自分へのご褒美、大阪護国神社、聖ジャンヌ、そして「教皇様の新年のメッセージ」全文
一年間の自分へのご褒美 自分へのお年玉というわけで

携帯電話が、古くなってカメラが壊れていたのを
ずっと我慢してたので・・・
スマホに変えました。
auのスマホです。iPhone 4S も売っていたけど、
auの店員さんの説明を聞いてデザインを見て・・・・
そんなに新しい形ではないけど、そして春には新製品も出るということだったけど・・・・可愛いので、これにしました。使うの難しいかな・・・・・と思ったけど、しばらくすると慣れてきて、
動画もよく観れるし、便利です★ うれしい
前の前の電話は、駅の公衆トイレで流れていきました。今頃海の底かな
前の電話は、買ってすぐ何度も地面に落っことしてカメラが壊れました。今回は気をつけよう〜
今日は、大阪護国神社に行きました。
娘が受験なので、受験合格必勝おまもりを買いました。
東部ニューギニアで亡くなった伯父さんの部隊、歩兵第七十九連隊
戦友はここに眠る之碑にお祈りしました。
護国神社はご参拝の人が少なかったです。
保守のデモや街宣などの活動も大切だけど、やはり日本各地の護国神社を次世代に護り受け継いでいく事も大切な事だと思います。
クリスチャンとしてカトリック教会の伝統を存続させていく事も
大切ですが、日本各地の美しい神社・仏閣、そして護国神社も
大切に次世代に伝えていかねばならないと思います。
日本各地の神社も、神主さんのいないような、小さな鳥居と祠だけの神社など、ぼろぼろになって、誰もお参りしないような形で放置されているところも多いです。
今回の東日本大震災では、福島に住めないというような心ない
風評被害や国の間違った避難区域の設定などで、福島にある各地の
神社は、見捨てられてしまうのではないかと心配です。
原発反対をいう人々は、原発よりずっと昔、東北の冷害、飢餓で
娘を身売りせざるを得なかった時期、東北を捨て満州やブラジルに
移住せざるを得ない苦労、戦前〜戦後、奉公や集団就職や
出稼ぎ、都会に出て故郷を捨てざるを得ない人もいた地であった
過酷な環境であった東北。
原発で地域が発展し、地域に働く場が増え、地域にとどまることができ、地域が存続できてきた素晴らしさ、そして神社や仏閣が
存続してきた事、を無視してはいけないと思います。
美しい日本の伝統である神社の大切さや地域の方が、地域とともに地域を愛し守れるような日本であればいいと思います。
護国神社は、また違う意味で、地域の氏神さまとは違い、
ご遺族の方が少なくなってきた現在、存続の危機だと思います。
愛国、日本が好きという若い人が増えていますが、まずは地元の
護国神社を大切にしていってほしいなと心から思います。
私の伯父の部隊の慰霊碑も建立が昭和57年建立で、18000柱の
慰霊碑であるにもかかわらず、もう建立した方も所縁の方もお亡くなりになって、誰も残っていらっしゃらないそうです。
だからこそ、私はなかなかご寄付まではできませんが、これからもお参りだけでもしていきたいと思います。
もうひとつ、自分へのご褒美ですが
教皇ベネディクト十六世 (著) 「女性の神秘家・教会博士」
という本を買いました。
その中の 私のクリスチャンネーム、霊名である
聖ジャンヌダルクをとりあげておられる部分もありました。
これは教皇が、2010年9月1日から開始した「中世の女性の神秘家」に関する連続講話の第16回として、昨年の2月に「聖ジャンヌ・ダルク」について解説したものだそうです。
私の大好きな愛する教皇様が、愛する聖ジャンヌダルクのお話をされている事がとてもうれしく思いました。
特に、非常に驚いた発見は、聖ジャンヌダルクが、実は私が大切に思う、『カトリック教会のカテキズム』で何度も引用されるということです。
ジャンヌダルクの受難と 『弾劾裁判記録』『処刑判決破棄裁判すなわち復権裁判記録』の中の彼女の精神と言葉と神秘が、今年生誕600年になる現代の、カトリック教会のカテキズムに引き継がれ、通じる神秘と言葉であるということの発見を今年の年初めにできた事は、本当に感動的な事でした。
ジャンヌは「天地を手に載せている姿で・・・・わが主を」自分の旗印に描かせたのです。それは彼女の政治的使命を表す姿でした。自分の民を解放することは人間的正義のわざです。ジャンヌはこのわざを、イエスへの愛のゆえに、愛徳に基づいて果たしました。ジャンヌは、とくにきわめて困難な状況にあって政治生活を送る信徒にとって、すばらしい聖性の模範を示します
ジャンヌはイエスのうちに教会の現実全体も仰ぎ見ました。それは地上で「戦う教会」であるとともに、天上の「勝利の教会」でもあります。彼女のことばによれば、「わが主と教会は一体のものです。『カトリック教会のカテキズム』(同795)に引用されたこのことばは、彼女を迫害し、弾劾する聖職者の判事を前にして行われた「弾劾裁判」という状況の中で、まことに英雄的な性格を帯びています。ジャンヌは、弾劾のときにも、イエスの愛のうちに、最後まで教会を愛する力を見いだしたのです
自分の民を解放することは人間的正義のわざ・・・・
困難な状況にあって政治生活を送る信徒にとって、すばらしい聖性の模範・・・・
ジャンヌは、自分の住むフランスという国の民の真の解放、
護国のため、そしてそれは愛のうちに戦いました。
自分の民を解放することは人間的正義のわざだと教皇様はおっしゃいます。「解放」とは束縛(そくばく)されたり、制限されたりしているものを、ときはなすこと。
この聖性と偉大さに比べる事はできませんし、到底一生かかっても近づく事さえできませんし、非常におこがましいことですが、
戦後、GHQや敗戦国民として抑圧され、実は無意識のまま自由を失い、日本人としての伝統や文化を抑圧否定されている日本の国民、市民の真の解放、真の自由と平和、真の独立のために愛のうちに行動していきたいという理念の私にとって、そしてある司教様からは、その行動を「差別主義だ排外主義だ」などと弾劾されている私、聖ジャンヌのみ名を頂いてから生き方が変わった私にとっては、彼女の言葉と生き方は模範であり、これほど勇気を下さる言葉はありません。
教皇ベネディクト十六世の256回目の一般謁見演説 〜聖ジャンヌダルクについて〜
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message585.htm
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下記は、大晦日の真夜中のミサで和田幹男神父様が
そして新年のミサで 後藤神父様が教えて下さった
ベネディクト教皇様の新年のメッセージ
真の「平和と正義と教育」についての 素晴らしいお話です。
偏った正義と平和、教育ではなく、真の正義と平和、教育について
まことに崇高なメッセージが語られています
.
教皇ベネディクト十六世
2012 年「世界平和の日」(2012 年1 月1 日)メッセージ
若者に対する正義と平和の教育
1 神が人類に与えた恵みである新年の初めにあたり、わたしは深い信頼と愛を込めて、
心からのごあいさつを皆様に申し上げたいと思います。どうかこれからの一年が正義と平
和によって具体的なしかたで特徴づけられるものとなりますように。
わたしたちはどのような態度で新年に臨めばよいのでしょうか。詩編130 の中にたいへ
んすばらしいイメージを見いだします。詩編作者はいいます――信じる人は主を待ち望み
ます。「見張りが朝を待つにもまして」(詩編130・6)。信じる人は堅固な希望をもって主を
待ち望みます。主が光とあわれみと救いをもたらしてくださることを知っているからです。
この待望は、選ばれた民の体験から生まれました。選ばれた民は、神が自分たちにこう教
えたことを知っていました。「世の真の姿に目を向け、苦難に負けてはならない」。皆様に
お願いします。この信頼の態度をもって2012 年に臨んでください。確かに、去りゆく2011
年は、労働界・経済・社会にのしかかる危機に対して募る不満によって特徴づけられまし
た。この危機の根は、おもに文化的なもの、また人間の生き方によるものです。あたかも
闇が現代を覆い、日の光ではっきりと見ることを遮っているかのように思われます。
しかし人間の心は、このような闇の中にあっても、詩編作者が述べる夜明けを待ち望み
続けます。この期待はとくに若者のうちに生き生きとした姿で見ることができます。その
ためわたしの思いは若者と、若者が社会に対してなすことができ、またなさなければなら
ない貢献へと向かいます。それゆえ今年の第45 回「世界平和の日」メッセージで「若者に
対する正義と平和の教育」という、教育に関するテーマを扱いたいと思います。それは、
熱意と理想を抱く若者が世に新たな希望を与えることができると確信するからです。
わたしのメッセージは、両親、家族、そして教育と養成の分野に携わるすべての人、宗
教、社会、政治、経済、文化生活の諸分野とメディアの指導者にも向けられています。若
者の世界に注意を払うこと、若者の主張を聞き、重んじる能力は、単に便宜上のことでは
ありません。それは、正義と平和に基づく未来を築くための、社会全体にとっての第一の
務めです。
若者に、生きることの積極的な価値を重んじることを伝え、若者のうちに人生を善であ
るかたへの奉仕のために用いる望みを抱かせなければなりません。これはわたしたち一人
ひとりが引き受ける課題です。
多くの若者が世界のさまざまな地域で最近表明した懸念は、若者が、堅固な希望をもっ
て未来に向かいたいと望んでいることを示しています。現在、若者は不安を抱きながらさ
まざまなことを体験しています。それは次のものです。現実に立ち向かうための深い準備
となる教育を受ける望み。家族をつくり、安定した職を見いだすことの難しさ。より人間
2
らしく兄弟愛に満ちた社会を築くために、自分が政治・文化・経済生活に貢献するための
実際的な能力です。
社会のあらゆる層で、このような不安と、そのもとにある理想にきちんと注目すること
が重要です。教会は希望と確信をもって若者に目を向けます。教会は若者を励まします。
真理を求めなさい。共通善を守りなさい。周りの世界に心を開き、進んで「新しいこと」(イ
ザヤ42・9、48・6)を見いだしなさい。
教育者
2 教育は、人生の中でもっとも魅力的でありながら難しい出来事です。教育する
(educate)――それはラテン語のeducere(引き出す)ということばを語源とします――
とは、若者が自分を超え出るように導き、若者を、成長をもたらす、充実した現実に導き
入れることです。教育の過程は、大人の自由と、若者の自由という、二つの自由の出会い
によって深まります。教育は、学ぶ者と教える者の双方の責任を要求します。学ぶ者は、
現実を知ることができるよう心を開かなければなりません。教える者は、自分をささげる
準備ができていなければなりません。そのためわたしたちは、現代において、これまでに
増して、ただ規則と事実を伝えるだけでない、真の証人を必要としています。わたしたち
は、広い経験をもち、人よりも遠くを見通すことのできる証人を必要としています。証人
とは、その人が他の人に示す生活をまず自分で生きている人のことです。
の正義と平和の教育は、どのような場で行われるのでしょうか。第一の場は家庭です。
両親は最初の教育者だからです。家庭は社会の原細胞です。「子どもは家庭の中で人間的・
キリスト教的価値観を学びます。この価値観によって子どもは建設的で平和的に共存する
ことができるようになるのです。子どもは家庭の中で世代間の連帯、規則を尊重すること、
ゆるすこと、他者を受け入れることを学びます」(1)。家庭はわたしたちが正義と平和を習
う最初の学びやです。
わたしたちの生きる世界では、家庭も、生活そのものも、たえず脅かされ、しばしば寸
断させられています。家庭に対する責任を果たせないような労働条件、将来への心配、生
活のリズムの慌しさ、ふさわしく生計を立てるため、単に生き延びるために頻繁に転居し
なければならないこと――これらすべてのことによって、両親がともにいるという、もっ
とも大切なことを子どもに与えることが困難になっています。両親がともにいることによ
って、人生の歩みを深く共有し、長年の経験から得た経験と確信を子どもに伝えることが
可能となります。こうした経験と確信はともに過ごすことによって初めて伝達可能だから
です。わたしは両親の皆様を励ましたいと思います。あきらめないでください。両親が自
らの模範によって子どもを力づけることができますように。それは、真の正義と平和の源
である神に何よりも希望を置くためです。
わたしは学校で働くかたがたにも一言申し上げたいと思います。深い責任感をもって、
一人ひとりの人の尊厳を尊重し、大切にしてくださいますように。若者がおのおの自分の
3
召命を見いだし、神が与えてくださったたまものを成長させる助けとなるよう心がけてく
ださい。子どもが、良心と宗教的原則に沿った教育を受けることができることを、その家
族に保障してください。
教育の場は皆、超越者と他者に開かれた場となりえます。教育の場は、対話し、結束し、
耳を傾け合う場となりえます。このような場で、若者は自分の能力と内的な豊かさを大切
にされていると感じ、兄弟姉妹を尊重することを学ぶことができます。若者が、日々、他
者に対する愛とあわれみのわざを行い、より人間らしく兄弟愛に満ちた社会の建設に積極
的に参加する喜びを味わうことができますように。
わたしは政治指導者の皆様にお願いします。家庭と教育機関が、自らの教育の権利と義
務を行使することを具体的な形で支援してください。両親がそれぞれの務めを果たすため
の適切な支援を欠くことがあってはなりません。両親に次のことを確保してください。だ
れも教育を受ける機会を奪われることはないこと、また、各家庭が子どもにもっともふさ
わしいと考える教育制度を自由に選択できることです。両親が、生計を立てるためにばら
ばらになった家族を再び一つにするために努力できるようにしてください。両親が、政治
とは万人の善のために真の意味で奉仕することだという、清廉な政治観を若者に伝えられ
るようにしてください。
メディアの世界にも呼びかけます。教育に対してメディアとして貢献してください。現
代社会においてマスメディアは特別な役割をもっています。マスメディアは、情報を伝え
るだけでなく、視聴者の精神を形成します。それゆえマスメディアは若者の教育に著しく
貢献することが可能です。教育とコミュニケーションの関係はきわめて密接なことを忘れ
ないことが重要です。教育はコミュニケーションを通して行われます。コミュニケーショ
ンは人格の養成に対して、よいしかたでも悪いしかたでも影響を及ぼすのです。
若者も、他人に対して要求するのと同じ高い基準を、勇気をもって生きなければなりま
せん。若者には大きな責任があります。若者が、自由を、賢明に、よく用いる力を見いだ
すことができますように。若者も、正義と平和の教育を含めた、自らの教育に責任を負っ
ているのです。
真理と自由の教育
3 聖アウグスティヌスはあるときこう問いかけました。「実際、真理にまさって魂が強く
欲求するものがあろうか(Quid enim fortius desiderat anima quam veritatem?)」(2)。
社会の人間的側面は、教育がこのかけがえのない問いかけを生き生きと保てるかどうかに
大きくかかっています。実際、教育は、道徳的・霊的次元を含めた、人格の全面的な陶冶
にかかわります。そこでは、人間の究極目的と、人間が属する社会の善が考慮されます。
それゆえ、真理を教育するうえで、何よりもまず必要なのは、人間の人格とは何か、人間
本性とは何かを知ることです。詩編作者は、周りの世界を仰ぎ見ながらいいます。「あなた
の天を、あなたの指のわざをわたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。
4
そのあなたがみ心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものな
のでしょう、あなたが顧みてくださるとは」(詩編8・4−5)。人間とは何か。これこそが、
問うべき根本的な問いです。人間は、心の中に、無限なるものへの渇き、真理への渇きを
抱いています。この真理は、部分的な真理ではなく、人生の意味を明らかにできるような
真理です。人間は神の像と似姿として造られたからです。そのため人は、人生がかけがえ
のないたまものであることを感謝をもって認めることにより、自分の深い尊厳と、個々人
の人格が不可侵であることを見いだします。ですから、教育の第一段階は、人間の中に創
造者の像を見いだすのを学ぶことです。そこから、すべての人を深く尊重することを学び、
この最高の尊厳にふさわしく人生を送るよう他の人を助けることです。忘れてならないこ
とがあります。それは「真の人間的な発展はすべての次元で人間全体に関係しているとい
うこと」(3)です。このすべての次元には、超越的な次元も含まれます。また、人格は、
経済的な善であれ社会的な善であれ、個人の善であれ共同体の善であれ、個別的な善を得
るために犠牲とされえないということです。
人間は神との関係において初めて、人間の自由の意味を理解できるようになります。教
育の使命は、人々に真の自由を教えることです。人間の自由とは、強制がないことでも、
自由意思が支配することでもありません。それは自己を絶対化することでもありません。
人間は、自分は絶対であり、何ものにもだれにも頼らず、望みどおりのことができると考
えるなら、自分の存在の真理に背き、自らの自由を失ってしまいます。むしろ、人間は関
係的な存在です。人間は、他者、とくに神との関係のうちに生きています。神と無関係に
真の自由を得ることはできません。
自由は貴い価値ですが、それはもろいものです。誤解され、濫用されることもありえま
す。「現代の教育事業にとってとくにゆゆしき障害となるのは、わたしたちの社会と文化に
相対主義が広く見られることです。相対主義は、いかなるものも決定的だとみなさないた
めに、『自己』とその好みだけを究極の基準とします。そして、この『自己』という基準は、
うわべは自由のように見えながら、各人を閉じ込める牢獄となります。なぜなら、それは
自己を他者と分離して、各人をそれぞれの『自己』のうちに閉ざしてしまうからです。そ
れゆえ、こうした相対主義的な世界の中では、真の意味での教育は不可能となります。真
理の光がない状態においては、すべての人は、遅かれ早かれ、自分の人生と人生から生ま
れるさまざまな関係の意味や、他者とともに共通の何かを建設しようと努力することの価
値を疑わずにいられなくなるからです」(4)。
それゆえ、人間は、自らの自由を行使するために、相対主義的な見方を乗り越え、自分
自身についての真理、善悪についての真理を知らなければなりません。人間は自分の良心
の奥底に法を見いだします。この法は人間が自らに課したものではなく、人間が従わなけ
ればならないものです。この法の声は、善を愛して行い、悪を避け、自分のしたよいこと、
悪いことに責任をとるよう呼びかけます(5)。それゆえ、自由を行使することは、自然道
徳法と深く結びついています。自然道徳法は本来普遍的で、すべての人格の尊厳を表し、
人間の基本的な権利と義務の基盤をなします。したがって、要するに、自然道徳法こそが
公正で平和な共存の基盤となります。
5
それゆえ、自由を正しく用いることが、正義と平和の推進の中心です。そのためには、
自分と他者を尊重することが求められます。この他者には、そのあり方と生き方が自分と
大きく異なる人も含まれます。このような態度が次の要素を生み出します。この要素なし
には、平和と正義は無内容のことばにすぎないものとなるのです。すなわち、相互の信頼、
建設的な対話を行う能力、人をゆるす力(人はたえずゆるされることを望みますが、ゆる
すことは困難だからです)、互いの愛、弱者への共感、進んで犠牲を払うことです。
正義の教育
4 現代世界においては、役に立つこと、利益を得ること、所有することという基準のみに
頼る傾向が広まったため、よい意向が表明されはしても、人格、人間の尊厳、人権の価値
が深刻な形で脅威にさらされています。ですから、正義の概念をその超越的な基盤から分
離しないことが重要です。実際、正義は単なる人間の取り決めではありません。正義は、
究極的に、実定法によってではなく、人間の深い本性によって規定されるからです。人間
に関する包括的な見方こそが、契約に基づく正義概念に陥ることからわたしたちを救い出
し、正義を連帯と愛の地平に位置づけることを可能にするのです(6)。
わたしたちは次のことを無視することができません。合理主義的・個人主義的な経済原
則に基づく現代文化のある種の思潮は、正義の概念を超越的な基盤から切り離し、正義を
愛と連帯から分離しています。「地上の国は、単に権利と義務の関係によってではなく、よ
り重要でより根本的な、無償性と慈悲と交わりによる関係を通して促進されます。愛はつ
ねに、神の愛を人間関係において明らかにし、世界における正義へのすべてのかかわりに
神学的かつ救済的な価値を与えます」(7)。
「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる」(マタイ5・6)。その人
たちが満たされるのは、神、自分自身、兄弟姉妹、そして被造物全体との正しい関係に飢
え渇いていたからです。
平和の教育
5 「平和とは単に戦争がないということだけではなく、また敵対者間の力の均衡を図ると
いうことだけでもありません。地上で平和が得られるのは、各個人の善益の擁護、人間相
互の自由な交流、個々人ならびに諸民族の尊厳の尊重、兄弟愛の熱心な実践があってのこ
とです」(8)。平和は正義の実りであり、愛のわざです。わたしたちキリスト信者は信じて
います。キリストはわたしたちのまことの平和です。神はキリストのうちに、キリストの
十字架によって、世をご自分と和解させ、わたしたちを互いに分離する隔ての壁を取り壊
しました(エフェソ2・14−18 参照)。わたしたちはキリストに結ばれて、愛のうちに和解
した、ただ一つの家族となります。
しかし、わたしたちは平和を単にたまものとして与えられるだけではありません。平和
6
はわたしたちが築くべきものでもあります。わたしたちは、真の意味で平和を作り出す者
となるために、共感、連帯、協力、兄弟愛について自らを教育しなければなりません。共
同体の中で積極的に活動し、以下のことがらについての意識を高めなければなりません。
国内問題と国際問題。富を再分配し、成長を推進し、発展に協力し、紛争を解決するため
の適切な方法を探求することの重要性です。イエスが山上の説教でいわれたとおり、「平和
を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5・9)のです。
万人のための平和は、各人のための正義から生まれます。だれも、自分に固有な能力と
責任に従って正義を推進するという根本的な務めを免除されません。理想を強く追い求め
る若者の皆様にわたしは特別にお願いします。忍耐と堅忍をもって正義と平和を追求して
ください。たとえ犠牲を伴い、時流に逆らうことになっても、正義と真理の味わいを深め
てください。
神に目を注ぐ
6 正義と平和の道を歩むという困難な課題を前にして、わたしたちは詩編作者のことばを
もって問いかけたくなるかもしれません。「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助
けはどこから来るのか」(詩編121・1)。
すべての人、とくに若者の皆様に強く申し上げたいと思います。「世界を救うのはイデオ
ロギーではありません。生ける神に戻ることが、世界を救うのです。神は、わたしたちを
造り、わたしたちの自由を守り、本当の意味で善にして真実であることを守るかただから
です。・・・・ただ、神に向かうことです。神は、何が正しいかを計る秤(はかり)であり、
同時にまた、絶えることのない愛だからです。また、愛から離れて、何がわたしたちを救
うことができるでしょうか」(9)。愛は真実を喜びます。愛はわたしたちが真理と正義と平
和のために働くことを可能にする力です。なぜなら、愛はすべてを忍び、すべてを信じ、
すべてを望み、すべてに耐えるからです(一コリント13・1−13 参照)。
親愛なる若者の皆様。皆様は社会にとっての尊いたまものです。困難に遭っても落胆し
ないでください。それがしばしば問題を解決するためのもっとも簡単な道であるかのよう
に見えても、間違った解決法に身をゆだねないでください。かかわり合うこと、苦労や犠
牲に立ち向かうこと、忠実と堅忍、謙遜と献身を要求する道を選ぶことを恐れないでくだ
さい。自分の若さと、幸福、真理、美、真の愛への深い望みを信じてください。豊かで熱
意に満ちた人生のこのときを、強く生きてください。
自分自身が大人に対する模範であり、刺激であることを自覚してください。皆様が不正
と腐敗に打ち勝とうと努めるほど、よりよい未来を望んで築こうとしていることになり、
実際にそうなるのです。自分の可能性を意識してください。自己中心的に生きるのでなく、
すべての人に明るい未来をもたらすために働いてください。皆様は決して独りきりではあ
りません。教会は皆様に信頼し、皆様を受け入れ、皆様を力づけ、教会のもてるもっとも
貴いたまものを与えようと望んでいます。すなわち、神に目を上げる可能性、イエス・キ
7
リストと出会う可能性です。イエス・キリストご自身が、正義と平和です。
平和のことを心に留める世界中の皆様。平和はすでに与えられたたまものではありませ
ん。むしろ、わたしたち一人ひとりが目指すべき目的です。大きな希望をもって未来に目
を向けようではありませんか。互いの歩みを励まし合おうではありませんか。現代世界を
より人間らしく兄弟愛に満ちたものとするために、ともに働こうではありませんか。現在
と未来の若者たちに対して共通の責任を感じようではありませんか。とくに、若者が平和
の人、平和の建設者となるよう育てる務めを通して。わたしはこのような思いを込めて、
考察を示し、すべての人に呼びかけます。「若者に対する正義と平和の教育」のために、わ
たしたちの霊的・道徳的・物質的力を一つにしようではありませんか。
2011 年12 月8 日、バチカンにて、
教皇ベネディクト十六世
注
1.教皇ベネディクト十六世「ラツィオ州とローマ県・市の行政当局者へのあいさつ(2011
年1 月14 日)」(L’Osservatore Romano, 15 gennaio 2011, p. 7)。
2.聖アウグスティヌス『ヨハネ福音書注解』(In Johannis Evangelium tractatus 26, 5〔金
子晴勇訳、『アウグスティヌス著作集24 ヨハネによる福音書講解説教(2)』教文館、
1993 年、46 頁〕)。
3.教皇ベネディクト十六世回勅『真理に根ざした愛(2009 年6 月29 日)』11(Caritas in
Veritate: AAS 101 [2009], 648)。教皇パウロ六世回勅『ポプロールム・プログレッシオ
(1967 年3 月26 日)』14(Populorum Progressio: AAS 59 [1967], 264)参照。
4.教皇ベネディクト十六世「ローマ教区大会開会挨拶(2005 年6 月6 日)」(AAS 97 [2005],
816)。
5.第二バチカン公会議『現代世界憲章』16(Gaudium et Spes)参照。
6.教皇ベネディクト十六世「ドイツ連邦議会における演説(2011 年9 月22 日)」
(L’Osservatore Romano, 24 settembre 2011, pp. 6-7)参照。
7.同回勅『真理に根ざした愛』6(AAS 101 [2009], 644-645)。
8.『カトリック教会のカテキズム』2304。
9.教皇ベネディクト十六世「WYD(ワールドユースデー)ケルン大会の前晩の祈りの講
話(2005 年8 月20 日)」(AAS 97 [2005], 885-88)。
略号
AAS Acta Apostolicae Sedis
(カトリック中央協議会事務局訳)
|
2012-01-04 04:45
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ペルシャ湾(Persian Gulf)の米軍基地に帰還しないよう要求し、
再度の警告は無いと付け加えた。
イラン軍のウェブサイトによると、
同国軍のアタオラ・サレヒ(Ataollah Salehi)准将は、記者団に対し
「ペルシャ湾の元の基地に帰還しないよう、この軍艦に勧告・要求する。
警告を繰り返すつもりはない。警告は一度きりだ」と語った。
イラン海軍は2日、ペルシャ湾の入り口での10日間の軍事演習を
終えたばかり。この演習では、軍艦撃沈用ミサイル3発の発射試験も行った。
この軍艦は、米軍最大級の航空母艦、ジョン・ステニス
(USS John C. Stennis)を指す。
同艦は先週、ホルムズ海峡(Strait of Hormuz)を東に越え、
オマーン湾(Gulf of Oman)を過ぎて、イラン海軍が軍事演習を実施中の
海域を渡っていた。
米国防総省はこの航路について「所定の」航路だったと述べていた。
バーレーンに第5艦隊の基地を置く米国は、ペルシャ湾近海に
常に最低一隻の空母を、数週間から数か月の交代期間で配備している。
http://www.afpbb.com/article/politics/2848446/8243862
ユダヤ国際資本の油田資源戦争でイラクのフセインを倒したら、イスラエルにとって次の敵はイランでしょう。
中東有事では、米国本土から派遣となると、位置的条件から沖縄が中継地として必要となります。
そして、自公政権も菅・野田政権も自衛隊イラン派遣を日本の国益と必ず言います。
米国のやり方は、何時でも米軍を撤退させると、日本に不安感を与えるために、中韓北朝鮮ロシアと日本の外交不和を推し進めてきたということです。
米軍再編という米国の世界戦略機能を日本の国益と申し、莫大な国税で在日米軍基地を維持・整備してきた愚作こそ日本の真の主権回復を阻害してきたことに気づいた者がはじめて保守と名乗ることができるということです。
厚生労働省は平成23年人口動態統計の年間推計をまとめた。それによると、
日本における日本人は30秒間に1人が生まれ、25秒間に1人が亡くなっていた。
出生では前年(29秒)より間隔が1秒長くなり、死亡は前年(26秒)より間隔が1秒短くなった。
これにより自然増減では年間20万4000人減った。
同省の推計によると、23年の出生は105万7000人で、前年に比べ1万4000人減少した。
一方、死亡は126万1000人で、前年より6万4000人増えた。
また、婚姻をみると22年は45秒に一組が誕生していたが、23年は2秒間隔が伸びて
47秒に1組の誕生となった。婚姻件数は67万件と前年より約3万件減少した。
一方、離婚も23万5000件と前年より約1万6000件減っていた。
同省では、今回の推計結果について、東日本大震災の影響で1月から10月の速報数値を
算出基礎にしているため、調査票の一部が収集できていないこともあり、
出生、誕生、離婚については過小推計に、逆に死亡数は過大推計になっている可能性が
あるとしている。
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2012&d=0104&f=national_0104_121.shtml
調べてみると、5万人近く増えています。
しかし、現在高齢化の波が襲い、年金受給者の占める割合が増し、創価学会が自民党とともに市議会を占有しtれいるため市政にねじれ現象を起こしています。
東村山市役所職員の10人に1人は創価学会員と言われ、隣の小平市の朝鮮大学校と近接したエリアのため、政権与党自民党時代に在日・創価にかなりの優遇制度が持ち入られたのは、都営住宅に住む階層を変えたことを見れば明らかだと思います。
実は今日、「教皇ベネディクト十六世 (著) 「女性の神秘家・教会博士」」の本を探しに本屋さんい行ってみたのですが見つかりませんでした。
国難という病の蔓延のかげにあるのは、人間の欺瞞が増えた結果だと理解できたのは、自民党政治の自己都合的な政策を僕が20代の時、自民党の市会議員の後援会に入って学んだ教訓からでした。
父親が昭和26年頃、焼け跡に建てられた文化放送の壮麗な社屋の地下で米国より輸入された靴を売ったことをよく話してくれたことが繋がりの始めである。
父親から聞いた話ですが、当時の文化放送はキリスト教が牛耳っていて、スポンサーとは別に、米国の信者が寄進した中古の洋服や靴を安く渡して、布教の資金源にしていたそうです。
そして、僕の父親が絶対にNHKの受信料を払わなかったわけをいろいろ考えてみると、そういった環境の中から、いわば逆恨み風にNHKを攻撃し始めたと思うようになったのは、NHKの番組そのものを、そう観てるわけでもないのに、NHKが持つ体制迎合的体質をうんぬんして、機会あるごとに事挙げし、我が家には集金人もいつの間にかやってこなくなりました。
このNHK受信料を強制的に徴収することを言い始めたのが息子をNHKに入社させた「立ち上がれ日本」の片山です。
福島第一原発事故直後、東電に娘を入社させた石破茂が最初に東電を国税で救うと発言したことと同様、利権議員が持つ自己都合的な詭弁の欺瞞が如実に現れてくるからたまりません。
がしかし、その欺瞞の真の原因が、米国が作った国内法でA級戦犯無罪化にした問題に全て繋がることこそ、本当に空恐ろしくなるのです。
僕は、フジTVの偏向的傾向の放送のスポンサーに花王が成ろうが、花王の不買運動は何の解決にもならないと考えているのは、その大元の原因を常に考えてきたからだと思います。
http://www.youtube.com/watch?v=IewKBwkjdJA&feature=related
いろいろ研究してますが、戦後の自称保守社会が作った米国に反対するものはアカと見なす村八分的社会が在日米軍基地・原発利権の正当化を生み出してきたと考えた時、補助金獲得手段と真の主権回復という目的を天秤にかけたとき、自己都合的にアカ狩りの法案になる恐れはないでしょうか?
予定では、約20分ぐらいもらって、この人権侵害救済法案を外国人参政権を付与したものが持つ権利と、既存の世襲利権制度を利用してきた既得権を持つ者との二面性の活用方法の矛盾を聞いてみたいと思います。
おつるさんは知ってるかどうか知りませんが、在日米軍基地利権では、真の主権回復論者までアカと差別することがあります。
僕は平岡法務大臣と直談判する前に、岩国商工会議所名誉会頭の自宅に街宣を計画しており、僕の主張に対してアカ呼ばわりしたら、この人権侵害救済法案を利用して名誉会頭を訴える手段にしたいと思っているのです。
少し、お知恵を貸してもらえないでしょうか?