『路口(ろこう)』
〜〜「Kの夜話」より〜〜
如月マヤ
春節の最初の日、邦夫は台北の十字路に立っていた。今日は誰もが、親族が集まる家の中で元旦を祝っている。街は閑散として、店を開ける商売人もいない。普段なら車やバイクがひしめく道路も、今だけは静かだ。喧騒が止んだ街を、邦夫はカメラのファインダーを通して眺めていた。
「異邦人の好奇心……」
ふと浮かんだ言葉を、邦夫はそのまま口にした。異邦人の好奇心。日本に帰ったら、写真のタイトルにそうつけよう。個性的でインパクトがある。フリーカメラマンの、旅の写真にふさわしいというものだ。
そう思った瞬間に、しかし、邦夫の気持ちは沈みこんだ。大袈裟なタイトルをつけるほど、自分の写真には見る価値があるのだろうか。自分にそんな力があると言えるのか。三十近くにもなって、写真館を営む両親と同居しているのをいいことに、フリーのカメラマンを名乗っているにすぎないのに。父親の仕事場を手伝いはするが、未だに技術が身についていない。中途半端な仕事ぶりなのが自分でもわかる。
田舎の小さな写真館が、邦夫の頭をよぎった。朝、そこで目覚めるのがつらかった。冬の朝は雪の匂いがするからだ。雪の匂いは凜として潔癖だ。朝の匂いが、不甲斐ない自分を責めている……。邦夫にはそう感じられてならなかった。だから、台北の空港に降り立った時にはほっとした。空気の匂いが違う。そういえば、「台北の空港は五香粉の匂いがする」と聞いたことがあった。邦夫は五香粉を知らなかったが、雪の匂いが追いかけてこなければ、それでよかった。それに、シャッターを切る時だけは、苦い思いから逃れることができる。写真を撮ることが好きでたまらないからではない。無心になれるからでもない。何もしていないわけではないと、自分に言い聞かせることができるからだった。
邦夫はカメラを持ち直して、辺りを見回した。十字路のどの道もまっすぐ広く、開けて見える。台北市内の道路がこんなふうに見えるのは、一年のうち今日だけだ。いっそのこと車道の真ん中に出て、四方にカメラを向けてみようか。見咎められるだろうが、それでもいい。他人に申し訳が立つような写真が撮れれば、それで自分は楽になれるのだ。
立ち止まったまま、いつまでも邦夫が思いを巡らしていた時だった。一陣の風が、十字路を交差した。人いきれのように生温かく、湿気を含んだ風だった。埃が舞い上がり、邦夫は反射的に顔の前を手で覆った。息を止めたわずかな間、邦夫の頭の中は空白になる。埃がおさまるまでの間に、邦夫は誰かの視線が自分の上を通り過ぎていった気がした。
やがて手を下ろした邦夫は、ふと、向こう側の通りを歩く遠い人影に気がついた。遠目にも、その人がかなりの長身なのがわかる。奇妙なくらいに、とても、背が高い。背が高いだけではない。変わった装いをしているようだが、ああ、あれは清朝の衣裳だろう。その人影が近づくにつれて、衣裳の上質な緑色が、街の風景の中にくっきりと際だって見えてきた。邦夫はもう目が離せなくなった。清朝の装いをまとったその人は、辮髪を長く垂らしている。ここからそれがわかったのは、細く一本に編んだ黒髪が、その人の身体の左右から振り子のように見え隠れしていたからだ。彼は頭をきれいに剃りあげているようだが、あの辮髪は本物なのだろうか……。
もっと近くでその姿を確かめたいと邦夫は思い、道路を横切ろうと付近に素早く目を配った。ところが、道路からは、それまでまばらだった通行人が一人もいなくなり、時折通りかかる車も見当たらなくなっていた。動くものの気配が周囲から消えている。無音の情景だった。さっき通り過ぎた生温かい風が、時間も音も吸いとっていったのだろうか。邦夫は一瞬、自分が今どこに立っていてどの方向に目を向けているのか、わからなくなった。足元の感覚が失せて、思わずよろけてしまいそうだ。
邦夫が眩暈をこらえて視線を戻すと、時代がかった姿の男性は、もう十字路にさしかかっていた。壮年の男性に見えた。彼は手を後ろで組んだまま、姿勢を崩さずに黙々と歩いている。長身の角張った肩を揺らしもしない。足を規則正しく動かしているのに、まるで空中を優美に移動しているような、そんな歩き方だった。彼の切れ長の目は前方の一点を見つめており、口元を引き結んだ顔からは表情が見て取れない。
そしてその人は、十字路の角を曲がった。邦夫には彼の後ろ姿と長い辮髪しか見えなくなった。
あの人の写真を撮ろう。
はっと我に返って、邦夫は思った。あの人の写真はいい一枚になる。道路の上を通るモノレールの橋脚を背景にして、埃っぽいコンクリートの無機質な色合いと、衣裳の鮮やかな緑色を対比させよう。辮髪の黒色がアクセントになる。彼の長身を画面に配置するのは難しいが、表情を抑えた顔は、色の対比をなおさら強調するはずだ。いつもならこの街は、行き交うタクシーや店先の賑やかな色に加え、台湾の人々が発散するバイタリティで、空気まで熱っぽく色を帯びて見えるのだ。それが今日だけは、街には何の色味も感じられない。特に、人通りも車通りもまったく途絶えた今は。色を発散する活力を停止させて、風景はすっかり褪せている。その中で、彼の衣裳と編んだ髪の色だけが目を射るのだ。これはいい写真になるはずだ。
邦夫は急いで道を渡り、あの奇妙なくらいに背の高い人を追いかけた。ぶしつけに後ろから声をかけるのは、はばかられる。それに、何と言って声をかければいいかもわからない。邦夫は、彼を追い越して、相手の注意を引いてから「OK?」とカメラを指さすつもりだった。言葉の通じない外国人が春節の晴れ着を珍しがって、写真を撮らせてくれと言っているのが、それで相手に伝わるだろう。
邦夫はカメラを気遣いながら小走りで駆けた。背の高い人は一歩が大股なせいか、歩くのが速い。邦夫もそれなりに身長があったが、彼に追いつくのは骨が折れた。どんなに一生懸命駆けても、なかなか距離が縮まらない。目の前の目的地に辿りつけそうで辿りつけない、夢の中で走る時のようなもどかしさを邦夫は感じていた。だが、どうやらやっと、彼に近づけそうだ……。
その人に追いつきかけて、邦夫が気持ちをゆるめた時だ。邦夫の目の前に、ぬっと差し出されたものがあった。
「蒸し饅頭いらないかい?」
邦夫は危うく前につんのめるところだった。いきなり何だ、いったい。むっとした邦夫は、そちらを見て驚いた。一軒だけ開けている店がある。今日は誰も買いに来ないのに。商売熱心な台湾の商人も、春節の一日目だけは店を閉めると聞いていた。それなのに、間口の狭い豆乳屋の店先で、小柄だがどっしりした体つきの小母さんが片手で饅頭をつかみ、有無を言わさぬ様子で邦夫の目の前に突き出している。
ここは豆乳を買いに来る客で毎朝賑わう店だ。市内に滞在している間、邦夫は何度かこの店に立ち寄っていた。砂糖入りの豆乳は、邦夫が最初に覚えた台湾の味だった。今の邦夫にとって、力強い豆の味には頼りがいがあった。練った粉を油で揚げた食べ物があり、それを甘い豆乳に浸して食べる朝食は、邦夫を元気にしてくれた。台湾人のバイタリティを、自分も手に入れた気になれるのだ。邦夫はその店の、粉の薄焼きに溶き卵を乗せて焼いた食べ物も、刻みネギの入った塩味のパンも気に入っていた。しかし、蒸し饅頭も売っているとは知らなかった。
店の小母さんは、饅頭を邦夫に突き出したままだ。
そういえば、なんだか妙だ。さっき邦夫は、「蒸し饅頭いらないかい?」という言葉を、はっきり聞き取れた。耳から入ってきたのは威勢のいい台湾語だったが、それは、邦夫の頭の中では明瞭な日本語で響いたのだ。ほんの束の間、邦夫は、自分が台湾語を聞き取れるようになったのだと錯覚した。台北に着いてから、五香粉の匂いとともに邦夫を安堵させてくれたのが、台湾語の音の響きだったからだ。圧倒されもするが、台湾人や土地の食べ物と同じく、たくましい力がこもっている音だ。台湾語に包まれていると、邦夫は心地よかった。何か強いものに頼りきっていられる気持ちになれた。甘い豆乳を口に含む時の、安堵の心地と似ているのだった。ここは明らかに、雪の匂いで目覚める土地とは違う。居心地がいい。だから、習ったこともない言葉を、いつの間にか聞き取れるようになったのかもしれない……。
しかし、そうはいっても、頭の中で一言一句はっきりと、異国の言葉が日本語に変わることなどあり得るのだろうか。それに、ほかにも妙なことがある。何度か立ち寄ったこの店で、邦夫は一度もこの小母さんを見かけたことはないのだった。店先に蒸籠が重なっているが、なぜか火の気がない。やはり変だ。何かがおかしい。そう思い始めると、邦夫は落ち着かなくなった。すっきりしない気分だけが堂々巡りする。目の前のことに集中できない。頭の中がぼんやりして、邦夫は何も考えられなくなった。
「いるのかい、いらないのかい!」
そう言っている音が甲高く聞こえ、邦夫の頭の中でまた日本語になって響いた。小母さんは足を踏ん張って、湯気の上がっていない饅頭を邦夫に手渡そうとしている。釈然としない感覚に気を取られ過ぎて、邦夫の頭は考えることをやめていた。無意識の動作で財布から小銭を取り出す。こうすれば何も考えなくていい。
小銭を差し出す邦夫を小母さんは目を細めて見つめたが、その顔に、ふと意外そうな表情が浮かんだ。
「おや、おまえさん。ここの人じゃないんだね」
邦夫は台北に来てから聞き覚えた台湾語で「日本人」と答えようとしたが、邦夫が返事をする前に、もう小母さんは「どうりでね」と一人で頷いている。そして「おまえさん、ここの人じゃないよ」と、邦夫の頭の中に響く日本語で繰り返した。その意味を計りかねて、邦夫は小銭を渡すのを一瞬躊躇した。ふっつり途切れるように、そこで間が空いた。
小母さんは微動だにせず、邦夫をただ見つめている。その顔からは表情が消えていた。冷たくすらない。
自分が何かいけないことをしてしまったのかもしれない。土地のしきたりにそぐわないことをしてしまったのだろうか。そう思うと邦夫はいたたまれなくなり、小母さんから視線を外して道の先に目をやった。これから行こうとしていた道だった。あの背の高い人に、走ればまだ追いつくことができるだろうか……。
邦夫が向き直った時、店に小母さんの姿はなかった。いつの間に片付けたのか、積み上げられていた蒸籠も消えて、店はがらんとしている。やはりそこには火の気の跡もなかった。色の抜けたこの街と同様、生きたものの気配がしない。動かない空気の中で、邦夫は自分が呼吸をしているのかどうかさえ覚束なかった。
その時、生温かい風の塊が、スローモーションのようにゆっくりと吹き抜けていった。どこかからやって来て十字路で交差し、埃を舞い上げながら通り過ぎていく風だ。今度も埃が舞い上がった。邦夫は立ちすくんだまま、風が自分を横目で見やっていくに任せていた。ああ、自分はこんなところに突っ立って、いったい何をやっているのだろう……。気持ちのやり場に困って、邦夫は気になる道の向こうに目をこらしてみた。緑色の背中と、左右に揺れる黒い辮髪が見えるだろうか……。求めていたものが見える気がしたが、見えない気もする。邦夫はそれ以上探すのをやめにした。もう追いかけなくてもいいと思った。
たちまち周囲の物音が邦夫の耳によみがえってきた。耳障りなくらいに。タクシーが道を走り抜けていき、モノレールも動いている。声高に喋りながら歩いてくる女性の二人連れを、邦夫はあわててよけた。
もう一度豆乳屋を振り返ると、店先では春節飾りを貼りつけた戸板が、今日は休みだと告げている。
縁起のいい文字を赤と金で隙間なく彩った春節飾りは、それだけで存在を主張し、生命力を放っていた。日に晒されてざらざらになった戸板と、賑々しい新品の飾り物。異邦人の目には、色のコントラストがいかにも台湾らしく映る。近づくと、春節飾りからは印刷したての紙の匂いがした。それは邦夫に、まだフィルムを使っていた頃の写真の匂いを連想させた。出来上がったばかりの写真の匂い。邦夫の暮らしの中に、その匂いはあった。
あの頃、父親のカメラを触るのが好きだった。邦夫の手に、カメラは重かった。充実感には本当に重さがあるのだと確かめることができた。ファインダーを通して景色を眺め、胸の奥から鮮烈なときめきが突き上げた一瞬にシャッターを押す。感覚と動作が完全に一致した瞬間の、あの鋭く、同時に深く満たされる高揚が、邦夫を涙が出るほど熱くさせた。心の底から、写真を撮るのが好きだった……。
「帰ろう」
唐突に、邦夫は呟いた。帰ろうと思った。あの雪の匂いの中に、駆け戻りたい。ちょうどこれから、写真館は忙しくなる。精一杯仕事ができる……。
邦夫は、カメラを構えた。十字路から続く、まっすぐの開けた道。豆乳屋の色褪せた店先。力強く熱気を発する、赤と金の春節飾り。それらが一つの風景になった瞬間、邦夫はシャッターを押していた。
(完)
2010年03月03日
2010年02月27日
『石柱(いしばしら)』修正版
『石柱(いしばしら)』(修正版)
如月マヤ
台風が去って一夜明けた山中を、氷川圭一は先刻からずっと、困惑したまま歩き続けている。後をついてくる男の意図が、まだつかめない。
男はひっきりなしに話しかけてくる。それも、他人には知られたくない、いや、知らせることのできない、氷川の秘密の目的に関することばかりをだ。氷川は慎重に言葉を選ぼうとするのだが、その返事を待たずに、男はさっさと次の話に移ってしまう。氷川は、自分より十歳は若そうな相手のペースに、すっかり混乱させられていた。まだ、この男が敵なのか味方なのかもわからない。
その日の早朝、ふもとのF神社に車を止めて、氷川が道具類を点検していた時だった。その男は、何の前触れもなく、いきなり現れたのだった。ここには誰もいないと思っていたので、氷川は文字通り、飛び上がるほど驚いた。
ここは過疎の村のはずれにあって、朽ちかけた木造の建物が、なんとなく神社の風情を残しているだけの場所だ。自分以外に、ここに来る者がいるはずもない。
「おや、奇遇ですねえ。僕の目的地も、あなたと同じなんですよ。目的も同じかどうかはわかりませんがね」
その男は挨拶もなしに、唐突に喋り出した。
「さあ、早く登りましょう。土がぬかるんで、歩くのに時間がかかりそうですからね」
男はそう言って氷川をせかすと、神社の裏山に向かって歩き出そうとした。
「ちょ、ちょっと待った。ええと、君は、いったい……」
「どこから来たか? 僕は向こうから来ました」
男は、右でもなく左でもない、曖昧な方向に大げさに腕を振ってみせた。
「いや、そういうことじゃなく……」
「どうやってここへ来たかというのですか?」
氷川が考えをまとめる間もなく、男は自分勝手に話を進めていく。男は氷川に、泥のついたトレッキングシューズを見せながら、「歩いて来たんですよ」とすまして答えた。しかし、氷川が言葉に詰まっているのを見ると、にやりと笑った。
「資料館で、あなたがここだと聞いてやって来たのです。一緒に連れていってもらおうと思いましてね。あなたを取材することになっているのは、ご存知でしょう?」
氷川はますます頭が混乱した。そんな話は聞いていない。それに、職場には風邪で休むと言ってある。
「申し遅れました。僕はこういう者です」
男が名刺を取り出す間、氷川はようやく深呼吸をすることができた。あらためて相手を見ると、三十歳くらいの細身の男だ。力仕事とは無縁なんだろう。それに、身体を鍛えているようにも見えない。自分のほうが背が高く腕力もある。この男が何者か知らないが、争った時には勝つ自信がある。いざとなっても大丈夫だ。氷川は落ち着きを取り戻して、差し出された名刺を手に取った。
「へえ……。『歴史と文明』……。申し訳ないけれど、こういう雑誌があるの、わたしは知りませんでした」
氷川は頭を働かせる時間を稼ぐために、そして疑念が相手に伝わるように、ゆっくり喋った。
「それに、取材の話も。どういうことですか? 職場からは、わたしは何も知らされていませんが」
氷川は男の目をじっと見据えたが、相手は別段ひるむ様子もなかった。
「ああ、そういえば。あなたがここにいることも、誰にも知らされていないんでしたっけ」
涼しい顔でそう言われて、氷川は口ごもった。
「つまり、僕の言ったことは全部でまかせです。資料館に行ったことも、あなたのことを問い合わせたこともありません。もちろん、取材なんて嘘です」
氷川は、手渡された名刺をじっと眺めた。『歴史と文明』記者、西野谷志朗。
「にしの……」
「にしのや、しろうです」
「じゃあ、君のこの名刺も、あとで見たら木の葉に変わってたりするのかな?」
男は声をたてて笑った。
「あっはっは! 氷川圭一さん、あなたのジョークは、実にいいセンいってますよ」
西野谷志朗と名乗る男は、おかしそうに笑いながら氷川を促した。
「さあ、行きましょう。例の柱のところに、僕を案内してください」
不意をつかれて、氷川はどきりとした表情を取り繕うことができなかった。
「言ったでしょう? 目的地は同じなんですよ。目的もあなたと同じかどうかは、わかりませんがね。でも、あなたに危害を加えるつもりはありませんから、安心してください」
しかたなしに歩き出した氷川の背中に、西野谷志朗は続けて声をかけた。
「それにね、氷川さん。そうは見えないかもしれませんが、僕のほうがあなたよりも強いんですよ」
前日の雨も風も、予想されたほどひどくはなかった。それでも、風に引きちぎられた葉や小枝が、水滴とともに頭上から降り注いでくる。それが襟元から入りこまないように、氷川はタオルを首に巻いていた。
濡れた木肌と土の匂いに、青っぽい生木の匂いがまじっている。どこか近くに、折れた木があるのだろう。
「ああ、雨が降った後の山の匂い……。いいですねえ」
背後から西野谷志朗の声がした。
氷川には、それが会話を始める合図だということがわかったが、西野谷志朗は最初に会った時と同じように、氷川が身構える間合いも取らずに、勝手に喋り始めた。
「氷川圭一さん。四十三歳。埋蔵文化財資料館の学芸員で、専門は縄文時代の考古学……。そうですよね?」
それがどうした、というふうに氷川が肩をすくめた時には、西野谷志朗はもう先を続けていた。
「でも、あなたは初めから考古学を専攻していたわけじゃない。民俗学を学んで、大学院まで進んだのですから」
氷川はまた肩をすくめた。別に、経歴を隠すつもりもない。
「あなたは、民俗学者水谷喜世志先生の愛弟子です」
また不意をつかれた。いったい、この男は何を知っているんだ?
「専攻を変えて大学院に入り直すには、ずいぶんと努力をしたんでしょうね」
今度こそ、それがどうしたと言うつもりで氷川は立ち止まり、ゆっくり息を吸い込んでから後ろを振り向いた。だが、西野谷志朗の方が素早い。
「ああ、僕なら大丈夫ですよ。ここから急勾配になるんでしょう? 山歩きは慣れているんです」
氷川はまたしても言葉に詰まった。西野谷志朗は、すましたままだ。
「さあ、登りましょう。雨はあまり強くなかったんですね。思ったより歩きやすくて、助かりました」
急な斜面を登り始めるとすぐに、西野谷志朗はまた喋り出した。
「水谷喜世志先生の論文は、ユニークです。民間伝承を新たな切り口で考察し、示唆に富んだ内容です」
氷川は無意識に頷いた。後ろの西野谷志朗に、それが伝わったかどうかはわからない。
水谷論文はいつも、周囲から斬新だという評価を受けていた。斬新すぎると……。よく言えば異端、ともすると奇抜なオカルトと言われかねない考察を含んでいることは、水谷先生自身が認めていたことだ。その水谷論文をユニークだと表現する西野谷志朗は、これから何を話そうというのだろう。
「あなたは、水谷先生とフィールドワークをしている最中に、あれを見つけたんですね?」
いきなり切り出されて、氷川は一瞬息を飲み、足が止まった。
「君は……。何のことを……言ってる?」
氷川は手近な木の幹に寄りかかって、息を整え、額の汗をぬぐった。
見れば、西野谷志朗は汗ひとつかいていない様子だ。道のない山の急斜面を、前にいる氷川に聞こえるように話をしながら登ってきたのに、息も乱れていない。この男と争ったら、負けるのは本当に自分のほうかもしれないと、氷川は思った。
顔をこわばらせた氷川とは対照的に、西野谷志朗は相変わらず、すました顔で勝手に話を進めていく。
「いやだなあ、氷川さん。わかっているじゃないですか。今僕が言っているのは、例の柱のことではなくて、まあ、言ってみれば史料のことです。書かれたもののことですよ。描かれたもの、と言ったほうがいいかな」
「君は……」
あの土器片のことを知っているのか……。氷川の脳裏に、土器片に描かれた文様が浮かんだ。この二十年間は、あの文様のためだけに費やしてきたようなものだ。土器片のことは、水谷先生と自分のほかに、誰も知らないはずなのに……。
西野谷志朗は素っ気なく尋ねた。
「で、それは今どこにあるんですか?」
氷川は沈黙したまま、身動きもできなかった。
「まあ、後で聞かせてください。まずは柱を見に行かなくては。そうでしょう?」
氷川はかろうじて頷いた。目的地までには、まだだいぶある。その間、西野谷志朗の勝手なお喋りを、まだ聞くことになるのだろう……。それでも氷川は、この正体不明の男が語る言葉に、耳を傾ける気になっていた。相手への警戒は解けていなかったが、氷川の学究心が、西野谷志朗の話には聞く価値があると告げている。
二人は再び、山を登り始めた。
西野谷志朗の口調には、よどみがなかった。話に無駄がない。
「水谷喜世志先生の論文には、伝説や迷信を科学的根拠に基づいて分析するという特徴があります。民俗学におけるこのような試みとしては、例えば、狐火や人魂といった発光現象の解明が挙げられますね。狐憑きと精神疾患の関連も、その代表例です」
氷川は心の中で頷いた。
水谷論文には、しかし、科学的に分析するがゆえの欠点があった。
人魂に目をこらすと亡き人の顔が見えたという体験には、懐かしい人の面影を探したいという心情が働いていたのかもしれない……。抑圧された境遇によって引き起こされた精神的な病が、狐憑きだといって忌み嫌われたのかもしれない……。民俗学の領域では、人間の生活感情を切り離すことはできない。人間の願望や喜怒哀楽が、さまざまな伝承を生み出して、現代に至っているからだ。論理的な究明に徹しようとするあまり、人の感情をそっと包み込むような素朴さや曖昧さが、水谷論文には盛り込まれなかった。それゆえ、水谷先生は、斬新だが民俗学の異端者と見なされていたのだった。
「そして、水谷先生が晩年に力を入れていたのが、隠れ里伝説の科学的考察です。そうですね?」
西野谷志朗の言葉を聞き漏らさないよう、氷川は歩く速度をゆるめた。誤りがあれば、すぐに訂正するつもりだった。相手の間違いを指摘して知識を競い合うつもりはない。話の筋から外れないように、互いに確認しながら会話を進めたかった。それに、水谷先生の思想を、一人でも多くの人に正しく理解してほしいという思いもあった。
その思いは、西野谷志朗にも伝わったようだ。彼の意図が何であれ、西野谷志朗の話し方には水谷先生への敬意が感じられると、氷川には思えた。
「水谷先生はまず、隠れ里という環境での体験が、どういう条件下で成り立ったのかと推論したのですね?」
「そうだ。でも、隠れ里伝承といっても、意味は広い。椀貸、マヨヒガ、桃源郷に神隠し……。異界に出かける正直者と欲張り者……。調べているうちに、水谷先生は、この付近一帯に残る民話に興味を持ったんだ」
「なるほど……。ここはちょうど県境です。境を接するそれぞれの県に残る地誌や説話集のうち、隠れ里に分類される話の舞台が、この同じ山を指していることに気づいたのですね?」
「君は話が早いな」
「そのうち最も古いとされる『Z国風土集草木話』の中に、原型と思われる話が載っていますよね。村人が山に入って道に迷い、数日経ってから戻ってきたが、前とは人が変わったように聡明で、人柄のいい好人物になっていた。その人の生活が豊かになっていくのを羨んだ村人が、同じように山に入ったが、ある者はやはり賢くなり、またある者は気がふれたような有様となって戻ってきた……」
「今わかっている限りでは、その話がおそらく最も原型に近い形だと考えられるんだ」
「これが基になっていると思われる話が、この山の向こう、X県側の民話に残っていますね」
「ああ。隠れ里の住人に出会う話だね」
「道に迷った男が山の中をさまよっていたところ、輪になって歌っている者たちがいた。誘われるままに、男がその輪の中に入ると、雲に包まれたような酒に酔ったような、なんともいえない心地がして、たいそう気持ちがよかった。眠り込んだ男が目を醒ますと、あたりには誰もいなくなっていた。村に帰った男は、畑作を指導して村を栄えさせた……」
「ほかにも、こんな話があるんだ。山に入った正直者が、雨を避けて岩陰に隠れていたところ、夢うつつに幻を見た。あまりの心地よさに、気がついたら、眠ったまま数日が経っていた。その後、正直者は人の病を治して感謝されるようになった。ところが、それをまねた隣の男は、山で雷に打たれて身体が痺れ、言葉も喋れないようになってしまった、というんだな」
そこで、西野谷志朗がくすりと笑った。
「で、結局、その隣の男も治してやって、正直者はますます人々から敬われるようになったわけですね」
「そう。めでたしめでたし、だ」
「これらの話に共通しているのは、偶然にしろ故意にしろ、山の中での体験がその人を変え、結果的にその後の生活も変わったというパターンですね」
「そういうことになる」
「で、水谷先生は、その変化を起こした原因を探ろうと考えた」
「そう。だから先生は、その人の性格や頭脳までも変えてしまう変化が、伝説にあるような、夢うつつの心地よさというものに起因しているのではないかと仮定したんだ」
「そして、人間にそのような影響を及ぼす条件がこの地域で見つかるかどうか、あなたも一緒に現地調査をしたわけですね」
「君は本当に話が早いなあ……」
「見たところ、今歩いているこのあたりは、地表に岩石が多く出ていますね。一般的な花崗岩でしょう」
「うん。この山の場合は、やや石英が多いようだね。もとからそういう地質なのか、それとも、表面に出ている岩が早い時代に風化して、その分、残った石英の比率が高くなったのか……」
「石英の結晶度はどうですか?」
「高いほうだろうね。この付近では水晶が採れるからね」
「石英は圧電体です。これが天然の水晶発振子となり、脳波や人体に何らかの影響を与えたのだろうというのですね?」
「そのためには、電圧をかけなくてはならないだろう」
「雷はどうですか? 雷電流のパルスは交流でも直流でもないはずですから、偶発的な条件が整えば……」
「しかし、人体に影響を与えるほどの共振を起こすとしたら、安定した交流電圧が一定時間は必要になるだろう? それに、偶然に頼っていたら、仮説を裏づける証拠を再現することもできないじゃないか」
「つまり、あなたと水谷先生は、この仮説を偶然性によるものとは考えなかったわけですね?」
氷川は立ち止まった。
すっかり息が上がって、呼吸が荒くなっている。それでも、この会話を途切れさせたくはなかった。肩で大きく息をしながら、西野谷志朗に向き直った。
「判断材料は多くないが、君なら、どんなことを想像する?」
西野谷志朗は、あっさりした口調で答えた。
「そうですね。人工的に交流電圧を発生させて、花崗岩を利用して共振現象を起こし、人間の脳波に影響を与えた何者かがいた。しかも、はるか昔に」
「あはは。飛躍しすぎじゃないか?」
「そうでしょうか? あなた自身、荒唐無稽とも思っていない様子ですがね」
氷川は苦笑した。
「なにしろ氷川さん、あなたと水谷先生は、その証拠ともいえるものを見つけたのですからね」
ああ、その通りだ。西野谷志朗の目を見て、氷川は力をこめて頷いた。
石の柱と土器片。その発見が、水谷先生と自分とを、さらなる仮説へと導くことになったのだった。
それからしばらく後、二人が登り着いたのは、平らに開けた場所だった。三十畳ほどの広さがあり、周囲は木立と山の斜面に囲まれている。
氷川は西野谷志朗を振り返った。
「この場所がそうだ。どう思う? ここなら……」
「なるほど、そうですね。ここなら確かに」
西野谷志朗はそう呟くと、やおら大声を張り上げた。「アァァァイ、ワズボーン、トゥゥゥ……!」
氷川はあっけにとられた。クイーンのヒット曲だ。なかなかうまい。西野谷志朗はワンフレーズ歌い終えると、周囲の山肌を見回している。氷川はふと笑いがこみあげて、こらえきれずに大声で笑った。西野谷志朗が氷川に、心配そうな目を向けた。
「音をはずしてましたか?」
「いや、そうじゃないんだ」
氷川はおかしくなって、また笑った。
「犬を思い出したんだよ。わたしが子供の頃に飼ってた犬。それを思い出してね」
「はあ……。犬、ですか……」
「そう。妙に訳知り顔をした奴でさ。自分のほうが大人だっていう感じで。わたしはガキ扱いされてた気がするんだ。でも、原っぱに放してやると、すごくはしゃいでさ。気取ってるくせに無邪気な奴だったから、おかしくて。なんだか、それを思い出してしまったよ」
「気取ってるくせに無邪気……。そうですか……。なんというか、複雑な気分です」
「あはは。すまんすまん。なんだか気になる奴だったんだよ。だから、その犬が死んでからは、もう犬を飼う気にならなかったんだ」
「では、褒め言葉だと受け取っておきますよ」
「あはは。そうしておいてくれ。ところで、君は気持ちよさそうに歌っていたけれど。ここで歌ってみて、どうだった?」
「声がかなり反響しましたね」
「そう、そこなんだよ。昔話に曰く……」
「道に迷った村人は山中で、輪になって歌う者たちに出会った。そのことと関連しているのですね?」
「水谷先生とわたしは、そう考えたんだ。ここは岩石の多い斜面に囲まれているからね。歌い続けていると、反響した音が、この場にだんだん渦を巻いてくるように感じられるんだよ」
「なるほど……。実験をしてみたんですか?」
「ああ。自分で歌ってみたんだけどね。ゆっくりしたテンポで、一つの音が長く続くような、わりと一本調子なサウンドがよかった」
「例えば、お経やマントラを唱えるとか?」
「そうそう。やってみたよ。歌というよりは、まさに、そういう感じのものがいいんだ。それに、原始的な楽器……石や太鼓を、単調なリズムで叩くのもうまくいった。弦をゆっくりはじくのもいい。反響が重なるにつれて、この場所の空気が変わるような感じがしたよ」
「音の高低は関係しましたか?」
「自分で唱えた音も、それから反響した音も身体に響く。だけど、音の高さによって、身体の中で響く位置が変わってくるね」
「なるほど」
「そのうちに、身体の力が抜けて……。何も考えられないような気分になった。瞑想状態とでもいうのかな。そんな、ゆったりした気持ちになってくるんだ」
「雲に包まれたような、酒に酔ったような?」
「そう。なんともいえない心地良さ、だな。あれは」
「つまり、音の反響も、脳波に影響を与える要因だと考えられるわけですね?」
「共振現象と音の響き。その両方を使うこともできるだろう。そして、その効果を再現するために、山の中で何らかの儀式が行われたとも考えられる。儀式を垣間見た者の話が、隠れ里伝説に形を変えて……」
そこで氷川は言葉を失った。表情をこわばらせ、凍りついたように立ちすくんでいる。西野谷志朗が、氷川の視線の先を目で追った。
山の斜面で行き止まりになっている辺り。雨を吸い込んだ地面は、濃い色をしていた。その間に、ところどころ大小の岩石が顔をのぞかせている。氷川は、その一角を凝視していた。
「見ろ! なくなってる。柱がなくなってる!」
そう叫ぶと、氷川は斜面の際に駆け寄り、地面に跪いた。
「ここに、確かにここに、横倒しで埋まっていたんだ。それが、なくなっている」
西野谷志朗がゆっくり近づいてくると、氷川の背後から地面を覗き込んだ。雨の後でも、土がえぐられた痕跡がはっきりとわかった。
「氷川さん。どうやら、先客がいたようですね」
「そうみたいだな」
氷川は呆然と呟いた。
「いったい誰が……」
西野谷志朗は氷川の隣にしゃがみこむと、土の表面を注意深く眺めた。
「氷川さん、穴の縁を見てください。雨でならされて、掘り返された跡がなめらかになっています。地面には足跡も残っていません。前にあなたがここに来たのは、いつのことですか?」
「先週の木曜日に来たばかりだ。前の日の夕方に強い雨が降ったものだから、心配で様子を見にね」
その日も氷川は、夜が明けるのを待って、急いでここにやって来たのだった。
氷川はふと、背中のリュックに入れた発掘道具のことを思い浮かべた。西野谷志朗も、同じことを思ったのかもしれない。彼は次に、こう尋ねた。
「あなたはなぜ、ここにやって来るのですか? 目的は何なのですか?」
「君の目的を先に聞かせてくれ」
「僕は、この場所が誰にどんなふうに守られているか、それを確かめに来ただけです」
その言葉は淡々として簡潔だった。氷川は、彼がほかに何か言うのを待ったが、西野谷志朗は言葉を付け足す気はないらしい。彼は氷川の決断を待っていた。
「そうか。わかった」
氷川は西野谷志朗と名乗る男を信じることにした。氷川はリュックをおろし、発掘道具を取り出した。丹念に土を取り除くためのブラシ、繊細な作業をするための刷毛、小型のスコップ、あとは測量用のメジャーなどだ。
「掘り出して、調べてから、埋め戻して保存する。それがわたしの目的だ」
「保存? 人目から隠すのが目的でしょう?」
氷川は驚いた。この男は、それもわかっていたのか。
「いつまで隠しておくのですか?」
「然るべき時まで。その時が満ちる日までだ。わたしは水谷先生に、そう託された」
「その時が満ちるのを待ちきれない者がいた、ということでしょうかね? それとも、偶然見つけた柱を気に入って、運び出したのでしょうか」
「君はどう考える?」
氷川は立ち上がって、呻きながら腰を伸ばした。西野谷志朗も立ち上がると、すぐ目の前に迫っている山の斜面を見上げた。
「今日は火曜日です。台風の予想進路に、この付近が含まれることがわかったのが、金曜日。土曜日の夜のニュースでは、このあたりの山間部に台風の被害が大きいと予想されていました。台風が通り過ぎたのは昨日の月曜日。地面の様子から見て、柱が運び出されたのは雨が降る前だと思われますから……」
「木曜日を入れて、四日間の間ということか」
「いえ。日曜日でしょう。もしも、柱の価値を知っている者が掘り出したとしたら、ですが」
氷川も斜面を見上げた。
「なるほどな。台風を警戒して、土砂崩れから守るために柱を避難させた、というわけか」
「柱の価値を知っていたら、の話ですよ」
「多分、知っていたんだろう。もし無理に掘り出されていたのなら、岩石が削り取られて、石英の微粒子が地面に飛び散るだろう? 雨の後ではっきりしないが、見たところ、穴の周りの土に、微粒子が光っていたわけじゃないからな」
「それに、ここにあった柱は、あなたが埋めておいたはずですしね」
氷川は、はっとして西野谷志朗を見た。
「そうです、氷川さん。その何者かは、探したのですよ。柱の存在もその価値も知っていて、ここにあることもわかっていた。だからこそ、土砂崩れの下に永久に埋まってしまう前に、探して掘り出したのです」
「そうかもしれない。わたしも土砂崩れが心配で、だから、強い雨の後は様子を見に来るんだ。ここは山の中腹にあたる。階段の踊り場のような形になっているんだが。地質的な調査をすると、昔はもっと奥まで、平らに広がっていたらしい。それが、長い間に、上から落ちてきた土砂で少しずつ埋まって、山の斜面の一部になったらしいんだ。この斜面の下には、まだほかの柱が埋まっている可能性がある。水谷先生とも、そう話していたんだが」
「ほかにも柱があるのですね?」
氷川は黙って頷くと、数メートル離れた場所の地面を掘り始めた。目印がなくても、氷川にはその場所がわかる。もう身についた動作だった。
その作業を見守りながら、西野谷志朗は思いついたように氷川に尋ねた。
「柱の重さは、どのくらいなのですか?」
氷川はスコップをブラシに持ちかえながら答えた。
「正確にはわからない。密度から計算すると、だいたい250キロ前後というところじゃないだろうか。長さが約120センチほどの、細めの墓石という感じだ」
「一人では運べませんね」
「ああ。それに、登ってきたからわかるだろうけれど、ここは山の中で、かなり勾配がある」
「それは、僕たちが登ってきた方角のことですよ」
氷川はまた、はっとした。瞬間的に、西野谷志朗の言おうとしていることがわかった。
「柱を運び出した者は……」
「者たちは、ですよ。彼らは複数です」
「そうだったな。彼らは、この山の向こう側から登ってきた。向こう側は、ふもとまでの距離は長いんだが、勾配はゆるやかで、途中から林道に抜けられるはずだ。車も使える」
「この山の向こう、X県側の伝説に曰く」
「うん。山中で輪になり歌う者……」
「だから、彼らは知っていたのです。柱と儀式と、その効果をね」
氷川は黙りこむしかなかった。これをどう考えればいいのだろう。いったい何が起こっているというんだ?
「氷川さん、その石が柱の一部なんですね?」
不意に西野谷志朗は話を変えて、氷川の手元を覗きこんだ。
「ああ。これが、二番目に見つかった柱の、上の部分だ。これはいくぶん斜めに、縦に埋まっている。これも高さは約120センチだ」
「ここに……。石の真ん中に、溝があるように見えるのですが」
「これが人工的に加工された証拠でもあるんだ」
「なくなった柱にも、これと同じものが?」
「三番目に見つかった柱にもあった。今までに、三本の柱が見つかっている。どの柱にも、これと同じ溝が、ちょうど全体を二分するように、縦に彫られているんだ」
「柱は全部で何本あると思いますか?」
「わたしは、六本あると考えている。でも、柱を運び出した者たちは、一本だけだと思っているかもしれないな。一本の柱を取り囲んで、輪になって儀式をしたと思っているのかもしれない。水谷先生もわたしも、最初はそう考えていたんだ。けれど、二本目の柱が見つかって、それにも溝が彫られているのを見て、ほかの可能性を考え始めた。数本の柱を円形に配置して、その内側で何らかの儀式的なことをおこなった、とも考えられるからね」
「あなたと水谷先生は、その仮説に基づいて、位置の見当をつけて掘った……。そして、三本目の柱を見つけたのですね。でも、六本と推測する根拠は何ですか?」
「この溝だよ。これは、一つの柱を二本分に見立てるために、手を加えたのではないかと思ってね。これよりも細く石を切り出すのは難しかったのかもしれないし、それに、一つで二本分ということは、二本でワンセットを表しているとも考えられる」
「つまり、土器片には、そのことが描かれていたのですね? だから、そう考える根拠になった……」
氷川は、西野谷志朗に何も隠すつもりはなかった。今はもう、彼のペースで話が進むことが、快く感じられるようになっていた。
「土器片には、十二本の線が見て取れた。線の間隔から見て、十二本描かれていると考えて、ほぼ間違いないだろう」
それは天空から差しこむ、光の線だ……。この二十年間、口にこそ出さなかったが、土器片を初めて手に取ったその時から、氷川はそう信じて疑わなかった。
空から降り注ぐ十二本の光のすじは、六本の柱となって地上の人間に吸収される……。そして、光の源には、三角形の印が刻まれていた……。
「さてと。行きましょうか?」
しばし土器片に思いをはせていた氷川だったが、西野谷志朗に呼びかけられて、我に返った。
「僕は柱の後を追いますよ。あなたはどうしますか?」
「もちろん、行くさ」
「そうこなくては」
西野谷志朗が笑い、氷川も笑った。
出発の前に氷川は、掘り返した柱を丁寧に埋め戻した。西野谷志朗は、「僕は遠慮しておきますよ。手を汚したくありませんからね」と言って手伝いはせず、氷川が作業をしている間も、一度も話しかけることをしなかった。しかし氷川は、自分が彼から尊重されているのを感じていた。柱を埋め戻すのは、氷川だけに与えられた仕事なのだった。
土の表面をならした後、氷川は辺りを見回した。太陽の光が、斜面をもう乾かし始めている。氷川はそこから、砂混じりの土を素手ですくい取った。芯に水気の残った土が手の中でほろほろと崩れ、指の間からこぼれ落ちていく。この感触は、いつも氷川を厳かな気持ちにさせた。一連の作業の後で、最後に必ずこうして、ひとつかみの土を地面にまくのは、再びここに来ることを誓う自分なりの儀式なのだと、氷川は思う。
「氷川さん」
西野谷志朗が静かに呼びかけた。
「あなたは聖域を守る者……。これが、あなたの守り方なのですね」
「いつか、その時が満ちるまで。それがわたしの役目なら」
地面を見下ろしたまま、氷川はそう呟いた。
二人が新たに歩き出したのは、傾斜のゆるやかな、ゆったりした山道だった。今度は、二人は並んで歩くことができた。
「これなら歩きながら食べられる。ツナと、昆布の佃煮。どっちがいい?」
と言って、氷川はリュックからコンビニのおにぎりを取り出した。
「おや、これはかたじけない。僕はベジタリアンなので、昆布のほうをいただきます」
氷川は、かたじけないという言葉に面食らったが、古くさい言葉を遣うのも菜食主義だというのも、西野谷志朗になら、さもありなんと思えた。西野谷志朗も自分の荷物から包みを出すと、ひょいと氷川に手渡す。
「では、僕のおにぎりも、ひとつどうぞ。シンプルな塩むすびですが」
「へえ、竹の皮で……。近頃のはやりなのかな」
「こんなのも持ってますよ」
そう言って西野谷志朗は竹筒の水筒を取り出すと、得意そうに振ってみせた。水の音が耳に心地よく響く。
「今朝あなたと会う前に、F神社の裏で、この山から流れる水を汲んできました。きれいな水だったので、自然の恵みに与ろうと思いましてね」
氷川は感心して思わず唸ったが、ふと恩師の顔を思い出した。
「そういえば、水谷先生が言っていたんだが……」
水谷先生がまだ若く、駆け出しの研究者だった頃、とある地方の古い祠を調査したのだそうだ。
そこには古くから、豊穣をもたらす狐が祀られており、村には素朴な農耕儀礼が残っていた。名もなき祠はあまりにも小さくて、社と呼ぶほどのものではなかったが、村人たちは豊穣の狐に親しみと尊敬をこめて、社様と呼んでいた。彼らは田畑の行き帰りに祠に手を合わせ、四季折々に祠に集っては、ささやかな行事を執り行った。心根が清らかで行いの善い者には、社様が夢に現れて幸運を授けるのだと信じられていた。
水谷先生は何年もその祠に通って調査していたが、そのうちに時代の波が押し寄せて、田畑はまたたくまに宅地に様変わりしていった。祠は取り壊しを逃れたが、それらしい社殿と鳥居を施されて、地名を冠する神社に整えられた。村が変貌するにつれて、祠で行われていた行事はすたれ、そのかわりに、経済成長や消費の時代に合わせて、人々はその神社を、現世利益を願う場所として扱うようになっていったのだった。
昔の祠を知る年寄りが、一人また一人とこの世を去り、水谷先生が記録していた素朴な祭りを思い出す者は、誰もいなくなった。
水谷先生が最後に祠を訪れた時、それまではいつも感じていた、穏やかに人を包み込むような祠の気配が消えていた。それで水谷先生は理解した。ここにはもう、社様はいない。社様が住まうには、この祠は人間の欲で汚れすぎてしまったのだ。社様は、かつてのように、純朴な思いを寄せられることがなくなってしまった。この祠はもう、社様と心を通わせない者たちの、身勝手な欲望の置き場所になってしまったのだ。心の清らかな者を守り慈しんできた社様が、どうしてここに住まっていられよう……。
切ない思いで祠を後にした水谷先生は、その夜、夢を見た。
夢の中で、あの祠は昔の姿のままだった。風化して丸みを帯びた小さな祠が、クスノキの木陰で佇むように、自分が行くのを待っている。ああ、ここになら社様がいらっしゃるに違いない……。そう思って近づくと、祠は突然光を放ち、その目を射るほどに眩しい光を全身に浴びて、水谷先生は目が覚めた。それは鋭いけれど心地良い、まことに美しい白銀の光だったと、水谷先生は言っていた。
そして、水谷先生はその光に祈ったのだそうだ。いつの日か人々が、文明社会を進化させながらも、自然の恵みと共に生きる感性に再び価値を見いだしますように。その日のために、自分の人生を捧げさせてください……。
それゆえ水谷先生は、科学的考察を研究の方針にしたのだった。感性と対極にある科学的な見方を以てしても、迷信や伝承には、そうなるに至った原点的な根拠や理由があるのだと説くことで、昔から受け継がれてきた日本人の感性を理性的に肯定し、守ろうとしていたのだ。理性によって裏打ちされた情緒なら、幅広く人々を納得させることができるだろうと考えたのだった。
水谷先生のその思いが正しく理解されることは少なかったが、それでも先生は信念を曲げなかった。感性と理性という相反するものが互いに補完しあって、新たな理解を生むことを人々が知れば、その先の未来には、技術の発展と自然界との調和を、矛盾なく実現する世代が現れることだろう。便利な生活をしながらも自然界の中で生かされていることを忘れない人々が、社様のような存在を、居るべき場所に安住させることができるのだろう……。
水谷先生は、そんな未来を信じたまま亡くなった。きっと、自分が思い描いた未来へと旅立っていったのだ。氷川はそれを信じている。
そういえば、あれは、なんという名だったか……。水谷先生が、あの白銀の光は祠の狐だったのだと言って、心をこめて呼んだ名だ。祠は村の西に位置していたそうだから……。
「ところで、氷川さん。あなたのリュックはずいぶん重そうですね」
回想にひたっていた氷川は、現実に引き戻された。西野谷志朗が、いたずらっぽい目を向けている。
氷川はまた、子供の頃に飼っていた犬のことを思い出した。おまえが何を隠していても全てお見通しなんだぞ、と言うかのように、ふふんと鼻先で氷川を笑っている時の目だ。氷川は素直に降参した。
「わかったよ。その通り。土器片を持ってる」
「肌身離さず、いつも持ち歩いているのですか?」
「ああ。もしどこかに隠したとしたら、わたしの身に何かあった場合、土器片も仮説も、おそらく永遠に失われてしまうだろう」
「身につけておけば、あなたに何かあっても、土器片は回収されて誰かの手に渡るというわけですね」
「特注のジェラルミンケースに入れてある。水谷先生の仮説を刻みつけた金属板も一緒に。あとは、手に入れた者の運命に任せるしかないがね」
「あなたが海底に沈むことがない限り、土器片は失われないというわけですか?」
「あはははは。だからわたしは、水辺には近寄らないことにしているんだ」
西野谷志朗も、声をたてて笑った。
「なるほど、あなたは確かな運び手だ」
「運び手? 土器片を守っているつもりなんだが」
「さすがは水谷喜世志先生の愛弟子ですね。意味を聞き分けていらっしゃる」
氷川は西野谷志朗の言葉を待った。
「あなたは聖域を守る者。そして、記録の運び手です。あなたは今まさに、土器片に記された記録を、在るべき場所に納めに行こうとしているところなのですよ」
「それはいったい、どういう……?」
「あそこに行けば、わかるようになっているのでしょう」
二人の行く手に、岩をうがつ切り通しの細い道が見えてきた。
「どうするかは、もちろんあなたの選択しだいです」
西野谷志朗の言葉に、氷川は無言で頷いた。
それまで氷川は、柱を運び出した者たちは切り通しの手前を通る林道を使って、車でふもとの市街地に下っていったのだと考えていた。しかし……。
切り通しの向こうには、ほとんど人の住んでいない集落があったはずだ。廃屋が点在するだけで、もしかしたら、今ではもう誰も住んでいないのかもしれない。柱を持ち込むにしても、他人に知られたくないことをするにしても、そこは格好の場所と言えるだろう。
氷川はふと、廃屋に身を潜める狂信者の集団を想像して、ぞっとした。そんな考えを読み取ったかのように、西野谷志朗がくすりと笑う。
「あなたのように一人で柱を守ろうと、何人で守ったとしても、誰かがそれをしていればいいだけのことです。柱にとって、たいした違いはありませんよ。もっとも、正しくそれが行われていればの話ですがね」
「ああ。その通りだな」
氷川は深呼吸して、よけいな考えを振り払った。それを見て、西野谷志朗が頷く。
二人は切り通しの入り口に足を踏み入れた。舗装されていない泥土の細道が、その集落が行政からも忘れ去られていることを示していた。氷川はそこに、くっきりと深い轍の痕跡を見つけた。
「重い物を運んだようですね」
西野谷志朗の声が、岩壁をひんやりと響かせた。目にしたものを観察するいつもの習慣で、氷川は轍に注意を向けた。
「リヤカーだ。ここは、軽トラックがぎりぎり通れるくらいの幅しかないから。山からは人の手で運んで、ここからは皆でリヤカーを押して、大事に運んだんだろう」
轍の脇に、いくつもの足跡が見て取れる。その爪先はどれも、集落に向いていた。間違いない。この先に、柱はある……。
薄暗い細道を抜け出ると、そのまま、舗装のない道が集落の中心に向かって続いていた。夕刻が間近い空の色と、土や草木の色彩が、風景の大半を占めている。その中に、氷川が想像していたような軒の低い家屋が、ぽつりぽつりと見え隠れしていた。しかし、ひっそりと見えるが、廃屋ではなさそうだった。
一件の家に近づいてみると、その家は、古い外観を残したまま改築してあるのだとわかった。引き戸の脇に、鮮やかな模様の傘が広げて干してあり、垣根の向こうに、洗濯物を取り込む人の手が見える。ほかの家々にも、それぞれの生活の気配があった。
氷川は思わず呟いた。
「この村はとっくに過疎化が進んで、もう人は住んでいないと思っていた。なのに、けっこう人が住んでいるみたいだなあ。田舎暮らしに憧れて、都会から移住してきたんだろうか?」
「と言うより、隠れにきたんじゃないですかね」
「え?」
「だって、氷川さん、ここは隠れ里ですから」
「まさか。この村は名前もあるし、地図にも載っている。ここに実在していることは知られているんだ」
「でも、あなたは、ここに人が住んでいることは知らなかったでしょう?」
「そりゃそうさ。よほどの用事でもないかぎり、集落があることは知っていても、役場の人だって来ることなんてないよ。ここに何があるってわけじゃないからな。だから、よほどの用事と言ったって、そんな用事ができるはずもないし……」
そこまで喋った時、氷川は自分の言葉で気がついた。
「ああ、そうか。だから……」
「そうです。だから、ここは隠れ里なのですよ」
「なるほど。ここには何の産業もない。名所旧跡はおろか、寺社もないんだ。ほら、自動販売機すら見当たらないじゃないか。よそ者が立ち寄れる場所が、一つもないというわけだ。直接外へ流通させる産業をしなければ、ここが注目されることはないし、通販を使わなければ宅配の車も来ない。ふもとの街に通勤通学すれば、この村は人目を引かずにすむ。そういうことなんだな?」
「これが、現代の隠れ里というわけですよ。隠れ里の存在は、地図や住民票の中に、実在するものの中に隠してしまえばいい」
西野谷志朗の言葉に、氷川は唸った。
「おや、氷川さん、ここの人たちは病院には困らないみたいですよ」
西野谷志朗は、また不意に話題を変えた。
目の前に、診療所の看板をかける家があった。氷川と同じくらいの年格好の男性が、庭先で車の手入れをしているところだった。そばに小さい女の子がいて、バケツを覗き込んで何か遊んでいる。夕餉の支度なのか、家の中から揚げ物の匂いが漂っていた。
「あの人に聞いてみましょう」
ちょっと待った、と氷川が止める前に、西野谷志朗はもうすたすたと男性に歩み寄って、声をかけていた。
「あのう。お忙しいところを失礼いたします。みなさんが山から持ってきた石のことなんですけどね」
西野谷志朗の率直な物言いに、氷川は緊張した。相手がどんな反応をするかわからない。しかし、次の瞬間には拍子抜けして、氷川は大きく溜め息をついていた。
「ああ、あれか。僕も一緒に手伝ったよ」
男性の答えは、西野谷志朗の物言い以上にあっさりしていた。
「佐伯さんの家にあるから、行ってみるといいよ」
氷川の頭は混乱し始めた。この村の者たちにとって、西野谷志朗も自分も、よそ者のはずだ。それなのに、この男性は、自分たちを不審そうに見るでもなく、まるで天気の話でもするかのように、石の柱を運んだと簡単に口にしている。女の子まで顔を上げて、「石はねぇ、さえきじいさんのお家」と言って、話しかけてくるではないか。
娘の様子を見て、男性が笑った。
「ここでは、みんな、佐伯爺さんって呼んでるんだよ。歳は、九十いくつ。半分寝たきりだから、時々診察に行ってるんだけど。佐伯さんちはあそこ。ハルさんがいるから、家に行っても大丈夫。先に行っててくれる? 僕たちも後から行くから」
教えられた家に向かいながら、氷川は思ったことを口にした。
「君もわたしも、ここではよそ者なのに」
「それなのに、あの人たちは、隣近所の知り合いと世間話をするようでしたね」
「妙な感じだ」
「そうですか? ここは隠れ里ですからね。ちっとも妙じゃありませんよ」
氷川は西野谷志朗の表情を窺い見た。相変わらず、涼しい顔をしている。
「つまり、君もわたしも……」
「そうみたいですね。隠れ里での、最初の扱いを受けたというわけです。よそ者とされるかどうかは、これから試されることになるのでしょうね」
「やれやれ。いったい、何がどうなっているのやら。まるで、狐にでもつままれたようだ」
「あっはっは! 氷川さん、あなたのジョークは、本当に面白いですねぇ」
吹き出して笑う西野谷志朗を、氷川は複雑な気持ちで眺めた。
「いや、冗談を言ったつもりはないんだが……」
その時氷川は、道の先から、こちらに手を振っている人物に目をとめた。小柄な女性が、佐伯老人の家の前に立っている。目立つ白髪が、ちょうど目印のようだった。西野谷志朗も気がついて、笑うのをやめた。
「氷川さん、あの方がハルさんらしいですね」
「でも、どうしてわたしたちのことを知ったのだろう? 隠れ里だからなのか?」
西野谷志朗は目を細めてハルの方を見やると、言った。
「そんな不思議な話ではなさそうですよ」
すぐに氷川にもその理由がわかった。家の前に着くと、ハルは片手に携帯電話を持っていたのだった。
「診療所の畔上先生が電話してくれたの。私がハル。佐伯爺さんは私の伯父なのよ。さ、入って」
「あ、あの……。わたしは氷川と申します」
氷川が急いで名乗ると、ハルは確認するように「氷川さん」と繰り返し、にこっと笑った。ハルは六十代なのかもしれないが、三十代のようにも感じられる。白髪でジーパン姿。氷川にはハルの年齢がわからなかった。ただ、印象深い人であることだけは確かだった。
西野谷志朗は名刺を取り出して、その朝氷川にしたように、「僕はこういう者です」とハルに手渡した。ハルは名刺を眺めたが、氷川には、その目元が笑っているように見えた。
「記者さんねぇ。ま、そういうことにさせていただくわ」
ハルがいたずらっぽい笑顔でそう言い、西野谷志朗が苦笑した。
ハルさんは目尻のしわも印象深い、と氷川が思った時、引き戸を開けたハルが、くるっと氷川を振り向いた。
「ねえ。携帯電話、持ってないと思ってた?」
ああ、ここは隠れ里なのだ。そう氷川は思った。
佐伯老人の家は、戸口を入ると広い土間になっていた。頑丈そうな薪ストーブが据えられている。木製のベンチが置いてあるのを見て、氷川はほっとした。早朝からの山歩きと作業で、服が埃まみれだったからだ。そんな格好で他人の家に上がるのは、気が引ける。
その土間で、氷川はすぐに柱を見つけた。
土間の隣は板の間になっており、その上がり口に古毛布が敷かれて、石の柱が立てかけてあった。氷川は瞬間的に、縦に刻まれた溝を確認した。西野谷志朗はと見ると、彼はくつろいだ様子で、興味深げに柱を眺めている。それで氷川は、今は自分からは何も言わなくていい、何もしなくていいのだと思った。
「適当に座っててちょうだい」
ハルに声をかけられて、二人はベンチに腰を下ろした。ハルはストーブの前にかがみこみ、「冬支度はまだなんだけど、日が落ちると冷えるのよね」と言って薪をくべ始めた。
石柱は氷川の目の前にある。これまで氷川は、立てた状態でそれを眺めたことはなかった。静かな感慨が湧いてくるのを感じながら、本来の姿に近い柱を、氷川はただぼんやりと眺めていた。ストーブの灯りが、石柱を照らす。炎の灯りはまどろむような、そして、いつまでも見ていたいような色だった。板の間の衝立からしわぶきが聞こえてくるが、それも気にならない……。
「ハルさん、あの衝立の向こうに、伯父様がいらっしゃるのですか?」
西野谷志朗は、ここでも遠慮がない。それに答えるハルの声には、楽しげな響きがあった。
「そうなの。みんなの顔が見たいと言ってね。近所の人たちが、しょっちゅう集まるのよ。賑やかなおかげで、伯父も寝たきりだけど頭はしっかりしてて、助かるわ」
それからハルは、思い出したように付け加えた。
「あ、そうそう。石、山から持ってきちゃったけど……。伯父の墓石に、ちょうどよさそう。まだ同じのが埋まってるみたいだから、一個借りようかと思ったの」
氷川はゆっくりと石柱から目を離し、ハルに顔を向けた。今、なんて……?
そう言いかけたが、西野谷志朗の笑い声のほうが早かった。
「あっはっは! それはいい考えですねえ。柱の周りにみんなが集まっていても、傍目には墓参りにしか見えませんからね。なるほど、いい考えだ」
「でしょ?」
ハルは軽い身のこなしで板の間に上がると、電灯をつけ、衝立をどかした。介護用のベッドから、痩せた老人が半身を起こそうとしていた。不謹慎な話に怒っている風もない。肩をゆすって、しわぶきながら笑っている。
ハルがベッドを調節するのを待って、氷川と西野谷志朗は立ち上がり、佐伯老人に目礼をした。
「伯父が言うにはね、石の柱は、六本作られたんだって。縄文時代の中頃のことらしいわよ」
氷川が強いて尋ねるまでもなかった。作為的なことをしなければ、話は、進むように進んでいく。隠れ里伝説とは、そうなっているものだ。
「伯父はね、終戦後にこの集落に移ってきたの。伯父が来た頃には、形だけだけど、まだ昔の習慣が残っていたそうよ。柱はとっくの昔に、みんな埋まってたらしくて、誰も石の柱のことは知らなかったけれど、あの広場で寄り合いをしたんだって。知ってる?」
いきなりハルに尋ねられて、氷川はあがってしまった。が、その話に思い当たることがあった。
「それはもしかして、かわらけ様の祭りのことではありませんか?」
ハルが嬉しそうな顔をした。
「そうそう! 氷川さん、ご存知なのね。それでね……」
かわらけ様の祭りというのは、この付近に、昭和三十年代の始め頃まで伝わっていた行事のことだ。県境が定かでない時代からの習慣で、F神社のあたりからこの集落までの農民が、石柱の埋まっていた、あの山の踊り場のような場所に集まった。当時はまだ山林の手入れがされており、土砂が崩れていなかったので、そこは今よりもずっと広かったようだ。
水谷先生は、この地方の隠れ里伝説を検証するにあたり、ある推察をしていた。もともとの意味が忘れ去られるほどに起源が古い儀礼は、不可解な形だけが残って後世に伝えられていることがある。そのような儀礼をよその村の者が垣間見て、理解しがたいその光景を不思議な物語にして語り継いだのではないか、というのだ。そして水谷先生は、かわらけ様の祭りに行き当たったのだった。
農村の古い祭りといえば、まず農耕儀礼としての祭りが挙げられる。そのほかに、かがり火を焚いて一晩踊り明かすといったような、農民が日々の気を晴らす目的でおこなう集まりを指すこともできる。
かわらけ様の祭りもその類の、ある特別な新月か満月の晩におこなうものであったらしい。しかし、それは、ひそやかな祭りだった。
村人たちは三々五々、山の広場に集まってくる。倒木や石を叩いて、楽器がわりにする者もいた。踊る者もいたが、盆踊りのような決まった形はない。静かにさざめきながら広場を歩く者、松明の灯りに見入る者、その場を少し離れて星を眺める者……。皆それぞれに、思い思いの過ごし方をするのだった。
こういう時でもなければ、村人たちは互いにゆっくり話をすることもない。そこここに小さな会話の輪ができる。やがて夜が更けるにしたがって、かわらけ様の祭りの意味が明らかになっていく。集まった人々のうち、この一群にふさわしくない者が、しだいにあぶり出されていくのだった。
人は、他者と関わる時の態度で、その人柄があらわになりやすい。それを心得て、そつなく立ち回ったつもりでも、無意識の言動が、その人の隠された本性を暴くことがある。本人が気づかないだけで、周りの人間は敏感に感じ取るものだ。会話の輪の中で、他人を言い負かそうとやっきになる者や、相手の言葉に過度に感情的な反応をする者、自分への注目を強いる者などが、しだいに浮かび上がってくる。
かわらけ様の祭りは、特別な時間、特別な場所でおこなわれる。特別なのは、そのひとときなのだ。誰かが先頭に立つこともなく、祭りを仕切る者もいない。神聖な時間と場所を皆で共有することで充足を感じる集まりなのだ。しかし、自分だけが偉くて特別でありたいという意識を持つ者は、その自己中心的な欲求に理性が負けてしまう。特別な時間、特別な場所を、自分一人だけが手にしたものだと錯覚する。抑えることのできない支配欲や権力欲が言動ににじみ出て、自分が仲間の一員にふさわしくないことを自ら明らかにしてしまうのだ。そして、その場を共有する者たちと調和しない彼らは、集落から放出される。
かわらけ様の祭りは、集落内に一定の意識のバランスを保つための、選り分けの儀式であったのだ。暮らしやすい集落を維持し、皆が生き延びていくには、環境も人も、和が乱されないことが大切だ。互いを尊重し、山の自然と共に生き、謙虚に日々をまっとうするといったような、心の姿勢を約束しあう必要があるのだった。
山中で道に迷い、そして帰ってきた村人のうち、ある者は自分の役割に目覚めて聡明に行動し、またある者は自分の感情に振り回されて言動を抑制できなくなった……。かわらけ様の祭りには、参加した者の気質を問う性質があったのではないだろうか……。
「人が入れ替わり立ち替わりしたそうでね。伯父がここに住み着いた頃には、残った人はあまり多くなかったそうよ。伯父はその人たちに、この集落を探していたわけを話したの。それで、仲間に迎え入れてもらったのよ」
佐伯老人は、ハルが話すままに、頷いて聞いている。姪が自分を理解して、事実を確実に伝えるのを、信頼しているのだろう。
「伯父はね、ある夢をよく見ていたんだって。夢の中で、伯父は縄文時代の男の人になっていて、仲間と一緒に夜空を見上げているの。頭上に不思議なものが浮かんでいる。六畳ほどの大きさの、きれいな青い光に包まれた船。空に浮かぶ、三角形の……UFOね」
縄文の仲間たちのうち、見たこともない不思議な光景に驚愕した者は、何が起こっているのかわからずに取り乱し、その場に卒倒したり叫びながら逃げ出したりした。しかし、何人かは落ち着いて頭上を眺めていた。彼らも、そして縄文人となった佐伯老人も、その青い船を、切ないほど懐かしい郷愁のような思いで見上げていた。
それから誰言うともなく、同じ思いを持った者たちは車座になって座り、身体の奥から音を発し始めた。彼らの身体が楽器であるかのようだった。あるいは高く、あるいは低く、おのおのがいちばん発しやすい音は、唸り声のようでも音階があるようでもあった。それは彼らが、何か特別な思いを表現する時の方法だった。彼らはゆったりと息を継ぎながら、音を発し続ける。いくつも複雑に重なった音は、細かく空気を震わせて辺りに満ちていった。
すると、彼らの音に応答するかのように、青い船から、幾筋かの光線が降り注いでくる。一人一人の頭頂に、その光線が当たった。夢の中の佐伯老人は、自分に向かってくる光線の数を数える。それは十二本の眩しい光の筋だった。船から頭に当たるまでの間に、その光は二本ずつの束になり、微細な光の粒子が螺旋のようにうねりながら、頭頂から自分の体内に入ってくるのだった。それは、どんな言葉でも言い表せない、至福の心地良さだった。
「それでね、そのことをいつでも思い出せるようにといって、仲間たちみんなで、石の柱を六本作ったそうよ。光は二本ずつ束になっていたからね。真ん中にまっすぐの溝を彫りつけるのが、大変だったんだって。縄文人の伯父は、その光景を記録に残しておこうと思って、壺を作る時に、その様子を絵で刻みつけたんだって。これがその絵。伯父が描いたの」
ハルが佐伯老人の枕の下から取り出したのは、黄ばんだ和紙の束だった。
絵は、その一枚に描かれていた。
空を表す横の直線。その下に、三角形の印。そこから、十二本の線が下に伸びている。いちばん下には単純な線で人間が描かれ、人間の頭頂部に向かって突き刺さるような、太い六本の筋が引かれていた。氷川の持つ土器片に描かれた文様そのものだった。
「ね、面白いでしょ? でね、この三角形なんだけど、夢の中で縄文人の伯父は、あのきれいな青い光の色をつけたかったの。ほら、月の周りが青く見えることがあるでしょ? ああいう色だったんだって。でもね、そういう色はなかったから、ただ三角形を刻んだだけだったそうよ。夢から覚めても、それが心残りなんだって」
ハルは伯父の顔を見て、「ね?」というふうに小首をかしげた。佐伯老人の目は、姪を見て優しく笑っている。
佐伯老人は、夢で見た場所を探したかった。
小さい縄文の集落。そこから望む山の形には特徴があった。収穫を求めて山に分け入ると、中腹に広く開けた場所がある。そこで天空から降り注ぐ光を浴びた。とても夢とは思えない体験だった。佐伯老人は、その土地が本当にあるのだという思いに、取りつかれたかのようだった。それで変わり者だと呼ばれるようになったが、気にしなかった。
探すといっても、今から何十年も前のことだ。簡単には探せない。地方の山々を描いた絵葉書や印刷物の中に、夢で見た風景を探し、全国を旅できるよう行商の仕事に就いた。
山は、見る角度によって形が違う。植生が変われば、四季折々の雰囲気も変わってしまう。道を開くために、元の山が切り崩されることもある。しかし、運が味方したのか、それとも、実在したその場所が時を超えて縁者を呼び寄せたのか、佐伯老人はついに夢で見た土地を探し当て、遠い昔話に出てくるような農村に足を踏み入れたのだった。
そして、空に浮かぶ船と出会ったあの山は、原生林に覆われて残っていた。里山というにはいくぶん標高が高く、登山するには標高が低い。人の目が景色を見る時に、ちょうど見逃す大きさだった。山の向こうのZ県側は急に切り立っており、ふもとに神社があるが、普段はそちら側から山に入る者はいない。集落と山は、時代が移り変わり世代が替わっても、自然環境によって遙か昔から保存されてきたのだった。
しかし、佐伯老人が再びこの地を訪れるのは、何年も後になってからのことだ。
戦争があった。戦争を体験した佐伯老人が、当時どのような思いで、再びこの土地に辿りついたか、それを推し量ることはできない。集落の住人となった佐伯老人は、ふもとの街でささやかな事業を興し、若い世代のために働き口を作った。畑も耕し続けながら、村の皆で時代の変遷を生き抜いてきたのだった。
その生活の中で、かわらけ様の祭りはなくとも、同じように村人は入れ替わり、いちばん若い世代は都会に出て行った。この村で生きたいと望み、この土地にふさわしい者だけが残った。それがさらに、佐伯老人とハルの家一軒だけになりかけた頃だ。かつての佐伯老人のように、この土地に呼ばれるようにして集落を探し当て、移り住む者たちが現れたのだった。
これは、時代が新たな転換を始める兆しなのかもしれない……。そう思った佐伯老人は、新しい時代を生きる者たちのために、何か道しるべを残すのが自分の最後の役割だと考えた。道しるべがあれば、彼らはそこから、自分の力で時代の先へと進むことができる。それには、彼らが、この土地と共存する感性を養い、自然界を敬う気質を育むことができればいい。そうすれば、この土地が人間に教えてくれていることを、人間が自然界の一部であることの意味を、彼らは自分で理解できるようになる。
和紙の束には、道しるべとなる感性を培う術と、佐伯老人の経験的な知恵が、すべて書き込んであるのだろう。人生の終わりの時間を過ごす佐伯老人は、今、自分が書き記した紙束に、新しい知恵が書き足されることを願い、そして信じているに違いない。水谷先生がそうであったように。佐伯老人もまた、自分が信じた未来に向かって旅立とうとしているのだ。氷川はそう思った。
ハルは手の中の紙束に視線を落とした。
「私はね、小さいうちに伯父に引き取られたの。親にとっては育てにくい子だったのね。変なことばかり言ってたから。親が手を焼いて、変わり者の伯父とならウマが合うだろうって言ったの」
ハルにもまた、小さい頃からよく見る夢があった。
夢の中でハルがいるのは、宇宙のどこかとしか言いようのない場所だった。なぜなのかわからないが、宇宙のどこかだと感じられた。大勢の老若男女に囲まれていたが、違和感はなかった。現実に会ったことはないけれど彼らを知っていると感じ、彼らと自分は一つにつながった家族のようなものだと思えた。彼らは、ハルの出発を祝うために集まっていた。これからハルは故郷を離れ、ある目的を持ってどこかへ旅立つのだ。
仲間の中から、進み出る者があった。その人はハルの頭に冠を載せた。仲間たちから前途を祝福する声が上がるのを、ハルはその場の雰囲気で感じ取っていた。晴れがましくもあり、未知の冒険に身構える気持ちでもあった。冠を載せてもらうと、旅立ちの準備ができるのだ。そしてハルは、薄く青いベールに包まれた星、地球に向かって、空間を一直線に飛ぶ……。
「私が初めてその話をした時、伯父は言ったの。当然だって。それでいいんだって」
ハルが顔を上げた。
「伯父が言うにはね、私たちがこの地上にやってくる前、地球に合った姿形になるために、しなければならないことがあるんだって。地球にあるものは、目に見えたり触れたり、人間もそういう物質でしょう? 物質はその一箇所にしかいられないし、移動するにも時間がかかる。大きさも決まってるし、簡単に形を変えられない。ほかにもいろいろ不便なことが多いわよね。地球に来る前にいたところでは、ちっとも不便じゃないんだって。魔法のように、何もかも自由自在で。私の夢の中でもそうだったけど。でも、不便な地球で生きようと思ったら、そこに合わせて不便なものにならなくちゃいけない。わざとバージョンダウンするみたいに。でなければ、物質である肉体を使えないものね。だから地球に来る前に、機械にたくさんついてるプラグを、一個だけ残してあとは全部抜いちゃうって感じのことをするんだって。それを覚えていると、人間の身体にとっては、ちょうど冠を頭に載せたみたいな感覚になるそうなの。そういう装置で頭のてっぺんからプラグを引き抜くっていう感じなのかな? それで私は、地球に来る前のことを思い出す時は、そういう夢を見るんだろうって、伯父が言ったの」
その話を聞いても、氷川はただの不思議話とは思わなかった。ジェラルミンケースに入れてある、数枚の金属板を思い浮かべていたからだ。それは水谷先生が遺した、最後の論文だった。いや、論文とは呼べないかもしれない。時代が追いつかない限りは、奇抜なオカルトとしか言いようのない内容だ。しかし氷川は、水谷先生の言葉が刻みつけられた金属板を持つことを、心から誇りに思っていた。
そこでふと、氷川は視線を感じた。西野谷志朗が、こちらを意味ありげに見ている。もちろん氷川は承知していた。氷川は足元からリュックを引き寄せると、中からケースを取り出した。
その時、土間の入り口に人の声がし、戸口を開けて賑やかに人が入ってきた。
最初に入ってきた眼鏡の男性は、青い目をしていた。缶ビールのパックを持っている。その後ろから畔上医師が顔を出し、氷川と西野谷志朗に「さっきはどうも」と声をかける。その後に、女の子の手を引いた女性が、籠を下げて入ってきた。畔上医師の妻だろう。籠の布巾をとると、中には揚げたてのコロッケがぎっしり入っていた。
畔上医師が佐伯老人に聴診器を当てている間、ハルは奥の台所から鍋を運んできて、ストーブにかけた。
「もうじきナミさんとミナさんがネギを持ってくるから、仕上げに入れてもらおうっと。そうすれば、特製すいとん汁のできあがり。あ、そうそう。すいとんもコロッケも、もちろん精進よ」
最後のほうは西野谷志朗に向けて、ハルが言った。西野谷志朗がベジタリアンなのをハルがなぜ知っているのか、氷川は不思議に思ったが、座がなごんでいる今は聞かなくてもよかった。そのうちに、きれいな双子の女性がやってきて、ハルを手伝って鍋をかきまぜ始め、家の中においしそうな温かい匂いが広がってきた。
西野谷志朗はもうさっそく、眼鏡の男性と缶ビールで乾杯している。畔上医師の小さい娘が、氷川の膝に寄ってきた。開けかけたケースの中を、しげしげと見つめている。
「これ、なあに?」
「見せてあげるよ」
氷川はベンチから立ち上がり、女の子と一緒に、板の間の上がり口に座った。佐伯老人からよく見えるところで、ケースに納めたものを取り出したかった。ズボンの汚れは、もう気にならない。皆は汁椀を手にし、コロッケをつまみながら、さりげなく氷川に注目している。
氷川は脇に立てかけられた石柱に片手でそっと触れてから、水谷先生の最後の論文を読み上げた。
薄い金属板数枚の限られたスペースに、土器片にまつわる水谷先生の仮説が簡潔に記されている。隠れ里伝説に関する推論、かわらけ様の祭りに至ったいきさつ、その起源を辿る調査……。
かわらけとは土器のことだが、その言葉が成立した時代までさかのぼれば、少なくとも、土器に類するものの由来が伝わっていたのではなかろうか。そこを源とする行事が、時代が下るにつれて形を変え、かわらけ様の祭りとして伝わっていたのだとしたら。
祭りが行われた広場には、何の遺構も残っていない。しかし、神聖な場所であるのなら、そこを区切る境目が作られただろう。あるいは、神聖な何かが場の中心に設置されていたか。
広場の入り口にあたる地中に、左右対になった石積みの跡を発見す。さらにその石積みの下から、中をくり抜いた箱状の石が出土。左右それぞれの石の箱から、合わせて三個の土器片が見つかった。土器片の形状から、壺状の土器の一部だと考えられる。年代測定の結果、縄文中期のものと判明した。
縄文中期の土器に見られる特徴から、当時は社会的に安定した時代か、もしくは、逆に、社会不安が蔓延していたと想像されるのが、今のところ一般的な見解だ。しかし、どちらも然りであったなら。
おそらく定説よりも早く、稲作は縄文中期のうちに伝播していたのではなかろうか。稲作の技術は、原始的な栽培法を使っていた縄文人の生活を一変させた。自然界と歩調を合わせて長期間持続してきた縄文社会は、急速に変化する。生活の向上を歓迎すると同時に、彼らは怖れおののいてもいたのではなかろうか。技術文明の急激な発展は、人間が自然を席巻せんとする側面をはらんでいる。自然界に感謝と畏怖の念を抱く者たちは、自然の一部である人間が、そのバランスから逸脱する危うさを感じ取っていたのかもしれない。たとえそれが遙か未来のことであったとしても。それゆえ、当時としての物質的豊かさが実現した社会において、精神的には憂いも不安も抱いていたとしたら。物質的にも精神的にも充足させ得る、その完全なる妥協点を探しあぐねていたのだとしたら。
土器片の文様が祭りの原点であるなら、そこには、遙か縄文の昔から脈々と受け継がれてきた文化、精神性との関連を見出せまいか。文様に描かれた人間は何をおこなっているのだろうか。十二と六の線の数に意味はあるのか……。
「その時、水谷先生の頭には、電光のようにひらめくビジョンが浮かんだそうです」
次に続く言葉が唐突な印象を与えないように、氷川はそう言い添えてから、先を続けた。
「人間という物質はDNAの二重螺旋構造によってできている。二重螺旋一本分の遺伝子情報が人間を動かす……」
この二重螺旋がもっとあったなら、人間はもっと聡明に文明を展開させて現代に至っていたかもしれない。土器片の十二本の線が六本に集約されるように、人間が二重螺旋構造を六つ備えていたとしたら、豊富な遺伝子情報によって、物質として完璧な機能を果たす人間が出来上がっていたのかもしれない。しかし人間は完璧ではあり得ない。迷い間違い、過ちから正しい道があることを学ぶ。不完全であるがゆえに、人間の在るべき完全な姿になろうとする。そこに人間性が育つと言えよう。
土器片に認められる三角形の印は、人間の在るべき完全な姿を指し示す天の啓示か、それとも、完全な人間を作り出そうとする何者かの干渉なのか。伝承における隠れ里からの帰還者は、その後の善し悪しが分かれる。かわらけ様の祭りは、精神性において人を淘汰する。山の中腹、祭りの広場には、人間にそのような作用を及ぼす何かがあるのか。この点において、土器片からは人体に影響する物質などのデータは得られなかった。
祭りの広場を調査し、地中から石柱を二本発見す。年代特定は困難だったが、縄文期のものと仮定するだけの証拠があった。加工され中心に溝が彫られているが、十二本の線が六本になった時の、一つの組み合わせを表していると考えられた。ゆえに同じ石柱は六本あると推察し、三本目を発見す。発見時の状況から鑑みて、全ての石柱が発見された時には、それらが円形に配置されていたことが明らかになろう。私はこれを、圧電体の装置と考える。
そこに電流を生じさせたのは何者か。地球外からの来訪者、未来からの時空の旅人、荒唐無稽な想像が浮かぶ。しかし私は、縄文人自身がそれをしたのであってほしいと願う。人間が自らの力によって、それをしたのだと考えたい。人体に流れる微量な電流の振動数を、呼吸や発声などの方法で一定に保ち、装置で増幅することで脳電位を変化させたのではなかろうか。それは結果的に人体に影響を与えることにもなった。土器片の六本の線は、人間の頭頂部近くに描かれている。DNAの二重螺旋構造を六本持つような完全性を、装置によって体験することで、自らを在るべき姿へ近づけるよう、よりよい精神を保つよう、その志を保つ儀式を行ったのではなかろうか。そして、我欲に負けてそれができない者が淘汰されていった。
縄文人の精神性にとって、土地を敬い自然界と共存することは大きな要素になっていたと考えられる。技術文明の発展の中にあっても、自然界に頭を垂れる心を失わないよう、彼らは誓い合ったのではなかろうか。
その遺伝子を受け継ぐ者たちは、縄文文化の終焉とともに、急激に変化を続ける時代の奔流に投げ出された。島国は周囲三百六十度の海に開いており、現代人の思いも及ばぬ遺伝子が混じり合ったことだろう。しかし、多様な遺伝子のおかげで人間という物質は生き延び、その中に隠された精神性も生き延びることになった。縄文の精神は、遺伝子の働きで発動されるその時まで人間の中に隠された。遺伝子は人の中に隠され、人は人の中に隠される。人間の在るべき姿で生きようとする者は、多種多様な人間の中に隠されている。いずれ縄文の心が再び必要とされる、その時が満ちるまで……。
最後の言葉を結んだ時、氷川は、自分の仕事を一つやり終えた気がした。佐伯老人に向かうと、氷川は言った。
「わたしは水谷先生の元で民俗学を学んでいたのですが、考古学に転向し、民俗学と考古学の両面から、石柱と土器片を守ろうとしてきました。これが、土器片です」
氷川はケースの片側に金属板を収めると、ケースの蓋を開けたまま、それを佐伯老人に差し出した。金属板の反対側に、土器片が収めてある。もう何度となく目にしてきた土器片だが、その度に氷川は、恭しい気持ちになるのを感じていた。
ハルがケースごと受け取って、佐伯老人の膝の上に両手で支えながら乗せた。
「ああ、これだこれだ。私が作りました。私が作ったものです。青い色があればよかったんだがなあ」
しわぶいていても、佐伯老人の声には嬉しそうな張りがあった。皆も寄ってきて、かわるがわる土器片を覗き込んだ。皆は佐伯老人の描いた夢の絵を知っているのだろう。顔を見合わせて頷いている。しかし、誰も驚く者はいなかった。氷川は、もうそれを不思議とは思わなくなっていた。
だし汁とコロッケの匂いが鼻先をかすめて、氷川は不意に、自分が空腹だったことを思い出した。傍でくすりと笑う声がして、双子の女性の一人が氷川にコロッケを手渡してくれた。それを一口かじった時、氷川の心は決まった。こうなるようになっていたのだと、納得できた。
「佐伯さん」
それから氷川は一つ深呼吸した。自分にこんなジョークが言えるとは思ってもみなかった。
「これを、どうぞ、あなたの墓所に……」
佐伯老人が大声で笑った。痩せた身体から、どうしてそんなに大きな声が出せるのかと思うほど、その笑い声は家中に響いた。
ハルは伯父の背をさすりながら笑い、皆もどっと沸いている。西野谷志朗が缶ビールのプルトップを開けて、氷川に手渡してくれた。その目は満足そうだ。
ひとしきり笑った後、ハルが氷川を見つめて言った。
「どうして? 持っていればいいのに。それに伯父のこの書きつけがあれば、あなたはもっと何か、特別なことができるんじゃない?」
「いいえ。わたしにできるのは、あの広場のほかの柱を、そのまま保存しておくことだけです」
それは氷川の本心だった。自分がすべきこと、自分ができることをするだけだと思っていた。氷川にはそれが自分の役割だとわかっている。ほかに何の野心も欲望も、起こりようがなかった。
「それに……」
氷川は佐伯老人に顔を向けた。
「いずれ時が満ちて、然るべきその日が来れば、それは、太古から受け継がれた日本人の感性に、再び価値が見い出される時代です。その時には、縄文の心を説明するのに、物証も理屈も必要ありません。遺伝子の中で目覚めた精神が、その人を、在るべき姿で生きようとさせる。そうすれば、わかることだからです。そういう時代が来るまで、土器片も石柱も、その意味が歪められたり失われたりしないように、隠しておきたいと……。水谷先生が望んでいたことです。この村に置けば、土器片の意味は正しく伝わるでしょう」
じっと氷川を見つめていた佐伯老人は、ひとつ頷くと、胸の前で骨張った両手をゆっくり合わせた。
「よくわかりましたよ。必ずそうしましょう。ありがとう、ありがとう」
佐伯老人はそれ以上、よけいなことは何も言わなかった。それでよかった。佐伯老人とだけでなく、その場の皆と気持ちが通じ合ったのを、氷川は感じていた。今まさに、かわらけ様の祭りと同じことが起こっていたのだった。氷川は隠れ里の一員になった。それは満ち足りた体験だった。
ハルが言った。
「氷川さん、あなたがこの村に来るのを、私たちはいつでも歓迎するわよ」
ハルの目尻のしわが、氷川にはいっそう印象深く映った。氷川は皆に向けて缶を持ち上げ、ビールを飲んだ。隠れ里伝説にある通り、ここで口にするものは、どれもこの上なく美味だった。
氷川は思った。これから先、佐伯老人の墓所が、かわらけ様の祭りの場となるだろう。いや、柱を囲まずとも、かわらけ様の祭りのように人が選り分けられる場面は、形を変えて、いつでも身近なところで起こっているものだ。
そして自分は、残りの柱を守り続ける。そうすれば、現代社会に散らばる縄文の遺伝子が、柱が作られた太古の思いに感応して息を吹き返す……。目の色も肌の色も違う者同士が。この土地が育んだ精神性を好み、人間が自然界の一部であることに素直に頭を垂れる者同士が、互いに共鳴して声を上げ始める……。そんな気がしてならなかった。
「さて」
西野谷志朗の声がした。その声で、氷川は思わず腰を浮かしかけた。ああ、そうだ。西野谷志朗。彼にはまだ大事な話を聞いていなかったような気がする。
「気持ちのいい宴でした。感謝いたしますよ」
彼は箸と椀を置くと、おもむろに立ち上がり、佐伯老人に深々と一礼した。そして氷川に向き直った。
「氷川圭一さん」
気持ちのこもった声だった。
「あなたはいい人だ。会えてよかった」
その言葉に戸惑いつつも、氷川はなぜか、胸がいっぱいになった。
ハルが楽しげな声で言う。
「それじゃあ、みんなでお見送りするわね」
西野谷志朗は鷹揚に頷くと、外へ出た。笑いさざめきながら、皆も続く。
「あの……。ちょっと待ってくれないか」
彼ともっと話がしたかった。氷川は佐伯老人に頭を下げると、急いでその後を追った。
外に出ると、皆は家の前に揃って、山を仰ぎ見ていた。畔上医師の娘が父親に肩車をされて、そちらを指さしている。
「ねえ、あれ見てー。きれいー」
氷川が目をやると、あの山の中腹あたり、木々の合間に、きらめく一筋の光が見えた。それは水晶のように硬質な輝きの、澄んだ白銀の光だった。皆の口から、感嘆の溜め息がもれる。
まことに美しい白銀の光……。氷川は思い出した。水谷先生が心をこめて口にした名だ。
まことに美しい白銀の光。それは慈しみ深い豊穣の狐、社様。小さな祠は村の西、クスノキの木陰にひっそりと……。祠に住まうことができなくなった社様は、いったいどこに行かれたのだろう。人々の純朴な思いを探し求め、心根が清らかで行いの善い者に出会おうと、この国をさすらっていらっしゃるのだろうか……。
西野谷志朗は言っていた。石柱の広場が誰にどのように守られているか、彼はそれを確かめに来たのだと。氷川はそっと胸のポケットに手を当てた。そこに、西野谷志朗の名刺が入れてある。
「ああ、西の社様。ニシノヤシロ様か……」
隠れ里の夜気は心地よく、透明な夜空には星が映える。
濃く浮かび上がる縄文の山に手を振って、氷川は白銀の光を見送った。
(完)
如月マヤ
台風が去って一夜明けた山中を、氷川圭一は先刻からずっと、困惑したまま歩き続けている。後をついてくる男の意図が、まだつかめない。
男はひっきりなしに話しかけてくる。それも、他人には知られたくない、いや、知らせることのできない、氷川の秘密の目的に関することばかりをだ。氷川は慎重に言葉を選ぼうとするのだが、その返事を待たずに、男はさっさと次の話に移ってしまう。氷川は、自分より十歳は若そうな相手のペースに、すっかり混乱させられていた。まだ、この男が敵なのか味方なのかもわからない。
その日の早朝、ふもとのF神社に車を止めて、氷川が道具類を点検していた時だった。その男は、何の前触れもなく、いきなり現れたのだった。ここには誰もいないと思っていたので、氷川は文字通り、飛び上がるほど驚いた。
ここは過疎の村のはずれにあって、朽ちかけた木造の建物が、なんとなく神社の風情を残しているだけの場所だ。自分以外に、ここに来る者がいるはずもない。
「おや、奇遇ですねえ。僕の目的地も、あなたと同じなんですよ。目的も同じかどうかはわかりませんがね」
その男は挨拶もなしに、唐突に喋り出した。
「さあ、早く登りましょう。土がぬかるんで、歩くのに時間がかかりそうですからね」
男はそう言って氷川をせかすと、神社の裏山に向かって歩き出そうとした。
「ちょ、ちょっと待った。ええと、君は、いったい……」
「どこから来たか? 僕は向こうから来ました」
男は、右でもなく左でもない、曖昧な方向に大げさに腕を振ってみせた。
「いや、そういうことじゃなく……」
「どうやってここへ来たかというのですか?」
氷川が考えをまとめる間もなく、男は自分勝手に話を進めていく。男は氷川に、泥のついたトレッキングシューズを見せながら、「歩いて来たんですよ」とすまして答えた。しかし、氷川が言葉に詰まっているのを見ると、にやりと笑った。
「資料館で、あなたがここだと聞いてやって来たのです。一緒に連れていってもらおうと思いましてね。あなたを取材することになっているのは、ご存知でしょう?」
氷川はますます頭が混乱した。そんな話は聞いていない。それに、職場には風邪で休むと言ってある。
「申し遅れました。僕はこういう者です」
男が名刺を取り出す間、氷川はようやく深呼吸をすることができた。あらためて相手を見ると、三十歳くらいの細身の男だ。力仕事とは無縁なんだろう。それに、身体を鍛えているようにも見えない。自分のほうが背が高く腕力もある。この男が何者か知らないが、争った時には勝つ自信がある。いざとなっても大丈夫だ。氷川は落ち着きを取り戻して、差し出された名刺を手に取った。
「へえ……。『歴史と文明』……。申し訳ないけれど、こういう雑誌があるの、わたしは知りませんでした」
氷川は頭を働かせる時間を稼ぐために、そして疑念が相手に伝わるように、ゆっくり喋った。
「それに、取材の話も。どういうことですか? 職場からは、わたしは何も知らされていませんが」
氷川は男の目をじっと見据えたが、相手は別段ひるむ様子もなかった。
「ああ、そういえば。あなたがここにいることも、誰にも知らされていないんでしたっけ」
涼しい顔でそう言われて、氷川は口ごもった。
「つまり、僕の言ったことは全部でまかせです。資料館に行ったことも、あなたのことを問い合わせたこともありません。もちろん、取材なんて嘘です」
氷川は、手渡された名刺をじっと眺めた。『歴史と文明』記者、西野谷志朗。
「にしの……」
「にしのや、しろうです」
「じゃあ、君のこの名刺も、あとで見たら木の葉に変わってたりするのかな?」
男は声をたてて笑った。
「あっはっは! 氷川圭一さん、あなたのジョークは、実にいいセンいってますよ」
西野谷志朗と名乗る男は、おかしそうに笑いながら氷川を促した。
「さあ、行きましょう。例の柱のところに、僕を案内してください」
不意をつかれて、氷川はどきりとした表情を取り繕うことができなかった。
「言ったでしょう? 目的地は同じなんですよ。目的もあなたと同じかどうかは、わかりませんがね。でも、あなたに危害を加えるつもりはありませんから、安心してください」
しかたなしに歩き出した氷川の背中に、西野谷志朗は続けて声をかけた。
「それにね、氷川さん。そうは見えないかもしれませんが、僕のほうがあなたよりも強いんですよ」
前日の雨も風も、予想されたほどひどくはなかった。それでも、風に引きちぎられた葉や小枝が、水滴とともに頭上から降り注いでくる。それが襟元から入りこまないように、氷川はタオルを首に巻いていた。
濡れた木肌と土の匂いに、青っぽい生木の匂いがまじっている。どこか近くに、折れた木があるのだろう。
「ああ、雨が降った後の山の匂い……。いいですねえ」
背後から西野谷志朗の声がした。
氷川には、それが会話を始める合図だということがわかったが、西野谷志朗は最初に会った時と同じように、氷川が身構える間合いも取らずに、勝手に喋り始めた。
「氷川圭一さん。四十三歳。埋蔵文化財資料館の学芸員で、専門は縄文時代の考古学……。そうですよね?」
それがどうした、というふうに氷川が肩をすくめた時には、西野谷志朗はもう先を続けていた。
「でも、あなたは初めから考古学を専攻していたわけじゃない。民俗学を学んで、大学院まで進んだのですから」
氷川はまた肩をすくめた。別に、経歴を隠すつもりもない。
「あなたは、民俗学者水谷喜世志先生の愛弟子です」
また不意をつかれた。いったい、この男は何を知っているんだ?
「専攻を変えて大学院に入り直すには、ずいぶんと努力をしたんでしょうね」
今度こそ、それがどうしたと言うつもりで氷川は立ち止まり、ゆっくり息を吸い込んでから後ろを振り向いた。だが、西野谷志朗の方が素早い。
「ああ、僕なら大丈夫ですよ。ここから急勾配になるんでしょう? 山歩きは慣れているんです」
氷川はまたしても言葉に詰まった。西野谷志朗は、すましたままだ。
「さあ、登りましょう。雨はあまり強くなかったんですね。思ったより歩きやすくて、助かりました」
急な斜面を登り始めるとすぐに、西野谷志朗はまた喋り出した。
「水谷喜世志先生の論文は、ユニークです。民間伝承を新たな切り口で考察し、示唆に富んだ内容です」
氷川は無意識に頷いた。後ろの西野谷志朗に、それが伝わったかどうかはわからない。
水谷論文はいつも、周囲から斬新だという評価を受けていた。斬新すぎると……。よく言えば異端、ともすると奇抜なオカルトと言われかねない考察を含んでいることは、水谷先生自身が認めていたことだ。その水谷論文をユニークだと表現する西野谷志朗は、これから何を話そうというのだろう。
「あなたは、水谷先生とフィールドワークをしている最中に、あれを見つけたんですね?」
いきなり切り出されて、氷川は一瞬息を飲み、足が止まった。
「君は……。何のことを……言ってる?」
氷川は手近な木の幹に寄りかかって、息を整え、額の汗をぬぐった。
見れば、西野谷志朗は汗ひとつかいていない様子だ。道のない山の急斜面を、前にいる氷川に聞こえるように話をしながら登ってきたのに、息も乱れていない。この男と争ったら、負けるのは本当に自分のほうかもしれないと、氷川は思った。
顔をこわばらせた氷川とは対照的に、西野谷志朗は相変わらず、すました顔で勝手に話を進めていく。
「いやだなあ、氷川さん。わかっているじゃないですか。今僕が言っているのは、例の柱のことではなくて、まあ、言ってみれば史料のことです。書かれたもののことですよ。描かれたもの、と言ったほうがいいかな」
「君は……」
あの土器片のことを知っているのか……。氷川の脳裏に、土器片に描かれた文様が浮かんだ。この二十年間は、あの文様のためだけに費やしてきたようなものだ。土器片のことは、水谷先生と自分のほかに、誰も知らないはずなのに……。
西野谷志朗は素っ気なく尋ねた。
「で、それは今どこにあるんですか?」
氷川は沈黙したまま、身動きもできなかった。
「まあ、後で聞かせてください。まずは柱を見に行かなくては。そうでしょう?」
氷川はかろうじて頷いた。目的地までには、まだだいぶある。その間、西野谷志朗の勝手なお喋りを、まだ聞くことになるのだろう……。それでも氷川は、この正体不明の男が語る言葉に、耳を傾ける気になっていた。相手への警戒は解けていなかったが、氷川の学究心が、西野谷志朗の話には聞く価値があると告げている。
二人は再び、山を登り始めた。
西野谷志朗の口調には、よどみがなかった。話に無駄がない。
「水谷喜世志先生の論文には、伝説や迷信を科学的根拠に基づいて分析するという特徴があります。民俗学におけるこのような試みとしては、例えば、狐火や人魂といった発光現象の解明が挙げられますね。狐憑きと精神疾患の関連も、その代表例です」
氷川は心の中で頷いた。
水谷論文には、しかし、科学的に分析するがゆえの欠点があった。
人魂に目をこらすと亡き人の顔が見えたという体験には、懐かしい人の面影を探したいという心情が働いていたのかもしれない……。抑圧された境遇によって引き起こされた精神的な病が、狐憑きだといって忌み嫌われたのかもしれない……。民俗学の領域では、人間の生活感情を切り離すことはできない。人間の願望や喜怒哀楽が、さまざまな伝承を生み出して、現代に至っているからだ。論理的な究明に徹しようとするあまり、人の感情をそっと包み込むような素朴さや曖昧さが、水谷論文には盛り込まれなかった。それゆえ、水谷先生は、斬新だが民俗学の異端者と見なされていたのだった。
「そして、水谷先生が晩年に力を入れていたのが、隠れ里伝説の科学的考察です。そうですね?」
西野谷志朗の言葉を聞き漏らさないよう、氷川は歩く速度をゆるめた。誤りがあれば、すぐに訂正するつもりだった。相手の間違いを指摘して知識を競い合うつもりはない。話の筋から外れないように、互いに確認しながら会話を進めたかった。それに、水谷先生の思想を、一人でも多くの人に正しく理解してほしいという思いもあった。
その思いは、西野谷志朗にも伝わったようだ。彼の意図が何であれ、西野谷志朗の話し方には水谷先生への敬意が感じられると、氷川には思えた。
「水谷先生はまず、隠れ里という環境での体験が、どういう条件下で成り立ったのかと推論したのですね?」
「そうだ。でも、隠れ里伝承といっても、意味は広い。椀貸、マヨヒガ、桃源郷に神隠し……。異界に出かける正直者と欲張り者……。調べているうちに、水谷先生は、この付近一帯に残る民話に興味を持ったんだ」
「なるほど……。ここはちょうど県境です。境を接するそれぞれの県に残る地誌や説話集のうち、隠れ里に分類される話の舞台が、この同じ山を指していることに気づいたのですね?」
「君は話が早いな」
「そのうち最も古いとされる『Z国風土集草木話』の中に、原型と思われる話が載っていますよね。村人が山に入って道に迷い、数日経ってから戻ってきたが、前とは人が変わったように聡明で、人柄のいい好人物になっていた。その人の生活が豊かになっていくのを羨んだ村人が、同じように山に入ったが、ある者はやはり賢くなり、またある者は気がふれたような有様となって戻ってきた……」
「今わかっている限りでは、その話がおそらく最も原型に近い形だと考えられるんだ」
「これが基になっていると思われる話が、この山の向こう、X県側の民話に残っていますね」
「ああ。隠れ里の住人に出会う話だね」
「道に迷った男が山の中をさまよっていたところ、輪になって歌っている者たちがいた。誘われるままに、男がその輪の中に入ると、雲に包まれたような酒に酔ったような、なんともいえない心地がして、たいそう気持ちがよかった。眠り込んだ男が目を醒ますと、あたりには誰もいなくなっていた。村に帰った男は、畑作を指導して村を栄えさせた……」
「ほかにも、こんな話があるんだ。山に入った正直者が、雨を避けて岩陰に隠れていたところ、夢うつつに幻を見た。あまりの心地よさに、気がついたら、眠ったまま数日が経っていた。その後、正直者は人の病を治して感謝されるようになった。ところが、それをまねた隣の男は、山で雷に打たれて身体が痺れ、言葉も喋れないようになってしまった、というんだな」
そこで、西野谷志朗がくすりと笑った。
「で、結局、その隣の男も治してやって、正直者はますます人々から敬われるようになったわけですね」
「そう。めでたしめでたし、だ」
「これらの話に共通しているのは、偶然にしろ故意にしろ、山の中での体験がその人を変え、結果的にその後の生活も変わったというパターンですね」
「そういうことになる」
「で、水谷先生は、その変化を起こした原因を探ろうと考えた」
「そう。だから先生は、その人の性格や頭脳までも変えてしまう変化が、伝説にあるような、夢うつつの心地よさというものに起因しているのではないかと仮定したんだ」
「そして、人間にそのような影響を及ぼす条件がこの地域で見つかるかどうか、あなたも一緒に現地調査をしたわけですね」
「君は本当に話が早いなあ……」
「見たところ、今歩いているこのあたりは、地表に岩石が多く出ていますね。一般的な花崗岩でしょう」
「うん。この山の場合は、やや石英が多いようだね。もとからそういう地質なのか、それとも、表面に出ている岩が早い時代に風化して、その分、残った石英の比率が高くなったのか……」
「石英の結晶度はどうですか?」
「高いほうだろうね。この付近では水晶が採れるからね」
「石英は圧電体です。これが天然の水晶発振子となり、脳波や人体に何らかの影響を与えたのだろうというのですね?」
「そのためには、電圧をかけなくてはならないだろう」
「雷はどうですか? 雷電流のパルスは交流でも直流でもないはずですから、偶発的な条件が整えば……」
「しかし、人体に影響を与えるほどの共振を起こすとしたら、安定した交流電圧が一定時間は必要になるだろう? それに、偶然に頼っていたら、仮説を裏づける証拠を再現することもできないじゃないか」
「つまり、あなたと水谷先生は、この仮説を偶然性によるものとは考えなかったわけですね?」
氷川は立ち止まった。
すっかり息が上がって、呼吸が荒くなっている。それでも、この会話を途切れさせたくはなかった。肩で大きく息をしながら、西野谷志朗に向き直った。
「判断材料は多くないが、君なら、どんなことを想像する?」
西野谷志朗は、あっさりした口調で答えた。
「そうですね。人工的に交流電圧を発生させて、花崗岩を利用して共振現象を起こし、人間の脳波に影響を与えた何者かがいた。しかも、はるか昔に」
「あはは。飛躍しすぎじゃないか?」
「そうでしょうか? あなた自身、荒唐無稽とも思っていない様子ですがね」
氷川は苦笑した。
「なにしろ氷川さん、あなたと水谷先生は、その証拠ともいえるものを見つけたのですからね」
ああ、その通りだ。西野谷志朗の目を見て、氷川は力をこめて頷いた。
石の柱と土器片。その発見が、水谷先生と自分とを、さらなる仮説へと導くことになったのだった。
それからしばらく後、二人が登り着いたのは、平らに開けた場所だった。三十畳ほどの広さがあり、周囲は木立と山の斜面に囲まれている。
氷川は西野谷志朗を振り返った。
「この場所がそうだ。どう思う? ここなら……」
「なるほど、そうですね。ここなら確かに」
西野谷志朗はそう呟くと、やおら大声を張り上げた。「アァァァイ、ワズボーン、トゥゥゥ……!」
氷川はあっけにとられた。クイーンのヒット曲だ。なかなかうまい。西野谷志朗はワンフレーズ歌い終えると、周囲の山肌を見回している。氷川はふと笑いがこみあげて、こらえきれずに大声で笑った。西野谷志朗が氷川に、心配そうな目を向けた。
「音をはずしてましたか?」
「いや、そうじゃないんだ」
氷川はおかしくなって、また笑った。
「犬を思い出したんだよ。わたしが子供の頃に飼ってた犬。それを思い出してね」
「はあ……。犬、ですか……」
「そう。妙に訳知り顔をした奴でさ。自分のほうが大人だっていう感じで。わたしはガキ扱いされてた気がするんだ。でも、原っぱに放してやると、すごくはしゃいでさ。気取ってるくせに無邪気な奴だったから、おかしくて。なんだか、それを思い出してしまったよ」
「気取ってるくせに無邪気……。そうですか……。なんというか、複雑な気分です」
「あはは。すまんすまん。なんだか気になる奴だったんだよ。だから、その犬が死んでからは、もう犬を飼う気にならなかったんだ」
「では、褒め言葉だと受け取っておきますよ」
「あはは。そうしておいてくれ。ところで、君は気持ちよさそうに歌っていたけれど。ここで歌ってみて、どうだった?」
「声がかなり反響しましたね」
「そう、そこなんだよ。昔話に曰く……」
「道に迷った村人は山中で、輪になって歌う者たちに出会った。そのことと関連しているのですね?」
「水谷先生とわたしは、そう考えたんだ。ここは岩石の多い斜面に囲まれているからね。歌い続けていると、反響した音が、この場にだんだん渦を巻いてくるように感じられるんだよ」
「なるほど……。実験をしてみたんですか?」
「ああ。自分で歌ってみたんだけどね。ゆっくりしたテンポで、一つの音が長く続くような、わりと一本調子なサウンドがよかった」
「例えば、お経やマントラを唱えるとか?」
「そうそう。やってみたよ。歌というよりは、まさに、そういう感じのものがいいんだ。それに、原始的な楽器……石や太鼓を、単調なリズムで叩くのもうまくいった。弦をゆっくりはじくのもいい。反響が重なるにつれて、この場所の空気が変わるような感じがしたよ」
「音の高低は関係しましたか?」
「自分で唱えた音も、それから反響した音も身体に響く。だけど、音の高さによって、身体の中で響く位置が変わってくるね」
「なるほど」
「そのうちに、身体の力が抜けて……。何も考えられないような気分になった。瞑想状態とでもいうのかな。そんな、ゆったりした気持ちになってくるんだ」
「雲に包まれたような、酒に酔ったような?」
「そう。なんともいえない心地良さ、だな。あれは」
「つまり、音の反響も、脳波に影響を与える要因だと考えられるわけですね?」
「共振現象と音の響き。その両方を使うこともできるだろう。そして、その効果を再現するために、山の中で何らかの儀式が行われたとも考えられる。儀式を垣間見た者の話が、隠れ里伝説に形を変えて……」
そこで氷川は言葉を失った。表情をこわばらせ、凍りついたように立ちすくんでいる。西野谷志朗が、氷川の視線の先を目で追った。
山の斜面で行き止まりになっている辺り。雨を吸い込んだ地面は、濃い色をしていた。その間に、ところどころ大小の岩石が顔をのぞかせている。氷川は、その一角を凝視していた。
「見ろ! なくなってる。柱がなくなってる!」
そう叫ぶと、氷川は斜面の際に駆け寄り、地面に跪いた。
「ここに、確かにここに、横倒しで埋まっていたんだ。それが、なくなっている」
西野谷志朗がゆっくり近づいてくると、氷川の背後から地面を覗き込んだ。雨の後でも、土がえぐられた痕跡がはっきりとわかった。
「氷川さん。どうやら、先客がいたようですね」
「そうみたいだな」
氷川は呆然と呟いた。
「いったい誰が……」
西野谷志朗は氷川の隣にしゃがみこむと、土の表面を注意深く眺めた。
「氷川さん、穴の縁を見てください。雨でならされて、掘り返された跡がなめらかになっています。地面には足跡も残っていません。前にあなたがここに来たのは、いつのことですか?」
「先週の木曜日に来たばかりだ。前の日の夕方に強い雨が降ったものだから、心配で様子を見にね」
その日も氷川は、夜が明けるのを待って、急いでここにやって来たのだった。
氷川はふと、背中のリュックに入れた発掘道具のことを思い浮かべた。西野谷志朗も、同じことを思ったのかもしれない。彼は次に、こう尋ねた。
「あなたはなぜ、ここにやって来るのですか? 目的は何なのですか?」
「君の目的を先に聞かせてくれ」
「僕は、この場所が誰にどんなふうに守られているか、それを確かめに来ただけです」
その言葉は淡々として簡潔だった。氷川は、彼がほかに何か言うのを待ったが、西野谷志朗は言葉を付け足す気はないらしい。彼は氷川の決断を待っていた。
「そうか。わかった」
氷川は西野谷志朗と名乗る男を信じることにした。氷川はリュックをおろし、発掘道具を取り出した。丹念に土を取り除くためのブラシ、繊細な作業をするための刷毛、小型のスコップ、あとは測量用のメジャーなどだ。
「掘り出して、調べてから、埋め戻して保存する。それがわたしの目的だ」
「保存? 人目から隠すのが目的でしょう?」
氷川は驚いた。この男は、それもわかっていたのか。
「いつまで隠しておくのですか?」
「然るべき時まで。その時が満ちる日までだ。わたしは水谷先生に、そう託された」
「その時が満ちるのを待ちきれない者がいた、ということでしょうかね? それとも、偶然見つけた柱を気に入って、運び出したのでしょうか」
「君はどう考える?」
氷川は立ち上がって、呻きながら腰を伸ばした。西野谷志朗も立ち上がると、すぐ目の前に迫っている山の斜面を見上げた。
「今日は火曜日です。台風の予想進路に、この付近が含まれることがわかったのが、金曜日。土曜日の夜のニュースでは、このあたりの山間部に台風の被害が大きいと予想されていました。台風が通り過ぎたのは昨日の月曜日。地面の様子から見て、柱が運び出されたのは雨が降る前だと思われますから……」
「木曜日を入れて、四日間の間ということか」
「いえ。日曜日でしょう。もしも、柱の価値を知っている者が掘り出したとしたら、ですが」
氷川も斜面を見上げた。
「なるほどな。台風を警戒して、土砂崩れから守るために柱を避難させた、というわけか」
「柱の価値を知っていたら、の話ですよ」
「多分、知っていたんだろう。もし無理に掘り出されていたのなら、岩石が削り取られて、石英の微粒子が地面に飛び散るだろう? 雨の後ではっきりしないが、見たところ、穴の周りの土に、微粒子が光っていたわけじゃないからな」
「それに、ここにあった柱は、あなたが埋めておいたはずですしね」
氷川は、はっとして西野谷志朗を見た。
「そうです、氷川さん。その何者かは、探したのですよ。柱の存在もその価値も知っていて、ここにあることもわかっていた。だからこそ、土砂崩れの下に永久に埋まってしまう前に、探して掘り出したのです」
「そうかもしれない。わたしも土砂崩れが心配で、だから、強い雨の後は様子を見に来るんだ。ここは山の中腹にあたる。階段の踊り場のような形になっているんだが。地質的な調査をすると、昔はもっと奥まで、平らに広がっていたらしい。それが、長い間に、上から落ちてきた土砂で少しずつ埋まって、山の斜面の一部になったらしいんだ。この斜面の下には、まだほかの柱が埋まっている可能性がある。水谷先生とも、そう話していたんだが」
「ほかにも柱があるのですね?」
氷川は黙って頷くと、数メートル離れた場所の地面を掘り始めた。目印がなくても、氷川にはその場所がわかる。もう身についた動作だった。
その作業を見守りながら、西野谷志朗は思いついたように氷川に尋ねた。
「柱の重さは、どのくらいなのですか?」
氷川はスコップをブラシに持ちかえながら答えた。
「正確にはわからない。密度から計算すると、だいたい250キロ前後というところじゃないだろうか。長さが約120センチほどの、細めの墓石という感じだ」
「一人では運べませんね」
「ああ。それに、登ってきたからわかるだろうけれど、ここは山の中で、かなり勾配がある」
「それは、僕たちが登ってきた方角のことですよ」
氷川はまた、はっとした。瞬間的に、西野谷志朗の言おうとしていることがわかった。
「柱を運び出した者は……」
「者たちは、ですよ。彼らは複数です」
「そうだったな。彼らは、この山の向こう側から登ってきた。向こう側は、ふもとまでの距離は長いんだが、勾配はゆるやかで、途中から林道に抜けられるはずだ。車も使える」
「この山の向こう、X県側の伝説に曰く」
「うん。山中で輪になり歌う者……」
「だから、彼らは知っていたのです。柱と儀式と、その効果をね」
氷川は黙りこむしかなかった。これをどう考えればいいのだろう。いったい何が起こっているというんだ?
「氷川さん、その石が柱の一部なんですね?」
不意に西野谷志朗は話を変えて、氷川の手元を覗きこんだ。
「ああ。これが、二番目に見つかった柱の、上の部分だ。これはいくぶん斜めに、縦に埋まっている。これも高さは約120センチだ」
「ここに……。石の真ん中に、溝があるように見えるのですが」
「これが人工的に加工された証拠でもあるんだ」
「なくなった柱にも、これと同じものが?」
「三番目に見つかった柱にもあった。今までに、三本の柱が見つかっている。どの柱にも、これと同じ溝が、ちょうど全体を二分するように、縦に彫られているんだ」
「柱は全部で何本あると思いますか?」
「わたしは、六本あると考えている。でも、柱を運び出した者たちは、一本だけだと思っているかもしれないな。一本の柱を取り囲んで、輪になって儀式をしたと思っているのかもしれない。水谷先生もわたしも、最初はそう考えていたんだ。けれど、二本目の柱が見つかって、それにも溝が彫られているのを見て、ほかの可能性を考え始めた。数本の柱を円形に配置して、その内側で何らかの儀式的なことをおこなった、とも考えられるからね」
「あなたと水谷先生は、その仮説に基づいて、位置の見当をつけて掘った……。そして、三本目の柱を見つけたのですね。でも、六本と推測する根拠は何ですか?」
「この溝だよ。これは、一つの柱を二本分に見立てるために、手を加えたのではないかと思ってね。これよりも細く石を切り出すのは難しかったのかもしれないし、それに、一つで二本分ということは、二本でワンセットを表しているとも考えられる」
「つまり、土器片には、そのことが描かれていたのですね? だから、そう考える根拠になった……」
氷川は、西野谷志朗に何も隠すつもりはなかった。今はもう、彼のペースで話が進むことが、快く感じられるようになっていた。
「土器片には、十二本の線が見て取れた。線の間隔から見て、十二本描かれていると考えて、ほぼ間違いないだろう」
それは天空から差しこむ、光の線だ……。この二十年間、口にこそ出さなかったが、土器片を初めて手に取ったその時から、氷川はそう信じて疑わなかった。
空から降り注ぐ十二本の光のすじは、六本の柱となって地上の人間に吸収される……。そして、光の源には、三角形の印が刻まれていた……。
「さてと。行きましょうか?」
しばし土器片に思いをはせていた氷川だったが、西野谷志朗に呼びかけられて、我に返った。
「僕は柱の後を追いますよ。あなたはどうしますか?」
「もちろん、行くさ」
「そうこなくては」
西野谷志朗が笑い、氷川も笑った。
出発の前に氷川は、掘り返した柱を丁寧に埋め戻した。西野谷志朗は、「僕は遠慮しておきますよ。手を汚したくありませんからね」と言って手伝いはせず、氷川が作業をしている間も、一度も話しかけることをしなかった。しかし氷川は、自分が彼から尊重されているのを感じていた。柱を埋め戻すのは、氷川だけに与えられた仕事なのだった。
土の表面をならした後、氷川は辺りを見回した。太陽の光が、斜面をもう乾かし始めている。氷川はそこから、砂混じりの土を素手ですくい取った。芯に水気の残った土が手の中でほろほろと崩れ、指の間からこぼれ落ちていく。この感触は、いつも氷川を厳かな気持ちにさせた。一連の作業の後で、最後に必ずこうして、ひとつかみの土を地面にまくのは、再びここに来ることを誓う自分なりの儀式なのだと、氷川は思う。
「氷川さん」
西野谷志朗が静かに呼びかけた。
「あなたは聖域を守る者……。これが、あなたの守り方なのですね」
「いつか、その時が満ちるまで。それがわたしの役目なら」
地面を見下ろしたまま、氷川はそう呟いた。
二人が新たに歩き出したのは、傾斜のゆるやかな、ゆったりした山道だった。今度は、二人は並んで歩くことができた。
「これなら歩きながら食べられる。ツナと、昆布の佃煮。どっちがいい?」
と言って、氷川はリュックからコンビニのおにぎりを取り出した。
「おや、これはかたじけない。僕はベジタリアンなので、昆布のほうをいただきます」
氷川は、かたじけないという言葉に面食らったが、古くさい言葉を遣うのも菜食主義だというのも、西野谷志朗になら、さもありなんと思えた。西野谷志朗も自分の荷物から包みを出すと、ひょいと氷川に手渡す。
「では、僕のおにぎりも、ひとつどうぞ。シンプルな塩むすびですが」
「へえ、竹の皮で……。近頃のはやりなのかな」
「こんなのも持ってますよ」
そう言って西野谷志朗は竹筒の水筒を取り出すと、得意そうに振ってみせた。水の音が耳に心地よく響く。
「今朝あなたと会う前に、F神社の裏で、この山から流れる水を汲んできました。きれいな水だったので、自然の恵みに与ろうと思いましてね」
氷川は感心して思わず唸ったが、ふと恩師の顔を思い出した。
「そういえば、水谷先生が言っていたんだが……」
水谷先生がまだ若く、駆け出しの研究者だった頃、とある地方の古い祠を調査したのだそうだ。
そこには古くから、豊穣をもたらす狐が祀られており、村には素朴な農耕儀礼が残っていた。名もなき祠はあまりにも小さくて、社と呼ぶほどのものではなかったが、村人たちは豊穣の狐に親しみと尊敬をこめて、社様と呼んでいた。彼らは田畑の行き帰りに祠に手を合わせ、四季折々に祠に集っては、ささやかな行事を執り行った。心根が清らかで行いの善い者には、社様が夢に現れて幸運を授けるのだと信じられていた。
水谷先生は何年もその祠に通って調査していたが、そのうちに時代の波が押し寄せて、田畑はまたたくまに宅地に様変わりしていった。祠は取り壊しを逃れたが、それらしい社殿と鳥居を施されて、地名を冠する神社に整えられた。村が変貌するにつれて、祠で行われていた行事はすたれ、そのかわりに、経済成長や消費の時代に合わせて、人々はその神社を、現世利益を願う場所として扱うようになっていったのだった。
昔の祠を知る年寄りが、一人また一人とこの世を去り、水谷先生が記録していた素朴な祭りを思い出す者は、誰もいなくなった。
水谷先生が最後に祠を訪れた時、それまではいつも感じていた、穏やかに人を包み込むような祠の気配が消えていた。それで水谷先生は理解した。ここにはもう、社様はいない。社様が住まうには、この祠は人間の欲で汚れすぎてしまったのだ。社様は、かつてのように、純朴な思いを寄せられることがなくなってしまった。この祠はもう、社様と心を通わせない者たちの、身勝手な欲望の置き場所になってしまったのだ。心の清らかな者を守り慈しんできた社様が、どうしてここに住まっていられよう……。
切ない思いで祠を後にした水谷先生は、その夜、夢を見た。
夢の中で、あの祠は昔の姿のままだった。風化して丸みを帯びた小さな祠が、クスノキの木陰で佇むように、自分が行くのを待っている。ああ、ここになら社様がいらっしゃるに違いない……。そう思って近づくと、祠は突然光を放ち、その目を射るほどに眩しい光を全身に浴びて、水谷先生は目が覚めた。それは鋭いけれど心地良い、まことに美しい白銀の光だったと、水谷先生は言っていた。
そして、水谷先生はその光に祈ったのだそうだ。いつの日か人々が、文明社会を進化させながらも、自然の恵みと共に生きる感性に再び価値を見いだしますように。その日のために、自分の人生を捧げさせてください……。
それゆえ水谷先生は、科学的考察を研究の方針にしたのだった。感性と対極にある科学的な見方を以てしても、迷信や伝承には、そうなるに至った原点的な根拠や理由があるのだと説くことで、昔から受け継がれてきた日本人の感性を理性的に肯定し、守ろうとしていたのだ。理性によって裏打ちされた情緒なら、幅広く人々を納得させることができるだろうと考えたのだった。
水谷先生のその思いが正しく理解されることは少なかったが、それでも先生は信念を曲げなかった。感性と理性という相反するものが互いに補完しあって、新たな理解を生むことを人々が知れば、その先の未来には、技術の発展と自然界との調和を、矛盾なく実現する世代が現れることだろう。便利な生活をしながらも自然界の中で生かされていることを忘れない人々が、社様のような存在を、居るべき場所に安住させることができるのだろう……。
水谷先生は、そんな未来を信じたまま亡くなった。きっと、自分が思い描いた未来へと旅立っていったのだ。氷川はそれを信じている。
そういえば、あれは、なんという名だったか……。水谷先生が、あの白銀の光は祠の狐だったのだと言って、心をこめて呼んだ名だ。祠は村の西に位置していたそうだから……。
「ところで、氷川さん。あなたのリュックはずいぶん重そうですね」
回想にひたっていた氷川は、現実に引き戻された。西野谷志朗が、いたずらっぽい目を向けている。
氷川はまた、子供の頃に飼っていた犬のことを思い出した。おまえが何を隠していても全てお見通しなんだぞ、と言うかのように、ふふんと鼻先で氷川を笑っている時の目だ。氷川は素直に降参した。
「わかったよ。その通り。土器片を持ってる」
「肌身離さず、いつも持ち歩いているのですか?」
「ああ。もしどこかに隠したとしたら、わたしの身に何かあった場合、土器片も仮説も、おそらく永遠に失われてしまうだろう」
「身につけておけば、あなたに何かあっても、土器片は回収されて誰かの手に渡るというわけですね」
「特注のジェラルミンケースに入れてある。水谷先生の仮説を刻みつけた金属板も一緒に。あとは、手に入れた者の運命に任せるしかないがね」
「あなたが海底に沈むことがない限り、土器片は失われないというわけですか?」
「あはははは。だからわたしは、水辺には近寄らないことにしているんだ」
西野谷志朗も、声をたてて笑った。
「なるほど、あなたは確かな運び手だ」
「運び手? 土器片を守っているつもりなんだが」
「さすがは水谷喜世志先生の愛弟子ですね。意味を聞き分けていらっしゃる」
氷川は西野谷志朗の言葉を待った。
「あなたは聖域を守る者。そして、記録の運び手です。あなたは今まさに、土器片に記された記録を、在るべき場所に納めに行こうとしているところなのですよ」
「それはいったい、どういう……?」
「あそこに行けば、わかるようになっているのでしょう」
二人の行く手に、岩をうがつ切り通しの細い道が見えてきた。
「どうするかは、もちろんあなたの選択しだいです」
西野谷志朗の言葉に、氷川は無言で頷いた。
それまで氷川は、柱を運び出した者たちは切り通しの手前を通る林道を使って、車でふもとの市街地に下っていったのだと考えていた。しかし……。
切り通しの向こうには、ほとんど人の住んでいない集落があったはずだ。廃屋が点在するだけで、もしかしたら、今ではもう誰も住んでいないのかもしれない。柱を持ち込むにしても、他人に知られたくないことをするにしても、そこは格好の場所と言えるだろう。
氷川はふと、廃屋に身を潜める狂信者の集団を想像して、ぞっとした。そんな考えを読み取ったかのように、西野谷志朗がくすりと笑う。
「あなたのように一人で柱を守ろうと、何人で守ったとしても、誰かがそれをしていればいいだけのことです。柱にとって、たいした違いはありませんよ。もっとも、正しくそれが行われていればの話ですがね」
「ああ。その通りだな」
氷川は深呼吸して、よけいな考えを振り払った。それを見て、西野谷志朗が頷く。
二人は切り通しの入り口に足を踏み入れた。舗装されていない泥土の細道が、その集落が行政からも忘れ去られていることを示していた。氷川はそこに、くっきりと深い轍の痕跡を見つけた。
「重い物を運んだようですね」
西野谷志朗の声が、岩壁をひんやりと響かせた。目にしたものを観察するいつもの習慣で、氷川は轍に注意を向けた。
「リヤカーだ。ここは、軽トラックがぎりぎり通れるくらいの幅しかないから。山からは人の手で運んで、ここからは皆でリヤカーを押して、大事に運んだんだろう」
轍の脇に、いくつもの足跡が見て取れる。その爪先はどれも、集落に向いていた。間違いない。この先に、柱はある……。
薄暗い細道を抜け出ると、そのまま、舗装のない道が集落の中心に向かって続いていた。夕刻が間近い空の色と、土や草木の色彩が、風景の大半を占めている。その中に、氷川が想像していたような軒の低い家屋が、ぽつりぽつりと見え隠れしていた。しかし、ひっそりと見えるが、廃屋ではなさそうだった。
一件の家に近づいてみると、その家は、古い外観を残したまま改築してあるのだとわかった。引き戸の脇に、鮮やかな模様の傘が広げて干してあり、垣根の向こうに、洗濯物を取り込む人の手が見える。ほかの家々にも、それぞれの生活の気配があった。
氷川は思わず呟いた。
「この村はとっくに過疎化が進んで、もう人は住んでいないと思っていた。なのに、けっこう人が住んでいるみたいだなあ。田舎暮らしに憧れて、都会から移住してきたんだろうか?」
「と言うより、隠れにきたんじゃないですかね」
「え?」
「だって、氷川さん、ここは隠れ里ですから」
「まさか。この村は名前もあるし、地図にも載っている。ここに実在していることは知られているんだ」
「でも、あなたは、ここに人が住んでいることは知らなかったでしょう?」
「そりゃそうさ。よほどの用事でもないかぎり、集落があることは知っていても、役場の人だって来ることなんてないよ。ここに何があるってわけじゃないからな。だから、よほどの用事と言ったって、そんな用事ができるはずもないし……」
そこまで喋った時、氷川は自分の言葉で気がついた。
「ああ、そうか。だから……」
「そうです。だから、ここは隠れ里なのですよ」
「なるほど。ここには何の産業もない。名所旧跡はおろか、寺社もないんだ。ほら、自動販売機すら見当たらないじゃないか。よそ者が立ち寄れる場所が、一つもないというわけだ。直接外へ流通させる産業をしなければ、ここが注目されることはないし、通販を使わなければ宅配の車も来ない。ふもとの街に通勤通学すれば、この村は人目を引かずにすむ。そういうことなんだな?」
「これが、現代の隠れ里というわけですよ。隠れ里の存在は、地図や住民票の中に、実在するものの中に隠してしまえばいい」
西野谷志朗の言葉に、氷川は唸った。
「おや、氷川さん、ここの人たちは病院には困らないみたいですよ」
西野谷志朗は、また不意に話題を変えた。
目の前に、診療所の看板をかける家があった。氷川と同じくらいの年格好の男性が、庭先で車の手入れをしているところだった。そばに小さい女の子がいて、バケツを覗き込んで何か遊んでいる。夕餉の支度なのか、家の中から揚げ物の匂いが漂っていた。
「あの人に聞いてみましょう」
ちょっと待った、と氷川が止める前に、西野谷志朗はもうすたすたと男性に歩み寄って、声をかけていた。
「あのう。お忙しいところを失礼いたします。みなさんが山から持ってきた石のことなんですけどね」
西野谷志朗の率直な物言いに、氷川は緊張した。相手がどんな反応をするかわからない。しかし、次の瞬間には拍子抜けして、氷川は大きく溜め息をついていた。
「ああ、あれか。僕も一緒に手伝ったよ」
男性の答えは、西野谷志朗の物言い以上にあっさりしていた。
「佐伯さんの家にあるから、行ってみるといいよ」
氷川の頭は混乱し始めた。この村の者たちにとって、西野谷志朗も自分も、よそ者のはずだ。それなのに、この男性は、自分たちを不審そうに見るでもなく、まるで天気の話でもするかのように、石の柱を運んだと簡単に口にしている。女の子まで顔を上げて、「石はねぇ、さえきじいさんのお家」と言って、話しかけてくるではないか。
娘の様子を見て、男性が笑った。
「ここでは、みんな、佐伯爺さんって呼んでるんだよ。歳は、九十いくつ。半分寝たきりだから、時々診察に行ってるんだけど。佐伯さんちはあそこ。ハルさんがいるから、家に行っても大丈夫。先に行っててくれる? 僕たちも後から行くから」
教えられた家に向かいながら、氷川は思ったことを口にした。
「君もわたしも、ここではよそ者なのに」
「それなのに、あの人たちは、隣近所の知り合いと世間話をするようでしたね」
「妙な感じだ」
「そうですか? ここは隠れ里ですからね。ちっとも妙じゃありませんよ」
氷川は西野谷志朗の表情を窺い見た。相変わらず、涼しい顔をしている。
「つまり、君もわたしも……」
「そうみたいですね。隠れ里での、最初の扱いを受けたというわけです。よそ者とされるかどうかは、これから試されることになるのでしょうね」
「やれやれ。いったい、何がどうなっているのやら。まるで、狐にでもつままれたようだ」
「あっはっは! 氷川さん、あなたのジョークは、本当に面白いですねぇ」
吹き出して笑う西野谷志朗を、氷川は複雑な気持ちで眺めた。
「いや、冗談を言ったつもりはないんだが……」
その時氷川は、道の先から、こちらに手を振っている人物に目をとめた。小柄な女性が、佐伯老人の家の前に立っている。目立つ白髪が、ちょうど目印のようだった。西野谷志朗も気がついて、笑うのをやめた。
「氷川さん、あの方がハルさんらしいですね」
「でも、どうしてわたしたちのことを知ったのだろう? 隠れ里だからなのか?」
西野谷志朗は目を細めてハルの方を見やると、言った。
「そんな不思議な話ではなさそうですよ」
すぐに氷川にもその理由がわかった。家の前に着くと、ハルは片手に携帯電話を持っていたのだった。
「診療所の畔上先生が電話してくれたの。私がハル。佐伯爺さんは私の伯父なのよ。さ、入って」
「あ、あの……。わたしは氷川と申します」
氷川が急いで名乗ると、ハルは確認するように「氷川さん」と繰り返し、にこっと笑った。ハルは六十代なのかもしれないが、三十代のようにも感じられる。白髪でジーパン姿。氷川にはハルの年齢がわからなかった。ただ、印象深い人であることだけは確かだった。
西野谷志朗は名刺を取り出して、その朝氷川にしたように、「僕はこういう者です」とハルに手渡した。ハルは名刺を眺めたが、氷川には、その目元が笑っているように見えた。
「記者さんねぇ。ま、そういうことにさせていただくわ」
ハルがいたずらっぽい笑顔でそう言い、西野谷志朗が苦笑した。
ハルさんは目尻のしわも印象深い、と氷川が思った時、引き戸を開けたハルが、くるっと氷川を振り向いた。
「ねえ。携帯電話、持ってないと思ってた?」
ああ、ここは隠れ里なのだ。そう氷川は思った。
佐伯老人の家は、戸口を入ると広い土間になっていた。頑丈そうな薪ストーブが据えられている。木製のベンチが置いてあるのを見て、氷川はほっとした。早朝からの山歩きと作業で、服が埃まみれだったからだ。そんな格好で他人の家に上がるのは、気が引ける。
その土間で、氷川はすぐに柱を見つけた。
土間の隣は板の間になっており、その上がり口に古毛布が敷かれて、石の柱が立てかけてあった。氷川は瞬間的に、縦に刻まれた溝を確認した。西野谷志朗はと見ると、彼はくつろいだ様子で、興味深げに柱を眺めている。それで氷川は、今は自分からは何も言わなくていい、何もしなくていいのだと思った。
「適当に座っててちょうだい」
ハルに声をかけられて、二人はベンチに腰を下ろした。ハルはストーブの前にかがみこみ、「冬支度はまだなんだけど、日が落ちると冷えるのよね」と言って薪をくべ始めた。
石柱は氷川の目の前にある。これまで氷川は、立てた状態でそれを眺めたことはなかった。静かな感慨が湧いてくるのを感じながら、本来の姿に近い柱を、氷川はただぼんやりと眺めていた。ストーブの灯りが、石柱を照らす。炎の灯りはまどろむような、そして、いつまでも見ていたいような色だった。板の間の衝立からしわぶきが聞こえてくるが、それも気にならない……。
「ハルさん、あの衝立の向こうに、伯父様がいらっしゃるのですか?」
西野谷志朗は、ここでも遠慮がない。それに答えるハルの声には、楽しげな響きがあった。
「そうなの。みんなの顔が見たいと言ってね。近所の人たちが、しょっちゅう集まるのよ。賑やかなおかげで、伯父も寝たきりだけど頭はしっかりしてて、助かるわ」
それからハルは、思い出したように付け加えた。
「あ、そうそう。石、山から持ってきちゃったけど……。伯父の墓石に、ちょうどよさそう。まだ同じのが埋まってるみたいだから、一個借りようかと思ったの」
氷川はゆっくりと石柱から目を離し、ハルに顔を向けた。今、なんて……?
そう言いかけたが、西野谷志朗の笑い声のほうが早かった。
「あっはっは! それはいい考えですねえ。柱の周りにみんなが集まっていても、傍目には墓参りにしか見えませんからね。なるほど、いい考えだ」
「でしょ?」
ハルは軽い身のこなしで板の間に上がると、電灯をつけ、衝立をどかした。介護用のベッドから、痩せた老人が半身を起こそうとしていた。不謹慎な話に怒っている風もない。肩をゆすって、しわぶきながら笑っている。
ハルがベッドを調節するのを待って、氷川と西野谷志朗は立ち上がり、佐伯老人に目礼をした。
「伯父が言うにはね、石の柱は、六本作られたんだって。縄文時代の中頃のことらしいわよ」
氷川が強いて尋ねるまでもなかった。作為的なことをしなければ、話は、進むように進んでいく。隠れ里伝説とは、そうなっているものだ。
「伯父はね、終戦後にこの集落に移ってきたの。伯父が来た頃には、形だけだけど、まだ昔の習慣が残っていたそうよ。柱はとっくの昔に、みんな埋まってたらしくて、誰も石の柱のことは知らなかったけれど、あの広場で寄り合いをしたんだって。知ってる?」
いきなりハルに尋ねられて、氷川はあがってしまった。が、その話に思い当たることがあった。
「それはもしかして、かわらけ様の祭りのことではありませんか?」
ハルが嬉しそうな顔をした。
「そうそう! 氷川さん、ご存知なのね。それでね……」
かわらけ様の祭りというのは、この付近に、昭和三十年代の始め頃まで伝わっていた行事のことだ。県境が定かでない時代からの習慣で、F神社のあたりからこの集落までの農民が、石柱の埋まっていた、あの山の踊り場のような場所に集まった。当時はまだ山林の手入れがされており、土砂が崩れていなかったので、そこは今よりもずっと広かったようだ。
水谷先生は、この地方の隠れ里伝説を検証するにあたり、ある推察をしていた。もともとの意味が忘れ去られるほどに起源が古い儀礼は、不可解な形だけが残って後世に伝えられていることがある。そのような儀礼をよその村の者が垣間見て、理解しがたいその光景を不思議な物語にして語り継いだのではないか、というのだ。そして水谷先生は、かわらけ様の祭りに行き当たったのだった。
農村の古い祭りといえば、まず農耕儀礼としての祭りが挙げられる。そのほかに、かがり火を焚いて一晩踊り明かすといったような、農民が日々の気を晴らす目的でおこなう集まりを指すこともできる。
かわらけ様の祭りもその類の、ある特別な新月か満月の晩におこなうものであったらしい。しかし、それは、ひそやかな祭りだった。
村人たちは三々五々、山の広場に集まってくる。倒木や石を叩いて、楽器がわりにする者もいた。踊る者もいたが、盆踊りのような決まった形はない。静かにさざめきながら広場を歩く者、松明の灯りに見入る者、その場を少し離れて星を眺める者……。皆それぞれに、思い思いの過ごし方をするのだった。
こういう時でもなければ、村人たちは互いにゆっくり話をすることもない。そこここに小さな会話の輪ができる。やがて夜が更けるにしたがって、かわらけ様の祭りの意味が明らかになっていく。集まった人々のうち、この一群にふさわしくない者が、しだいにあぶり出されていくのだった。
人は、他者と関わる時の態度で、その人柄があらわになりやすい。それを心得て、そつなく立ち回ったつもりでも、無意識の言動が、その人の隠された本性を暴くことがある。本人が気づかないだけで、周りの人間は敏感に感じ取るものだ。会話の輪の中で、他人を言い負かそうとやっきになる者や、相手の言葉に過度に感情的な反応をする者、自分への注目を強いる者などが、しだいに浮かび上がってくる。
かわらけ様の祭りは、特別な時間、特別な場所でおこなわれる。特別なのは、そのひとときなのだ。誰かが先頭に立つこともなく、祭りを仕切る者もいない。神聖な時間と場所を皆で共有することで充足を感じる集まりなのだ。しかし、自分だけが偉くて特別でありたいという意識を持つ者は、その自己中心的な欲求に理性が負けてしまう。特別な時間、特別な場所を、自分一人だけが手にしたものだと錯覚する。抑えることのできない支配欲や権力欲が言動ににじみ出て、自分が仲間の一員にふさわしくないことを自ら明らかにしてしまうのだ。そして、その場を共有する者たちと調和しない彼らは、集落から放出される。
かわらけ様の祭りは、集落内に一定の意識のバランスを保つための、選り分けの儀式であったのだ。暮らしやすい集落を維持し、皆が生き延びていくには、環境も人も、和が乱されないことが大切だ。互いを尊重し、山の自然と共に生き、謙虚に日々をまっとうするといったような、心の姿勢を約束しあう必要があるのだった。
山中で道に迷い、そして帰ってきた村人のうち、ある者は自分の役割に目覚めて聡明に行動し、またある者は自分の感情に振り回されて言動を抑制できなくなった……。かわらけ様の祭りには、参加した者の気質を問う性質があったのではないだろうか……。
「人が入れ替わり立ち替わりしたそうでね。伯父がここに住み着いた頃には、残った人はあまり多くなかったそうよ。伯父はその人たちに、この集落を探していたわけを話したの。それで、仲間に迎え入れてもらったのよ」
佐伯老人は、ハルが話すままに、頷いて聞いている。姪が自分を理解して、事実を確実に伝えるのを、信頼しているのだろう。
「伯父はね、ある夢をよく見ていたんだって。夢の中で、伯父は縄文時代の男の人になっていて、仲間と一緒に夜空を見上げているの。頭上に不思議なものが浮かんでいる。六畳ほどの大きさの、きれいな青い光に包まれた船。空に浮かぶ、三角形の……UFOね」
縄文の仲間たちのうち、見たこともない不思議な光景に驚愕した者は、何が起こっているのかわからずに取り乱し、その場に卒倒したり叫びながら逃げ出したりした。しかし、何人かは落ち着いて頭上を眺めていた。彼らも、そして縄文人となった佐伯老人も、その青い船を、切ないほど懐かしい郷愁のような思いで見上げていた。
それから誰言うともなく、同じ思いを持った者たちは車座になって座り、身体の奥から音を発し始めた。彼らの身体が楽器であるかのようだった。あるいは高く、あるいは低く、おのおのがいちばん発しやすい音は、唸り声のようでも音階があるようでもあった。それは彼らが、何か特別な思いを表現する時の方法だった。彼らはゆったりと息を継ぎながら、音を発し続ける。いくつも複雑に重なった音は、細かく空気を震わせて辺りに満ちていった。
すると、彼らの音に応答するかのように、青い船から、幾筋かの光線が降り注いでくる。一人一人の頭頂に、その光線が当たった。夢の中の佐伯老人は、自分に向かってくる光線の数を数える。それは十二本の眩しい光の筋だった。船から頭に当たるまでの間に、その光は二本ずつの束になり、微細な光の粒子が螺旋のようにうねりながら、頭頂から自分の体内に入ってくるのだった。それは、どんな言葉でも言い表せない、至福の心地良さだった。
「それでね、そのことをいつでも思い出せるようにといって、仲間たちみんなで、石の柱を六本作ったそうよ。光は二本ずつ束になっていたからね。真ん中にまっすぐの溝を彫りつけるのが、大変だったんだって。縄文人の伯父は、その光景を記録に残しておこうと思って、壺を作る時に、その様子を絵で刻みつけたんだって。これがその絵。伯父が描いたの」
ハルが佐伯老人の枕の下から取り出したのは、黄ばんだ和紙の束だった。
絵は、その一枚に描かれていた。
空を表す横の直線。その下に、三角形の印。そこから、十二本の線が下に伸びている。いちばん下には単純な線で人間が描かれ、人間の頭頂部に向かって突き刺さるような、太い六本の筋が引かれていた。氷川の持つ土器片に描かれた文様そのものだった。
「ね、面白いでしょ? でね、この三角形なんだけど、夢の中で縄文人の伯父は、あのきれいな青い光の色をつけたかったの。ほら、月の周りが青く見えることがあるでしょ? ああいう色だったんだって。でもね、そういう色はなかったから、ただ三角形を刻んだだけだったそうよ。夢から覚めても、それが心残りなんだって」
ハルは伯父の顔を見て、「ね?」というふうに小首をかしげた。佐伯老人の目は、姪を見て優しく笑っている。
佐伯老人は、夢で見た場所を探したかった。
小さい縄文の集落。そこから望む山の形には特徴があった。収穫を求めて山に分け入ると、中腹に広く開けた場所がある。そこで天空から降り注ぐ光を浴びた。とても夢とは思えない体験だった。佐伯老人は、その土地が本当にあるのだという思いに、取りつかれたかのようだった。それで変わり者だと呼ばれるようになったが、気にしなかった。
探すといっても、今から何十年も前のことだ。簡単には探せない。地方の山々を描いた絵葉書や印刷物の中に、夢で見た風景を探し、全国を旅できるよう行商の仕事に就いた。
山は、見る角度によって形が違う。植生が変われば、四季折々の雰囲気も変わってしまう。道を開くために、元の山が切り崩されることもある。しかし、運が味方したのか、それとも、実在したその場所が時を超えて縁者を呼び寄せたのか、佐伯老人はついに夢で見た土地を探し当て、遠い昔話に出てくるような農村に足を踏み入れたのだった。
そして、空に浮かぶ船と出会ったあの山は、原生林に覆われて残っていた。里山というにはいくぶん標高が高く、登山するには標高が低い。人の目が景色を見る時に、ちょうど見逃す大きさだった。山の向こうのZ県側は急に切り立っており、ふもとに神社があるが、普段はそちら側から山に入る者はいない。集落と山は、時代が移り変わり世代が替わっても、自然環境によって遙か昔から保存されてきたのだった。
しかし、佐伯老人が再びこの地を訪れるのは、何年も後になってからのことだ。
戦争があった。戦争を体験した佐伯老人が、当時どのような思いで、再びこの土地に辿りついたか、それを推し量ることはできない。集落の住人となった佐伯老人は、ふもとの街でささやかな事業を興し、若い世代のために働き口を作った。畑も耕し続けながら、村の皆で時代の変遷を生き抜いてきたのだった。
その生活の中で、かわらけ様の祭りはなくとも、同じように村人は入れ替わり、いちばん若い世代は都会に出て行った。この村で生きたいと望み、この土地にふさわしい者だけが残った。それがさらに、佐伯老人とハルの家一軒だけになりかけた頃だ。かつての佐伯老人のように、この土地に呼ばれるようにして集落を探し当て、移り住む者たちが現れたのだった。
これは、時代が新たな転換を始める兆しなのかもしれない……。そう思った佐伯老人は、新しい時代を生きる者たちのために、何か道しるべを残すのが自分の最後の役割だと考えた。道しるべがあれば、彼らはそこから、自分の力で時代の先へと進むことができる。それには、彼らが、この土地と共存する感性を養い、自然界を敬う気質を育むことができればいい。そうすれば、この土地が人間に教えてくれていることを、人間が自然界の一部であることの意味を、彼らは自分で理解できるようになる。
和紙の束には、道しるべとなる感性を培う術と、佐伯老人の経験的な知恵が、すべて書き込んであるのだろう。人生の終わりの時間を過ごす佐伯老人は、今、自分が書き記した紙束に、新しい知恵が書き足されることを願い、そして信じているに違いない。水谷先生がそうであったように。佐伯老人もまた、自分が信じた未来に向かって旅立とうとしているのだ。氷川はそう思った。
ハルは手の中の紙束に視線を落とした。
「私はね、小さいうちに伯父に引き取られたの。親にとっては育てにくい子だったのね。変なことばかり言ってたから。親が手を焼いて、変わり者の伯父とならウマが合うだろうって言ったの」
ハルにもまた、小さい頃からよく見る夢があった。
夢の中でハルがいるのは、宇宙のどこかとしか言いようのない場所だった。なぜなのかわからないが、宇宙のどこかだと感じられた。大勢の老若男女に囲まれていたが、違和感はなかった。現実に会ったことはないけれど彼らを知っていると感じ、彼らと自分は一つにつながった家族のようなものだと思えた。彼らは、ハルの出発を祝うために集まっていた。これからハルは故郷を離れ、ある目的を持ってどこかへ旅立つのだ。
仲間の中から、進み出る者があった。その人はハルの頭に冠を載せた。仲間たちから前途を祝福する声が上がるのを、ハルはその場の雰囲気で感じ取っていた。晴れがましくもあり、未知の冒険に身構える気持ちでもあった。冠を載せてもらうと、旅立ちの準備ができるのだ。そしてハルは、薄く青いベールに包まれた星、地球に向かって、空間を一直線に飛ぶ……。
「私が初めてその話をした時、伯父は言ったの。当然だって。それでいいんだって」
ハルが顔を上げた。
「伯父が言うにはね、私たちがこの地上にやってくる前、地球に合った姿形になるために、しなければならないことがあるんだって。地球にあるものは、目に見えたり触れたり、人間もそういう物質でしょう? 物質はその一箇所にしかいられないし、移動するにも時間がかかる。大きさも決まってるし、簡単に形を変えられない。ほかにもいろいろ不便なことが多いわよね。地球に来る前にいたところでは、ちっとも不便じゃないんだって。魔法のように、何もかも自由自在で。私の夢の中でもそうだったけど。でも、不便な地球で生きようと思ったら、そこに合わせて不便なものにならなくちゃいけない。わざとバージョンダウンするみたいに。でなければ、物質である肉体を使えないものね。だから地球に来る前に、機械にたくさんついてるプラグを、一個だけ残してあとは全部抜いちゃうって感じのことをするんだって。それを覚えていると、人間の身体にとっては、ちょうど冠を頭に載せたみたいな感覚になるそうなの。そういう装置で頭のてっぺんからプラグを引き抜くっていう感じなのかな? それで私は、地球に来る前のことを思い出す時は、そういう夢を見るんだろうって、伯父が言ったの」
その話を聞いても、氷川はただの不思議話とは思わなかった。ジェラルミンケースに入れてある、数枚の金属板を思い浮かべていたからだ。それは水谷先生が遺した、最後の論文だった。いや、論文とは呼べないかもしれない。時代が追いつかない限りは、奇抜なオカルトとしか言いようのない内容だ。しかし氷川は、水谷先生の言葉が刻みつけられた金属板を持つことを、心から誇りに思っていた。
そこでふと、氷川は視線を感じた。西野谷志朗が、こちらを意味ありげに見ている。もちろん氷川は承知していた。氷川は足元からリュックを引き寄せると、中からケースを取り出した。
その時、土間の入り口に人の声がし、戸口を開けて賑やかに人が入ってきた。
最初に入ってきた眼鏡の男性は、青い目をしていた。缶ビールのパックを持っている。その後ろから畔上医師が顔を出し、氷川と西野谷志朗に「さっきはどうも」と声をかける。その後に、女の子の手を引いた女性が、籠を下げて入ってきた。畔上医師の妻だろう。籠の布巾をとると、中には揚げたてのコロッケがぎっしり入っていた。
畔上医師が佐伯老人に聴診器を当てている間、ハルは奥の台所から鍋を運んできて、ストーブにかけた。
「もうじきナミさんとミナさんがネギを持ってくるから、仕上げに入れてもらおうっと。そうすれば、特製すいとん汁のできあがり。あ、そうそう。すいとんもコロッケも、もちろん精進よ」
最後のほうは西野谷志朗に向けて、ハルが言った。西野谷志朗がベジタリアンなのをハルがなぜ知っているのか、氷川は不思議に思ったが、座がなごんでいる今は聞かなくてもよかった。そのうちに、きれいな双子の女性がやってきて、ハルを手伝って鍋をかきまぜ始め、家の中においしそうな温かい匂いが広がってきた。
西野谷志朗はもうさっそく、眼鏡の男性と缶ビールで乾杯している。畔上医師の小さい娘が、氷川の膝に寄ってきた。開けかけたケースの中を、しげしげと見つめている。
「これ、なあに?」
「見せてあげるよ」
氷川はベンチから立ち上がり、女の子と一緒に、板の間の上がり口に座った。佐伯老人からよく見えるところで、ケースに納めたものを取り出したかった。ズボンの汚れは、もう気にならない。皆は汁椀を手にし、コロッケをつまみながら、さりげなく氷川に注目している。
氷川は脇に立てかけられた石柱に片手でそっと触れてから、水谷先生の最後の論文を読み上げた。
薄い金属板数枚の限られたスペースに、土器片にまつわる水谷先生の仮説が簡潔に記されている。隠れ里伝説に関する推論、かわらけ様の祭りに至ったいきさつ、その起源を辿る調査……。
かわらけとは土器のことだが、その言葉が成立した時代までさかのぼれば、少なくとも、土器に類するものの由来が伝わっていたのではなかろうか。そこを源とする行事が、時代が下るにつれて形を変え、かわらけ様の祭りとして伝わっていたのだとしたら。
祭りが行われた広場には、何の遺構も残っていない。しかし、神聖な場所であるのなら、そこを区切る境目が作られただろう。あるいは、神聖な何かが場の中心に設置されていたか。
広場の入り口にあたる地中に、左右対になった石積みの跡を発見す。さらにその石積みの下から、中をくり抜いた箱状の石が出土。左右それぞれの石の箱から、合わせて三個の土器片が見つかった。土器片の形状から、壺状の土器の一部だと考えられる。年代測定の結果、縄文中期のものと判明した。
縄文中期の土器に見られる特徴から、当時は社会的に安定した時代か、もしくは、逆に、社会不安が蔓延していたと想像されるのが、今のところ一般的な見解だ。しかし、どちらも然りであったなら。
おそらく定説よりも早く、稲作は縄文中期のうちに伝播していたのではなかろうか。稲作の技術は、原始的な栽培法を使っていた縄文人の生活を一変させた。自然界と歩調を合わせて長期間持続してきた縄文社会は、急速に変化する。生活の向上を歓迎すると同時に、彼らは怖れおののいてもいたのではなかろうか。技術文明の急激な発展は、人間が自然を席巻せんとする側面をはらんでいる。自然界に感謝と畏怖の念を抱く者たちは、自然の一部である人間が、そのバランスから逸脱する危うさを感じ取っていたのかもしれない。たとえそれが遙か未来のことであったとしても。それゆえ、当時としての物質的豊かさが実現した社会において、精神的には憂いも不安も抱いていたとしたら。物質的にも精神的にも充足させ得る、その完全なる妥協点を探しあぐねていたのだとしたら。
土器片の文様が祭りの原点であるなら、そこには、遙か縄文の昔から脈々と受け継がれてきた文化、精神性との関連を見出せまいか。文様に描かれた人間は何をおこなっているのだろうか。十二と六の線の数に意味はあるのか……。
「その時、水谷先生の頭には、電光のようにひらめくビジョンが浮かんだそうです」
次に続く言葉が唐突な印象を与えないように、氷川はそう言い添えてから、先を続けた。
「人間という物質はDNAの二重螺旋構造によってできている。二重螺旋一本分の遺伝子情報が人間を動かす……」
この二重螺旋がもっとあったなら、人間はもっと聡明に文明を展開させて現代に至っていたかもしれない。土器片の十二本の線が六本に集約されるように、人間が二重螺旋構造を六つ備えていたとしたら、豊富な遺伝子情報によって、物質として完璧な機能を果たす人間が出来上がっていたのかもしれない。しかし人間は完璧ではあり得ない。迷い間違い、過ちから正しい道があることを学ぶ。不完全であるがゆえに、人間の在るべき完全な姿になろうとする。そこに人間性が育つと言えよう。
土器片に認められる三角形の印は、人間の在るべき完全な姿を指し示す天の啓示か、それとも、完全な人間を作り出そうとする何者かの干渉なのか。伝承における隠れ里からの帰還者は、その後の善し悪しが分かれる。かわらけ様の祭りは、精神性において人を淘汰する。山の中腹、祭りの広場には、人間にそのような作用を及ぼす何かがあるのか。この点において、土器片からは人体に影響する物質などのデータは得られなかった。
祭りの広場を調査し、地中から石柱を二本発見す。年代特定は困難だったが、縄文期のものと仮定するだけの証拠があった。加工され中心に溝が彫られているが、十二本の線が六本になった時の、一つの組み合わせを表していると考えられた。ゆえに同じ石柱は六本あると推察し、三本目を発見す。発見時の状況から鑑みて、全ての石柱が発見された時には、それらが円形に配置されていたことが明らかになろう。私はこれを、圧電体の装置と考える。
そこに電流を生じさせたのは何者か。地球外からの来訪者、未来からの時空の旅人、荒唐無稽な想像が浮かぶ。しかし私は、縄文人自身がそれをしたのであってほしいと願う。人間が自らの力によって、それをしたのだと考えたい。人体に流れる微量な電流の振動数を、呼吸や発声などの方法で一定に保ち、装置で増幅することで脳電位を変化させたのではなかろうか。それは結果的に人体に影響を与えることにもなった。土器片の六本の線は、人間の頭頂部近くに描かれている。DNAの二重螺旋構造を六本持つような完全性を、装置によって体験することで、自らを在るべき姿へ近づけるよう、よりよい精神を保つよう、その志を保つ儀式を行ったのではなかろうか。そして、我欲に負けてそれができない者が淘汰されていった。
縄文人の精神性にとって、土地を敬い自然界と共存することは大きな要素になっていたと考えられる。技術文明の発展の中にあっても、自然界に頭を垂れる心を失わないよう、彼らは誓い合ったのではなかろうか。
その遺伝子を受け継ぐ者たちは、縄文文化の終焉とともに、急激に変化を続ける時代の奔流に投げ出された。島国は周囲三百六十度の海に開いており、現代人の思いも及ばぬ遺伝子が混じり合ったことだろう。しかし、多様な遺伝子のおかげで人間という物質は生き延び、その中に隠された精神性も生き延びることになった。縄文の精神は、遺伝子の働きで発動されるその時まで人間の中に隠された。遺伝子は人の中に隠され、人は人の中に隠される。人間の在るべき姿で生きようとする者は、多種多様な人間の中に隠されている。いずれ縄文の心が再び必要とされる、その時が満ちるまで……。
最後の言葉を結んだ時、氷川は、自分の仕事を一つやり終えた気がした。佐伯老人に向かうと、氷川は言った。
「わたしは水谷先生の元で民俗学を学んでいたのですが、考古学に転向し、民俗学と考古学の両面から、石柱と土器片を守ろうとしてきました。これが、土器片です」
氷川はケースの片側に金属板を収めると、ケースの蓋を開けたまま、それを佐伯老人に差し出した。金属板の反対側に、土器片が収めてある。もう何度となく目にしてきた土器片だが、その度に氷川は、恭しい気持ちになるのを感じていた。
ハルがケースごと受け取って、佐伯老人の膝の上に両手で支えながら乗せた。
「ああ、これだこれだ。私が作りました。私が作ったものです。青い色があればよかったんだがなあ」
しわぶいていても、佐伯老人の声には嬉しそうな張りがあった。皆も寄ってきて、かわるがわる土器片を覗き込んだ。皆は佐伯老人の描いた夢の絵を知っているのだろう。顔を見合わせて頷いている。しかし、誰も驚く者はいなかった。氷川は、もうそれを不思議とは思わなくなっていた。
だし汁とコロッケの匂いが鼻先をかすめて、氷川は不意に、自分が空腹だったことを思い出した。傍でくすりと笑う声がして、双子の女性の一人が氷川にコロッケを手渡してくれた。それを一口かじった時、氷川の心は決まった。こうなるようになっていたのだと、納得できた。
「佐伯さん」
それから氷川は一つ深呼吸した。自分にこんなジョークが言えるとは思ってもみなかった。
「これを、どうぞ、あなたの墓所に……」
佐伯老人が大声で笑った。痩せた身体から、どうしてそんなに大きな声が出せるのかと思うほど、その笑い声は家中に響いた。
ハルは伯父の背をさすりながら笑い、皆もどっと沸いている。西野谷志朗が缶ビールのプルトップを開けて、氷川に手渡してくれた。その目は満足そうだ。
ひとしきり笑った後、ハルが氷川を見つめて言った。
「どうして? 持っていればいいのに。それに伯父のこの書きつけがあれば、あなたはもっと何か、特別なことができるんじゃない?」
「いいえ。わたしにできるのは、あの広場のほかの柱を、そのまま保存しておくことだけです」
それは氷川の本心だった。自分がすべきこと、自分ができることをするだけだと思っていた。氷川にはそれが自分の役割だとわかっている。ほかに何の野心も欲望も、起こりようがなかった。
「それに……」
氷川は佐伯老人に顔を向けた。
「いずれ時が満ちて、然るべきその日が来れば、それは、太古から受け継がれた日本人の感性に、再び価値が見い出される時代です。その時には、縄文の心を説明するのに、物証も理屈も必要ありません。遺伝子の中で目覚めた精神が、その人を、在るべき姿で生きようとさせる。そうすれば、わかることだからです。そういう時代が来るまで、土器片も石柱も、その意味が歪められたり失われたりしないように、隠しておきたいと……。水谷先生が望んでいたことです。この村に置けば、土器片の意味は正しく伝わるでしょう」
じっと氷川を見つめていた佐伯老人は、ひとつ頷くと、胸の前で骨張った両手をゆっくり合わせた。
「よくわかりましたよ。必ずそうしましょう。ありがとう、ありがとう」
佐伯老人はそれ以上、よけいなことは何も言わなかった。それでよかった。佐伯老人とだけでなく、その場の皆と気持ちが通じ合ったのを、氷川は感じていた。今まさに、かわらけ様の祭りと同じことが起こっていたのだった。氷川は隠れ里の一員になった。それは満ち足りた体験だった。
ハルが言った。
「氷川さん、あなたがこの村に来るのを、私たちはいつでも歓迎するわよ」
ハルの目尻のしわが、氷川にはいっそう印象深く映った。氷川は皆に向けて缶を持ち上げ、ビールを飲んだ。隠れ里伝説にある通り、ここで口にするものは、どれもこの上なく美味だった。
氷川は思った。これから先、佐伯老人の墓所が、かわらけ様の祭りの場となるだろう。いや、柱を囲まずとも、かわらけ様の祭りのように人が選り分けられる場面は、形を変えて、いつでも身近なところで起こっているものだ。
そして自分は、残りの柱を守り続ける。そうすれば、現代社会に散らばる縄文の遺伝子が、柱が作られた太古の思いに感応して息を吹き返す……。目の色も肌の色も違う者同士が。この土地が育んだ精神性を好み、人間が自然界の一部であることに素直に頭を垂れる者同士が、互いに共鳴して声を上げ始める……。そんな気がしてならなかった。
「さて」
西野谷志朗の声がした。その声で、氷川は思わず腰を浮かしかけた。ああ、そうだ。西野谷志朗。彼にはまだ大事な話を聞いていなかったような気がする。
「気持ちのいい宴でした。感謝いたしますよ」
彼は箸と椀を置くと、おもむろに立ち上がり、佐伯老人に深々と一礼した。そして氷川に向き直った。
「氷川圭一さん」
気持ちのこもった声だった。
「あなたはいい人だ。会えてよかった」
その言葉に戸惑いつつも、氷川はなぜか、胸がいっぱいになった。
ハルが楽しげな声で言う。
「それじゃあ、みんなでお見送りするわね」
西野谷志朗は鷹揚に頷くと、外へ出た。笑いさざめきながら、皆も続く。
「あの……。ちょっと待ってくれないか」
彼ともっと話がしたかった。氷川は佐伯老人に頭を下げると、急いでその後を追った。
外に出ると、皆は家の前に揃って、山を仰ぎ見ていた。畔上医師の娘が父親に肩車をされて、そちらを指さしている。
「ねえ、あれ見てー。きれいー」
氷川が目をやると、あの山の中腹あたり、木々の合間に、きらめく一筋の光が見えた。それは水晶のように硬質な輝きの、澄んだ白銀の光だった。皆の口から、感嘆の溜め息がもれる。
まことに美しい白銀の光……。氷川は思い出した。水谷先生が心をこめて口にした名だ。
まことに美しい白銀の光。それは慈しみ深い豊穣の狐、社様。小さな祠は村の西、クスノキの木陰にひっそりと……。祠に住まうことができなくなった社様は、いったいどこに行かれたのだろう。人々の純朴な思いを探し求め、心根が清らかで行いの善い者に出会おうと、この国をさすらっていらっしゃるのだろうか……。
西野谷志朗は言っていた。石柱の広場が誰にどのように守られているか、彼はそれを確かめに来たのだと。氷川はそっと胸のポケットに手を当てた。そこに、西野谷志朗の名刺が入れてある。
「ああ、西の社様。ニシノヤシロ様か……」
隠れ里の夜気は心地よく、透明な夜空には星が映える。
濃く浮かび上がる縄文の山に手を振って、氷川は白銀の光を見送った。
(完)