運営母体 | 刈谷市 管理者としてアイシン開発制作が指定されている |
住 所 | 〒448−0812 刈谷市高須町石山2−1 |
電話番号 | 0566−29−4330 |
休館日 | 月曜日(祝日の場合はその翌日)、年末年始 |
開館時間 | 午前9時〜午後5時(レストランは午後9時まで) |
入館料 | 無料 |
備 考 | 2007年4月開館の新しい博物館。 |
アクセス | 公共施設連絡バス小垣江線「フローラルガーデンよさみ」バス停下車 |
HP |
フローラルガーデンよさみの HP 電気興業株式会社の HP |
概 略 |
長波送信施設の博物館。戦前〜戦中にかけて無線電信を行った送信施設。 戦後はアメリカ軍が潜水艦との交信に使用しました。 建物は2006年に壊され、内部の設備の一部がこの記念館に保管展示されいる。 |
愛知県ではここでしか見られない展示 | 長波の送信施設は愛知県だけではなく、日本、世界でも珍しい施設でした。 |
ひとこと |
建物やアンテナなどほとんどが壊されてしまったのが惜しい。 しかもつい最近のできごとなので さらに残念。 スウェーデンの送信施設が世界遺産になったとのことですので、それと同等の価値を持っていたと思います。 確かに広大で大きな敷地や建物なのでそれを維持するのは困難であることは理解でいるのですが、廃墟でもよかったのでそのままの状態で残してほしかった。 日本の近代化遺産は社会的にはまだまだ地位が低い。 内部の設備だけでも残され、展示されているのだけでもよしとすべきか。 |
備 考 |
刈谷市役所南東3キロぐらい
正確な場所は ここ です。
▲博物館は依佐美送信所の送信局舎をモデルにスケールダウンした建物
昭和初期の無線電信黎明期に作られた無線局の設備を展示した博物館です。
依佐美送信所は欧州と無線交信を行うために長波を送信するために作られた巨大な施設。
その当時の送信能力は世界中のどの大電力送信機をもしのぐものです。
戦後は米軍施設として潜水艦との交信に使われました。
高い鉄塔のアンテナは遠方からも見えたので その印象的な風景は覚えている方も多いでしょう。
博物館の施設はそのアンテナの位置のすぐ近くです。
▲現在の博物館の展示室
大きな送信施設が並ぶ。電波施設というよりも発電所のような雰囲気となる。
「明治以来わが国の対外通信は、欧米の電信会社の所有する海底電線によらなければならず、このような対外通信施設の不備は、外交上・通商上の不利益をわが国にもらした。
こうした見地から、無線通信による国際通信の整備が提唱され、大正14年3月 帝国議会において「日本無線株式会社法」が成立し、これに基づく新会社が世界の主要地域と直接無線通信のできる施設を建設することとなり、対欧送信所はここ依佐美(当時愛知県碧海郡依佐美村)に、受信所は四日市郊外(当時三重県三重郡海蔵村)に設けられることとなった。
依佐美送信所は大電力の長波送信所として設計され、昭和2年7月に着工、4年3月に完成した。
送信所にはドイツ製テレフンケン式長波送信装置と高さ250mの当時としては東洋一の高さを誇る鉄塔8基に懸架した壮大なアンテナが設置された。
空中線出力700キロワットは長波としては世界最大のものだった。
この8基の鉄塔は2列(間隔500m)に4基ずつ(間隔480m)設置され、相対する鉄塔間に張られた4本の架線に逆L字型アンテナと称される長さ約2000メートルの16条のアンテナ線が吊り下げられました。
接地には多重接地法が採用され、アンテナの下の全域に埋設された。
鉄塔と送信所建設に要した資材の量は7万トン。
これを運搬するため三河鉄道小垣江駅から建設地付近まで臨時に専用引込線が敷設されました。
昭和4年に3月 全ての工事が完成。4月18日盛大に開所式が行われ、わが国とヨーロッパ間の直通通信が開始された。
これは外交上および通商上の画期的躍進であった。
第二次大戦中、長波の送信施設は専ら日本海軍の運用にゆだねられ終戦に至りましたが、昭和27年7月から米軍に提供され運用が再開された。
平成6年8月の東西冷戦の終焉により全面返還となり、平成9年3月にアンテナ、鉄塔塔の撤去を完了した。
こうして70年にわたって三河平野にそびえ立ち、地元の象徴として親しまれてきた鉄塔もその使命を終え姿を消した。
ここに往時の雄姿をとどめるものとして、実物を10分の1の高さ25mに短縮し保存する。」
▲アンテナと鉄塔
依佐美送信所は国家により設置されたその当時の最重要施設。
たいへんな費用をかけて最先端技術を用いて建設されました。
そして、戦争。 数奇な運命のもと持ち主や目的が変わり、紆余曲折の末に初期の施設が残されたものでした。
大正14年(1925)10月20日対外無線電信を取り扱う日本無線電信株式会社が国策会社として発足。
既にヨーロッパでは無線通信のネットワークが構成されていました。
翌、1926年に日本無線電信株式会社によって設計され、 ドイツのテレフンケン社およびその日本の関連会社である日本無線電信株式会社によって製作、設置された。
フランスのSFR社の無線設備と合わせ検討された。
昭和2年(1927)には施設の建築資材や設備の搬入のために臨時専用鉄道が敷設された。
国鉄刈谷駅から三河鉄道小垣江駅に乗り入れ、さらに建設現場までのルート。
建設工事は1927年(昭和2年)2月から始められた
2年後の昭和4年3月に竣工。4月からはさっそくワルシャワに向けて送信業務が開始されました。
長波は直進性が弱く回り込むような挙動をするため地球の裏側にも電波が届いた。
計画が立てられた頃には長波が長距離無線通信の主流になると考えられていました。
しかし、雑音の影響を受けやすく、情報量が少なかった。
夏の間は空電のために通信できない時間も多かった。
波長の理論では地球の裏側に届くことはないはずの短波が、電離層という電波を反射する層があり、地表との反射を繰り返すことで安定的に遠距離にも使えることがわかってきました。
短波ならアンテナも送信設備もずーと安く設置することができました。
時代は折しも長波から短波へと移行していて 巨額の費用を使った設備が完成する頃には長波は既に時代遅れのものとなっていました。
実際に完成した後も多くの電文が短波で送られ、長波は補助的にしか使われなかった。
依佐美の設備の性能は
空中線出力は500KW。
英文で500字/毎分の送信が可能でした。
日本語なら250字/毎分程度でしょうか。
ちょうどパソコンで文字を打つようなスピード。
長波は信号速度が遅いという欠点を持っていましたが、短い文章ならけっこう使えそう。
一度は主流から外れた長波ですが、海中にも届くため潜水艦の通信手段に最適なことがわかり再び使われるようになります。
海中では唯一の通信手段でした。戦後 米軍の設備として使われたのはこの理由によります。
潜水艦では何千メートルもあるアンテナを海中に曳き電波を受けた。
潜水艦に対しては今でも長波が使われています。
太平洋戦争の時には潜水艦部隊に対し「ニイタカヤマノボレ」が送信されました。
昭和22年に無線塔の解体命令がGHQより出た。
同時に国際電気通信株式会社も国策会社であるとされ、解散命令が出された。
依佐美送信所も閉鎖。
閉鎖中に 短波施設は全て撤去されましたが、巨大な長波の施設はそのままの状態で残りました。
昭和25年(1950)撤去命令の3年後に撤去の中止指令。米軍が依佐美を接収しました。
昭和31年(1956)からは日本電気興行株式会社に保守点検業務が移管されました。
昭和44年(1969)からは発電機式に加え真空管方式の施設が設置されました。
米国コンチネンタルエレクトロニク社製の250kW送信設備です。
翌 昭和45年からは従来のモールス通信(AI方式)からテレタイプ方式のFSK通信に変更されました。
潜水艦用の軍事指令なので暗号で、信号は受けることはできても訳がわからない音が聞こえるだけでした。
平成5年(1993)に送信中止。長い間電波を出し続けていた依佐美の設備もとうとう使われなくなってしまいました。
意外と最近まで使われていたことに驚きでしょう?
平成6年(1994)に施設全体が米軍より日本に返還。
保守、点検業務を行っていた日本電気興行株式会社が所有することになりました。
電気興行株式会社刈谷工場 および 子会社のデンコーテクノヒート株式会社刈谷工場となりました。
工場として使われたようですが、本館や送信設備はそのままの状態で保管されていました。
平成9年(1997)にとうとう鉄塔が撤去されてしまった。
その後 本館、送信局舎も老朽化で維持できず、壊されてしまいました。
▲送信設備の回路図。
シンプルな回路ですが、ひとつひとつの要素が大きいので 巨大な施設となってしまいます。
▲主誘導電動機 と 直流発電機
巨大の交流モータと発電機。
いったん直流電気を得るために交流モータで直流発電機を回す。
直流発電機の仕組みは軸に取り付けられた整流子とブラシを使うことで交流の山の部分だけを切り出す。
局(ポール)の数を数百にすることでできるだけ滑らかな直流を得る という仕組み。
交流を整流して直流にすればすむことなのですが、大電力を整流する方法がその当時はなかったのでしょう。
そこでわざわざ交流モーターで直流発電機をまわし、直流を得たのです。
ただし、モータも発電機も効率は意外と良いので、電力はそれほど無駄にはならない。
シンプルで合理的な方法です。
主誘導電動機は商用電源でまかなわれ、依佐美変電所を新設し、三相交流 3,300V 最大 1,000kW が供給された。
それを使って直流発電機により800Vの直流電気が作られます。
▲主直流機励磁用電動発電機
コイルで構成されている発電機と電動機の電磁石を作るための電気。
通常の発電機では いったん電気が起これば それを使って電磁石を維持させるが、
これは始動時だけでなく、運転中も電機を起こし続けるようだ。
後にあるように、励磁用の電流を抵抗器でコントロールし、主発電機と主モータの磁力を変化させ、 回転数をコントロールしました。
▲水抵抗器
主誘導発動機の起動時に過大な電流が流れるのを制御するため、水が持つ電気抵抗を使った抵抗器。
電極の距離を変えることで 抵抗値を変えるようになっている。
▲直流モータと高周波発電機
直流発電機で作られた電気は直流モーターを回し、それに直結された高周波発電機を回す。
直流発電機と直流モータは原理的には同じものなので、形も似ています。
なぜ、直接誘導電動機で直接 高周波発電機を回さないのかというと、回転数を制御したいから。
直流電動機は電圧または励磁電流により回転数が変わります。
交流の誘導電動機は電源の周波数によって回転数が決まってしまうので回転数を変えるのは大変です。
依佐美の直流電動機の回転数をどのように変化させたのかは詳しい説明はありませんでしたが、
おそらく励磁用の電気の電流を可変抵抗により変化させていたのでしょう。
重量は回転子だけで16tと言われていたが、実際は21tの重量があった。
回転子の直径1,870mm、幅1,100mm。
外周には高さ20mm、先端部幅8mm、256枚の歯(ポール)、すなわちコイルが付けられている。
▲送信機の発振器として使う高周波発電機。 これがメインの機械。
アレキサンダーソン式高周波発電機と呼ばれる。
通常 発信器は電気的な回路による電気振動を元にするが、長波は低い周波数なので機械的にこの高周波発電機で作る。
たとえば、交流電気はエンジン発電機などでは2極(Pole)の発電機を3,600rpm、または4極を1,800rpmで回し、60Hzの交流電気を作る。
これをどんどん極数を増やしてゆけば周波数が上がる。
依佐美の高周波発電機では256の非常に多くの極(Pole)を持たせ、1,360rpm で回転させる。
5,814kHzの周波数が発生する。
更にこの周波数をトリプラーという電気回路で3倍にして17,442Khzの長波とする。
▲送風機操作板
主直流機励磁用電動発電機操作板 ▲
始動時の過大電流を制限するための抵抗器が内臓されていて、始動後ノッチで徐々に抵抗を減少させる構造。
▲運転操作板
今ならディスプレーと簡単なボタンやマウスでコントロールでしょうが、その当時のアナログ感覚は実感があります。
▲周波数変更器(トリプラー)
仕組みがよくわからないのがこの機械。
展示の説明ではこのように書かれています。
「高周波発電機が出力する5,814Hzの周波数を3倍の17,442Hzにして取り出す装置。
本器は特殊な鉄心入り変圧器で、そのコイルに大電流を流して鉄心を磁気飽和させることにより入力信号を歪ませて3倍高調波を取り出している。」
説明からみるとこのように歪んで3倍周波数になるのでしょうか???
▲トリプラー磁化用電動発電機
起動時にコイルに400Aの大電流を流して鉄心を磁化させるための発電機。
トリプラー起動後は停止する。
▲コンデンサ
コイルと組み合わせて回路をつくるためのもの
かつてはもっと多い数で構成されていました。
▲高周波塞流線輪
高周波発電機が発射電波の影響を受けないようにするコイル。
木で作られている。狂いのない木工技術は日本の指物師によるものか。
コイルに巻かれている線はリッツ線といい、細いエナメル線を多数束ねてある。
▲信号用磁気誘導変更器
発射電波をモールス信号に従って断続させる装置。
形はトリプラーに似ていますが機能は異なります。
磁気飽和しやすい特殊な鉄心に信号用コイルと直流用コイルが巻かれた変圧器です。
直流用コイルに電流(13A)を流すと鉄心が磁気飽和し 信号用コイルのインダクタンスが変化する性質を利用している。
▲高周波塞流線輪
▲バリオメータ型高周波コイル
最適の共振状態を得るために微調整する必要があり、片側のコイルが台座ごと動くようになっている。
▲電流計
▲ローディングコイル
送信周波数を17,442Hz にアンテナを同調させるために設けられた巨大なコイル。
直径3mの木枠にリッツ線が23回巻かれている。
磁界による発熱を防ぐため 木枠には釘などの金属は使用されていない。
▲壁貫通碍子
▲コロナリング
高電圧・大電流の下では、導体の表面(特にボルト等突起物の周辺)が淡く発光(コロナ放電)して、電力が損失し、雑音が発生する。
このため、導体の直近に長幹碍子(コロナリング付)を取り付けこの現象を防止する。
▲モールス信号記録装置
▲入り口の門に掛けられていた告知用の看板
簡潔で明快な名文ですな
▲真空管式送信機に使われた 大電力出力用真空管
▲鉄塔台座
巨大な250m の鉄塔もこのような玉1つで支えられていました。
風などでゆれる鉄塔を たわんで支える構造としていたためです。
台座は碍子で地表からは絶縁されていました。
▲壊される前の無線局舎の作業机
米軍管理の時代も米国人が駐在したのは初期の頃だけで、昭和31年からは民間企業となった電気興行株式会社が管理を委託されていた。
取り壊し前の内部の写真を見てみると直前まで仕事をしていた様子です。
しかもエンジニア特有の「乱雑さ」がそのまま凍結されたような。
この机の持ち主の仕事は施設を維持すること。
昭和初期の古い施設を修理しながら毎日が過ぎてゆく。
新たな変革も必要ないし、許されない。
施設のことを熟知した頑固な老エンジニアがこつこつ修理しつづけていた姿を勝手にイメージしてしまう。
信号は米軍から送られるため送られている電信の内容は現場ではまったく理解できない。
冷戦の時代でも通信の中身に関する緊迫感はなかったでしょう。
開発日程だの、市場クレームなど一刻も早い対応を常に求められ、
同じことをやっていては競争に負ける開発最前線にいる現代の技術者から見るとずいぶん異質の世界のように見えてしまう。
この施設の中ではいったいどのような時間が流れていたのか・・・・
昭和2年に作られたこの長波の発信所は紆余曲折を経て、つい最近まで残されていたのです。
平成5年(1993年)までは電波を出し、稼動していました。
平成9年3月までは8本のアンテナを支える鉄塔がそびえていました。
その高さ250m。
その不思議な風景は国道1号線からも見えたので覚えている方も多いでしょう。
確かにこのような巨大な鉄塔をそのままの状態で保存するのは無理があったのでしょう。
使われず、役に立たなくなってしまったものをそのままの状態で維持するのは とてつもないエネルギーが必要です。
議論はあったようですが、撤去が決定されました。
ただ、せめて一部は残そうということでほんの一部だけがモニュメント的に残されることになり、
底部と頂部をくっつけて真ん中を切り取られた状態で残されました。
2003年には広大な平原の中にポツンと不思議な状態で立っていましたので、かえって保存の意味を考えさせられてしまったものです。
▲一部が保存されている鉄塔
▲8本あった鉄塔のうち、1本の下部が保存されています。
▲畑の中の規則的な位置に鉄塔の基壇が残されています。
良質な材料が使われたのでしょう。まったく頑丈な状態で残されています。
鉄塔の近くに依佐美送信所記念館が作られました。
2009年でもその状態です。クリスマス用にライトで装飾されてしまっていますが。
廻りに建物がたったのでちょっと雰囲気も変わりました。
2003年でも建物の多くは残されていました。
国の威信をかけて 当時の最先端技術を誇るような建物は古くなってもインパクトがありました。
本館 昭和初期の建物
内部には所長室、事務所を初め、宿泊施設までありました。
戦後はアメリカ軍が使用したりしたため、そのままの形で残され、細部まで当時のまま残されていました。
▲2003年当時は電気興業株式会社の所有となっており、普段は中には入れませんでした。
この電気興業株式会社は依佐美送信所が作られたときの運営を行った国策会社で、現在でも大規模に事業を営んでいます。
高周波の技術を活かして、自動車部品の表面処理や焼入れを行っていたのだそうです。
設備や建物をそのままの状態で残していてくれたのですが、持ちきれなくなって手放すことになったようです。
それを壊してしまうなんて・・・・
博物館をまわっていると建物や施設の古写真が展示されていて、昭和40年頃に破壊されてしまった などと説明されているものを見ることがよくあります。
高度成長期で、古いものの価値がよくわからなかった時代だからしようがないね。
なんてよく思ったりするのですが、そのような愚行がつい最近、世界遺産がもてはやされている時代に再び起こったことにちょっとびっくり。
この本館の雰囲気はフローラルガーデンよさみの管理舎として残されています。
サイズも、構造もまったく異なり、場所も本来のところではありません。
かえってニセモノ感があるため ちょっとさみしい。
このようなものを作るエネルギーと金があるなら、廃墟となってもよかったので本物を残しておいてほしかった。
次の世代の人たちにどうするかの決定をゆだねてもよかったのでは。
耐震基準だの設備の有効利用だのも理解はできるのですが、
引き継ぐべき「遺産」を壊してしまったのではないでしょうか・・・
▲送信局舎 送信施設のある建屋。
ここも直前まで残されていました。内部には機械がそのまま保存されていました。
巨大は碍子はアンテナへつながる部分。不思議な雰囲気を表現していました。
▲長波送信室内部
左右に2セット設置されている。保守点検などの予備として使われました。
この雰囲気だけが残されて依佐美送信所記念館になりました。
サイズも半分程度でしょうか
▲鉄塔
鉄塔はアンテナダウンリードと呼び、巨大鉄塔の上に張られたアンテナ16本のアンテナのうち8本を集め支え、送信所から出た碍子とアンテナの間を結ぶためのもの。
施設を囲む鉄条網もありました。
米軍時代は軍事施設だったのですから、このものものしさは当然でしょう。
かつてこれらの建物がたっていた場所は更地になってしまって何も残されていません。
▲更地となってしまったかつての本館と送信局舎のあった場所。
設備やアンテナの一部が残されているのは刈谷の市民たちの保存運動によるものだそうです。
それはすばらしいことなのですが、もう少し残らなかったのかと残念でなりません。
スウェーデンの同様の施設はアンテナまで含めて今でも機能する施設です。
依佐美の施設が世界遺産になるためにはあの巨大なアンテナも敷地もそのままであった必要があると思いますので、ちょっと無理だったかもしれません。
しかし、20年後には今の決断を悔やむ時がくるような気がします。
続く