【あの人は今こうしている】
第1回紅白歌合戦出場歌手のただひとりの存命者
【芸能】
「驚いたことに、現役当時よりもはるかに忙しくなってしまいました」
「フランチェスカの鐘」の二葉あき子さんが亡くなり、第1回紅白歌合戦に出場した歌手で残っているのはたったひとりになってしまった。「月がとっても青いから」の菅原都々子さんだ。独特のビブラート唱法が懐かしい菅原さん、今どうしているのか。
第1回紅白が行われたのは昭和26年1月3日。午後8時から9時までのラジオ生放送だった。出演したのは菅原さんの他に渡辺はま子、赤坂小梅、東海林太郎、藤山一郎など紅白7人ずつの計14人。第3回までは正月の特別番組だった。
「千代田区内幸町にあったNHK東京放送会館の一番大きな第1スタジオに椅子を並べ、400人くらいのお客さまに入っていただきました。お客さまとの距離がちこうございましたね。最初の頃は岡晴夫さん、田端義夫さん、小畑実さんといった大スターはお正月公演もあり、出場していなかったんです。それでも出場できて、とても名誉に思いました。ワタクシが出場歌手の中で最も若く、大先輩に囲まれ、ものすごく緊張したのを覚えています」
9歳のときにその才能を認められ、古賀政男の養女になった菅原さんは昭和26年10月に発売された「江の島悲歌」で人気歌手の仲間入り。“3分間のレコードで涙をそそる革命的歌手”と評され、「佐渡ヶ島悲歌」「博多エレジー」「海峡エレジー」など悲しげな声とうなり節から“エレジーの女王”の異名を取った。
また、昭和30年にはそれまでの暗い楽曲からイメチェンを図った「月がとっても青いから」が100万枚を超えるヒットとなり、歌手としての地位を不動のものにした。
菅原さんといえば、思い出されるのが、派手にノドを震わせる独特のビブラート唱法。もっとも、本人は「ワタクシは自然につくらず、普通に歌っているつもりなんです。大げさにモノマネされたりしますが、本当にあんなふうに歌っているのかしら」と少々不満アリだ。
さて、紅白に4回出場した菅原さんは平成18年、歌手生活70周年の大晦日に「歌っていて納得できないことが続いた」と引退。ところが、だ。翌年、ボランティアで歌うなら、と引き受けたところ、オファーが殺到。
「驚いたことに、現役当時よりもはるかに忙しくなってしまいました。4月から6月にかけては東日本大震災で避難されている方たちのために日光や秋田県・田沢湖のホテル、それに埼玉県の高校などで歌いましてね。ワタクシにしがみついて涙を流されるお年寄りもいらっしゃって」
北海道や青森、金沢でも歌ったそうだ。
加えて、住まいがある相模原市では公民館単位で開かれる敬老会に招かれ、月2、3日のペースで回っているとか。
「1回につき8曲ほど、アンコールもあって10曲くらい歌うでしょうか。相模原と申しましても、広うございますからね。まだまだうかがっていない場所があるんです。ワタクシの歌を待っていてくださる方がいる。それが今のエネルギーになっています」
昭和48年、45歳のときに結婚した元ベルリン五輪ボクシング代表で、明治大学教授だった永松英吉さんを平成4年に亡くし、相模原のマンションにひとり暮らしだ。
「若い方の歌はよくわからないし、紅白はもうほとんど見ませんね。見るとしたら、よく出演させていただいたテレビ東京の『年忘れにっぽんの歌』です、フフフ」