2001年12月に海上保安庁の巡視船と銃撃戦の末に沈没し、翌年9月に引き揚げられた北朝鮮の工作船は高張力鋼を使い、25ノット(約46キロ)を超えると抵抗が急激に少なくなる船型を持つ特殊な「専用船」だった。
05年3月に「海洋セキュリティーに関するフォーラム」で海上保安大学校の日當博喜教授と寺本定美教授(発表当時)が発表した工作船の学術的分析をもとに工作船とはどんな船だったのかを振り返ってみた。【米田堅持】
工作船の船体には高張力鋼が使われていた。溶接などに高度な技術が必要で加工は難しいが一般的な鋼材の1.5倍ほどの強度を持つ。フレームも漁船などとは異なる構造を持つことから、建造当初から工作船以外の用途が考えられていない船だったといえる。水面から出た部分は古いタイプの日本のマグロ漁船に似せていたが、水面下はナイフのように鋭いV字型になっており、平たい船底を持つ漁船などとは大きく形状が異なっている。また、波返し材も大きく安定性よりも高速性を重視されている設計となっていた。
船底後部にある段差は、競艇のボートのようにステップを設けることで抵抗を減らし、高速で走りやすくするためのもの。船尾には空気を取り入れるためのパイプがあり、高速航行をするときに、水面を滑走する船体に上部から船底に伸びたパイプから空気が入ることで抵抗を軽減する。25ノット(約46キロ)を超えると抵抗が急に少なくなって高速航行が可能となっていた。また、船尾部分が成分と強度が微妙に異なることから、子船を高速化して大型化した際の「増築」に合わせて後から継ぎ足されたものと推測されている。
エンジンは最大4800馬力を発生するロシア製で4本のスクリューを動かしていた。スクリューに刻印された日付のうち新しいものは1998年9月13日。覚醒剤密輸に関わり、98年8月7日に海上自衛隊が撮影した第12松神丸と同一の船と断定されているが、撮影されたことを受けてエンジンやスクリューを換装して性能改善を図った可能性が高いという。
船体各所には燃料タンクが配置されており、総トン数44トンの船体におよそ24トンの燃料が積まれていた。航続距離は33ノット(約61キロ)の速力で1200マイル(約2200キロ)で、北朝鮮の清津と新潟を余裕で往復できる量に匹敵する。追跡当時の7ノット(約13キロ)であれば3000マイル(約5556キロ)も航行することが可能だった。
右舷側放水口は、おおむね60センチ間隔で並んでおり、建造当初にきちんと造られたためか、開口部は角が丸くきれいな形をしている。一方、左舷側の放水口は後から板を溶接してから穴を開けたような形跡が随所にみられるなど、角にも丸みがなく間隔も右舷と異なり不ぞろいで加工に粗さが目立っている。右舷と左舷で放水口の間隔や形、穴の開け方が異なる理由ははっきりしていないが、引き揚げ後に第12松神丸の写真と工作船を比較した結果、右舷側放水口の間隔や位置がほぼ一致したことから同一船舶と判断する決め手となった。
海上保安大学校国際海洋政策研究所が、工作船の模型を製作した水槽実験では、波高2メートルでも10ノット(約19キロ)以下でしか走れない構造であることがわかった。工作船発見当時の波高5メートルでは航行困難な状態で、高速で逃走しなかったのはエンジントラブルよりも構造的な問題によるものが大きかったと確認された。
後部には子船を出し入れするための観音扉があるが、工作船であることが外部からは、わからないように扉のちょうつがいは内側に取り付けられている。扉中央付近に縦に走っているパイプは、トイレとして使用されていたという。子船を出し入れするときが、もっとも船体が不安定な状態になるため、荒天では子船の出し入れはできなかったとみられている。第2機関室と子船区画の隔壁が爆発で破壊されていたが、隔壁が破れて機関室に水が入ると瞬時に沈没してしまう構造になっていた。
操舵(そうだ)は、油圧や電動ではなく人力でワイヤーを通して操作する原始的なもので海水が直接かかる甲板上にワイヤーが走っている。トラブルが発生しても簡単な工具で走りながらでも修理することが可能なメンテナンス性を重視した設計だと考えられている。44トンもの大きさがありながら乗組員の居住区画はほとんどなく、文字通り「工作専用船」であったことがうかがえる。
日當教授は「他国で建造したことは否定できないが、北朝鮮にはロシアをはじめ東欧諸国に留学した経験を持つ技術者が多数存在すると考えられる。肝心な点には徹底して力を入れる重点志向があることなどを考えると、他国から輸入した材料を用いて自国で建造したと考えるのが、一番妥当ではないか」と話していた。