──今日はエレファントカシマシの物語をダイジェストでわかりやすく、訊ければいいなって。はじまりと、契約切れて…っていうある種の挫折、もうひとつは勝利と栄光と、その光と影っていう。で、第3部は今も含んでその、終わりなき戦い、そして新たな夢みたいな。
「はい、いいですね」
──えっと、エレファントカシマシは幼馴染みの友達同士で始まったバンドなんだけど。まあそれが普通にアマチュアバンドとしてやっていって、デビューして。評価はされたけど、セールスは振るわなかったりとか。「ああー」
──すごく衝撃は与えられたけど、自分が思ってるような受け入れられ方とは違ったりとか。いろんなことが初期の頃ってあったと思うんだけど。その頃ってどんな感じでした?「やっぱ友達同士でやってて、それって今もちょっと感じるんだけど、もうほら、本当に友達同士だったから、中1時代の。1年6組の同級生の3人。ドラムのトミ(冨永義之)と、ギターの石くん(石森敏行)と俺と、もう本当に3人同級生だったんで。で、そのままの感じでやってて。高校の時とか、修学旅行も俺行かなかったんですよ。男子校で、九州に修学旅行だったんだけど。で、人気者って言っちゃあれなんだけど、やっぱこうほら明るくて元気だから、『俺、修学旅行行かない』って言ったら学校のみんなガッカリしちゃって」
──へえー。「なぜ俺が行かなくしたかっていうと、やっぱり練習があるから。要するに1週間も修学旅行行っちゃうと、その分練習ができなくなっちゃうっていうのがあって。だから高校の修学旅行って、特別な事情がある人以外、ほとんどみんな行ったんだけど、俺だけ行かなかった。『練習を休まなきゃいけないのはダメだ』つって、行かなかったんですよ」
──あっ、そうなんだ?「そう。そのぐらいやっぱ、練習をするっていうか、バンドでやってること自体がもう無意識なんだけど、全部なんですよ。生活の」
──真剣勝負だったんだね?「そう。結構ね、真剣にやってて。そのノリでやってたから、デビューとかっていうのも、わりとその──それは『目標に向かって何とかするぞ』とかっていうんじゃなくって、『もう大丈夫さ』みたいなのが本質的にあって。だからコンテストとか、結構イーストウエストとか、ポプコンとか、あとその受かったCBSのソニーのSDオーディションとかっていうのも、わりとこう当たり前のように出てたし。もちろんそれだけ週にやっぱ2、3回は絶対、修学旅行行かないぐらい熱心に練習もしてたから。今振り返るとなんですけど、その中で完結してるんですよ、バンドで。バンドで音楽をやるっていうのはもう“当たり前”なんですよね。それが通用していくのも当たり前って、やっぱ若いし、もう100%思ってて」
──なるほどね。「意識もしてない、そんなこと」
──普通に自信満々なんだ?「普通に自信満々。幸い…幸か不幸かつうかその、コンテストがわりと受かるようになっちゃったし。で、最後はそのCBSでデビューになったでしょ、オーディションで。だから中学、高校からずっとリハーサルばっかりやって、修学旅行も行かないでっていうのの延長でそのまま行った」
──なるほど。じゃああれだね、普通にコンテストに出てデビューしてるわけだけど、その頃よくさ、態度が悪いとか言われてたじゃん? むしろ普通だったんだね。「そうそう」
──何かそんなに別に「あっ、デビューできた!ありがたい」みたいな、そういう感じではなくて。「どうだ?」ぐらいの気分だったんだね?「そう。同じ仲間じゃない?中1時代からの。ベースの成ちゃん(高緑成治)は高校からの仲間だけど。だからその、内輪の感じが常にこう、熱いわけよ。トントン拍子っていうか、コンテストも受かってってたから。それはもう全部、自信にはなってくるじゃない?『ほらほら』みたいな。『ほら、やっぱ受かった』『ほら、受かった』みたいな。で、そのまま行ってるでしょ。常にやってるのはいつもの仲間だし。その中で完結してるから、何となく近寄りにくいっていうか、そういう雰囲気あったじゃない?20歳ぐらいの時って」
──あったあった。なるほどね。「それはだからこう、バンドの中で完結してて、それ以外のものをむしろわからない感じですよね」
──ああー。「バンドで完結しすぎてて。未だにさっぱりわかんないんだけど。当時はもっとわかんなかった」
──客観的に「周りと自分たちどうなんだろう?」とか、見ることもできなかったし、見る必要もなかったしっていう。「必要もなかった。そう。仲間同士ってすごいですよね、だからね」
──それが端から見ると何か、やたら──。「内輪系っていうかね?」
──うんうん。怖いもんなしっていうか、態度悪いっていうか、そういうふうに見えたんだね。「そう」
──いや、このタイプの悪さ、決して悪気がある訳でもないし、何か“信念と一生懸命さ”みたいなものが故だろうと思ってたんだけど。プラスαそういう部分もあったんだね?「そうだと思います」
──成り立ちみたいな。「お客さんに怒鳴ったりとかしてるライブの初期においてはさ、ライブハウスとかで態度悪いっていうのもさ、結局、慣れてないからなんですよ。普段お客さんも別にいないし。だから、デビュー当時に3つか4つバンドが出るイベントが渋谷のeggmanってとこであった時に、300人くらいお客さん来てて。いろんなバンドのお客さんが来てるんだけど、とりあえず知らないバンドでも手拍子とかする訳よ。他のバンドを目当てに来てる人たちも、一応ノッてくれるんですよ。でもそういうの慣れてないから。もう、だから『これ変じゃないか?』って」
──ははははは。「いいよ、別に無理してそんなって」
──ものさしなさすぎだろ(笑)。「『無理して拍手しなくてもいいんじゃないか?』『好きなようにしてくれないか?』と。つまんないところで拍手されてもちょっと歌いにくいしっていう感じですよね」
──客からするとね、「別にあんたの親戚じゃないんだから怒らないでくれる?俺たち金払って来てんだから」っていう、根本的なズレがあったんだね。ちょっとマニアックな話になるけど、ビートルズか(ローリング・)ストーンズかって言うと、ストーンズに成り立ち近いね。
「そう。ストーンズになりたかったですね」
──ああー。ビートルズはほら、結構苦労したりとかさ。いろんな目にあって、いろんな役割を負わされたりとかしたうえで、ようやく来たから、結構振る舞いがわざとらしいっていうか、客観視しながら動いてるようなところあるけど。ストーンズってもう普通にいて、普通に無邪気な感じじゃん?あれに近いよね。どっちかに近いっつったらね。キースとかね、あの感じだな。で、デビューしてさ、ある種このバンドは絶対的にすごいっていう評価を得たと共に、そんなに売れなかったじゃん?「うん」
“素”であるのを強調するっていう、
周囲の作為の中にいたんだよね
──そのへんはどうだったの?しかもそれが結構アルバム7枚ぐらい、約10年続いた。まあいろいろあったと思うけど。

「デビューするまでは、だからもう内輪の感じで。まだ学校に俺、通ってたし。デビューした時もまだ大学2年か3年だったんですよ。切れ目なくそうやって、要するにアマチュアの時代からのノリ、4人でやってるノリでずーっとやってて。デビューしてからももちろん学生だったし。だって俺、生でライブハウスかなんかでコンサートあった後にさ、卒業式があるからってわざわざ帰ったんだから1回。ツアー中に『卒業式がある』つって帰って、また行ったりとかしてたんだよ。それで、当然売れるところまでは考えてないんですよ、やっぱり。当時RCサクセションとかさ、ストリート・スライダーズとか憧れてるバンドが日本にもいくつかあって。やっぱ自分たちもおおっぴらになる前にはさ、何かいろいろ展開があるんだろうなってワクワクしてる感じ。むしろ俺たち自分でさ、ライブハウスで人増やしたこともないし、何にもやったことないんですよ。単に練習してコンテストに出ると。だから自分たちで『チケット買って』つって、ファンクラブみたいなことやるタイプのバンドの人もいて。俺たちはやってなかった。入ったら、事務所の人とか、レコード会社の人がいろいろ考えてくれて、もしかすると服装とかもいい服着せてもらえるのかな?っていうふうに思ってたんだけど──で、最近わかったんだよ、結構やっぱみんな自分たちで考えてやってるね」
──(笑)。
「服装とかも人がやるんじゃなくて、やっぱむしろ自分で考えてちゃんとこう、やってるんですよ。それを周りのスタッフがフォローするっていうことなんだけど。俺はもうさっぱりわかんないから。何か王様じゃないけど、みんないろいろ考えてくれて、俺たちがそれをやるだけで、っていうふうに思ってたら、何にもしないのよ。びっくりしちゃって。で、“何にもしないふうに見せるような策略”を練り出したんですよ。周りの人たちが。やっぱ俺たちがあまりにも素な感じでデビューしてるから、それがかっこいいっていうことなんですよ。要するに4人で若い時からの仲間同士で、声のデカイ歌を歌う人がいて…っていうのが売りだったから。それをより強調する方向っていうか。だから、たとえば渋谷公会堂で電気つけっぱなしでコンサートって、そんなの楽しい訳なくて。コンサートっていうのは当然、一般論で言ったらお客さんの席が暗くて、ステージが明るくて、照明がバーッとかなってっていうことが当たり前じゃないですか?ライブハウスでもそうだし。まあ普通はそういうもんだと。ところが渋谷公会堂で電気つけっぱなしでやるっていうのは、“むき出しの感じ”っていうものを演出する為というか。でも俺本人はそんなことさえも思ってない訳よ。もう“素”なんだからさ。一生懸命やるっていうことだけでしょ。ところが、大人から見ると何かこう態度が悪いっていうか、お客さんに怒ったりっていうのが、すごくやっぱかっこよく見えるし、ピュアに見えるから。それをむしろ作為的に強調して、渋谷公会堂で電気つけっぱなしライブやったりとか。服装もみんなダイエーとか、近所のスーパーで買ったような服着てさ。俺なんか用品店が好きだったから、紳士服のね。普通のスラックスはいてさ。それでこう、服も白いシャツが好きだったからワイシャツ。もう親父からもらったようなワイシャツですよね。そういうワイシャツを着てコンサートやるっていうのにしてたね。周りはむしろそうやって華やかな洋服を着せるとかっていうんじゃなくて、それを強調するっていうか。だから、すごい気持ち悪かったですよ。初めて社会と出会ったっていうか、これまで内輪でずっとやってたのが、周囲の作為がそこに生まれてるから。それはいい、悪いじゃなくて、実はやっぱりその渦中にいた訳ですよ、“素”じゃなくて。その、“素であるっていうのを強調する”っていう、そういうノリの中にいたんだよね」
──なるほど。
「だから事務所やレコード会社のスタッフとは、よく話し合ってたけどね」
──あっ、そうなんだ?
「うんうん。『何でもうちょっとちゃんとやらないんですか?』とか」
──もとはと言えばあれだよね、そういうことに自分たちは我関せずっていうのをやってた、そこに端を発してる訳だよね?
「そう。それがかっこよく見えたもんだから、“それのままで行ける”っていうふうにやっぱりみんな思ってくれたんだろうね」
──なるほど。
「曲も当時としてはすごくストレートな曲だった。“ファイティングマン”とかもう既に入ってるし。今でもライブでもやってるけど。“花男”とかも入ってるし。そういう歌詞がさ、やっぱりすごくストレートで、相当クオリティが高いんですよ。今でもまったく同じ気持ちで歌えるからね、俺。“ファイティングマン”も“花男”も“デーデ”も。30年前の曲なんだけど、“星の砂”だってもう全然同じ気持ちで歌えるから。そのぐらいのクオリティのものが入ってるから、あとは要するに勝手に、態度の悪さとかも含めてロックっぽいっていうとこさえ強調すれば、っていうことでさ。自分は無自覚だけど、周りはそれをわかってる訳。自分はもうただ素で4人のほら、中学、高校の仲間とそのままやってるだけの話だから。そういう意図が入ってくると──」
──違和感を感じる訳ね?
「そうそうそう。『それはやっぱりやんなきゃダメなんですか?』みたいな。渋公で何で電気つけっぱなしでね。DVDにも入ってるけど“奴隷天国”のさ──」
──そうだね(笑)。
「『何で“奴隷天国”はあの、開場してまだ始まる時間じゃない時から俺歌ってんだろう?』みたいな」
──何かね。
「そういうことはやっぱあった。まあ半分楽しんでるところもあったけど、途中からはね。最初デビューした当時はびっくりしましたね」
──セールスのことは気にしてなかったの?
「いや、だから今程シビアには感じてないですよね。やっぱりその、気にはしてるんだけど。たとえばさ、RCサクセションが3万枚売れてるから、3万枚売れてりゃかっこいいよな、ロックだからみたいな感じで捉えてたから。他がどのぐらい売れてるとかって最近だよね、みんなそういうの気にするようになったの。世間が。ここ15年ぐらいじゃない?今みんな売れてる、売れてないっていうの気にするのはすごくこう──普通の日常だけど、昔は全然あんま気にしてなかった気がする」
──そうなんだ?
「うん。してたかな?してた?してたね」
──(笑)。してたよー。だって長かったもん。売れるまでの約10年間。
「ああー、そうか」
若いとさ、現実よりロマンがでかいから。
お金のないのにあんまり気付かないんだよ
──俺の記憶だとアルバムリリースして、しばらく経って「結果どうでしたか?」って聞いて、「前作同様1万3000枚ちょっと越えたぐらいですね」っていうのがアルバム5枚続いて10年間続いて──。
「7枚」
──7枚か。そうそう、7枚。で、10年間続いたらさ、流石に気にしてたと思うんだよ。
「あっ、後半?エピックにいた時の──」
──そうそう。
「デビューから始まって、途中からは随分考えるようになりました。だからその5枚目っていう頃はもう、プロデューサーとかも入れたほうがいいんじゃないかって。いや、俺もともと結構そういうの好きなのよ。誰かにあてながら俺曲作るから。たとえば最初バンドのメンバーに、自分で考えたリフとかをあてて、また戻って来るもので考えたりとかっていう。まあ作業って何でもそうだと思うんだけど。ある程度はね、自分で考えても100%やる人はいなくて。だから、やっぱり5枚もレコード作ってるとね、ちょっと煮詰まるから。その時にプロデューサーとかを入れてやろうかなと思ったこともありますよね」
──いやその煮詰まる部分も当然わかるんだけど。そうではなくて、アマチュアの頃から自信があって、その中だけで完全に完結して、しかも周りからどんどんOKが出てさ。
「最初?」
──最初ね。で、デビューした訳じゃん?それが大きく受け入れられなかった。大きく売れなかったっていうことって、宮本くんの中でどう消化してたの?その事実を。「みんなバカじゃないのか」と思ってたのか、それともすごい悩んでたのか、どうなの?
「うーん、でもね、まだ実家にいたんですよ。3枚、4枚目ぐらいまでの時とか」
──ははは。
「23、4くらいまで実家にいて。要するにやってる仲間はいつもの連中でしょ。で、家帰ると親父とお袋がいて。家でご飯も食べてたし。むしろね、お金の使い道に困ってたの。俺アルバイトも何もしたことないんですよ。アルバイトなんか高校の時なんか3日で終わっちゃうんだから。すぐクビになっちゃうから。それで、給料をもらえるようになって、そのお金の使い道に困っちゃって。つったって9万円ぐらいなんだけど。でも実家にいるから、9万円まるまるお小遣いになる訳よ。実家にいて、24ぐらいまでは。で、ひとり暮らしをするようになってから、25ぐらいなんだけど、その頃からやっぱその、家賃があるから。俺、浮世絵買うんで、給料の前借りとかしてる訳。30万円のものを買うんで、2万円ずつ引くとかってやるから、残り7万円とかなんですよ。家賃が4万円ぐらいあってね。そうするともう3万円しかない訳よ。だからガスとか水道とか止まり出すんですよね。そうするとやっぱりわりとリアルな感じもちょっと出てくるんだけど。だって家にさ、ひとり暮らしするつって火鉢が5個と、茶箪笥2個。何を目的に──わざわざついてたクーラー取っちゃって。それで何か本ばっかりいっぱいあるし。一度山崎さん、来たじゃない?『土足であがっていい?』つって」
──何にもなかったね、本当に。
「そう」
──ぶっ壊れたラジカセと本棚しかなかったぐらいの感じだよね?
「そう。だからそういう感じだった。でもそれはそれでね、お金のないのって意外に気付かないよ、若いのって」
──それはでも東京生まれ、東京育ち、東京にずっといる人の独特の感じだね。
「あっ、そうなのかね。あっ、そう?」
──うん。
「でも意外に気付かない人いない? あのほら、若いとさ自分が、やっぱロマンがいっぱいあるから。そのロマンで生きてるから。現実よりも、そのロマンがデカイからお金のないのにあんまり気付いてないんだよ。水道が止まるとかってあとでほら、ネタにしてみんな友達を笑わせるみたいなのはあるんだけど。意外にね、気付かないもんなんだよ、お金ないのって。若いとね。ロマンがあるから。ただその、現実問題、契約が切れる切れないってなったのが6枚目ぐらいの時で。そうするとね、周りの大人の人たちがちょっと慌ただしくなってくるんだよ。『そろそろ契約切れそうだ』とかっていうのは言わないんだけど。『またこういうレコードですか……』みたいなことを事務所の人に言われたりとかする訳。『“奴隷天国”って、そんなの売れる訳ないじゃん』みたいな。『昔の1stアルバムの頃は何かサーッてなったけど、今は腹にズシズシくる感じがして、ダメ、これじゃダメなんだ』って言われて、『おまえふざけんな』みたいなさ、思う訳よ」
──ははははは。
「こっちは一生懸命、“奴隷天国”かっこいいじゃねえか?ってやってるんだと。でもやっぱ事実、売れないからさ。憂鬱でしたよ」
──なるほどね。
「すごい憂鬱。要するに会話がなくなっちゃった、メンバー4人の。話すこともない訳よ。で、サ店に行くと歌謡曲がずっと有線で流れてるんですけど。だから、そういうの聴くようになったよ。有線放送の歌謡曲を。売れてる人たちなんだろうね、あれ。聴いて、それで自信をつけてた。『俺がやってることは大丈夫だ』と。その自信だけはあるんだけど、憂鬱は憂鬱でしたね」
──なるほどね。っていうかまあ、有線聴いて自信をつけてたっていうことが自体ヤバイよね。
「あっ、そう?」
──いやだって、それまでそんなこと絶対なかったでしょ?
「まあね。有線なんか──。リクエストとかはしてたけどね」
──(笑)。
「『“デーデ”、“デーデ”』とか。“デーデ”をリクエストすると流してくれるんですよ、有線って」

ずっと歩きながら人の曲いっぱい聴いてた。
契約が切れてる2年間は
──なるほどね。自分たちを認めてくれたり、自分たちを支えてくれてた周りの大人の人の雲行きが怪しくなってきて、周りのことなんか別に見ないでも俺たちの自信だけで行くんだっていうその基盤自体がヤバくなった時に初めて、不安になったっていう感じなんだ?
「そうだねえ、はい」
──じゃああれだね、契約がやっぱり切れるってその時期に初めてドーンと何かにぶつかったっていう感じなの?
「のようなことを感じたんですよね。俺でもね、27で『東京の空』っていうアルバムを作ったんですよ。よくぞエピックっていうは、1万枚も売れてない時もあったのに、7枚もレコード出してくれたなって、むしろ感謝の意のほうがあるんだけど。でもね、7枚目の『東京の空』っていう時に、いよいよ『契約が切れる』ってもう明言されたのよ。あれね、26ぐらいでしょ、まだ。もう本当俺すっきりしたの。『よかった』と思ったよ。『これで俺また自由になれる』と思ったもん」
──えっ、そうなの?
「うん。『東京の空』のレコーディングをちょうどやってて。俺、自信あったのよ。それはなぜなら、『奴隷天国』っていうアルバムでバンド回帰みたいなことをやって、俺は『うまく行かない』っていうふうに思って。音楽のことだけで言うと。かっこいいんだけど、俺が思ってるのと違うと。1stアルバムの“ファイティングマン”と明らかに鳴ってる音が違うっていうふうに思う訳よ。そうするともう、次は自分の力でやるって方向性がはっきりしたから」
──見えてたんだね?
「見えてた。はっきり見えてた。だから『東京の空』、ものすごい自信があったんだけど、ちょうどいいタイミングっていうか。『契約が切れる、宮本くん』って事務所の人やレコード会社の人が来て──『俺、山中湖行ってさ、コンビニの店員でもやろうかな』とかって横で言ってる中でレコーディングしてて。俺は『東京の空』が見えてるから、レコーディング中は、もう関係ない訳。俺はこんなにいいレコード作って、そこに音が鳴ってるから。それを形にすればよかったから。歌詞もほら、パッとこう『コミュニケーション』とか英語が入ったりとかして、いい意味での無理してる感じが出てきてるじゃない?『東京の空』。近藤等則さんとやったりとか、Dr.kyOnに素敵なピアノ弾いてもらったりとかしてさ。そういう、いろんなミュージシャンとさ──」
──テンション高いよね、あのアルバムね。
「もう契約切れるってわかってて。で、注文が俺たちにしてはね、一番多かったの。7000枚くらい出荷してね、1週間で3000枚ぐらい来たんだよ。もうしばらく出荷停止。売れちゃマズいから。もう契約切るからね。でも一番売れてたの。それがちょっと辛かったですね。でもね、坂西伊作さんとかがいたから、ビデオもたぶん一生懸命演出してさ、作ってくれたりとか。だから、先を見てる人はたくさんいた」
──なるほど、なるほど。
「で、その『東京の空』っていうのもさ、2300万円ぐらいかかっちゃってる訳。予算がさ。そんなのあり得ないよ、1万枚しか売れてないバンドで、当時で2300万て相当な額ですよ。制作費だけだからね、宣伝も何もない。だからさ、そういう環境にいたんだよ」
──なるほどね。
「俺、知らないうちにどんどこどんどこ金使っちゃってて。プリプロなんか、俺、5回も7回も歌やり直したりとかしてた訳よ。だからもうクビ切んなきゃダメなんだけど」
──でも宮本くんの性格のことだからさ、きっとその、確かにあのアルバムで新しい明日の自分の音楽みたいなのが見えててテンション高かったっていうのもあるけども。やっぱりこれで最後になる訳だから、「畜生、この野郎、絶対すごいもん作って後悔さしてやる」みたいな意地の部分もあったんじゃないかな?
「あっ、それもあると思う。それもあると思うんですけど、みんなが思ってる程はやっぱり──。でも、音楽雑誌に『エレファントカシマシは遂にマニアックなバンドとしてその生涯を終えた』みたいなこと書いてあって。それ見て、『この野郎……』とは思ったですよ。それはある」
──なるほどね。
「そういうのもすごい辛かったし。『もうこのバンドは終わった』っていうのは。じわじわですよ、要するに、契約も切れて、事務所も解散しちゃったでしょ?その間が一番辛かった。その浪人生活。その時はマラソンしちゃったからね、俺」
──マジで(笑)?何で?
「わかんない」
──やり場がなくて?
「2年間浪人したんですよ。契約切れちゃって、で、初めて社会と接する感じ」
──2年もあった?
「約2年。初めて、だからその社会との出会いですね。ランニングシューズも何もないから、革靴でマラソン」
──(笑)。
「革靴でマラソンして、中国語講座。週に1回の中国語講座。それとあとやっぱ、ミスチル(Mr.Children)から小沢健二が当時流行ってたのね、奥田民生とかも売れてたねえ。みんな聴いて、貸しレコード屋行ってさ、全部借りてきてさ。聴いたことなかったんだから。全部聴いてさ。契約切れてる間は、散歩しながらさ、聴いてましたね。『Atomic Heart』とか300万枚とか、やっぱすごく売れてて。ちょうど桑田佳祐さんが『孤独の太陽』とかのソロ出してたりとか。ずっと歩きながら何日も人のいっぱい聴いてさ。忘れもしない。」
──なるほどね。
「その浪人の2年間が始まって、そうすると今度レコード会社と事務所探さなきゃいけないっていうのがあって。ずいぶん助けてもらったけど、山崎さんにもさ。でもほら普段はやっぱひとりでさ。山崎さんも仕事してるから、ずっといる訳にいかないじゃない? だから自分で、レコード会社の人たちに営業したんですよ。自分たちでテープ録って。で、みんなさ、成ちゃんなんかもう結婚して子供いたからさ、缶詰工場か何かでバイトしててさ。で、石くんは寿司屋の出前」
──そうだね。
「で、トミは道路工事の──」
──作業員。
「作業員やってて。俺は当然バイトもできないから営業」
──ははははは。
「それはでもね、辛かったですよ。楽しかったんだけど、辛いですよ。リアルだもん、何かいろいろ」
──そこででも、音楽性もやっぱり変わったじゃない?
「一気に変わりましたね」
──ね。それは──?
「一気にじゃないんだよね。だからその、『東京の空』の延長なのよ」
──なるほど。
「それをより深くできた。経験的にはよかった。26歳でしょ?まだ。若いから、経験値にできるんだよ」
お客さんが来てくれるのが、
すごいリアリティがあって嬉しかった
──あの時の音楽の変化って、『東京の空』から続いてるんだけど、いちミュージシャンとして、これまで自分は音楽をこういうつもりで作ってきたけど、こういう部分が変わったんだっていうのを何か言葉にできる?その『東京の空』から始まって──。
「“悲しみの果て”とか、“四月の風”とかね」
──どういう変化によって生まれてきたのか?
「すごいはっきりわかってるのは、下北沢のQueとかSHELTERとかで、ライブやり出したんですよ。そうすると、それが目的になるんだよね。普段は営業したり、みんな作業員とか、缶詰工場とか、出前持ちやってんだけど、リハは相変わらずずっとやってるから。夜になっちゃったけどね、やってて。それでだから下北でコンサートやってさ。そこでやっぱお客さん来てくれるんだよ、エレファントカシマシの。すごいリアリティがあって嬉しい訳。そこに来てくれるの」
──それまではね、もうそこには関知しないっていうことだもんね?
「そう。関知してなかったから。3000人ぐらいのホールで20人とかでやってたじゃない?」
──そんなに酷くない。
「そう?でも100人はいなかった。野音でさえも800人ぐらいしか入ってなかったから。そういう中で、たとえばSHELTERでやった時にさ、SHELTERの人が表紙にしてくれたんだよ、エレファントカシマシを。それは嬉しかったのと、あと、現金でさ、終わったあと金くれるんだよ、『はい』つって。『今日の分です』つってさ。そういうのもすごいリアルで、結構いい金になるんだよね、あれ。で、お客さんが来てくれるでしょ。そこのお客さんに歌うようになったんですよ。それが一番デカイ」
──なるほど。
「で、今まで“花男”なんかやったってシーンとしてる中で、こっちの気持ちが違うから、みんなに伝えよう伝えようと思って下北でやるでしょ?そうすると、自然にこれ(観客が拳を突き上げるポーズ)が来る訳。これもんで。昔とは違って、本気でみんな『エレファントカシマシが目の前でやってる、ワーッ』つってさ。結構ライヴハウスとかでもさ、対バンの人とかがこう『エレファントカシマシ?ふっ』みたいなほら、地元のアマチュアのバンドとかが──」
──下北でね。
「そうそう。結構いい感じでさ、おもしろかったね。夜中の1時、2時からの日もあったりとか。単独じゃないですからね。いろんなバンド、地元のバンドと対バンでさ、やって。で、お客さんが来てくれる」
──その変化がやっぱり曲の変化とか、アレンジの変化とかに?
「より深まったですね、その時の方向性が。そこにいるお客さんを通して。で、辛いんですよ、やっぱり。営業してて、人が会ってくれてる間はいいんだけど。家帰るとさ、もう散らかったとこでひとりでしょ?初めて、社会と向き合いましたね」
──なるほどね。
「のんき青年がね」
初めてちゃんと社会と自分の音楽が向き合ってる感じ
──で、まあそれを経て作ったアルバムが、シングルもそうだけど、これまでとは全然違うスケールでヒットして。いきなり受け入れられて。それはどうだったの?

「“悲しみの果て”と“四月の風”っていうシングルが入ってるアルバム『ココロに花を』がさ、オリコンでさ、10位になっちゃったんだよ。俺びっくりしちゃってさ。オリコンとかさ、何かロックとの違いみたいなほら、線引きがあったじゃん?最近なくなったけど、あったじゃない?だからその、オリコン載るとか考えもしなかった訳よ。10位なんですよ。びっくりしちゃってさ。」
──しかもそっからまた上がったよね?
「そうなの。タワーレコードでさ、1位になっちゃったんだよ。あれ何なんだろう?」
──ははははは。
「日本中のタワーレコードで1位になって。浪人生活、短い時間だったけど、ちゃんと社会と向き合うっていうか、2年ぐらい経験したことで、プロモーションも必要だとか、身をもって体験できたことで、一生懸命やったし。で、次のアルバムは土方(隆行)さんと佐久間(正英)さんっていうプロデューサーとやるようになって。で、音とかも自分たちの、いい意味での熱量はあるんだけれども、ちょっと聴きにくいところも初めて入ったり。そういうところもちょっと改善するんだっていう意識のもとで作ったアルバム『ココロに花を』が、オリコン10位になったでしょ。嬉しかったのは、『宮本くん、3万越えたよ』次、『5万越えたよ』つって。レコーディング中にさ、『7万越えたよ』『10万越えたよ』ってこう来る訳ですよ。結構嬉しかった。その時から、次の“今宵の月のように”が入ってるアルバムなんだけど。そこまではすごく、気持ちも高ぶってるし。まあ10年分だよね。10年間やって、いろんなことあったけどさ。初めてちゃんと社会と自分の音楽が向き合ってる感じ。音楽を通じてね」
──そうだね。あの2枚のアルバムとか、シングルが受け入れられたっていうこともあるけど、やっぱ「エレファントカシマシ宮本浩次」っていう才能が初めてみんなに認められたというか、受け入れられたっていう、そのデカイことでもあったじゃない?
「だってさ、あれエピックの時なんてさ、友達つっていいかわかんないけどさ、山崎さんとしか話できなかったけどね」
──何で(笑)?
「そう思わない?いや、マジで。これが載るかどうかは別としてさ。あの熱量すごかったよね?」
──そうだね。だから50万人分ぐらいの熱量をふたりでとりあえず燃やしてたよね、そしてね。他に何か熱い人、そんなに多くいなかったからね。まあいたんだけどね、当時。
「そうなのかもしんないね」
──1万3000って──。
「だって(ロッキング・オン・ジャパンの)表紙にまでしてくれてたもんね。あれも信じられないよね。でも嬉しかったねえ」
──本当に、その2枚のアルバムはすごく大ヒットして──。
「すごい売れちゃったんだよ」
もっといい音があるんじゃないかって。
自分の鳴ってる音にしたいって
──14、5年前にそういう大ブレイクがあって。そのままブレイクし続けたかっていうと、そういうことはなくて。また簡単に言っちゃうと売れなくなっていくじゃん?
「うん」
──それはやっぱり、あの大成功っていうのは、やっと認められて、受け入れられて、世間とちゃんと向き合えたっていういい部分もあるけど、あの成功がもたらしたマイナス、影の部分っていうのはあったの?
「うーん、あのさ曲作る時って、いろんなこと考えちゃう訳。それでいろんな方向性があるんですよ。たとえば打ち込みでやることもできるし。俺やっぱり人を信用しないようになってたから、音に関して。だから、バンドのメンバーを100%人としてはもちろん信頼してるんだけど、じゃあその音を出す人間としてね、っていうこととかも考え出す訳よ。それは永遠の問題で、今も考えてることだし、難しいことなんだけど。音っていうのはさ、どんな音でもそうだけど、たとえば曲があって、ドラムがあって、ベースがあって、ギターがあって、歌があるじゃない。それってでも1曲の曲ってどういうふうにでもできるじゃない?たとえば“今宵の月のように”“悲しみの果て”だって、どういうふうにして作るかで、全然聴こえ方も違うし。歌う人によってもきっと違うと思うし。だからいろんなやり方があって。それは俺たちはエレファントカシマシっていうバンドでやってるんだけど、“今宵の月のように”がヒットした時で、もう20年近くやってる訳でさ。そうするとさ、いろんなことにトライしたくなってくるの。要するに『それでいいのか?』っていうことになってくる訳よ。ものってひとりで作れる訳じゃないんだけど、バンドでしかやらないっていうのが息苦しくなってくるんですよ、これ。何つうんだろうな……わかるでしょ?要するにこの音の──いや、わからない?」
──わかるよ。いや、わかるけどたとえば“今宵の月のように”“悲しみの果て”が大ヒットしたっていうことはさ、あの2曲に限って言うと、あれ宮本くんが作った曲だよね?宮本くんが歌ってる曲だよね?しかも世間が喜んで受け入れた曲。ということは、それはひとつの答えだっていうことな訳じゃない? で、新しいやったことないことをやりたいっていうのもわかるけど、ひとつ成功してこれが正解だったんだってなったら、その正解をすごく大事にやっていくっていう道もあったと思うんだけど。
「ああー」
──こっちやりたいっていうのはわかるけど、これを捨ててまでこっちをやるっていうのには何か強い──。
「それは音よ、音」
──音への興味?
「興味じゃなくてその、遡っちゃうんだけど『東京の空』っていうアルバムはさ、もう本当にほとんど全部自分でやってる訳。演奏はみんなでやってるんだけど。アレンジとかさ。それは初めて全部自分で思ってることを形にしたのね。それでそれのあとで契約が切れたから、いい意味で“バンドでやる”っていうふうに向かったのよ。で、何でひとりでやったかっていうと、それはやっぱり音に対する不信感。『奴隷天国』っていうアルバムで、聴いてる人はちっとも気付かないし、『バンドじゃん』とかって言うんだけど、そういうことじゃなくって。自分は常に不信感を持ってるんですよ。音に対する疑問っていうかさ。もっといい音があるんじゃないかって。それはわがままとかそういうことではなくて、個人としてずっと思っちゃってるし、しょうがないんだけど。信頼してないんですよ、音を。だから『東京の空』ではその中でも信頼できるエンジニアの人と、全部ドラムもアレンジ決めて。できる範囲でね。ベースも決めて、ギターも決めてっていうことをやって。で、何でそうなってるかっていうと、自分の鳴ってる音にしたいっていうのがあった訳よ。でもその、契約が切れたことで、音に関して言うと、不思議なもんでバランスだと思うんだけど、バンドのほうが売れるって常に思ってるのよ。それでその、見栄えもね、ちょうどサッカーがほら、Jリーグが発足したりとかした頃で。まさに『バンドいい』っていうふうに、俺はそういう理由づけで仲間とやってるっていうのがすごくいいっていうふうに思ったし。だからわりと、1度プライベートサウンドのほうに行きそうになったものが、もう1回ちょっとバンドでやるっていうほうが見栄えもいいって思うようになって。あとほら、『このバンドで売れてやる』みたいなのも出てきたし。契約切れちゃったから、さっきの『悔しい』じゃないけど。あとやっぱり自分が相当無理したんだな、その2年か3年の間に。プロモーションも夜中の3時4時までさ、『こんにちは。エレファントカシマシの宮本です。ニューシングルできました。聴いて下さい』つって、あらゆるテレビ頑張って出たし。まあ当たり前のことなんだよ、仕事としては。みんなやってることだし。自分としてはすごい短い時間にダイナミックに生活が変わった感じがあって。で、ふとこうなった時に、やっぱ、自分の鳴ってる音にしたいって。だから佐久間さんとか土方さんとやってる音とかも、今聴くともちろんすごく良いんだけど、当時は自分の音じゃないから、すごいストレスになって。自分で聴いて、新宿の路上でウォークマン叩き割った時があるんだけど。そのくらいやっぱ違和感があった音なのね。それは当たり前のことで、別に驚くことでも何でもないんだけどね。要するに自分の音に対するこだわりっていうのを封印して、バンドで売れることと、自分がもう1回しっかりこの曲を聴かせていくっていう方向に行ってる訳だよ、その2年か3年はさ。それをもう1回プライベートな自分の音にしたくて。それで『愛と夢』っていうアルバム、打ち込みであれはほとんど作ってるんですよ。バンドで演奏してなくて、打ち込みで作ってて。曲は最高なんだけど、どれも。わかりにくいふうに却ってなっちゃったんだけど。それは実験的に、打ち込みってどういうもんだろう?つって。だから、集中的に“今宵の月〜”とか“悲しみの果て”の時期に全部雑誌出るぞ、全部テレビ出るぞ、全部プロモーションやるぞってやったけど──」
──その疲れ?
「その疲れもあったのと、それがある種──。わかりやすく言うとそういう集中してやったっていうのがあって。ちょっとやっぱり歪みっていうか、一生懸命やりすぎると反動ってあるじゃない?人間って必ず何かやると」
──そうなんだよね。
「その反動があって」
──でもその反動の中でも一番大きな反動は、きっと、売れたこの2枚のアルバムなんだろうね。「これは俺だけども、でもこれは俺の音じゃないんだ」っていう、そういう宮本くんの中での何か──。
「あったかもですね」

俺の場合、全部感覚的なものでやってたから。
確信的にやってる人には敵わないと思った
──そのストレスっていうのが、一番大きな反動の原因になったんだろうね?今話聞いてると。だってインタビューでもさ、やっと売れたし、いいアルバムだし、ポップだしいいねって。でも「余技ですよ」って言ってたもんね、あの時ね。一生懸命言ってたよね? 「こんなのは余技だ」「俺の本領じゃない」つって。
「何でそういうふうに思ったかっていうとね、テレビに出るとね、それこそGLAYとかが全盛期だったけど、みんなちゃんと確信的にあの音を出してるってわかるの。それはすごく堂々たるものですよ。音楽が好むと好まざるとに関わらず。やっぱ北海道から出て来てさ、堂々と、自分たちのやりたいことで売れてるっていうふうに俺には見えた。実際いろいろもちろん考えてるところはあると思うよ。でもそれさえもちゃんとわかって、ある種自立した大人の中で──」
──本領だって──。
「やってる訳。自分でちゃんと考え尽くして、それをちゃんとできてる人たちなのよ。でも俺の場合はさ、全部アイディアじゃないけど、俺の気分っていうか、『今はサッカーブームだ、バンドだ』みたいな、そういうのをほら、『今度は売れる時が来た。石くん行くぞ』みたいなさ、『売れるんだ、俺たちは』みたいな、わりと感覚的なもんでやるじゃない? だから敵わないっていうことは思ったの、俺。やっぱこう、彼らがテレビサイズになった時に、非常に堂々と歌えるのはなぜだろう?って。それは別に自分たちの曲がダメだとかってことじゃないんだよ。実は“悲しみの果て”も、全然余技でも何でもないんだよ。あれだってものすごい精一杯やったものの結果なんだけど。当時自分が思ったのは、彼らとの違いが実は自立してるかどうかの違いだったんだけども。俺はやっぱわりと感覚的に全部やってたんだろうね。で、それの延長。だから一緒なのよ、俺の中では。要するに『今売る時だ、石くん行くぜ』みたいなのと、『やっぱこれからは打ち込みだろう』っていうの。まあそれはもともと不信感みたいなものもあったから。いろいろな要素があるうちの、今これ、今これみたいな感じで。まあだから、すさまじい才能としか言い様ないんだけど。まあいいんだけどそれは」
──ははははは。
「よくそれでやれる訳よ」
──まあ、そうだね。本当そうだよ。
「それで全部ずっとやっちゃってたんだよ」
──そうだよね。
「あとやっぱ忙しくて辛い。どんなにやっても敵わない人たちがいる、売り上げにおいてね。『もう何しろ売る』って言ってやった時にさ、結局80万枚ぐらいだし“今宵の月〜”だって。まあロングセラーだったよ、すごく愛された曲にはなったけど」
──なるほど。そういうもんがいろんな要素でそういう反動となって表れるんだ。
「で、結果として要するに自分の中の結論としては、自分の好きな音をやる時期だっていう結論にはなってるんだけど。まあそこの間には、いろいろやっぱあるんだと思うんだよね」
──やっぱ俺の音をちゃんと確立して、それによってちゃんと勝ちたいっていう前向きな思いで当時のインタビューはまとめたような気がするな。
「のつもりではいた訳よ。そう、でも実際そうだと思うんだよね」
──なるほどね。
「引っ越したりとかね」
──だから疲れとか、ストレスとか、余技とか、反動とかいろんな言葉がごちゃ混ぜに、そういう事柄が団子状態になったとも言えるけど、でもやっぱり、本当に自分として勝つにはどうすればいいのかっていうのは模索しなきゃいけないって思ったんだろうね。

「そうね。でもね、やっぱ生活も変わってる。収入も増えたから。爆発的に増えたの。自分比だけど。前は7万とか8万の手取りでやってるじゃない?で、4万円の公団に住んでたの。それが収入上がったし、それでなくてももう狭苦しくて嫌だったから、きれいなとこに引っ越したの。それも公団だから、公団から公団なんだけど。でも新しいところに引っ越して。荷物とかも全部ほら、それこそ山崎さんのあの、『風に吹かれて(─エレファントカシマシの軌跡)』っていう単行本のエンディングに書いたけど。ちょうどあれ引っ越した頃でさ。俺何やっていいかわかんなかったよ、半分。要するに“今宵の月のように”で、俺タイアップ取りたかったんだよ。テレビのタイアップでドラマになるといいなって。それも短絡的でさ、ドラマの主題歌になれば絶対売れるとかっていうふうに思い込んでたんだよね。そんなこと絶対ないんだけど。したら、いい歌になったから。だから俺コンサートでも言うんだけどさ、テレビで“今宵の月のように”がドラマの主題歌で流れる時、絶対俺聴くまい聴くまいって思ってたんだけど。だってテレビに出てくるの恥ずかしいしさ。でも、どうしても見なきゃいけなくなるじゃない?やっぱり。自分の歌が主題歌で第1回目──『月の輝く夜だから』っていうドラマですよ!テレビから流れたら、嬉しいよお?これ」
──ははははは。
「で、それで売れて、貯金とかも増えて。貯金が増えて困っちゃってさ。だから引っ越したりとかして。それでもビビってるから。お金使い慣れてないから。俺それまで4万円でしょ。だからその、要するに家賃がちょっと高くなるのとかも、十何万円になっちゃうだけの話なんだけど、もうなるべく抑え込んでさ。実はもうちょっといいとこでもよかったみたいなんだけど。新築の公団ね、に引っ越して。だから、そういうちょっとこう、ホッとしてんのもあるのかもしんないよね。何かこう生活パターン変えて」
──なるほどね。不自然な部屋だったもんね。
「山崎さん、急須の図録見て帰ってったじゃない?」
──確かにきれいなマンションで、何かオートロックのセキュリティーがあるさ。
「そう、オートロック」
──これまでの、本当に古い昭和の公団の団地とは見違えるようなあれだったんだけど。でも部屋何もないしさ。何もないわりに何か急須と中国の家具みたいなのが──。
「そう。でもあの図録見てさ、『急須界、盛り上がってるね』って言ってくれて嬉しかったけどね」
──見たよね。それで2人であんましやることないから、とにかくお茶を飲んだの思い出した。帰りのタクシーで頭グルグル。
「酔うんだよね、お茶結構」
──目の裏に稲妻みたいなのが──。
「お腹が空いてたからね。そう、引っ越した。だからそういう時期ですよね。収入が増えて」
──なるほどね。まあでもその頃になるともう、30も越えて。要するに今の心境にわりとどんどん近づいていく訳でしょ?
「そうですね。だからその次のアルバムがだって『good morning』で、“ガストロンジャー”が入ってるから。佐久間さんとやった打ち込みだと、もちろんすごくコマーシャルっていうか、やっぱ聴きやすいものにはなってるんだけど、自分がやってる打ち込みとは違うなっていうふうに思ったから」
──なるほどね。
「その“ガストロンジャー”のアルバムでは、もう全部自分の普段使ってるさ、機材で。スタジオはなかったから、スタジオ借りてもらって。根岸(孝旨)さんっていうプロデューサーに手伝ってもらったんだけど。ほとんど打ち込み、もう100%打ち込み。ドラムまで叩いちゃってるもん」
──まさにもうあの曲なんて本当その、いろんな反動とか、もう1回自分の音を確立したいっていういろんなものの塊だね、あの曲はね、本当に。
「“ガストロンジャー”ね」
──しかもそれがちゃんとやっぱ形になったもんね。
「いやあ、あれは嬉しかったですねえ」
──久々というか、あれはテレビでも歌ったしね。
「そうですね。『HEY!HEY!HEY!』とか出たもん」
──そうだね。
「あれで初めてね」
──ロッキング・オンの会社でみんなで観てたよ、あれ。
「あっ、そう?」
──久しぶりだったじゃない?『HEY!HEY!HEY!』。
「いや、つうか初めて」
──あっ、初めてか。で、“ガストロンジャー”を歌う、宮本が歌う。何かあってはいけないと思って(笑)、みんなテレビの前にこうやって渋谷とか俺とかが。「ウケてるじゃん、ウケてるじゃーん」みたいな。
「そのぐらい心配してくれてたんだあ」
──まあアルバムごとに追うと、きっと誌面全然足りないから、すっごい大雑把に言っちゃうと、そっからの音の探求、自分の新たな本質的な音の探求っていうのは、アルバムごと、曲ごとにいろんな試行錯誤が始まる訳じゃない? で、まあ成功したのもあるし、ちょっとどうかな?っていうのもあれば、いろいろあって。で、『町を見下ろす丘』っていうアルバムで、もう1回そのやっぱりエレファントカシマシっていうバンドの音でっていうとこで、一旦その試行錯誤の紆余曲折みたいなのが、あそこでひとつ到着点っていうか。
「東芝のさ、EMIの最後ね」
──そうね。到達点があったように俺は思った。で、そっからより落ち着いた気持ちでというか、もう1回大人としての自分の成熟した姿勢で、ユニバーサル時代っていうのが始まって、今に至ってるじゃん? この今の心境というかな、そのスタンスっていうのは、戦いは続いてるし、栄光も経ているし、成功も経ているし。
「成功してるうちに入んのか?まあ20年やってんだからね」
30年間バンドでやってるって、伊達なことじゃないんだよ

──そうよ。そんな中で今、宮本くんはエレファントカシマシっていうのは、どういう姿勢で?まあ難しいけども。
「あのねえ──山崎さん煙草減ったね。俺、煙草やめたほうがいいよね」
──ははは。
「それちょっと俺思ったのは、体力ですよ。体力ってすごい大事だっていうのを。45でしょ、俺。そうするとね、日比谷の野音とかをもう20回以上やってるんだけど、それこそフェスとかもさ、真夏の炎天下の時もあるし。たくさんの人の前でやっぱり自分の歌、精一杯歌おうと思うじゃない?そうするとね、どんなに気力がそれなりに充実してても、体力がキツくなってくるの。で、それはすごい大事なことなんですよ。体力っていうのは一番大事だなと思う。だからその才能っていうかさ、歌の本質みたいなものって、それはたぶん努力でさ、何とかなるっていうこともないかもしれないけど。俺、曲作るのも体力だっていうふうに思ってて。瞬発力っていうかさ。切実です。それはもう曲作る力っていうか、コンサートやる力。それさえあればさ、少なくともみんなの前でこうやって歌歌っていけるでしょ?」
──うん。
「あと俺が思ったのは、実績っていうかさ、やっぱその30年間俺たちバンドでやってるんだけど、それって伊達なことじゃないんだよ。実績って言うとさ、ちょっとすごいことな感じだけど、20年間少なくともプロの世界にいて、30年間バンドでやってるとかっていうのってさ、ちゃんと自分にとっての糧になってるんですよね。要するに、このバンドを通じてレコードも出して、それこそ全然売れない時もあるし。まあ幸い仲間とやってるから、そんなに苦労とも思わないでいろんなことを経てるんだけど。でもそれをやってるっていうのはね、すごいことだって。ちゃんといい蓄積をされてる。生きてるとほら、ひとりぼっちでもやっぱいろんなこと経験して。辛い思いもいっぱいあるんだけどさ。でもその生きてるっていうところのさ、実績をバンドで経験してて。だからロマンの質は変化してないけど、ロマンの量的なものは10代、20代からやっぱ圧倒的に減るんだけど。その分ね、現実味っていうか、現実で生きてるっていう実績がね、増えていくし。それが自信にも、誇りにもなってるところがあって。それは無意識っていうかね、しみじみしたものなんだけど」
──ここ最近の?
「そう。今後のっていうところに。それは体力っていう部分と別に言えば、このバンドで世間と、ちゃんとやり取りしてきたっていうことは事実としてある訳よ。それが努力、不努力とか、なめてるとか、なめてないとかじゃなくて。もう事実として、売れても売れなくても『これだ』って。それはすごくこう、演奏の良し悪しとかだっていろいろあるんだけど。信頼、不信頼っていうことよりは、ロックバンドであるっていうことがすごく自分にとって、より普通のものになってるっていうこと。で、その普通の感覚で人と接すると、人ってわかってくれるっていうんだけど。対面の時でも、すぐほら憤慨とかしなければいい場面で俺、憤慨したりとかするじゃない? でも実はさ、ちゃんとこう、憤慨さえしなければさ、どんなこと言っても実は人ってわかってくれるし。不愉快なことがあったら、本当はちゃんと伝えればさ、相手の人もわかってくれる。でもそういうこともなかなか、バーンみたいなさ。何を言おうとしてるかわかります?」
──わかる。
「それで、素朴なその気持ちのままで、要するにバンドマンとしてストレートに曲を伝えていくっていうことが実はすごく素敵なことなんじゃないかっていうふうなスタンスになってるのね」
──なるほどね。
「だからこの2曲(ワインディングロード/東京からまんまで宇宙)の詞が特にその、ユニバーサルっていうか、“俺たちの明日”以降の自分たちの流れの中で、すごくストレートに詞が作れたのと、ストレートに歌えた。特に“ワインディングロード”」
良くも悪くも、今の俺達がちゃんとこの2曲に入ってる
──だから今回のこの2曲っていうのは、本当に今話してくれたようなことがすごくわかりやすく出てると思っていて。失ったものもあるじゃん?で、得たものもあるじゃん?これまでの流れの中でさ。ドイツの哲学用語でさ、「アウフヘーベン」っていうのがあるんだけどさ。
「へえー」
──要するに、議論っていうのはこっちだ、いやこっちだ、○だ、×だ、右だ、左だっていう形で進んで行く訳じゃん?でもこれのいいところと、これの言えてるとこっていうのをパッと言い当てるひとつのことっていうのが、「アウフヘーベンする」っていうのね。
「へえー」
──だからそれがすごく、今のエレファントカシマシの状況かなって気がする。第3の正解っていう。そこを目指してるっていうか。そこに立った感じが俺はするけどね。
「ああ、そこにねえ」
──で、今回の歌っていうのは本当その境地がすごく出ているなっていう気がする。だからたとえばその、バンドだ、打ち込みだ、みたいないろんな二元論で、右往左往というか、紆余曲折してきてさ。そこで成功したりとか、極端な道を歩いて来たんだけど。今のエレファントカシマシはそこをすっと抜けた。
「不思議だよねえ。だからね、名曲かどうかって言われると、実は俺答えようがないんだけど。ただストレートに自分のやりたいことを形にしてるっていうことだけは言えんのよ。だから、良くも悪くも今の俺たちがちゃんとこの2曲に入ってるっていう感じはすごくしてて。で、ストレートよね。素朴でストレートっていうふうに僕は思ってます」
──ね。
「だから、好きっていうかその、雰囲気が良いんだよね。そういうのってさ、不思議なもんでさ、これが世間の人に届くかどうか俺、それもちょっとわかんないけど。みんなにそういう雰囲気のよさってわかるみたいで。わりとね、人がそういう目で見てくれるんだよね。不思議なことに。だからそういう時期ってあるんだなと思って」
──時期というより、やっぱりそれはたとえば本当に新曲の歌詞とかがさ、曲にちゃんと宮本くんが表現できてるからだよ。
「そうなのかな?」
──うん。だから伝わるんだと思う。だからこの“ワインディングロード”だって、ある意味昔のロマンとか、夢とかっていうのは、もしかしたら失ったかもしれない。でも俺は次に向かって行くんだっていうのが、夢とロマンを失ったっていう事実を認めつつ、新しい夢とロマンを歌えてるっていうか。
「ああ、結果的にね。夢とロマン自体は歌ってないけど」
──そうそうそうそう。
「曲に入ってんだろうな」

【プロフィール】
宮本浩次
●1966年生まれ。東京都北区赤羽出身。
81年、エレファントカシマシを結成し、88年、メジャーデビュー。42作目のシングル「ワインディングロード/東京からまんまで宇宙」と、エレカシの歴戦フェスの総決算的DVD「ROCK’N ROLL BAND FES & EVENT LIVE HISTORY1988-2011」が好評発売中。
●撮影/西宮大策 ●インタビュー/山崎洋一郎(ロッキング・オン/ロッキング・オン・ジャパン編集長)