『武家諸法度』による諸国大名の「参勤交代」は、江戸幕府の最重点政策であった。1年在府(江戸)、1年在国(領国)が原則で、しかも交代路も規定されていた。
また、「諸侯証人の制」や「江戸置邸妻子収容の法」によって大名の重臣や妻子を人質として江戸城内の証人屋敷に置いた。
関が原の戦いの後、慶長七(1602)年九月、伊達政宗は長子・秀宗を、慶長九(1604)年六月肥後人吉城主の相原長毎は母を「証人」(人質)として江戸に差し出している。
このようにして「参勤交代制」で諸国大名の財政的力を削ぎ落とし、尚且つ人質をとって権力の掌握と大名の統制が目的であった。
参勤交代の行列は、石高相当の人数が戦闘体系で進行するのが原則であった。
大名行列の人数も幕府は石高で規定していたが、加賀藩の場合は2000人から4000人とも言われ、五代綱紀の頃は4000人、十二代斎広の時は3500人を記録されている。
梅ばちの 大提灯や かすみから
小林一茶
梅ばち(鉢)は,藩主前田家の紋所で、加賀藩の大名行列の供人が霞んでみえるくらいに延々と続いていた様子が目に見えるようである。
加賀藩の参勤交代月は四月、七月が圧倒的に多く、参勤交代のコースは三コースであった。
(1)金沢から越中、越後、信濃を通る北国下街道のルート
(2)金沢から越前福井を経由して(北国上街道)中山道にでるルート
(3)金沢から越前福井を経由して(北国上街道)東海道にでるルート
ルート別に見たとき(1)の北国下街道が全参勤交代の合計190回の内181回と多く、加賀藩の主要道として重要な位置を占めていた。
距離的には、ルート(1)の北国下街道のコースは金沢から江戸まで約120里余り。宿場別にみると
金沢出発 → 魚津 → 糸魚川 → 牟礼 → 追分 → 板鼻 → 浦和 → 江戸の順で、親不知・子不知の難所が荒れていたとき、また姫川が氾濫して渡れない時などは糸魚川の西、青海宿や東の能生宿などで宿泊や昼休みをとった。
金沢ー魚津間、22里・ 魚津ー糸魚川間、15里・ 糸魚川ー牟礼間、24里・ 牟礼ー追分間、21里・ 追分ー板鼻間、10里・ 板鼻ー浦和間、22里・ 浦和ー江戸間、6里で合計120里、約480キロである。
ルート(2)の中山道経由は164里で約660キロ、ルート(3)の東海道経由では151里余りで約600キロ。従って下街道経由は三十里から四十里の短縮となり、一日に十里歩くとして三日から四日の短縮となる。
全工程の所要日数は北国下街道のコースで十二泊十三日が最も多く、まれに十一泊十二日もあった。
北国下街道を参勤交代の主要道とした理由は、距離が短いという利点の他に、全旅程120里の内、自己の所領が約四分の一の三十里あり、裁量の自由が効く自領であるということが北国下街道を参勤交代の主要道となったものと思われる。
しかし、下街道の往来は距離は短いが越後の入口では親不知・子不知の難所があり、姫川を初めとして信濃の犀川・千曲川・越中の神通川・常願寺川・早月川・片貝川といった暴れ河川を通らなければならない。
特に、親不知・子不知の難所は加賀藩参勤交代の道中で最大の難所であった。
ここを行列が通る時は、500〜1000人の荘丁を「波よけ人足」として徴集し、真っ裸の人足に肩を組ませ、麻縄を持って沖へ向かい、七列に並ばせて人垣による「波よけ」を造らせて藩主を護り、行列を通過させた。
また、馬は荷物を付けたまま通ることができないため、人間が馬に代わって荷物を担ぎ馬は空荷で通していた。
「一方は岸高くして人馬更に難通、一方は荒磯にて風烈き時は船地心に任せず、岸に添たるほそ道、間を伝ふてとめゆけば、馬の鼻、五騎十騎双て通るに不能、僅かに一騎許り通る道也。」 『承久記』
「王侯の勢いにても越すことの成り難し」と言われ、昔から詩歌や文学に数多く語り綴られている難所であった。
行列は、石高相当の人数が戦闘体系で進行するのが原則であったので、これらの武器・弾薬・の他に松明、提灯、陣幕、雨具(笠、合羽等)は勿論だが、中には入浴用の風呂桶、重石を乗せたままの漬物樽などを運搬するのに沿道からも相当数の人足が数日間にわたって徴集された。
交代時期の4月は比較的日本海も穏やかとは云え「親不知・子不知」越えは大変な財政負担と労力、危険が待ち受けて居たと思われる。
正路の越後経由は片道約120里で順調に進んでも十二泊十三日かかり、一回の費用は現在の金額で7億〜8億円要し、藩の財政負担も相当なものと思われる。 |