さようなら竜生 こんにちは人生21
ガロアに在る魔法学院への入学の選択は、私の中で決して軽々しく決められるようなものではない。
これまで誰に習ったわけでもない、私にできる筈のない事もガロアの魔法学院で学んだと言えば使えるようになる事、魔法学院卒業生と言う経歴、学院生活の間に作る事の出来る人脈、魔法学院に所蔵されている膨大な書籍をはじめとした知識。
私が魔法学院に籍を置く事で得られるものが、さっと考えつくものでもこれだけある。
どれ一つをとってもほとんどの人間が得る機会にさえ恵まれないものばかり。
確かにこれは現状の私からすると咽喉から手が出るほどに欲しいものばかりで、魔法学院入学で得られるものだけを見る事が出来たなら、私は喜び勇んで、あるいは涎を垂らして入学の誘いに飛びついたことだろう。
しかし、魔法学院入学によってベルン村から離れなければならないと言う一点が、魔法学院入学という餌に飛びつこうとする私に二の足を踏ませる。
家族を持たなかった竜の前世と違い、血の繋がりのある父母と兄弟を持った今世では、私自身が意外に思うほどに極めて強い愛着を家族に対して抱いている。
その想いは歳月を経るにつれて強さを増しており、おそらく、いや間違いなく生涯強さと深さを増してゆくに違いあるまい。
かような次第であるから一年かあるいは二年か、村を離れるとなれば果たして私はどれだけの寂寥と望郷の念を抱く事になるのか、自分の事でありながら私にはまるで予想が着かなかった。
だから私の精神の均衡を保つ為には、せめてセリナやディアドラ、リネット達には使い魔と言う体裁を整えてでもガロアに共に行き、傍に居て欲しいと心底から願っていた。
幸いにしてデンゼルさんとその同僚であるガロアの魔法学院教師ヴェイゼさんから、魔法学院入学にあたっての話をしている最中に、セリナ達にはその話を中継し使い魔の件については了承を得られている。
私は一旦セリナ達の家に戻って一応の確認を取る為に話をしていた。
家の扉を開いてすぐの場所が、セリナ達が食事を取る為の空間で中央に六人ほどが席に着けられるテーブルがあり、今私達はそのテーブルを囲んでいる。
セリナはデンゼルさん達の訪問を受けてこの家を出た時は、年に一度の脱皮による疲労の色が濃かったが、別れ際に私が注ぎ込んでおいた活力の影響もあって、ほぼ普段通りにまで回復している様子であった。
私とディアドラとリネットは椅子に腰かけ、セリナは蛇の下半身でとぐろを巻いて椅子の代わりにしている。
テーブルの上で白い湯気を吐いている夕焼け色の水面のフラワーティーは、ディアドラが丹精込めて育てたある花の花びらを乾燥させて淹れたものである。
ディアドラはこの花以外にもマグル婆さんと共同で、何種類かの医療用や飲食用の植物を育てている。
樹木の精霊であるドリアードが、とはもうこれまで何度も思った疑問だがディアドラに気にする様子はないし、二杯目を手ずから淹れて飲んでいる始末であるから、この際もう何も言うまい。
私も一口フラワーティーを飲んで口の中と咽喉を潤してから、セリナ達に話を切り出した。
ゴーレムとその主としての契約を既に結んでいるリネットは別として、ガロアに共に行くにはセリナとディアドラとは使い魔の契約を結ばねばならない。
「三人に聞いてもらっていた通り、私は魔法学院入学試験を受けようと思う。無論受けるからには合格するつもりだ。
さしあたって可能な限り早く卒業するつもりだが、期間が具体的にどれだけの時間になるかはまだ分からない。
だがその間セリナとディアドラには私の使い魔として傍に居て欲しい。お願いする。正直、村から離れる上にセリナ達とも離れ離れになるのは、耐え難い」
セリナ達に対して初めて心底からの弱音を吐いたのは、間違いなくこの瞬間だった。
自分でも信じられないほどの精神の脆弱さに、私としても情けないことこの上ないのだが、体裁を気にする余裕がこの時の私にはなかったし、セリナ達には私の弱さを見られても構わないと心のどこかで思っていたのである。
セリナとディアドラは、私のこの態度が意外だったのか揃ってそれぞれの美貌をきょとんとしたものにして、お互いの顔を見つめあっていた。
炎の悪霊たちを前にした時や、ゴブリンの襲撃を受けた時にも風に柳とまるで動じる事の無かった私が、生まれ故郷から離れるというだけでこれほど弱っているのが、意外だったのだろう。
自分自身でも意外に感じているほどなのだから、無理もない事である。
「貴方がこの村の事が大好きで、強い愛着を持っているのは知っているつもりだったけれど、なんていうのか、そこまで弱るっていうのかしら? 困っているのは驚きだわ」
ディアドラがまじまじと私の顔を見ながら言うのに、セリナがこくこくと首を縦に振って同意である事を示す。確かにディアドラの言う事はご尤もである。
悪意を持って迫ってくる相手ならそれが破滅を司る大邪神や、銀河崩壊程度の自然現象の類ならば、私の力技で鼻歌を交えながらでも解決して見せるが、今回の様な事態にはとんと解決の妙法が思いつかないので私はすっかり弱り切ってしまう。
少し、いや大いに人間の感性に私が染まってしまった証拠なのかもしれない。
竜として生きた時間に比べれば、人間として生きた十一年は認識できない様な短い時間に過ぎないと言うのに、我ながら人間の感性に馴染み過ぎと言うほど馴染んだものである。
楽しんでばかりいた人間としての今世であるが、思わぬ弊害が見つかってしまったと言う他ない事態に、自分でも知らぬ所で溜息を吐く。
「あ、でもドラン様の使い魔になる事はなんの問題もありませんよ。お会いした時からずっと私の身も心もドラン様のものですから」
「私はそこまでではないけれど、貴方達と出会ってからずいぶん楽しくやらせてもらっているし、魔法学院にも付き合ってあげるわよ。私が離れてもベルン村に掛けてある大地の加護に問題はないしね」
ディアドラが栽培している植物や私の管理している小さなオイユの実の畑の管理は、村の人か家族に頼まなければならないだろうが、そう大きな畑ではないからそう手間もかかるまい。
「リネットはマスタードランのゴーレムですから、使い魔でなかろうともどこまでもお傍におります。ただシグルド達は村に置いて行くべきかと」
三者三様に朗らかに笑みながら告げてくれるその内容に、私は良い縁を得たものだと胸の詰まる思いであった。
予め了承の返事を思念の会話で伝えられていたとはいえ、やはり直に答えてもらうと感慨と感動もひとしおである。
鼻の奥がツンとしそうになるのを堪えて、私は心からの笑みを浮かべていると自分でもはっきりと自覚しながら、礼の言葉を口にした。
「本当にありがとう。三人に傍に居て貰えるのなら、とても心強いよ」
「ドラン様に喜んでいただけるなら、私はそれだけで十分です。でも、私達はドラン様と一緒に行けるから良いですけれど、アイリちゃんは納得しているのですか? まだ説明していないなら、その、説得するのはものすごく大変だと思いますけれど」
私がベルン村を離れるという話を聞いたアイリがどのような反応をするかを思い浮かべ、私はふむぅ、と苦いものを交えた呟きを咽喉の奥で零す。絶対にごねる。アイリならごねる。ごねるに決まっているのだ。
「セリナの言うとおりねえ。ミルはちょっと渋るかもしれないけど、それでもミルとリシャなら、貴方の意思を尊重してくれるでしょう。でもアイリはねえ。あの子は泣き喚くのではないかしら。かなりの強敵に違いないわよ」
「リネットもセリナとディアドラの意見に同意します。マスタードランはアイリをいかにして納得させるか、お考えになるべきだとリネットは進言致します」
「三人に言われぬとも分かってはいるとも。アイリばかりは腰を据えて説得しなければなるまい。
幸い私の父母には既に話しはいっていたし、ディラン兄やマルコが私を引き止める事は特にないだろうからな。
実質アイリの説得がベルン村を離れるにあたっての、最後の大仕事になるだろう」
私はかつてない強敵を前にした緊張感を覚え、表情を引き締めながら腕を組み、うむと頷く。
とはいえ実際どうしたものか。そんなほいほいと妙案が思いつくのなら、いまごろベルン村はとっくに私が思い浮かぶ繁栄の光景になっていただろう。
竜と龍の頂点に君臨する古神竜である私だが、実の所私を含めた他の古神竜や古龍神はあまり頭がいいとは言えない。
少し考えれば分かる事だが、始祖竜の頭部から産まれたバハムートを除いた私達は、翼や尻尾、心臓などから産まれている。つまり原型となった始祖竜の部位には知性を司る脳がないのである。
各部位が独立した生物に変化した為に臓器や脳など生物として必要な部位を一通り得たが、そこはそれ、元が尻尾やら目玉であったので頭の出来がお世辞にもよろしいとは言えないのだ。
いや知性が低いというと語弊があるか。思考に偏りがあるというほうが正確かもしれない。それに生物としての格が桁外れであるから、人間や亜人などよりは知能は高いし知識も莫大だ。ただまあ頭は良いけれど馬鹿というべきだろうか。
翼から産まれたヴリトラは年がら年中飛び回っていれば幸せという飛翔狂だし、尻尾のヒュペリオンなどは日長寝て過ごしてばかりいて、私を含めた始原の七竜の内六柱は面倒事や頭を使う事を、全て一番頭のいいバハムートに押しつけていたのである。
思い返してみるとバハムートには本当に申し訳ない事をしてしまった。なまじ知恵と機転が利くだけに、私がまだ竜界に居た頃は竜族の面倒事はほとんどバハムートに集中していたのである。
面倒くさがらずに昔から頭を使っていれば、アイリを説得するだけの理が思いつきもしたかもしれないが、いまさら過去を振り返ってみても現在を変えられないので仕方がない。
私は取り敢えずアイリの説得と言う大難事を思考の中の棚にしまいこみ、使い魔の契約を結ぶ儀式を行う為に、またマグル婆さんの家で待っているデンゼルさんの元を訪ねた。
お互いが予め同意の上で使い魔の契約を結ぶのだから儀式それ自体は滞りなく済むと思うが、使い魔の契約の中に主人の命令に絶対服従や、セリナ達の思考に影響を与える効果があったならそれだけは事前に削除するつもりだった。
私がセリナ達と一緒にマグル婆さんの家に顔を見せると、デンゼルさんは思ったよりも速い戻りであったのか、少し驚いた顔をした。
セリナ達に使い魔になって欲しいと言う私の願いに対して、了承を得るまでに時間がかかると思っていたのだろう。それはそうだ。
セリナもディアドラも確たる自我を持った個人である以上、魔法使いの所有物にも等しい扱いをされる使い魔になる事をすんなりと了承するなど、私達の本当の関係を知らねば想像する事も出来ないだろう。
デンゼルさんはしげしげとディアドラ達を見てから、私達をマグル婆さんの調合棟へと案内した。使い魔の契約を結ぶ儀式の準備は、調合棟で行われているらしい。
「随分早い戻りだったな。リネットくんはまだしもセリナくんとディアドラくんはドランの使い魔になっても、本当に構わないのかね?」
いつもと変わらず黒猫のキティが日向ぼっこをしている調合棟の扉をデンゼルさんが開くと、様々な魔法薬の材料の匂いが混じり合う空気が、私達を包み込む。
中にマグル婆さんの姿はおらず、代わりにいつも部屋の中心に置かれているテーブルがどかされて、壁際に追いやられている。
先にデンゼルさんに答えたのはディアドラだった。肌理の細やかな肌と融け合う木々が覗く特徴的なドレスを纏う、半人半樹の美女は少し悩む素振りを見せて口を開く。
「そうね、少しは考えたけれど私の場合この村に来た切っ掛けはドランだし、フレイムランナーから助けてもらった借りもあるわ。人間の寿命は私からすれば短い時間に過ぎないし、一度くらいは使い魔になってみるのもいい経験じゃないかしらね」
「私もディアドラさんと同じような理由です。ただ私がドラン様と一緒に居たいと言うのが一番ですけれど」
セリナが恥ずかしげもなく堂々と言うのに、デンゼルさんはまじまじとセリナと私の顔を見つめる。
この一年の間に村の人達にはセリナが私に向ける感情について、とっくに知れ渡っているが、普段ガロアで暮らしているデンゼルさんにとっては目と耳を疑う様なものだろう。
「これはヴェイゼの言う通りドランは本当にモンスターテイマーの資質があるのか? う、む、まあこの際都合が良いか」
私がどうやってセリナ達と最初仲良くなったかについて、口が裂けても言えない以上はデンゼルさんの勘違いを正す事も出来ないので、私は口を噤んでいた。
「うぉっほん、とにかくだ。セリナくん達がドランの使い魔になって貰えると言うのならありがたい。これでドランの学院入学前に箔が着けられるからな。
とはいえだ。万が一にもドランが試験に落ちた場合には、すぐに使い魔の契約を解約出来るようにしておくし、二人にはしばしの不自由と思って我慢して欲しい」
ふむ、魔法学院入学の為に一時的に使い魔契約を結ぶのだから、私が入学できない時や卒業した時には、使い魔契約を解約するのが筋と言うものであろう。
試験は受かるつもりでいるので、試験に落ちた時の事は考えておらぬが、卒業した後はやはりデンゼルさんの言う通り契約の解約をしないといけないな。
まあ今の関係とそんなに変わらない様な気もするが。
「なんならドランの試験の結果が出てから使い魔の契約を結ぶか? ドランの合否を待ってから結んでも別段遅すぎると言う事はあるまい」
確かに使い魔になったが私が試験に失敗して不合格になっては、余計な手間が掛るから私の合否を待って使い魔の契約を結ぶ方が堅実である。
しかしながら不合格になどなるつもりは私には欠片もなかったし、ヴェイゼさんやデンゼルさんの反応、それにガロアの魔法学院の裏事情を鑑みればよほど無残な成績を試験で残さぬ限りは、私の合格は半ば約束された様なものであろう。
「デンゼルさん、使い魔の契約にはセリナ達の意識を変える効果はあるのかな? 出来ればそういう効果がないようにしたいのだけれど」
「なるほど、確かにこの一年の間、村でなんの諍いも起こさなかった彼女らの事を考えれば、お前がそういうのも分かるがそれは出来ん相談だ。
決して人に懐かない様な猛獣や魔物が使い魔であれば、村や町に入れるのはまがりなりにも使い魔化することで、主人の命令に絶対服従となるからだ。人の言う事を聞くからこその使い魔なのだ。完全な自由意思を残したままでは意味がない」
デンゼルさんの言葉に私の顔は即座に渋面を作ったことだろう。セリナ達の意識を多少なりとも歪めてしまう事は、私にとって強い禁忌の念を抱かせるものだ。
そこまでしてセリナ達を使い魔にしたくはないというのが、私の偽りのない感情の叫びであった。
ここは一度契約を結んだ後、誰にもわからぬように竜語魔法で使い魔契約の内、セリナ達の意識に働きかける術式を書き換えるか、削除しなければなるまい。
私の不満の色を見て取ったデンゼルさんは私を宥めすかすべく口を開く。
「ドランよ、どうしてもセリナくん達を使い魔にして意識に左右するのが嫌というのなら、一人で魔法学院に来る覚悟を決めるのだ。
一人で魔法学院に行くのは嫌、セリナくん達を使い魔にするのも嫌では話にならぬのだよ。ドラン、魔法学院で得られるものの為に、お前もある程度の代償は支払わねばならんのだ」
「分かりました。使い魔の契約に相手の意識に作用する効果がある事は書物で知っていたし、ここに来る前にセリナ達と話もしていたから、ものすごく嫌だけど分かりました」
「分かったと言う割にはまったく分かったと言う顔をしておらんな。言葉づかいはいくらかましになったが、お前はもう少し感情を隠す事を覚えておかねば不味いな。
まあ使い魔の契約はそうたいして手間のかかるものではない。今、ヴェイゼを呼んだから彼女が来たらすぐにでも始めよう。
両者の合意が得られている状況でならば、万が一にも失敗はしないしな」
言葉使いの次は表情か。普段表情の変化に乏しいと言われる私だが、嫌な事と嬉しい事があった時にははっきりと顔に出る癖がある。
それを治せと言われても一朝一夕では難しいものだ。デンゼルさんの注文にはややげんなりとする所があったが、これも村と村の皆の将来の為と私は不平を飲み込む。
言葉使いの方ももっと丁寧なものに直さないといけないのだろうし、いやはや魔法学院で過ごす時間は私にとってなんとも肩身の狭いものになりそうである。
だがそれも良い経験になるだろう。何事も前向きに考える方が人生を楽しむコツだと、最近私は学んだ。
デンゼルさんが使い魔かあるいは思念通話の魔法で呼んだヴェイゼさんは、ほどなくしてマグル婆さんの調合棟を訪ねて来た。
先ほど別れたばかりだが、セリナ達との使い魔契約の交渉が二人の想定をはるかに超えて早く済んだせいだ。
デンゼルさんとヴェイゼさんからすれば今日一日くらいは私達が話し合うと考えていただろう。
宿に戻っても碌に休む暇もなかったであろうヴェイゼさんは、やや小走りで来たのか髪の毛が幾本か乱れてはいたが、調合棟の扉を開いた時に特に息を乱している様子はなかった。
ヴェイゼさんは扉を開いてすぐに魔物であるセリナ、ディアドラ、そして偉大な魔法使いの遺産であるリネットの姿に気付き、胡乱な知的好奇心の光を眼鏡の奥の瞳に強く輝かせて視線を彼女らに這わせる。
それは視線による凌辱の様な印象を与えるもので、初対面のヴェイゼさんから向けられる視線に、セリナとディアドラはかすかに不愉快そうな色を美貌に浮かべていた。
「こらヴェイゼ、三人に対し挨拶もなしにその様にまじまじと見つめるのは、礼を失する行いだぞ」
「あら、いけない。これは失礼をいたしましたわ。私、ヴェイゼと申します。デンゼル師と同じ魔法学院の教師です。
それにしても本当にデンゼル師や風の噂通りにラミアとドリアードが、人間に混じって暮らしているのね。
それにそっちの褐色の肌の子は本当にゴーレム? まるで人間そのもの、いいえ人間にしか見えないわ。何て素晴らしい技術なのかしら。後で私とお話ししない? こんな機会は滅多にないから色々なお話を聞かせて欲しいわぁ」
ヴェイゼンさんはデンゼルさんに窘められた先から、セリナ達にあの向けられた側の胸に不安のさざ波を起こさせる視線を這わせる。
まったく困った方だ。大方魔法学院に席を置いているのも、自分の知的好奇心を満たす為の絶好の環境だからなのではないだろうか。
デンゼルさんはそんなヴェイゼさんの様子に埒が明かないと思ったのか、ええい、と短く吐き捨てて、扉の所で立ち止まっていたヴェイゼさんの腕を取るや無理矢理部屋の中央辺りにまで引きずった。
「乱暴はよしてくださいな、デンゼル師」
「話を聞かぬお前が悪いわ。ドランがな、使い魔の契約の了承を取ってきた。これより契約の儀式を行うから、お前には立ち合ってもらいたい」
「まあなんて話の早い。とはいってもそれは大変喜ばしい事ですわ。魔法学院入学前からラミアとドリアードを使い魔にしている生徒なんて、学院史上なかった事です。これは話題を浚いますわよ」
そういうヴェイゼさんの瞳には今度は知的好奇心から、名誉欲をはじめとした欲望の輝きが宿っていた。
なんとも自身の欲求に素直な方である。この方のこれまでの人生には理性と欲望の葛藤など覚えた事もなかったのではないだろうか。
ヴェイゼさんは右手の中指で眼鏡のツルをくいと押し上げて正すと、いそいそとデンゼルさんの後ろに立って使い魔契約の儀式の見物に徹するようだった。
ディアドラとセリナはこの短い間のやりとりでヴェイゼさんに苦手意識でも頂いてしまった様で、さりげなく警戒の意識を孕んだ視線をヴェイゼさんに向けている。
これからガロア魔法学院で生活を送るとなると、自然と教師であるヴェイゼさんと関わる機会も増えるだろう。
そうなった時にセリナとディアドラは要らぬ苦労を背負い込む事になりそうで、少し気の毒だった。
さてヴェイゼさんとセリナ達の間にちょっとした溝が出来たのとは別に、使い魔の儀式は進めなければならない。
主と使い魔になる両者の合意がある以上、使い魔の契約を結ぶ儀式それ自体はそれほど難しいものではないはずだ。
私達が行ったのは第三者の仲介を経て、使い魔と主との間に精神的なつながりと、知識と五感と魔力の共有、主従関係を意識に刷り込む一般的なものである。
調合棟の床には真っ白い特殊な素材らしきカーペットが敷かれ、カーペットには蒼白く輝く塗料で魔法陣が描かれている。
普段マグル婆さんの授業を受ける時などには目にしない品であるから、使い魔の儀式用にデンゼルさんが持ちこんだものか。
私とセリナとディアドラがカーペットに描かれた魔法陣の中心に立つと、デンゼルさんが契約魔法を取り扱う知識を綴った魔道書を片手に、契約を司る神ラ・ヴェルタの御名の下に私とセリナ達の名を述べはじめる。
私とセリナ、ディアドラを包み込むように、足元に蒼白く光輝く円と契約神の神聖文字で構成される契約陣が床から浮かびあがり、何層にも積み上がりながら私達の周囲で激しく回転して明滅する。
明らかに部屋の中の空気が変わり、肌をぴりぴりと打つ感覚がしはじめる。ヴェイゼさんの瞳は光を反射して蒼白い光で染まる眼鏡のレンズに隠れて、伺う事は出来なかった。
果たしてこの使い魔の契約を結ぶ儀式を前に、自身の欲望を隠さない女性はどんな思惑を抱いているものか。
学院の評価を上げる為に私達を利用する程度なら、むしろ私達に在る程度の便宜も図るだろうから構わないが、あまり妙な事を考えないでくれると助かるがな。
眼鏡の奥に隠れて伺えないヴェイゼさんの視線であったが、顔の向きや瞳の辺りの筋肉の動きから察するに、どうも私に集中しているらしかった。
てっきりラミアとドリアードと言う魔物の二人に興味が向いているのかと思ったが、私が竜の転生体である事に気付いているわけでもないだろうから、なにか私に目を惹かれるものがあったのだろう。
優秀な生徒としての興味で済むのならいいが、このヴェイゼさんに対してはある程度警戒が必要かもしれない。
「契約の神ラ・ヴェルタの名の下に偽りなく違われることなき誓約をここに結ばん。小さき人間ドラン、呪われし蛇セリナ、肉の器に留まりし精霊ディアドラ、これら三つの魂に小さき人間を主とする主従の定めを与えたまえ」
デンゼルさんの詠唱が進むにつれて契約陣の放つ力の純度が増し、より高次元の力へと昇華されている。
私達の肉体ではなく魂へと主従の契約を結ぶ為には、通常の魔力では不足でありより高位の、量よりも質に優れた力が必要となる。
魔法学院でもこうして毎年生徒に使い魔との契約の儀式を施しているのか、デンゼルさんの詠唱や指の組合せで詠唱を代替する印の動きは滑らかなもの。
契約陣が七層に渡って分裂して私達の魂への干渉が始まっている。
デンゼルさんの詠唱と対価として支払われる魔力に応じて地上世界よりも高次の世界に存在するラ・ヴェルタが、地上世界にその力を降ろし始めたのだ。
「ふむ」
セリナ、ディアドラと来て最後に私の魂に干渉しようとしたラ・ヴェルタが、ひどく困惑している気配が感知できた。気付いたのは私だけ、か。
本来の古神竜の魂を人間の魂を模した殻で覆っていたが、流石に神の力によって魂に施される契約であれば、偽りの魂の殻くらいは気付くか。
ラ・ヴェルタはマイラスティとは別系統の神であるから、転生した私の存在を知らないはずだ。であれば私の本来の魂に気付けば驚くのも無理はない。
セリナの件で礼を言いに行って以来、マイラスティの所はもちろん神界そのものに赴いていないから、マイラスティから漏れぬ限りはラ・ヴェルタに限らず私の事を知る神々はおるまい。
いや、待てよ? 私の事が知られているかいないかとは別に、これはひょっとして私にとって都合が良いかもしれない。
私は礼儀として人間の魂の殻を脱ぎ捨て、古神竜の魂を剥き出しにしてラ・ヴェルタに語りかけた。
契約陣を通じての事であるから、実際に顔を突き合わせるわけではないので、思念だけのやり取りになる。
あまり面識のない相手であるが特に敵対した事もない。果たして融通をきかしてもらえるかどうか。相手の性格と交渉次第と言ったところか。
あまり難しいものにならぬと良いと思いながら、私は意識を人間相手のものから、竜として存在していた頃のものに切り替える。
“契約を司る神ラ・ヴェルタよ”
私の呼びかけに返ってきたのは、剥き出しになった私の魂の巨大さに戦慄きさえ覚えるラ・ヴェルタの思念であった。
マイラスティが言っていたが前世より弱体化したとはいえ、いまも私の魂は神の基準からみてもかなり強力であるそうだ。
ならば人間と魔物の間に結ばれる使い魔の契約の筈であったのに、そこにあったのが神々にも匹敵しよう強大な魂であったなら、ラ・ヴェルタに驚きの感情を与える位はできるのだろう。
“汝は……七彩と白を纏う竜の魂、まさか”
私の脳裏に届いたラ・ヴェルタの声は夜の静寂(しじま)に響く風の様に静かであった。
これが人間や亜人、妖精種など地上に生きる者たちであったなら、あまりに次元の違う
高位存在の声に触れて魂が慄き震えて気を失う位の反応がある所だろう。
ラ・ヴェルタは契約と言う行為とその管理を司る女神で、神界と地上世界の間に広がる次元の狭間に、自分自身の領域を作りだしてそこで自身の御名の下に結ばれた契約を管理している筈だ。
眷族たる下級神を持たず唯一無二の神として存在する女神であり、善神と悪神の間で起きた太古の大戦にも積極的には関わらずにいた中庸の立場にある。
“そのまさかでな。奇縁の果てに人間として生きる次第になっているのだ”
“理解。されど汝らの契約には支障なし。汝、契約を望むか?”
“然り。されどそなたに願いがある。私と彼女らの間に結ばれる契約の内、彼女らの意識に与えられる影響を無効にして欲しい。願わくはそれが他者にも分からぬように隠蔽もな”
“我に求められし契約の内容に齟齬あり。汝の望みは叶え難し”
“ならば私の求めによる新たな契約として望む。契約の対価たる魔力は私が供しよう。我らを対象とする一度目の契約の後、私の求める契約に沿った内容に上書きしてもらいたい”
デンゼルさんを介して結ぶ使い魔の契約を、さらに私が望む内容に上書きする、という私の要望に対し、ラ・ヴェルタはしばしの間を置いてから答えた。
“契約の上書き……了承。対価たる力は人の身なれば莫大なるも汝ならば支障なし”
“助かる。ついでといっては何だができれば私が転生した事は他言無用に願う。余計な諍いが生まれるのは私の望む所ではないのでな”
“承知。汝の存在は我の関わる所ではないゆえ。もとより我は他者と交わる存在に非ず”
“誠に助かる。感謝を。しかしそなたももう少し他者と交わった方が生を楽しめようぞ。私でよければ暇な時に話し相手位にはなるのでな”
“余計なお世話なり”
感謝の意と言葉をラ・ヴェルタに告げて、私は意識を戻した。ふむ、話してみると割と融通が利く相手だったな。
幸いなことであるがこれでデンゼルさんが結んだ使い魔の契約を、私の求めた契約が上書きしてセリナ達の意識に影響が出る様な事はないのだ。
「ふむ?」
私がラ・ヴェルタの交渉が実に順調に終わった事に気を良くしていると、デンゼルさんが訝しげな表情を作っている事に気付いた。
ふむ、どうやら契約が既に締結されるはずなのに、妙に遅い事を不思議がっているのだろう。
私とラ・ヴェルタが思念によって交渉を行っていたのは決して長い時間ではないが、順調に行く筈の契約締結に遅れが生じるのは仕方がないか。
幸いデンゼルさんが訝しむ顔を作った直後に、デンゼルさんを介しての一度目の契約は結ばれて、私達の周囲を囲む魔法陣は発光を止めて私とセリナとディアドラの魂に使い魔とその主の運命を刻みこむ。
そして使い魔の儀式を結ぶ事に慣れているデンゼルさんも気付かぬ速さで、ラ・ヴェルタの名の下に結ばれる契約が私の求めるものへと上書きされる。
と同時にラ・ヴェルタに私の魂から魔力が吸い上げられる感覚がする。一度目の契約はともかくそれを上書きするとなると、必要とされる魔力量が段違いに上がるようだ。
かの女神が言っていた様に、人間では少々賄うのが難しい量の魔力が持って行かれており、デンゼルさんが消費した魔力量とは比較にならない。
とはいえ私からすればわずかな対価と引き換えに思わぬ所で幸運を拾った形になる。これで私とセリナとディアドラの間に結ばれた使い魔の関係は、私が望むとおりのものになったわけだ。
私はその喜ばしい事実につい口元を綻ばせてしまう。
その一方で契約陣が役割を果たして消滅し、蒼白い光も消えた事を確認したデンゼルさんが、私とセリナとディアドラにそれぞれの心臓の辺りを確認するように言って来た。
「三人共自分の胸の辺りを確認したまえ。使い魔の契約が結ばれた証拠がそこにあるはずだ」
言われたとおりに私とセリナとディアドラが、服の隙間から自分達それぞれの心臓がある所を見れば、そこには硬貨一枚ほどの小さなラ・ヴェルタを象徴する蒼白い紋章が、いつの間にか浮かびあがっていたのである。
「君らの胸に刻まれた紋章が、魔法学院で認められている契約魔法の内、ラ・ヴェルタ神の名の下に結ばれる契約の証だ。
ドランが学院の生徒になれば学院公認の使い魔である事を保証するメダルが渡されるが、それは試験に合格してからの話だからまだ先の事だな。ヴェイゼ、君も確かに確認したな?」
背後のヴェイゼさんを振り返ったデンゼルさんに、ヴェイゼさんはまた眼鏡をくい、と押しあげる。癖なのだろうか、いやに手慣れた仕草である。
ふむ、ヴェイゼさんの様な美女がすると絵になる仕草だ。ディアドラやリシャも眼鏡はきっと似合うだろう。
いつか眼鏡を手に入れる機会があったら、掛けてもらおうと私は心の中で誓った。眼鏡以外にも服装に凝ってみるのもいいかもしれない。
普段とは違う服装をした彼女らとは実に楽しい時間を過ごせることだろう。
そんな風に私が胸の内に新たな欲望を覚えていると、ヴェイゼさんが軽く指を振って私達の体に、ごく微弱な魔力が走るのを感じた。
対象を検査する類の魔法か。諸感覚で大抵の事は把握できる私にとって必要性はないが、応用が利きそうだしおおっぴらに使える代物でもあるから魔法学院で習うとしよう。
「ええ、使い魔の契約は問題なく結べていますね。教員二名以上の立ち合いの下、確かに使い魔の契約は結ばれましたから、これで学院に対するドラン達の売りになりますわ」
ふむ、これで問題ないらしい。一応、私はデンゼルさんに儀式の終わりを確認する。
「これで使い魔の契約を結ぶ儀式は終わりですか?」
「ああ。妙に時間が掛ったように思えたが、特に問題はない様だな。これで後は試験を受けるだけだ。
七日後に迎えの馬車を寄越すから、その時はセリナ君達を連れてガロアに来てもらう事になるだろう。通常の試験とは違う日程だからお前一人が試験を受ける事になる」
「そうですか。クリスティーナさんを訪ねる時間はあるでしょうか?」
デンゼルさんは少し難しい顔を作った。馬車を使うにしても試験を受けた上でガロアとベルン村を行き来するとなると、早朝に出発してもベルン村に帰って来られるのは夜近くになってからになるだろう。
その上人を訪ねる様な余計な時間を使うとなると、ガロアに一泊する可能性も出てくる。私一人ならともかくセリナ達の宿を用意するとなると、話はそう簡単には行かないのかもしれない。
「試験の他にも人を訪ねるとなると厳しいな。すまんが別の日に時間を取っておきなさい。あくまで試験に集中するのだ」
「分かりました。入学してからなら会う機会もあるだろうから、訪ねるのはその時にします」
「筆記と実技の試験に関してはこれまでの成績から考えれば、お前に心配する所はないが取り敢えず言葉使いをもっと矯正する事の方が大事だな。七日の間の付け焼刃だが、家族や村の皆と話し合ってなんとかするように」
そこは話し合ってとかではなく、魔法学院の教師らしい魔法を用いる様な解決策を提示して欲しかったな、と私は口にはしなかったが心の中で残念な感想を一つ。
「最善を尽くします」
「その意気だ」
「うふふ、契約の儀式も無事に終わった事だしそろそろセリナとディアドラ、だったかしら? 色々とお話を聞かせてもらいたいわあ」
ヴェイゼさんは鼓膜にねっとりと張り付いて離れなくなる様な、粘着質を帯びた声を挙げてぬらりとした光を宿す瞳で、セリナとディアドラを見つめる。
それこそ半人半蛇のセリナのお株を奪う様な、獲物を前にした餓えた爬虫類を思わせる瞳である。捕食者の瞳だ。
これはいかんと私の中の野生の本能が警鐘を鳴らし、私の意識がそれを認識するよりも早くとっさに三人娘を背後に庇う。
魔法学院に行ったら三人がヴェイゼさんを相手に苦労する事になると思ったのは、撤回しなければならないようだ。
三人だけではない。間違いなく私も苦労するぞ、これは。魔法学院に行ったら三人には一人きりで行動しないように言明しなければなるまい。ヴェイゼさんに何をされるか分かったものではない。
「デンゼルさん、儀式が終わったのならもう帰ってもいいかな?」
「ああ、帰りなさい。ヴェイゼ、君のその悪癖はいい加減矯正したまえ」
「何をおっしゃられます、デンゼル師。ラミアとドリアードに伝わる独自の魔法や知識を学ぶ絶好の機会ですのよ? 魔道探求の徒としてはこの胸の内に湧きおこる知的好奇心を満たす事こそ正しい在り方というもの」
「お前はその探求の仕方で他人に不愉快な思いをさせる傾向が強すぎると言うのだ。全くお前は生徒だった頃から周りの人間を巻き込んで騒動ばかり起こして、ちっとも治そうとせん」
どうやらヴェイゼさんはデンゼルさんの教え子だった方らしい。二人が私達の目を忘れてがみがみと言い合いを始めるのに合わせ、私は身ぶり手ぶりで調合棟の扉を示して、三人にこの場からの脱出を促す。
ヴェイゼンの視線に怖気でも覚えたのか、眉間に皺を寄せて重心を落とし戦闘態勢を整えていたセリナとディアドラ、いつとも変わらぬ様子のリネットはこくりと首を縦に振って足音を殺して、順に調合棟を退出して行く。
やがて私たち全員が調合棟を脱出し終え、セリナとディアドラが安堵のため息を吐いてマグル婆さんの家を離れようとし、生け垣をくぐって家に帰って来たアイリと出くわした。
予想だに――いやもともとアイリの家なのだからアイリの姿があってもおかしくはないというか当然ではあるのだが――しなかった遭遇に、私の身体に緊張が走る。
「あれ、ドランじゃない。家になにか用があったの?」
まだ私のガロア行きを知らぬアイリは不思議そうに小首を傾げて、私に問いかける。むう、私は一時的に記憶の棚の中に仕舞いこんだアイリ説得と言う難事を、否が応にも思い出した。
「ねえ、ドランってば、なにか言いなさいよ。どうかしたの?」
「ふむ。…………実はな」
仕方ない。私は腹を括って私のガロア魔法学院への入学の件についてアイリに話して聞かせた。
「ええ~~ドラン、ガロアに行っちゃうのお!?」
素っ頓狂な声を挙げて大仰に驚くミルに、私はうん、と頷き返しながら答えた。
「まだ決まったわけではないけれど、入学試験は合格するつもりだから、そうなるかな」
マグル婆さんの家から場所は変わって、ベルン村を斜めに横断する川縁に腰掛けて、私とセリナ、ディアドラ、リネットの他、ミル、リシャ、アルバートやマルコなど村の友人達と顔を突き合わせている。
使い魔の儀式を終えた後、二、三日ごとに行っている私のおとぎ話のついでに、私のガロア行きについて皆に伝えた所である。
「その話をアイリにしたからそのほっぺたになったのね。あの子ったら急に機嫌が悪くなったからどうしたのかしらと思ったら、まったくもう」
困った調子で言うのはリシャである。そしてリシャのいうほっぺたとは、私のアイリの手の跡がくっきりと残り、赤く腫れている私の左頬だ。
家に帰って来たアイリと偶然にも遭遇し、腹を括った私がガロア行きを告げた時、アイリから帰って来たのは、それは見事な平手打ちであった。
腰の回転と手首の捻りとしなりを利かせたアイリの平手打ちは、軽く私の目から星が飛び出る様な強烈な一撃で、私の脳を揺さぶって数瞬の間、平衡感覚を失わせるほどだった。
その間にアイリは私に向かって、ドランの大馬鹿ー!! と叫ぶや自分の部屋へと閉じ籠ってしまっている。
なんどかノックしても反応はなく、仕方なく私はそのまま扉越しに話をしたのだが反応はなかった。
とりあえずアイリが少し落ち着いてから再度説得に取り組む事に決めた私は、その間に他の人達に私がしばらくベルン村を留守にする事を伝える事にしたのだ。
私の長期間の不在という事実を聞かされて、ミルは慌てた様子で私に掴みかかるような勢いでにじり寄ってくる。
ほんのりと紅潮した幼い顔立ちは、こんな時でなければ舐めまわしたい位に可愛らしいが場所が悪い。
「ね、ねえドラン、どれくらいガロアに行っちゃうの? その間はずっと村に帰ってこないの?」
ミルに続いてマルコも私ににじり寄ってきた。一年経ってもこの女の子っぽい弟はたいして背丈も伸びず、まだまだ声も女とも男とも着かぬ中性的なモノだ。
このまま成長したら男も女も惑わす美男になりそうで、マルコの将来が兄としては少々心配でもある。
「そうだよ、ドラン兄ちゃん。ミル姉ちゃんの言う通り、どれ位村を離れるのさ? たまには村に帰って来るんでしょう!?」
「おそらく早ければ一年かそこらで学院を卒業できると思うよ。出来る限り時間を見つけて村には戻ってくるつもりだからね。春と秋の収穫期には必ず顔を出す予定だし、長期の休みが貰えた時には家に帰ってくるよ」
魔法学院に合格することを前提とした話になるが、私の今後の予定を耳にしたミルとマルコは、二人が思っていたほど長期間私と離れ離れになるわけではないと分かり、安堵したように肩から力を抜く。
「まあ村を離れるとは言えガロアだしね。会いに行こうと思えばそう遠い距離じゃないよ。出来るだけ手紙も出せるように頑張るから。読めなくてもレティシャさんかシェンナさんに読んでもらえばいいし」
「そっかぁ、それならそんなに寂しくないかなあ。でもドラン、なんだかいつもと喋り方が違うねえ。どうかしたの?」
しゅん、と垂れていたミルの耳と尻尾は、いくらか気分を持ち直したようで垂れた状態から脱していた。
「デンゼルさんにもっと喋り方を治す様に言われたの。だからこうしてマルコを真似して喋っているのだ……あ~、いるのだ、ではなく喋っているの、か。この場合」
「ドラン兄ちゃん、さっきからなんか変だなと思ってたら、ぼくの真似してたの?」
「うん、そうなんだ。マルコの喋り方なら普段の私みたいに変には思われないかなって思ったんだ」
こう、喋っている間に舌の付け根と咽喉がむず痒くなる様な感じがする。見ればディアドラとセリナは、必死に笑いそうになるのを堪えようと、両手で口を抑えている。
ああ、分かっている。分かっているとも。普段の私の大人びた口調といまのいかにも子供ぶった口調が、あまりに違いすぎて似合っていないことくらいは。
どうやらリシャも同意見の様だが、こちらはまだ控えめな様子でころころと笑う位である。
「とりあえずこれ位喋れれば子供らしくないなんて言われないかな? 考え方まではさすがに変えられそうにないんだけど」
「まあ平気なんじゃねえの。でもあんまり子供過ぎても駄目じゃないのか? お前、すげえって言われてガロアに行くんだから、周りの年上の奴らになめられるようでも駄目だろ」
と言ったのはアルバート。バンダナを赤色の新しいのに新調し、去年の今頃より六シム位は背丈が伸びている。
ふむ、確かにアルバートの言う通り、あまり子供らし過ぎてもいけないのか。ヴェイゼさんやデンゼルさんにも優秀と評価を頂いている事だし、それなりに小生意気な口の利き方くらいはしても大丈夫なのかもしれない。
「アルバートの言う通りかも。取り敢えず周りの反応を見ながらなんとか調整してみるよ」
「ま、頑張れよ。辺境の田舎にもすげえ奴はいるんだってことをガロアの連中に教えてやれ。そんでよ、お前、ガロアに行ったら貴族とか商人の知り合いとか作って、おれに紹介してくれ」
「そう言えばアルバートの夢は、村に店を構える事だったな」
「おうよ。いくら田舎だってよ、宿屋一軒しかないんじゃ寂しすぎらあ。だからおれが村で最初の店を作るのさ。まあ雑貨屋が良い所だろうけどよ。
いまのままだとラギィおばちゃんに仕入れを頼んで村で売る位しかできねえが、お前がガロアに知り合い作ってくれりゃ他に出来る事も増えんだろ」
「元からそうするつもりだったからいいよ。武器とかは無理でも、せめて他所の土地の食べ物とか服の生地くらいは欲しいもんね」
出来ればベルン村も他の辺境の村の麦芽酒や蜂蜜の様な特産品があれば、それを求めて人が集まり、アルバートの商売も上手く行くのだろうが、そこら辺の知恵も学院で着けるとしよう。
「そういうこった。しっかしなあ、お前の喋り方は変じゃないんだけどお前が喋ると変だわ」
「言われんでも分かっている」
誰も彼も変だ変だと、人の気も知らずに言ってくれるものだ。つい私はマルコの口真似をするのを忘れて、素の口調で呟いてしまう。
やはりもっと小さな頃から周りに合わせた喋り方をするように心がければよかったかと、今更ながらに思う今日この頃である。
私が少しばかり臍を曲げたのを敏感に感じ取って、リシャがアルバートや他のみんなを窘めてくれた。
「まあまあ、ドランも一生懸命言葉使いを治そうと頑張っているのだから、あまり悪く言ってはだめよ。
でもね、ドラン。貴方が一時的にでも村から居なくなって寂しいと思う人はたくさんいるの。
その事を忘れてはだめよ。私はもちろんここに居る皆が寂しいと思うわ。だから村に帰れる時間があったら、必ず帰ってきてね。
お金が掛るからあまり頻繁には出せないでしょうけど、手紙でなるべく近況を伝えるのも疎かにしてはだめ」
私の肩を掴み、リシャの前髪が私の鼻に掛る位の距離まで顔を近づけて、リシャは力の籠った声で私に告げる。
その瞳はかすかに潤んでいて、言葉とは別にリシャもまた寂しさを覚えている事を、何よりも雄弁に語っていた。
私に頷く以外の答えがある筈もない。私はつとめてリシャを安心させるように笑んで頷き返した。
「うん。ちゃんと元気にやっているってことを伝えるよ」
「そう、ならいいのよ」
リシャは私の返事と笑顔に満足し、にこりと大輪の花がそこに咲いた様な笑顔を浮かべてこう言った。
「ならアイリと早く仲直りしなさい。私の大切な妹を泣かせたままなのは駄目よ?」
「はい」
にっこりと笑むリシャに対し、私は即答と言う他ない速度で返事をした。少し、というよりも大いに情けなかったのは言うまでもない。
「良い返事ね。なら、次にしなければいけない事も分かるでしょう。そろそろアイリも落ち着いただろうから、ね?」
なんだろうか、私はこのままリシャに頭が上がらないまま生涯を終える予感を、今日この日この上なく強く感じた。
川縁に集まった面々への説明を終えた私は、リシャに言われるがままにアイリの元へ向かうべく、再びマグル婆さんの家を訪ねた。
セリナ達とは別れて、それぞれが普段日常でこなしている仕事に戻っている。ただセリナだけは脱皮の疲れを考慮して今日一日は休む。
さて流石に家人の許しもなく家に入るわけにも行かないので、アイリの部屋の前まではリシャが付き添ってくれたのだが、そこから先は私が一人でアイリを説得しなければならない。
「じゃあ頑張って、ドラン。きちんと話をすればアイリも分かってくれるわよ。貴方が村からずっといなくなるわけではないんだしね。ほら、勇気だして」
「ん」
リシャは去り際に私の頬に唇を落とし、そのままその場を後にした。私が一人で何とかすべき時であるのなら、一人で何とかしなさいと言う事か。
ふむ、難事を後回しにするのも止めて現実と向き合わねばなるまいて。私は意を決しアイリの部屋の戸を叩いた。
「アイリ、私だ。入るぞ」
一年前にもセリナ達との関係の事で似たような揉め事があったが、あの時と同様にアイリからの返事はない。あの時はリシャも手伝ってくれたが、今回は私一人でなんとかせねばならない。
アイリの許可なく扉を開いて部屋に足を踏み入れれば、ベッドに腰掛けて私から顔を背けるアイリの姿があり、強い既視感に私は口元に苦笑を浮かべていた。
私がアイリの隣に座ってもアイリは特に何も言う事はなく、近づいて見るとアイリが頬を膨らませているのが見えた。分かりやすい不満の表現方法である。
私は穏やかにアイリに語りかけた。口調はいつものものに戻している。
「さっき皆に私が魔法学院に行く事を伝えた。もっとも魔法学院に通うのは試験に合格したらだがな」
「……」
「合格か不合格か決まる前に気の早い事だが、そうやって自分を追い込んだ方が死に物狂いになるだろう?
七日後に迎えの馬車をデンゼルさんが手配してくれるそうだから、それに乗って試験を受けに行く。魔法学院へは春先に行くそうだから、合格したらすぐに村を出る事になる。
魔法学院に行っても、出来るだけ時間を見つけて手紙を出すし、まとまった休みが取れたら、ちゃんと村にも戻ってくる」
「……」
「アイリと会えなくなるのは寂しいけれど、それでも私は魔法学院に行く。そうすることで得られるものが、必ずアイリや村の皆の為になると思うからな。大好きなアイリの為になる事だから、会えない寂しさも我慢できる」
ここまで言った所でそれまで私からそらされていたアイリの顔が私を向きなおり、真っ赤に泣きはらした瞳が、じっと私の瞳をまっすぐに射抜いた。いかんな、アイリのこの瞳に私は弱いのだ。
「そういうの、ずるい。それにあたしは駄目でもセリナさん達は連れてくんでしょ。それもずるいわよ、馬鹿。あんたが我慢できてもあたしは我慢できないの」
アイリとは別れるのにセリナ達はガロアへ連れてゆく。これは確かにアイリやリシャ達からすれば不公平極まりないように感じられる事だろう。
「そうだな。不公平だな。すまない」
だってアイリは村を離れられないだろう、アイリは一緒に魔法学院に入学できないだろう、などと言い訳はしないでおく。ただ素直に頭を下げた。
言葉を弄するよりは行動で示すのが私の性分であるし、その方が私の気持ちも伝わりやすいと思ったからだ。
「あたし、ようやくドランに好きって言えてこの一年ずっと楽しかったし、嬉しかった。なのに、あんたはあたしを置いて村を出てくのね。あんたって本当に自分勝手。村の皆の為って言うけど本当は自分の為じゃないの? そうじゃないって言える?」
「いや、アイリの言うとおり私の為だよ。皆がいまよりももっと笑って楽に暮らせるようになれば、それは私にとっての幸福につながるからな。
たしか偽善とかいう奴だったか。だからアイリの為になることと言っているが、同時に私の為でもある」
「なんでそんな風にあっさり認めちゃうのよ! なによ、あたしを置いて勝手に魔法学院に行く事決めてさ。お姉ちゃんやミルさんは納得したかもしれないけど、あたしは嫌よ。なによ、ドランの馬鹿、あたしの気持ちなんて考えてない癖に」
アイリがこの様な反応をすると分かってはいたが、実際に目の前で怒りと悲しみの感情に心を揺らす姿を見ると、本当に鋭い刃で胸を切り裂かれたような痛みを覚える。
ああ、どうして私はアイリを悲しませる事ばかりをしてしまうのだろう。
「すまん、アイリ。それでも私はガロアに行くのだ。出来るだけ早く帰ってくる。アイリに寂しい思いをさせる時間を短くできるよう全力を尽くす。それとアイリの事は変わらず愛し続ける。これだけは約束する」
私の真摯な眼差しと言葉を受けて、アイリは頬を熟したリンゴの色に変えて、う~、う~と咽喉の奥で唸っていたが、私の両頬に左右の平手を叩き込んできた。
ばちん! と痛々しい音が部屋の中に響いて私の両頬に強烈な痛みが電流の様に走る。
解せぬ、なぜにこの流れで私の頬に平手が……あー、いや、私の頬を張りたくなるのも無理はないか。
私がその様に一人で勝手に納得していると、アイリは私の頬を両手で挟みこんだままごつんと私の額に頭突きを叩き込んで、鼻がくっつく近さで話し始めた。
「いい、ドラン。あんたが魔法学院に行くっていう決意を曲げないって言うのは十一年の付き合いであたしも嫌になるくらい理解している。
だから、さっきあんたが言った事を全部守って、それですっごくすっごくすっごく勉強を頑張って魔法学院を三年で卒業するって言うのなら我慢してあげる。特別によ、今回だけ我慢してあげるから。
いい、この条件を何が何でも守るのよ! そうでなきゃあんたの事、絶対に許さないしあんたよりもっといい相手を見つけちゃうんだからね。逃した魚が大きかったって、嘆きなさい」
そう言ってアイリは私の頬を挟みこんだままの細腕にぎりぎりと力を込めて行く。
ふむぅ、これは中々、というよりも素の感覚のままではかなりの痛みを感じているぞ。
しかしアイリはどうやら魔法学院の高等部を卒業するのに三年かかると勘違いしているらしい。
ならばこの勘違いを正さずにおいて一年で卒業し、村に帰ってきてアイリを驚かせるのも一興と私は考えた。
アイリはきっと大げさに驚いてくれることだろう。その日の事を考えて、つい笑いそうになってしまう口元を引き締めた。
アイリの手に両頬を抑えつけられたままでは格好が着かないので、私はアイリの手首を握って離させてから、アイリの瞳を見つめ返して真摯な想いで答える。
「それは大変だな。アイリに愛想を尽かされては私が生きる張り合いが無くなってしまう。約束は必ず守る。アイリに嫌われてしまわないように全力を尽くすよ」
そう言ってから私はアイリの唇を奪った。
<続>
アイリの説得に関しては正直芸がないと自分でも反省。
本当は外伝としてドランの子供たちの話か、ドランが17,18歳くらいで話を始めたif版アラクネヒロインを書くつもりだったのですが、長くなったため本編だけになりました。
NEW! ドランは眼鏡属性に目覚めた。
NEW! ドランはコスチュームプレイに目覚めた。
NEW! ドランはリシャの尻に敷かれつつある。
NEW! デンゼルはアイリとリシャにさらに嫌われて恨まれた。
・ドランの口癖一覧
『ふむ』 ……納得、感心、状況を把握した時など
『ふむっ』 ……より強く納得した時、自分の思い通りに事が進んだ時など
『ふむ!』 ……何か上手く行った時や上機嫌の時など
『ふむん』 ……心からの感嘆、称賛、納得した時など
『ふむす』 ……自分を鼓舞、気合いを注入する時など
『ふむ?』 ……小さな疑問、言葉が良く聞こえなかった時など
『ふむ!?』……予想もしなかった事態に遭遇、強い驚きを覚えた時など
『ふむぅ』 ……疑惑、不審、困難な状況を前に判断に迷った時など
『ふむむ』 ……より困難な事態に直面した時、即決できない時など
12/11 20:03投稿
12/12 8:48 12:41 修正 JLさま、ありがとうございました