2010年04月10日

『まやちんの大冒険』修正版

『まやちんの大冒険
 〜さまよえる天空の村!霧のかなたにエルドラドの幻影は消えた!〜』(修正版)

  如月マヤ

 この物語は、小さい身体に熱き冒険者魂を宿らせた、信州育ちの女の子まやちんが主人公。小学生のまやちんは、背の順は前から二番目、忘れ物が多くて習字が苦手だけれど、頭の中はいつも冒険への夢と憧れでいっぱいです。まやちんの毎日は、何もかもが、ダイナミックでスリリングな冒険の旅なのです。

*  *  *  *  *

 197X年。信州は遅い春を迎えていた。
 冒険者まやちんは両親に連れられて、父親の知人を訪ねることになった。舗装のない山道を車で数時間。芽吹き始めた木々の間に、白い色がちらほらと見え隠れするのは、コブシか山桜が咲いているのだろう。いくつかの峠を越えて辿りついたその場所は、天候によっては陸の孤島になるという、山あいの小さな村だった。
 知人宅の茶の間でお茶請けに出されたのは、もちろん、信州人の茶飲みに欠かせない野沢菜の漬物だ。漬物を楊枝でつつきながら、まやちんはそれとなく大人たちの会話に耳を傾けていた。他愛のない茶飲み話の中にも、次の冒険への手がかりを見つけることができるかもしれない……。それは冒険者の心得だった。
 しかし!
 お行儀良くしなさいと母親に注意されていたため、正座をしていたまやちんの足は、もう相当しびれていた。次々に野沢菜を口に入れて気を紛らわせないと、そのまま座布団の上で転んでしまいそうだった。まやちんは、そんな自分が内心はがゆくてならなかった。
 うかつだった!
 もっと正座の訓練に時間を割いていれば……。
 アマゾンの奥地で謎の巨大人喰いワニに遭遇した時に備え、その訓練には余念がなかったものの、肝心の正座の訓練をおろそかにしてしまっていたのだ。これはなんとしたことか!
 冒険者は時として、長時間に渡り、村の古老から伝承の聞き取りをすることがある。礼儀をわきまえて、目上の者から足を崩す許可が出るまでは、正座で過ごすことは基本中の基本ではなかったか……。
 まやちんは足のしびれをこらえながら、冒険者としての自覚が足りなかった自分を責め、基本を忘れた己の慢心を悔いていた。今、自分は、次なる冒険の機会を失いかけているかもしれないのだ。
 そして、まやちんの足のしびれは、この瞬間に限界を超えようとしていた。
 と、その時!!
 まやちんは、その家の主が口にした言葉に、我が耳を疑った!!
「……おらほの畑の向こうっかわの山だけんど、たらの芽えらい出てるらしいだ」
 そう言うと、その家の主は年配者らしく「よっこいしょ」と自らに掛け声をかけながら、野沢菜にしわくちゃの手を伸ばした。
 まやちんには、この土地の言葉が理解できた。冒険者には語学のセンスが要求される。主は、「私の家の畑の向こう側の山なのですが、たらの芽が、たくさん出ているらしいのですよ」と言っているのだ。主はそれを、「まえでんちのもん」すなわち「前の家に住む者」から聞いたと言った。
 たらの芽……!
 まやちんは激しい衝撃を受けた。こごみや蕗なら、まやちんの家の庭でも採れる。そのほか、庭に自生する三つ葉やシソ、山椒の葉を採ってくるのは、夕飯時のまやちんの仕事だった。しかし、たらの芽となると話は別だ。たらの芽は別格なのだ。栄養価・おいしさ・希少性のどれをとっても、たらの芽は山菜の王者の名にふさわしかった。たらの芽は、人々が求めてやまない、まさに黄金の山菜なのだ。
 山菜の採れる春の山を、都会の人ならば、桃源郷のような風景として思い描くかもしれない。しかし、それはあまりにも甘い幻想だ。一見のどかなその場所は、山菜の魅力に方向感覚を失った者を山中に迷わせ、時には遭難者も出すほどの魔力を秘めている。
 その危険を承知でなお、人々は山菜を採ろうとして山に足を踏み入れるのだ。たらの芽を採るためならば、ことさらに狂乱する者がいても不思議ではない。
「まさしくエルドラド……」
 まやちんは、誰にともなく、重々しくそう呟いた。かつて、黄金郷を探し求めて危険な旅に向かった者たちがいた。貴重なたらの芽が、しかもたくさん出ているというその山は、黄金郷エルドラドに匹敵する秘境に違いなかった。この山村の標高の高さは、謎に満ちた秘境の雰囲気をかもし出すのに充分だ。ということは……!
 そうだ!!
 まやちんは今まさに、新たな魔境伝説と出会ったのだ!!

 次の瞬間まやちんは、その場にすっくと立ち上がっていた。足がしびれていることは、もうとっくに忘れ去っていた。冒険が始まるのだ。冒険者まやちんが、足のしびれに気をとられることはなかった。
 しかし、その時!
「お手洗いに行くの?」
 突然立ち上がったまやちんに向かって、母親が眉をひそめて尋ねた。
 違うっ! そんなんじゃないっ!
 反射的に口から出かかった言葉を、まやちんはかろうじて飲み込んだ。いけない……。目的を忘れるところだった。まやちんの目的は冒険だ。誰にどう思われようと、理解されなくても、かまわないではないか。時として、冒険者は孤独に甘んじて旅立たねばならないことがある。冒険への熱い思いだけが、唯一の友となるのだ。
 今回も孤独な冒険になりそうだった……。
 ちょうどその時、柱時計が時を打った。それが出発の合図だった。運命がまやちんの背中を押したのだ。
 まやちんは、冒険者のかばんを手にした。このかばんの中には、冒険に必要な道具が入っている。それは、もしもの時には自分の命を救うかもしれない、大事な道具なのだった。縁側で運動靴をはきながら、まやちんは、「これを使うことにならなければいいが……」と呟いた。
 かばんを開けると、まず小包用の紐の束が目に入る。これは、木から木へ飛び移る時に、ロープとして使うつもりだった。学校で配られた小型のルーペは、必ず黒い紙とセットにしている。太陽光を集めて火をおこし、遭難した時にノロシをあげるためのものだ。まやちんは、仏壇に常備してあるマッチとロウソクを持たせてほしいと母親に頼んだことがあるが、即座に却下されたうえ、「火遊びするとおねしょするんだからね!」と、怖ろしい迷信を母親から吹きこまれてしまった。
 そのほかに、非常食のチョコレートは、溶けるリスクがあるとしても決して忘れるわけにはいかない。まやちんの好物なのだ。これらの品物は、この後まやちんが二十歳を過ぎても常に持ち歩くことになる、冒険者の必須アイテムなのだった。
 今、まやちんは、目の前の畑の、その向こうを見つめている。目指すのは、あの山だ。
 背後で大人たちの談笑の声が聞こえたが、まやちんは振り返らなかった。その声も、しだいにまやちんの耳には届かなくなるだろう……。歩き始めながら、まやちんは、未知なる世界への冒険に心が躍るのを感じていた。
 しかし!
 この後、冒険者魂を打ち砕こうとするいくつもの困難が、まやちんを待ち受けているのだった!!

 勇んで歩き始めたまやちんだったが、快調な足取りがふと止まった。それは、山際まで続く畑を、もう少しで通り過ぎようという時だった。
「う……」
 山の斜面と畑との間に、小さな川が流れていたのだ。山から流れる自然の小川を、ここでは農作業に利用しているのだろう。朽ちかけた丸木が一本、橋のかわりに渡してあった。
 しかし、まやちんは丸木橋の前で足を止めた。小川の流れがまやちんに、できれば忘れてしまいたい苦い体験を思い出させたからだ。それはまさしく、まやちんをそこから先へは一歩も進ませまいとする重苦しい足枷、過去からの亡霊だった。
 ちょうど一年ほど前のことだ。学校帰りに田んぼの横を歩いていたまやちんは、ふとした気の緩みから、用水路に落ちてしまったのだった。
 用水路といっても、それは狭い川で、流れが浅かったことが幸いし、まやちんは自力で岸に這い上がることができた。生臭い水をぽたぽた落としながら家に帰ったまやちんは、親に話せばお説教されるだろうことを怖れ、ランドセルを玄関に放り投げると、そのまま外の日なたに寝転んで服を乾かし、事件の隠蔽を図った。川底のぬめぬめした何かを、図らずもその中にすくい取ってしまった手提げ袋は、そのうち乾くだろうと放置しておいたのだった。
 何食わぬ顔で数日が過ぎたある朝、まやちんは、自分がとんでもない過ちをおかしたことに気がついた。
 布製の手提げ袋に、異常事態が起こっていたのだ。まやちんは呆然として、袋の中を覗きこんだまま、その場に立ちつくした。
「これ……なんだろ……?」
 そう、それは、まやちんがあの日給食で残したパンの変わり果てた姿だった。
 給食は残してはいけないことになっていたが、身体が小さく少食のまやちんには、時間内に食べきることが難しい。その日は、周囲の目を盗んで、やっとの思いでパンの半分を手提げ袋の中に隠すことができたのだった。そのパンが、今は、色とりどりのカビに覆われている。しかもそれは、特撮映画に出てくる宇宙生物の繭のように、手提げ袋全体を侵食しているのだった。
 それから先は、まやちんにとって悪夢そのものだった。
 母親にこっぴどく叱られたあげく、カビパンの始末と手提げ袋の洗濯に追われたまやちんは、学校に遅れた。遅れた理由を正直に話したら、担任の先生にも叱られた。同級生に笑われた。まやちんはみじめだった。
 そして今、小川を前にしたまやちんは、その苦すぎる思い出を、スローモーションの走馬灯のように、繰り返し繰り返し脳裏に思い浮かべている……。
 まやちんは、ここで立ち止まったままなのだろうか!? 冒険の目的地を目前にして、過去の亡霊に取り憑かれたまま、一歩も前に進めなくなってしまうのだろうか!?

 いや、そうではない!
「過去の失敗を教訓に変えるんだ!!」
 まやちんの冒険者魂が、憤然と叫んだ。まやちんは、その叫びを確かに聞いた、と思った。
 そしてこの時、まやちんは一つ悟った。冒険とは、過去の自分を乗り越え、新たな自分に挑戦する、成長の道でもあるのだと。
 もう迷いは消えていた。迷いが消えれば、あとは早かった。一つの失敗は、たくさんの智恵を教えてくれる。だからこそ、過去に囚われることなく、先へ進むことができるのだ。まやちんの頭は冴えわたっていた。今のまやちんには、あの時なぜ自分が用水路に落ちたのか、はっきりと理解できる。
 うららかな春のあの日、まやちんは学校帰りの時間を、冒険の訓練のために有効に使おうとしていた。
 傍目には、小学生の女の子が、黙々と田んぼのあぜ道を歩いているとしか映らなかっただろう。しかし、まやちんの頭の中では、世界の果ての秘境を目指して危険きわまりない断崖絶壁の縁を進む、自分の勇姿がありありと形を成していたのだった。その未来の自分の晴れ舞台のために、一刻をも惜しんで、下校中も訓練に励まなくては! と、まやちんが奮い立ったその瞬間、目の前の景色が一回転して、まやちんは川にはまっていた。
 愚かなことに、まやちんは空想に酔いしれていたのだ。頭の中で思いを巡らすことに気を取られて、肝心の自分の足元から注意がそれていた。目の前に見えているはずの用水路を認識することもできなかった。常に研ぎ澄まされていなければならない冒険者の五感を、まやちんは、空想に酔うことで麻痺させてしまっていたのだ。
 無益な自己陶酔はさらに、まやちんの冷静な判断力をも失わせていた。
 さっさと親に事情を話して、謝った上で協力を仰げば済むものを、その場で問題に対処しなかったことで、この事件は結果的に大きな被害を招くこととなってしまったのだ。
「ふ……」
 まやちんは小さく笑った。それは、一つの学びを理解して、過去の愚かな自分を広い心で受け入れることのできた者の笑みだった。
 大きく深呼吸すると、まやちんは、川に渡した丸木橋を凝視した。今この瞬間に、自分が取り組むべきは、この丸木橋だ。ここに集中するんだ! ここだけに!
 川の向こう側のことも、そのまた向こうに待ち受けているであろう黄金郷のことも、冒険を成し遂げる自分の輝かしい姿のことも、まやちんは頭の中から取り去った。そして、まやちんは一歩を踏み出した。慎重に丸木橋の上に歩を進め、全神経を足元に集中させたまやちんの耳には、周囲の何の物音も聞こえてはこなかった。
「この橋を渡るんだ!」
 その決意が、まやちんの集中力を支えているのだ。
 そして、ついに……!
 まやちんは、丸木橋を渡り終える瞬間を迎えた。地面に両足を下ろしたまやちんは、後ろを振り返った。その時初めて、小川のせせらぎと風の音に気がついた。
 乗り越えたのだ、自分を……。
 小川にきらめく光が反射し、まやちんの顔は晴れ晴れと輝いていた。

 しかし、一つのことを学び終えたまやちんには、その自分を誇らしく自慢する時間はなかった。そのような気持ちに囚われることもなかった。まやちんの目的は、冒険なのだ。
 まやちんは前を向くと、山を見上げた。その山肌はほぼ垂直に、まやちんの前に立ちはだかっている。山肌は固い土で、春先の短い草が点々とへばりついているだけだ。手がかりになる岩が突き出しているわけでもない。この山を登るのは不可能だとしか思えなかった。しかし、目指す目的は、この山の上にあるのだ。ほかに方法はない。
 まやちんは何の躊躇もなく、山肌に取りついた。ただ登るしかない。途中で転落することなく、ひたすら登り続けなくてはならない。それが、目的地に辿りつくための、たった一つの方法だった。まやちんは再び雑念を払い、目の前のことに集中した。登りきるまで、ひたすら進むのだ。
 と、その時!
「うわぁぁぁぁぁっ!! ど、毒ヘビ……!!」
 なんとっ!!
 まやちんの指先をかすめて、一匹の巨大なヘビが山肌を横切ったのだ!!
 巨大毒ヘビの出現……!!
 それは、前方に潜むさらなる危険を冒険者に知らせる、神なる山からの警告か!? それとも、この山に侵入する者を抹殺すべく、魔界から放たれた刺客なのだろうか!? この先に存在するはずのエルドラドは、人間が立ち入ることを許されぬ魔の領域、呪われた聖地なのであろうか!?
 このような時、古くから冒険者たちの間で語られてきた、いくつかの心得が役に立つ。まやちんはその一部を、冒険の途中で出会ったある人物から伝え聞いたことがあった。
「今居る所よりももっと先へ行こうとする者は、何かと試されるものなのさ」
 と、その人は言った。
「きちんと見極めることだね。それが君の決意を試すものなのか、それとも、その道が君にふさわしくないことを教えるサインなのかを」
 と続けたあとで、その冒険者はいたずらっぽく笑った。
「だけど、忘れちゃいけないよ。それが本当の危険だということもあるからね。困難を乗り越えることで実を結ぶこともあるけれど、甘んじて危険に身を投じるのは、賢いやりかたとは言えないからさ。さあ、どうしたらいいか、君には見分けがつくかな?」
 その人は、答えのない謎めいた言葉をまやちんに投げかけると、自身の冒険の道へと旅立って行った。飄々とした後姿が、まやちんに、決断と行動で示した結果が答えなのだということを、教えてくれているようだった。これでよかったのだと言えるのも答えの一つであり、間違っていたとわかるのも答えの一つなのだろう。
 それを思い出して、まやちんは考えた。
 本当の危険? そんなことはない。だって、あれは毒ヘビではなかった。最悪の事態を考えておけば、リスクを回避したり、リスクを最小に抑えることができるという原則に従って、とりあえず「ど、毒ヘビ!」と叫んだまでのことだ。大きかったような気がしないでもないが、今思えば、巨大というほどの大きさでもなかったような気がしないでもない。それに第一、あのヘビはこちらに向かってきたわけではなかった。目の前を通り過ぎただけなのだ……。
 そこまで冷静になれた時、初めてまやちんは気がついた。自分の今の状況を見れば、悠長に考えを巡らせている場合ではなかったのだ。ヘビに驚いた時、まやちんは、山肌のちょうど真ん中あたりまで登ってきていた。両手につかんだ草の束と足のつま先だけで、身体を支えているのだ。一刻を争う状況だった。
 あの冒険者は、一度だけまやちんを振り返って、こう言った。
「無理をすることはないさ。でもね、やる時はやらなければならないよ。それを君が本当に望んでいるならね」
 ここから降りようとして落ちても、たいした怪我にはならないだろう。引き返すなら今のうちだ……。まやちんは、そうも思った。いずれにしろ、どうするかを決断しなければならない。引き返すことを選んでもいいのだ。
 しかし、まやちんは引き返さなかった。
 無言で、数センチ先の草をつかみながら、わずかずつ山肌を登り続けたのだ。
 どれほどの時間が経っただろうか……。まやちんの手が、頂上らしき平らな地面を探り当てた。まやちんは力をふりしぼって自分の身体を押し上げ、そして、ついに頂上に立った……!!
 
 冒険者まやちんは見た!!
 目の前に広がるのは、遠くまで整然と並んだたらの木……。そして、その枝の先すべてに、やわらかい黄緑色のたらの芽が……。冒険の果てにまやちんがついに到達した、そこはまさしく、たらの芽の黄金郷であった!!
 過去に、いったいどれほどの冒険者が、このような至福の瞬間に出会ったことであろうか!! まやちんは感動のあまり声も出ない。そこは、春の風が吹きそよぐ、平和で穏やかな空間だった。木肌と新芽の匂いが満ちている。
 しばらくの間その光景に陶然としていたまやちんだったが、ふと、頭の中で何か直感的にひらめくものがあった。
 たらの芽を持ち帰ろう……!
 それが冒険の真の目的なのかを自分の心に問い直す間もなく、ひらめきは言葉になって、次々に湧き上がってくる。それに従えば自分の願いが叶って、奇跡的に素晴らしいことが起こるに違いないと予感させるような、期待感を心地よく刺激する思いつきだった。
 たらの芽を持ち帰ろう。そうすれば、冒険を成功させた証を人に見せることができる。自分の成し遂げたことを人に認めてもらえる。それには、たらの芽を持ち帰ることがいちばん正しい方法だ……。湧き上がる言葉はとめどなく、そして、どの言葉も、たらの芽を持ち帰ることが冒険の本来の目的なのだということを、正当な理由で裏づけようとしていた。
 この時まやちんは、自分が本当の危険に晒されていることに、まったく気づいていなかった。直感に見せかけた魔界からのささやきを聞き分けるには、まやちんにはまだ経験が不足していたのだ。そうでなければ、たらの芽に手を伸ばすこともなかったのだが……。
 冒険の真の目的に責任を持っているかどうか、冒険者は常に試される。真の目的のように見せかけた巧妙な罠は、一見しただけでは見破ることは難しい。やっかいなことに、真の目的にすり替わろうとする偽物は、それを正当化する言い訳を次から次へと並べ立て、欲望という人間の弱さにつけこむ方法で冒険者を惑わすのだ。
 例えば、怠けたいという欲望を持った者には、だから努力しなくてもいいのだ、というもっともらしい理由が、かっこうの餌となる。そこここに、ありとあらゆる罠が張りめぐらされているのだ。そこを無事に通り抜けられるのは、真の目的を見失わなかった者だけだ。
 さらにやっかいなことに、人間の欲望は、欲が深ければ深いほど満たされにくい。永久に充足することのない渇望の淵に飲み込まれた冒険者たちが何人もいたことを、まやちんは聞き知っていた。そして今、まやちんも、そのうちの一人になろうとしているのだった。まやちんの頭の中からは、あらゆる大事な道しるべが失われていた。ここがどこなのか、何のために自分はここにいるのか……。「冒険の目的」という、大切な羅針盤を失ってしまっていたのだ。
 まやちんは、ふらふらと近くの木に近づいていき、たらの芽に手を伸ばした……。
 もし、一つでもたらの芽を摘めば、欲望に負けた者にとっては、一つ摘むだけで済ますことはできないだろう。二つ三つと限りなく、やがては目に見えている場所の全て、それでも飽き足らずに、この世の全てのたらの芽を摘み取らねば気が済まなくなるかもしれない。歯止めのきかなくなった執着心は、冒険者の屍が骨となって朽ち果てても、永劫の闇の中でふくらみ続けることだろう。
 しかし!
 まやちんの指が、最初のたらの芽に触れようとしたその瞬間、音もなく忍び寄っていたもう一つの危険に気がつき、まやちんは、はっと我に返った!

「霧だ!!」
 いつの間にか、黄金郷であったはずのその場所は、急速に濃い霧に覆われようとしていた。しかし、あろうことか、鋭いはずの冒険者まやちんの反射神経は、欲望に支配されて鈍っていたのだ。まやちんは目の前の危険に対して、本能的に身体を動かすことができないばかりか、生死を分ける貴重な一瞬に、未練がましくたらの芽に視線を戻してしまったのだった。たらの芽をつかもうと伸ばした指の先は、もう霧に巻かれて見えなくなっている。その時になってやっと本能が危険に反応し、底知れぬ恐怖に身が震えたまやちんは、完全に目を覚ました。
 まやちんはあわてて冒険者のかばんに手を突っ込み、緊急用のノロシをあげる用意をしようとしたが、遅かった。ルーペで太陽光を集めようにも、日の光はどこからも差してこない。春風のそよぐ空間は、一瞬にして、白い魔境と化したのだ。
 ああ、仏壇にあったマッチとロウソク……。せめて、親が自分にマッチだけでも持たせてくれていれば、こんなことにはならなかったはずなのに……。欲の癖がついてしまったまやちんの心は、自己を省みるどころか、自分の過ちを他者に責任転嫁してはばからないほどに濁りきってしまっていた。こうなっては、もうおしまいだった。まやちんの誇り高き冒険者魂が、この瞬間に、ついえようとしているのだ……。
 それにしても、濃い霧だった。まやちんは、自分の足元はおろか、胴体から下を識別することすらできない。方向感覚はとっくになくなっていた。
「もしかしたら、これは!」
 まやちんの頭に、ある考えが浮かんだ。
 そうだ! これは、黄泉の国への入り口なのかもしれない。
 欲望の淵に沈みかけたまやちんだったが、その霊魂だけでも永劫の闇から救い上げようとする天の慈悲が、まやちんの目の前に黄泉の国への道を開こうとしているのかもしれなかった。
 ならば……。この期に及んで、ようやくまやちんは、冒険者である自分を取り戻した。自分の内側に、熱くたぎる冒険者魂が燦然と輝きを放っていることを思い出したのだ。まやちんは静かに覚悟を決め、前方とおぼしき白一色の世界に目を向けた。
 まだ自分が冒険者を名乗れるものならば……。最期の瞬間まで目を開けていよう。しっかり目を開けて、最期のその一瞬間まで、一つ残らず全ての瞬間を見よう。そして、この人生が素晴らしい冒険の旅であったことを、力強く我が魂に刻みつけるのだ……。
「……おーい……」
 どこか遠く、はるか遠くの方から、誰かを呼ぶ声が聞こえてきたのは、その時だった。その声は、まやちんに呼びかけているようでもあった。
「……まやちーん……」
 それは、死に赴く者に呼びかける、現世からのこだま……。やはりっ!! ここは死者の国への入り口だったのだ!!
 自分を呼ぶ声に振り向いて現世に戻った人の話を、まやちんは聞いたことがあった。それを思い出した瞬間、まやちんの心の中に熱い炎がともった。ここはまだ旅の終わりではない。まだ終えるわけにはいかない。ここで終えたくはないのだ!
「まだ冒険の旅は終わってはいないんだ!!」
 そして、まやちんは、声のする方向に顔を向けた!!

「……おーい、まやちーん……」
「そっちへ行ってはいけないよー……」
 まやちんを現世に引きとめようとする声は、しだいに大きくなり、こちらへ近づいてくるようだった。
 今、背後の霧の中に手を伸ばせば、たらの芽を一つでも手にするチャンスはまだある。しかし、まやちんはそうしなかった。まやちんの心は身軽だった。だから頭もすっきりしている。たらの芽のエルドラドを、この目で確かに見たんだ。それが目的だった。だから、欲しいものは全部手に入った。これでいいんだ。
 呼び声のする方向に歩きながら、地面を踏みしめる足の感触を、まやちんははっきりと感じ取っていた。
 やがて……。霧が薄くなり、視界が開けた。
 それと同時に、まやちんは、あの家の主と父親がやってくるのを目にした。なんと二人は、まやちんが決死の覚悟でよじ登った山肌の脇を、坂道を軽々と駆け上がってくるではないか。
「そうか! そうだったんだ!」
 まやちんは気づいた。ここは、段々畑の上の段だったのだ!
 その証拠に、まやちんの傍らにやってきた主が、「おらほのはまえでだで、そっちはいけんだ」と言う。「私の家の畑は手前にあるほうなので、そちらの畑には入ってはいけないのです」という意味だ。
 なるほど、たらの木が整然と並んでいたことも、これで頷ける。上の段の畑の持ち主は、たらの芽を栽培していたのだ!
「あ……。だけど……」
 主が言っていた、たらの芽がたくさんある場所とは、この畑のことなのだろうか? おらほの畑の向こうっかわの山……。主はそう言っていたのではなかったか? それを確かめようと、まやちんが口を開きかけた時だ。主の目が一瞬きらりと光ったように、まやちんには思えた。
「それとも、何かほかにいいものでもあったのかね?」
 まやちんの目を覗きこんで標準語でそう言うと、主は背を向けて、坂道を下り始めた。
 その後を追いながら、まやちんは父親に、自分の大冒険のありさまが全て、主の家の縁側から大人たちに丸見えだったことを聞かされた。あろうことか父親は、畑の段差にとりついて登り始めたまやちんの姿を、笑いながらカメラに収めていたらしい。

 すっかりうなだれたまやちんが戻ると、母親が帰り支度をしているところだった。小母さんが「天ぷらにしてね」と、新聞紙でくるんだたらの芽を母親に手渡していた。
「そういうふうになっているのか……」
 まやちんは車の後部座席に、どさっと寝転がった。その勢いで、襟の中に入りこんだ土の塊がこぼれ落ちた。
 冒険の終わりには、いつも寂寥感が漂う。
 段々畑の霧が晴れないうちに、もう夕闇がせまってきているようだ。太陽と土の入り混じった匂いが、鼻先にまとわりついている。それが冒険の名残だった。
 すりむいた手のひらを眺めているうちに、車のエンジンがかかった。「おいとまのご挨拶をしなさい」と両親に促されて、まやちんは慌てて飛び起きた。
「まやちんは遊び疲れたでしょう?」
 そう言って、小母さんが、まやちんの手にキャラメルを一箱置いてくれた。
 冒険は、こういうふうにもなっているものなのさ……。まやちんの心の中で、冒険者魂がそっとささやいていた。
 まやちんは鼻先をこすってからお礼を言い、車に戻った。走り出した車の窓を開け、まやちんは、主と小母さんの姿が見えなくなるまで手を振った。
「またねー!」
 そう、いつかまた、新たな冒険の旅へ!!

(完)
posted by まやちんの友達 at 12:26 | Comment(0) | 「まやちんの大冒険」修正版 | 更新情報をチェックする

2010年03月21日

『花弔い』〜〜「Kの夜話」より〜〜

『花弔い』
〜〜Kの夜話より〜〜
   如月マヤ

「私の知り合いがね、土地付きの家を買ったの。一緒に見に行ってくれない?」
 そう夏美に頼まれた時、加奈子は素直に嬉しかった。自分の不思議な能力が役に立つからではない。自分が友人の役に立てるという、そのことが嬉しかった。
 夏美の知人男性は不動産を扱う仕事をしており、転売を目的に古い家屋を土地とともに買い取った。彼は今、リフォームを施して見栄えよく仕上がったその家を、売りに出しているのだった。ところが、好立地の物件にもかかわらず、なかなか買い手が現れない。購入を希望する客は何人かいたのだが、どの客も、契約直前で話を白紙にしてしまうのだった。夏美の知人は頭を抱えた。彼はこういう仕事には慣れていて、この家はすぐに売れるものだと思っていた。しかし、家の売値を下げても買い手がつかずに、工事代金の資金繰りに行き詰まって困り果てているという。
 夏美は車を運転しながら、加奈子にそう言って事情を説明した。
「だからね、加奈ちゃんに家と土地を見てもらって、家が売れるようにしてほしいの。彼、今だいぶ参っているみたいだから、なんとか力になってあげたいのよね」
 加奈子は「うん」と短く頷いたものの、友人の口調に熱がこもっているのを感じて、ふと不安になった。
 夏美はその男の人と付き合っているのだろうか? 聞かなくても、夏美の様子を見れば加奈子にもわかる。付き合っているかどうかはともかく、夏美はその人に好意を持っているのだろう。加奈子も夏美も三十五歳で独身だ。加奈子には、夏美がその人のために熱心になる気持ちがわかる。でも、夏美の声には、思いはこもっていても陰りがあって……。ああ、そうか。彼は家庭を持っている人なのかもしれない。だから夏美は彼によかれと、必要以上に一生懸命になるのだろう。好きな人の力になりたいという思いの裏には、彼女の欲求が隠されている。それが加奈子を不安にさせたのだ。
 春の光があふれる景色を眺めながら、加奈子は、友人の心の陰は見まいと思った。暖かく穏やかな日に考えることではない。それに、気になるのなら夏美に直接聞けばすむことだ。勝手な想像は物事をぎくしゃくさせる。自分は友人の役に立てることが嬉しい、ただそれだけでいいのだ。よけいなことは考えるべきではない。
 加奈子はいつも、物事が自然な在り方で、収まるように収まればいいと願っていた。だから今回のことも、どんな形であれ、いずれ落ち着く場所に落ち着けばいい……。

「着いた。ここよ」
 夏美が車を乗り入れたのは、住宅地の奥の一角だった。二人は車から降りて、その真新しい家の前に立った。外壁も屋根も、陽光に照らし出されて明るく輝き、夏美は誇らしそうにその家を見渡している。その様子に加奈子はまたさっきと同じ不安を覚え、そしてまた、何も考えまいと努めた。何か不自然なことが起こっているのは確かだろう。それを加奈子は感じているのだ。けれど、その不自然さが夏美から伝わってくるのか、それともこの家のせいなのか、それはまだわからなかった。
 加奈子はひとつ溜め息をついて肩の力を抜いてから、夏美のように自分も、家と手前の庭を見渡してみた。確かに、立地条件のいい場所に、申し分のない家が建っている。けれど加奈子の目には、その家が違った姿で……投げやりに放置された土地に無気力な家屋が建っているようにしか映らない。降り注ぐ陽光も、この場所だけは暖めることができないかのようだ。周囲のどの家にも花が咲き、空気は甘く、青っぽく香っている。けれどここは、地面に干からびた雑草が張りついているだけで、庭は殺伐としていた。この家に住む者が自由に庭造りを楽しめるように、今はこうなっているだけなのかもしれない。加奈子は無理にそう考えようとした。
「ここ、工事の後で垣根に木を植えたそうなんだけど、すぐに枯れてしまったんだって。別な種類の木を植えてもだめだったそうなの。その費用もかさんで大変だって、彼が言ってたわ」
 すぐ横に立っているはずの夏美の声が、どこか遠くの方からぼんやりと聞こえてくる。加奈子は引き寄せられるように、庭の中に二、三歩足を踏み入れた。
 翁が一人……。庭に佇んでいる。
 どうして自分の目にはそれが見えるのか、加奈子にはわからない。けれど加奈子には、風にそよがれるようにわずかに身体を揺らしながら、翁が庭に佇んでいるのが見えている。翁は低くささやいているようだ。加奈子は耳をすませた。翁のささやきが、しだいに言葉になって聞こえてくる。
「はなもも、れんぎょう、はるのにわ……。くみかわさん、はなのつゆ……」
 聞き取る者がいなくなってからも、歌うようにささやき続けてきたのだろう。長い長い時間が経ったのだ。翁の姿は今にも霧散してしまいそうだ。衣の裾が、もう足元からおぼろげにかすんでいる。翁の言葉に耳を傾けているうちに、いつしか加奈子もそれに合わせて、静かに身体を揺らしながら呟いていた。花桃、れんぎょう、春の庭。酌み交わさん、花の露……。

 加奈子はとても幼い頃、絵本の挿絵でしか知らない海を、幾晩も続けて夢に見た。
 たった一人ぽつねんと、加奈子は見知らぬ場所に置き去りにされている。途方に暮れる加奈子に向かって、四方から濁った水が押し寄せる。ごぼごぼと泡立つ水は生臭い。生き物のように絡みあう水に囲まれて、加奈子は漠然と、これが海というものなのかもしれないと思う。すると決まって、水の中から無数の骸骨が現れてくるのだった。加奈子のすぐ目の前に、手のひらに感触が伝わってくるような近さに。ぼろぼろの布をこびりつかせた骸骨は、泡立つ波の中から無数に現れ、そして加奈子の目を覗きこんでは口を開く。
「寒い。寒い。熱い湯に浸かりたい」
「眠りたい。眠りたい。畳の上で眠りたい」
「家に。家に。家に帰りたい」
「会いたい。会いたい。もう一度、……に」
 限りなく声が重なりあって、しだいに加奈子は耳鳴りがひどくなる。耳鳴りに耐えきれずに、加奈子は追いすがる声を振り切って、泣き声を上げて飛び起きるのだった。骸骨は怖くはなかった。哀しすぎた。哀しすぎることが怖くて、加奈子はいつまでも泣きやむことができなかった。
 泣いて起き出すたびに自分をなだめてくれる祖母に、ある晩加奈子は、骸骨から垂れ下がる布に星と線の印があったと話した。黙って加奈子の背中を撫でていた祖母は、そうしながら訥々と語った。初めて加奈子に聞かせる話だった。戦争があったこと、人がたくさん死んだこと。
「海に沈んだ人たちもいるんだよ」
 それ以来、加奈子には哀しいものが見えるようになった。

「何かわかったの?」
 夏美の声で加奈子は我に返った。独り言を呟く加奈子を、夏美はいくぶん冷めた目で眺めていたようだ。
「どうすればこの家が売れるか、わかった?」
 加奈子には、それがわかったと思う。なので、ゆっくり頷いた。
「いくらで売ればいいの? 買い手が現れるのはいつ?」
 矢継ぎ早に尋ねる夏美に気圧されつつ、加奈子は翁から頼まれたことをそのまま伝えた。翁のささやき声に耳を澄ませている間、加奈子には翁と気持ちが通じあえたのだった。
「この場所にはね、土に命を与える翁様がいるの」
 加奈子はそう前置きしてから話し始めた。
「それで、黄色か桃色の花がついた長い枝と、甘い果実酒を用意してほしいの。この家の中でいいから、庭が眺められる場所にそれを置いてね。酒盃は二つ、向き合わせにして。一つはこの土地を手に入れた人のもの、もう一つは翁様のために。今はこの土地の持ち主は、夏美の知り合いの人でしょう? 翁様はその人に、自分とお酒を酌み交わしてほしいそうよ。もちろん形だけでいいのだけど。春が終わらないうちに、そうしてもらえればいいの。そうすればこの土地は生き返って……」
 夏美は鼻白んだふうに、口元を歪めた。加奈子は、自分に向けられていた夏美の期待がすっと遠のくのを感じた。
「それと家が売れるのと、どういう関係があるの? まったく関係ないじゃない。納得できるように理由を説明してくれる?」
 加奈子が期待通りの答え方をしなかったせいで、夏美の声には怒気が混じっている。加奈子に尋ね返していながら、それが非難にほかならないことは明らかだった。本当は理由を聞く気のない相手に、どう説明すれば、自分は哀しさも空しさも感じなくてすむのだろう。加奈子は自分の気力が急速に衰えていくのを感じた。疲労がのしかかる。消え去りつつある翁がそうであるように。
 その場の気まずさを感じない振りをして、加奈子はわざと軽い口調で夏美に説明しようとした。これは大切なことなのだと、熱心に伝えようとすればするほど、相手の気持ちが離れていくのがわかっているからだ。
「ここは新興住宅地じゃなくて、昔からのいい土地柄でしょう? ほら、たいていの家に古い木があるし。だからきっと、もっと古い時代には、このあたりでは春の花を愛でる酒宴があったりしたんだと思うの。住んでいる人たちが土地の四季を楽しむと、土も木も花も、人と一緒に喜んだり楽しく生きようとするのかもしれないでしょう? 花を眺めながらお茶を飲むとか、草や木を生み出す土に感謝するとか、人間にそういう心のゆとりがあると、翁様は喜んで、人がもっと幸せに生きられるように、この土地に力を吹き込んでくれるそうなの。そうすると、場所の雰囲気が良くなるから、買い手がつくんじゃない?」
 そこまで一気に喋ってから、夏美が何か言う前に、大急ぎで加奈子は付け足した。
「人が翁様と気持ちを通じあわせようとするからこそ、その心に応えて、翁様の力も豊かになれるの。でも、長いことそういう思いを向けてもらえなくて、翁様にはもう、この庭に草木をとどめる力も残っていないみたい。とっても弱っているの。だから……」
 夏美が手を振って話をさえぎった。
「そんなの、彼に話せるわけないでしょ。加奈ちゃんがそうだって言ってるだけで、私には何も見えないしね。それって証明できるの?」
「証明?」
「それにね、彼は目に見えないものを信用しない人なの。加奈ちゃんのことを話したら、巫術卜筮を口にするやつは、自分が教育し直して改心させてやるって、息巻いてたくらいなんだから。だから、これは彼に内緒でしていることなんだけどね」
 加奈子は胸が悪くなった。自分が他人にけなされたからではない。その男性の話をする時の夏美の顔に、陶酔の表情を見てしまったからだ。周囲の空気が突如として不自然に歪み、夏美の姿が、濁った陽炎をまとっているように見える。それが加奈子の平衡感覚を失わせ、眩暈と吐き気をもよおさせたのだ。
 夏美は、その男の人を崇拝してすらいるようだ。彼のことが好きだから、欲目で見てしまうのは当然なのかもしれないが。だから、彼の言動が支配的で威圧的でも、夏美にはそう感じられないのだろう。むしろ、彼が自分を引っ張っていってくれる男らしい人だという思いこみを、いっそう強める理由にするのかもしれない。彼が信念のある、まっすぐな人なら、それでもいい。でも、他人に何かを強制して服従させようとする人の裏側には、えてして、小心や責任逃れの本性が隠されていることがある。考えまいとしても、加奈子は夏美のことが心配でたまらなくなった。
 黙りこんだ加奈子に、夏美はさげすむような目を向けた。
「家を売るまともな方法を考えてくれて、いつ誰に売れるか教えてくれればいいだけなのに。本当は何もわからないんでしょ? 結局、加奈ちゃんは、自分には不思議な力があるって自慢したかっただけじゃない」
 そう言い捨てられて、加奈子は返事をすることができなかった。

 それからしばらく経ったある日、夏美から加奈子に電話があった。あの家を自分が買うことにしたのだと言う。事業が行き詰まり、困窮する彼を放っておけないからなのだと。
「彼が手がけた物件だもの。あの家は、やっぱり私が買うことになっていたのよね」
 夏美の声には勝ち誇ったような響きがあった。彼と自分の間には、何かしら運命づけられたものがあると言いたげな……。しかし加奈子はそれには気を取られずに、今度はきっぱりと夏美に言おうと思った。夏美が家を買い取れば、事実上、彼女が土地の持ち主となるのだから。
「あの家を買うなら、今からでもまだ間に合うから、夏美がやって。枝ものの花と果実酒を……」
「そうすればいいことあるの?」
 即座に切り返されて、加奈子は言葉に詰まった。けれどすぐに、夏美が何かを期待して、意気込んでそう尋ねたのだと気がついた。夏美はもう喋り出している。
「実はね、頭金が少し足りないの。彼はもう、家の値段をだいぶ下げてたんだけど、それよりは高く買ってあげたいと思って。元の値段に戻して買うことになったの」
 加奈子の不安が増した。そんなことまでして、夏美は何が欲しいというのだろう。彼からそれが得られるとでも?
「頭金が揃えられるっていう保証があるなら、やってもいいけど」
 加奈子はもう、夏美の横柄な態度を気にかけるつもりはなかった。伝えるべきことだけを伝えきろう。そう思って加奈子は、かつて祖母がしてくれたように、少ない言葉で静かに友人に話しかけた。
「夏美があの家の持ち主になったら、翁様に愛でてもらうのは夏美なの。翁様を大切に思ってね。そうしてくれるなら、夏美があの家を買えるように、翁様に頼んでみるから」
 そう話しながら加奈子は、翁と気持ちが通じあった、あの時の感覚をよみがえらせていた。庭に佇む一人の翁……。聞き取る者のいない言葉をささやき続けて……。花桃、れんぎょう、春の庭……。心の中で、加奈子は翁に呼びかけた。
「翁様、翁様……」
 加奈子の胸の奥に、翁が返事をする感覚があった。
「翁様……。翁様のいらっしゃる所に住みたいという人がいます。名前は夏美。土と草花と木を大切にします。夏美をそこに住めるようにしてくださいますか?」
 翁は応と返事をしてくれた。翁様は喜んでくださっている……。加奈子は翁の気持ちをそのまま夏美に伝えた。
「あのね、翁様は、夏美が来るのを楽しみにしているって。一緒に四季を楽しんでくれる人がいるのが嬉しいそうよ。あの家が夏美のものになったら、必ず、すぐに花とお酒を捧げてね」
 しかし、加奈子は夏美の興味を引くことができなかった。夏美はまた鼻白んだ様子で、「ふうん。そうなんだ。まあ、何かいいことがあればいいけどね」と、曖昧に言葉を濁して電話を切った。加奈子にできることは、もう何もない。これ以上すべきでもなかった。

 ところが二日後、夏美からまた電話があった。必要な金額が揃って、家が買えるようになったとのことだった。その日、以前交際していた男性が突然夏美を訪ねて来たのだそうだ。交際中に夏美が彼に貸していたお金を返しに来たという。彼は別な女性と結婚することになり、過去を清算するために、夏美から借りたお金を、それよりかなり多めに返してくれたという。それはちょうど、あの家の頭金の不足と同じ金額だった。
「こんなこともあるのねえ。驚いちゃった。やっぱり、こうなるようになってたってことよね」
 電話の向こうで、夏美は上機嫌だった。今なら夏美も、話を聞いてくれるかもしれない。加奈子は夏美にもう一度、翁の願いを伝えたかった。
「よかったわね、夏美。それから、この前のことだけど……」
「ああ、あれね。翁さんとやらに、よろしく言っといて」
 加奈子が口を開く前に、電話は切れていた。
 翁様には、夏美自身から伝えるべきなのに。そう言いたかったが、加奈子のその気持ちも翁の願いも、もう友人の心には届かない。加奈子は力なく受話器を置いた。残念でならなかった。何が残念なのか、今は考えたくなかった。これから夏美がどうなってしまうのか、加奈子は確かにそれを案じている。それに、あの庭に佇んでいた翁が霧散していくことも。
 しかし、それでもまだ気持ちがおさまらないのはなぜなのだろう。夏美が自分の言うことに耳を貸してくれなかったから? 自分が何も証明してみせることができなかったから? 自分の不思議な力を見せつけることができずに、友人から称賛してもらえなかったから? 
 穏やかに輝く春の陽光は、いとも軽やかにいとも密やかに、ひんやりとした陰も作り出す。加奈子は身じろぎもせずに、じっとその陰を見つめていた。

 すっかりやりとりが途絶えた夏美を、それから加奈子は街中で一度だけ見かけた。
 木々は葉の色を隙間なく濃くし、夏の日差しが満ちていた。会社の昼休みに外へ出た加奈子の目に、暗くて黒い人影が通り過ぎるのが映ったのだった。眩しい風景の中で、そこだけ光が抜き取られたかのような、その人影が夏美だった。あれから夏美と、知り合いだという男性がどうなったのか、加奈子は知らない。あの家がどうなったのかも、加奈子は知らなかった。夏美はとげとげしい表情を隠すことなく、すれ違う他人に険のある目を向けて歩いていた。
 加奈子には哀しいものが見える。見たくないものも見える。それをどう受け止めればいいのか、加奈子にはまだわからない。
 その夜、加奈子は窓辺にテーブルを寄せて、酒杯を二つ、向き合わせに置いた。求める春の花は手に入るはずもなかったが、夜空の下では、露草が朝を待っている。どの季節にも風情があるものだ。草いきれの混じる夏の濃い夜気にひたりながら、加奈子は心の中で翁に呼びかけた。
「翁様……、翁様……」
 しかし、声は返ってこなかった。翁は消え去ってしまったのだろう。
 とろりと匂う果実酒に口をつけ、加奈子は翁に別れを告げた。
 
(完)
posted by まやちんの友達 at 18:33 | Comment(0) | 「花弔い」 | 更新情報をチェックする