如月マヤ
晴れてもいないし、曇ってもいない。江川伸夫の気分は、いつもそんなものだった。要するに、曖昧。すっぱり気分を盛り上げる潔さもなければ、とことん落ちこむ勇気もない。これは中庸を極めた末に至った境地でもなければ、持って生まれた性格とも言えない。なぜなら、伸夫はそんな自分に、時折もやもやしたものを感じないでもないからだ。感じないでもない、というあたりが、すでに曖昧。しかし、それをどうともせずに、なんとなく今に至っている。このあたりも、かなり曖昧。
隣近所のおばさんたちは何かにつけ、「お麩屋さんの伸夫君は地道で穏やかな人だから、そのうちいいお嫁さんが来てくれるといいわねぇ」と言ってくれるが、そう言ってもらえるうちが花だということにも、伸夫は気がつかない。伸夫にとって日々はただ、たゆたうように流れていくものだった。
そんな伸夫だが、今朝はいつもと様子が違う。曖昧なりに相当焦っているらしい。今日、伸夫は一人で開店準備をしなければならないのだ。これまで伸夫は、自分から仕事を覚えようとせず、父親に指図されるまま、なんとなく身体を動かしていただけだ。だから、いざ一人で店を開けるとなると、手順が思い出せなくて、中途半端に店の中をうろうろするばかり。動きに主体性がないから気合いが入らず、手際は悪くなる一方だ。いつまでも仕事が進まないから、よけいに焦る。
それに今日は、顔見知りのお客に何か聞かれたら、父親が入院して、母親は付き添いで病院に行っていることを説明しなくてはならない。伸夫は、お客と要領よく会話することも苦手なのだ。そんなこんなで、伸夫は今、窮地に立たされている。
ところが都合がいいことに、伸夫の家には、こんな時にすがれる場所があるのだった。いや、恵比寿大黒の木像を祀った神棚は、こんな時のためだけにあるのではない。伸夫の祖父が江川製麩店の看板を掲げたその日から、ささやかな日々の心のよりどころとなるために、恵比寿様と大黒様はおわすのだった。
伸夫の父親は昨日の朝、神棚に新しい水を上げ、恵比寿大黒に手を合わせた直後に倒れてしまった。「今日も一日、ご縁とおかげさまで、ありがたやありがたや……」という口癖を言う間もなかった。それを思い出した伸夫は「あ、そうだ」と開店準備を中断し、神棚の水を換え、煤けた恵比寿大黒の木像に手を合わせた。いつもなら、父や母が手を合わせる姿にうながされるように、なんとなく手を合わせ、上目遣いに神棚を眺めてみるだけだ。普段がそんなだから、やはり伸夫の姿は様にならない。背筋を伸ばすでもなく、前屈みに拝むのでもない。曖昧が形になって現れている。それが自分でもわかるから、おずおずおどおど、神棚の前で腰が引ける。自分の家にいながら、これでは挙動不審ですらある。
伸夫のこの煮え切らない様子を、さきほどからずっと、じりじりしながら観察していた者がいる。当の恵比寿と大黒天である。伸夫の挙動不審の一部始終が、江川家の恵比寿大黒の木像を通し、エビスとダイコクの住まいに据えられた大型モニターに映し出されているのであった。エビスとダイコクは画面の前に並んで座り、伸夫が神棚に向かって口を開くのを待ちかまえている。
ついに意を決したかのように、しかし曖昧に、伸夫が切り出した。
「あのう……。ええと、僕、伸夫ですぅ。伸夫と言うんですけど……」
期待を大幅に外れる伸夫の言葉に、エビスとダイコクはがっくり肩を落とした。
「はいはい、伸夫さんね。……って、それは知ってるんだよ!」
思わずそう突っ込んだのは、エビスの方だ。
「しっ! 聞こえちゃうよぉ」
そうたしなめたのは、ダイコク。エビスはちょっと肩をすくめた。自分たちの声が、伸夫に聞こえるはずがない。伸夫の祖父母や両親とは心の中で言葉が通じるが、伸夫とは木像を通しても会話は一方通行だ。こちらの声は伸夫には届かない。エビスダイコクの住まいに、伸夫の心の呟きだけが、ぼんやり聞こえてくる。
「ええと……。うちの店、大丈夫かな。ほんとはあんまり大丈夫じゃないんだけど。売上、なんとなくどん底だし。麩って、景気と関係あるのかな。……ないのかも? あ、そういえば、今日、僕一人なんだけど、いいのかな、お店。僕だけだと、なんとなく、できないような気がするんだけど……」
開店時刻は迫っているのに、伸夫の心の呟きはいっこうに終わらない。
「ああ、じれったいなあ、もう! 事情はわかってるんだよ。仕組んだのは俺たちなんだからさ。だからさっさと、頑張りますと決意を述べるなり、お力添えよろしくと頼むなりして、早く店を開けろっての。お寺のばあちゃんが生麩を買いに来るだろ!」
「まあまあ。エビス君ってば、せっかちなんだからぁ。僕たち福の神でしょ。江川家は僕たちの管轄なんだしさ、長い目で見てあげてもいいんじゃなぁい?」
おっとりしたダイコクの物言いに、エビスはかちんときたようだ。
「そもそも、いつまでたっても伸夫がしっかりしないから、親父さんが倒れるようにしたんじゃないか。これで伸夫も目が覚めて、少しはしゃんとするだろうって段取りだったのに。伸夫のやつ、親父さんの無事を祈りもしないで。まったく、俺たちの今までの働きはなんだったんだ」
「うーん、確かにねぇ。福の神の働きを粗末にすると、結局自分が福を逃すことになるのにねぇ」
「だろ? 江川製麩店を伸夫の代まで続かせたのも、就職超氷河期に大学を卒業させたのも……」
「そうそう。就職できないから、親父さんの仕事を手伝うしかないもんねぇ」
「それもこれも、伸夫には、世のため人のために働くお役目があるからだっていうのに」
「親父さんの技術のおかげでできることなんだけど。その親父さんを倒れさせてまで賭けに出たのにねぇ。伸夫ちゃん、ちっとばかり、しっかりしてくれるといいよねぇ」
「ちっとばかりじゃ足りないんだよ。お袋さんの方は、俺たちの企みをうすうす気づいてたからいいとしても……。伸夫をおどかしたら、親父さんはすぐに回復させようと思ってたんだけどな。一回危篤にでもしないと、伸夫には責任感も湧かないようだな……」
「あわわわわ、エビス君、落ち着いて! 僕たち福の神なんだからさぁ。そんな人聞きの悪いこと言っちゃだめだよぉ。ねぇ?」
「それは吾輩に尋ねておるのか、ダイコク殿よ」
その時エビスとダイコクの後ろで、腹の底に響く野太い声がした。ダイコクのぽっちゃりしたお腹が、衣の下で本当にぷるんと震える。
いきなり毘沙門天が現れて、そこに仁王立ちしているのだった。ペットの散歩がてら、エビスダイコクの住まいに立ち寄ったらしい。ダイコクのお腹が余韻で震えているのを察知して、毘沙門天は眉をひそめた。ダイコクはうふふと笑って、お腹をさする。
「だって、ほら、僕たち福の神でしょ。ふくよかな方が、何かとホクホク感があってウケるんじゃなぁい?」
一方、エビスは急いで衣の袖をたくし上げ、毘沙門天に力こぶを見せる。
「俺、漁に出てるからさ」
ダイコクのぽってりした太り方と違って、エビスは固太りなのだ。しかし、硬派の毘沙門天と、福々しさが売りのエビスダイコクが体型を競っても意味がない。毘沙門天はふんと鼻を鳴らすと、そこにあった賑々しい色の座布団をつかみ、どっかと床に腰を下ろした。どうも機嫌がよろしくないようだ。腰に帯びた剣が、鞘ごと不穏な色に変わっている。ペットの白虎もその雰囲気を感じてか、毛が逆立って落ち着きがない。
エビスとダイコクは顔を見合わせた。
「なあるほど……」
「うん、選挙が近いからねぇ」
エビスとダイコクはいそいそとお茶を淹れて、仏頂面の毘沙門天の前に差し出した。そこはなんといっても、福の神。手ずから淹れたお茶には、さすがの硬派をも和ませゆるませる力がある。お茶を一口飲んだ毘沙門天は、ほーっと大きく、長い長い溜め息をついた。白虎もやっとくつろいで寝そべる。
「近頃の人間ときたら……」
毘沙門天の口から、思わず愚痴がもれた。
「近頃の人間ときたら、我ら神仏と心を通わせる作法も知らん。日本人なら心の作法を心得ておるはずだが、いったいどうしたことか。どうにも解せぬ!」
「こっちも似たようなもんだよぉ。毘沙門さんとこは今、いろいろ気ぃ遣って大変なんでしょ? 人間界では選挙が近いからねぇ」
ダイコクは聞き上手だ。エビスはさりげなくお茶を注ぎ足す。一口すすって、毘沙門天が話し始めた。
「候補者だの支援者だのが、入れかわり立ちかわり、吾輩の元にやってくる。選挙の必勝祈願だと!……あ、いや、それはいいのだ。なにしろ吾輩は戦いの神でもあるからな。しかしなあ、戦いの意味が違うのだ。戦うからには志を立てねばならぬ。志があるからこそ、時には戦わねばならぬこともあるのだからな。近頃の人間には、どうもそのあたりの覚悟が感じ取れぬのだ。目先の欲得に釣られて、思いつきで動いては右往左往しておる。肝が据わらぬ、先を見通す頭もないから、志を立てられぬのだ!」
毘沙門天はそこで、「ううぬ……」と気を鎮めた。
「まあ、もっとも、顔の垢を落としてから参られよと言ったところで、人間に吾輩の声が聞こえるはずもないか。吾輩の管轄だけではない。全国津々浦々の我ら毘沙門天が、多少とも同じ思いでおることだろうよ」
毘沙門天は遠くを見る目つきをした。物憂げなまなざしにも、意志の力を感じさせる。渋い。かっこいい。伸夫とは大違いだ。あ、そういえば、伸夫は……?
モニター画面いっぱいに映る伸夫は、まだ悶々と呟いている。
「あのう……。恵比寿大黒さんは商売繁盛の神様だって聞いてるんですけど……。やっぱりだめですかね。なんていうか、いろいろと……。だって、恵比寿さんは魚を抱えてるし。かまぼこ屋だったらいいんだけど、うちは麩だから……。大黒さんは稲穂を持ってるけど、やっぱり無理ですよね。うちは麩だから……。使ってるの小麦粉だから、お米じゃないし……」
「ううぬ……。エビス殿、ダイコク殿、この若造を黙らせてはいただけまいか!」
思わず叫んだ毘沙門天を、ダイコクはおっとりまったり、とりなそうとする。
「黙らせるなんて無理だよぉ。ねぇ? 好きなように喋るのは人間の自由だもん。それに僕たちはさぁ、神仏っていうのに気づく人間だけしか手助けできないもんねぇ。気づくきっかけは作ったけれど、あとは伸夫ちゃんの心しだいだもん。伸夫ちゃんを信じて見守るしかないよぉ」
エビスはそれを聞きながら、無言で白虎を撫でている。思うところはあるものの、ダイコクの言うことはもっともだ。福の神としてのスタンスは守らねばならない。毘沙門天は「ううぬ」と唸ったが、お茶を飲み干して目を閉じ、気を収めた。それから、ふと目を開くと、「おお、そうだった」と口調を変えた。
「吾輩は何も、現実逃避をするためにここに立ち寄ったのではないぞ。弁財天殿からことづけを頼まれておったのだ」
「ひっ!」
エビスとダイコクは、同時に声を上げた。毘沙門天がにやりと笑う。
「おや。特にダイコク殿は、頬が引き締まりましたな」
「ち、違うよぉ。そんなに急に痩せるはずないじゃない。緊張してるんだってばぁ」
ダイコクは自分のお腹を指さした。見れば小刻みにぷるぷる震えている。エビスは反射的にマスコットの大魚を抱えた。緊張をやわらげようとする無意識の行動だ。
「だって、だって……」
エビスとダイコクは息の合ったところを見せて、同時に叫ぶ。
「弁天の姐さん、怖いんだもぉーん!」
(続く)
【「御利益」の最新記事】