2010年06月08日

『御利益』(その一)

『御利益』(その一)
 
 如月マヤ

 晴れてもいないし、曇ってもいない。江川伸夫の気分は、いつもそんなものだった。要するに、曖昧。すっぱり気分を盛り上げる潔さもなければ、とことん落ちこむ勇気もない。これは中庸を極めた末に至った境地でもなければ、持って生まれた性格とも言えない。なぜなら、伸夫はそんな自分に、時折もやもやしたものを感じないでもないからだ。感じないでもない、というあたりが、すでに曖昧。しかし、それをどうともせずに、なんとなく今に至っている。このあたりも、かなり曖昧。
 隣近所のおばさんたちは何かにつけ、「お麩屋さんの伸夫君は地道で穏やかな人だから、そのうちいいお嫁さんが来てくれるといいわねぇ」と言ってくれるが、そう言ってもらえるうちが花だということにも、伸夫は気がつかない。伸夫にとって日々はただ、たゆたうように流れていくものだった。
 そんな伸夫だが、今朝はいつもと様子が違う。曖昧なりに相当焦っているらしい。今日、伸夫は一人で開店準備をしなければならないのだ。これまで伸夫は、自分から仕事を覚えようとせず、父親に指図されるまま、なんとなく身体を動かしていただけだ。だから、いざ一人で店を開けるとなると、手順が思い出せなくて、中途半端に店の中をうろうろするばかり。動きに主体性がないから気合いが入らず、手際は悪くなる一方だ。いつまでも仕事が進まないから、よけいに焦る。
 それに今日は、顔見知りのお客に何か聞かれたら、父親が入院して、母親は付き添いで病院に行っていることを説明しなくてはならない。伸夫は、お客と要領よく会話することも苦手なのだ。そんなこんなで、伸夫は今、窮地に立たされている。
 ところが都合がいいことに、伸夫の家には、こんな時にすがれる場所があるのだった。いや、恵比寿大黒の木像を祀った神棚は、こんな時のためだけにあるのではない。伸夫の祖父が江川製麩店の看板を掲げたその日から、ささやかな日々の心のよりどころとなるために、恵比寿様と大黒様はおわすのだった。
 伸夫の父親は昨日の朝、神棚に新しい水を上げ、恵比寿大黒に手を合わせた直後に倒れてしまった。「今日も一日、ご縁とおかげさまで、ありがたやありがたや……」という口癖を言う間もなかった。それを思い出した伸夫は「あ、そうだ」と開店準備を中断し、神棚の水を換え、煤けた恵比寿大黒の木像に手を合わせた。いつもなら、父や母が手を合わせる姿にうながされるように、なんとなく手を合わせ、上目遣いに神棚を眺めてみるだけだ。普段がそんなだから、やはり伸夫の姿は様にならない。背筋を伸ばすでもなく、前屈みに拝むのでもない。曖昧が形になって現れている。それが自分でもわかるから、おずおずおどおど、神棚の前で腰が引ける。自分の家にいながら、これでは挙動不審ですらある。

 伸夫のこの煮え切らない様子を、さきほどからずっと、じりじりしながら観察していた者がいる。当の恵比寿と大黒天である。伸夫の挙動不審の一部始終が、江川家の恵比寿大黒の木像を通し、エビスとダイコクの住まいに据えられた大型モニターに映し出されているのであった。エビスとダイコクは画面の前に並んで座り、伸夫が神棚に向かって口を開くのを待ちかまえている。
 ついに意を決したかのように、しかし曖昧に、伸夫が切り出した。
「あのう……。ええと、僕、伸夫ですぅ。伸夫と言うんですけど……」
 期待を大幅に外れる伸夫の言葉に、エビスとダイコクはがっくり肩を落とした。
「はいはい、伸夫さんね。……って、それは知ってるんだよ!」
 思わずそう突っ込んだのは、エビスの方だ。
「しっ! 聞こえちゃうよぉ」
 そうたしなめたのは、ダイコク。エビスはちょっと肩をすくめた。自分たちの声が、伸夫に聞こえるはずがない。伸夫の祖父母や両親とは心の中で言葉が通じるが、伸夫とは木像を通しても会話は一方通行だ。こちらの声は伸夫には届かない。エビスダイコクの住まいに、伸夫の心の呟きだけが、ぼんやり聞こえてくる。
「ええと……。うちの店、大丈夫かな。ほんとはあんまり大丈夫じゃないんだけど。売上、なんとなくどん底だし。麩って、景気と関係あるのかな。……ないのかも? あ、そういえば、今日、僕一人なんだけど、いいのかな、お店。僕だけだと、なんとなく、できないような気がするんだけど……」
 開店時刻は迫っているのに、伸夫の心の呟きはいっこうに終わらない。
「ああ、じれったいなあ、もう! 事情はわかってるんだよ。仕組んだのは俺たちなんだからさ。だからさっさと、頑張りますと決意を述べるなり、お力添えよろしくと頼むなりして、早く店を開けろっての。お寺のばあちゃんが生麩を買いに来るだろ!」
「まあまあ。エビス君ってば、せっかちなんだからぁ。僕たち福の神でしょ。江川家は僕たちの管轄なんだしさ、長い目で見てあげてもいいんじゃなぁい?」
 おっとりしたダイコクの物言いに、エビスはかちんときたようだ。
「そもそも、いつまでたっても伸夫がしっかりしないから、親父さんが倒れるようにしたんじゃないか。これで伸夫も目が覚めて、少しはしゃんとするだろうって段取りだったのに。伸夫のやつ、親父さんの無事を祈りもしないで。まったく、俺たちの今までの働きはなんだったんだ」
「うーん、確かにねぇ。福の神の働きを粗末にすると、結局自分が福を逃すことになるのにねぇ」
「だろ? 江川製麩店を伸夫の代まで続かせたのも、就職超氷河期に大学を卒業させたのも……」
「そうそう。就職できないから、親父さんの仕事を手伝うしかないもんねぇ」
「それもこれも、伸夫には、世のため人のために働くお役目があるからだっていうのに」
「親父さんの技術のおかげでできることなんだけど。その親父さんを倒れさせてまで賭けに出たのにねぇ。伸夫ちゃん、ちっとばかり、しっかりしてくれるといいよねぇ」
「ちっとばかりじゃ足りないんだよ。お袋さんの方は、俺たちの企みをうすうす気づいてたからいいとしても……。伸夫をおどかしたら、親父さんはすぐに回復させようと思ってたんだけどな。一回危篤にでもしないと、伸夫には責任感も湧かないようだな……」
「あわわわわ、エビス君、落ち着いて! 僕たち福の神なんだからさぁ。そんな人聞きの悪いこと言っちゃだめだよぉ。ねぇ?」
「それは吾輩に尋ねておるのか、ダイコク殿よ」
 その時エビスとダイコクの後ろで、腹の底に響く野太い声がした。ダイコクのぽっちゃりしたお腹が、衣の下で本当にぷるんと震える。
 いきなり毘沙門天が現れて、そこに仁王立ちしているのだった。ペットの散歩がてら、エビスダイコクの住まいに立ち寄ったらしい。ダイコクのお腹が余韻で震えているのを察知して、毘沙門天は眉をひそめた。ダイコクはうふふと笑って、お腹をさする。
「だって、ほら、僕たち福の神でしょ。ふくよかな方が、何かとホクホク感があってウケるんじゃなぁい?」
 一方、エビスは急いで衣の袖をたくし上げ、毘沙門天に力こぶを見せる。
「俺、漁に出てるからさ」
 ダイコクのぽってりした太り方と違って、エビスは固太りなのだ。しかし、硬派の毘沙門天と、福々しさが売りのエビスダイコクが体型を競っても意味がない。毘沙門天はふんと鼻を鳴らすと、そこにあった賑々しい色の座布団をつかみ、どっかと床に腰を下ろした。どうも機嫌がよろしくないようだ。腰に帯びた剣が、鞘ごと不穏な色に変わっている。ペットの白虎もその雰囲気を感じてか、毛が逆立って落ち着きがない。

 エビスとダイコクは顔を見合わせた。
「なあるほど……」
「うん、選挙が近いからねぇ」
 エビスとダイコクはいそいそとお茶を淹れて、仏頂面の毘沙門天の前に差し出した。そこはなんといっても、福の神。手ずから淹れたお茶には、さすがの硬派をも和ませゆるませる力がある。お茶を一口飲んだ毘沙門天は、ほーっと大きく、長い長い溜め息をついた。白虎もやっとくつろいで寝そべる。
「近頃の人間ときたら……」
 毘沙門天の口から、思わず愚痴がもれた。
「近頃の人間ときたら、我ら神仏と心を通わせる作法も知らん。日本人なら心の作法を心得ておるはずだが、いったいどうしたことか。どうにも解せぬ!」
「こっちも似たようなもんだよぉ。毘沙門さんとこは今、いろいろ気ぃ遣って大変なんでしょ? 人間界では選挙が近いからねぇ」
 ダイコクは聞き上手だ。エビスはさりげなくお茶を注ぎ足す。一口すすって、毘沙門天が話し始めた。
「候補者だの支援者だのが、入れかわり立ちかわり、吾輩の元にやってくる。選挙の必勝祈願だと!……あ、いや、それはいいのだ。なにしろ吾輩は戦いの神でもあるからな。しかしなあ、戦いの意味が違うのだ。戦うからには志を立てねばならぬ。志があるからこそ、時には戦わねばならぬこともあるのだからな。近頃の人間には、どうもそのあたりの覚悟が感じ取れぬのだ。目先の欲得に釣られて、思いつきで動いては右往左往しておる。肝が据わらぬ、先を見通す頭もないから、志を立てられぬのだ!」
 毘沙門天はそこで、「ううぬ……」と気を鎮めた。
「まあ、もっとも、顔の垢を落としてから参られよと言ったところで、人間に吾輩の声が聞こえるはずもないか。吾輩の管轄だけではない。全国津々浦々の我ら毘沙門天が、多少とも同じ思いでおることだろうよ」
 毘沙門天は遠くを見る目つきをした。物憂げなまなざしにも、意志の力を感じさせる。渋い。かっこいい。伸夫とは大違いだ。あ、そういえば、伸夫は……?

 モニター画面いっぱいに映る伸夫は、まだ悶々と呟いている。
「あのう……。恵比寿大黒さんは商売繁盛の神様だって聞いてるんですけど……。やっぱりだめですかね。なんていうか、いろいろと……。だって、恵比寿さんは魚を抱えてるし。かまぼこ屋だったらいいんだけど、うちは麩だから……。大黒さんは稲穂を持ってるけど、やっぱり無理ですよね。うちは麩だから……。使ってるの小麦粉だから、お米じゃないし……」
「ううぬ……。エビス殿、ダイコク殿、この若造を黙らせてはいただけまいか!」
 思わず叫んだ毘沙門天を、ダイコクはおっとりまったり、とりなそうとする。
「黙らせるなんて無理だよぉ。ねぇ? 好きなように喋るのは人間の自由だもん。それに僕たちはさぁ、神仏っていうのに気づく人間だけしか手助けできないもんねぇ。気づくきっかけは作ったけれど、あとは伸夫ちゃんの心しだいだもん。伸夫ちゃんを信じて見守るしかないよぉ」
 エビスはそれを聞きながら、無言で白虎を撫でている。思うところはあるものの、ダイコクの言うことはもっともだ。福の神としてのスタンスは守らねばならない。毘沙門天は「ううぬ」と唸ったが、お茶を飲み干して目を閉じ、気を収めた。それから、ふと目を開くと、「おお、そうだった」と口調を変えた。
「吾輩は何も、現実逃避をするためにここに立ち寄ったのではないぞ。弁財天殿からことづけを頼まれておったのだ」
「ひっ!」
 エビスとダイコクは、同時に声を上げた。毘沙門天がにやりと笑う。
「おや。特にダイコク殿は、頬が引き締まりましたな」
「ち、違うよぉ。そんなに急に痩せるはずないじゃない。緊張してるんだってばぁ」
 ダイコクは自分のお腹を指さした。見れば小刻みにぷるぷる震えている。エビスは反射的にマスコットの大魚を抱えた。緊張をやわらげようとする無意識の行動だ。
「だって、だって……」
 エビスとダイコクは息の合ったところを見せて、同時に叫ぶ。
「弁天の姐さん、怖いんだもぉーん!」

(続く)
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2010年05月03日

『鬼塚』〜〜「Kの夜話」より〜〜

『鬼塚』〜〜「Kの夜話」より〜〜

     如月マヤ

 この作品はフィクションです。人物・場所の設定、医学的要素などは事実ではなく、また、身体的表現において差別を意図するものではありません。

* * * * *


 その昔、山奥に鬼が一匹棲んでおったそうな。鬼は怖ろしげな姿で里に降りてきては、村はずれの墓を掘り返し、死人の肉を喰らっていたんだと。
 ある日、若い娘が鬼にさらわれて喰い殺された。村人たちは斧を振り上げて鬼の首をはね、手足を切り落としたんだと。そして、鬼が生き返らないように、山のあっちこっちばらばらに、土中深く埋めたんだそうな。
 月のない夜には今でも、鬼の手足が胴にくっついて、首を探し求めて山の中をさまよい歩いているんだと――。

 けれど、景子が聞かされてきた話は、それとは違う。景子は、伯母のヨシが話してくれる鬼の話のほうが好きだった。
 ヨシはたった一人、湖を見下ろす山の上で、先祖の墓を守って暮らしていた。迎え盆の日にはヨシ伯母の家に親族が集まる。その日、ヨシは決まって台所でそうめんを茹でながら、景子に鬼の話をしてくれるのだった。何度その話を聞かされても、景子は不思議と退屈しなかった。
 結婚をせず子もない伯母が、甥や姪たちの中でもとりわけ自分を可愛がってくれるのは、自分が飽きもせず鬼の話を聞きたがるからだと、これまでずっと景子は思っていた。しかし、あの頃は気づかなかったが、ヨシは自分だけにその話を聞かせていたのだった。いとこの誰も、この話を知らない。

 その昔、男が一人、村はずれに住んでおったそうな。男は生まれつき異様な姿をしておった。額が広く、頭の骨が出っぱって、まるで角のように見えたんだと。村人たちは男の姿を疎ましがって、鬼と呼んで村はずれに追いやったそうな。
 その男はたいそう賢く、やさしい人だった。村人たちは勝手なもので、困り事がある時だけはこっそり男を訪ね、知恵を貸してもらっていたのだそうな。男は鬼と疎まれても村人を恨まず、山芋を掘って飢えをしのぎ、ひっそり暮らしておった。
 やがて、男の人柄に惹かれた一人の娘が、男と情を交わすようになった。ところが、それを知った村人たちは怒り狂ったんだと。そんな姿の男が若い娘と好きあうのを汚らわしく思ったのかもしれん。男に好いた女ができて、自分たちの都合だけで男を使えなくなるのが面白くなかったのかもしれん。人は業が深いもんだ。他人が自分の思ったまんまの人間でないと気がすまない。男の別な一面を知って、村人たちは、なにやら面白くなかったんだろうよ。いったんそうなると、無性にその男が憎くてたまらなくなってな。難癖をつけて詰め寄ったあげく、みんなで男を殺してしまったんだと。鎌や斧で男を脅しているうちに、刃先が男の首に当たってしまったんだそうな。血が噴き出して苦しがる男の形相はそれはそれはすさまじく、村人たちは怖ろしさのあまり、男の息の根を止めた。斧で首を切り落としたんだと。
 そこへ、何も知らない娘が男を訪ねてやって来た。土間に転がる男の首を見て、娘は声にならない悲鳴を上げると正気を失ってしまったと。その様は村人たちの身をすくませた。だから村人たちは娘も殺そうとしたんだと。やましかったからだろうよ。理由は後からどうとでもなると言って、村人たちは刃物を振り上げた。その時だ。晴れた空に突然雷鳴が轟き、男の小屋を貫いて雷が落ちたんだと。神や仏が一部始終を見ていたからかもしれん。殺されたやさしい男が、娘を思って、初めて本気で怒ったのかもしれんな。村人たちが雷でしびれ、刃物を取り落とした瞬間、娘ははじかれたように男の首をつかむと、外へ飛び出していった。
 娘は身ごもっておったそうな。
 正気を失った娘は、愛しい男の首を抱いて、山の中を何日もさまよったんだろうよ。山の向こうのそのまた向こう、湖で漁をする小さな村に助けられると、そこで鬼の子を産み落としたんだそうな。
 今でも湖畔を歩くと、月のない夜には娘の歌う子守歌が聞こえてくるよ――。

 夕刻になると、迎え火を焚く。
 先祖の墓は、ヨシの家のすぐ裏の、山の斜面にあった。墓といっても、それはただ小岩を置いただけのもので、周囲はうっそうとした林に囲まれている。墓地を示す土地の区切りもないので、それが墓石であることは一族の者にしかわからない。それがなおさら景子に、あの小岩の下に遠い先祖が眠っていることを確信させるのだった。
 その墓石の前まで行く者は、きょうだいの頭であるヨシか、一人の伯父だけと決まっていた。景子の父親はこの七人きょうだいの末っ子だったが、景子の父親も、ほかの伯父伯母も、直接墓石の前に立つことはない。それが、この一族の迎え盆だった。
 年に一度のこの日には、ヨシ伯母の家には、きょうだいとその子供たちしか集まらない。景子の母親は皮肉な溜め息をつきながら言う。
「あのきょうだいは、何を考えてるんだか、さっぱりわからないわ。私が結婚した時からそうだったんだから。つれあいを仲間に入れないで、きょうだい七人だけで話をするばっかりで……」
 確かに母親の言うとおりだった。親戚が寄り集まっても、七人きょうだいの会話に、それぞれのつれあいが招じ入れられることはなかった。かといって、はじかれた他人どうしが仲を深めることもなく、それで迎え盆には、七人のきょうだいとその子供たちだけしか集まらなくなった。
 景子の母親が長年、義理の兄や姉たちへの不満を積み重ねてきたのにはわけがある。
「あのきょうだいが家に来たのは、後にも先にも一回きり、景子が生まれた時だけなんだから。お祝いも持たないで、生まれたばかりの赤ん坊の頭をいじったら、さっさと帰ってしまったんだよ。情のない人たちなのよ」
 景子が生まれた時は難産で、頭のはちが大きくて鉗子分娩でやっと生まれたのだという。たいへんなお産の後、まだ母子が落ち着かないうちに、父親のきょうだいたちがやって来たのだそうだ。そういう時に気持ちの通じあわない出来事があると、後々までその不満を引きずることがあるものだ。
「あの人たちはね、鉗子分娩だったと聞いて飛んできたのよ。目がつぶれてないかとか、おでこに鉗子の傷がついてるんじゃないかとか、それが心配だったんじゃないの? 難産だったのが悪いみたいに、私への当てつけで赤ん坊の頭をいじっていったのよ」
 景子は小さい頃から、自分がヨシになついているのを母親がどう思っているのか、その胸の内を理解できていた。母親を身内として扱わない伯父伯母たちに、景子は距離を感じてもいた。湖を見下ろすあの家に行って、親戚と顔を突きあわせるのは気が重い。けれど景子は、迎え盆の日には父親についてヨシ伯母の家を訪れた。ヨシが話して聞かせる鬼の話には、それだけ景子を惹きつけてやまない魅力があったのだ。

 その年もいつもと同じように、ほかの者は言葉少なに迎え火を焚きながら、その火をろうそくに移した伯父が、斜面を登って林の間の墓に向かうのを見上げていた。墓石のこちら側にくぼみがあるのが、下から見てもわかる。伯父は身をかがめ、そこにろうそくを立てていた。伯父が斜面を降りて皆のところへ戻った時、誰かが小さく声を上げた。
 景子が墓を見上げると、ろうそくの火が消えていた。
 この林はいつもじめじめと、苔むした匂いがする。迎え火を焚く時も、湿った木切れを乾かすことから始めるほどだ。それに、風もある。ろうそくの火がすぐに消えるのは当然のことではないか。景子には、伯父伯母たちが沈黙し、緊張する理由がわからなかった。ろうそくを立てに行った伯父は、困ったように苦笑いを浮かべている。
 けれど、伯父のその表情に気づいたのは景子だけだった。ヨシが新しいろうそくに火をつけている間、大人たちは皆、景子を凝視していた。黒く見開かれた目がいっせいに自分に向けられて、景子は空恐ろしくなった。父親ですら数歩下がって、景子を他人のように見つめている。
「子供たちの中では、景子だけだから」
 不意に、伯父伯母のうちの誰かがそう口にした。ヨシに素早く一瞥されて大人たちは再び沈黙したが、その言葉は景子の耳に刺さって残った。
 景子はヨシからろうそくを手渡され、することはわかっているね、というヨシの目に促されると、黙って斜面を登り始めた。その場の雰囲気には無頓着に、いとこたちが下から「肝試しだ」と景子をはやしたてている。ろうそくの灯りを頼りに、子供が一人で暗い林に踏み入るのは、肝試し以外に、いったいどんな役割がある時なのだろうか。
 かび臭い土に足を取られてよろめくたびに、ろうそくの火は消えそうになる。山の傾斜はきつく、景子は片手で火を囲いながら、やっとのことで墓石に近づいた。
 間近で見る先祖の墓は、ごつごつした、ただの小さな岩だった。何の文字も模様も刻まれておらず、風化にまかせて一部が砕けかけている。手前のくぼみに、伯父が立てたろうそくがあった。景子はそれに自分のろうそくの火を移してから、くぼみにろうを垂らし、自分が持っていたろうそくを立てた。それまでちらついていた小さい炎は、くぼみの中でやっと落ち着いた。
 下から自分を見上げる視線をずっと背中に感じていた景子は、墓に火がともってほっとした。
 斜面を降りてから景子が墓を振り返ると、伯父の立てたろうそくはまた火が消え、景子のろうそくだけに火がともっていた。大人たちはそれを知っているに違いないのに、もう誰も墓を見上げようとせず、そそくさとその場を立ち去った。
 景子は、後に残って火の始末をしているヨシに近寄り、おそるおそる声をかけた。
「ろうそく、また火が消えてるね。火をつけに行ってこようか?」
「行かなくていいよ。景子のろうそくがついているから、いいんだよ」
「私が持っていったろうそくの火、揺れないね。風があるのに。なんだか、まあるくなって、小さな火の球みたいに見えるよ」
「ああ、あれはね、ご先祖が喜んでいるんだよ。血を受け継いだ子孫に、こうしてろうそくをあげてもらったからね。遠いご先祖が、嬉しいってさ」
「ふうん」
「それに、子孫の中では景子だけだしね」
 ヨシも、そう言った。

 先祖の墓にろうそくを立てに行った伯父は、その年の暮れに亡くなった。
 葬儀にはきょうだいと、甥や姪の中からは景子だけが呼ばれ、そして景子は奇妙な場面を見たのだった。
 伯父の遺体が焼かれている間、景子は控え室の窓から外を眺めていた。空は濃い色に曇っており、空気は凝縮するように冷えこみを増していた。すぐにも雪が降り出しそうな空に向かって、伯父の煙が昇っていく。それを目で追おうとして、景子が窓に額を近づけた時だ。建物の陰にヨシの姿が見えた。人目を忍ぶように背を丸め、黒い服の男性と、ひそひそと話をしているような様子だった。景子が眺めていると、ヨシは喪服の袖から包みを取り出し、押しつけるようにして男性に受け取らせたのだった。
 景子は、はっとして窓から顔を離した。見てはならないものを見てしまったのだ。あの包みは、きっとお金だろう。葬儀場の人にお金を渡して、伯母は何を頼みこんでいたのだろうか……。
 やがて、骨を拾うために親族が呼ばれた。
 伯父の骨はまだ冷め切っておらず、金属の台にそっと手をかざすと、景子は焼けた骨の熱を感じ取れた。そういえば、ヨシ以外に、この伯父だけが景子の頭を撫でてくれた記憶がある。ふとそれを思い出して、景子は初めて伯父に身内の懐かしさを覚えたのだが、それが景子に幸いした。ぼんやりと自分の思いにふけっていたせいで、景子は、葬儀場の黒い服の男性が「頭のお骨は、先に骨壺に納めさせていただきました」と挨拶をした時に、ヨシの顔を思わず見なくてすんだのだから。そして、親族の誰もそのことを気にとめるふうもなく、むしろ安堵した様子でいることを、景子は疑問に思わないことにした。
 伯父の密葬の後、景子が先祖の墓にろうそくを立てるのが習わしのようになると、伯父伯母たちはヨシの元から離れ、もともと寂しかった親族の集まりはしだいに皆から忘れられていった。もしかしたら、誰も、名も知れぬ遠い先祖のために集まりたくはなかったのかもしれない。きょうだいたちはそれぞれ別に、自分の墓を建ててあった。きょうだいどうしの情も薄い間柄だったのだろう。
 景子も故郷を離れて就職すると、ヨシ伯母の家から足が遠のき、親戚はもとより、そのうちにヨシ伯母とも付き合いは途絶えてしまった。

 そんな景子に、ある日、いちばん年かさの従兄から突然連絡があった。ヨシ伯母が亡くなったという。
 一族の長らしく、ヨシは年を取っても気丈で足腰がしっかりしていたそうだが、急に冷えこんだ日の朝、手洗いから出たところで倒れ、そのまま息を引き取ったらしい。孤独死だった。それを知った時、景子は、自分が好きだったのは伯母ではなく、伯母が語る鬼の話の方だったのだとあらためて自覚し、自分にも情のない人たちの血が流れているのだと自嘲した。
 ヨシの葬儀には、景子の父親ら健在のきょうだいと、いちばん年かさの従兄と景子だけが出席した。やはりヨシの頭蓋骨も先に骨壺に納められており、皆は形だけ骨を拾うと、あとは業者に任せて葬儀はすぐに終わった。まるで、ヨシが生きていたことをなかったことにするかのようだった。
 帰り際、景子は従兄に声をかけられた。
 従兄はあの伯父の一人息子で、今では親戚の用事を全部一人で取り仕切ってくれていた。ヨシ伯母の遺体を見つけたのも、葬儀の手配をしたのも彼だった。早くに父親を亡くしたからか、この従兄は責任感が強く、けれど、背負わされているものが多い人のようにも見えて、景子にとっては近づきがたい存在だった。その従兄が、景子に大事な用があると言う。
「俺たちいとこの中では、景子だけだからな」
 彼もまた、景子の耳に刺さる言葉を口にする。
 景子はヨシ伯母の骨壺を抱いた従兄に連れられて、湖を見下ろすあの家に向かった。
 
 ヨシ伯母の家に来るのは、何年ぶりだろう。年月が経っても、湖だけが変わらない。この湖は昔話の時代から変わらずに、ずっと空の色を映してきたのだ。湖面に映る午後の空を、景子は伯母の家の庭先から黙って眺めていた。
「景子、行くぞ。墓参りはこれが最後だ」
 従兄の声が響いた。従兄は車のトランクからシャベルを二本出してきて、一本を景子に持たせた。二人とも喪服のままで、これから何をしようと言うのだろう。けれど景子にはもう、それが何なのかわかる気がしていた。あの日、初めて先祖の墓にろうそくを立てた時のように、することはわかっていると景子には思えた。歩きづらい斜面を登りながら、先を行く従兄が重荷を下ろすように淡々と語る話を、景子は静かに聞いていた。
 父親が死んだ後しばらく経ってから、従兄はヨシ伯母に呼ばれた。そして、七人のきょうだいの中で、ヨシと自分の父親には、先祖から受け継ぐ遺伝的な特徴があると聞かされたのだった。男女のどちらにも現れるらしいその特徴は頭の骨の変形で、遺体を焼けばすぐに見てわかる。だから頭蓋骨は人目につかないように隠したのだと説明された。
「これはきょうだいだけの秘密にして、つれあいにも子供たちにも話さないと決めていたんだよ。けれど、おまえの父親が早く亡くなったから、後の始末のために、おまえにだけは教えておかなくてはね。このことは、きょうだいの子供たちは誰も知らない。遺伝といっても、今なら多少の骨の異常ですむだろうから、子孫が知る必要もないんだよ。おまえたちの中では景子だけに遺伝したけれど、たいして目立つわけじゃないから、そのうちこの遺伝も消えていくんだろう。私が死んだら、ご先祖から続いた昔話も、それでやっと終わるんだろうよ」
 伯母はそう言って、自分の死後の始末を年若い甥に託したのだった。

 そして従兄と景子は今日、一族の最後の後始末をするために、遠い先祖の墓の前に立っている。以前は砕けかけていた岩の一部が、石ころになって土の上に散らばっていた。何もしなくても、この墓石はもう自然に還りつつあった。
「ヨシ伯母の葬式が終わったから、俺が相続の整理をする。俺が得するつもりはないんだ。七人きょうだいの残りが面倒なことをしなくてすむように、きちんと整頓しておくだけだ」
 従兄は苦労性らしい話し方でそう言った。
 景子にはわかっていた。ヨシ伯母は自分の死後、この家と裏山を全部売り払えと頼んだのだろう。二束三文にしかならないことはわかっている。伯母はただ、遠い昔から受け継いだ荷を子孫に背負わさないよう、先祖のことも昔話も、自分の死とともに消し去りたかったのだ。
 景子は無意識に自分の頭に手を這わせた。景子の頭は、頭頂近くで、骨が外側に向かって隆起している。
「話してくれて、ありがとう」
 短くそう言うと、景子は従兄に手を貸して、力をこめて鬼の墓を突き崩した。二度と据えられることのない墓石は、崩すだけなら二人の力で十分だった。斜面を転がり落ちる小岩は、人の首を思わせる。景子と従兄は、岩が斜面の下まで落ちるのを見届けると、大きく息を吐き出した。
 墓石の下には、一メートルほどの深さに掘られた細い穴があった。景子が覗きこむと、底の方に白茶けた石のようなものが見えた。
「俺の親父だ」
 従兄がぽつりと呟いた。この穴の中には従兄の父親の骨だけでなく、一族の中の、鬼の骨を持つ者たちが眠っているのだった。代々、秘密を知っている者だけが、密かにこの墓に骨を納めてきたのだろう。従兄は骨壺を逆さにすると、ヨシの骨を残らず墓に納めた。
「さあ、これで後は……」
 従兄の言葉を待つまでもなく、景子はもうシャベルで周りの土をすくい取っていた。土をすくい取っては、穴に投げ入れる。こうして全てを消し去るのだ。その昔、鬼と呼ばれた者がいたことを。鬼に子孫がいたことを。ここに血を受け継いだ者がいることも……。いずれこの山が人手に渡り、土が崩されることがあったとしても、粉々に砕かれた頭蓋骨と焼かれた骨は、土砂に混じってそれとわかることはないだろう。
 
 湖面はいつしか残照の色を帯び、山々に抱かれて眠りにつこうとしているようだった。
 今夜は湖畔で子守歌が聞こえるかもしれない。
 鬼たちも、静かな眠りにつくだろう。

(完)
posted by まやちんの友達 at 23:47 | Comment(0) | 「鬼塚」 | 更新情報をチェックする