1972年ミュンヘン五輪バレーボール男子で日本の監督として金メダルを獲得し、日本バレーボール協会会長、国際バレーボール連盟副会長としても多大な功績を残した松平康隆(まつだいら・やすたか)氏が昨年12月31日午後0時21分に肺気腫のため東京都の病院で死去した。81歳だった。東京都出身。葬儀は近親者で済ませた。
慶応大、日本鋼管で9人制のバックセンターとして活躍。日本鋼管では選手兼任監督も務めた。61年、ソ連へバレー留学。帰国して指導者の道を歩んだ。
64年東京五輪で日本男子のコーチとして銅メダルを獲得し、その後監督に就任。「世界制覇8年計画」を公言し、ミュンヘン五輪金メダルを目指した。
68年メキシコ五輪で銀。目標のミュンヘンではエース大古誠司、セッター猫田勝敏をはじめ森田淳悟、横田忠義、嶋岡健治らを擁して公約を果たした。ユニークな練習方法や時間差攻撃、1人時間差など画期的な戦法を編み出し、バレーの戦法に大革命をもたらした。団体スポーツでは、日本男子の五輪金メダルはほかに84年の野球(公開競技)しかない。
「人気が実力を高める」を信念とし、男子バレーのブームを巻き起こすことにも腐心。厳格なアマチュアリズムが存在した70年代にあっては批判を浴び、第一線から離れた時期もあったが、復帰後は日本協会の専務理事、会長として手腕を発揮した。
国内ではテレビを巻き込んでブームを演出。国際舞台では日本が世界各国へのバレー普及に貢献した実績とジャパンマネーを背景に発言力を強め、ワールドカップ日本恒久開催などに尽力した。
FIVB副会長、アジア・バレー連盟会長、日本オリンピック委員会の要職も歴任した。2001年から日本協会名誉会長。著書に「負けてたまるか」など。
[時事通信社]