った。
 俺は軽くベッドで横になり、そのまま待つことを選んだ。

 横になってから数分後、扉からコンコンと叩かれる音が響いて、
「……はい。います」
 体を起こして、扉に答えた。
「しつれいします」
 返ってきたその声は、十六夜さんの声では無かった。
 扉が静かに開き、部屋へと入ってきたのは妖精さんだった。
 妖精さんは一礼して、開いた扉をさらに押し広げた。
 そして、廊下から一人、二人と妖精さんが続いて部屋に入ってきた。
 二人の妖精さんは、風呂敷に包まれた荷物を抱えていて、やけにふっくらとしている。
 最初に入ってきた妖精さんが、
「ふくをもってきました」
 血で汚れていたスーツ姿の俺にそう言って、扉を閉じた。

 その後、妖精さんの手伝いがあって、あっという間にスーツ姿から黒色の和服姿に変身した。服から良い香りが漂っていた。
 妖精達は汚れた服と靴を風呂敷に包んだ後、
「さくやさまをよびますので、まっててください」
 そう言い残して、イソイソと部屋から飛び去った。


24


 妖精達が飛び去ったと思いきや、すぐに妖精達が戻ってきた。
 俺は”忘れ物かな”と思っていたが、良く見てみると先ほどの妖精達とはまた別の妖精達であった。どうやら、この館は六人以上の妖精達がいるらしい。
 妖精達は木箱を抱えており、
「けがのちりょうをするようにいわれました」
 そう告げられて、着替えの次は治療をすることになった。
 薬を付け直して、新しい綿布を張り直しただけの簡単な治療だったが、おかげで傷の負担が軽くなったような気がした。
 そして、妖精達は部屋から飛び去り、
「ふーん?」
 俺は初めて着た着物で遊んでいた。
 垂れ下がっていた袖に、空気を入れるようにグルグル回ってみたり、履き慣れないサンダルをパカパカ動かしてみたり、両腕を袖に突っ込んで腕を隠してみたり、適当に室内を歩いてみたりと、暇を潰しながらそれなりに楽しく遊んでいた。

 特に多くの時間を費やしたのは、小さな窓から見える外の風景を、ひたすら眺めることだった。
 地上一階から見える外の風景は、何かと寂しい。
 草が覆い茂っている地面、少し先に花壇があり、様々な花が咲いている。
 花壇の先には金属でできた高い柵があって、端から端まで建物を囲むように整然と並んでいた。そして、柵の奥は木々しか見えなかった。
 日がすっかりと落ちて、外の風景は青白く光る月明かりで眩く見えていた。鈍い光が庭に照らされて、花々が輝いて見える。花がこんなに綺麗だと思うのは、初めてのことかもしれない。
 俺は窓を開けて夜風を浴びていた。この窓から外へ出ようと思えば出れたのだが、この時の俺は外に出ることを考えていなかった。
「どれぐらいの時間が過ぎてしまったんだろう? 最悪、シクレアモンは諦めるとしても、何日も席を外す事ができないし、一刻も早く家に帰らなければ」
 そう小さく呟いている時、

 コンコン、

 と扉から甲高い音が響いた。
「はい。います」
 窓を閉めて、扉に向かって返事をした。
「失礼します」
 その声は、十六夜さんのものだった。
 扉が静かに開かれ、一礼した後、十六夜さんは部屋に入ってきた。
 黒色の着物を着た俺の姿を見て、
「お召し替えになられましたね。よく似合ってますよ」
 そう言ってくれた。
「……ありがとうございます」
 お世辞なのか本心なのか分からないが、ちょっと照れくさかった。
「さて、ラビ様」
 名前を呼ばれて、俺は息を呑む。
「これから、お嬢様と再面会します。準備はよろしいですか?」
 遂にこの時が来た。


25


 俺は十六夜さんに案内されるまま、薄暗い廊下を歩いていた。
 歩けば歩くほど、少しずつ俺の鼓動が高くなっていく。
「…………」
 なんて、表現すれば良いのだろうか。
 小学生の卒業式の時、順番に呼び出される時のあの感覚に似ている。
 自分の番に迫れば迫るほど、緊張感が高まる感覚。
 席で強張って、名前を呼び出されるまで待たされるあの緊張感だ。
「…………」
 俺の鼓動を高めてるものは緊張だけでは無い。
 緊張とは別に、恐怖を感じていた。
 あの人形さんはとにかく怖い。
 言葉の選択を間違えると、即座に殺しに来そうな怖い人形さんだ。
 名前で呼ぼうとすると傷を付けられ、答えを遅れると更に傷を付けられる。
 突然激痛がやってくる訳だから、恐怖以外の表現ができない。
「…………」
 そして、あの人形さんは自分のことを吸血鬼と言った。
 十六夜さんも人形さんのことを吸血鬼と言っているから、間違いなくあの人は吸血鬼なのだろう。
 俺の想像する吸血鬼とは容姿が大分異なるが、行動と言動で吸血鬼らしく感じる。
 更に言えば、あの人形さんが俺の想像通りの吸血鬼ならば、俺たち人間は――。

 ”餌”だ。

 緊張と恐怖でガチガチになりながら、俺はそう考えていた。

 それなりの距離を歩いた頃、
「ラビ様、到着しました」
 十六夜さんに声を掛けられる。
 前の時とは違って、大分早く着いたような気がした。
 というのもそのはず、進んでいた道が前の時と異なっていた。
 着いた場所は、少し短めの幅広い階段の前で、その奥には大きな潜り扉が見えていた。
「階段を上った先にお嬢様がお待ちしております。どうぞ、お進みください」
 十六夜さんの言葉に従って、一歩一歩、俺は階段を上り始めた。


~第1章終~



[31015] 第二章前
Name: しむらむ◆f31c7ff0 ID:6ec63e55
Date: 2011/12/31 20:19
26


 俺は、階段の先にある、大きな門を通った。
 その先に見えたものは、
「……………………」
 部屋と呼びようが無い、異常に広い空間があった。
 円状に並んでいる壁掛けの灯火が無ければ、この空間は完全に闇となっていただろう。それだけにこの場所は、密閉されてて、とても薄暗かった。
 天井は当然のように見えない。灯火の光が、奥まで届いていないようだ。
 灯火の位置から察すれば、この空間はドーム状の形になっている。明るさの問題さえ解決すれば、大人数でスポーツすることも可能だろう。
 床には、赤い絨毯が敷かれていて、入り口から一直線に伸びていた。
 踏み心地からして、とても分厚い絨毯だ。
 視線だけで絨毯の先を追っていくと、大きな椅子と人影の姿が、薄っすらと映っていた。
 椅子の背後には、極大のステンドグラスが張られていて、付近の空間を照らすかのように、キラキラと虹色で輝いていた。そのおかげで、椅子と人影の姿を捉えたといっても過言では無い。
 俺は絨毯の道を進み、先に見える大きな椅子へと向かった。
 歩けば歩くほど、先に見える物が徐々にはっきりしてくる。

 まず、人の形が見えた。
 その大きさはかなり小さい。大人用の椅子に子供が座ってるような感じだ。

 更に俺は歩く。
 人の形からはみ出るように、翼の姿が映し出された。
 黒色の両翼で、横へ大きく広げている。

 更に俺は歩く。
 椅子に座っている者が、何かを持っている姿を捉えた。
 とても小さい何かを。

 更に俺は歩く。
 人影の色彩が、はっきりしてきた。
 ピンクの服と赤のリボン、帽子から溢れる綺麗な青髪。

 更に俺は歩く。
 手に持っているものが、はっきりしてきた。
 あの形はコップだ。食卓で見た、あのコップと同じものだ。

 更に俺は歩く。
 人の表情が、見えるようになってきた。
 汚れの無い雪のような白い肌、鮮やかに煌く赤い瞳。

 更に俺は歩く。
 椅子の隣に、もう一つの人影が映し出された。
 影で黒色に染まっていて、人物を判断できない。

 更に俺は歩く。
 影に隠れていた人の姿が、はっきりしてきた。
 椅子に座っている人物より、遥かに大きい体格。
 あの服、あの髪、あの肌、あの姿勢、
 間違いない、十六夜さんだ。階段前で別れたはずの十六夜さんの姿だ。

 更に俺は歩く。
 俺の背中に、汗が噴出しているのを感じた。背中を拭いたい気持ちで一杯だった。だが、椅子に座っている者の鋭い視線が、俺の行動を縛られる。足の動きが鈍くなっていることに、俺は気づいていなかった。
 そして、
「…………」
 俺は近くも無く、遠くも無いであろう位置で、立ち止まった。
 勝手に立ち止ったのが不味かったのか、嫌な空気が流れる。
 しばらく、その場で待っていると、
「外来人、そこで会話をするには遠すぎるわ。もっと近くに寄りなさい」
 声が流れた。とても幼く、女の子の声。
 俺は恐る恐る、足を進めた。
 立ち止まっている間に気持ちを整えるつもりだったが、それすら許されないようだ。
 それに、
「…………」
 どこまで進めば良い?
 どこで立ち止まれば良い?
 止まれと教えてくれるのか?
 俺の判断で止まって良いのか?
 椅子に座っている――吸血鬼”レミリア・スカーレット”の視線が痛い。
 目を合わせていないのに、ピリピリとした鋭い視線が、俺の肌に突き刺さる。
 一歩一歩、注意深く歩いている時だった。
「そこでいいわ」
 吸血鬼の口が開いた。
 俺は即座に、足の動きを止める。
 ”勝手な判断で足を止めていたらどうなっていたのやら”と心の中で思いながら、吸血鬼と目を合わせた。
 赤い瞳が、鋭く俺を睨みつける。


27


 背もたれがやたらと長く、豪華な装飾をされた四本脚の椅子が、空間の奥に備え付けられていた。
 背後のステンドグラス、絨毯の通路、広々とした空間、等間隔に並ぶ灯火の光、それはまるで、RPGゲームなどに出てくる『王の謁見』を感じさせた。人が人で、場所が場所なので、ゲーム感覚を堪能する余力は、全く持って無かった。
 演出を尽くされた場所で、美味しそうに液体を啜る吸血鬼。
 二口ほど喉に流し込んだ後、コップを受け皿の上に置いて、
「さて、返事を聞こうかしら」
 ”レミリア・スカーレット”は早速に問い掛けてきた。展開が早い。
「…………」
 俺は事前に用意していた”お断りの返事”を言おうと思ったが、吸血鬼の隣に立つ十六夜さんの姿を見て、”仕事の内容を伺ってみると良いでしょう”というアドバイスを思い出す。
 気になるといえば気になるので、聞いてみることにした。
「その前に、聞きたいことが」
「? 言ってみなさい」
 俺は一息入れて、呼吸を整えた。
「その仕事の内容は、何でしょうか」
 吸血鬼は少々驚く様子を見せた。どうやら意外な質問だったらしい。
「あら、言ってなかったかしら」
 言ってないです。
 間髪を容れずに言いたかったが、流石にそれだけは思い止まった。
「はい。教えてください」
 この吸血鬼は、仕事内容を言わずにそのまま引き受けてくれると思っていたのだろうか。呆れを通り越して、感心したくもなる。
 憂いになってるのか、静かな口調で吸血鬼は言う。
「フランの遊び相手をして貰いたいのよ」
「……?」
 ふらん? ふらんって何だ?
 モノ? 人名? この場合は人名か。
 それに、遊び相手をして欲しい?

 この吸血鬼は、一体何を言っているんだ?

 遊び相手?

 あ、れ。
 食事をしている時に、十六夜さんから聞いた言葉じゃないか。どうして、すぐに思い浮かばなかった? 十六夜さんの予想だったとはいえ、その言葉を聞いて、俺は色々と考えていたじゃないか。さっきまで意識していたのに、何で、忘れていたんだ? ……俺の中で、何かがおかしくなってる感じがする。

 ……落ち着け。今からでも冷静になって、この場を切り抜けないと。
 
 俺は十六夜さんの方へ顔を向けると、表情が硬くなっている様子を伺えた。
 この時点で何となく感づいていたが、念のため聞いてみることにした。
「ふらんって何ですか? いいえ、誰ですか?」
 吸血鬼は、特に表情を変えずに答える。
「私の妹よ」
「…………」
 十六夜さんの予想が、見事に的中した瞬間だった。
「何で俺に? 十六夜さんでは――」
 十六夜さんではダメですか? そう言おうと思った瞬間、言葉が止まった。
「――!」
 驚いている間にも、状況は劇的に変化する。


 椅子に座っていた吸血鬼が、突如俺に目掛けて突っ込んできた。


 俺は、吸血鬼の手に掴まれるまで、言葉が止まったこと以外、何も反応ができなかった。
 人と車との接触事故の被害者の心境は、こんな感じなのだろうか。
 目の前の現象を頭の中で整理して、このままだとどうなるかを予測して、体を動かして被害を抑える。
 超人なら、この過程をやり遂げるだろう。
 でも、俺には無理だ。
 被害を抑える行動ができていない。
 被害の予測もしていない。
 今の現象の整理すらできていない。
 整理する以前に、何が起きているのか理解していない。
 吸血鬼は、尋常ではない速度で急接近し、その小さな手で俺の着物を鷲掴みして、
「うわああっっ!!?」
 ようやく出た俺の悲鳴と共に、勢いよく床に押し倒された。
 俺は、これから来るであろう強烈な痛みを覚悟をしていたのだが、衝撃吸収性が良さそうな絨毯と、吸血鬼の力加減のおかげなのか、地面に押し倒されても然程痛みは感じなかった。
 とはいえ、
「――!!」
 重圧感がありすぎた。
 吸血鬼は、俺の体に乗ったまま着物を引っ張った。軽々と俺の上半身を持ち上げた。
 この一瞬の出来事に俺は混乱していたが、体を持ち上げられた時から、少しずつ状況を理解していた。
「外来人」
 やや強い口調で俺を呼ぶ。
 吸血鬼に呼ばれた瞬間、俺の体がビクッと震えた。
 返事はできなかった。できるはずがなかった。
 吸血鬼は言葉を続ける。
「それを聞いてどうするの? 聞いてから断るつもりだったのかしら?」
 意中をピッタリと言い当てられた俺は、もう何も言えなくなっていた。
「全く、人間とは面倒臭いものね。これだけの譲歩をしても、未だに迷いを見せるなんて」
 吸血鬼は、小さな声で言葉を漏らす。俺の近くに居たためか、その呟かれた言葉は良く聞こえていた。
 そして、より強く、より鋭く、俺を睨みつけてきた。
「――!」
 俺の額に汗が溜まってきて、体の震えの頻度が急激に上がっていた。
 震えを抑えたくても、極寒の大地に立たされているかのように、体を強張らせても、体がガタガタと震えてしまう。
 それほどまでに、吸血鬼の威圧感はとても強烈だった。
 吸血鬼は少し間を置いてから、
「外来人」
 また俺を呼んだ。
 吸血鬼は俺の返事を待たず、容赦無く言葉を続ける。
「仕事をするなら”する”と言いなさい。しないなら”しない”と言いなさい」
「……………………」
 もう、いいや。
 早く言って、楽になろう。
 少しだけ迷いましたけど、今ので確信しました。
 俺は、仕事したくありません。
「俺は――」
「ただし」
 俺の言葉が遮られた。
 着物を握り締める音がギリギリと鳴り響く。
 吸血鬼の顔が、少しだけ近くなった。
 強烈な視線を向けられ、吸血鬼はこんなことを言う。
「仕事を断れば、この場で貴方を殺すわ」


28


 結局俺は、
「最初からそう言えば良かったのよ」
 仕事を引き受けることになってしまった。
 吸血鬼は、掴み上げていた着物を手離した。
「ッ――!」
 急に離されたので、持ち上がっていた上半身が倒れそうになる。
 とっさに両腕を使って、衝突を避けた。
「何時まで座ってるの? 早く立ちなさい」
 吸血鬼の声が遠くから響いた。
 視線を前に戻すと、吸血鬼は元の席に座っていた。
「…………」
 吸血鬼の辛辣な態度に憤りな気持ちを抱いていたが、圧倒的な力を見せ付けられて、何も言い返すことができなかった。
 俺は素直に立ち上がり、震える体になっても、吸血鬼の姿をしっかりと見続けた。
 息を吸い、液体を啜っている吸血鬼に向かって、
「それは理不尽って奴だ! 俺を押し倒したのはお前だ、お前! つーか、何事も無かったように、悠々とお茶を飲んでんじゃねーよ! 俺に突進した時に持っていたコップと皿はどうしたんだ? なんで、どこにも落ちた形跡が残っていないんだよ! 俺は、絶対に仕事なんてやんねーぞ! コラ!」
 怒り任せに、俺は強く叫んだ。可能であれば、直に近づいて、胸倉を掴み上げてやりたい。
「ジロジロ見過ぎよ。 喧嘩を売ってるの?」
「……いえ、すみません……」
 俺の言葉は実際に吐き出されることなく、心の中で処理された。
 今の俺は、あまりにも情けない。
 全身を小刻みに震わせて、弱々しい姿を吸血鬼に見せているのだから。

 仕事を引き受けてくれたことを喜んでいるのか、吸血鬼の気分は上々の様子だった。
 そして、
「早速だけど、仕事してきて頂戴」
「……え?」
 思いがけない吸血鬼の言葉に、俺の思考が止まりかけていた。
「え、えっと……」
 俺は、甘かった。
 仕事は明日からだと、安易に考えていた。
 仮に今からネットゲーができるとしても、全くやる気が起きないほどの疲労感を感じていた。今日だけは、素直にベッドで寝ていたい気分だった。
「明日からじゃ駄目ですか?」
 とは言えず、
「少し休憩させてください」
 とも言えず、
「……はい……」
 引き受けるしかなかった。この人の前では、俺に選択肢というものは存在しない。
 吸血鬼は満足そうに頷いて、
「咲夜、後は頼んだわ」
「かしこまりました」
 この空間で初めて、十六夜さんの声を聞いた。
 十六夜さんは俺に近づいてから、
「参りましょう」
 情け容赦なく、短く告げられた。
 十六夜さんは吸血鬼の方向へ振り返り、一礼する。
 俺はその様子を眺めるだけに留めて、扉へ向かう十六夜さんの後ろに付いて行った。
 そして、数歩だけ足を運んだ時、

「ラビ」

 俺の背後から”名前”を呼ばれた。
 流石に無視する訳にはいかないので、凍ってしまった背筋を強引に捻じ曲げて、後ろに振り返ると、
「フランのことを、よろしく頼むわ」
 吸血鬼は、別れ際の挨拶でそう言い残した。
「…………」
 俺は、自分の目を疑っていた。
 吸血鬼は――。
 レミリア・スカーレットは――。

 とても、優しそうな表情をしていた。


29


 俺は十六夜さんの後ろに付いて行く中で、
「はぁ……」
 酷く落胆していた。
「何で、こんな目に……」
 いくら嘆いても、結果は変わらない。
「はぁ……」
 同じ溜息が流れる。

 実の所、あの吸血鬼に脅かされるまで、どのような事があったとしても、仕事を断るつもりだった。
 大半の人間は、仕事をするか、それとも死ぬか、と問われれば、それこそ九十九パーセント以上の人間は、仕事を――つまりは『命』を選ぶだろう。
 でも、俺は違うつもりでいた。
 ”仕事を引き受けるぐらいなら、死を選ぶ”
 その覚悟で、吸血鬼に挑んだつもりだった。

 見た目は少女でも、吸血鬼は吸血鬼。
 尋常ならぬ速度で押し倒して、怪力を感じさせる力で持ち上げれた後に、

 ”仕事を断れば、この場で貴方を殺すわ”

 今でも、鮮明に思い出せるほどの恐ろしさだった。あんな場面で、あんなことを言われれば、誰だって恐怖に負けてしまう。あの吸血鬼の手に掛かれば、もうどうしようもない。逆らったら、死以上の死を予感させていた。それに、
「…………」
 脳裏に浮かんだ”遊び”という至極簡単そうに聞こえる仕事内容だったのも、仕事を引き受けてしまった一つの要因なのかもしれない。
 そう。俺の遊び相手は、吸血鬼だ。
 人間と吸血鬼が遊ぶ。……何度考えてもありえない光景だ。
 あの吸血鬼は、一体何を考えているのだろう。

 いくつか理由を考えてみたが、『人間と交流を深めさせるために遊ばせる』という可能性は薄そうだった。恐らく、としか言えないが、『人間を玩具代わりにして、一方的に遊ばせる』と考えた方が分かりやすい。実にしっくりくる。
 しかしそうなると、俺の命がいくらあっても足りない。
 無事に遊び終えたとしても、元の世界に帰してくれる保証が全く無い。
 あの吸血鬼は、”仕事をすれば元の世界に帰せそうな人物を紹介する”と言っていたが、俺を仕事させるための虚言だったとしか考えられない。
 あの吸血鬼が、本物の吸血鬼であるという証拠はまだ無いが、化け物染みた存在であることは間違いなかった。その化け物が、吸血鬼。そうなると、俺たち人間は、『食糧』ということになる。そのことに俺は酷く懸念する。
 一つは食べられるかもしれないという可能性。
 そしてもう一つが、約束を破棄されるという可能性だ。
 人間が牛、豚、鳥、魚などの主食に入りやすい動物達を、同等な立場として扱わないように。あの吸血鬼も俺たち人間を、同等な立場として扱うことことは無いだろう。つまり、あの吸血鬼の気分次第で、約束自体が無かったことにできてしまう、という訳だ。
 それに、俺と吸血鬼の立場が逆だったら、そういう俺も利用するだけ利用して、使い捨てることをまず考えるだろう。生かす必要なんて、全く無いのだから。
 少なくとも、俺の生存を考慮しているとは考えにくい。
「……………………」
 もう考えるまでも無い。
 このまま吸血鬼の妹とやらに会うのは、絶対にマズイ。
 今すぐにでも、逃げることを考えるべきだ。
 ……でも、最後に見せた、あの吸血鬼の表情――。
 強く懇願するような表情――。

 あれは、嘘だったのだろうか。


30


「ラビ様」

 不意に俺を呼ぶ声が聞こえた。
 頭の中で色々と巡っていたモノが、一気に逆流して現実世界に引き戻される。
 前に歩いていたはずの十六夜さんが、後ろに振り返って足を止めており、
「あ……」
 大分離れた位置で、俺の足が止まっていた。
 俺は急いで、十六夜さんの元へ駆け寄る。
「……すみません、遅れました……」
 十六夜さんは特に怒ってる様子がなく、
「大丈夫ですか?」
 優しく声を掛けてくれた。
 吸血鬼の前では、まず見せてくれない表情だった。
「少し、考え事をしていました。すみません」
 十六夜さんの優しさに歓喜して、俺は素直に答えた。
 すると、

「仕事を引き受けてしまったことに、後悔しているのですね?」
「…………」

 十六夜さんの唐突な発言に、俺の言葉が止まってしまう。この話題に触れてくることを、全く想像していなかったからだ。
 十六夜さんは少し間を置いてから、
「逃げたいのであれば、逃げても構いません。その時は出口までご案内致します」
 信じられないような事を言っていた。
 恐らく俺は、瞳が大きく開いた状態で、驚きの顔を表情に出ているであろう。
 更に十六夜さんは言葉を続ける。
「ただし、一度”紅魔館”から出た時は、今後一切、ラビ様に関与致しません。”紅魔館”に戻ることも許されません」
 十六夜さんの言葉を聞いて、俺は少し考えた。
 少し前までの俺なら、何も聞かずに喜んでここから離れていただろう。
 思わぬ退路を与えられた俺は、頭をフル回転させて、質問をする。
「十六夜さん、いくつか聞きたいことが」
「はい。何でしょうか?」
「その、逃げても良いというのは、あの人――レミリアさんが決めたのですか?」
 十六夜さんは頷いた。
「ええ、そうです」
 あの時の”断ったら殺す”という吸血鬼の言葉は嘘だった?
 俺はこの質問を深く掘り下げるつもりは無く、次の質問へ移した。
「屋敷の外に一体何があるんですか? 窓から外の風景を見た時は、何も無かったように見えましたが」
 十六夜さんは少し考えて、
「私達も最近引っ越したばかりなので、この付近の地理を把握しているわけではありませんが、『紅魔館』の外にある『魔法の森』を抜けた先に、通称『人間の里』があります。『紅魔館』から出られるのであれば、『人間の里』に向かうと良いでしょう。他には『妖怪の山』、『迷いの竹林』なども存在しているようです」
 十六夜さんの口から、次々と聞き慣れない名称が挙がった。
 名称が多かったものの、それでも、一番強く印象に残ったものは、
「人間の里……俺以外の人間も居るんですか?」
 俺は心底驚いた。と、同時に希望的な何かを感じていた。
 十六夜さんは小さく息を吐いて、
「私も一応は人間のつもりですが」
 そんな言葉を漏らした。
「え? ああ、すみません! すみません! 間違えました! 今のは無しです!」
 俺は慌てて、何度も頭を下げた。
 十六夜さんは先程の表情とは一転して、小さく微笑む。
「冗談です。怒っていませんよ」
 十六夜さんは言葉を続ける。
「人間の里についてでしたね。ラビ様の仰る通り、多数の人間たちが集う集落となっています。妖怪達も入り混じっていますが、『幻想郷』の中でもっとも安全な場所と言えるでしょう」
 人と関わりを持たない俺が、これほどまでに、他の人間に会いたいと願っているのは、初めてのことだった。
「その人間の里には、俺みたいに迷い込んだ人がいるのでしょうか?」
「……それは、存じません」
 十六夜さんは更に続けて言う。
「ですが、人間の里に、ラビ様と同じ待遇の方がいらっしゃるかもしれません。仮にいなかったとしても、何かしらの進展があるかもしれません。この館に居るよりかは可能性があるはずです」
「…………」
「人間の里に行きますか?」
 想像すれば想像するほど、そこは魅力的な場所だった。
 少なくとも、この館より居心地が良さそうに思う。
 少し前までの俺ならば、二の句も言わずに喜んで”行きます!”と言っていたのだろう。
 でも、
「まだ、聞きたいことが」
「何でしょうか?」
 俺は少し間を置いて、十六夜さんに聞く。
「”げんそうきょう”って何ですか? この世界のことを”げんそうきょう”と呼んでいるんですか?」
 十六夜さんは頷いた。
「はい。ラビ様の仰る通りです。幻想郷については、この館に私より詳しい方がいらっしゃいますが、簡単に説明させていただきますと、人間と妖怪が集う世界と思ってください」
「人間と、妖怪……」
 さっきから、”ようかい”というキーワードが出てきている。
 ようかいとは、あの”妖怪”のことか。
「”ようかい”というのは、一体……」
「人の形をした人間以外の存在のことを、一括りにして『妖怪』と呼ぶそうです。『妖怪』も、自身のことを『妖怪』と認識しています。ただ、数多く繁殖しているものに関しては、別の名称で呼ばれることが多いみたいです。例えば『妖精』がそうです」
「……そう、……ですか……」
 人間以外の人間? 吸血鬼と妖精はまだ良いとして、他にも沢山の種類があるってことか。無茶苦茶過ぎる。
 これはもう、俺の想像を遥かに凌駕している複雑な世界だ。
 人間と妖怪が集う世界。
 この世界のことを、幻想郷と呼ぶらしい。

 幻想郷――、か。

 頭の中で色々と考えが巡っている時、
「”人間の里”に行きますか?」
 十六夜さんの声で呼び戻される。
 俺はすぐに答えず、
「最後に聞きたいことがあります」
「何でしょうか」
 俺は一番聞きたいことを、一番聞きたかったことを十六夜さんに言う。
「フランさん――妹さんについて、教えてくれませんか?」


31


「フランさん――妹さんについて、教えてくれませんか?」
 十六夜さんはすぐに答えなかった。
 この質問に関して何かを考えている、という様子も無かった。
 小さく微笑んでいた表情が消えていて、ただ静かに俺を見据えていた。
 聞いてはいけない質問だったのだろうか。
 この質問を言ってから十数秒後、
「私からは、何も申し上げることがありません」
 この言葉だけが返ってきた。
「…………」
 俺はどうにも納得できなかった。
 ”そうですか! 分かりました!”と潔く返事できる人が居るならば、是非その理由を教えてほしい。
 流石の俺も、食い付くしかなかった。
「どうして、これから遊ぶ相手のことを教えてくれないのですか? 少しでも教えてくれないと、やりようがないです」
 十六夜さんは声のトーンを落として、
「……私からは、何も申し上げることがありません」
 先程と、全く同じ言葉が返ってきた。
 豪華な食事をご馳走して貰っている時に、予想だったとはいえ、色々と話してくれたのだが、現在は何も話してくれない。
 聞いてはいけない質問。もしくは、聞いてほしくない質問だと察した俺は、
「そう、ですか……分かりました……」
 これ以上、聞き出すことを止めた。
「ラビ様」
「はい?」
 先程と一転して、十六夜さんはしっかりとした口調で言う。
「人間の里に行きますか? 通常は、紅魔館から人間の足で、道に迷わずに行けたとしても、半日は要してしまいます。道中、妖怪に襲われる可能性などもあります。ですが、今回は特別に案内人を付けさせます。ラビ様を安全に、人間の里へ送り届けることができます。人間の里は、人間に対して手厚い歓迎を受けるはずです。悪い話ではないと思います」
 俺はすぐに答えず、その言葉の意味を考えていた。

 ”人間の里に行きますか?”

 数え間違えていなければ、これで三回目になる。
 十六夜さんは、俺を紅魔館から出て行って欲しいと願っているのだろうか。
 でも、理由は何だ? 平穏だったであろう紅魔館に、俺という異物が入り込んだ所為で、日常を乱されたことに嫌気が刺したからか? ……多少はそう思われてるかもしれないけれど、何か本質的なものを隠しているような気がする。
 そもそも、本当に”邪魔”だと思っているのなら、力づくでやれば良いだけなのに。あの吸血鬼と違って、十六夜さんは俺に選択肢を与え続けている。難しいことを考えず、ただ俺の身を案じて、こういう提案をしているのかもしれない。
 この予想が正しければ、妹さんと会うことはかなり危険な行為ということになる。何が危険なのかをハッキリと明言しない点が、どうしても腑に落ちない。
 普通に考えれば、やっぱり妹さん関係だろうか。
 つまり、”妹さんと会うのはとても危険なことなので、ここから離れた方が良いですよ”という十六夜さんの隠れたメッセージなのかもしれない。
「………………」
 やっぱり、何か違和感を感じさせる。
 違和感の正体は何だ? 十六夜さんの真意が分からない。
 ……いいや、待て。
 それ以前に、十六夜さんの提案は、あの吸血鬼の許可があるという話だった。
 どうなっているんだ。

 十六夜さんを長く待たせないように、効率よく考えて。
 考えて。
 考え続けて。
 そして、答えが決まった。
 俺は十六夜さんに言う。
「俺は”人間の里”に――」


32


「俺は”人間の里”に行きません」
 俺ははっきりと、十六夜さんにそう言った。
 俺の返答が相当意外だったらしく、十六夜さんは驚きを隠せない様子だった。
 十六夜さんは、確認するような口調で言う。
「行かない、ですか?」
「……はい」
「それは、何故ですか? 人間の里に行きたくなかったのでしょうか?」
 俺は首を横に振って否定する。
「いいえ、行きたくないと思っていません。むしろ、行ってみたいと強く思っています。人間の里は、凄く興味があります」
「なら、尚更何故でしょうか?」
 俺はすぐに答える。
「あの人と――レミリアさんと約束しましたから」
 十六夜さんは、怪訝そうな表情をしていた。
「ラビ様は、お嬢様のことを信じているのですか?」
 そんなことを聞かれた。
 十六夜さんの立場でそれを聞くのはどうかと思ったが、俺は気にせずに答えることにした。
「いいえ、全く。名前で呼べば、いきなり痛い目に遭いましたし、脅迫されて、強引に仕事を擦り付けられましたし、無事に仕事が終わったとしても、家に帰れる保証が見えてこないですし、このまま妹さんのところへ行くのも、危険な雰囲気がありますし、信じているか、信じていないかと問われれば、全く信じていないです。本当なら逃げたいところです。今すぐにでも」
 当の主人について悪く言われているはずだが、十六夜さんは特に表情を変えずに、黙って聞いていた。
 十六夜さんは言う。
「……そこまで思われているのに、何故、人間の里に行かないと答えたのでしょうか? ここに居続けるよりも、人間の里に居た方が遥かに安全ですよ」
「…………」
 俺だってそう思う。
 でも、俺の目的は逃げることじゃない。
 少し考えてから、俺は答える。
「……俺の目的は、あくまでも家に帰ることです。……それに、十六夜さんがそこまで会わせたくない妹さんについて、興味が沸いてきました。俺を人間の里に紹介したのも、妹さん――フランさんに会わせたくないからですよね?」
 感じていた違和感の正体が、恐らくコレ。
 危険だからとか、邪魔だからとかでなく、単純に会わせたくなかったのだ。
「…………」
 十六夜さんは俺の言葉に驚いてる様子だった。感心しているようにも見えた。
 数秒間沈黙が続き、そして、
「ラビ様は、賢い方ですね」
 小さく微笑んだ。
「とても感情が豊かな人なんですね。笑ったり、怒ったり、悲しんだり、怯えたり、ラビ様はとても不思議な人です」
「……今、それを言われるとちょっと恥ずかしいですが、……俺だけが、特別に感情が豊かという訳では無いですよ。人間なら、誰だって感情を持っています。それだけの理由で、俺を不思議な人扱いされてしまうと、全人類が不思議な人だらけになってしまいますよ。……それに、十六夜さんだって、感情が豊かです」
「私が、ですか?」
「はい。俺はそう思います」
「……時間を取らせて申し訳ございませんでした。ご案内の続きを致します」
 十六夜さんは体を前に戻し、後姿となった。

 レミリア・スカーレットに仕える十六夜咲夜は、小さく微笑んだ後、歩き始めた。
 右頬に綿布を貼られた和服姿の男も、十六夜咲夜に続いた。


33


 窓が無く、直線が延々と続く道を、俺達はひたすら歩いていた。
 十六夜さんの手元にある灯火が無ければ、この廊下は暗闇に――。
 十六夜さんの案内が無ければ、この廊下は迷宮となっていただろう。
 そして、歩けば歩くほど、道へ進めば進むほど、
「…………?」
 首を傾げたくなるほどの違和感を感じていた。
 今感じている違和感とは、この廊下と、その距離のことだ。

 俺は、この直線が続く廊下を、何分、何十分歩いたんだ?

 十六夜さんの灯火を用いても、廊下の先は全く見えない。
 何回かは、一室へ続くだろう扉と遭遇したが、今のところ、全ての扉を通り過ぎていた。
 一体この屋敷は、どれだけの部屋を揃えているのだろうか?
 そして、どこまで行くつもりなのだろうか?
 先が見えないというのも恐ろしい。
 歩けば歩くほど、その違和感が明確になっていく。

 俺がこの館で初めて目覚めた時、窓から顔を出して風景を見るついでに、一度だけ建物を見渡した。
 目測すれば、この館は大体二百メートル以上はあったと思う。
 でも、この廊下は何なんだ? 二百メートルは軽く歩いているはずだ。
 俺が疲れてるから、そう思ってるのか?
 それとも、目測を計り間違えていたのか?
 いいや、より注目すべき所は、あの吸血鬼が居た、あの空間だ。

 あれこそ絶対におかしい。

 最初の俺は、三階に居た。
 窓から建物を見た時も、三階建てと確認できた。
 間違えようが無い、間違えるはずが無い。
 そして、十六夜さんによって、何らかの方法で浴場へ移動させられた。
 入浴したその後は、特に階段も段差も斜面も無く、着替えるために近くの一室へ向かった。
 その部屋の窓の風景から、一階に居ることを確認できた。
 その後は、あの吸血鬼の部屋へ行くために、長い階段を二回上って、吸血鬼と初めて会った。怪我をして、治療をしてもらって、再び移動。
 今度は、階段を二回下りて、一室に入った。そこで俺は、食事をした。
 そして、食事の後の着替えの時、窓の風景から、一階に居ると確認できた。
 ……ここまでは絶対に間違えてない。でも、問題はここからだ。

 着替え終わった後、吸血鬼と会うために、階段前まで案内された。
 大して長くない階段を上った後、馬鹿でかい部屋、というより空間があった。……これが、どうしても理解できない。
 過去の記憶を間違っていないとすれば、あの空間は、階数的に二階以下の位置にあるということだ。そして、あの空間で上を見上げた時、多少暗かったとはいえ天井が全く見えなかった。
 もう何が何だか分からない。
 一体、この館はどうなっているんだ? 三階なんて始めから無かったということか? そもそも、あの空間だけで直径何メートルあったんだ? 下手したらあの空間だけで、目測した二百メートルを――建物の広さを超えてしまうんじゃないか? あの空間の高さは、この建物の高さを、遥かに超えてしまってるんじゃないか?
 俺が初めて目覚めた時、ちゃんと三階の位置に居たのは間違いない。
 三階の存在は確かにあった。
 部屋も沢山あった。
 あの空間が存在できるスペースなんて、絶対にできない。ありえない。
 それに、今歩いているこの廊下だって、絶対におかしい。
 一体どこまで続いているんだ?

 こうして考えてる間も、俺はひたすら歩き続けているはずなのに、未だにこの廊下は延々と続いている。


34


 前に歩いていた十六夜さんが足を止めた。
 俺はそれに気づかず歩き続けて、
「ッ――!」
 十六夜さんとぶつかる直前に足を止める。
 そして、十六夜さんの先を目で追うと、何時の間にか廊下の突き当たりに到着していた。
 そこには、扉があった。――というわけではなく、
「ラビ様、段差がありますので気をつけてください」
 階段があった。
 しかも、下っていく階段だった。
 移動中、段差も斜面も無く、なおかつ一階から移動していたはずなので、
「地下ですか? 妹さんは地下にいるんですか?」
 十六夜さんに聞いてみた。
 俺の質問に十六夜さんは頷いた。
「はい。妹様は地下にいらっしゃいます」
「……………………」
 やっぱり、この館は想像以上に広い。
 この建物の構図は、全く持って理解不能である。見取り図が欲しいところだ。
「足元に気をつけてください」
 十六夜さんは、階段を下り始めた。
「…………」
 俺も十六夜さんに続いた。





[31015] 第二章後
Name: しむらむ◆f31c7ff0 ID:6ec63e55
Date: 2012/01/01 23:04
35


 なだらかな階段を下りた先に、大きな扉があった。
 十六夜さんはその扉に触れると、扉は何かに反応したかのように、自動で開き始めた。
「一体どういう仕組みになっているんだろう?」
 俺は心の中でそう思いながら、ゆっくりと開き続ける扉を眺めていた。

 扉が四割ほど開いた頃。
 扉によって隠されていたその先を眺めていた。
 暗くてよく見えないが、あれは『本棚』だろうか? 向こうの部屋から紙の匂いがする。

 扉が七割ほど開いた所で、自動で開き続けていた扉がピタリと止まった。
 十六夜さんは振り返り、
「お待たせしました。参りましょう」
 そう言った後、扉の先へ進み始めた。
 俺も十六夜さんに続く。

 扉を潜って、初めて部屋の中を見渡した時、
「……………………」
 俺は立ち止まっていた。言葉すら出ない。
 この部屋は、部屋とは呼べないほどの、広い空間を誇っていた。
 中央の道に、一直線の絨毯が敷かれていて、延々と先まで伸びていた。
 その道の両端に、多数の本棚が並べられていて、大小の本が隙間無く、ぎっしりと詰められている。
 そして、一つ一つの本棚が、異常なまでに巨大だった。
 上を見上げると、その本棚は天井まで達しているかのように見える。
 その馬鹿でかい本棚は、空間の左右に何重にも列を作っていた。
 そのおかげで、ゆったりとした広さを持つ絨毯の道が、随分と狭く感じさせる。
 つまり簡単に言えば、この空間は、
 本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、
 本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、
 本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、
 本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、
 本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本。
 本だらけの空間だった。
「……………………」
 よく考えてみれば、この部屋もおかしい。
 緩やかな階段を下りた先に、この天井の高さ。
 どう考えても、地上一階を軽く越えてしまっている。
 一体、この建物の構図はどうなっているんだろうか。
 謎が深まるばかりだ。
「…………あ」
 俺は十六夜さんとの距離が大分離れていることに気づき、急いで十六夜さんの下へ駆け寄った。
 十六夜さんは俺の駆け寄る足音に反応して、後ろに振り返った。
「申し訳ございません。歩くの早すぎましたか?」
「いいえ、そんなことはないです」
 俺は立ち並ぶ本棚を見て、
「この本の数を見て、思わず足を止めてしまいました。すみません」
 十六夜さんは少し微笑みを見せて、
「説明した方が良さそうですね」
 そう前置きを置いてから、
「ここは、パチュリー様が管理している図書館です。ここには、数多くの貴重な本が納められています。妹様がいる部屋へ行くには、この道を通る必要があります」
 俺は一瞬、理解に苦しんだ。
「は、はぁ……なるほど」
 十六夜さんの口から、何か人名ぽいものが挙がったが、深く追求することなく、ひとまず返事を返した。
「……図書館……」
 図書室とかではなく図書館。建物の中に建物。色々と変な感じがする。
 しかし、十六夜さんが図書館と呼ぶのであれば、ここは図書館なのだろう。
「さぁ、参りましょう」
 十六夜さんは体を前に戻し、歩き始めた。
 俺もそれに続く。

 紙の匂いは別に気にならないのだが、というより元から好きな方なのだが、
「……………………」
 紙の匂いとはまた別に、異臭が酷く充満していた。
 カビの臭い、だろうか? よく分からない異臭の所為で、鼻がおかしくなりそうだった。
 そして、空気もやたらと重い。
 風通しが悪いのか、地下に居る所為なのか、妙に息苦しい。
 この図書館はとてもじゃないが、長く居れそうな自信が無い。
 普段から外に出ない俺でも、外に行きたい、外に出たいと、思わせるほどの居心地の悪さ。定期的に空気を入れ替える作業とかは、一切されていないと思う。
 俺は劣悪な環境に苦しみながら、直線に続く道を、ただひたすら歩いていた。

 ただ前に向いて歩く、というのも退屈になるだけなので、俺は左右にある本棚を眺めていた。
 そこには、大きい本。
 小さい本。
 背の高い本。
 背の低い本。
 厚い本。
 薄い本。
 などなど、無造作に沢山の本が納められていた。
 これだけの本があると、今まで特別に気にしたことが無い、”本の色”というのも大きく目立っていた。
 赤色の本。
 紫色の本。
 黒色の本。
 白色の本。
 黄色の本。
 青色の本。
 沢山の種類の本達で、本棚をカラフルに染め上げていた。
 そして、本の背表紙。
 特に何も書いていない、というものがほとんどで、たまに文字が彫られている本を見つけたとしても、何を書いてあるのか全く読むことができなかった。

 退屈が頂点に達すると、俺は本の数を大雑把に数えるようになっていた。
 一つの段で、大体百冊以上はあるだろうか。
 それを前提に考えれば、この本棚は天井まで達するであろう高さを誇っているわけで、もう、その本の数は膨大である。
 この空間にある本を全て足していったら、簡単に億単位まで届きそうだ。
「…………お?」
 久々に前を見ると、壁らしきものが初めて見えた。
 薄暗くて見えない部分もあるが、その大きな壁の下側に、念願の『扉』の姿が映っていた。
 何となく後ろに振り返ってみると、案の定、先が見えなかった。
 大分、歩いた証拠だ。

 肉眼で壁の存在を確認できてから、更に数分後になって
「やっと、着いた」
 ようやく壁際まで到着した。
 長かった。流石、図書館と呼ばれるだけはある。
 かなりヘトヘトになっていたのだが、十六夜さんは俺の様子をお構いなしに、
「この扉の先に、妹様の部屋へ通じる『道』があります」
「へ?」
 俺は思わず、声を出して反応してしまった。
「しかし、この扉を通るにはパチュリー様の許可が必要になります」
 はい? ぱちゅりー?
 ……あー、図書館の管理者と言っていましたね。その人の許可が必要ですか。へー、そうですか。

 正直、もう休みたい。


36


 俺は、先にある扉を眺めていた。
 その扉は、少し高い位置に――手前にある段数の少ない階段を登った先に、扉があった。
 廊下で何度か見てきた扉とは違って、あの吸血鬼の部屋に通じる扉と同じく、細かい装飾を施されていた。その出来栄えの良さに、一種の芸術品を感じさせる。
 そして、
「え?」
 これまた思わず、俺は声を出して反応してしまった。
 その扉は、何か文様らしきものが、壁側を巻き込んで浮かび上がっていた。
 文様は、基本的に大きな丸の形を作っていて、その中に図やら文字やら数字やらが、刻まれている。俺の目から見れば、その模様は青白く光っていた。
 消えたり、現われたりと、断続的に文様が切り替わる中、俺は扉を指して、
「十六夜さん、あれは何ですか?」
「封印魔法よ」
 答えはすぐに返ってきた。
 返ってきたのだが、
「え?」
 左斜め前に居る十六夜さんは、何も喋っていない。
 十六夜さんは、俺の右側の方向へ顔を向けていた。実際に声がした方向も、右側からだった。
 急いで振り向くと、
「……あ」
 何時の間にか、見知らぬ女性の人が、そこに立っていた。
 その女性は、突然呟くように言い始める。
「レミィから話を聞いてるわ。……こうして実際に会ってみると、なかなか面白そうな人間だわね。レミィが気に入るのも無理は無いか。……その顔の怪我……、なるほど、レミィも考えたわね。……でも、何故今に限って、外来人を使うのかしら……? 利用されていることを知っているはずなのに……、そのまま、あの人の思惑に乗るつもり……? もしかして、レミィも今の状況を打破しようと考えている……? ……でも、それは焦り過ぎよ……。レミィはこの人間に、一体何を感じたの……?」
「……………………」
 ボソボソボソボソボソボソと続いた独り言が、ようやく終わったようだ。
 広い空間といえど、これだけ近い距離で話されると、嫌でも耳に入ってくる。
 さっきから良く使われていたレミィというのは、恐らくレミリアさんのことであろう。それぐらいのことは、俺でも察することができる。
 でも、それ以外のことは、何を言っているのかさっぱり分からない。
 そもそも、この人は誰だ。
 十六夜さんがさっき言っていた”ぱちゅりー”という人か?
「パチュリー様」
 正解でした。

 十六夜さんはパチュリーという人物に、数歩だけ近づいて、声を掛けていた。
「案内ご苦労様、咲夜」
 女性は十六夜さんの方へ顔を向けて、特に表情を変えずにそう言った。
 視線を外してくれている間に、
「……………………」
 俺はパチュリーという人物を観察していた。
 十六夜さんと比べると、一回り小さい体格になっていて、見た目で年齢を憶測すると、十六、十七ぐらいの歳だろうか。十六夜さんと同じく、大分若く見える。
 女性の服装はかなり特徴的なもので、紫色の上着に、肩を覆い隠す程度のケープを着込んでいて、白と青のラインで刻まれたワンピースの姿が映っていた。そして、あの吸血鬼と同じく、服装と全く同じ色をした帽子を被っていた。その帽子に、月の形をした金細工の装飾と、赤と青のリボンで飾り付けられている。
 上着もケープもワンピースも帽子も、可愛らしいフリルがあちらこちらに見えており、総称で言えば、玩具の着せ替え人形みたいな服装になっていた。
 かなり大きめの服装を着用しているためか、肌が露出してる部分は、手と顔ぐらいしかなかった。狭い範囲で映る肌の色は、想像以上に白く、一瞬でも太陽に当たると、すぐに焼けた色が浮かび上がりそうだった。
 その色白の綺麗な手に、分厚い黒色の本を抱えていた。そのサイズから、結構な重量がありそうだが、女性は特に表情を変えずに持ち歩いている。
 そして、体格よりも服装よりも肌の色より本よりも、特にその女性を目立たせたものが、長い長い髪の毛だった。その長い髪の毛は、鮮やかな紫色に染まっており、散り散りになっていたであろう髪の毛を左右に分けて、その先端にリボンで留められていた。
 淡い紫色の服装に、鮮やかな紫色の髪の毛。一風変わった組み合わせに、視線を釘付けされていた俺は、
「ラビ様」
 十六夜さんの呼ぶ声で、我に返った。
 視線を移すと、十六夜さんは紫色の女性に指し示し、
「こちらの方は、図書館を管理している、パチュリー・ノーレッジ様です」
 そう紹介された。
「えっと、RABIと言います」
 言い慣れない口調で、自己紹介をした。今自覚したが、ハンドルネームで名乗るのは、結構恥ずかしい。
「……パチュリーよ」
 パチュリーさんはつまらなそうな表情をしながら、呟くように、短く言った。
「あの、パチュリーさん」
「……何かしら」
 やはり、不機嫌になっているような気がする。俺は何かしたのだろうか?
「さっき、言っていた、封印魔法というのは何ですか?」
「……封印魔法は、封印魔法よ」
「…………」
 え、それで納得しろと? いやいや、厳しい方ですね。
 それとも、俺が外に出ていない間に、”ふーいんまほー”という言葉が一般常識になっていたのか? 社会は恐ろしいなー。
 あーやだやだ。
「……つまり、封印魔法が展開している限り、無断であの扉を出入りすることができない。私の許可が下りないまま、あの扉を開けようとすると防衛反応を起こし、侵入者を焼くわ」
 御丁寧に、説明ありがとうございます。
 つまり、”ふーいんまほー”とやらで、あの扉を文字通り、封印しているわけか。
 そして、封印方法が、魔法を使っていると。
 なるほどー。
「……………………」
 一体、この人は何を言っているんだ?
 封印は、まぁ何となく分かる。それなりに使われている言葉だ。
 でも、魔法って何だ? パチュリーさんの言う魔法とやらは、俺の想像する魔法と、一緒にしてもいいのか? ネットゲーでよく使われる魔法と、同じような感覚で認識してもいいのか? もし、本当に想像通りであれば、パチュリーさんは何者なんだ? あの吸血鬼みたいな翼が見当たらないから、十六夜さんと同じく人間だと思っていたけど、もしかして人間ではないのか? ……いいや、思い出してみれば、人間と紹介された十六夜さんも、無茶苦茶な能力を――時間を操る能力を、持っているという話だったよな。そうしたら、パチュリーさんも、何かしらの能力を? いいや、この人の能力と言ったら、魔法になるのか。

 ……もう、何が何だか、分からなくなってきた。

 もしかして、人間の里とやらに住んでいる人達も、全員何かしらの能力を持っているのだろうか。……この世界は本当に訳が分からない。不思議で満ち溢れている。
 パチュリーさんは言う。
「……貴方を、長く引き留めるつもりは無いわ。……もう行きなさい」
 それだけ言って、後ろに振り返った。
 ふわりと宙に舞う紫色の髪が、とても綺麗だった。
「ラビ様、参りましょう」
「あ、はい」
 急に声を掛けられ、慌てて俺は返事をする。
 そして、
「……え?」
 パチュリーさんに視線を戻した時、その姿はどこにも無かった。

 十六夜咲夜とラビの二人が、扉に向かっている時、
「……………………」
 図書館の主パチュリー・ノーレッジは、本棚の上段に届くであろう高い位置から、二人を見ていた。
 そして、一人静かに呟く。
「……とはいえ、妹様が望めば、封印魔法は簡単に破られる。封印魔法を展開している理由は二つ。結界内に直接侵入されないよう、位置情報を狂わせるため」
 パチュリー・ノーレッジは二人への視線を一度外し、手に持っていた黒色の本を本棚に押し込んだ。
 黒色の本に手を掛けたまま、言葉を続ける。
「……そして、妹様の存在を隠すためよ」


37


 パチュリーさんの話によると、この扉は封印されているということだったのだが、
「…………」
 取っ手を持って引く、という簡単な動作であっさりと開かれた。
 俺の聞き間違いで無ければ、あの扉は”まほー”とやらで封印されているはずだった。十六夜さんが扉の取っ手を持った時、何か特別な動作をして扉を開けるものだと期待していたのだが、普通の扉と何も変わらなかった。
「さぁ、もう少しです。参りましょう」
「…………」
「……ラビ様?」
「え? あ、すみません」
 十六夜さんに呼ばれた俺は、急いで駆け寄る。

 扉を通った先は、これまた酷く長そうな一直線の廊下となっていた。図書館から入る光と、十六夜さんが持つ灯火が無ければ、この付近は真っ暗闇となっていたのだろう。二つの光があっても、廊下の先は当然のように見えなかった。この暗さは、地上にある廊下とは、明らかに違うものだった。
「……かなり、暗いですね」
 思い浮かんだ印象を、口に出した。
「はい。ここから先は、光とは程遠い世界になっています。段差や遮蔽物はありませんが、いつも以上に私の近くに居てください」
「……そう、ですね。そうさせてもらいます」
 十六夜さんは、俺の返事を聞いた後、図書館に通じる扉を閉め始めた。
 俺は”開いたままの方が良いのに”と思っていたが、
「…………」
 わざわざ、願い出るまでも無いだろう。
 その頃の俺は、そう思っていた。

 数秒後。
 扉が完全に閉められて、図書館から入る光を遮断した。この付近は、より一層に暗くなった。
 暗い場所については、八年間の引きこもり生活で、そこそこ慣れていると思っていたが、どうやら俺の錯覚だったらしい。十六夜さんが持つ灯火は、俺の部屋にあるモニターの光と比べると、あまりにも弱々しく、十六夜さんの位置を知るぐらいで精一杯だった。床も見えないため、もし履物が脱げてしまったら、間違いなく見失うだろう。この暗闇は慣れそうに無い。
 十六夜さんの持つ灯火が、ゆらりと動き始めた。
 俺の方へ数歩近づき、十六夜さんの顔がはっきり映る位置で、話し掛けられる。
「ラビ様。妹様に刺激を与えないようにするため、火を消しますね」
「へ? わ、分かりました」
 思わず返事をしてしまったのだが、唯一の光を消されることに、不安で一杯だった。妹さんのために、火を消すというのも変な理由だ。
 十六夜さんの持つ灯火は、取っ手のついた小さな器になっていて、銀色の金属で作られていた。器の中に燃料が入っているらしく、そこから光が溢れていた。十六夜さんは”火を消しますね”と言った数秒後、器に蓋みたいなものを乗せて、光の出口を塞いだ。そして、

 ――この世界は、完全に闇となった。

 視界が閉ざされ、風を感じず、音もしない。
 この状況に耐え切れなくなった俺は、十六夜さんに声を掛ける。
「十六夜さん、いますよね?」
「はい。ラビ様の近くにいますよ」
 近くに居ると言われても、俺にはさっぱり見えない。
 でも、十六夜さんの声を聞けて、一安心できた。
「十六夜さんは、見えているんですか?」
「はい。私は見えています」
「そ、そうですか……」
 この状況で見えるというのは、やはり十六夜さんは只者では無い。
 十六夜さんは、自分自身を人間と言っていたのだが(吸血鬼もそう言っていた)、明らかに人間離れしている十六夜さんを見ていると、どうにも信じられなかった。俺が外に出ていない間、”人間”という生物は、急速な進化を遂げてしまったのだろうか。
「…………」
 まぁ、流石にそれはありえないだろう。
 十六夜さん達が、人間という定義を勘違いしているだけだ。そう信じたい。

 何も見えないこの状況で、道案内をされるのも困るので、
「えーと、このままだと、かなり辛いんですが」
 十六夜さんに訴え掛けた。
「御安心を、手を取らせて頂きますね」
「え」
「右手失礼します」
 もにゅ。
 いや、別にそんな音はしなかったが、感触で言えばそんな感じだった。
 垂れていた俺の右手に、何か生暖かいもので包まれた後、不意に持ち上げられた。急なことで少々驚きはしたが、手から伝わる暖かさで、どうにか落ち着きを取り戻せた。十六夜さんの言葉、そして右手の感触、間違いなく俺は十六夜さんと手を繋いでいる。
「……………………」
 誰かと手を繋ぐというのは、八年以上忘れている訳で、無駄に緊張が増すばかりだった。しかも、十六夜さんは女性ときている。この状況、男だったら誰だって、変に興奮してしまうだろう。右手から変な汗が吹き出そうだ。
「お待たせしました。参りましょう」
 十六夜さんの声が響いた。と同時に、俺の右手を軽く引っ張られた。
 俺は、右手を引っ張られる方向に合わせて、歩き始める。
 少し歩くと、見えない前方から、花のような香りが漂っていた。
 十六夜さんの匂いだろうか、とても心地が良い香りだった。
 暗闇の怖さは、何時の間にか自然と和らいでいた。


38


「十六夜さん、聞きたいことがあります」
「はい。答えられることでしたら」
「ありがとうございます。さっき、パチュリーさんの話によると、あの扉は、封印されていたのですよね?」
「はい。そうです」
「それは何故ですか? それって、妹さんを閉じ込めている、という意味になりますよね」





「十六夜さん?」

「……詳しいことは、申し上げることができません」

「そう、ですか……。ますます、妹さんのことが分からなくなってきました。仮に妹さんを閉じ込めているとすれば、妹さんは罪人――もしくは、外に出してはいけない人物ということになりますよね?」





「……あ、すみません。別に悪く言うつもりは無かったんです。ただ、あの人の――レミリアさんの妹となると、やっぱり色々と気になって……、すみません……」





「……何故、レミリアさんは俺にこんな依頼を出したのでしょうか?」



「妹さんと遊んで欲しいという依頼、……思えば、疑問だらけですよね」





「……最初は、俺を玩具代わりにして、弄ぶつもりだと思っていました」



「本当にただ遊んで欲しいだけなら、それこそ十六夜さんに頼むとか、レミリアさん自身が遊び相手になるとか、色々と考えられますよね」



「一番最初に思いついた一例ですけど、十六夜さんもレミリアさんも、妹さんに見限られて、他の遊び相手が欲しいと言われたから、たまたま居合わせた俺に依頼した、という場合ですが」



「どれだけ考えても、ちっとも合理的にならなかったんですよね。もし本当にそういう理由でしたら、もっと力ずくで押し通せば良いと思うんです」



「レミリアさんの力なら、俺如き、強制的に従わせるぐらい簡単なはずです。わざわざ選択肢を与えずとも、強制的に妹さんの所へ送りつけたら良い。遠まわしで行かせるより、時間も手間も、掛からないはずです」



「”力ずく”でやらない理由があったとしても、レミリアさんはすぐに”結果”が欲しがっていたように見えましたから、今回のやり方はやっぱり変です。……要は、そこへ行きたくなるような言い回しをして、やる気を立たせて現場へ行かせれば良いだけですから、”物で釣る”とか”嘘を付く”とか手段を選ばなければ、もっと早くできていたはずです。それに、俺が逃亡する可能性も、かなり低くなります」



「でも、レミリアさんはそれをやらなかった。……もっと違う理由があるとしか、考えられませんでした」



「逆に考えてみました。レミリアさんも十六夜さんも、普段から妹さんに会っていないとしたら……? ”閉じ込める”という理由も意味も色々と考えられるし、遊び相手を依頼するのも、その方が自然ですよね。普段から会っているなら”封印”という言葉が、霞むだけですから」





「……普段から妹さんと会っていない。妹さんと遊んでもいない。でも、妹さんと遊んで欲しい。……この違和感が、凄く強いです。閉じ込めているなら、そのまま閉じ込めれば良いだけの話を、何故、俺に遊び相手をさせる必要があるのでしょうか」



「閉じ込めてるなら変化を与えない方が良いはずです。変化を与えると、リスクがただ大きくなるだけです。リスクを覚悟でやる必要があるなら、赤の他人の俺にやらせる意味が、全く分かりません。普通に考えれば、身内でやるべきです。……余興目的で、俺を玩具代わりにして殺すつもりなら、話は別ですけど……」





「……レミリアさんの依頼は、レミリアさんにとって、リスクしかないと思っています。そう考えると、妹さんと会わせようと考えているレミリアさんを反してまで、妹さんに合わせたくないという、十六夜さんの不自然な行動も納得できます」



「つまり、妹さんは誰も会わせてはいけない存在。……そういうことですよね」



「食事をご馳走して貰っている時、十六夜さんは妹さんの存在を教えてくれました。仕事内容が、妹さんと遊ぶという事実が明らかになった後、妹さんに関することは、徹底的に口を閉ざすようになりました。つまり、あの時は口止めをされていなかった。……一体、誰から口止めをお願いされたのでしょうか」





「……最初は当然レミリアさんだと思っていました。玩具が逃げ出さないように、余計な情報を与えないように、口止めをする。……自然な考え方ですし、仕事内容が明らかになった後のタイミングで考えると、真っ当な理由にもなりますよね」



「でも、本当にその理由だけであれば、妹さんについて教えてくれても良いはずなんです。リスクだらけの依頼ですから、それを少しでも和らげるため情報を流す。都合の良い様に動いて貰いたいなら、”偽”の情報でも伝えるべきだと思っています。……情報を閉ざすメリットが、あまり思い浮かばないです」



「口止めされている理由が、もっと別の方向にあるのか。それとも、口止めをすることによって、何かしらの益を得るのか。……そう考えるべきですよね」



「正直言って、妹さんと会うのは不安だらけですけど、口止めすることによって、レミリアさんの都合が良くなるなら文句は無いです」





「……今の俺が知っている妹さんの情報は、”レミリアさんの妹”、”吸血鬼”、そして”閉じ込められている”というぐらいしか分かりません。このまま妹さんに会っても、問題は無いですよね?」





「……レミリアさんは一体、俺に何を期待しているのでしょうか。……妹さんと遊んで欲しいというのは建前で、何か別の成果を求めているのでしょうか。レミリアさんの真意が全く分かりません」



「でも、ただ本当に、妹さんと遊んで欲しいという願いなのであれば、俺は頑張りたいと思います。無事に仕事が終われば家に帰れますし、何だかんだと言いながら、やっぱりレミリアさんのことを、信じてみたいんですよ。……まぁ、レミリアさんは仕事の期限を一切言っていないので、そこだけは不安ですけど」





「……十六夜さん、これだけは教えてください。妹さんは、俺がここに来ることを知っているんですか?」










「……なるほど、分かりました……」





「……………………」





「…………ラビ様」
「はい?」
「到着しました」


39


 妙に頭が冴えていた。
 少ない情報で、あらゆる方面から深い考察を加え、攻略の糸口を見出す。ネットゲーでは日常茶飯事のことだったが、この世界でも、俺の頭はうまく動いているようだった。

 そして、思う。
 何故、この世界に流れ着いてしまったのか。
 何故、吸血鬼さんは”妹さんと遊んで欲しい”という依頼を出したのか。
 様々な疑念が張り巡らせる中、今までの心情を、全て十六夜さんに打ち明けた。

 意味は無いと思う。
 ただ、聞いて欲しかった。
 ただ、言っておきたかった。


40


 暗闇の中、俺の右手を握り締めている十六夜さんの手だけが、頼りだった。
 必要以上に力を加えないように、唯一の道標を振り放されないように、全神経を右手に集中した。
 道中、俺の全身に纏わり付くような不安を拭い取ろうと、必死になって言葉を作って、十六夜さんに話し掛けていた。
 これまでの案内もそうだったが、十六夜さんは必要以上に話し掛けたリはしない。
 十六夜さんはこれまで以上に言葉を閉ざし、俺の話だけが、暗闇の空間に響かせていた。

 過去最大であろう、長い長い俺の話を終えた頃に、
「到着しました」
 十六夜さんの声が聞こえた。久しく声を聞いたような気がした。
 俺は、十六夜さんの動きが止まったことに気づいて、慌てて足を止めた。足を止めるタイミングが悪かったのか、右手の位置がやや後ろ側になっていたため、ちょうど十六夜さんの左隣の位置になるよう、少し後ろに下がった。
 そして、
「……………………」
 到着しました、と言われても、俺の目には黒しか映らなかった。すでに妹さんの姿があるのか、それとも部屋へと通じる扉があるのか、全く分からなかった。
「……俺には全く見えませんが、すぐそこに妹さんが居るんですか?」
「はい」
 十六夜さんの短い返事。
 もう少し何か言って欲しい所なのだが、俺から聞くしか無いのだろう。
「それで、俺はどうすれば?」
「はい。ここから先は、ラビ様の自由です。お嬢様からは、特に言い付けがございません。ラビ様の……ご自身の判断で、妹様と接してください」
 違う。
 俺の聞きたかったことはそうじゃない。
 前後左右、全く見えないこの状況で、俺はどうすれば良いのか聞きたいんだ。
「では、私の案内はここまでが限界です。頑張ってくださいね」
 まぁ、遊びのやり方に、アレコレと決められなかったのは助かったかもしれない。
 下手に指示されるより、よっぽどマシだ。
 とはいえ、こんな暗闇の状態が続くとなると、流石の俺もやり様が無い。
 この先に妹さんの部屋があるとして、もし明かりが一切無かったら、どうする?
 ……どう考えても具合が悪い。さっきの灯火を貸して貰えないだろうか。
 十六夜さんに聞くしか無い。
 ん?
「え?」
 待った。
 今、思いもしない言葉を聞いたような気がした。
 妹さんと会う時は一対一。そんなことは誰でも予測できる展開。
 でも、今のタイミングで別れるのはマズイ。
 せめて、明かり。明かりだけでも、置いていってくれ!
 もしかしたら、聞き間違いだったかもしれないけど、今聞かないと手遅れになるかもしれない。
「今、何て言――」
「それでは、失礼します」
 聞き間違いじゃなかった!
 俺は十六夜さんを逃がさんと、右手に力を込めようとした。
 が、一秒遅かった。
 あるはずの十六夜さんの手がするりと抜け出し、俺の右手は握り拳を作った。
「待ってくれ!」
 俺は慌てて、十六夜さんが居るであろう方向に飛び掛かったが、
「うぐっ」
 勢いよく、壁と地面に激突した。
「十六夜さん……!? 十六夜さん!!」
 手と膝が地面に着いたまま、俺は叫んだ。
 俺の声だけが辺りを響かせるだけで、返事は何も返ってこなかった。
「十六夜さん! 待ってください!! 十六夜さん!!!」
 何度叫んでも、やはり返ってこない。
 普通の人間なら、あの瞬間に消えるのは不可能だ。
 俺の飛び込みに回避できたとしても、何かしらの物音を立てるはず。
「……………………」
 十六夜さんのことだ。
 本当に消えてしまったのだろう。
「…………最悪だ」
 頭を垂らして、小さく呟いた。
 俺は、立ち上がって何か行動をするという気力がすっかり失い、
「どうすれば良いんだよ……」
 倒れた体を半回転して、仰向けの状態になった。
「……少し休んだら歩いてみるか? この廊下……入り口から見たとき、一直線になっていたよな? 壁に伝って歩けば、何とか進められるか」
 俺は何となく、右手を顔の前に持っていった。
 自分の手を見ようとして、
「本当に何も見えないな……」
 右手を何回か動かした後、重力に逆らうことを止めて、地面に落とした。
 俺は倒れた体を横に向けた。
「もう何も考えたく無い……。体力も限界だ。……寝よう」
 右腕を枕代わりにして、目蓋をゆっくりと閉じる。
 目を開けていた時の風景と、目を閉じた時の風景は全く同じものだった。


~第二章終~



[31015] 第三章前
Name: しむらむ◆f31c7ff0 ID:6ec63e55
Date: 2012/01/06 23:54
41


 此処は、どこだ?
 ……これは、俺の部屋か?
 あそこに座ってる人は、俺か?
 何で、俺がそこに居るんだ?
 俺は、此処に居るのに。

 ああ、これは夢か。
 最近、分かるんだよな。
 これは夢なんだってね。
「×××××」
 さっきから、俺を呼ぶ声が聞こえるな。
 酷く、懐かしく感じる。
「×××××」
 この声は、母の声か。

 何時も、悪いタイミングで俺を呼んできて、 
「×××××」
、その都度、俺はイライラしていたんだよな。

 何時の日か、ネットゲーで大失敗を犯した時があって、
「×××××、ご飯だよ」
 母が、俺の部屋に来たんだよな。

 ああ、そうだった。
 この日だったな。
 確か、俺はこう言ったんだ。
「今忙しいんだ! 邪魔すんじゃねーよ!」
 それで、俺は立ち上がって、
「二度と顔を見せるな! 飯はドアの前に置いていけば良いだろうが!」
 一発、殴ったんだよな。
「――!!」
 そして、更に一発。
「――!!!」
 一発。
「――! ――!!」
 一発。
「―――!! ――!!」
 一発。

 聞こえの悪い暴言と暴力を振るって、何が楽しい?
 もう、止めろよ。
 いつまで殴り続けるつもりだ。
 これ以上、何も思い出したく無い。
 早く目を覚めろ。
 早く。
 早く。
 早く。


42


 俺の目蓋が、ゆっくりと開いた。
 目に映るものは、全て黒。
 本当に目蓋が開いているのかどうか、混乱させる光景だった。
 暗闇の中で、俺は小さく笑った。
「ははは……。笑ってしまいたいぐらいのクズぷりだな……」
 夢のことを思い出して、額に溜まっている汗を拭う。
「……十六夜さんの料理で、思い出してしまったのか。ずっと、忘れていたかったのに……」
 そして、俺は上半身を起こそうとして、腕に力を入れた。
 その時だった。

「あ、おきた」

「うわっ!!」
 俺は悲鳴と共に、飛び上がるように上半身を起こした。
 今まで聞いたことの無い声が、暗闇の中で響いていた。
「……?」
 急いで辺りを見渡すが、俺の目では黒しか映らなかった。
「……………………」
 数秒間、俺は黙ったままで、付近の気配を探っていたが、物音一つもしなかった。
 一体、誰の声だったのだろうか。
 今も、その声を覚えている。
 澄み切った声とはいえ、幼すぎる。十六夜さんの声では無い。
 幼い声は同じ、だけど、あのピリピリとした威厳さを感じない。レミリアさんの声でも無い。
 かといって、大人びたあの人の――パチュリーさんの声とは、似ても似つかない。
 その声は、十六夜さんの様に澄んでいて、レミリアさんの様に幼さを感じさせる、初めて聞いた新しい声だった。
「なにを、さがしてるの?」
 また、あの声だ。
 俺は慌てて、声の方向に顔を向けた。
 視線の先は何も見えないが、多分、この方向から声が聞こえたような気がする。
「誰か居るんですか……?」
 恐る恐る、先が見えない空間に、俺は声を掛けた。
「みえないの?」
 返事は早かった。
 方向も間違っていなかった。
 俺の左斜め前に、誰かが確実に居た。
「……もしかして……」
 考えるまでもなかった。
 ここに誰かが居るとなれば、もうあの人しか居ない。
「……フランさん、ですか?」
 確信は持っていたが、控えめに話し掛けた。
 だが、
「……………………」
 答えは、すぐに返ってこなかった。確信していた俺の心が、揺らぎ始める。
 数秒経って、暗闇から聞こえたものは、
「フラン……」
 呟くような、小さな独り言だった。
 俺はその言葉を聞いて、慌てて確認に入る。
「ち、違ってましたか?」
「んーん、あってるよ」
「…………」
 相手が何を思っていたのか、さっぱり分からなかった。続けるはずだった俺の言葉も、忘れてしまう。
 今の返事で、向こうに居る人物が、妹さんだと知ってから、
「えーと……」
 それでも何かを言おうとして、頭の中で思想を巡らせるが、
「……………………」
 結局は言葉が詰まって、何も言えなくなっていた。
 実際に会ったら、こうしよう、ああしようと、頭の中でシミュレーションを重ねたつもりだったのだが、この努力は全くの無駄となってしまった。
 俺は必死になって、言葉作りに頭をフル回転させている時、
「ねぇ、みえないの?」
 先に沈黙を破ってくれたのは、妹さんだった。
 驚きながらも、俺は一度頷き、素直に答える。
「これだけ暗いと、何も見えないです」
 向こうの空間から”ふーん”と微妙に納得したような声を上げて、
「あかるければ、みえるの?」
 そんなことを聞かれた。
 俺は深く考えずに、
「明るければ、見えると思います」
 当たり障りが無いように答えた。

 すると、


43


 黒が消えた。

 代わりに映ったものは、白。
 全ての光景が、一瞬で白に染まり、俺の目を眩ませた。

 数秒経つと、次第に目が慣れ始め、
「え……?」
 俺の前に、見知らぬ女の子の姿を捉えた。
「これで、みえるの?」
 突然の出来事に俺は混乱していたが、女の子の言葉を何とか理解して、
「……ああ、はい。見えます……」
「ふーん……? これでみえるなんて、……へんなの」
 女の子は小さく呟き、人差し指を立てて、くるくると円を描いていた。
「…………」
 一方俺は、黒の世界に光が当てられ、目に映る情報の処理に対応していた。
 まず、先に目に映ったものは光源だった。
 女の子の指先に、小さな球体が浮かんでいて、そこから光が溢れていた。
 その球体は、激しく燃える炎を圧縮したような作りになっていて、どういう原理で炎を発しているのか、どういう原理で宙に浮かんでいるのか、どういう原理で球体の形を保っているのか、何一つ理解できなかった。
 しかし、
「…………」
 その炎の塊は、謎以上に、とても綺麗なものだった。
 赤とオレンジと黄色の炎が混ざり合って、炎の中で激しくうごめくその姿は、俺の芸術的感性を刺激するのに、十分なものであった。
 見ている内に原理とか仕組みとか、そういうものはどうでも良くなってきて、時間も目的も忘れて、あの綺麗な炎の塊を見たかった。ただずっと、見て居たかった。
「…………」
 その小さな願いを、打ち砕いてくれた存在が、俺の前に座っている女の子だった。
 正座の形を崩して、楽そうに座っているその女の子は、あの吸血鬼――レミリアさんの姿とよく似ていた。
 例えば、服装について。
 女の子の服装は、ピンクの色で目立っていたレミリアさんの服装を、赤色で置換したような服装になっていて、フリルだらけの赤のブラウスにスカート、大きなピンクのリボンを腰に巻いて、後ろに蝶々の一部を覗かせていた。部分部分、若干違う点はあるが、赤の色とピンクの色を反転している以外は、ほとんどお揃いに近い。
 体格についてもそうだ。
 女の子の体格は、レミリアさんとほとんど変わらない様子だった。見た目だけで年齢を判断すると、十歳前後にしか見えない。他にも、雪のような白い肌、透き通るような赤い瞳と、レミリアさんの特徴をいくつか共有していた。レミリアさんの厳しい目付きを緩めると、ああいう感じになるのだろうか、可愛らしく見える。
「…………」
 流石に姉妹と言うべきだろうか。レミリアさんと似ている点が数多くあるが、見た目だけでも、似ていない点はいくつか見受けられた。
 例えば、髪の色について。
 女の子の頭には、フリルだらけのピンクの布地に、赤のリボンが付いている柔らかそうな帽子を着用していて、そこから髪の毛が溢れていた。レミリアさんの髪の色が青色だったのに対し、俺の前に座る女の子は金色の髪の毛だった。その髪の毛は、微細の極地とも言えるほどの繊細さが、この距離からでも十二分に伝わり、炎の光に照らされて、黄金のようにキラキラと輝いていた。髪の長さはレミリアさんよりも長く、髪の毛を頭部の左側に纏め、長く垂らしていた。
 宙に浮かぶ炎の塊、俺の前に座る女の子、黄金のように輝く金色の髪、見るもの全てが真新しいものばかりだが、俺の視線は、ある”部位”へと完全に固定されていた。
「……あれは……」
 俺はそれを見て、無意識に小さく呟いた。
 先に存在している”それ”は、レミリアさんとは似ても似つかない異質な形をしていた。
 今まで出会った吸血鬼は、レミリアさんだけだ。
 俺の前に座る女の子が同じ吸血鬼ならば、レミリアさんと同じものがあるはずだった。
「…………?」
 確かにそれはある。
 あるのだが、違う。
 明らかに違う。
「……翼?」
 そう、翼のことだ。
 レミリアさんは、骨と皮で構成された大きな黒い翼だった。遠くから見ると分かりにくかったが、実際に至近距離で見たときは、生々しく、凶悪な姿をしていた。
 一方、目の前に居座る女の子の翼は、左右に黒い”枝”らしきものが不規則に折れ曲がりながら伸びていて、人為的に加工したとしか思えない”宝石”のようなものが、等間隔に垂れ下がっていた。
 お洒落のつもりなのだろうか。空を飛ぶために翼が付いているとは思えなかった。というより、あの形状で空を飛ぶのは物理的に不可能だろう。レミリアさんの翼と比べると幾分目に優しい構成だが、その異質な形にどうしても視線が行ってしまう。というより、あそこまで異質な形をしていたら、もはや翼とは呼べないだろう。”背中に刺さった何か”と表現した方が正しいのかもしれない。
 更に観察を進めると、”宝石”の色がそれぞれ異なっていて、”宝石”の数は片方だけで七個、両方合わせると十四個並んでいることに気づく。”枝”と”宝石”で構成されたその翼は、髪の毛と同じく、炎の光に照らされてキラキラと輝いていた。見れば見るほど不可思議な光景であり、見れば見るほど美しい光景でもある。
 髪の色と翼がレミリアさんと違うとしても、あまりにも共通点が多すぎて、一目で姉妹だと判断できた。この女の子こそ、レミリアさんの妹、フランさんであることに間違いないだろう。
「あなたはだれ? どうしてここにいるの? なんでわたしのなまえをしってるの?」
 妹さんは手の先にある炎の塊を回転させたり、膨らませたりとしながら、俺に話し掛けた。どう見ても、どう考えても、あの炎の塊は、妹さんが自由自在に操っているようだった。
 一瞬、炎の塊の動向に気を取られて忘れそうになったが、すぐに質問されたことを思い出し、何とか言葉を作って答える。
「俺の名前は、……一応RABIと呼ばれています。それで」
「らび?」
 言葉を続けようとした矢先、妹さんが割り込んだ。
 俺は一度頷いて、
「はい。RABIです」
「ふーん? ……へんななまえ」
「……………………。えっと、レミリアさんにお願いされて、ここに来ました。なので」
「おねえさまが?」
 意外だったのか、妹さんは驚きの声を上げた。
 俺の言葉に割り込んだその瞬間、妹さんが操る炎の塊が少し崩れたかのように見えた。
 妹さんの質問に、俺は肯定する。
「……はい。そうです。フランさんの名前を知ってるのも、レミリアさんに教えて貰ったからです」
「……おねえさまが……」
 妹さんは小さく呟いた。
「…………」
 そして、質問を言い終えてしまった俺は、どうすることもできず、

「……………………」
「……………………」

 俺と妹さんの会話が、ここで止まってしまった。
 妹さんは俺への視線を外し、俺のことを全く興味が無いのか、炎の塊の操作に夢中になっていた。
 俺は炎の塊へ視線を移して、
「…………」
 何を言おうか頭の中で考えながら、黙って眺めていた。


44


 火遊びをしていた妹さんは、両腕を前に差し出すと、炎の塊が二つに別れた。
 片方は球体の形を作り、もう片方は激しく燃える炎となった。
 二つの炎で、より明るく付近を照らした。
「…………」
 しばらく眺めていると、二つの炎が少しずつ左右に離れていった。
 二つの炎の移動が止まった時、妹さんの右手には燃え上がる炎が、左手には球体の形をした炎があった。
 妹さんは右手をゆっくりと持ち上げた。燃え上がる炎も、妹さんの動きに合わせて動いていく。
 そして、妹さんは開いていた右手を、力強く握り締めた。動きに反応したのか、燃え上がっていた炎は、弾ける様に崩れて消えていった。
 一つの炎が消えた事で、付近の明るさが少し落ちた後、
「それで、なにしにきたの?」
 妹さんは俺に視線を向けて、そう言った。
「……え? はい。えっと……」
 不意の質問に、言葉が詰まる。
「…………」
 俺は素直にそのまま言うべきか、それとも少し遠まわしで言うべきか悩み、
「遊びに来ました」
 結局、前者を選んだ。少々馬鹿正直過ぎるような気がするが、他に言葉が思い浮かばなかった。
 妹さんは俺の言葉を聞いて、
「あそびにきたんだ……」
 そう言った後、ゆっくりと立ち上がった。
 そして、
「うん! わたし、ひまだったの! あそぼう!」
 嬉しそうに声を上げて、屈託のない特上な笑顔を見せてくれた。
 妹さんの意外な反応に、少々驚いたが、
「…………ははは」
 同時に安心した所為か、その笑顔に釣られて俺も笑い、
「……よし、遊ぼうか」
 少し言葉を崩して、妹さんに同調した。


45


 妹さんが立ち上がったので、俺も立ち上がろうとしたのだが、
「いっ!!」
 半分ほど腰が上がった時点で、激痛が走った。
 俺はその痛みに耐え切れず、中腰の姿勢のまま後ろに倒れる。
 立ち上がったときの痛み、腰と床が接触したときの痛み、二つの痛みが苦い表情を作らされ、
「…………」
 俺は無言のまま、必死に痛みを堪えていた。
 どうやら、硬い床に長時間浸かっていたためか、酷く腰を痛めていたらしい。
 そんなこんなで、腰痛で苦しんでいる俺に、
「たてないの?」
 レミリアさんの妹、フランさんに声を掛けられた。
「いや……大丈夫、大丈夫……です」
 痛みに堪えながらも返事をして、
「…………っと」
 腰に負担が掛からないように、今度はゆっくりと立ち上がった。
 動作の途中に来る強烈な痛みは、気合と根性で何とか乗り切った。

「さて、何して遊びたいですか?」
 立ち上がった俺は、妹さんに話し掛けていた。
 俺は妹さんのやりたいことを聞いて、そこから上手くコミュニケーションを取れればと願っていた。
 妹さんは即座に答える。
「アレをやろう!」
 アレって何だ?
「アレって?」
 心の中で思っても仕方がないので、実際に聞いてみた。
 妹さんは俺の質問に、”なんで、そんなことを聞くの?”と伺わせるような、解せない表情をしていた。俺の知らない間に、”アレ”という一つの単語だけで、誰しも伝わってしまうほどの有名な遊びが存在していたらしい。何だか申し訳ない気持ちになる。
 俺は妹さんの答えを期待していたのだが、
「んー? だんまくごっこだよ?」
 帰ってきた返事は、意味不明な言葉。
「…………はい?」
 聞き慣れない単語が急に吹き込まれて、俺の脳みそは思考停止。何とか妹さんの言葉を理解しようと、頭をフル回転させたのだが、全くイメージが浮かび上がらなかった。
 結局、妹さんが言った言葉が理解できず、”もう一度言ってください”もしくは、”どういう意味ですか?”という意味を込めて、妹さんに返事をさせてもらったのだが、妹さんは止まらない。
 代わりに返ってきた返事は、
「すぐにこわれちゃ、やだよ?」
 またもや、意味不明な言葉。
「え? どういう――」
 どういう意味ですか?
 そう聞こうとした矢先、俺の言葉が止まる。
 妹さんは小さく膝を折り曲げて、後ろに飛んだ。
 たった一度の踏み込みで、現在の世界記録を塗り替えてしまうのではないかと思わせるほど、大きく後ろに後退して着地した。宙に浮かぶ炎の塊も、妹さんに付いて行くかのように、奥へと進んだ。
 そして、

「なっ――!」

 目の前の『光景』に、俺は絶句した。
 俺は両の手を前に伸ばし、”ちょっと待って”のジェスチャーの合図を出す。
 だが、効果は無かった。妹さんは止まらない。
「ちゃんと、よけてね?」
 妹さんの幼い声が、この暗い空間を響かせた。
 言ってる言葉は聞こえたが、言ってる意味が理解できない。
 俺は、今の状況を理解しようと頭を必死になって動かして、
「待った! ちょっと待った!」
 同時に、妹さんの行動を制止するため、大きく声を上げた。
「いくよー!」
 それでも、妹さんは止まらない。
 妹さんはどこまでも笑顔で、最後まで嬉しそうな声を上げて、その小さな指先を、俺に向けて指した。
 すると、妹さんの言葉と小さな指先に反応したかのように、俺の目の前に広がる『光景』が――たった一つの炎の塊が、妹さんの周りの空間を埋め尽くすほどの、無数の炎の塊に分裂して――俺に向かって飛んできた。
「あ……」
 腰が痛いとか、体力が弱ってるとか、距離が近いとか、そんなものは関係無かった。
 全盛期の俺でも、事前にこうなることが分かったとしても、俺に向かって飛んでくる炎の塊を、避けれる自信は無かった。
 豪速で向かってくる炎の塊は、全く動かなかった俺の体に直撃した。
 炎の塊は、俺の体に触れると同時に、球体の形が崩れ、爆発する。
 結果、十六夜さんに借りた着物を破裂させ、俺の皮膚をも破裂させた。
 炎の塊は、次々と俺の体に着弾し、爆発した炎で俺の体を包んでいく。
 ほとんどの炎の塊は触れた瞬間に破裂したが、中には破裂することなく、俺の体内へ突き進んだ炎の塊もあった。
 その炎は皮膚を軽々と突き破り、体内にある”モノ”をぐちゃぐちゃに掻き乱した後、反対側の皮膚を突き破って後ろに飛んで行った。その濃密な炎の塊は、複数存在していた。
 炎の塊による破裂の反動で、俺の体は後ろに押し倒され、床と激突。
 俺が倒れた後も、誰もいない空間に、次々と飛んで行く炎の塊の姿が見えていた。
「うっ……がっ、あ……、……げぼ」
 次の声を出せるようになったのは、この時からだった。
 仰向けに倒れた俺は、視線を精一杯動かして状況を理解しようとする。
「あれ? ちゃんとよけてよー」
 理解する前に声が聞こえた。
 妹さんの声だ。
 この聞こえ方から察すると、妹さんは近くに寄って来てくれたらしい。
「がっ、ハァ……」
 天井が、何故か燃えていた。
 所々、砕かれた跡が見える。
 妹さんの姿を捉えようと、視線と体を動かしたのだが、
「うっ……げほ、ごっ……」
 光が見えるだけで、物の輪郭が全く分からなかった。
 さっきまで見えていたはずの天井も見えなくなって、全ての風景が、ぼやけて見える。
 俺の目が、霞むばかりだ。
「ごぼっ……あ……、う、でが、腕が……」
 目を拭こうと、右腕を持ち上げて違和感に気づく。
 目が霞んでも、俺の体の一部はよく見えた。
 今、見えるものは、骨と、肉と、
「げっ、がっ……血が……、げほっ……」
 血。
 俺の右腕から、血が吹き上がっていた。
 腕の断面から、骨と肉の姿が見える。
「つぎは、ちゃんとやってね」
 また、妹さんの声だ。
 俺は視線を動かすと、奇跡的に妹さんの姿を捉えた。
 首を少しだけ動かし、妹さんの方へ顔を向けた。
「フラ、ン、ちゃん……なん、で……?」
 声が、なかなか出ない。
 俺の声、届いてるのかな。
「あれ……? もう、こわれちゃうの?」
 フランちゃん、何か言っているのかな。
 何も、聞こえないや。
「ハァ、がっ、ハァ……」
 目も見えなくなってきた。
 体もやけに寒い。
 俺、死ぬのかな。
「なんだ、つまんないの……」
 死ぬ?
 俺が?
 ここで?
「死に、たく、な、い……死に……たく、な……い……」
 嫌だ。
 死ぬの怖い。
 死にたくない。
「もう、あなたいらない」
 死にたくない。
 死にたくない。
 死にたくない。
「………………」
 死にたくない。
 死にたくない。
 死にたくない。
「ばいばい」
 死にたくない。
 死にたくない。
 死にたくない。
「………………」
 死にたくない。
 死にたくない。
 死にた――。

 ――。

 ――――。

 ――――――。


46


 静かだ。
 何も聞こえない。
 何も感じない。
 俺は、死んだのだろうか。


47


「………………」

 ゆっくりと目が開いた。
 目に映るもの、肌に触れているもの、それらを認識する前に、
「あら、もう目が覚めたの」
 声が聞こえた。
「流石、”秘薬”と呼ばれるだけあって、効果は凄まじいわね」
 女性の、大人びた声。
「…………っ!!」
 声に反応して体を動かそうとしたが、強烈な痛みが走る。
「体を動かさない方が良いわよ。動かない体を動かそうとしても、体が痛むだけよ」
 また、声が聞こえた。
 言われるまでもなく、先程の痛みで、体を動かす気力が無くなっていた。
 思考力が大きく落ちている中でも、”誰かが近くに居る”ということだけは理解できた。
 俺は、何かを言うために一度息を吸って、
「…………ここは――」
 ここは、どこですか?
 そう言おうとしたが、最後まで言えなかった。
 言葉の途中、急に胸が苦しくなり、数回咳を吐く。
「げほっ……ッ……!」
 ただの咳でさえ、激痛が走る。
 咳を止めたくても、吐き出される。
 そして、痛む。
「……ハァ、はぁ……ッ!」
 何をやっても、体が痛い。
 何もしなくても、体が痛い。
「無理に、話さない方が良いわよ。……貴方は今、半分死んで半分生きている状態……確か、”半死半生”という言葉があったわね。貴方は今、その状態よ」
 淡々と話されるその声の方へ、視線を向けた。
「…………?」
 全ての風景が、ぼやけて見えた。
 薄い光、暗い色、目に映るものはそれだけだった。
 物の輪郭も定まらず、何を見ているのか分からなかった。
 そこに人が居るのかどうかも、分からなかった。
「…………」
 でも、声だけは――。
 その声だけは、聞き覚えがあった。
 俺は、とある人物を思い出し、その名前を言う。
「…………十六夜さん?」
 痛まない程度に、弱々しい声で、問い掛けた。
 俺の声は、風船の空気が抜けるような音に近かったが、
「……咲夜は休んでるわ」
 俺の言葉が伝わったようで、返事が返ってきた。
 そして、答えは違っていた。
 どうやら、俺の耳はおかしくなっているらしい。
「…………」
 十六夜さんのことを、『咲夜』と呼ぶ人物は相当限られていた。
 俺は一瞬、その人物が誰なのかを思い出せず、動かない脳を何とか働かせ、数秒後に思い出す。
 名前は確か、パチュリー。
 下の名前は思い出せない。
「後で、咲夜に感謝しなさい」
 唐突に、話し掛けられた。
 俺は”何故?”と聞き返したかったが、声を出す余力が無かった。
 だが、聞くまでも無く、女性の言葉が続く。
「咲夜は、貴方のために、力を使い果たしたのよ」
 理解できなかった。
 十六夜さんは、俺に何かしてくれたのだろうか。
 いや、それ以前に感謝したいことは沢山ある。
 でも、あの時に十六夜さんは何かしてくれたのだろうか。
 あの時?
 あの時、って何だ?
「………………」
 ああ、そうだ。
 あの時、俺は、妹さんに――フランちゃんに、殺されたはずなんだ。
 何故、俺は生きている?
 殺された記憶が残っているのに、どうして?
「時を止めて、咲夜自身が動くことは、然程負担は掛からない。でも、止めてる”モノ”を動かそうとするならば、それ相応の負担が掛かるのよ」
 殺された記憶が残っているというのも、変な話だけど。
 それでも確かに、俺は殺されたはずなんだ。
 それなのに――。
 殺されたはずなのに――。
 どうして、俺は生きているんだろう。
 俺の血が、大量に飛び散っていたところを間近で見ていたのに。
 どうして、俺は生き残っているんだろう。
「質量が、大きければ大きいほど……、時の流れに、深く関与しているものであればあるほど……、咲夜の負担は、それに比例して大きくなるの」
 フランちゃんが言っていた”だんまくごっこ”というのは、”殺し合い”という意味だったのだろうか。
 あんなに嬉しそうな顔をして。
 あんなに楽しそうな顔をして。
 フランちゃんのやりたかった事は、”これ”だったのか?
「つまり、貴方という”人間”を動かしたことで、咲夜は過労で倒れたのよ」
 ……怖かったな。
 すごく、怖かった。
 フランちゃんとまた会った時、同じように立ち向かえるのかな。
 結局、傷付けられただけで、ちっとも話ができなかったし、ちっともやりたいことができなかったし、……俺は何のために、会いに行ったんだろう。
「いいえ、違うわね……。ただ、貴方一人を動かすだけなら、咲夜は倒れない」
 絶対に大丈夫。
 絶対にいける。
 そう思っていたのに――。
 俺は何をやっていたんだろう。
「咲夜が倒れた大きな原因は、妹様と貴方が居た空間の時を止めたから」
 顔も素性も知らないのに――。
 どうして、あんなに自信を持っていたんだろう。
 閉じ込められている。
 暗闇の道を進む。
 その時点で、ある程度予測ができたはずなのに――。
 どうして、気づかなかったんだろう。
「妹様の通じる道は、私の魔法で”理(ことわり)”を狂わせている。つまり、あの道は、”時間”という”理”が大きく外された一つの世界になっているのよ。咲夜は、時間を止め続けることに、苦労したのでしょうね」
 気づいていたら、俺はどうしていたのかな。
 逃げていた?
 進んでいた?
 それとも、何か別の手段を考えていた?
 気づいていたら、何か変わっていた?
「…………」
 もう全部終わったことだ。
 考えるだけ、無駄か。
「……一つだけ、教えてあげるわ」
 フランちゃんは、今どうしているのだろうか。
 俺がこうして生きているということは、俺を殺すつもりは無かった、ということだろうか。
「…………」
 違うだろうな。
 あれだけの傷を与えたら、誰だって死んでしまう。
 フランちゃんは、そこを理解して、俺を傷付けた。
 つまり、完全に殺すつもりだった。
 普通に考えれば、そう思うしかない。
 他の考えは……、特に思い浮かばない。
「この館は、強い魔力で満ち溢れているの。抵抗力の無い人は、その場で倒れてしまうほどね」
 俺がこうして生きてるのは、誰かが助けてくれたということか?
 ……助けれくれたから生きているんだよな。
 一体誰が?
 ああ、そうだ。
 十六夜さんが俺を助けたと、さっき言っていたな。
 なんで?
 どうやって?
「…………」
 そういえば、十六夜さんは”時を止める能力”、だったか。
 具体的にどういう能力なのか、分からないけど。
 それを使って、俺を助けてくれたのだろうか。
 ……俺の記憶に間違いが無ければ、十六夜さんは俺を置いて行ったはずなのに……何故?
 今思えば、十六夜さんが個人で動くというのは、立場上ありえないことかもしれない。
 そう考えれば、事前に俺を助けるように”命令”があったのか。
 それとも、十六夜さんの”気まぐれ”なのか。
 もしくは、何かの”ついで”なのか。
 ……俺を助けた理由が、分からない。
「…………」
 まぁ、そんなことはどうでもいい。
 どちらにしろ、こうして生きているんだ。
 十六夜さんのおかげだと言うのなら、後でお礼を言いに行くべきだろう。
 実感は全く沸かないが。
「魔力に対する抵抗力を持たない貴方が、何故自由に館内を歩けるのか……疑問に思ったことは無い?」
 俺の体は、今どうなっているんだろう。
 体が全く動かない。
 体の感覚も分からない。
 布団を掛けられて、俺の体が少しも見えない。
「貴方が、初めて目覚めた時に居た部屋は、私の魔法で魔力が流れないように結界を張ってあったの」
 あの時、俺の右腕、無くなっていたんだよな。
 今も思い出す。
 突起していた、骨。
 生々しく見えた、肉。
 飛沫を上げていた、血。
 全てが、本物だった。
「そして、咲夜は目覚めた貴方を運んで、”清めの水”に体を浸けさせて、館の魔力に備えていたのよ」
 もし、右腕が無くなっていたら、ネットゲーが難しくなっちゃうな。
 左利き用のマウスを買ったとしても、慣れるまでは大変だろうし。
 キーボードを打ち込むのも、片手だとかなり遅れるだろうし。
 そもそも、両手が無いとできない操作が沢山あるし。
 考えれば考えるほど、嫌になってくる。
「貴方……。あの部屋から抜け出そうとしたらしいけど、危なかったわね」
 ネットゲーができなくなったら、これからどうすれば良いんだろう。
 今までそれだけを生き甲斐としてやってきたのに、どうすれば良いんだろう。
 別のゲームをやるのも、嫌だしな……。
 あのゲームにあれだけの時間を捧げたのに、今更、別のゲームは考えられない。
 かといって、あのゲームを続けるのも難しい。
 そもそも、家に帰れるかどうかも分からない。
 最悪だ。
「咲夜が付き添っていたのも、貴方を守るためよ。”清めの水”だけでは不十分だったと、判断したのでしょうね」
 どこで、道を踏み間違えたんだろう。
 仕事を引き受けたのが間違いだったのか。
 素直に”人間の里”とやらに行くべきだったのか。
 レミリアさんを信じたのが仇になったのか。
「”清めの水”もそう長く持つものでは無いわ。……動けるようになったら、この館から出て行きなさい」
 考えても分からない。
 考えても意味が無い。
 後悔しても、もう遅い。
 どれだけ足掻いても。
 こうなるのが――。
 こうなってしまうのが――。

 『運命』

 ――という奴か。





[31015] 第三章後
Name: しむらむ◆f31c7ff0 ID:6ec63e55
Date: 2012/01/06 23:55
48


 紅魔館の地下深くにある図書館。
 大量の蔵書に囲まれている閉鎖的な空間に、男と女が居た。
 床に清潔な白の布団が敷かれ、そこに眠る男。
 その近くに、椅子に座っている女。
 男は、柔らかい綿布で全身を巻いて、毛布が掛けられていた。
 女は、分厚い本を片手で持ち、一枚一枚ページをめくっていた。
「……………………」
「……………………」
 お互い、その場から動くことは無かった。

 静寂な時が流れる中、先に沈黙を破ったのは男の方からだった。
 短く、強く、苦しそうに吐き出される呼吸。
 異変に気づいた女は、本から視線を外し、床に眠る男を見た。
 無表情だった男が、苦い表情を作り、額に汗が溜まっている様子を伺えた。
 女は男に対し、何も手を出さず、ただ見ていた。
 男の呼吸が落ち着くと、ゆっくりと目が開いた。
 女は話し掛ける。
「あら、もう目が覚めたの」

 女は一枚一枚ページを開きながら、男に話し掛けていた。
 男の状態。
 十六夜咲夜が倒れたこと。
 倒れた理由。
 人体に影響を与える魔力のこと。
 そして、清めの水。
 女は事務的に、淡々と話し続けていた。

 本を読み終えて、女は久しく男に視線を向けた。
「……眠っていたのね」
 女は長い息を吐き、手に持っていた本を床に置いた。
「死人同然の人間に話し掛けるなんて、馬鹿だったわ」
 女の近くにある机に手を伸ばし、高く積み重ねた本を一冊取る。
「さてと」
 本を開いた。


49


「は、ははは……」
 俺は笑っていた。
 実際に確かめなくても、なんとなく分かっていたことだが、
「やっぱり……」
 腕が無かった。


50


 目を覚ましたのは数分前のこと。もしくは、目を覚ましてから数秒後のこと。
 俺は、上半身だけを起こして、
「…………」
 右腕を見ていた。
 肌を覆い隠すほどの綿布を巻かれたその腕は、形が大きく崩れていた。
 そして、俺は笑う。
 肘の先にあったはずの”モノ”が無かったからだ。
 俺は、左腕を使って、右腕の先端を触ろうとしたが、
「…………」
 痛々しい予感が脳内に過ぎり、触れる直前になって静止した。
 俺は大きく息を吐き、そして再び見る。
「……っ……クソッ!」
 やはり、俺の右腕は、あるべきはずの”モノ”が無かった。
 綿布で肌を隠されても、見てからすぐに気づいた。
 肘までは、しっかりと腕の形を保たれていたが、
 その先は、どう見ても、何度見ても、先が無かった。
 肘から少し先に、厚手に巻かれた綿布の結び目が見える。
 この結び目を解いたら、一体どういう姿を見せるのだろうか。
 この右腕を触れてみたら、一体どういう感触をするのだろうか。
「…………」
 俺はそう考えるだけで、実行することは無かった。

 俺は沢山の時間を使って、右腕をしばらく眺めていた。
 腕を眺めている時、独特な香りが鼻に注がれる。
 俺は初めて顔を上げた。
「……ここは」
 今になって居場所を確認しようとして、
「図書館?」
 すぐに判断できた。

 紙の匂い。
 薄暗さ。
 じめったい空気。
 そして、俺を取り囲むような数々の本棚。
 過去に通った道で、印象深かった通り道の一つ。
 十六夜さんは、この場所を”図書館”と紹介してくれた、あの場所だ。
 俺は辺りを見渡した。
 というより、左方向へ顔を向けただけだった。
 俺の目に映ったモノは、椅子と、机と、女性の姿。
 しかも、かなりの至近距離。
 腕を伸ばせば、ギリギリ届きそうな距離。
 俺はこの瞬間まで、全く気づけなかった。
 視線を大きく見開くと、あっちこっちに本を積み重ねていることに気づいた。
 見たもの、見えるものを少しずつ理解しながら、本に囲まれている女性に視線を合わせる。
 女性は、本を読んでいた。
 紫の服、紫の帽子、紫の髪の毛、
 この特徴的な人物、見覚えがありすぎた。
 そう。この図書館で出会った、パチュリーさんだ。
「あのー…………」
 静かに本を読んでいるパチュリーさんに、恐る恐る声を掛けた。
「…………」
 反応は薄かった。
 俺の呼び声に反応したものは、本のページをめくる動作だけ。
「あのー」
 声量を上げた。
 パチュリーさんはピクリとも動かない。
「パチュリーさん」
 更に声量を上げ、名前を呼んだ。
 パチュリーさんは動いた。
 本のページをめくる動作だけ。
「パチュリーさん、そのー……聞こえますか?」
 やはり、反応が無かった。
「……えっと……」
 大声を上げるか、腕を伸ばして服を引っ張るか、無駄に物音を立てるか。俺は少し考ていたが、
「……………………」
 邪魔するのは良くないだろうと思い、止めた。


51


 ――。

 ――――。

 ――――――。

 今だ。

 パチュリーさんは、手に持っていた本を床に積み重ね、机に置かれている本に手を伸ばした。その時、
「パチュリーさん!」
 俺は声を上げた。
 パチュリーさんは伸ばしていた手の動きが止まり、最小限の動作で俺を見る。
「…………」
 一瞬俺を見ただけで、パチュリーさんは何も言わずに止まっていた手が再び動き出した。
 そのまま、本を一冊取って、抱えるように本を持ち直した後、
「……大声を上げなくても聞こえるわよ。何?」
 不機嫌な表情を俺に見せて、パチュリーさんは答えた。
 その表情に、やや威圧されながら、俺は言う。
「一体、どうなっているんですか? いや、どうして、俺は生きているんですか?」
 パチュリーさんは俺の質問を聞いてから、手に持っていた本を開いた。
 そして、パチュリーさんの視線が忙しそうに動き始めてから、口が開く。
「”秘薬”よ」
 短い返答だった。
「ひやく?」
 パチュリーさんは一枚ページをめくる。
「……一般的に言うなら、ただの薬ね」
 俺は少しだけ考えて、
「ただの薬が、あれだけの怪我を――」
 話しながら、
「あれだけの怪我を、簡単に治せるはずが無い……」
 ”あの時の事”を思い出していた。
 パチュリーさんは一枚ページをめくり、少しだけ俺を見る。
「だから、”秘薬”よ」
「…………」
 秘薬だから治せた? 物理的、というより現実的に不可能だと思うのだが。
「それって一体、どういうものですか?」
 パチュリーさんは一枚ページをめくる。
「……同じことを言わせないで、ただの薬よ」
「…………」
 秘薬がただの薬?
 ただの薬があれだけの怪我を治す?
 あれだけの怪我を治すから秘薬?
 理解できない。
 理解できるはずが無い。
 パチュリーさんは一枚ページをめくる。
「レミィは限りなく”不老不死”に近い存在。でも、死角が無いわけでは無い。だから、あの薬があるのよ」
 何て聞くべきか悩んでいる俺に、ありがたい補足を頂いた。
 とはいえ、とても理解し難いものだった。
「……そう、ですか……」
 パチュリーさんの言葉にひたすら苦悩させられる。
 そもそも、不老不死という言葉、久しく聞いた。
「…………」
 いや、待て。
 不老不死?
 レミリアさんが不老不死?
 手も足も生えているのに、体の形が人間とほとんど変わらないのに、本質的にここまで違ってくるものなのか?
「…………」
 言い返せば、死角があるということは、”弱点がある”ということになるのか。
 不老不死と称された吸血鬼に、『弱点』か。
 在り来たりで言えば、十字架とか。
 ニンニクとか。
 日光とか。
 そんな感じになるのだろうか?
 でも、レミリアさんを間近で見た時のことを思えば、
「……弱点、か……」
 そんなものは、通用しそうに無いと思うが。


52


 しばらく、レミリアさんについて考えていた俺は、パチュリーさんに視線を戻した。
「…………」
 相変わらず、忙しそうに本を読んでいた。
 やがて、パチュリーさんは一枚ページをめくり、口が開いた。
「この館に、あの薬はほとんど残されていない。あれは、レミィに万が一のことがあった時のために、保管されていた薬なの。……それなのに、レミィは貴方に仕事をさせる保険として、ある事を私に頼まれていたの」
 そう言った後、パチュリーさんは俺を見る。
「貴方が瀕死の重症を負った時に、薬を使うように、と」
 睨み付けるような、鋭い目付きだった。
「……当時、私は反対したわ。希少な薬を、人間如きに使うために保管されていた訳では無い。貴方のために、あの薬は存在していた訳では無い。あの薬は、レミィのために使われるべきだった。……レミィにお願いされたとはいえ、実際に薬を使った時は、心を痛めたわ」
 パチュリーさんがそう言った後、再び本を読み始めた。
 一方、俺は、
「…………」
 ただ聞くことだけしかできなかった。
 聞きたいことを聞けず、言いたいことを言えず、時間だけが過ぎていく。
 パチュリーさんは一枚ページをめくる。
「……貴方を治療する時、薬の使用量を最小限に抑えさせて貰ったわ。だから、貴方の右腕は戻らない。妹様に貫かれた体は、一定の周期に激痛を感じるでしょうね」
 パチュリーさんのその言葉に、
「…………」
 今まで感じていた違和感を、正に直面していた。
 そう。俺は目覚めてから。

 全身に、妙な痛みを感じていた。

 激痛、とまでは行かないが、少しずつ蓄積していくような、鈍い痛みを感じている。
 不安と恐怖を感じさせる嫌な痛み。パチュリーさんの言う通り、何時の日か痛みが爆発すると思うと、凄く怖い。
 そしてそれは、避けられない。自分自身の体のことだ。何となく、分かる。
 パチュリーさんは一枚ページをめくる。
「……咲夜が、無理して貴方を運んだのも、薬の消費を抑えるためよ。長く放置すれば、薬の消費量が増えてしまうから」
 前にも、十六夜さんが俺を助けてくれた、という言葉に聞き覚えがある。
「…………」
 聞き覚えがあるはずなのだが、はっきりと思い出せなかった。
 仮に助けてくれたとしても、実感が沸かない。
 沸くはずも無い。
 俺の覚えている範囲では、十六夜さんは一切登場していないのだから。
 でも、こうして生きているということは、やはり助けてくれたのだろう。
 パチュリーさんは一枚ページをめくる。
「私は薬の消費を防ぐために、咲夜に助言を与え、貴方が貴方の意思で、ここから立ち去るように誘導するつもりだった。……でも、結局はレミィの思惑通り、貴方は貴方の意思で、妹様と会うことを選んだ」
「…………」
 何を言いたいんだ。
 そんなことを俺に言って、どうしたいんだ。
 俺がフランちゃんと会うのが、そんなに嫌だったのか。
 俺を助けたことが、そんなに不満だったのか。
 薬を使ったことが、そんなに後悔しているのか。
 そんなことを俺に言って、何になるというんだ。
 パチュリーさんは一枚ページをめくる。
「レミィは何としても、貴方と妹様を会わせたかったのよ。そのための代償は余りにも大きかったけれど、レミィの目的は達成したわ」
 そして、パチュリーさんは再び俺を見て、
「だから、動けるようになったら、この館から消えなさい」
 パチュリーさんは一枚ページをめくり、
「ご苦労様」
 短く言った。


53


 この瞬間から、俺は見放されたのだろう。
 一切俺を見ず、一切俺に話し掛けず、パチュリーは黙々と本を読んでいた。
「…………」
 俺は何も言えなかった。
 芽生えた二つの気持ちが、俺の心情を複雑に狂わせる。
 一つは、感謝の気持ち。
 形がどうあれ、助けてくれたのは確かなようだ。
 命の恩人と言うべき人が、目の前に居る。
 本来なら、もっと、もっと、もっと、感謝しなければならないはず。
 常識的に考えれば、今すぐにでも、パチュリーに感謝の言葉を言うべきなのだろう。
 でも、素直に”ありがとう”とは言えないでいる俺は、もう一つの気持ちによって、それを阻害されている。
「…………」
 憎悪の気持ちだ。
「さっきから話を聞いていれば……」
 俺はパチュリーの方へ向かって、
「どれも、これも……」
 包帯だらけの体を震わせながら、
「全部、お前達の都合を並べてるだけだ!」
 怒鳴るように、強く叫んだ。
「そうね」
 返事は早かった。
 パチュリーは、読み掛けの本を閉じて、
「だから、何?」
 鋭い視線と共に、短い言葉を放たれる。
「ッ……!」
 シンプルな問い掛けに俺は言い返せないでいると、パチュリーは一息吐いた。
「貴方は人間、私は魔法使いよ。しかも、貴方は怪我をして、自由に体を動かせない。力の差は、比べるまでも無いわね」
 パチュリーは、浮き上がるように立ち上がった。
 重力という概念が、完全に壊れている瞬間を見せ付けられる。
 高くなった視線は、そのまま俺を見下すように睨んでいた。
「一つ、教えてあげるわ」
「…………」
 今度は何だ。
 誰にも理解できるように、分かりやすく言ってくれ。
 少なくとも、俺が理解できるように言ってくれ。
「この世界では、弱者は強者に従わなければならない」
 分かりやすかった。
 すぐに理解できた。
 ここまで、はっきりと言われると何も言い返せない。
「…………」
 パチュリーの言う通り、この世界は俺の知る世界では無い。
 この世界には、この世界なりのルールが存在しているのだろう。
 しかし、このタイミングでその事を言ってくるということは――。
「貴方にとって、どんなに理不尽なことでも、弱者である以上、何をされても文句は言えないのよ」
 パチュリーは、一歩だけ俺に近づいた。
 右腕をゆっくりと上げて、俺の顔に合わせて止まる。
「…………」
 嫌な予感がした。動かないこの体に恨みたくなった。
「もう一度言うわ。動けるようになったら、この館から消えなさい。目障りだわ」
 淡い光が、パチュリーの右手から浮かび上がった。
「貴方の居た世界では、法律や秩序を立てて、均衡を保たれていたみたいだけど……」
 俺は本能的に理解する。
「この世界では、力で均衡を保っているのよ。……残念だったわね」
 あの光は、俺に害がある光だ。
 動くな。抵抗するな。そう言った意味合いが含まれているのだろう。
「……私も、レミィには強く逆らえないからね……」
 小さく聞こえたその言葉に、興味は無かった。
「――ら……」
 弱者だから従え?
 文句は言うな?
 ふざけるな。
「だったら!」
 俺の一声で、パチュリーの右手がピクリと反応する。
 俺は叫ぶ。
「俺はまだ、レミリアさんとの約束を果たしていない!」
「……? レミィの目的は達成したわ」
 パチュリーは、あからさまに怪訝な表情になった。
 俺は残った左腕を胸に当てて、パチュリーに訴える。
「いいや、まだだ! 俺はまだ、フランちゃんと遊んでいない!」
 パチュリーの反応は、分かりやすかった。
 一息吐いた後、つまらなそうな表情をしていた。
 相当呆れているのか、俺に向けていた右手を静かに下ろして、
「……貴方、勘違いしているようだけど、あれが妹様の遊びなのよ」
 新たな事実を、また一つ知ることになった。
 パチュリーの言葉が続く。
「いいえ、違うわね。”妹様と遊ぶ”というのはあくまでも口実だけ。目的は、貴方と妹様の接触よ。そして、それはもう済んでいる」
「…………」
「それに、妹様を”フランちゃん”なんて下品な呼び方を止めなさい。聞いてるだけで不愉快だわ」
「…………」
「……まぁ、いいわ。少しでも”生”を堪能したいなら、この館から出て行くべきよ」
 この世界に迷い込んでから、考える時間は大きく増えていた。
 考える力も、ここまで必要になるとは思わなかった。
 あらゆる場面で、何手も何十手も先のことを考えなければ、自分の命が危ない。
「…………」
 今回もそうだ。
 この短い時間内で、様々な考えを脳内に巡らせる必要があった。
 時間は圧倒的に足りなかったが、俺は考えに考えて――。
 そして、一つの結論を出した。
「分かった」
「……意外と素直なのね」
「その方が良いなら、そうするだけだ」
 俺は左腕に渾身の力を込めて、床に押し込んだ。
 痛む足を強引に動かし、掛け布団を弾いて、立ち上がりを試みた。
「…………」
 パチュリーは何も言わなかった。
 表情の変化を見せず、俺の動きを眺めていた。
 俺が立ち上がるまで、然程時間は掛からなかった。 
「……でも、その前に」
 痛む体を堪えて、俺はパチュリーに問い掛ける。
「……何?」


54


 俺は、とある人の肩を借りて、とある場所に向かっている。

 俺のお願いは、パチュリーにとって、間違いなく不都合なものだった。
 許可を貰える可能性は低いと見ていたが、意外にもパチュリーは、あっさりと了承してくれた。
 俺のお願いとは、

「十六夜さんに、お礼を言いたい」

 それだけだった。
 次の活路を見出すためには、何としても十六夜さんと接触する必要があったからだ。
 俺は、パチュリーに十六夜さんの居場所を聞いた。
 パチュリーは呆れた様子で、
「言っても分からないでしょう? 案内を付けてあげるわ」
 そう言った。
 そして、その直後のことだ。
 パチュリーの背後から、”人影”が、突然映し出された。
「……!」
 見間違い、という訳では無いと思う。
 見落としていた、という訳でも無いと思う。
 たった今、パチュリーの背後に現れたとしか思えなかった。
「……………………」
 とは言っても、それらは重要なことでは無い。
 今、重要なのは、”誰か”が、”確実”に、そこに居る、ということ。
 動けない体で警戒している中、”人影”がゆっくりと、動き始めた。
 薄い光が当てられて、人影の正体が明らかになる。
 パチュリーの前へと現れたその人は、今まで出会った事が無い、新しい人物だった。
 今、道案内してくれている人が、その人だ。
 パチュリーは案内人と言っていたが、恐らく監視役も兼ねているのだろう。
 俺は一歩一歩、十六夜さんと会うために、廊下を進む。

 俺を案内してくれているその人は、異質な人物だった。
 パチュリーより背が高く、長い赤髪を長く垂らして、服装は、白のブラウス、赤のリボンタイ、黒のチョッキとスカートというシンプルな組み合わせ。シワを表に出さずに、ピッシリと着込んだ若い女性の人で、一見すると十六夜さんと同じぐらいの年齢に見える。
 そして、俺が異質な人物だと決定付けたものが、彼女の特徴であろう、”黒い翼”だ。
 レミリアさんと比べると小さいものだったが、彼女の背中には、骨と皮で構成された黒い翼が生えていた。そして、レミリアさんと違って、頭部の左右にも黒い翼が存在していた。
 最初は、面白い”羽飾り”と思っていたのだが、パチュリーの簡単な紹介を聞いてから、それが本物であることを理解する。
 ”黒い翼”が見えた時点で、レミリアさんと同じく”吸血鬼”だと思っていた俺は、彼女の名前を聞いた。すると、

「悪魔よ」

 パチュリーは極簡潔にそう答えた。
 俺は突っ込みを言うべきなのか悩んでいたが、パチュリーの言葉が続く。
「悪魔と言っても、悪魔の中では弱い部類に入るわ。”小悪魔”と言った方が正しいわね」
 パチュリーが何を言っているのか、すぐに理解できなかった。
「…………」
 悪魔?
 この人の名前が悪魔?
 ネーミングセンスが無いとか、そういう問題じゃない。
 俺の質問の意味をちゃんと理解していなかったのか?
 そもそも、なんで”悪魔”という単語が出てきた?
 パチュリーは真顔で冗談を言うタイプだったのか?
 それとも本気で言っているのか?
 ……いや、待てよ。
 俺の言い方が間違えたのか。
 パチュリーに名前を聞く時、”この人は誰?”という趣旨で聞いたのが、俺の間違えだったのか。名前を知りたいなら、”この人の名前は?”と聞くべきだったか。
 ということは、何だ。
 人名じゃないとなれば、種族?
 種族なのか?
 この人は、悪魔という種族なのか?
 ……吸血鬼の次は悪魔かよ。
 一体、この館はどうなっているんだ。
 頭が痛くなってきた。
 俺は悪魔の名前を聞き出そうとして、質問を投げ掛ける寸前に、
「咲夜に会いたいのでしょう? 早く私の視界から消えなさい」
「…………」
 パチュリーに阻害された。
 名前を聞き出すチャンスはまだあったのだが、パチュリーの気が変わるのを恐れて諦めた。必要とあれば、本人から聞き出せば良い。
 そして俺は、”悪魔”と行動することになった。

 さっきまでは、立つ事さえ困難だと思っていたのに、今は足を立てて――。
 さっきまでは、歩く事さえ不可能だと思っていたのに、今は足が動いている。
「…………」
 とは言っても、気力で歩き続けるというのは、本当に辛い。
 できれば、今すぐにでも横になって休みたい。
 でも、俺の左隣に居るこの人は”悪魔”だ。
 油断はできない。
 ……油断はできないのだが。
 俺は今、この人の肩を借りなければ、前に進めない。
 さっきまでは、この人を”監視役”と思っていたのだが。
 もしかしたら、”処分役”という可能性もある。
 でも、俺を処分するなら、今すぐにでもやれば良いはずだ。
 それをやらないということは、処分される可能性は無いということだろうか。
 まだ一言も口を交わしたこと無いから、全く考えが読めない。
「…………」
 少なくとも、油断はできない。
 絶対に油断はできない。
 何せ、この人は”悪魔”だ。
 俺のイメージする悪魔と、随分掛け離れているけれど――レミリアさんみたいに、容姿とは裏腹に、驚異的な力を持っていたように――この人も、俺を簡単に捻じ伏せるほどの力を持っているのだろう。
 相手の力が分からない内は、少しでも素性を知るのが定石と思うのだが、俺は歩くのに精一杯で、この人に対して話し掛ける余力が全く無かった。
 悪魔と呼ばれたこの人も、俺に対して何も話し掛けて来ない。
 この人は黙々と、進むべき道を示しては、ゆっくりと歩を進めているだけだ。
 でも、力を秘めている気配はある。
 警戒をしなければならない。
 警戒を緩めてはならない。
 でも、
「ッ!」
 俺が大きくバランスを崩して倒れそうになった時、
「……!」
 俺の全体重を、彼女は軽々と受け止めて、体勢を直してくれた。
 優しさなのか、命令なのか、俺には分からないけれど、歩を進めれば進めるほど、警戒心が何時の間にか緩んでいた。
 気を取り直して警戒するにも、疲労が酷く、集中することができなかった。
 警戒を諦め、ただ目的を遂行することに選んだ俺は、ゆっくりと歩を進める。

 道中、時より微動する四枚の翼に見惚れて、再び倒れそうになったのは内緒の話だ。


55


 左隣に居る悪魔の女性は、一つの扉に止まった。
 女性は左腕を伸ばして、扉を指し示す。
 この先が目的地と理解した俺は、女性から離れた。
 ぐらつきながらも、何とかドアノブに掴み、扉を押し出す。
 大きく開かれた扉の先には、
「…………」
 薄暗くて、質素な部屋。
 中にあるものは、タンスと、丸椅子と、ベッドというシンプルな構成。今まで何度か世話になった部屋と、そっくりだった。
 俺は真っ先にベッドへ視線を移して、十六夜さんが居るかどうかを確認する。
 白い掛け布団が、人間一人は入るぐらいにふっくらと膨らんでいて、壁際に見慣れた服装が、ベッドの下に靴が揃われていた。
 俺は歩を進めて、ベッドの近くにある丸椅子に座る。
「十六夜さん……」
 俺の話し掛けた先には、小さく寝息を立てる十六夜さんの姿がそこにあった。
 十六夜さんの返事は無い。
 眠る十六夜さんを数秒眺めて、
「……こうして近くで見ていると、十六夜さんの髪は本当に綺麗だな……」
 俺は小さく呟いた。
「……………………」
 十六夜さんの髪の色を、俺は何て呼べば良いのか分からない。
 場所によっては、異なる色を映していたからだ。
 暗いところだと、青色か灰色。
 明るいところだと、白色か銀色。
 光が揺れるところだと、忙しそうに四つの色が変色する。
「……同じ人間と言われても、こうまで違うとな……」
 決して多くの人達を見てきた訳では無いが、髪質の特異性に、どうしても疑念を抱いてしまう。
 そのまま眺め続けて、
「……俺は髪フェチだったのか?……アホらしい」
 一種の人種差別であることに気づいて、自身を戒めていた。
 その時だった。
「わ!」
 気を抜いた瞬間に、小さな変化が現われた。
 一音で済んだ俺の悲鳴は、虚しく響き渡ってすぐに消える。
 驚く間も、十六夜さんの体が横に傾き始め、
「――!」
 俺の見る方向でピタリと止まった。
 俺の視線と十六夜さんの顔がちょうど直線上に重なり、俺は反射的に身を引きそうになった。
 しかし、
「…………」
 当の本人は眠っているため、慌てて身を引くことはしなかった。


56


 無駄に生き続けて、二十四年。
 俺は生まれて初めて、眠る女性の顔を、長時間眺めていた。
「……十六夜さんは美人だよな……」
 途中、そんな言葉を漏らす。
 今だからこそ、はっきりと言える。
 お世辞とかでは無く、本当に十六夜さんは美人だ。間違いない。
 そう断言できるのは、それだけの根拠があるからだ。
 顔の輪郭がはっきりしていて、汚れの無い白い肌。
 目も、鼻も、唇も。形、大きさ、配置の全てが、理想的な構成に仕上げ。
 特有の髪質も、その完璧な顔立ちに、より完成度を高める。
 だからこそ、
「…………」
 誰が見ても。同姓の人が見ても。目の肥えた人が見たとしても。
 十六夜さんの姿を見れば、強い印象が残るだろう。
 完璧な顔立ちだからこそ、少しの表情の変化が、不思議と大きく現れる。
「…………」
 ある場面で、嬉しそうな表情をしている時とか。
 逆に、悲しそうな表情をしている時とか。
 本人が自覚しなくとも、そういった小さな変化が、万全と伝わってしまうのだ。
 これらは、”何となく”としか言えないが、十六夜さんの近くに居ることで、俺は少しずつ、気づけるようになってきていると思う。
 例えば、今もそうだ。
 十六夜さんは静かに眠っているが、
「……?」
 見間違えで無ければ、少し苦しそうな表情に見える。
 俺の勘違いだろうか。
 特別に呼吸が荒い、という訳では無い。規則正しい呼吸が続いているだけで、”荒い”という言葉から程遠い。
 寝ている姿勢が悪い、という訳でも無い。傍から見れば、寧ろ楽な姿勢で眠っているように見える。
 表情が大きく崩れている、という訳でも無い。特に気にしなければ、安らかに眠っているようにしか見えない。
「…………」 
 そもそも、誰かの寝顔を長時間眺めるというのは、初めてのことだ。
 ただの勘違いである可能性は十分に高いのだが、依然として違和感を感じる。
 これは、一体何だろうか。
 ……ん?
「……?」
 汗?
 見間違いじゃない。
 十六夜さんの額に、汗が溜まっている。
 俺が感じていた違和感はこれか?
 というより何故、俺は今まで気づかなかったんだ。
「…………」
 俺はゆっくりと、包帯だらけの左腕を伸ばした。
 十六夜さんの額に触れるか触れないかの微妙な位置で、腕が止まる。
「安易に、触るのは良くないな……」
 自分に言い聞かせて、腕を退いた。
「俺は馬鹿だ……」
 頭を垂らして、俺は小さく呟いた。
 十六夜さんの容体は、想像以上に悪い方向に向かっていたらしい。
 そんなことも考えずに、俺は酷なことをお願いしようとしていた。
 本当に、俺は馬鹿だ。
「パチュリー……パチュリーさんから、十六夜さんの様子を聞くべきだった……」
 何故、忘れていた?
 十六夜さんが寝込んでいるとは思わなかった。といえば、嘘になる。
 パチュリーさんはあの時、『俺を助けるために無理をした』という話があった。そこから考えれば、十六夜さんの様子を察することができたはず。
 例え、それができなかったとしても、十六夜さんの様子を聞くことぐらいの機会があったはずだ。少なくとも、機転を利かす発想はあった。
「クソッ……!」
 そもそも、パチュリーさんの話の中に、『十六夜さんが倒れた』という話があった。
 俺はそれを聞いていた。
 聞いていたはずなんだ。
 それなのに、何故、俺は気に留めなかった?
「……………………」
 ああ、そういうことか。
 結局は俺も、自分のことしか考えていなかったんだ。
 ”十六夜さんにお礼を言いたい”という頼みも、ここに来るための口実として、俺は利用したんだ。
 全部、俺の都合のために。
「…………」
 十六夜さんが目覚めたら、ちゃんとお礼を言おう。
 正直、あの暗闇の中で俺を置いて行ったことに、複雑な気持ちを持っていたけど。
 もっと簡潔に言えば、十六夜さんにそれなりの恨みを持っていたけど。

 ……俺の間違いだったと思う。

 十六夜さんはどういった経緯で、あの行動を――暗闇の中で、俺を置いて行ったことを――どうして取ったのか、俺には分からない。
 でも、一つだけ言えることは、俺を助けてくれた十六夜さんに対して、恨みを抱くのはお門違いということ。
 恐らく、としか言えないが――。
 俺の知らないところで、様々な思惑が複雑に絡み合って――。
 最終的に、ああいう結果を出てしまったのではないだろうか。
「…………」
 この考えが、合っているかどうかは分からない。
 ”あの結果”は必然だったのかもしれない。
 今できることは、今の状況を受け止めて、先を考えること。
 それだけだ。
「……………………」

 俺は十六夜さんが目覚めるまで、そのまま待つことを選んだ。


57


 どれだけの時間が過ぎたのだろうか。
 俺は十六夜さんが目覚めるまで、ひらすら待ち続けた。

 待っている途中、いくつか気づいた点がある。
 一つ目は、俺をここまで案内してくれたあの女性のこと。
 パチュリーさんが、悪魔だと紹介したあの女性の姿は、どこにも見当たらなかった。
 扉をしっかり閉められていた辺り、あの女性はここから離れたのだろう。
 あの女性は、案内だけでなく、監視役も兼ねていると思っていたが、俺の思い違いだったのだろうか?
 離れた理由は分からない。でも、正直俺はホッとしている。短時間の面会で済まされる可能性。そして、俺を処分する可能性が、これで激減した。

 二つ目に気づいた点は、空腹や渇きが全く感じないという、自身の状態。
 最後に食事をしたのは、レミリアさんと会う前の一回だけだ。
 あれから、どれだけの時間が過ぎたのか分からないが、そろそろ空腹や渇きを訴えても悪くない頃だ。中に入ってるものが、外に出てこないのも変な話だ。
 それなのに、全く”餓え”を感じないのは、何故だろうか。
 今、体に感じているものは、全身に行き渡るような鈍い痛みだけ。
 そして、その痛みが、少しずつ強くなっているような感覚。
 俺の体は、不衛生な生活を送り続けた結果、遂に壊れてしまったのだろうか。
 それとも――、
「…………っ」
 不意に、短く吐き出されるような音が聞こえた。
 俺は注意深く十六夜さんを観察していると、次第に大きな変化があった。
 今まで静止していた体が動き始め、布団に隠れていた右手の姿が現し、自身の額に手を当てた。
「…………」
 そして、目蓋がゆっくりと開かれる。
 十六夜さんの虚ろな視線が、俺の視線と重なり、
「……ラビ、様?」
 額に手を当てたまま、ゆっくりと体を起こした。
 俺は何か返事をしようと思ったが、十六夜さんの白い肌を見せ付けられて、言葉を忘れてしまう。
 十六夜さんの上半身が動いたことによって、”見え方”が変化する。
「…………」
 背中の白い肌が、完全に露出していた。
 傷も汚れも、一切無い綺麗な肌。
 十六夜さんがこちらに振り向くまで、俺の視線は釘付けされていた。

 次第に、十六夜さんはベッドの上で振り向いた。
 掛け布団を持って前を隠していなかったら、色々な意味で危なかった。
 十六夜さんは虚ろな状態で呟く。
「…………ラビ様」
 俺は、視線を逸らしながら、小さく頷くだけに留めた。
「……私は、どれぐらい眠っていたのでしょうか……? 今何時ですか……?」
 二つの質問に、俺は答えられなかった。というより、俺もそれを知りたい。
「…………」
 質問に答えられなかったが、手掛かりが全く無い。という訳では無い。
「あそこに、時計がありますけど」
 十六夜さんの服と一緒に、壁に掛けられた銀細工の時計。
 鎖で吊るされていて、その大きさは片手に収まる。一昔の懐中時計と言ったところだろうか。
 しかし、何時何分何秒を示しているのか、俺には分からなかった。針の数が無駄に多く、分針の位置が複雑で、文字盤すら張られていない。そのため、数字や目盛りと言ったものは刻まれているはずが無く、内部の機械仕掛けが完全に露出していた。
 使いにくさ満載の時計に指して、十六夜さんは顔を向けた。
「…………え?」
 それを見て、十六夜さんは驚きの声を上げた。
「もうこんな時間! お嬢様を迎えなければ……!」
 十六夜さんは、慌しい手付きで服を取ろうと、腕を伸ばしたその瞬間。

 思わぬ方向から、強烈な打撃音が響いた。

 一瞬、心臓が飛び出ても可笑しくないほど驚いていた俺を余所に、十六夜さんは逸早く反応して、部屋の奥を――入り口の方向を見た。
 俺も十六夜さんに続いて振り返るつもりだった。
 十六夜さんは視線の先にあるものを見て、体が硬直する。
 俺は十六夜さんの”それ”を見て、体が硬直する。
「お嬢様!?」
 十六夜さんのそんな声。
 しかし、俺はそれどころでは無い。
「い、十六夜さん! 前、前!」
 俺は鈍い動きで左腕を上げ、自身の腕で視線を隠してから”それ”を指摘する。
 十六夜さんの反応は遅かった。約五秒ほどの時間が過ぎてから、
「……あ」
 ようやく十六夜さんは”それ”に気づいて、一音だけ声を漏らす。
 俺の視線の先には、掛け布団で隠されていたはずのモノが見えていた。


~第三章終~


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