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廃線探訪
鹿取茂雄さんが3冊目の本を出されました。
今回は ほんの一部ですが僕も登場してます(汗)
大仏鉄道と信貴山急行のコ-ナ-に。
全国書店にて発売中ですので読んでくださいね。
詳しくは下記の出版社のペ-ジをご覧ください。 |
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幸せな一年でありますよう
お祈りいたします。
本年もよろしくお願い申し上げます。
二○十二年 元旦
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2012年元旦 0時すぎ撮影
道明寺天満宮
河陽鉄道を調べてる僕にとっては大事な場所になりました。
2012年は この道明寺天満宮から始まりました。
明治29年 河陽鉄道株式会社の起工式が行われた道明寺天満宮です。
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河陽鉄道・河南鉄道・大阪鉄道を調べているHP
鉄道の歴史、鉄道の遺構のHP 2000年09月10日 00時00分 発車 |
PRODUCED by ☆竜華no66☆/けろけろ 
fwjf0138@mb.infoweb.ne.jp
電話 090-6911-4205
は
皆さんで造ってゆく、会員制参加型HPやで!!
誰でも、鉄道の歴史や遺構について参加してください。
気軽に参加してね!! (^o^)/
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河陽、河南鉄道を調べる会員募集中
河陽鉄道興味がある方一緒に
遺構見学や資料等など色々
楽しんでみませんか?
fwjf0138@mb.infoweb.ne.jp
メ−ル待ってます。 |
   
カウンタ-2009.5.4. 20:00設置 |
現在 HP容量移動中につき 工事中です。
各コ−ナ−一時的に削除しております。
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JR西日本 登録鉄道文化財
毎年10月14日に貴重な鉄道関連の
車両、構造物等を文化財に指定し登録されています。 |
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松永白洲記念館
大阪府 藤井寺市 船橋町
土、日、月曜日 開館
(臨時休館あり) |
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江戸末期に建てられた邸宅が記念館として 書家 松永白洲 の書を今に伝えています。
書作品は、約1740点、展示替えは季節ごと行われています。
生前に書作品の創作に取り組んだ部屋を中心に作品や愛用の道具類を展示しています。
松永家は江戸時代は庄屋を務め漢方医も四代にわたり輩出しており
江戸時代の大和川付替え等古文書や医療道具ほか歴史的に貴重な資料も保有。
河南鉄道の初代支配人であった松永長三郎が携わった鉄道資料も残されている。 |
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松永白洲 書碑
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松永白洲記念館様の ご厚意により 松永長三郎様が携わった 近鉄道明寺、長野線の
基となった河陽鉄道、河南鉄道の貴重な資料をHPで公開させていただきます。
河陽鉄道、河南鉄道の資料は ほとんど残って無いと思われていましたが
2011年春に 明治時代 松永長三郎様が整理されたままの状態で記念館より発見されました。
河陽鉄道から河南鉄道へ変わっていった経営状態の貴重な詳細な資料などあり
不解明であった河陽、河南鉄道が明らかになります。
資料の提供、調査させて頂ける事になり 松永白洲記念館様 感謝致します。
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松永白洲記念館で発見された
河陽鉄道、河南鉄道の資料です。
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南河内郡 船橋村
大阪 湊町駅より9哩79鎖の距離に柏原駅があります。
1889年 明治22年に大阪鉄道株式会社により最初に開業した区間の終着駅が柏原駅です。
柏原駅の南側には奈良から地滑りで有名な亀ノ瀬を流れてくる大和川と
金剛山麓の河内長野、富田林を流れる石川との合流地点がある。
大和川はこの合流地点から中河内方面へと流れていましたが1704年河川改修工事を行い
人の手により堺方面へ付替えられ現在のような大和川になりました。
この大和川、石川の合流地点は昔、南河内郡 船橋村という地名でした。
地名の通り大和と浪速を結ぶ船運搬において要となっていた集落です。
明治31年には河陽鉄道株式会社により柏原−道明寺−古市−富田林間に鉄道が開業し
この合流地点に英国製鉄橋が架けれました。
その船橋に江戸時代から庄屋を務め漢方医も四代にわたり輩出している松永家があります。
江戸末期に建てられた邸宅が記念館として 書家 松永白洲 の書約1740点を今に伝えており
生前に書作品の創作に取り組んだ部屋を中心に作品や愛用の道具類を展示し記念館として
当時の邸宅と松永白洲の作品を展示公開をされています。
もちろん江戸時代の大和川付替え等古文書や医療道具ほか歴史的に貴重な資料も展示されています。
木箱発見
時は平成 2011年春
白洲が眺めるのが好きだった大和川、石川に菜の花が咲いている。
堤防に一人の男が流れる川、白い砂を眺め鉄橋を走る電車を見ていた。
その男の姿に重なり二人の姿が見えた。
一人は川の流れを眺め詩を読んでる、 もう一人は鉄橋を渡る列車を見て微笑んでいる。
両方を眺め、見ていたのが松永白洲記念館の館長である。
菜の花の咲く麗らかでも旧家の屋敷中は寒い!!
夏は風通しが良く涼しいので良いが 夏以外も涼しいというか寒い・・・とことん・・・。
館長が防寒具を着て松永白洲記念館内部を調べている。
館長は、白洲の長男 松永明様で、この記念館で生まれ育ち隅々までご存じである。
しかし記念館の ある部屋は松永家では禁断の間といい立入禁止と言う場所がある。
父である白洲が健在の時には、けして近寄れなかった場所である。
館長が子供の頃 こっそり覗いたそうだが薄暗く木箱などが置かれた倉庫みたいな部屋だった。
子供には興味のない倉庫であった為、二度と入る事のない部屋であった。
そんな禁断の部屋なので もちろん撮影許可も出ない。
禁断の間
館長が記念館整理の為にあの部屋に入ったのである。
最新式のLED懐中電灯を持ちながら薄暗い部屋の中に入ると
奥にホコリの被った大きな木箱があった。
子供の頃 見た微かな記憶が蘇ってきた。
父、白洲も開封した事のない木箱である。
松永家の人々にとっては開封どころか触る事も許されなかった木箱
なぜなら その木箱は松永家では偉大な人物 鉄橋の列車を見て微笑んでいた人の木箱だから・・・・。
松永長三郎の木箱だ!!!
長三郎は、現在の近鉄南大阪線の基を築いた方である。
明治31年の開業以前 明治29年6月13日より河陽鉄道株式会社に勤め
河南鉄道株式会社 初代支配人となった方である。
時代は平成 白洲も長三郎もいない。
白洲も触れなかったホコリだらけの木箱を館長が恐る恐る触った!!
かなり大きな重たい木箱だ。
ホコリの付いた木箱の蓋を開けた瞬間 館長の目に
赤い文字が飛び込んで来た!!

あの長三郎の書いた文字だ・・・・・・。
とても重要な書類のようだ!!
しかも 書類が、ぎっしりと入っている、かなりの量である。
木箱から ひとつ、ひとつ取り出して表の部屋に並べていく
書類は束ごとに綺麗に製本されている、
明治時代なので紐で綴られているが これだけの量を製本するのには
かなり時間と手間がかかり長三郎の几帳面さがこれだけで分かる。
年度ごとに分けられており 更に木の紐でくぐられていた。
製本された書類以外に和紙で作られた封筒が出てきた。
しっかりと糊で封をされ封印箇所には河南鉄道の印鑑まで捺印されていた。
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封筒を開封
明治時代に長三郎が封印した封筒を
恐る恐る 館長が
開封作業を行い始めた。 |
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明治時代の糊だが しっかり付いており
途中からカッタ−ナイフを使用し開封。
中身を取り出す。 |
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中には、封筒が数枚入っていた。
封筒の中を確認すると
株券、領収書等であった。
詳細はまだ未確認だが大事な書類のようだ。
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木箱から取り出した状態でまだ
手付かずの書類。
この大量の書類からどんな事が解るか
楽しみである。 |
※ 画像の転載禁止
画像、資料については松永白洲記念館掲載許可済
許可番号 鉄道A101号
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第弐 さてさて どれから見てみようかな??? |
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河陽鉄道

明治31年 河陽鉄道株式会社 本社 (富田林 毛人谷)
河陽鉄道株式会社の発注車両 |
車 輌 名 |
発注両数 |
河陽鉄道に納入 |
河南鉄道に納入 |
上、中混合客車
30人乗(上14人中16人) |
2両 |
− |
2両 |
下等客車 50人乗 |
8両 |
6両 |
2両 |
下等緩急車 40人乗 |
2両 |
2両 |
− |
郵便緩急車 |
2両 |
− |
2両 |
6噸有蓋貨車
明治31年6月13日到着 |
10両 |
10両 |
− |
6噸無蓋貨車 |
5両 |
− |
5両 |
土運搬車 |
10両 |
10両 |
− |
計 |
39両 |
28両 |
11両 |
機関車 1号
明治31年6月19日完成 |
1両 |
1両 |
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機関車 2号
明治31年6月29日完成 |
1両 |
1両 |
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東京 井上、月島車輌に河陽鉄道が発注していた車輌ですが
経営問題で納入が延期になっていた車輌は、残金支払い河南鉄道に納入されました。
※当初は、下等客車10両の予定でしたが8両に変更になりました。
機関車は大倉組発注、大阪鉄道組立 |

国立公文書館の書類には大正4年7月
河南鉄道の車両番号改正表があります。
車両記号は河陽、河南鉄道当初は番号だけでした。
下等客車 壱号 となっていました。
この番号改正で
形式が甲乙からAに
記号はそのまま継続
番号は車種に関係なく通し番号
に変更されました。
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河南鉄道の話・・・・・・
(河陽鉄道→河南鉄道→大阪鉄道→関西急行→近畿日本鉄道) |

松永白洲記念館蔵 |
蒸気自動客車って????
実は河南鉄道に走ってました。
蒸気機関車と客車が一緒になったような車両です。
ガソリンカ−、ディ−ゼルカ−が出てくる前の車両です。
明治39年11月5日に認可を受けて明治42年4月12日に竣功
明治42年4月17日時刻改正し柏原-長野間で運転開始をしました。
乙ノ一 ろは第二号 ハンガリ−製 |


河内煉化製のフランス積橋台
柏原駅−柏原南口駅間
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柏原−柏原南口間にあるフランス積のレンガ造りの橋台があります。
平井晴二郎が北海道、讃岐、大阪鉄道でフランス積の橋台等に関わってました。
讃岐鉄道での施工は日本土木会社で大阪鉄道も平井晴二郎が技術部長で
関わっており施工は日本土木会社、沢井市造がしていました。
この河陽鉄道も沢井市造が施工なので大阪鉄道でフランス積の経験のある
施工者という事で平井晴二郎→日本土木会社、沢井市造が
讃岐鉄道、大阪鉄道、河陽鉄道とのフランス積でつながってきます。
九州地方のフランス積も平井晴二郎と関係がある日本土木会社が施工しています。
不明なのが大阪鉄道 京橋−桜宮近辺の施工業者で同じ日本土木会社だとしたら
大阪近辺のフランス積の元は平井晴二郎でしょうね。
ただ
関西鉄道四日市-柘植間の施工に平井晴二郎が関わっていたかどうか・・・
日本土木会社も請負っていたのでこの工区を施工したのかも・・・
平井晴二郎、日本土木会社、沢井市造が鉄道土木でのフランス積に深く関わって
いたようですね。
この他の地方のフランス積は高欄等装飾の一部分に使用されてるようで
建築のフランス積等を参考に興味のある技師や職人が施工したかも・・・
この柏原−柏原南口間にある橋台煉瓦は
旧富田林町にあった 河内煉化株式会社が製造した煉瓦です。
河内煉化株式会社は富田林の毛人谷(えびたに)にありました。
富田林の毛人谷あたりは十数年前まで煉瓦の建物が存在していました。

河内煉化株式会社の刻印??
富田林市の会社跡地で発見
刻印の中に28と読めます。

河内煉化株式会社の刻印??
現物を型に採って来ました。
28と刻印さててます。
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熊田亀次郎の記念碑
大阪府藤井寺市国府遺跡内に 謎の石碑 が建ってます。
この地区の言伝えでは河陽鉄道(現近鉄道明寺線)建設工事に
関係した石碑だと言う事、熊田氏 明治31年3月と刻まれている。
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近鉄 電気機関車 デ1形
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関西本線に残る煉瓦アーチ橋
明治22年に大阪鉄道株式会社により田んぼの中に単線で開業した湊町−柏原間ですが
現在では電化複線、湊町駅の地下駅化天王寺駅改良、天王寺−平野間高架、おおさか東線、
久宝寺駅等かなり開業当時とは変わってしまい開業当時の面影が残ってないように思いますが
実は少しですが当時の構造物が残っており現在でも現役で活躍しています。 |
明治21年 湊町−柏原間工事記録には
橋 梁 湊 町−柏 原間
カルベルト 湊 町−天王寺間
カルベルト 天王寺−平 野間
カルベルト 平 野−柏 原間 |
12ヶ所
6ヵ所
18ヶ所
19ヶ所 |
と 書かれています。
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調査不足で橋梁が木桁か鉄桁かは不明
カルベルトと記載されている詳細は不明
煉瓦ア−チ橋が何ヶ所在ったかも不明
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煉瓦ア−チ橋梁の位置は、湊町−柏原間で 2ヶ所 確認できました。
煉瓦橋台は、数ヶ所残っていますがア−チ橋は、1ヶ所だけ確認できました。 |
湊町−柏原間で 唯一? 煉瓦ア−チ橋が残っている
カルベルト 湊 町−天王寺間 6ヵ所のうちの ひとつ
今宮井路架道橋(現在の名称)
位 置 |
172K745M37(名古屋起点) |
駅 間 |
関西本線 新今宮−今宮間 |
形 状 |
煉瓦 馬蹄形ア−チ |
支間/連数 |
支間 2.44M(8呎) 1連 |
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当時の地図です。
水路が記載されているので名称通り 井路 だったんですね。
現在の名称 井路と架道橋が同じで書かれてるのが面白いですね。
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現在も煉瓦ア−チが開通当時のまま残っています。
残念ながら塗装されています。
両端が隅石もあり複線化時に継ぎ足した部分
煉瓦ア−チも確認できました。
昭和41年臨海貨物線(環状線)建設時に増土してる
為に外からは煉瓦が確認できない。 |
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大阪鉄道開通当時の沿線案内に載っている
今宮井路橋付近の絵です。
下が南海鉄道で上が大阪鉄道です。
現在とは逆ですね。 |
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南海鉄道発達史に載っている
上の絵と同じ場所の写真です。
田畑だった事がわかりますね、
煉瓦ア−チは、左端あたりですが
残念ながら確認できません。 |
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煉瓦ア−チ橋が埋もれているが場所が確認できる
平野第1橋りょう(現在の名称)
位 置 |
167K136M41(名古屋起点) |
駅 間 |
関西本線 加美−平野間 |
形 状 |
煉瓦 馬蹄形ア−チ |
支間/連数 |
支間 1.22M(4呎) 1連 |
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当時の地図にも水路が描かれています。
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現在は石積が残っています。
草と土砂で埋もれてますが煉瓦ア−チが
あると思われます。
軌道を挟んで反対側は、新軌道が建設された為に
確認できません。 |

奈良方より湊町方を望む
(橋上駅舎は平野駅)
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番 外
河内堅上付近に残る 大阪鉄道当時の 煉瓦ア−チ橋が確認できました。
井路橋(現在の名称)
位 置 |
153K780M54(名古屋起点) |
駅 間 |
関西本線 三郷−河内堅上間 |
形 状 |
煉瓦 円形ア−チ |
支間/連数 |
支間 1.22M(4呎) 1連 |
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ほとんど紹介されてない溝橋だと思います。
補修工事が行われており ほとんど原形はありませんが(汗)
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↑ 画像をクリックしてね。
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鉄道遺構探訪隊 |
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第1回
2011/08/07
関西鉄道 桜ノ宮線
網島駅跡探訪 |
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第2回
2011/09/17
亀瀬隧道探訪 |
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第3回
2011/12/17
浪速鉄道(京橋〜鴫野)
新喜多停留所跡探訪 |
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第4回 鉄道遺構探訪隊
日時 未定
fwjf0138@mb.infoweb.ne.jp メ−ル待ってます。 電話 090−6911−4205 |
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長さの単位
フィート と マイル
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遊びに行ってくださいね。 北条鉄道 法華口駅にて
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2000年09月10日 00時00分 発車
PRODUCED by ☆竜華no66☆ / けろけろ 
fwjf0138@mb.infoweb.ne.jp  |


元立命館大学教授 関護雄先生が保存してくださってました。
関護雄先生に書いて頂きました。
鉄橋
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つばめno巣
●1999年 関西・東海の運転情報 としてHP開設
●2000年 9月 つばめno巣 と改称
●2001年 8月 天竜浜名湖鉄道で貸切列車でおふ怪
●2003年 5月 キハ181系貸切列車で金沢運転所撮影会
●2003年 6月 京都総合運転所にてキハ28.58惜別撮影会
●2003年12月 京都総合運転所にてキハ181撮影会
●2004年 7月 京都総合運転所にてキハ181撮影会
●2006年 夏 北条鉄道 フラワ1980洗浄体験会
●2010年 開設 |
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2001年 8月
天竜浜名湖鉄道
貸切列車 |
2003年 5月
キハ181系
貸切列車 |
2003年 6月
キハ25.58惜別撮影会
京都総合運転所 |
SL北びわこ号
乗車記念製作 |
2003年12月
キハ181撮影会
京都総合運転所 |
2004年7月
キハ181撮影会
京都総合運転所 |
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会員専用コーナー |
遺構、歴史について
投稿してくださいね。
遺構、歴史no掲 示 板 |
会員の方で掲示板パスがわからない方は
下記までメールくださいね。
番号付巣てっか〜を
お持ちの方が会員です。
fwjf0138@mb.infoweb.ne.jp |
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現在 会員募集は
行っておりません。 |

Nゲ−ジ ジオラマ店です。
持ち込み車両もOKです。
詳しくはクリックしてくださいね。
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掲示板
予定臨時刻
工8380 吹田第六 20:1015-15(上着1)
車両運用表(機関車・客車) 2/15 第350号
宮原総合運転所
用途 − 臨時
スハフ12−129.155 2両
オハ12−341.345.346.352 4両
環状
6435 森ノ宮電23:41-京橋23:44
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マイレ−ル

玄武さんのHPです。
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