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THIS REVOLUTION WILL NOT BE PRIVATIZED
"The Revolution Will Not Be Televised"、「革命はテレビで放送されない」。OWS関連の情報を検索していると、この標語がプラカードに掲げられていたり、象徴的なフレーズとしてサイトで発信されている。NY金魚さんに解説をお願いしたいと思いつつ、検索で幾つかの情報に行き当たった。私は全く知らなかったが、これはシカゴ生まれの黒人音楽家であるギル・スコット・ヘロンが作ったラップの代表曲で、1974年にリリースされたこの曲は、60年代の公民権運動後の黒人の怒りをあらわす象徴的な作品だった。歌詞を紹介したサイトもある。1949年生まれのギル・スコット・ヘロンは、昨年5月にNYで死去していて、Occupy Chicagoは、彼に捧げる意味で、"This Revolution Will Not Be Privatized"の標語を掲げて運動した。「この革命は商売にはされない」という意味だろうか。こうしたメッセージをボードに掲げて運動している者の姿には、日本では見られない緊張感があり、ラディカリズムが漂っている。辺見庸は「テレビこそ意識だよ」と言ったが、われわれの場合は、テレビが映す世界と自己の意識とが即自無媒介にべちゃっと結合してしまっていて、テレビの情報を操作する者の意のままに動かされ、その宇宙から逃れることができない。彼らは、そうした即自無媒介な結合を拒絶して、テレビが見せる世界と自己との間に一つの空間を作っている。


抵抗によってもう一つの世界を物理的に作っている。"The Revolution Will Not Be Televised"、"This Revolution Will Not Be Privatized"、こうしたメッセージを見ていると、NHKがクローズアップ現代でOWSを取材しなかった理由がよく分かる気がする。OWSは世界の支配層にとって重大な危険思想の存在であり、内在的な接近や紹介をテレビがしてはいけないのだ。ネットの画像検索で手繰ると、他にもOWSの運動は多くの標語を発信してアピールしている。例えば、"This Is What Democracy Looks Like"とか、"You Can't Evict An Idea Whose Time Has Come"とか。"This Is What Democracy Looks Like"は、オキュパイ運動の集会デモの際に頻繁にシュプレヒコールされていて、その動画も多くネットに上がっている。また、この題名のチョムスキーの著書も検索で出てくる。この言葉もまた、今回のOWSで初めて登場したものではなく、イラク戦争に反対する抗議運動や、シアトルから始まった反グローバリズム運動からの系譜があり、さらに、それ以前からの抵抗運動の中で口にされてきた歴史があるのだ。私は知らなかったが、米国の現代政治の伝統の上で主張されている象徴的なフレーズだった。まさしく、米国の左派勢力が大きく潮流を起こしている。OWSは突発的な反格差運動の噴出ではなく、左側の流れの延長と拡大と隆起なのだ。

日本に政治学者がいたなら、彼が今やらなくてはいけないことは、OWS運動のプラカード上にある表現の一つ一つについて取り上げ、注意深く焦点を当て、米国政治史を踏まえた解説を提供することだろう。このメッセージにはこういう意味がありますと詳しく注釈することだろう。マスコミがその機会を与えないのなら、ネットを使って試みればいいのだけれど、それをやろうとする専門家や知識人がいないのが残念に思われる。"This Revolution Will Not Be Privatized"、この言葉に接して考えてしまうのは、2008年の日本の書店の書棚のことだ。NHKがワーキングプアの特集(ⅡとⅢ)を放送した翌年、そして反貧困の面々が年末に日比谷公園で派遣村をやった年、この年、ジュンク堂池袋店の4階に行って売場を覗くと、「ワーキングプア」と「貧困」をタイトルにした本が、これでもかと言うほど所狭しに並べられていて、その過剰な氾濫に圧倒されたのを覚えている。湯浅誠が岩波新書から『反貧困』を出したのが2008年4月だったが、この本が店頭に積まれる頃までには、もう出版業界では「ワーキングプア」と「貧困」は売れ筋のキーワードになっていて、当時は無名だった各著者を動員し、出版社が競うように夥しい商品を市場に放出していた。トレンドを作り、ブームに便乗して稼いでいた。今、ワーキングプアは3年前より増えているのに、その言葉を日本人は忘れて使わなくなっている。

ワーキングプアの実体はあるはずなのに、ワーキングプアの概念と表現が消失してしまった。言葉が地上で流通していない。以前は反貧困の運動で活躍して、現在は政府の要人となって官僚と仕事をしたり、政府の審議会の一員となって「税と社会保障の一体改革」の制度設計に加わっている者の口からも、ワーキングプアという言葉は発せられなくなった。日本の場合、"This Revolution Will Not Be Privatized"の思想の契機が弱い。Privatizedにしてしまう。出版社、新聞社、テレビ局、そこに接近し、情報を提供し、編集者や記者と人脈を繋ぎ、インダストリーとマーケットを立ち上げ旋回したところでムーブメントが終わってしまう。社会や政治のトータルな変革という方向に行かない。"Revolution"や"Capitalism"の言葉が出ない。ラディカルな展開にならない。ムーブメントに参加すること、運動に共感して支援するということが、本を買うことと講演会を聞きに行くことという、言わば消費行動で終ってしまう。消費とボランティアが要請される。本を出す人と買う人、講演をする人と聞く人、という関係性で完結する。まるで、バブルの頃のニューアカ・ブームのように。左側のムーブメントは常にニューアカ・ブームの複製であり、業界のビジネスであり、官僚の思惑どおりのプログラムに吸収されて終始する。緊張感がない。出版社やマスコミや官僚に取り込まれない運動を起こさなければならないと私は思う。

元日の朝日紙面に『カオスの深淵』のシリーズが再び戻り、2面と9面にOWSの特集記事が載っていた。今年はどんな年になるか、世界はどう動くか、ジャーナリズムが真面目に考えて元旦の紙面を組めば、当然、米国のOWSに関心が向くはずだ。OWSを素材に扱った記事にするだろうと、私は何となく予感していた。TBSの12/25のサンデーモーニングの特集がそうだったが、「報道のTBS」のプライドの最後の残り香がそこにある。9面(オピニオン面)には、カレ・ラースンのインタビューを掲載。日本のマスコミがカレ・ラースンを直接取材するのは、これが初めての機会ではないか。インタビューの中でカレ・ラースンは、ウォール街占拠を提唱した理由と目的を率直に語り、エジプト革命から着想を得て、タハリール広場に匹敵する米国のどこかを占拠すればいいと考えたと証言している。占拠を呼びかけたのは自分だが、そこから後は自分の手を離れて一人歩きしているのだということも。また、代議制政治の行き詰まりの中で若者たちが直接民主制のトライアルを敢行しているという点も、積極的に評価して意味づけていた。次の政策目標がロビンフッド税の実現にあるということも、11月の時点と同じように繰り返していた。だが、果たしてこれがOWSの統一目標として明確に設定されるかは、11月の運動を見たかぎりでは私にはよく分からない。OWSは議論と決定のプロセスが長く、容易に一つの政策目標に収斂されない性格がある。

エストニア生まれのカレ・ラースンは、豪州の大学を終えて欧州に戻る前、60年代半ば、船旅の途中で日本の四日市に立ち寄り、当時の日本のダイナミズムに惹き付けられて、そのまま10年近く東京に在住した経歴を持っている。滞在中に日本人の妻を得た。この経歴情報は、「エニグマ」を書いたカレル・ヴァン・ウォルフレンとよく似ている。インタビューの最後の部分で、カレ・ラースンが日本についてこう言っている。「今の日本はしょぼんとして見えるが、元来ものすごく創造性豊かな国だと思います。米国主導の経済モデルに取って代わるものを打ち出せるとしたら、おそらく日本しかない。経済成長が永遠に続くと思い込んできた米国中心のシステムはもうダメになった」。「(新経済モデルの構築を日本に期待する理由は)成長一辺倒モデルの限界を世界で最も早く体感した国だからです。高度成長を経て、バブル崩壊と20年の停滞、日本の困難を欧州や米国は遅れて経験しているのです」。この話は、半分はリップサービスとして聞くべきだが、半分は当を得た認識と言える。後半の指摘は当たっていて、米国と欧州は日本の「失われた20年」をトレースしている。金融緩和しても需要が起きず、デフレスパイラルと債務超過に悩む経済の進行過程を後追いしている。前半の「新モデル創生」論はどうだろうか。同じ日本論は、欧州のマチュアな知識人に少なくなくて、昨年のNHKだったか、イタリアの学者が同じようなことを言っていた。敗戦から立ち直った日本人の底力を信じている。

カレ・ラースンの期待に対して、正直なところ私はとても悲観的だ。全てを商業主義に還元することしかできず、ムーブメントを商売のネタにことしかできない日本人が、社会変革を実現し、新しい世界のモデルを打ち立てることができるとは思えない。OWSを見て日本人が思わなくてはいけないのは、丸山真男や加藤周一や大塚久雄が言っていたところの、「近代的個の確立」であり、「近代的市民の主体的内面性」の問題だろう。政治学が言うべきは、そういう戦後日本の一般論だろう。心に残る丸山真男への追悼文を書いたキャロル・グラックが、山之内靖を前にして言ったところの、「日本はどうして脱構築にそれほど拘るのか」という問題だろう。先哲の言葉を襟を正して聞くことではないのか。そうした思想的な立地に即かないかぎり、日本ではOWSのような運動のハプンはないと私は思う。日本(東京)の左側の業界と市場は、基本的に脱構築主義が牛耳っている。だからpureにならず、privatizedな傾向に染まる。現在、左側の出版報道業界で、OWSについて疑似共鳴的に(お祭りとして)喋々する動きがあるけれど、3年前の反貧困のステージと同じ顔だったり、似たような商業主義の仕掛けだったりする。反貧困ブームと同じ商売をOWSの日本版で盛り上げようと目論んでいるように見える。そのようなものは成功することはないし、社会や政治を変える結果にはならないだろう。実際に、10/15に計画された「オキュパイ東京」は大失敗で、古市憲寿に嘲笑される始末だった。動機が不純なのであり、胡散臭さが漂うのだ。

日本の反貧困ムーブメントは失敗だった。


by thessalonike5 | 2012-01-02 23:30 | Trackback(1) | Comments(0)
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