ミュンヘン五輪での鬼監督のイメージから、松平さんは世間から厳しい指導者と思われていたかもしれない。1987〜89年にかけバレーボールの担当記者をした私の印象も最初はそうだった。
当時は専務理事としてジュニアの育成に力を注いでいた。取材に訪れると、後に全日本で活躍する有望選手たちへ、まるで自分の孫に接するようなまなざしを向けている松平さんがいて、イメージとのギャップに驚かされた記憶がある。
ニックネームをつける名人で、誰からも覚えられ、好かれるあだ名をよくプレゼントしていた。「桃太郎」と名付けてもらったのは、高校卒業とともに注目を集め、北京五輪まで20年間にわたって日本代表に選ばれた荻野正二。短い髪と優しい顔は引退するまでトレードマークで、松平さんが見込んだ通りに日本を代表する選手になった。
バレーへの厳しさは人一倍だが、いつも何処か柔らかい視線。ミュンヘン五輪の6年前に、小学5年生で息子さんを亡くした悲しみと無縁でなかっただろう。89年の世界ジュニア選手権の取材でアテネに同行した際、おしどり夫婦の俊江夫人とともに、美しい海を望むレストランへ誘っていただいた。
「生きていたら、君ぐらいの年齢だなぁ」
急に亡くした愛息の思い出を語り始めた松平さんの声が遠く聞こえ、エーゲ海を行き交う船が止まったように見えた。よく「ファミリー」という言葉を使い、日本バレー界をまとめ上げてきた松平さん。その父性が垣間見えた気がした。(サンケイスポーツ元バレーボール担当、現レース部編集委員)
(紙面から)