Texts
■ 論座 2001年3月号 元原稿

『論座』3月号に同じタイトルで、インタビュー起こしを元にした原稿を書きましたが、とんでもないミスをしてしまったのです。200字×30枚と依頼されていたのを、400字×30枚だと勘違いして、倍の分量書いてしまったのです。しかも原稿を編集部に送ったのが、校了直前。編集さんがぼろぼろの状態でバサバサ削って、半分の分量にしてくれました。ということで、ここに元の倍の分量ある原稿をアップします。

■日本のことばをめぐる状況は、もはやどこが悪いここが悪いという病巣局在論的なレベルをとうに超えています。永田町のことばが信じられないとか、あるいは特定の個人や組織のことばが信じられないとか、あるいはお上は信じられないが民衆は信じられるとかいった次元ではなく、全部がだめ。すべてのことばが信じられない状態になっているのです。

■ことここに至っては、ことばを支えるフレーム自体を、まるごと取り替える以外に道はないというのが私の結論です。どうしてか。理由は、われわれ日本人が、近代社会を運営するために必要不可欠なことばの使い方を知らず、かつ知らないという事実に無自覚であることに尽きます。

【近代社会が期待することば像】
■原初的共同体においては、昨日あったように今日もあり、今日あったように明日もあるという「慣れ親しみ」が支配しています。いわば、自明性についての共通感覚です。それゆえに、名指されたモノや行為に対して、それをどう体験し、それに対してどうふるまうべきか、という体験と行為の枠組みが、あらかじめ共有されていました。

■そういう段階では、特定の生活分野を除いては語彙が限られていて、その代わりにことばにならないもの、ことばとことばの間についての、感覚もまた共有されていました。話さなくても通じる、ということです。原初的共同体では、祭祀や薬物などあらゆる手段を通じて、ことばにならないものについての感覚を研ぎ澄ますことが奨励されていました。

■自明性についての共通感覚を破る事態が生じると──原初的共同体では自然災害や流行病や奇矯な振舞いがつきものですが──、ことばにならないものについての感覚の共有をベースにして、共同的な儀式が行われ、有害なものを聖化して日常のフレームから切り離し、そのことで慣れ親しまれた世界を温存する、といった所作がなされていました。

■ところが社会システムが複雑になると、ことばを支える共通感覚、ことばにならないものについての共通感覚の、分化が生じます。共通感覚を持たない者同士が、決定をしたり約束事をしたりするために、ことばがふんだんに使われるようになります。共通感覚に覆われたアナログなことばの世界から、一般的通用力をもつデジタルなことばの世界へ。

■物物交換から一般的購買力を持つ貨幣の世界に移行するように、アナログな共通感覚から一般的通用力を持つことばの世界に移行します。どこでも通用するためには、ことばに動機づけの機能が未分化に備わっていては都合が悪い。なぜなら、何かについて、どう振る舞うべきかをオープンにして置かないと、複雑なシステムを組み上げられないからです。

■こうして、世界を細かく認知的に規定することばの機能と、規定されたものにどう振る舞うかに関わる動機づけの機能とが、分化する。それが、複雑な近代社会の特徴です。人は、共通感覚に支配されたことばによってではなく、愛によって動機づけられ、貨幣によって動機づけられ、権力によって、個人ごとに異なる形で動機づけられるようになります。

■しかし日本では、紛争処理に関わる法システム、資源配分に関わる経済システム、集合的決定に関わる政治システム、人の再生産に関わる家族システムなどが分化しているという意味での「近代社会」を達成するのに、例えば近代天皇制による国民化などという独特の経路を辿ったがゆえに、複雑な社会にふさわしいことばの用法が一般化しませんでした。

■したがって現在でも、共同体の共通感覚を絶えず当てにしながらことばを使うという、原初的共同体に近い使用法から脱却できていないし、ことばの認知的な機能と動機づけ装置とが未分化に癒合していて、名指されたものを同じように体験し、それに対して同じように振る舞うことが、当然のように期待され合うという、実に驚くべき状況にあります。

■典型的には、相手が自分と同じ前提を持つと考えられないとコミュニケーションを先に進められない。同じ前提を持つと期待できる人とだけ永久に戲れる。同じ前提を持つ者たちの輪から外されるとコミュニケーションを生きられなくなるので同調圧力に負け続ける。共通前提を確保するために身内のジャーゴンを異様なほど作りたがる。などなど。

■そこには近代社会が期待しているような、動機づけとは切り離された形で、厳密に認知的にことばを使用する習慣が、ありません。人口に膾炙した言い方では、何が事実であり、何が意見であるのかを峻別する習慣がありません。言い換えれば、事実は何かということよりも、共同体的なノリが維持可能かどうかのほうが優先するわけです。

■だから日本では、司法が世論に対して脆弱であり、学校でのイジメなどでは公的人間が事実を勝手に歪め、大学の人事では学問的業績よりも情実やコネが幅を利かせるといったことが続いています。近代だとはおよそ信じがたいことばの用法が許されてきたのは、同じ日本人なら、会社なら、学校なら、分かり合えるといった共通前提への信頼の御陰です。

■近代成熟期の到来によって、コミュニケーションの不透明化が進み、社会システムの多様性と流動性が高まると、こうした共通前提への信頼はムリになります。昔は、建前の向こう側にほのぼのとした本音の共有があったから脱法もありえたのが、本音が不透明になると誰がどこかでウマいことを…との疑心暗鬼からの抜け駆けが横行するようになります。

■これが今の日本。ムラの共同性を越えた空間での公共的振舞いを、国家大の疑似共同体への所属によって調達してきた近代日本は、近代社会一般が公共的振舞いを調達するために必要不可欠とすることばの脱共同体的な使用法を知りません。近代成熟期に至って社会の異質性が急速に高まった昨今になり、ようやくそれが大きな問題になってきています。

【少年法改正に関して見られた幼稚園レベルの”議論”】
■今の日本では、政治家のことばも、学問人のことばも、論壇人のことばも、広大な近代社会の隅々まで直進するどころか、1メートル先で失速するような原住民性に染め上げられています。例えば、国会における「討論」と称されるもの。日本においてことばがどう機能しているか(あるいはしていないか)を見る、格好のケーススタディーになります。

■一昨年から昨年にかけて、少年法厳罰化と青少年有害環境規制という二つのテーマが国会やマスコミでさまざまに議論されました。これらのテーマについては、すでに学問的には何十年以上にも及ぶ研究の蓄積があります。にもかかわらず、学問的な無知に覆い尽くすれた根拠も論理もデタラメな暴論や空論が横行し、それが立法に結びついているのです。

■少年犯罪の重罰化の根拠として、三つの論拠が示されています。第一に重大犯罪を抑止するとする抑止効果論。第二に被害者や社会の感情的回復のためには重罰化が必要だとする感情的回復論。三番目は大人と同じように子供も自分の責任をとらなければならないとする自己責任論。どれも二言か三言で簡単に論破できます。

■第一の抑止効果論ですが、国連の犯罪統計を見れば、重罰化による犯罪抑止効果のいかんについては結論が出ています。すなわち、殺人については抑止効果はなく、軽犯罪と性犯罪については抑止効果はある。なのに議員から精神科医まで「重罰化することで少年に殺人を思いとどまらせなければいけない」などという妄想を語っているのが現状です。

■第二の感情的回復論については、九〇年以降の先進国の流れでは、むしろコミュニケーションによって感情的回復を図る方向が主流です。アメリカであればNPOが収監後の囚人と犯罪被害者との間にコミュニケーションチャンスを開いて、感情的回復を期する運動を展開し、成果をあげています。私の呼びかけで、日本でもやっと紹介されはじめました。

■ドイツであれば、九〇年代半ばに法律ができて、収監前のボランティアによる償いの可能性を制度的に確保し、犯罪被害者が彼のボランティアをどう評価したかによって刑期が変わるというシステムを作っています。各国のそのような真摯な取り組みを見れば、重罰化しないと感情的回復が図れないという発想の驚くべき貧困さが見えてくるはずです。

■三番目の自己責任原則は、一見正しそうに見えますが、近代的責任概念の原則からすれば、自己責任原則と自己決定原則とは表裏一体です。ですから、八〇年代には、八九年の国連総会での子供の権利条約の採択へと至る「子供に自己決定権を認める動き」の高まりと並行して、子供に自己責任原則を適用する形での少年法の重罰化が行われたわけです。

■だから重罰化を行う前に、子供の自己決定を許容し支援する体制づくりが先行する必要があります。ところが日本の保守論壇は「子供に自己決定権はない」といった舌の根の乾かぬうちに「自分のやったことの責任をとらせろ」と言ってしまう。責任主体の近代的概念についての、驚くべき無知。そうした連中が論壇人を名乗る恐ろしさに震撼すべきです。

■愚かなのは左も同じです。一部雑誌が少年の顔出しや名前出しをすると、重罰化に反対する左側の人たちは「子供の人権侵害だ」とか騒ぎます。ちょっと待ってください。少年法が六十一条で顔出しや名前出しを禁止するのは、保護更正主義といって、子供に大人なみの権利を与えないかわりに、まわりの人間が保護・監督の責任を負うと考えるからです。

■つまり、子供の人権を制限するからこそ刑罰が軽くなっているのです。左が言うべきことは論理的には二つしかありません。一つは、子供に大人並みの人権を与えよというのなら、先進各国がそうであるように、自己責任原則に依拠する重罰化が将来的にありうることが念頭に置かれなければおかしいのです。現に私はそのような立場をとっています。

■もし子供の顔出し名前出しが人権侵害だというのなら、大人の顔出しや名前出しも人権侵害だと主張しなければなりません。実際、司法における福祉主義の立場をとるスウェーデンなどの一部の国では、大人の顔出しや名前出しも、人権侵害として一切禁止されています。このあたりの小学生でも分かるロジックが通用しなのが、国会であり論壇なのです。

■社会環境対策基本法に関しての議論でも、同種の光景がまま見られます。議員たちは口々に「暴力的なメディアが子供を暴力的にする」という趣旨のことをわめいていますが、学問的にはまったくのナンセンスです。だからそれを理由にして立法することはそもそもできない相談です。ところがその不可能なことがまさにまかり通ろうとしているのです。

■右の主張は、マスコミ効果研究の分野で「強力効果論」と呼ばれる仮説ですが、すでに八十年間の長きにわたり繰り返し調査が続けられ、一貫して棄却されつづけている。代わりに実証されているのは「限定効果論」と「受容文脈論」です。限定効果論とは、初めから暴力的な性質を持つ者がメディアによって引き金を引かれる可能性があるとする説です。

■引き金を引くのだって悪いじゃないかと思うかもしれない。ですが最初に限定効果論を提唱したクラッパーがいうように、メディアが引き金を引かずとも、いずれ別の何かが引き金を引く。メディアだけを論じることは重要な問題を覆い隠すことになります。それだけじゃなく、メディアが引き金を引くかどうも受容文脈で変わってくるのです。

■受容文脈論とは、メディアがどういう影響を与えるかは、受容文脈次第。つまりどういう状況でテレビを見ているかによって影響が変わるとする説です。一人で見ていれば飲み込まれやすいけれども、家族や友達と見ていれば比較的距離を取りやすく影響を受けにくいという調査データが、すでに山のように出ている。僕も同様な調査をやっています。

■だから、メディアの悪影響を危惧する人間は、メディアの受容文脈をコントロールすることに心を砕くべきで、それが科学的態度です。というと、また議員連中が、最近の親には子供のテレビ視聴をコントロールする力を失っているから、テレビの内容を規制してもらう以外にないのだ、と言いはじめる。私は毎度、頭を抱えてしまいます。

■もし「親がコントロールする力を失っているから」というのならば、受容文脈のコントロールが目標なのですから、内容規制ではなく、ゾーニング規制だけが主張されなければならない道理です。ところが実際には、内容規制とゾーニング規制が一人の議員の口からごちゃまぜになって主張されている。幼稚園児でも分かるようなことが分からないのです。

■善意の市民や政治家の中には欧米だって暴力表現を規制しているじゃないかという人がいる。確かに欧米における規制を求める運動は悪影響論から始まった。でも立法府のレベルでは立法根拠が探られますから、悪影響論=強力効果論が学問的裏付けを欠いていることがすぐに分かる。そこで立法根拠を憲法的な幸福追求権上の問題に据え直したわけです。

■要は、悪影響があると思う人が、見たくないものを見なくて済む権利、子供に見せたくないものを見せなくて済む権利、一口でいえば「不意打ちを食らわない権利」を保証しようということです。昨年まで話題になっていたVチップの導入も、こうした法理で導入されるならば、送り手と受け手の双方にとって合理性があります。

【マスコミ報道の通弊と論壇誌の機能】
■というと、次のような反論が出てきます。悪影響論を実証するために、政府だって調査をしている。一昨年9月に総務庁が、昨年7月に郵政省が、それぞれ暴力的メディアへの接触頻度と、暴力を振るう頻度に関係があるというデータを出したではないか、などと言うわけですね。マスコミもこれを悪影響論を実証したものだとして紹介しています。

■いやはや、大学に入り直していただきたい。統計学の最初の講義で習うように、AとBに相関関係がある場合、因果的解釈は3通り。(1)A→B。(2)B→A。(3)A←C→B。(1)は暴力的メディアが暴力性向を高めるという解釈。(2)は元来暴力性向が高い者がたまたま暴力的メディアで欲望を発露しているとする解釈。双方で処方箋は完全に逆になります。

■(1)の悪影響論ならば、メディア内容を規制しろとなる。(2)の代理満足論ならば、メディアを規制すると欲望が現実の暴力行為に発露するので、メディア内容を規制するなとなる。ちなみに(3)は、僕の著作が採用している説ですが、別の第三のファクターがあって、これが暴力的メディアを愛好する傾向と、現実に暴力を振るう傾向を、共に高めると見ます。

■統計データの解釈についての基礎教養さえ存在しないマスコミは、政治家に、先の総務庁や郵政省のデータを突きつけられるだけで、反論のことばを失ってしまいます。悪影響を言うなら、そういうマスコミの無知無教養ぶりの悪影響こそが、政治家や国民を、悪影響論に基づくメディア規制に奔走させているとは言えないでしょうか(笑)。

■ゾーニング規制、たとえばVチップに対して、表現の自由派からも稚拙な反対論が出てきます。米国の調査だとVチップをつけても利用する親は3割しかいないから実効性はない云々。これは問題を取り違えている。権利を行使したい者が行使できるようにするデバイスがVチップ。3割が少ないと思うなら、権利行使を呼びかける市民運動をやりなさい。

■あと、ゾーニング規制には、そういう意味での実効性の有無には関わりなく、一定の意味があります。それは「社会が意思を表示している」ということです。無自覚にずるずる踏み込むのではなく、自分は社会の意思表示を無視して踏み込もうとしているのだな、と自覚できることが重要です。そうした東西南北の方向感覚がないと社会性はありえません。

■さて、私は社会環境対策基本法に反対ですが、テレビ業界の人たちには「あんたら一度規制された方がいい、自業自得なんだから」と言い続けています。先にメディア悪影響論を垂れ流した張本人がメディアだと言いましたが、今から10年前の有害コミック規制のときに、有害コミックが子供を性的にデタラメにすると報道し続けたのはテレビです。

■一般的にいうと、何かというと「こいつが悪いんだ」というデタラメな因果帰属をするのはテレビの悪弊です。そうしたやり方を社会学では「帰属処理」といいます。何ものかのせいにすることで安心する。しかも、その何ものかが、自分と無関係な、自分自身に塁が及ばないような何者かである場合、その帰属処理を「切断操作」と呼ぶわけです。

■朝日新聞も、酒鬼薔薇聖斗事件のときに「少年は行為障害だった」などと報じています。「医者は行為障害だと認定した」というのならマシですが、ひどいものです。まるで行為障害や人格障害を、病理カテゴリーであるかのように扱っています。他方で、少年は責任能力ありと判定された、などと平気で書いています。本当に頭を抱えてしまいます。

■各所で繰り返しているように、人格障害や行為障害のカテゴリーは、病理カテゴリーに属さないのに、平気で人を殺せるとか、平気でウソをつけるなど、まともな社会生活を送れない人間の増大に対処して、米国精神医学会が七〇年代後半に「命名」を行ったものです。ですからこのカテゴリーは、因果カテゴリーとしては用いることはできないのです。

■「彼はなぜ変なことをしたのか」との原因を探索する問いに対して、「行為障害だったから」と答えるのは、「変なことをするような人だったから」のと同じで、端的に無意味です。因果的な探索を行うならば、人を殺すことの敷居が彼にとってかくも低くなったのはなぜか、ということこそが問われなければならない。

■「病気」は、帰属主義と切断操作の格好の道具になることは、社会学では三〇年以上前から知られています。「そうか病気だったのか」(=帰属処理)。「自分や自分の子供は病気じゃない。だから自分は関係ない」(=切断操作)。ほら、これで安心できるじゃないですか。そういう共同体的な処理装置の中にメディアが組み込まれてしまっています。

■学問的な非常識という点で問題にしておきたいのは、大新聞の一面に「激増する少年犯罪に対して政府は・・」とか「凶悪化する少年犯罪に対して国会は…」などと書かれていること。単なるデタラメです。少年犯罪は、凶悪犯も含めて、人口比で言えば、ピーク時間の數分の・。過去4年は若干増えているが、長期的趨勢とは言えません。

■戦後史を繙けばすぐに分かるように、一九六〇年代までは酒鬼薔薇事件に勝るとも劣らない少年凶悪事件が数々あります。凶悪化する云々は、いったい何を言っているのでしょうか。最近の『少年たちはなぜ人を殺すのか』(創出版)にも書きましたが、少年犯罪がそれほど重大な問題なのかということについて、僕たちはいったん吟味し直すべきです。

■むしろ問題なのは、かつて凶悪犯罪を含めて、少年犯罪の件数が今よりも圧倒的だった過去には、人はさして不安がらなかったのに、とりわけ九〇年代後半に入ってあたかも集団ヒステリーのように、国民レベルから政治家レベルまで少年犯罪問題を喧しく取りざたしている理由です。先の本では、そのことを、動機の不透明性に絡めて詳しく論じました。

■事実を書くことが新聞の使命なのですから、統計学的なデタラメを一面で平気で書いているようでは、この国はお先真っ暗です。さらにこうしたフレームアップの背景については、学問の世界に、ステレオタイプ研究やフレーム分析の膨大な蓄積があるので、頼むから、学問的常識のほんの一部でもいいから、踏まえてほしいと切実に願うわけです。

■あと、諸外国のクオリティマガジンと比較して、日本の論壇誌が決定的にダメなのは、「日本にも道徳の再建が必要だ」「共同体の再建が必要だ」という「〜が必要だ」という締めが多いことです。それで皆が頷きあってカタルシスを獲得するという共同体的な作法が、論壇を覆い尽くしているのです。要するに「で、どうすんの、おまえ」ということ。

■必要ならば可能なのかよ。不可能だったらどうするんだよ。必要なものの代替的選択肢は検討されているのかよ。そうしたことが全然検討されていない。僕は「〜が必要だ」のごときことばを、学生たちには「論壇的たわごと」だとして退けるようにを教えていて、そのためには反面教師として論壇誌をよく勉強するといいと、言いつづけてきています。

■日本におけることばの最も貧しい用法が、論壇誌に展開している。その一つの証拠が、各原稿に付けられているお見合いの釣書のような長たらしい経歴(笑)。所属と主著だけでいいじゃないですか。これ一つとっても、そこでは目から鱗が落ちるような新しい認識が期待されているわけではなく、共同体的安心が要求されていることがよく分かります。

■驚くほど貧しいコミュニケーション空間ですが、それを言えば、国会や地方議会の質疑でも同じです。誰も内容を真剣に聞いているわけではなく、期待された役割を演じているだけ。中には真摯な市民派議員もいますが、市民派議員の役割を演じるのに夢中で、言葉の中味は吟味されていない。その証拠が「暴力的メディアが子供を暴力的にする」云々。

【「民権」「分権」は?】
■もちろん政治家のレベルが低いとか、マスコミがダメだなどと帰属処理をしたいのではありません。そうではなく、冒頭から述べているように、この国の隅から隅まで、複雑な近代の社会システム、とりわけ近代成熟期のそれにとって必要な、ことばの近代的な用法が確立していないこと、いや確立する徴しさえ見えないことを、問題にしているわけです。

■それを僕は「民度が低い」と表現してきています。たとえば僕が自己決定の大切さを主張すると、「自己決定(自由)には責任が伴うはずだ」「宮台は無責任を奨励している」などと頓珍漢な批判が寄せられる。おいおい、中学生レベルの読解力はあるのかい。僕は、近代的責任概念を貫徹させるためにこそ、自己決定の大切さを説けと言っているんだよ。

■一般的に、日本では、自由と秩序、自己決定と共同体の関係について、学問人の世界にさえ、学問的な非常識に類する誤解が蔓延しています。いわく、(1)既存秩序の元での自由は秩序を補完するだけ。(2)自由には、自由にならない心理的前提や社会的前提がある以上、自由=自己決定は幻想だ。(3)自己決定を許容すると共同体が破壊される。などなど。

■こうした議論は、今日の学問水準を踏まえれば、一項目についてほんの数十秒で論破できますが、そうした論破の作業の詳細は『自由な新世紀・不自由なあなた』(メディアファクトリー)に収録した「自由と秩序」という論文を見てください。元々朝日新聞の『小説トリッパー』に書いたものですが、僕の手元に多くの反響が寄せられた文章です。

■しかし今回ここで問題にしたいのは学問的な素養のなさではなく、そうした誤解を著者や読者らに自明に正しいものだと信じさせている「民度の低さ」なのです。何も僕は「民度を高めることが必要だ」と例の論壇的紋切り型で締めようとは思っていません。そのために具体的な教育改革プログラムや、マスコミ改革プログラムを各所で提案しています。

■でも、そうしたプログラムの意味をよく理解していただくためには、病巣局在論的な思考法、あるいは帰属処理と切断操作に見られる共同体的な作法と、完全に絶縁してもらわなければならない。この間、僕が出席したあるイベントで「官権から民権へ」という横断幕がかかっていることに気づいて、主催者に「ふざけるな」と抗議したことがあります。

■この間、ある番組で菅直人氏と話したときも、彼が《官僚の政策立案にただ乗りする政官癒着を廃し、市民が自分の頭で考える政治にすれば、社会がよくなる》と言うので、そりゃ違うんじゃないかと述べました。「官権から民権へ」と移動して社会がよくなるためには条件があります。それは「民度が高い」ということです。

■「官権」よりも「民権」がマシですって。JCOも民。雪印も民。三菱自動車も民。いい学校・いい会社・いい人生などと尻を叩く親も民。自由は秩序を破壊するなどと吠える組合教員も民。子供に自己決定権などない!でも徹底的に重罰化しろ!などと意味不明の言説に頷きあう論壇界隈も民。メディア悪影響論を垂れ流しつづけてきたマスコミも民。

■要は、官に勝るとも劣らず、民が腐っているわけです。先の番組で僕は言いました。官僚よりも市民が馬鹿ではない証拠がない。だから叡智を集中するシステムを創らない限り、昨今の少年法重罰化や有害メディア規制に国民の7割から9割が賛成するような状況で、デタラメな政策的決定が行われてしまう可能性がある、と。

■そもそもマスコミはこうした叡智を集中して政治的決定を監視する機能をもつものではなかったか。ところがマスコミの基本である調査報道をなおざりし、記者クラブ制度と宅配制度に保護されながら、役所の言うことを官報よろしく垂れ流して恥じないどころか、記者クラブのメンバーであることがエライことだと錯覚する輩が溢れているではないかと。

■大新聞の一面には「永田町の論理」「霞ヶ関の論理」云々といった文言が踊ります。ちょっと待てよ。それにずぶずぶにハマっているのは、マスコミ自身じゃないかよ。そういう文言を見るたびに、僕は本当に寒くて凍えそうです(笑)。だってシャレになってない。別に新聞を悪者にしているのではない。民もまた隅から隅まで腐っていると言いたい。

■分権化すれば、民権化すれば、社会がよくなるという人がいるけれど、そんなわけがないのです。民度が低ければ、民権化や分権化によって、社会は今よりもずっと悪くなります。そんなことは火をみるよりも明らかだと、教育についてのフィールドワークで全国を回った僕は、思います。民権化がいいか、分権化がいいかは、すべて文脈次第なのです。

■ヨーロッパで「第三の道」という政策的指針が一般化しているせいで、日本でも「中間集団の復活」を唱える人々が多数います。社会学でもデュルケーム以降「社会学的中間集団論」は非常に重要な伝統になっており、実はブレア政権のブレインで「第三の道」を最初に提唱したアンソニー・ギデンスは、実はデュルケーム研究者として出発しています。

■ここでは詳しくは紹介できませんが、「第三の道」派による、新自由主義(=右)批判と代替的理念、福祉国家主義(=左)批判と代替的理念については、リベラリズムの本義に適うものだとして、僕自身はほぼ全面的に賛成しています。しかし、現実の政策的処方箋としての「国家廃絶を企図しない中間集団主義」は、ただでは日本に適用できません。

■なぜか。日本には中間集団ファッシズムの伝統があるからです。現実問題として「学校を中心とした家・学校・地域三位一体となって」というスローガンに象徴されるように、まったく一枚岩の学校的価値観に基づいて子供を締め上げ、事件が起こっても地域ぐるみで隠し、イジメられる側を非難してイジメる側をかばう地域が日本中に溢れています。

■学校化された地域共同体は、国家廃絶を企図しない中間集団の典型です。同じ中間集団は、かつて国家の意思を体現して、隣組制度のもと、非同調者を徹底的にイジメぬき、なぶり抜いた実績があり、それが今日に至るまで多くの地域で伝統として受け継がれてきています。中間集団にまかせれば、というのは、よほどの条件を付さない限りは不可能です。

【リフレーミングへの処方箋】
■マスコミ人はもっと賢くならなければならないとか、議員はもっと賢くならなければならないという論壇人みたいなことは僕は言いません(笑)。論壇人はもっと賢くなれとも言いません。だって、ムリでしょう(笑)。じゃあどうするか。僕が以前から述べているように、人にではなく、システムに負荷をかけるようにして、問題を処理するしかない。

■たとえば、僕は「自己決定=自己責任的な生き方が必要だ」などと紋切り型で締めたことはなく、必ず具体的な教育プランを掲げ、かつさまざまなロビー活動をすることで、そうした生き方をする人間が最終的には社会全体に拡がるようなシステムを設計し、各所に提示し続け、採用を促し続けてきています。それと同じことなのです。

■政治家については、政治家の頭をよくすることはできませんが、有能な政策秘書や政策シンクタンクをつけるシステムにすることで、たとえ無教養な議員でも、無教養な議論を国会に持っていくことができないように、まして立法行為に結びつかないようにする必要があります。そういうシステムが先進国で最も遅れているのが日本です。

■議員も忙しいから、学問世界の業績にいちいち目を通しておくことなどできるはずもない。しかし、そうしたものをふまえた人間が、各議員のブレーンになり、学問的に意味のある水準で議論を行うことができるようなれば、政策決定に市民の叡智は今よりもずっとたくさん集まります。因みに先の番組でも菅直人さんにそうしたシステムを提案しました。

■マスコミについても、同様な提言を既に各所でやってきています。記者さんもディレクターさんも忙しいから、学問世界の業績に明るいことなど期待すべくもない。しかし以前に比べても、社会はますます複雑になり、誰がどこでどう傷つくかを予想することも、さまざまな事件について因果関係を推測することも、どんどん困難になるしかありません。

■であれば、僕がいろんなところで提言しているように、たとえばテレビについては、すでに欧米のいくつかの放送局がやっているようなシステムを導入すればいい。まず報道被害については、市内オンブスマンを設ける。BBCは、弁護士を三人やとって、年間三〇〇〇本弱の番組を見せて社内チェックをやらせる。そうしたシステムを導入するべきです。

■でもネガティブチェックだけではダメ。質のよい番組を増やすためには、プロフェッショナルなリサーチャー制度を作る必要があります。日本でリサーチャーというと、クイズ番組のネタをひろってくる下働きの人のことを言うんですが、そうじゃない。社内にそれぞれの分野に詳しい準専門家を置いて、ボジティブチェックをするのです。

■BBCのドキュメンタリーなどでも採用されているシステムですが、たとえば精神科医の話を聞く場合、精神医学会で学問的に最も信頼されているの誰か、最も評判の悪いのは誰かを指示するわけです。リサーチャーはそれぞれ、精神医学や社会学や心理学の専門家です。純専門家。そういう人たちが、ポジティブなチェックをする。これをするべきです。

■それが日本では、例えば、すっとんきょうなことをいう精神科医を出せば出すほど、番組の間がもったり視聴率が集まったりするするので、すっとんきょうなことをいう、しかし学会では最悪の評価を得ている人物が、分野を問わず出演し続けるという悪弊が続いています。それが続く限りは、僕はめったなことではテレビに出まいと思っています。

■もちろんそうしたシステムを作るには、それ自体叡智が必要です。そういう叡智を持った人間は、数は多くないものの、既にある程度は存在する。そういう人間を入れて考え抜いたらいい。繰り返すと、一番くだらないのは「議論の質をもっと高めよう」「もっといい番組を作ろう」といった紋切り型です。「で、どうするんだよ」。それが問題なんです。

■「道徳的になれ」ではなく「道徳的でない人間が関わっても問題行為を出力しないシステムを設計せよ」。「頭がよくなれ」ではなく「頭がよくない人間が関わっても頭が悪い番組や法律が出力されないシステムを設計せよ」。論壇誌もそうですね。頭の悪い執筆者でも頭の悪い文章が掲載できないようなシステムを、ちゃんと設計するべきなんです。

■ここで具体例を挙げたシステムの設計と構築に失敗すれば、僕たちの社会は急速にスポイルされ、衰えていくでしょう。でも僕は、そのことを単に不幸だとは思っていません。たとえば、近代社会に相応しいことばの用法を獲得しろ、というのは、共同体的な認知・コミュニケーション・意思決定のフレームを、新しいフレームに変えろということです。

■社会学では一般的な考え方ですが、何かつらいことがあったとき、つらい現実が社会の側にあると考えるのか、それをつらいと感じさせるフレームが自分の側にあるのか、ということは、つねに選択的です。つらい現実をはねのけようと頑張り過ぎることで、問題を抱えたフレームが温存され、新しいフレームの選択可能性が隠蔽されることもありえます。

■かつて神戸で震災が起こったとき、PTSDが出てくる短い期間ですが、全てが一挙に失われてしまったことで、不思議な開放感に浸れたと述べる人たちが少なくなかったことを、いくつかの新聞が紹介しています。何かをつらいと感じるフレーム自体が維持不可能になってしまったせいで、一時的にせよ、体験構造が変わってしまったわけですね。

■『Sight』冬号での小野善康さんとの対談で、僕は、今の若い人の間では、モノ離れとカネ離れが急速に進んでいて、『サイゾー』1月号での宮崎哲哉との対談でも述べたように「貧しくとも楽しい我が家、それを支えるのがITだ」という図式が非常にハッキリしてきた。そういう彼らにとっての景気低迷のもつ意味は、大人にとっての意味と違ってます。

■これはとてもいいことです。モノ離れ、カネ離れが進むと言うことは、われわれが初めて、近代過渡期的なフレームから脱出するということです。つまりフレームが取り替えられつつある、本格的な近代成熟期への適応がやっと始まったということです。そうした動きが加速するためには、むしろしばらくは経済のダウントレンドが続いた方がいいんです。

■ヘタな希望は失われた方がいいんです。むしろそこに妙に希望が残ったりすると、本来捨てられるべきフレームが延命したり、そのせいで、つらがらなくていいことをつらがり続けることになる。経済成長率が下がった、実質所得が下がった、だからどうだというんだ。実質所得が半分に下がっても七〇年代の水準は確保しているわけじゃないか(笑)。

■それは冗談ですが、病巣局在論では済まない、隅から隅までダメ、局所的手術だけではどうにもならない、全体がリフレーミングされる必要があるということ。それがこれからの日本を考える場合に、大前提になります。そういう意味で、徹底的にダメ、それは誰かのせいではなく、何よりもダメな日本だからだ、と自覚することから始める以外ない。

■今から三十数年前、ドイツの左翼詩人エンツェンス・ベルガーが『何よりもダメなドイツ』という本を著し、当時この本を読んだ左翼連中が、現在、ドイツの政権の中枢を占めています。僕たちは戦争で負けたのに、実はいまだかつて「何よりもダメな日本」を身に浸みて実感したことがない。そのことが、日本をどんどんダメにしているという逆説。

■自虐史観があるじゃないかって。そうだとしたって、アメリカの極東戦力のおんぶにだっこの経済成長で余裕をかましている連中が、「私たちが悪うございました」と言っていただけ。そんなものは「何よりもダメな日本」という認識の反対物でしかありません。真の愛国者こそ今、「何よりもダメな日本」という認識を徹底しなければなりません(笑)。

■最後に、リフレーミングのプロセスで起こりうることを検討しておきましょう。過渡期であるがゆえに生じるさまざまな瑕疵については、微妙な評価が要求されます。長野県の田中県政を例にとってお話ししましょう。田中康夫知事が知事になった。これはとてもいいことです。この社会の数少ない明るい徴しの一つです。理由はもうお分かりのはず。

■しかし社会学者としての僕は、支持率は九十三パーセントという報道に大きな危惧を覚えるわけです。要するにそれまで土建屋ベッタリだった人までが田中さん万歳と言っているわけだから、共同体の空洞化で路頭に迷った人たちが、社会の特異点にこぞって希望を託して結束する。これは社会学において厳密に定義されて意味でのファシズムなわけです。

■ただ歴史が示すように、それが後世に「本当にファシズムだった」と非難されるかどうかは、単なる結果論。すなわち田中さんが「いい結果」を残せば、のちにファシズムだと言われないでしょう。「悪い結果」を残せばファシズムだったといわれるでしょう。さて、では何が「いい結果」になるのか、です。僕は、広い意味での「県民教育」だと思います。

■今まで県民たちは、自己決定も、民主主義、自己責任も、まともに経験したことがない。そういう人たちに対して、自己決定権とは、民主主義的手順とは、自己責任原則とは、どういうことなのかを、彼の在任期間中に、このファシズム的勢い(笑)を動機づけに利用して、徹底的に教育する。そうした経験的教育を通じて、長野県の民度を上げる。

■確かに一時は、ファシズム的熱狂を利用した意識改革だけれども、その結果、もはやファシズム的熱狂には一切糾合されないような自己決定=自己責任型の近代的ポテンシャリティをもった民衆が、できあがる。これこそが最大の「いい結果」です。その意味で僕は、田中県政がうまくいくように全面的にアシストしたいと思っているわけです。

■田中県政には今後いろいろと瑕疵が出てくる可能性があり、マスコミとのリレーションが微妙であるがゆえに高橋尚子バッシングに見るようなマスコミの「掌返し」さえ起こり得る。しかしそうした理由でこれをつぶすと、僕たちにはもう次のフリーハンドがない。今述べたことは、僕は昔から「上からの教育改革」云々と言っていたことに関係します。

■これから日本が新しいフレームを獲得することが必要だったにせよ、古いフレームから新しいフレームにいきなり移るのは難しい。そこで、古いフレームの崩壊による不安から生じたファシズム的熱情を、新しいフレームを獲得するための動機づけへと振り向けるといった操作さえ、是是非非で容認せざるを得ないほどまで僕たちは追いつめられています。

■もう一度言うと、ファシズム云々といった理由でマスコミが田中県政を突き放すと、今後のフリーハンドという点で、僕たちは本当に難しいことになってしまいます。これは自殺行為です。もしそれをやったら、ゆくゆくは、僕たちを支えている政治共同体全体がより大きな危機に直面する可能性があります。私たちは戦略的に思考しなければなりません。


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