春高バレーが盛り上がっていますが、その春高バレーの産みの親である松平康隆さんが、81歳で大晦日にお亡くなりになっていたことが分かりました。
ミュンヘンオリンピックの金メダルは、松平元監督が選手たちをいじめ抜いていじめ抜いて、特に、「南将之選手のユニフォームが血で染まるぐらいのハードトレーニングをした」というのは有名な話です。
松平元監督は、慶応大学から日本鋼管に行って、9人制のバックセンター(守りの要)の選手でした。162センチの身長の方ですから、「後ろから攻撃陣を観察していたことが後々、コーチ、監督になってから役立ったのではないか」と言われています。
東京オリンピックの前に、かつてのソビエトにコーチ留学に行って、帰ってきて東京オリンピックでコーチをして、その時は銅メダルだったんです。僕は先日、森田淳悟元選手に会って色々とお話を聞いたんですが、女子は、「東洋の魔女」で金メダルだったじゃないですか。女子の金メダルばかりが騒がれて、祝勝会の時に男子代表チームは呼ばれなかったそうです。
これは、協会のミスで呼ばれなかったらしいんですが、もちろん男子行きませんでした。そして、行かなかったことに対して協会から、「なんで来ないんだ!?」と叱責され、それがまた、新聞に大きく書かれました。
松平元監督はカチンと来て、「男だってあれだけ頑張ったのに、なんでメディアはこういう書き方しかしないんだろう?よし。メディアを利用してやろうじゃないか!」ということで、あの方は、バレーボールがテレビに進出するのに尽力され、ワールドカップが常に日本で行われているのも、松平元監督が永久開催国を日本に持ってきたからなんです。ミュンヘンオリンピックの前は、バレーボール人気を高めるために、自らスポンサーを見つけてきて、アニメ「ミュンヘンへの道」を作りました。
そして、攻撃の方から言えば、森田選手の「ひとり時間差」や、高くサーブを上げる「天井サーブ」、「Cクイック」などの大技を産み出しました。大松博文さんは女子の監督で有名ですが、松平さんは、男子の監督としてバレーボール協会の専務理事・会長をお努めになり、世界のバレーボールの殿堂入りをなさったバレーボール界の日本最初の方です。81歳ということで、まだまだ試合会場に姿を見せて頂きたかったです。私も何回もお話を伺いましたが、とても素敵な方でした。
参考資料:スポニチ:時間差、クイック…ニッポンバレー築いた松平康隆さん死去