『Kの夜話』(3)
如月マヤ
Kの予想に反して、会社の様子にいつもと変わったところはなかった。社員に浮足立った感じもなく、現場検証で騒然としているのではないかと、半ば野次馬根性で期待していたKは拍子抜けしてしまった。自分に見えたもののことは深く追求しないKにとって、事件はもう他人事になっている。残るのは、ただの好奇心だけだった。しかし、会社では二人の捜査員がKを待っており、Kは自分がまぎれもない当事者なのだと思い知らされた。
「第一発見者はあなたですね?」
年配の男性捜査員がそう話しかけながら、首から下げた身分証をKに示した。
「前之坂警察署の篠崎といいます。こっちは米原」
そう言って、彼は脇に控えている若い捜査員を紹介した。こちらはKと同年輩だろう。二人ともすでに手帳とペンを手にしていて、さっそく年配のほうが矢継ぎ早に質問をしてくる。Kが氏名と生年月日、住所と電話番号を答えると、二人は黙々とそれを手帳に書きこんだ。
「それじゃあ、状況を説明してください」
「はあ。あの、今朝ですね、お得意先を回ろうとして……」
「何時何分?」
「はい?」
「それは何時何分でした?」
「ええと、時間はだいたい……」
「だいたいじゃ困るんだ。正確な時間は何時何分?」
Kは面食らって言葉に詰まった。社内のペースとも営業先のペースとも勝手が違う。今までに体験したことのない状況の中にいるのだ。篠崎というこの刑事のペースに合わせながら、てきぱきとつじつまの合った話をしなければならない。思わず気持ちが身構えた。その雰囲気を察してか、若いほうの米原がすかさず口をはさんだ。当たりの柔らかい話し方だった。
「Kさん。何時何分から何時何分の間、って言ってもいいんですよ」
「はあ」
「じゃ、そんな感じでお願いします。時間順に状況を説明してもらえませんかね?」
「はあ。わかりました。ええと……」
Kは自分を落ち着かせながら、今朝の出来事を、順を追って説明した。途中で何度か篠崎に「それは何時何分?」と聞き返されたが、早くも要領をつかんだKは、ほぼよどみなく質問に答えることができた。このベテラン刑事は、せかせかと質問をたたみかけることで、相手に威圧感を感じさせているのかもしれない。嘘や言い訳を考える暇を与えないためかもしれないけれど。下を向いて手帳に書きこみながら、こちらの気配を感じ取ろうとしているのがわかる。何か不審な点がないか、刑事の勘を働かせているのだろうか。でも、問題はない。なんといっても、あれは業者が処理した袋から出てきたものなんだし。自分に疑わしいことは何もないはずだ。これでひと通り話は終わったかな。そう思って、Kは肩の力を抜いた。
案の定、篠崎が手帳を閉じた。もう調べは終わったものとKが思った、そのとき。
「おい、ヨネ。お前、何かあるか?」
篠崎に促されて、米原が手帳から顔を上げた。米原はKをまっすぐ見つめている。Kは先ほどから彼が、ペンを動かしながら横目で周りの様子を観察していたのを知っていた。そういえば、同期に似たような男がいる。そつなく何でもこなせて気配りがうまい。他人が感心するような気の遣い方ができるのは、彼が意識して細かいところに気がつくからだ。彼は日常の些細なものも見落とさない。いや、むしろ、わざわざ些細なものを探して見つけ出し、細かいところに気のつく自分をさりげなく周囲にアピールしている。自分に見えるものは日常にまぎれこむ余計なものでしかないKにしてみれば、そうまでして余計なものを見ようとする彼の姿は、時に痛々しくさえあった。Kの目には、何が何でも他人を出し抜いて自分だけが優位に立とうとする人間は、いびつな触手が身体に無数に生えているように見えるのだ。しかし、米原は彼とは違う。米原の身体は透明な発光体に見えた。米原が細かいものまで見ようとするのは、手柄を立てるためではなくて、ただ真実を明らかにするためだけに違いない。
米原の視線はKに定まったまま動かない。米原は手強い。Kはそう思った。
(続く)
2011年11月09日
2011年11月07日
『Kの夜話』(2)
『Kの夜話』(2)
如月マヤ
Kは笠岡とともに急いで現場に戻りながら、筋の通った話に聞こえるように事情を説明した。
「今日はちょっと腰が痛いかなあという感じだったんですよ。それで、段ボールを積むのに、あの吊り上げるやつを使ってみようと思ったんですけど。鎖を持ってきたときに、上に肉の袋を落としてしまって。すみません。急いで拾ったんですけど、なんかこう、フックの先に引っかかったみたいで。袋を破ってしまったんですよね。ほんと、すみません。でも、中からこれが……」
Kが指差した肉片を、笠岡は最初、まだ眉根にしわを寄せたままの迷惑そうな顔で眺めていた。この朝の忙しいときに、いったい何をやってるんだこいつは。Kは仕事の覚えも早いし、人との接し方にも申し分がない。営業に向いているから重宝なやつだと思っていたが、まだ新人みたいなヘマをやっているのか。この分だと、午前中の営業は確実に遅刻してしまう。お得意様にお詫びの品を持たせなくては。そうだ、業務用コーヒーの新しいサンプルがいい。コーヒーの値上がりで仕入れ先を変更する店も出てきたから、価格を抑えた新商品で契約を続行してもらえば一石二鳥だ。
頭の中で素早く考えをまとめた笠岡は、あらためて、地面に散らばったぶつ切りの冷凍鶏肉に見入った。笠岡が怪訝な面持ちになったのはわずかな間で、すぐにそれは驚愕の表情に変わった。
「おい、K! こっ、これはいったい……」
「やっぱり、あれですよね。警察に届けないと」
と言ってから、Kは今気づいたかのように腕時計を見た。
「あ、ボク、営業に回ってこないと。お客様をお待たせしてると思いますんで」
その言葉に、呆然としかけていた笠岡はぴくりと反応し、我に返った。
「K! ボクじゃなくてワタクシだろっ。いいかげんに直せよ。それから、お詫びにコーヒーのサンプルを持っていけ。お客様にはくれぐれも丁重になっ」
もちろんKは、聞こえよがしにボクという言葉を使い、得意先を待たせていることを思い出させれば笠岡が冷静になることを知っていて、そう言ったのだ。笠岡が携帯電話に向かって深刻そうに話し始めたのを横目で確かめて、Kは手早く商品をまとめると車を出した。
ハンドルを握りながら、Kは、自分が取った行動について思い返していた。何か問題はあるだろうか。いや、大丈夫だ。できるだけのことはしたはずだ。何も、事実を全部話す必要はないし、肝心の目的が果たせればいいのだから。それに、嘘は言っていない。笠岡さんにはわからなかったかもしれないけれど、袋が破れたとは言わずに、袋を破ってしまったと正直に話したんだし。今頃は、笠岡さんがうまく対処してくれているはずだ。あの人のことだから、会社には何の責任もないという方向でおさめることだろう。あとは、自分は会社の方針に従えばいいだけだ。余計なことは考えないで、さあ、仕事仕事……。
Kの携帯電話が鳴ったのは、昼過ぎになってからだった。電話は笠岡からで、お前に用があるから営業を終えたら急いで戻ってこい、とのことだった。いつもならKはこの時間、弁当を買って車の中で食べてから、いったん会社に戻っている頃だ。ちょうど得意先を回り終えたところだったので、Kはすぐに会社に向かって車を走らせた。今日は時間が押していたこともあって昼食抜きだが、あれを見た後では、さすがに何も食べられない。肉は当分食べられそうもないな。なにしろ、今朝のあれ。あれは素人が見ても人間の……。多分、腕のどこかを輪切りにしたんだろう。皮の表面で、男のものらしい濃い体毛が凍っていたっけ。それを思い出したKは、今さらながら胃にこみあげてくるものを感じた。
(続く)
如月マヤ
Kは笠岡とともに急いで現場に戻りながら、筋の通った話に聞こえるように事情を説明した。
「今日はちょっと腰が痛いかなあという感じだったんですよ。それで、段ボールを積むのに、あの吊り上げるやつを使ってみようと思ったんですけど。鎖を持ってきたときに、上に肉の袋を落としてしまって。すみません。急いで拾ったんですけど、なんかこう、フックの先に引っかかったみたいで。袋を破ってしまったんですよね。ほんと、すみません。でも、中からこれが……」
Kが指差した肉片を、笠岡は最初、まだ眉根にしわを寄せたままの迷惑そうな顔で眺めていた。この朝の忙しいときに、いったい何をやってるんだこいつは。Kは仕事の覚えも早いし、人との接し方にも申し分がない。営業に向いているから重宝なやつだと思っていたが、まだ新人みたいなヘマをやっているのか。この分だと、午前中の営業は確実に遅刻してしまう。お得意様にお詫びの品を持たせなくては。そうだ、業務用コーヒーの新しいサンプルがいい。コーヒーの値上がりで仕入れ先を変更する店も出てきたから、価格を抑えた新商品で契約を続行してもらえば一石二鳥だ。
頭の中で素早く考えをまとめた笠岡は、あらためて、地面に散らばったぶつ切りの冷凍鶏肉に見入った。笠岡が怪訝な面持ちになったのはわずかな間で、すぐにそれは驚愕の表情に変わった。
「おい、K! こっ、これはいったい……」
「やっぱり、あれですよね。警察に届けないと」
と言ってから、Kは今気づいたかのように腕時計を見た。
「あ、ボク、営業に回ってこないと。お客様をお待たせしてると思いますんで」
その言葉に、呆然としかけていた笠岡はぴくりと反応し、我に返った。
「K! ボクじゃなくてワタクシだろっ。いいかげんに直せよ。それから、お詫びにコーヒーのサンプルを持っていけ。お客様にはくれぐれも丁重になっ」
もちろんKは、聞こえよがしにボクという言葉を使い、得意先を待たせていることを思い出させれば笠岡が冷静になることを知っていて、そう言ったのだ。笠岡が携帯電話に向かって深刻そうに話し始めたのを横目で確かめて、Kは手早く商品をまとめると車を出した。
ハンドルを握りながら、Kは、自分が取った行動について思い返していた。何か問題はあるだろうか。いや、大丈夫だ。できるだけのことはしたはずだ。何も、事実を全部話す必要はないし、肝心の目的が果たせればいいのだから。それに、嘘は言っていない。笠岡さんにはわからなかったかもしれないけれど、袋が破れたとは言わずに、袋を破ってしまったと正直に話したんだし。今頃は、笠岡さんがうまく対処してくれているはずだ。あの人のことだから、会社には何の責任もないという方向でおさめることだろう。あとは、自分は会社の方針に従えばいいだけだ。余計なことは考えないで、さあ、仕事仕事……。
Kの携帯電話が鳴ったのは、昼過ぎになってからだった。電話は笠岡からで、お前に用があるから営業を終えたら急いで戻ってこい、とのことだった。いつもならKはこの時間、弁当を買って車の中で食べてから、いったん会社に戻っている頃だ。ちょうど得意先を回り終えたところだったので、Kはすぐに会社に向かって車を走らせた。今日は時間が押していたこともあって昼食抜きだが、あれを見た後では、さすがに何も食べられない。肉は当分食べられそうもないな。なにしろ、今朝のあれ。あれは素人が見ても人間の……。多分、腕のどこかを輪切りにしたんだろう。皮の表面で、男のものらしい濃い体毛が凍っていたっけ。それを思い出したKは、今さらながら胃にこみあげてくるものを感じた。
(続く)