続き・・・・
4.昔の坊さんは信心が無い、説法も我々学会が上?
「真言見聞」に曰く“凡そ謗法とは、謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり。中略、「一切世間の仏種を断ず」と説く。是(これ)一闡提と名づく”云々。僧をそしることは、つまり三宝をそしる事になる。なぜなら、三宝一体は全仏教の大原則であるからです。日蓮正宗の御僧侶は、上は御法主上人から下は入門の所化に至るまで、正しく日蓮大聖人様の御弟子である。弟子を馬鹿にすると言う事は、師匠である日蓮大聖人を馬鹿にしている事に等しい。だから、いくら創価学会が大聖人直結だの広宣流布だの言った所で、僧を馬鹿にする心根がある限り、謗僧であり三宝をそしっているのだから、言葉だけの広宣流布でたたひたすら謗法の徒を増やす活動をしているとしか言えない。
したがって、母の言う僧への誹謗中傷は、仏種を断ずる一闡提の業因でしかない。反省しなさい。
正しく仏法を信じているのなら、「一大聖教大意」にある“この経は相伝にあらずんば知りがたし”と言う御謹言、大聖人の御心どおり、相伝のない学会をやめるべきだ。相伝がない学会が垂れる教学は全て我見。邪(よこしま)に日蓮を悪しく敬えば、頭破作七分。池田が脳卒中で会話も出来ないていたらくは、真に故あるかな、である。
大聖人様の正しい仏法の相伝は、日蓮正宗にしかありません。
5.御宗門及び法華講は広宣流布をしていない?
まったくの笑止。学会が尊敬する日寛上人は、日精上人の折伏で入信した武士である。幕末の薩摩藩主の島津斉彬は、八戸藩主の南部信順の折伏で入信し、また大河ドラマで記憶の新しい天璋院“篤姫”も先に上げた大名2名に折伏され入信した大石寺の信徒である。法難にいたっては、仙台法難、八戸法難、尾張法難、金沢法難、讃岐法難、寛政法難、伊那法難、弘化法難、と数々の法難を乗り越えて明治に至り、牧口会長でさえ法華講員の三谷氏の折伏によるものだ。
勝手に創価学会が突然誕生して、日蓮正宗の信心を始めて広めたわけではない。常に、いかなる時代も日蓮正宗富士大石寺があったればこその信心であり、折伏であり、広宣流布だ。富士大石寺がない信心に何の正当性があるのですか?
現在は、法華講員が日夜、死力をつくして折伏戦を行っている。
今の学会は折伏してるのか?会員の数は減る一方で、頼みの池田大作は脳卒中で会話も出来ない頭破作七分と言うではないか。だから、選挙も連敗の山。
当たり前だよね、インチキ宗教に気づいた人たちが私みたいに続々と脱会して日蓮正宗へ復帰してるから。
6.南無妙法蓮華経は宇宙に遍満する法?
上記は学会の珍解釈である。宇宙は諸法実相とあるがままの物質と空間の世界であり、そこにあるのは科学が進歩しようがどうであろうが、厳然と存在する現実の世界・国土・衆生の事であって、総じては妙法蓮華の当体であるが、別しては当体ではない。理由は、当体義抄で大聖人様は総じては一切衆生も当体蓮華ではあるが、別しては日蓮等の類、南無妙法蓮華経を受持する者のみを当体蓮華であるとご教示下さっている。総じて一切衆生も当体蓮華と言えると言うのは、一度でも南無妙法蓮華経を受持し唱えれば、当体蓮華となるからです。つまり、信受していないものは、九界を出でる事ができず当体蓮華ではない。だから宇宙に遍満してるものではない。もし、宇宙に遍満してる法ならば、御本尊を信受して題目を唱えなくとも当体蓮華になり、何の修行も仏因を積まなくとも既に仏となる。こんな珍解釈を創価学会は立て南無妙法蓮華経の唯一の当体である大御本尊様をないがしろにしている。
この宇宙法界には、大御本尊様をおいて南無妙法蓮華経は存在しない。何故なら、南無妙法蓮華経は、法華経の行者の一身の当体なり(御義口伝)、と真の法華経の行者である日蓮大聖人様の事だからです。南無妙法蓮華経は法だけではなく、人法一箇であって、はじめて事の題目となるのであって、釈迦や天台、竜樹が言う妙法蓮華経も南無妙法蓮華経も理の題目、義の題目でしかありません。
また、法華経の行者とは日蓮大聖人様だけを指すのであり(法華経の身口意の三業での色読)、その弟子檀那は立場の上から、大聖人を事とすれば弟子檀那は義の法華経の行者でしかない。何故なら、事の法華経、事の一念三千を所持していない悟らざる衆生であるからです。大御本尊様を信受して初めて、法華経の行者の流類となれるのです。
池田はそこも混同している。難にあえば法華経の行者と思い込んでるが、難にあったのは何も学会に限った事ではない。学会の戦中の弾圧は、正しくは法難ではなく、違法行為による取締り、つまり不敬罪という法を犯したのであり、国家諌暁をしたからではない。そもそも、国家諌暁は御法主の専任事項であり、信徒がやるものではなく、現に牧口は、時の御法主に諌暁を勧める言辞をした、と言うだけで牧口が天皇を折伏になど行ってもいなければ、諌暁の書をしたため政府に提出したわけでもない。つまり、何もしていない。学会はその事をさも諌暁したが故に投獄されたかの如く宣伝してるが、ただのプロパガンダである。投獄解散させられたのは、不敬罪という法律違反を犯した集団だからである。もし、日蓮正宗の信心が原因の難ならば、なぜ日蓮正宗は取り締まられなかったのか?それは、信心自体を取り締まったのではなく、人前や道路際などの大衆の面前でこれ見よがしに神札を焼却し、いやがる折伏先の許可も無く燃やしたりした当時の違法行為をしたからだ。随方毘尼の法理に照らせば王法に背かずに謗法に加担しなければ良いのであり、宗門が戦中信徒に下した一応は神札はもらっても、拝んだり安置などせず、人知れず倉庫にでもしまって置いて、時期を見て処分せよと言うのは謗法でもなんでもない。法に触れないようにしかも謗法を犯さないようにという知恵である。
話を戻して、では、南無妙法蓮華経とは何なのか?
因果倶時不思議の一法これあり、名づけて妙法蓮華と言う。因果倶時の因は仏因、果は仏果、倶時の時は刹那の一瞬。この一瞬に、「我本行菩薩道」という本因と、本果である仏身が備わる法。この本因にせよ、本果にせよ、生身の人間がいなければただの空論、生身の仏身を現じなければ何を言おうが理論でしかない。したがって、人法一箇でなければ事とはならない。日蓮大聖人様がすなわち南無妙法蓮華経の真の当体である。したがって、そのお命を御図顕され、出世の本懐とされた戒壇の大御本尊様は日蓮大聖人様その人であって仏の体であって物でもただの法でもない。法本尊と言う時、事の一念三千の南無妙法蓮華経、人本尊と言う時、日蓮大聖人様、これが一体でなければ真の仏身とは言えない。そして、大御本尊様が仏身であると言えるのは、草木成仏の法門によるのです。有情のわが身(生きてる)も地水火風空であり、非情の我が身(死んでる)も等しく地水火風空である。だから、板御本尊へ法華経を心法と定めて、法華を悟りたる智者が開眼供養すれば、それは生身の仏身となるのです。この事を、大聖人様がご自身でされた大曼荼羅です。
我々の成仏は、厳然と存在する南無妙法蓮華経の御当体である大御本尊様に向かい、目で御本尊を見、耳で結要付属の血脈相承のある猊下様の発する梵音声を聞き、我が身の身口意の三業に乗せて発する南無妙法蓮華経を唱えるから、即時に南無妙法蓮華経を我が身に具足して即身成仏する訳です。つまり、大御本尊の前を離れた凡夫は、ただの凡夫。九界を出ない衆生であって、池田が言う凡夫が仏とはならない。諸法実相抄にある凡夫即極の説法は、我ら九界の衆生の凡夫の事ではなく、御本仏日蓮大聖人様の事であり、質問主の最蓮房に凡夫僧の日蓮の為には、三十二相の仏は迹仏だよと言い、凡夫に見える日蓮が本仏であると教えているのである。特に、迷悟の不同のため倶体倶用の三身を知らざるを九界の衆生、悟れるを本仏(日蓮大聖人)と、同じ凡夫でもまったく異なる事を示されています。この文の心も解らず、池田は「法華経講義」や「法華経の知恵」と言う珍解釈の書で、本来衆生である民衆が本仏、法を説いた仏が迹仏とし、日蓮大聖人と釈尊と仏法をおとしめている。衆生が本仏なら、御本尊も仏道修行すらいらないだろう、仏なのだから。まったくのペテン。これが池田流の仏法です。
話しはもどって、本来、厳密に言えば、大御本尊様に御開扉を受け猊下様とお題目を一緒に唱えなければ成仏はできません。戒壇の大御本尊様以外は、すべて分身のご本尊であり義の本尊だからです。だから、家にある御本尊様には、時の猊下様の花押があり自宅で御開扉を再現する事で大御本尊様にお目道りをしている、猊下様を通して大御本尊様を拝している事になるのです。また、御開扉は宝塔の儀式の再現であり、禅定の場であり仏説そのままだと言える。それに対して学会のニセ本尊は義の本尊ですらない。御法主の開眼が無いからね。允可もない。仮に日寛上人が聞いたら允可を与える訳も無い。勝手に日寛上人の許可も無くプリントしてるニセ本尊。六巻抄を読んでくださいよ。日寛上人こそ、戒壇の大御本尊様と唯授一人血脈相承をもって破邪顕正を説いてる方ですからね。学会のごとく己義を構え御宗門をないがしろにし、僧を馬鹿にし、我、得たりと慢心を起こす信心には血脈は流れないし、血脈がなければ成仏も出来ない。
いくらそのニセ本尊に祈ろうが、還著於本人となって悲惨な現実が待っているだけです。
7.日蓮大聖人は、御本尊の書き方を習った?そのくせ末法の仏?
これは、ついには日蓮大聖人が、まるでただの末法の仏でしかなく、釈尊や竜樹・天親らが説いた仏法によって南無妙法蓮華経の本尊を建てたかのごとき発言。
この本音は、身延日蓮宗と何ら変わらない。日蓮大聖人を本仏と言いながら、実はただの末法の行者程度にしか見ていない見識のあらわれではないか。
もう、謗法も極まれりである。
日興上人の弟子ですらない。信徒ですらない。創価学会がこの認識なら、日興上人を僧宝と立てる言われも無い。そのニセ本尊を拝む理由すらない。日蓮を語るのを止めてほしい。
この考えの何処に、正統な富士門流の信心があるのだ。
このような考え方は、大聖人の仏法よりも釈尊の仏法の方が時間的に先だから、それを学んだ大聖人が下で釈尊が上という発想であり、迹門と本門、脱益と下種、文上と文底、本仏と迹仏の違いが解らない事を意味する。つまり、正しい仏法が解らないという事だ。
御本尊の下側、日蓮在御判の右側にしたためてある賛文、「仏滅後二千二百三十余年之間一閻浮提中未曾有之大曼荼羅也」とある通り釈尊も、その他の仏法者も建立した事がない御本尊です。
妙法蓮華経を本尊とし、題目を唱えよ、と言っているのは日蓮大聖人様だけです。凡夫として末法に生まれ、外用の辺では上行菩薩の再誕、御内証は本地無作三身の自受用報身如来の御本仏、南無妙法蓮華経を悟り所持されている唯一のお方です。したがって、過去も未来も永遠に滅不滅の御本仏として、この娑婆世界で常住此説法されている。
この妙法蓮華経の人法一箇の大本尊を所持し顕せられたのは、この宇宙で日蓮大聖人お一人です。そして、戒壇の大御本尊以外に大聖人様が住していないのは、簡単なことです。私の命は一つです。同じように大聖人様のお命も一つしかない。100も200も乃至何億もあるのか?
仏の命の、事の一念三千を顕した御本尊はたった一つしかありません。
何故か、それは戒壇の大御本尊様のみ、願主弥四郎国重と言う実在しない日蓮大聖人さま己心の願主によって、建立の動機とされ、贈法華講衆敬白と、授与は全ての法華講員であるからです。ここから一閻浮提総与の御本尊とされるのです。大聖人ご真筆のご本尊が126体現存しますが、全てが一期一縁の本尊であり、中には愛染さえない初期のものもあり、どれを根本の本尊とすれば良いか迷うところであります。現に身延は迷い、本尊が決まっていない。相伝がないからです。
だから、大聖人様は、御入滅後の本尊造乱が無いように出世の本懐である根本の本尊を定め、唯授一人血脈相承で日興上人に相続されたのです。そして、日興上人は大御本尊以外の大聖人授与の御本尊を、授与者が亡くなったら、その子孫に相続せぬよう言い渡しお集めになった。本尊が造乱するからです。
一体、創価学会が正統性を言える事など微塵も無い事がわかったでしょう。
創価学会は、正宗のふりをして実態ないものを広宣流布と言っているに等しい。だから邪宗邪義だと言っているのです。
とにかく、すぐにその謗法の信心をやめ、正宗正義である一仏乗である日蓮正宗に帰依して下さい。お願いします。その信心をやめない限り、私が歩み寄る事はない。
創価学会は謗法である。亡国の因であり、大白癩病であり、無間地獄の業因、現代の真言、現代の念仏衆でしかない。現に、学会員はどうやって即身成仏をするのだ、そのニセ本尊で。大御本尊様との血脈のない変造本尊で成仏などできる訳がない。
反論は、文書をもってして下さい。
日蓮正宗が邪宗と言う根拠。悪口や怨嫉ではなく、仏法の法義のみで反論しなさい。戒壇の大御本尊の否定、唯授一人血脈相承の否定、ニセ本尊がニセでない理由、学会が本尊を印刷して授与している事の正当性、しかも日蓮正宗の過去の猊下様の本尊を勝手に印刷する理由(本尊盗人)。創価に相伝がある(法盗人)と言う根拠、証拠。学会本部の本部職員、及び会館職員が財務を食い物にして私腹を肥やしてる正当性。友人葬の正当性。塔婆が不要と言う理由。
違う宗教法人だから良いのなら、日蓮正宗の本尊を印刷したり、大聖人の御書を勝手に解釈したりするのを止めてほしい。独自の本尊、独自の教義、独自の題目を立てればいい。日蓮正宗がオリジナルである事は明白な事実。真似すんなよ。題目の唱え方も変えれば良いじゃん。勤行を変えたように。
草々
3月7日 何某これを記す。
以上です。
4.昔の坊さんは信心が無い、説法も我々学会が上?
「真言見聞」に曰く“凡そ謗法とは、謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり。中略、「一切世間の仏種を断ず」と説く。是(これ)一闡提と名づく”云々。僧をそしることは、つまり三宝をそしる事になる。なぜなら、三宝一体は全仏教の大原則であるからです。日蓮正宗の御僧侶は、上は御法主上人から下は入門の所化に至るまで、正しく日蓮大聖人様の御弟子である。弟子を馬鹿にすると言う事は、師匠である日蓮大聖人を馬鹿にしている事に等しい。だから、いくら創価学会が大聖人直結だの広宣流布だの言った所で、僧を馬鹿にする心根がある限り、謗僧であり三宝をそしっているのだから、言葉だけの広宣流布でたたひたすら謗法の徒を増やす活動をしているとしか言えない。
したがって、母の言う僧への誹謗中傷は、仏種を断ずる一闡提の業因でしかない。反省しなさい。
正しく仏法を信じているのなら、「一大聖教大意」にある“この経は相伝にあらずんば知りがたし”と言う御謹言、大聖人の御心どおり、相伝のない学会をやめるべきだ。相伝がない学会が垂れる教学は全て我見。邪(よこしま)に日蓮を悪しく敬えば、頭破作七分。池田が脳卒中で会話も出来ないていたらくは、真に故あるかな、である。
大聖人様の正しい仏法の相伝は、日蓮正宗にしかありません。
5.御宗門及び法華講は広宣流布をしていない?
まったくの笑止。学会が尊敬する日寛上人は、日精上人の折伏で入信した武士である。幕末の薩摩藩主の島津斉彬は、八戸藩主の南部信順の折伏で入信し、また大河ドラマで記憶の新しい天璋院“篤姫”も先に上げた大名2名に折伏され入信した大石寺の信徒である。法難にいたっては、仙台法難、八戸法難、尾張法難、金沢法難、讃岐法難、寛政法難、伊那法難、弘化法難、と数々の法難を乗り越えて明治に至り、牧口会長でさえ法華講員の三谷氏の折伏によるものだ。
勝手に創価学会が突然誕生して、日蓮正宗の信心を始めて広めたわけではない。常に、いかなる時代も日蓮正宗富士大石寺があったればこその信心であり、折伏であり、広宣流布だ。富士大石寺がない信心に何の正当性があるのですか?
現在は、法華講員が日夜、死力をつくして折伏戦を行っている。
今の学会は折伏してるのか?会員の数は減る一方で、頼みの池田大作は脳卒中で会話も出来ない頭破作七分と言うではないか。だから、選挙も連敗の山。
当たり前だよね、インチキ宗教に気づいた人たちが私みたいに続々と脱会して日蓮正宗へ復帰してるから。
6.南無妙法蓮華経は宇宙に遍満する法?
上記は学会の珍解釈である。宇宙は諸法実相とあるがままの物質と空間の世界であり、そこにあるのは科学が進歩しようがどうであろうが、厳然と存在する現実の世界・国土・衆生の事であって、総じては妙法蓮華の当体であるが、別しては当体ではない。理由は、当体義抄で大聖人様は総じては一切衆生も当体蓮華ではあるが、別しては日蓮等の類、南無妙法蓮華経を受持する者のみを当体蓮華であるとご教示下さっている。総じて一切衆生も当体蓮華と言えると言うのは、一度でも南無妙法蓮華経を受持し唱えれば、当体蓮華となるからです。つまり、信受していないものは、九界を出でる事ができず当体蓮華ではない。だから宇宙に遍満してるものではない。もし、宇宙に遍満してる法ならば、御本尊を信受して題目を唱えなくとも当体蓮華になり、何の修行も仏因を積まなくとも既に仏となる。こんな珍解釈を創価学会は立て南無妙法蓮華経の唯一の当体である大御本尊様をないがしろにしている。
この宇宙法界には、大御本尊様をおいて南無妙法蓮華経は存在しない。何故なら、南無妙法蓮華経は、法華経の行者の一身の当体なり(御義口伝)、と真の法華経の行者である日蓮大聖人様の事だからです。南無妙法蓮華経は法だけではなく、人法一箇であって、はじめて事の題目となるのであって、釈迦や天台、竜樹が言う妙法蓮華経も南無妙法蓮華経も理の題目、義の題目でしかありません。
また、法華経の行者とは日蓮大聖人様だけを指すのであり(法華経の身口意の三業での色読)、その弟子檀那は立場の上から、大聖人を事とすれば弟子檀那は義の法華経の行者でしかない。何故なら、事の法華経、事の一念三千を所持していない悟らざる衆生であるからです。大御本尊様を信受して初めて、法華経の行者の流類となれるのです。
池田はそこも混同している。難にあえば法華経の行者と思い込んでるが、難にあったのは何も学会に限った事ではない。学会の戦中の弾圧は、正しくは法難ではなく、違法行為による取締り、つまり不敬罪という法を犯したのであり、国家諌暁をしたからではない。そもそも、国家諌暁は御法主の専任事項であり、信徒がやるものではなく、現に牧口は、時の御法主に諌暁を勧める言辞をした、と言うだけで牧口が天皇を折伏になど行ってもいなければ、諌暁の書をしたため政府に提出したわけでもない。つまり、何もしていない。学会はその事をさも諌暁したが故に投獄されたかの如く宣伝してるが、ただのプロパガンダである。投獄解散させられたのは、不敬罪という法律違反を犯した集団だからである。もし、日蓮正宗の信心が原因の難ならば、なぜ日蓮正宗は取り締まられなかったのか?それは、信心自体を取り締まったのではなく、人前や道路際などの大衆の面前でこれ見よがしに神札を焼却し、いやがる折伏先の許可も無く燃やしたりした当時の違法行為をしたからだ。随方毘尼の法理に照らせば王法に背かずに謗法に加担しなければ良いのであり、宗門が戦中信徒に下した一応は神札はもらっても、拝んだり安置などせず、人知れず倉庫にでもしまって置いて、時期を見て処分せよと言うのは謗法でもなんでもない。法に触れないようにしかも謗法を犯さないようにという知恵である。
話を戻して、では、南無妙法蓮華経とは何なのか?
因果倶時不思議の一法これあり、名づけて妙法蓮華と言う。因果倶時の因は仏因、果は仏果、倶時の時は刹那の一瞬。この一瞬に、「我本行菩薩道」という本因と、本果である仏身が備わる法。この本因にせよ、本果にせよ、生身の人間がいなければただの空論、生身の仏身を現じなければ何を言おうが理論でしかない。したがって、人法一箇でなければ事とはならない。日蓮大聖人様がすなわち南無妙法蓮華経の真の当体である。したがって、そのお命を御図顕され、出世の本懐とされた戒壇の大御本尊様は日蓮大聖人様その人であって仏の体であって物でもただの法でもない。法本尊と言う時、事の一念三千の南無妙法蓮華経、人本尊と言う時、日蓮大聖人様、これが一体でなければ真の仏身とは言えない。そして、大御本尊様が仏身であると言えるのは、草木成仏の法門によるのです。有情のわが身(生きてる)も地水火風空であり、非情の我が身(死んでる)も等しく地水火風空である。だから、板御本尊へ法華経を心法と定めて、法華を悟りたる智者が開眼供養すれば、それは生身の仏身となるのです。この事を、大聖人様がご自身でされた大曼荼羅です。
我々の成仏は、厳然と存在する南無妙法蓮華経の御当体である大御本尊様に向かい、目で御本尊を見、耳で結要付属の血脈相承のある猊下様の発する梵音声を聞き、我が身の身口意の三業に乗せて発する南無妙法蓮華経を唱えるから、即時に南無妙法蓮華経を我が身に具足して即身成仏する訳です。つまり、大御本尊の前を離れた凡夫は、ただの凡夫。九界を出ない衆生であって、池田が言う凡夫が仏とはならない。諸法実相抄にある凡夫即極の説法は、我ら九界の衆生の凡夫の事ではなく、御本仏日蓮大聖人様の事であり、質問主の最蓮房に凡夫僧の日蓮の為には、三十二相の仏は迹仏だよと言い、凡夫に見える日蓮が本仏であると教えているのである。特に、迷悟の不同のため倶体倶用の三身を知らざるを九界の衆生、悟れるを本仏(日蓮大聖人)と、同じ凡夫でもまったく異なる事を示されています。この文の心も解らず、池田は「法華経講義」や「法華経の知恵」と言う珍解釈の書で、本来衆生である民衆が本仏、法を説いた仏が迹仏とし、日蓮大聖人と釈尊と仏法をおとしめている。衆生が本仏なら、御本尊も仏道修行すらいらないだろう、仏なのだから。まったくのペテン。これが池田流の仏法です。
話しはもどって、本来、厳密に言えば、大御本尊様に御開扉を受け猊下様とお題目を一緒に唱えなければ成仏はできません。戒壇の大御本尊様以外は、すべて分身のご本尊であり義の本尊だからです。だから、家にある御本尊様には、時の猊下様の花押があり自宅で御開扉を再現する事で大御本尊様にお目道りをしている、猊下様を通して大御本尊様を拝している事になるのです。また、御開扉は宝塔の儀式の再現であり、禅定の場であり仏説そのままだと言える。それに対して学会のニセ本尊は義の本尊ですらない。御法主の開眼が無いからね。允可もない。仮に日寛上人が聞いたら允可を与える訳も無い。勝手に日寛上人の許可も無くプリントしてるニセ本尊。六巻抄を読んでくださいよ。日寛上人こそ、戒壇の大御本尊様と唯授一人血脈相承をもって破邪顕正を説いてる方ですからね。学会のごとく己義を構え御宗門をないがしろにし、僧を馬鹿にし、我、得たりと慢心を起こす信心には血脈は流れないし、血脈がなければ成仏も出来ない。
いくらそのニセ本尊に祈ろうが、還著於本人となって悲惨な現実が待っているだけです。
7.日蓮大聖人は、御本尊の書き方を習った?そのくせ末法の仏?
これは、ついには日蓮大聖人が、まるでただの末法の仏でしかなく、釈尊や竜樹・天親らが説いた仏法によって南無妙法蓮華経の本尊を建てたかのごとき発言。
この本音は、身延日蓮宗と何ら変わらない。日蓮大聖人を本仏と言いながら、実はただの末法の行者程度にしか見ていない見識のあらわれではないか。
もう、謗法も極まれりである。
日興上人の弟子ですらない。信徒ですらない。創価学会がこの認識なら、日興上人を僧宝と立てる言われも無い。そのニセ本尊を拝む理由すらない。日蓮を語るのを止めてほしい。
この考えの何処に、正統な富士門流の信心があるのだ。
このような考え方は、大聖人の仏法よりも釈尊の仏法の方が時間的に先だから、それを学んだ大聖人が下で釈尊が上という発想であり、迹門と本門、脱益と下種、文上と文底、本仏と迹仏の違いが解らない事を意味する。つまり、正しい仏法が解らないという事だ。
御本尊の下側、日蓮在御判の右側にしたためてある賛文、「仏滅後二千二百三十余年之間一閻浮提中未曾有之大曼荼羅也」とある通り釈尊も、その他の仏法者も建立した事がない御本尊です。
妙法蓮華経を本尊とし、題目を唱えよ、と言っているのは日蓮大聖人様だけです。凡夫として末法に生まれ、外用の辺では上行菩薩の再誕、御内証は本地無作三身の自受用報身如来の御本仏、南無妙法蓮華経を悟り所持されている唯一のお方です。したがって、過去も未来も永遠に滅不滅の御本仏として、この娑婆世界で常住此説法されている。
この妙法蓮華経の人法一箇の大本尊を所持し顕せられたのは、この宇宙で日蓮大聖人お一人です。そして、戒壇の大御本尊以外に大聖人様が住していないのは、簡単なことです。私の命は一つです。同じように大聖人様のお命も一つしかない。100も200も乃至何億もあるのか?
仏の命の、事の一念三千を顕した御本尊はたった一つしかありません。
何故か、それは戒壇の大御本尊様のみ、願主弥四郎国重と言う実在しない日蓮大聖人さま己心の願主によって、建立の動機とされ、贈法華講衆敬白と、授与は全ての法華講員であるからです。ここから一閻浮提総与の御本尊とされるのです。大聖人ご真筆のご本尊が126体現存しますが、全てが一期一縁の本尊であり、中には愛染さえない初期のものもあり、どれを根本の本尊とすれば良いか迷うところであります。現に身延は迷い、本尊が決まっていない。相伝がないからです。
だから、大聖人様は、御入滅後の本尊造乱が無いように出世の本懐である根本の本尊を定め、唯授一人血脈相承で日興上人に相続されたのです。そして、日興上人は大御本尊以外の大聖人授与の御本尊を、授与者が亡くなったら、その子孫に相続せぬよう言い渡しお集めになった。本尊が造乱するからです。
一体、創価学会が正統性を言える事など微塵も無い事がわかったでしょう。
創価学会は、正宗のふりをして実態ないものを広宣流布と言っているに等しい。だから邪宗邪義だと言っているのです。
とにかく、すぐにその謗法の信心をやめ、正宗正義である一仏乗である日蓮正宗に帰依して下さい。お願いします。その信心をやめない限り、私が歩み寄る事はない。
創価学会は謗法である。亡国の因であり、大白癩病であり、無間地獄の業因、現代の真言、現代の念仏衆でしかない。現に、学会員はどうやって即身成仏をするのだ、そのニセ本尊で。大御本尊様との血脈のない変造本尊で成仏などできる訳がない。
反論は、文書をもってして下さい。
日蓮正宗が邪宗と言う根拠。悪口や怨嫉ではなく、仏法の法義のみで反論しなさい。戒壇の大御本尊の否定、唯授一人血脈相承の否定、ニセ本尊がニセでない理由、学会が本尊を印刷して授与している事の正当性、しかも日蓮正宗の過去の猊下様の本尊を勝手に印刷する理由(本尊盗人)。創価に相伝がある(法盗人)と言う根拠、証拠。学会本部の本部職員、及び会館職員が財務を食い物にして私腹を肥やしてる正当性。友人葬の正当性。塔婆が不要と言う理由。
違う宗教法人だから良いのなら、日蓮正宗の本尊を印刷したり、大聖人の御書を勝手に解釈したりするのを止めてほしい。独自の本尊、独自の教義、独自の題目を立てればいい。日蓮正宗がオリジナルである事は明白な事実。真似すんなよ。題目の唱え方も変えれば良いじゃん。勤行を変えたように。
草々
3月7日 何某これを記す。
以上です。