第6回JFC作曲賞は、宮内康乃「mimesis -複数の鍵盤ハーモニカのために-」に、決定!
公開審査会についてのお詫び
JFC作曲賞本選会コンサート後、事前のご連絡もなくエントランス・ロビーでの公開審査会を行ったことについて、まずお詫び申し上げます。また会場施設のご好意により、公開審査会を急きょ行うことにいたしましたが、充分な時間を確保することができず、結果は後日ウェブ上で発表することになりました。審査結果に興味を持ち、ロビーに集まってくださった多くの方々には大変申し訳ないことを致しました。野村誠氏の発言にもありましたように、残り時間を見ながらそこで受賞作を決定することは「その場の勢いで」大切なことを決めることになってしまうという危惧は、私を含めた審査員3人に共通したものでした。
しかしこれは、そもそもこのような事態が起こり得ることを予測できず、十分に楽譜を精読した上でリハーサルと本番の演奏を確認すればおのずと結論は出るはずだと考えていた審査委員長三輪の判断の誤りでした。深くお詫び申し上げます。
審査委員長 三輪眞弘
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
審査の経緯
応募の条件:
第6回JFC作曲賞の募集条件は過去のJFC作曲賞のみならず、他の多くの作曲コンクールと異なり、編成が自由で、作品に関する制限は演奏家の人数や演奏時間、そして「作曲家が立ち会わなくても楽譜のみによって再演可能な作品」という条件のみにした(詳しくは募集要項を参照)。すなわち「記譜されている音楽」であることと「作者の身体に依存しない音楽」であることが今回の作曲賞における「作曲」の定義ということになる。
譜面審査会:
上記の応募条件から、通常の作曲コンクールでは受け付けてもらえないような編成や記譜法の作品が少なからず集まるのではないかと予想していたが、実際は、そのような作品はそれほど多くはなかった。応募があった全38作品の楽譜は、ゲスト審査員として迎えた野村誠氏を含む三人の審査員のもとへ郵送され、事前にそれぞれが本選会で演奏されるにふさわしいと思われる作品を考えておくことになっていた。その上で譜面審査会が8月8日に行われた。
譜面審査会にあたって審査の進め方と審査基準について三人の間で以下のようなことが話し合われた。
まず、審査は、作品に点数をつけて得点で比べたり、あるいは多数決で「決めてしまう」ことはせず、必ず三人が合意するまで話し合って進めていくことにした。なぜなら、日本の歴史ある音楽コンクールでも実際に行われているそのようなやり方は「技能」に関わるものの評価に関してならある程度有効かもしれないが、創造性に関することについてはまったく適さないと考えたからだ。楽器演奏などが良い例であるが、ある特定の技能に習熟した「その道の専門家」なら、同じ技能に関して後進がどれほどのレベルに達しているかはおおよそ判断がつくし、その場合は他人と相談する必要もないだろう。しかし、この方法を作曲という創造性に関わるものの評価に適用すると、おのずと作曲に必要とされる「技能」を評価することになっていかざるを得ず、それは広い意味での「エクリチュール」とフランス語で呼ばれてきたものの評価に集約されていくだろう。そして、この傾向は公開審査のように、得点で機械的に決めないような場合でさえ、考え方の異なる複数の審査員の意見を一致させる唯一の強力な価値観として現在でも機能する力を持っており、そのような「力学」を今回の審査に持ち込むべきではないと考えたからだ。それはもちろん、エクリチュールを無視したり度外視するということではないが、何にも増して作品における創造性を優先したいと考えたのである。
しかし、その創造性、創造力とは何か?・・おそらくそれは、誰からも教えられたこともなく、今までどこにもなかったものを自分の頭で考え夢想する力であり、作曲の場合はさらに、それを具体的な作品として形にしてみせる能力も含まれるだろう。そのような意味で「今までどこにもなかった」音楽・作曲における若い世代の「挑戦」を三人は応募作品の中に求めた。それは、音楽をめぐる既成概念に対する問題提起であるかもしれないし、音楽というものの新しいあり方に対する提案なのかもしれない。
そのような観点から、長時間に渡った譜面審査会で審査員三人は最終的に入選作7作品を決定した。
本選会後の審査:
本選会コンサート後の公開審査会では、時間の関係で各審査員の審査に対する考え方と演奏された7作品に対するわずかなコメントだけで終わり、審査の結果を発表することができなかったので、同日、急遽場所を変えて審査員三人で討議を続けた。
まず、実際に入選した7作品を聴き終えて三人に共通した感想は、特に五線譜で書かれていない場合がそうなのだが、楽譜だけからは読み取れ(るはずが)なかった部分を実際の音として体験してみて、それらが期待通りに説得力のあるものだったことだ。つまり、譜面審査会では、作品のプログラムノートを含め作品の質を総合的に判断するよう努めたわけだが、例えば演奏の規則のみが書かれている楽譜や、たとえ五線譜で書かれていたとしても、それを電気的に増幅したりコンピュータで音響処理をしたものが、実際どのような音楽体験になるのかについては未知数の部分が残っていた。しかしそれらの不安は見事に裏切られた。これは、こうした作品に真摯に取り組んでくれた演奏家たちに負うところが多く、また「作曲家が立ち会わなくても楽譜のみによって再演可能な作品」という条件と矛盾するようだが、作曲家とのコミュニケーションを通して、作品の意図を理解していこうとする演奏家からの積極的な働きかけがなくては成り立たなかったに違いない。
その点は非常に良かったのだが、もうひとつの共通した三人の感想は、これだけ個性的な作品が並んだにもかかわらず、作曲された作品として抜きん出たものがなかったということである。それは、音楽としての説得力、演奏の喜び、発想の斬新さや問題意識の深さ、アイデアを作品化する力、などにおいて卓越した作品が見当たらなかったということだ。そのような意味で、今回の本選会コンサートはユニークでチャレンジングな作品が並び退屈はしなかったが、作曲された作品として、他の多くの作曲コンクール本選会で演奏される作品と比肩しうるほどの「内実」を持ち得ていたのかは疑問が残るところだった。もちろん、審査員三人は作曲作品としての「文句のない完成度の高さ」だけを目安に作品を選んではいないのだから、ある意味でそれは当然だとしても、そうならば、三人が期待した音楽・作曲における各作品の「挑戦」は十分周到に考えぬかれ、果敢で斬新なものだったのだろうか?と考えざるを得なかった。
そのようなことから、討議においても「三人それぞれが推す受賞候補作品を主張し合い、どうしても折り合わなかった」・・などというような事態には、残念なことにならず、三人ともどの作品を選んでも受賞作品としてどこか納得の行かない部分が残るような心境から討論が始まった。実際には、「これが今回の受賞作でしょう!」という提案がなかったので、まず「これは受賞作候補としてさらに検討する理由はないだろう」と思う作品を挙げ、作品を一旦は絞り込んだ。しかし、その後はこのそれらの間を幾度も行きつ戻りつ、どれほど話し合いを続けてもそこから数を減らすことができず、終いには「受賞作は本当に1作品に限るのか?」という話にまでなったほどだった。ただし、このように書くと、まるで作品の中から消去法で1位を無理に選ぼうとしたように伝わってしまうかもしれないが、そうではなく、各作品において「この方法をもっと徹底させていたら・・」、「このアイデアがもう少し音楽としての表現に結びついていたら・・」、などなど、各作品の光っている部分をもうひとつ徹底・洗練させれば他の作品からはっきりと抜きん出ることができたはずだったのに、その「ひとつ」がなく、三人ともある意味で心底悔しがりながら活発な議論を重ねていったというのが本当のところである。
最終的に、記譜法なども含めて、音楽・作曲における未知の可能性がもっとも多く秘められていると感じられた一作品を、今後のさらなる展開に期待して、今回の受賞作品とした。
審査を終えて:
今回、譜面審査後から本選コンサートに向けて、特に三輪はこの作曲賞で「歴史が変わる!」などと吹聴、宣伝したのだが、もちろん、このイベントによって日本の音楽・作曲の歴史が簡単に変わるわけではないだろう。しかし、今回の審査員三人に共通していたのは「歴史を変える」という気負いではなく「歴史はもう変わっているのに価値観だけは何も変わっていないのではないか?」という強い問題意識だった。作曲賞という制度が21世紀の日本で今、他の多くの作曲賞でも掲げられているような、音楽創造における若い才能を先達が見出し、評価し、応援するということが本当にできているのだろうか? いや、そもそも、音楽・作曲における若い世代の様々な冒険や挑戦は「作曲における試み」として本当に「見出されて」いるのだろうか? そのような危機感に対する見解は様々だろうが、少なくともそのことについてに年長者が自問することは無意味ではないだろう。しかし、そのような根本的なことを疑ってみることは直ちに、「技能ではなく創造性を評価するなどと豪語するあなた達は何者なのか?」という問いが三人の審査員に対して直接、そして厳しく返されてくることを意味するだろう。さらに言えば、その(審査)結果は三人の名前において責任を取れば済むものではなく、日本にふたつある作曲家の団体のひとつJFCの名のもとに行われるからこそ、社会的な意味を持ち、若い世代への「応援」となり得るわけである。そのような自覚の上で三人は出来る限りのことをしたつもりだが、それが「ひとりよがり」なものだったのかどうかは協会の会員を含む多くの現代音楽を愛する人々、いやそれだけではなく、日本社会における作曲というものの存在意義や価値観そのものに対する評価をも含めて、震災、原発事故後のこの国で暮らすすべての人々の判定に委ねるしかない。
いずれにせよ、入選したのは良かったものの、多くの負担を引き受けなくてはならなかった若い作曲家達が今回、これほど全力を尽くして本選会に向けて挑んでくれたという事実、決して十分な条件ではなかったにも関わらず、これほど多くの一流の演奏家の方々がその熱意に応える形で若い彼らに対する支援を惜しまなかったという事実、そして何より、雨の中このコンサートに関心を持つ多くの方々が会場まで足を運んでくださったという事実に、音楽・作曲における未来への、一縷の希望を見出すことができたと私達は考えている。
三輪眞弘、中川俊郎、野村誠
講評:三輪眞弘
金澤さん:
リズミカルで心地よく響くはずのこの作品は、しかし、曲目解説から、ある意味でもっと機械的で現象的(?)な印象を与える曲なのかもしれないと予想していた。しかし、実際は、楽譜のまま、きわめて「音楽的」に構成され演奏の喜びに満ちた作品で、それがとても新鮮だった。もし仮に、現代音楽がある意味で拒絶してきた、このような音楽における素直な「喜び」を」今、もう一度、見直すことが大切なのだと作曲家が主張していたら、ぼくはどれほど悩まなくてはならなかっただろう。そのことも含め、現代に書かれた音楽作品として何ひとつ不満などないのだが、しかし、この完成された様式の先にはどのような可能性があるのかを見たかった。
木山さん:
PA(アンプ)を使って「とにかく大音量で、ノイジーに・・」などと指示された楽譜を見て、ぼくは少なからず混乱した。とにかく「音が激しくてデカけりゃいい」曲なのか? 事実、楽譜には「音高やリズムは正確に弾かなくても良い」とまで書かれている一方で、音符は整然と密に書きこまれている。さらに「この曲は現代音楽ではない」と宣言されている一方で、その記譜法から見ても、これは紛れもなく典型的な現代音楽の楽譜である。「よくわからないが、聴かせてもらおう」というのが譜面審査時におけるぼくの正直な心境だった。リハーサル、コンサートで、演奏家たちの「そこまで付き合ってくれましたか!」と頭を下げたくなるような熱演を実際に体験し、曲の構成も何もわからなくなるような大音量の中にこの作品に固有な「質」を見出すことができた時に作曲者の意図をある程度理解できたのではないかと感じた。しかし、その「理解」が正しいのであれば、PAの必要性は認めるにしても、これほどの(大)音量は必要ないはずであり、自分の理解に今でも確信が持てないままである。PAミキサーのバランスひとつで変わってしまうようなその「質」が本当に大切ならば、それに見合った詳細な指示が必要だろうし、そうではなく、たとえば、即興音楽におけるような身体性やエモーションを現代音楽という場に持ち込もうという試みなのであれば、片言のメッセージだけではなく、記譜法などを含めて、それに見合った楽譜であるべきだと思った。さらに言えば、曲目解説で述べられ、タイトルともなっている詩人や、発音のことなどとの関連もまた、何も明らかにされていない。譜面審査におけるぼく自身の混乱を振り返ってみても、この作品においては提出された楽譜という「プロポーザル」がまったく明晰ではない。「これは現代音楽ではない」と大いに挑発してもらってもよいが、それは確信犯でなくてはならないとぼくは考えている。
福島さん:
個人的には意外なことに、今回の作曲賞においては電子テクノロジーを援用した作品はとても少なかった。その中で譜面審査で選ばれた唯一のコンピュータ・システムを使った作品である。譜面だけをみると白玉を基本とした、シンプルな和音の連結。コンピュータの部分なしに、それだけを読んでも曲全体のことは何もわからないはずなのに「何かわけがある」ように感じさせる響きの連続がそこには書かれていた。実際の演奏に接してみて、確かにその「わけ」がわかったような気がした。繊細な響きを通して、呼吸する身体とコンピュータ・システムが交感しながら進行するような、シンプルだが、ある意味で大胆な構成は確かに、人間だけでも、コンピュータだけでも成立し得ない独自の音楽世界を出現させていた。そこで特徴的なのは「テクノロジーを使えばこんな魔法のようなこともできる」というような表面的なねらいを一切排した、ある意味で寡黙な作曲家の姿勢である。それは音楽の内容だけでなく演奏システムにおいても、またコンピュータにトリガーを送るオーボエだけにはマイクがなく、2本のクラリネットの響きだけを中心に音響処理するような工夫からも伺うことができる(それはまたハウリング対策としても機能しているであろう)。つまり、これだけで「必要にして十分」であり、きわめて理に叶っているのだ。そして、「コンピュータ音楽」と呼ばれるジャンルには似たような作品がいくらでもあるように見えるかもしれないが、これほど音楽として聴くに値する繊細な表現をぼくは知らない。ただ、演奏後に「ここまではまだ”序の口”」だと感じたのはぼくだけだろうか? 時間の制限があるとはいえ、やはりもっと「その先」を聴かせてほしいとぼくは期待せずにはいられなかった。この作品における高い完成度がもし、様々な要素をそぎ落とすことによって成立しているのだとしたら、それはもったいないことだと思う。この先にはまだまだ未知の可能性があるに違いないと感じたからだ。
宮内さん:
今回の受賞作品である「mimesis」は、まず何より「楽譜」に説得力があった。とはいっても五線紙で書かれているわけではなく、言葉による「指示書」とでもいうべき体裁である。ただし、それは単に演奏の手順だけではなく、作曲家の音楽に対する問題意識、そこから導き出されたこの作品のコンセプト、具体的な演奏法の定義などが丁寧に書きこまれ、具体的な音として想像することは難しくても、作曲家が何を求め、この作品で何をしようとしているのかはよく理解できるものだった。五線譜で書かない以上、なぜ五線譜では書けないのかを伝え、それ以外の方法(言語はもとより図、実例など)によって、とにかく「伝えよう」という強い意志がそこにはあり、それは、ぼくが現代の若い世代の作(曲)家にもっとも要求してきたものでもある。そのような意味で、今回の全応募作品の中でもこの作品は「なぜ、こんなことをしたいのか」までを審査員にきちんと伝えようとしたほとんど唯一のものでもあった。それは良いのだが、もちろん問題とされるのはその音楽である。客席を9人の奏者が取り囲む形で行われたその演奏は、楽譜で指示されていた通りの、ナイーブかつシンプルなものだった。あまりにシンプルで、それが鍵盤ハーモニカの音色であることさえ忘れてしまうような不思議な響きと共振の中でぼくは音楽というものをめぐる実に様々なことを考えさせられたように思う。演奏する身体、音楽におけるジャンルの区別やコンサートホールという施設、様々な文化における伝統やそれを支える人間の技芸・・など、自分でもあまり整理のついていない多くの疑問がこの作品において問いかけられていたように感じた。そのことにも関係するのだが、この作品では「楽譜を読みながら」演奏するのではなくコンピュータのアルゴリズムなどでも用いられる「フローチャート」(これもまたシンプルなものだが)を演奏家たちがそれぞれ暗記し、それを「実行」することによって進行していくという、その着想にも必然性があり、非常に説得力があった。しかし、そこまで考えられたのならば、さらに「その先」がまだいくらでもあるような気がしてならない。「空間を満たす響きに耳を傾ける」ことがこの作品の大きな特徴であり魅力であったとしても、「互いに模倣する」ことに作曲上のひとつの構成原理を見出しているにしても、それらをもう一段高度なものに結晶化させる必要があったように思うのだ。
大胡さん:
邦楽器のみのアンサンブル作品というものを、ぼくはこの作曲賞で「心待ち」にしていたところがある。なぜなら、この日本には優れた邦楽器の演奏家がこれだけ存在し、しかも多くの演奏家には西洋の五線譜まで読んでもらえるのだから、これは作曲家にとってある意味で夢のようなことだとも言えるはずだ。この作品では、その期待に真正面から応えてくれるような形で、異なる邦(雅)楽器固有の様々な伝統的奏法が記号化された上で、音高とリズムは原則として五線譜で正確に書かれ、作曲家の言う「一つの音楽を形成していく場」を創出するために、タイミングについては拍節ではなく、矢印を使って「相手の音に耳を傾けながら」進行するように工夫されている。つまり、編成から言っても、また、楽譜に明示されている「3.11に寄せて」というコメントやタイトルから窺える「今、ここで生活している自分」という視点に自覚的であるようにみえる点からも、個人的にこの作品には期待が高まっていた。しかし、実際の演奏を聴いてみて、まず疑問に思ったのは「邦(雅)楽器代表全員」とも言える(大)編成にすることに作品としてどれほど必然性があったのかという点である。確かにプログラムノートにある、個性の強い「個」として各楽器は際立っていたが、その関係性から「型が形成」されるには、あまりに「個」が多すぎ、複雑すぎてはいなかっただろうか。それはまた、「互いに聴き合い」ながら進行していくというアイデアにも影響を与え、「聴き合う」ことによってしか生まれ得なかった時空間というものを、残念ながらぼくはあまり感じ取ることができなかったのだ。
牛島さん:
「音楽が聴こえるところには必ず音楽を奏でる人がいる」という100年前であれば、言うまでもなかった「音楽の前提」が崩れた近現代に、人間が演奏することとはどういうことだったのかを改めて問い直す作品だと理解した。そして、それは単なる思考実験としてではなく、4人の弦楽器奏者の口腔から発せられる無声摩擦音を「打楽器」とみなし、その音響を拡張するような役割を持つ4人の打楽器奏者を伴う、ひとつの音楽作品として提示された。実際の演奏では作曲家が言う「エアー・バイオリン」や「エアー・ヴィオラ」によって楽器を「弾く」という行為のその(無)音響とアクションの分離があからさまに見え、もとより、作曲家は弦楽器奏者が楽器を弾いていないことを隠す意図もない。この緻密に構成され作曲家の意気込みが伝わる作品が、単に面白おかしいだけではなく、音楽として成立するには無声摩擦音という「打楽器」が無数の他の打楽器音に溶け込みながらアンサンブルにしっかりと参加している必要があっただろう。弦楽器奏者に装着されたマイクのためかどうかははっきりと断言できないが、実際には弦楽器奏者4人と後ろに控える打楽器奏者4人とが、あまりに分離してしまい、ひとつの音響として落ち着いて聴けず非常に残念だったというのがぼくの印象である。もちろん、視覚的には弦楽器と打楽器が分かれて見えるよう意図されていたのは十分に理解できるとしても。
今村さん:
「劇的とは省略のことである。」という劇作家、太田省吾の引用から始まる「前文」が最初に置かれた楽譜は、必要な人物、小道具やステージ上のセッティングからパフォーマーの移動や行動までが細かく書かれた台本のような形式のものだった。フルート奏者3人が登場することと、五線紙4ページに書かれたフルートのための旋律を除けば、西洋音楽史におけるミュージック・シアターという試みを知っていたとしても、これを音楽の「楽譜」と言うには、あまりに演劇的要素の比重が多すぎるのではないかと思っていた。フルートの旋律はわかるにしても、それがこの作品においてどれほどの比重を占めるのかは台本からはなかなか読み取れなかったのだが、実際の「演奏」を体験してみて、なるほどと感じた部分と疑問のままの部分が残された。確かに、フルートの旋律は異なる状況で重なりあいながら繰り返し演奏されることが想定された上で書かれており、また、ステージ上のエリアにその対応関係が出現するよう構成されていた。その限りにおいては音楽という枠組みの中で解釈可能だとしても、そこから先は、基本的に「ステージ上の”役者”の行動を一方的に規定するものとしての指示書」だと感じた。言うまでもなく、それが演劇ならばステージ上で役者が「そのように行動する意味」が具体的であれ抽象的であれ存在し、役者はその解釈の上で台本に従った演技をするわけだが、この作品においては何を手がかりに奏者及び照明係は彼らの行動の「出来、不出来」を判断すべきなのだろうか? これこそが「不条理劇」なのだと作曲者は言いたいのだろうか? もちろん、ただの一音も発せずとも「これは音楽なのだ」と主張する作品に耳を傾ける用意はぼくにはあるつもりだが、ステージ上の視覚的な「コンポジション」が(あったのかもしれないが)ぼくにはどうしても読み取れなかった。
講評:中川俊郎
「オリンピック」の原義は、優劣をつけるための競争ではなく、お互いの違いを讃え合い、学び合うための「祭り」であった。コンクールの発祥もそこに求められる。
私は最初のリハーサルからずっと聴いていて、楽しくてしょうがなかった。そして出品者や演奏家、助言して下さるスタッフの方々からずいぶん勉強させてもらった。まずそのことに率直に感謝しておきたい。
譜面審査を乗り越えた本選会は、まずその関門をこえた段階で、リハーサルの時から数日間で若い作曲家が、新たなコミュニケーションを始め何か大切なことを学ぶ為の、重要な期間である。その際本番で「平等に」それぞれまったく違ったコンセプトの作品の最高の演奏が出来るような環境を整えてあげることを、実行委員長として実行委員ともども、そして1審査員としても最大限こころがけた。
ところで、評価というのは相対的なもので絶対的に素晴らしいものというものは存在しない。しかし私たちは自分が居る場所、を選ぶことが出来る。今回私たちが譜面審査で選ばなかったもの(または「作品自体」が私たちのそばに居ることを望まなかった)ものの価値の重要さをここで讃えておきたい。その中にはこのコンクールの存在を知っていて応募しなかった人も含まれる(更に言えばコンクール自体を知らなかった人まで…)。
その上で本選に残った個々の作品、入賞曲に対して、厳粛な批評を述べさせて頂く。
金澤作品
たとえば冒頭は、それぞれ固有の周期をもつミニマルな音形の集積が、聴取の意識、フォーカスのポイントをどこへ向けるかによって、どんなバランスに聞こえ、全体としてどんな印象を与えるのか、つまりそうした構造の認知、構築が聴衆ひとりひとりにまかされているということが、この作品のコンセプトである。作者はそれを聴覚による建築と述べている。(ところで今までの他の音楽にそうした面がまったくなかったわけではない…。これは音楽上の建設的な議論につながる。)さて、ここで私の耳が聴きとったものは、非常に緻密に計算された構成と、それに反して見掛け上関連性をまったくもたない異質なスタイルの連鎖とが生み出す、立体的な違和感であり、そこに「作者が自覚している以上の」(!)可能性を見ることができた。譜面の段階ではすべて読み尽くすことの出来なかった音選びの精度も、実際の演奏を聴き、確認納得することが出来た。ともかく現場での実践経験が豊かな人の成せる術だ。
しかしリズムの労作という点では、8分音符が主であり、それが狙いだと分かってはいても、その統一されたノり(グルーブ)と構成力を、他の作品のリズムや構成に対する取り組みの果敢さを排してまで、推賞するという必然は感じられなかったのが正直なところである。
木山作品
木山光作品は、電気的増幅による轟音からくる聴覚上の極端な印象に反して、書法的に大変緻密に書かれている。ところがユニークなことにせっかく精巧に作られているその音を、かならずしも厳密に再現することが求められていないのだ。通常の演奏と即興演奏との危うい往来に、音楽の枠組みの向こう側、ゾッとする「彼岸」を覗こうとする探求心を見ることが出来た。(音量の大きさ自体がカムフラージュに過ぎないことがわかってくると更にゾッとする…。)
しかしこのしたたかでユニークな作曲家の表現の幅が、現時点では本人は望んでいないかも知れないが、別な方法を取り込んで広がった時に、こうした表現を取っていた理由が、多くの人にも理解できるようになるだろう。
福島作品
コンピューターについての知識のないこの私にとって、この作品の本当の「審査」はリハーサルに立ち合った時からはじまったようなものであった。
ただし、譜面審査の段階でもOb.2Cl.のパートだけを読んだだけで、基本的なセンスはわかり、現実にコンピューターを通して出た音はその期待を裏切らない美しいものだった。この種の音楽の中でも、最も美しいもののひとつに挙げられよう。ところで…富士山を眺めた時に、いちばん始めに注意が向くのは、頂上の姿だ。だが、目に見えない部分では大きな裾野が広がっている。これはこの作品のみならず、他の出品作のほとんどに共通して言えることなのだが、目に見える素材はどんなに限定されていても、その背後に広大な裾野が広がっていることを感じさせるような、音、様式でなくてはならない(他の山や雲で隠されていても)。それらを選んだ背後に膨大な情報(知識・経験)が隠されていて、のっぴきならない理由でそれを選択していない…ことがひしひしと感じられるような(たとえば、今回の審査員にはあえて触れないでおくとしても、近藤譲さんや甲斐説宗さん、フェルドマンさん等の素晴らしい例がいくらでもある)。または、あえて選ばれなかった音の気配が漂っているような…と言いかえてもよい。福島さんも他の出品者もそれが間違いなく可能な人たちである。
また、それは私の課題でもある。
宮内作品
宮内作品の譜面は、ひとりの人がひとつの音を出す際の基本的な原理、そしてそれが他の人たちへ波及していくことによって成立する合奏の原理をフローチャートの形で提示するというものであり、時間構造が定量的でなく定性的であることが特徴である。それらの設定された原理が音として現実化されるきっかけが、自分の呼吸であるということは、作曲家として、人間の中に含まれている「自然」と向き合い格闘することである。しかし作曲というのは元来大変人工的なものである…、もっと言えば民族音楽も人間が紡いできた「伝統」に準拠しているという点で人工的なものである。これは矛盾である。つまり作曲されたものが、「結果的に」きちんとした時間構造を持つための重要なファクターに、奏者がどれくらいリラックスしているか、がダイレクトに関わってくるのだ。精神世界のことばを用いれば、上の世界(たとえば神?)と奏者が、その時につながっているかどうか…が曲の構成に「直接」影響する、つまりシンプルなことの美点と、シンプルなことによる構造的な欠点が同居しているのである。
作曲コンクールでこのような作品に対して真面目に評価がされることも、黙殺されてきた矛盾と向き合うこと…。審査員も試され、学ぶのだ。
作曲家はあらたな伝統を今から作りはじめるオリジン(起源)であるべきである。宮内さんには孤独で厳しいその営みを期待する。さらに言えば、自分の苦手な(もっと言えば嫌いな)作品から、裾野を広げるように学ぶこともきっとあるはずである。
大胡作品
大胡作品は、音楽の構成に奏者の呼吸が直接関わるという点で宮内さんと共通である。緻密な作曲作業の中に奏者ひとりひとりの人間的な個性が、入りこんでくる緩(ゆる)いノーテーションは、作曲者の中に潜む果敢な実験精神を示しており興味を引いた。彼なりにとてもよく手慣れた邦楽器の扱いも関心させられた。作曲家の営みで重要なのは、どれだけ自分が変わることができ、多くのものを受け入れることが出来るか…にかかっていると私は考えている。その上で自分の個性である限定した手法を選ぶのだ。 大胡さんもそうしようと努力しているだろう。しかしその場合でも、素材(他者)に対する距離感、どこか突き放した感じが気になった。素材(楽器、自分が聴き取った音)に対する率直な愛情、この世界に作曲家として、人間として生きていること、言い換えれば他者への感謝の感覚…これは実は作曲に取って助けになるはずだ。逆に、一度自分をリセットしてみて、本当に自分がやりたい‐‐やりたかった‐‐音楽とは何か、周りの環境に関係なく存在している自分は、どんな自分か、を吟味してみるとよいのでは?本当の自分が見えてくると周りのことも見えてくる。(これは私の課題でもある。)
牛島作品
牛島作品は、才能、これは音に対する鋭敏な感覚と、同時にそれに埋没しない距離感を保つバランス感覚という意味であるが、才能に溢れた作曲家である。
歴史的認識もあり、ヨーロッパの現場で何がおきているかを見て自分の立ち位置を、決めている。牛島さんにとってバックボーンはおそらくヨーロッパである。それらのよい意味での破綻のなさは、外遊経験があり、常にことばによる自分の作品についての説明を求められる…という経験をすれば自然に身に備わって来よう。ところで、評価とはいうまでもなく相対的なものだ。作曲上の統制力と、「作曲」自体のジレンマに触れる営みとを計りに掛けた場合、完成度自体が計りに掛けられていないことがネックになり、それでも牛島さんの成果を…という事態にはなり得なかった。では何が足りないのか?どうしたらよいのか?とこれを読んだ方は、ご本人も含めて思われるだろう。足りなくないのだ。
ここでも審査員の実例を出すのは控えるが(うずうずするが…)、たとえばいかにもヨーロッパ然としたクセナキスの音楽にさえ、決定的に何かが欠けている。致命的と言ってもよい。生きることに対する齟齬にとりつかれているといってよいのかよくないのか…。ショスタコーヴィチも穴だらけ。バッハは自分の怒りをひた隠しに隠そうとするが(音に出てる)、時折綻びが歴史的事実として残ってしまう。 牛島さんにもそういう面がどこかにあるはずである…。
今村作品
今村作品は、動作を主要な要素とした音楽劇のかたちをとっている。音の要素も動作自体を引き立てるために選ばれていて、それ自体の個性を主張し過ぎることはなく絶妙なバランスである。(心憎いのはマーラーの第6交響曲<悲劇的>の分かるか分からないくらいの引用。)ただし、適切だが音楽としては秀逸ではないとも言える。では音楽劇(ムジークテアター)としてはどうだろう(これにはケージ、カーゲル、D.シュネーベルらの強力な先例がある) 。楽譜はシナリオの形になっているがシナリオとしては、動作を規定する細かい指示に徹底さが欠けていて、現実化には多くの「演出」が必要とされ、実際に作曲家自身が事細かに、動きをつけていた。作品のリハーサルに作曲家が立ち合う…以上のレベルだったのではないかとも思われた。そこが強力なナショナリティーも含め利点として捉えることも出来る、つまり、このムジークテアターとしてみた場合のシナリオの曖昧さ加減が、議論の対象ともなり、逆に曖昧な部分を討議しながら作って行くという作品のあらたなスタイルの可能性として考えては、との意見も出された。こうした議論を引き出すという問題作であるには違いない。そこで再三述べてきた他作品との比較において、その問題作のキャラクターを押す…というだけの強さがあったかといえば、それも認められなかったというのが、率直なところである。
* * *
今回の作曲コンクールは、コンクール自体の解体と再生を行うという意味合いがあったのではないか。
究極的には、コンクール自体に内在する(ついてまわる)不平等性に目を向けそれを一新し、すべてが今のままで平等である…という命題を掲げる…という夢の目的に近づくための。
講評:野村誠
「第6回JFC作曲賞」審査員の野村誠です。素晴らしい演奏会が実現し、関係者の皆様には、本当に感謝しております。審査員として世界初演に立ち合ったのですが、自分が選んだ7作品に愛着が強く、まるで自分の作品が世界初演される時のような気分でした。他人の作品の初演に、こんな気分で立ち合ったのは、始めてです。まず、講評を書く前に、感謝の気持ちを書かせて下さい。
特に、作品の魅力を最大限に表現してくれた演奏家の方々、ありがとうございます。優れた演奏家の力がなければ、作曲の未来はありません。みなさんの確かな技術と冒険心に、心より感謝します。そして、これからもよろしくお願いします。出演者が総勢50名を越えるコンサートを、事故もなくスムーズに運営することを影で支えてくれたスタッフの皆さん、本当にありがとうございます。みなさんのサポートなしには、このコンサートの成功はあり得ませんでした。
そして、お集りいただいた観客の皆さま、このコンサートに大いなるエネルギーを与えてくれて、ありがとうございます。皆さんが初演の場に立ち合い、色々な激励や批評をしていただくことで、我々作曲家は成長していけます。無視されるのが一番つらいです。是非、率直な感想をお聞かせ下さい。これからも暖かく厳しい応援をよろしくお願いします。
そして、もちろん、本選に残った7人の作曲家、応募していただいた全ての作曲家の方々に、感謝します。特に本選に残った7名の皆さんとは、時間があれば、ゆっくりお話をしたい気持ちでいっぱいです。いつか是非、お話しましょう。まずはお礼の気持ちを込めて、ぼくなりに誠意を持って講評を述べたいと思います。
当たり前のことですが、ぼくが言うことは、あくまで野村の価値観であり、野村のエゴであり、野村が望む方向性です。若い作曲家の皆さんが進むべき方向は、皆さん自身が開拓していくものですし、ぼく自身もそのことを一番期待しています。だから、ぼくの講評が皆さんの後押しになるならば、活用して下さい。そして、ぼくの講評が、皆さんに少しでもブレーキをかけると感じるならば、「あの人、全然分かってないなぁ」と言い捨てて忘れてしまい、自分の信じる道を進んで下さい。
以下、7名の方々への講評です。「何を偉そうに書いているんだ」と思いますが、審査員を引き受けたからには、誠意を持って正直に意見を伝えたいと思いました。そして、このことは、作曲家であるぼく自身に全部跳ね返ってくる批評でもあります。だから、ぼくが7人の作曲家に向けて投げかけた問いには、ぼく自身が自分の作曲で答えていくべきなのです。ああ、素晴らしい宿題をいただきました。いやぁー、勉強になります。ありがとうございます。
(講評)
金澤作品
金澤さんの作品を聴いていると、自然に身体が動き、一人の観客としても非常に楽しみました。音選びのセンスがとても魅力的です。ただ、これだけセンスの良い感覚的な作曲家の作品に、「組織・変容・再構築」というタイトルがついているのが、ぼくは勿体ないと思いました。イキイキとした音符が、譜面の各所に散りばめられていて、「組織・変容・再構築」というタイトルが似合わないと思ったのです。確かに解説を読みながら、譜面の構造をチェックすると、数学的な構造が発見されます。しかし、作品全体を貫く躍動感がもたらす統一性、センスやバランス感覚の良さが際立つのです。譜面を見ずに聴くと、シンメトリックな構造はあまり体感できませんでした。逆に、構造こそが大切ならば、もっと大胆な破れや、異物が存在する方が、構造が立体的になるかもしれませんが‥。だから、ぼくの個人的な意見としては、金澤さんは、コンセプトなど抜きに、自身の優れたセンスだけを信じて、思う存分書きたい音楽を書かれるのが良いのではないか、と思います。今回の「組織・変容・再構築」というタイトルと、「聴覚による建築」というコンセプトがあることで、かえって枠に収まってしまっている印象を受けました。
木山作品
木山作品は、本当に魅力的だと思うのですが、大音量や音を歪ませることで、ぼくが聴きたいと思った木山さんの魅力的なパッセージ達が隠れてしまう気がしました。それは、まるでド派手でケバケバしい服装をした内面の優しい人が外見で誤解されてしまうような、そんなことにならないか、と感じたのです。そもそも、大音量や音の歪みという要素は、既にロックやノイズミュージックなどの世界で、散々行われており、そこの探求を目指すなら、とことん音の歪み、音色にこだわり、スピーカーや周波数の変調の仕方まで研究し尽くしてこだわってやるのがいいと思います。ライブハウスで当たり前に行われているミキシングや音作りの技術をもっと学ぶ必要があるでしょう。単に音が大きくなるだけではなく、音色への作用、音の融合や解離についても計算し、音作りに作曲家として責任を持って関われれば、目指す音楽がクリアになると思います。ドラムセットのバスドラムの低音域の周波数が、ピアノの中低音やチェロの中低音を、マスキングしたりすることに自覚的になり、どの楽器のどの周波数帯を強調し、カットするのか?そうしたことに意識的になると、全体としての響きが、もっとユニークになると思います。また、もっとロック系やノイズ系のミュージシャンとコラボレーションをしていっても良いのかもしれません。木山さんは、「即興なんて絶対できない!」と言う西洋音楽の訓練を受けた音楽家と、「五線譜など全然読めない」と言うノイズ系の即興ミュージシャンが、同じテンションで共演できる作品を作曲できる可能性を秘めている稀有な作曲家だと思いますから。異なる2分野に橋渡しができる可能性を秘めていますから。もちろん、異分野を結ぶ交差点としての音楽は、あくまで野村の興味であって、木山さんにとっては興味があるかどうかは、分かりませんが‥。そうした可能性も、ちょっと考えてみても良いかもしれません。ただ、ぼく自身が一番興味を抱いたのは、エネルギッシュな作品から見え隠れする緻密で知的な部分であることは、再度強調しておきます。音量の小さな楽器ばかりの室内楽で、木山さんが作品を書かれたらどんな音楽になるのだろう?そんな作品を聴いてみたくなりました。
福島作品
福島さんの作品、まず美しい作品であることは、譜面を見て容易に想定できましたが、コンピュータがどう関わるのか、音を聴くまでは疑問でした。ところが音を聴いてみて、これは本当に、3本の木管楽器がコンピュータと共演する室内楽作品だと理解できました。コンピュータで変調された音源は一つの小型スピーカーから発せられており、音源の数は4ケ所ですから、3つの生楽器と1台のコンピュータによる四重奏と捉えることもできます。ところが、ハーモニーの観点からは、これが、もっと多声的な音楽になっていて、九重奏、あるいは、もっと多声のアンサンブルになっています。仕組みとしては、クラリネットの音をマイクで集音し、それを3種類のピッチに変調するので、6音から成るハーモニーが形成されるはずで、マイクの感度がよければ、オーボエの音やスピーカーの音も拾ってしまい、6音以上の複雑なハーモニーを形成するはずです。そして、そのハーモニーの音量バランスをナイーブに変化させるのが、マイクと楽器とスピーカーの位置関係なのです。ですから、楽器の位置とマイクやスピーカーの位置を決めていくことが、大変重要になります。今回の演奏会でも、少ないリハーサル時間内で、そうした響きの探求が行われておりました。譜面を見た時には、ぼくには予想できなかった楽器や身体と場との関わりということに、自覚的にさせる仕組みが内包されているのです。こうした微妙な空間との対話を強いられることが、この作品の仕掛けの成功だと思います。非常に繊細で日本的とも言える感性のエレクトロ・アコースティック・ミュージックを、さらに深めていって欲しいと思います。
宮内作品
宮内さんの作品は、鍵盤ハーモニカという歴史の浅い楽器を取り上げ、簡単なルールで非常に豊かな音空間を作り上げました。それは、素朴で単純なのだけど、素朴で単純なことの力を信じている強さを感じました。また、演奏者が、譜面を見ながら演奏するという縛りから自由なので、薄暗い照明で演奏することが可能になり、音だけではなく、動き、衣装、照明など、複合的な表現になっていました。音以外の要素に無頓着になりがちな現代音楽のコンサートを、音を全感覚で体感する場へと変えていたと思います。また、楽器のピッチが不安定であるという鍵盤ハーモニカの特性を見事に活かし、高音域で微分音程での重なり合いから生まれる偶発的なうなり、共鳴効果などから生み出されるサウンドは圧巻でした。ただ、こうした響き自体は、鍵盤ハーモニカの新作を追求してきた野村にとっては、既知の響きの枠を出ていないと感じたことも、正直に告白します。平石博一さんが1997年に作曲した「緑色のガラスを抜けて」以来、似た手法の音作りをした作品は、数多く書かれています。特に、平石氏の鍵盤ハーモニカ8重奏「Walking in Space」(2008)と宮内作品は、響きとして、かなり似ていると思います。平石氏の「Walking in Space」は、 観客を取り囲んで演奏し、高音域のロングトーンで豊かな音響を生み出し、音が空間を移動しているかのように聞こえる曲だからです。平石作品の完成度と質の高さを体験した耳で宮内作品を体験すると、五線譜で記譜されている平石作品ほどの完成度や厳しさはないことに気づきます。しかし、シンプルなルールや構造に従って演奏し、その結果として毎回微妙に違った音が立ち上がる宮内作品の魅力は、 毎回違ったサウンドが味わえることと、素朴さだとも思うのですが‥。しかし、ここでぼくは考えるのです。宮内作品は何度も上演を重ねていけば、平石作品に匹敵するような質の高さや完成度に辿り着けるのか?です。再演を重ね、上演の度に現在のルール(フローチャート)を改訂/更新していけば、演奏家の解釈にも深みが増し、作品が成長していけるのではないか?その可能性は、十分にあるのではないか?
大胡作品
大胡さんの作品は、今回の応募作の中で、唯一、「放射能汚染」を題材にしたタイトルの作品です。そして、唯一、日本の楽器のために書かれた作品でした。こうした作品が応募作に大胡作品だけだったのは、正直残念で、大胡さんの応募は、本当に嬉しく思います。呼吸、間合い、そうしたことを大切にされた作品で、演奏によって印象も随分変わります。 終始一貫して西洋音楽の五線の記譜法で書かれていますが、伝統的な記譜法や独自の記譜を混在させることも可能だったかもしれないと思いました。 舞台上手側に、尺八、三味線、箏(20絃)という三曲合奏、舞台下手側に、竜笛、篳篥、笙という雅楽のトリオを配置し、中央に打楽器がいるという編成がユニークです。 ただ、実際に作品を聴いてみて、この9人編成である必然性が、ぼくには感じられませんでした。とことんまで厳選した結果、この9楽器という編成に到ったのか?この9楽器でしか作れない音世界を、とことん追求したのか? そうした疑問を抱いたのも事実です。三曲合奏の3つの楽器に比べて、雅楽の楽器や打楽器が音量が大きく、音量のバランスも悪かったように感じましたが、敢えてアンバランスな音量を作ろうという意図も分かりませんでした。また、伝統楽器の予想外な音の組み合わせから、思いもよらないサウンドが生まれる、という驚きは少なかったかもしれません。この9人の奏者が、もっと空間的に配置されても良かったのかも、と感じました。9つの異なる音色を、ある程度、距離が離すことで、それぞれの音色が明確に分離し、 音の個性が引き立ったのではないか、と思いました。
牛島作品
牛島さんの作品は、視覚的にも聴覚的にも楽しめる曲です。実は、8月の譜面審査会の時、最初から最後まで、3人の審査員が「本選入り」で意見が一致したのが、牛島さんの作品です。譜面を書く能力も高いし、アイディアも面白い。保守的な面も、実験的な面も、アカデミックな面も、ポップな面もあり、違った切り口で味わおうとした時、どこかに入り口がある。入り口をいっぱい持っている作曲家だと思いますし、その入り口の多さこそ、この作曲家の魅力なのかもしれないと、ぼくは思います。冒頭から中盤にかけて、Sの無声音から、Sの有声音に変わっていき、どんどんリズムが細かくなっていきますが、その後、「Sを発する声」、「弦の動き」、「打楽器」というコンセプトから逸脱が始まり、鍵盤ハーモニカや口笛などが出てきます。自分の設定したコンセプトの枠が窮屈になって、違った要素が顔を出す、そういう部分こそ、作曲家の本能の大切な部分だと思います。そこから先こそが、ぼくにとって一番聴きたいところでした。コンセプトを設定したプロデューサーとしての牛島さんに対して、実際に譜面を書いている作曲家の牛島さんの思惑のずれが衝突し合うところこそが、スリリングだと思うのです。そういう理念に収まらない説明不能の部分は、遠慮せずに、もっと顔を出して良いのでは、とぼくは思います。個人的には、ヴァイオリン、ヴィオラの奏者が発した声をマイクを使って増幅して、はっきり聞こえたのは惜しいと思いました。「phantom」ですから、クリアに聞こえすぎなくても良いのでは、と思いました。
今村作品
今村さんは、譜面の前文の中で、「省略することで劇的になる。」と書いています。厳密に譜面を書くことに価値を置くのではなく、必要最低限に省略されている譜面を用意し、劇的になる余地を残す。これこそが、今村さんの挑戦だったと思います。特に、フルート奏者が演奏する五線で書かれた譜面は、たったの4ページで至ってシンプルです。作曲家としては、もっと音符を書き特定したいという気持ちが起こるし、まして作曲賞に提出するならば、作曲の技術があるところを見せたくなるでしょうが、そこを堪えて、あれだけの単純な譜面に留めたところは、評価に値すると思います。また、作品に批判される隙がたくさんあり(ある見方では完成度が低いとも言えますが、逆の見方では作品が他者に対して開いているとも言えます)、3人の審査員から最もツッコミが入った作品が今村さんの作品でした。しかし、そうしたツッコミをしているうちに、気がつくと3人の審査員が非常に根源的な議論をしていたりするのです。そういう意味で、ぼくらは今村さんの思うつぼなのです。今村さんは(無自覚だと思いますが)本能的に根源的な問題に踏み込んでいく素質があります。つまり「天然ボケ」の素質があるのです。ボケが成立するには、ツッコミ(批評)が必要です。だから、今村さんは、批評に曝されるべきだと思います。今村さんの作品が批評されることから、現代音楽の諸問題解決の秘密が解き明かされる可能性があると思うからです。批評に曝されるのは時には痛いですが、どんどん批評に曝されて、大きくなっていって欲しいと思います。あと、できるだけ多くの演劇人、舞台人と交流を持ち、視野をどんどん拡げて欲しいです。カーゲル、シュネーベル、川島素晴などの作曲のフィールドで語られるだけではなく、舞台人の批判にもしっかり曝されて、一つの舞台を音楽として作曲するというところまで目指して欲しい、と思います。実際のステージを拝見して、
美しいと感じたり、笑えたり、ちょっと退屈したり、考えさせられたりしました。上演自体を、ぼくは楽しみました。そして、素敵な演奏家や黒子の方々との出会いも、大切にしていって下さいね。
以上
JFC作曲賞について |