※この作品はフィクションです。

実在の人物、団体、作品、事件等とは関係ありません。




微妙存在ろろみ

第6話『すべてが微妙になる』(後編)

作:こうけい





「なんか相変わらず、ふわふわした少女小説のようですね。タイトルは大学の教科書みたいなのに。でも『少年少女少年』のときより言い回しに凝ってて、読み応えあるって感じもするかな」
 今は放課後、いつもの『文藝計畫』編集部。ライバル雑誌の『新星文學』最新号を正世から手渡され、珠橋せれ菜の『軟派動物学如論』にざっと目を通したろろみは、率直な感想を告げた。
「なるほど、あんたもなんだ。他の先生たちも大抵そう言うね。少女小説テイストはちょっと控えめで内面描写が増えたって」

《 トースト。お口にくわえたら駆け足でお家を飛び出せて、手を使わないで学校までに食べきれる、とっても便利な朝ごはん。寝坊の友。シリアルクッキーやバランスクラッカーじゃこうはいかないもの。
 こんなヤバげな発明したの、だれだか知らないけどね、今のあたしが「尊敬する人は?」って聞かれたら、両親とかエジソンとかじゃなくて絶対この人だって答えちゃう。
 ……なんて言ってられる場合だったっけ? ほかに言うことあるでしょ>あたし
「いけないいけないいっけなーい、学校遅刻しちゃーうっ☆」
 そう口に出してみたら、
 どっし〜〜〜〜んっっっっっっ。
 …………言霊と、いうか、お約束……発動、した、みたい…………
 ちょっとなにこれ、痛いじゃないの。いったいだれだか知らないけど、前見て歩きなさいよ。
 トーストだって悪いんだから。さっきの「尊敬する人」発言、取り消し。PL法で訴えちゃうかも。ふつ〜『注意:口にくわえたまま走ると他人に衝突するおそれがあります』とかパンの袋に書くって思わない?
 なにはともあれとにかくひとまず、ゆっくりと立ってみる。うん、五体無事だな。はいてるのは水色チェックのスカート、確かにあたしの制服。
 どこから見たってあたしはあたしだった。
 よかったあ。ぶつかった相手と体とか入れ替わってたらどうしようかと思ったり。
「いっけねえ、転校早々遅刻かよ!」
 いきなり大声? ってぶつかった相手が起き上がった。なにこの男、うちの男子制服着てる! ぎゃっ転校生?
 で……当然あたしら学校まで並走ダッシュってなるんだけど、さてここで問題。あんたどこまでついてくんのよ? 四十字以内で述べてちょうだい。配点十点。
 解答例。二年C組黒板前経由で一緒に廊下に立たされて、教室戻ってあたしの席の隣まで。三十七字。

 ってな調子であたしの受難の序論のページは、セオリーどおりにめくられてったってわけ。

 この転校生、先生が黒板に書いた名前は「蓼島咲太(たでしまさきた)」ってゆーんだけど、あたしにゃタデなんて字書けないからヒラガナにする。
 その“たで島”が「あのさあ」って休み時間に声かけてきたときは、あたしもほんのちょっとばかり期待しちゃって。
 だってさこんなヤツでもやっぱ転校生でしょ。あたしもちょっとは幻想を抱いちゃって。これぞ運命の出逢いじゃないかーとか、みにくいアヒルの子は実は白馬の王子様でガラスの靴が合ったあたしに目覚めの口づけしてくれるんだーとか、三億円宝くじクラスの儚い期待くらいはしたくなるのが人情で。
 でも抽選発表はすぐにあって、三百円しか返ってこないことわかっちゃった。
「シャーペン芯くれよ。忘れちまってさあ」

 「廊下は走らない」の貼り紙なんか華麗に横目でスルー。なんとなく絵を描くのが好きっぽくて入った美術部。いつもは惰性でやってた部活だけど今日は超楽しみ。ここにいればあいつから解放されるって思うと。
 なのに美術室の扉を空けてみたら、あたしの感情ゲージ、うんざりゾーンまで逆戻り。
 なにあの後ろ姿><!! もう嘘でしょ><!? 部活までいっしょだなんてぇ〜〜〜っ!!!
 とかキレてても始まらないし、ちょっとは冷静にあいつを観察してみるテスト。部長の田山先輩の前に立って入部手続きやってるみたい。椅子に座った先輩の膝には部活動日誌のノート一冊。
「名前はなんていうのかい」
「たでしまぁー、さきたぁ」
 なにその居眠り牛の涎声。
 そしたら田山先輩、さらり一息“蓼島”と書いちゃった。それから「下の名前漢字でどう書くの?」。
 うわヤバ! “蓼”という字がデフォルトで書けるとわ、さすが学年トップの田山先輩、魔法のハイレゾ脳内FEP。パンパンヒューヒュー!
 て思ってたらマジックにはタデ、じゃなくてタネがあった。先輩曰く「なるほどお兄さんから聞いたとおりの弟さんだね」。こいつには一学年上の兄さんがいて田山先輩のクラスに在籍してるくさい。
 へえーお兄さんがいるんだー知らなかったなーこいつと違ってまともかもなー。とか、高校なのにわざわざお兄さんと同じ学校に編入ってなんか事情あんのかなー。とか、一瞬だけキョーミ持ったのは別のはなしとして。
 なんかちょっとムカついて。
 あたし、上窪巧味(かみくぼ たくみ)だって「上久保」とか「神窪」とかよく間違えられるのに。きょうだいのいちばん上だから間違えられ役は大体あたしにまわってくる。小学校以来何度「ウエシタの上にクボミの窪です」って言わされたことやら。
 だから難しい字なのにデフォで正しく書いてもらえるあいつが、なんかもにょってきて。ううん、あたしに上のきょうだいがいないのがうらめしいって言いたいんじゃなくて。田山先輩のマジックにタネが見えた興ざめ感の責任をあいつに押し付けたいんでもなくて。なんでか考えたくないけどぉ、あいつにケチつけたがってるあたしがいて、箸が転がろうが人が犬を噛もうが理由にこじつけたくて。

 ともかくそんな難しい字書いてやる義理、ますますなくなった。金輪際“たで島”ってヒラガナで書くことにするんだから。決めっ。
 でも、けど、口に出す分には意味がなかったんだ。》

 この作品はせれ菜の「新星文學新人賞」受賞第一作。ストーリーは、学業成績は学年上位ながら自分はパッとしないと思い込んでいる主人公の“巧味”が、軽薄で軟派で遊び人で落ちこぼれの転校生“たで島”に反発しながらもつかず離れずの関係を続けていくというものである。
「あと、珠橋さんって食べ物へのこだわりも一貫してますよね。前作はプリンだったけど、今回はトーストだし」
「それなのにストーリーは“蓼食う虫も好き好き”って、皮肉ね」
「正世さん、うまい」
 ろろみが手の平を叩いて相槌を打つと、近くの机で作業中のS伸一郎が妙な言葉を挿んできた。
「それって“ツンデレ”なのかなあ?」
「つんでれ?」
 耳馴染みのない単語に首を傾げる正世。
「あっ、あたし知ってます。普段はツンとお高くとまっている女の子が本心では男の子に好意を抱いていて時々デレっとした態度をとるっていう状況、のことらしいですよ。『如論』の巧味ってそう見えません?」
 そもそもはP伸一郎の記憶だから当然ろろみにも受け継がれている。
「何それ」
「なんでも、美少女ゲームか漫画だかからきた用語だそうです。今ひそかに流行りだとか」
「なるほど。言われてみると『如論』って漫画かアニメのお約束っぽいね。トーストくわえてさ、『いけない学校遅刻〜!』でさ、転校生と出逢いの衝突だし」
「そうそう、今時漫画だったらベタすぎて没ですよ」
「小出くんは黙って仕事する!」
 かくして、正世とろろみの会話からS伸一郎は退場させられた。
「でもさ、ろろみちゃん。それを堂々と文学に取り込んだ珠橋せれ菜は見事じゃないかなあ?」
 今度は正世のほうから意外な発言が飛び出した。
「……そう、なんでしょうか」
「私らが中学生くらいの頃は、漫画家になりたいんならいい小説をたくさん読みなさいって言われたものよ。きちんとしたストーリーのつくり方を知るためにって」
「あたしも昔聞いたことあります」
 本当に聞いたのは、ろろみのはずがなくP伸一郎なのだが。
「でも今は逆。才能の集まる場所が変わっちゃったもの。優秀なストーリークリエイターは活きのいいジャンルに集中する。昔はそれが文学だったんだけど、今じゃ文学は行き詰まりかけてて、活きがいいのは漫画やアニメやゲーム」
「『小説家になりたかったらいい漫画をたくさん読みなさい』ってことですか」
「そう。私は文芸誌編集者の立場から、才能が文学に戻ってきてほしいって願ってるけど、そのためには漫画から学ぶのも手かもね。せれ菜はいい仕事したよ」
「なるほど。珠橋さんって最近ずいぶん変わりましたよね」
 珠橋せれ菜という作家は昨年春の新人賞受賞から一年間、ほとんど文筆活動をしなかったのである。受賞第一作を書く素振りを見せないばかりか、コラムやエッセイといった短文の仕事も引き受けず、マスメディアへの露出は対談のほかはテレビ番組出演や写真集出版などアイドルタレント的な活動ばかり。この春には高校を卒業して有名大学に進学したものの、講義にほとんど出席していない状態が一ヶ月。その一方で唯一の作品『少年少女少年』は食いつきのよい題材――平凡だった少女“若木詔子”がふたりの少年によりカリスマにまつりあげられ、ついにはICカードでサイバーテロを引き起こす――のためか文芸書としては大ベストセラーである五十万部を記録する。せれ菜は同期デビューの絵崎たるとや御堂山芽夢らを差し置いて、世間では人気アイドル作家のイメージリーダーとして通用していた――文壇での評価は推して知るべしだが。良くも悪くも典型的な“アイドル作家”だった。正世や原島ですら心配の愚痴をこぼしていたほどに。
 しかしそれもこの四月までのこと。せれ菜は大学に登校しない代償として、以前から『新星文學』に催促されていた受賞第一作を完成させたのである。
「あの子も本気よ。テレビの週末報道バラエティのコメンテーターも降りたし、三冊目の写真集の撮影も延期。あちらの編集長から聞いたけど、『如論』って、書く気になってから実質半月で書き上げちゃったんだって。ネームの準備はあったらしいけど。書き上げてからは大学の講義にも出てて、遅れを必死に取り戻しているようよ。文筆業と学業にしぼってるみたいね。……きっと、ろろみの登場のせいよ」
「……でしょうね」
 先日編集部で逢ったときのせれ菜の態度を思い出せば、ろろみにも納得がいった。間違いなく自分の台頭がせれ菜に危機感を持たせている。ろろみに武者震いが走った。
「あと、『少年少女少年』って映画化されますよね。確か、監督も珠橋さんがやるんでしたっけ?」
「そうそう。仕事の合間縫ってそっちの準備もやってるってさ。主演は人気アイドル女優の下斗米アリカだし、すごいよ。でも困ったこともあるみたい」
「困ったこと?」
 そこで扉の音が会話に楔を入れた。副編の原島が外回りから帰ってきたのである。
「いやあ、珠橋せれ菜には驚きですよ。『如論』が『近代リテラリ』さんや『太陽藝文』さんでも大好評。次号のレビューが楽しみです。……あっ、ろろみちゃん、他人の話で失礼しました」
「あたしなら構いませんよ。今もその話題でしたから」

「珠橋さんには純文大賞候補って声もありますよ。アイドル作家もとうとう来るところまで来たか」
「純文大賞? それってエンタメ大賞とふたつ並んで有名なあの文学賞の、ですか?」
「当然よ、ろろみ。ほかに何があるっていうの」
 『日本純文大賞』。「文学賞」といえば一般人はまずこの名前を思い浮かべる著名な賞。計畫賞や新星文學新人賞のような「公募型」とは違う、年に二回新進作家に与えられる「非公募型」文学賞の最高峰。これまでも大川康三郎、タイガー村下、柳沢莉美、山田伊紗子といった錚々たる作家が受賞してきた。姉妹賞の『日本エンタメ大賞』と合わせて、候補作発表から受賞者決定を経て贈呈式までのおよそ二ヶ月は文壇最大のお祭りとなる。
 けれどろろみには、なぜそんな大それた単語が今ここで出てくるのかわからなかった。自分なんて所詮は、棚どころか上空一万メートルを飛ぶ飛行機から落ちた牡丹餅が上向きに欠伸していた口に飛び込んできただけ、微妙存在なアイドル作家だと思っていたから。珠橋さんだって、自分ほどの奇跡の産物ではないにせよ似たようなものだと思っていたから。有名大学の文学部を出たようないかにも格調高い純文作家たちとはデビューのときから世界が違うと思っていたから。同じ土俵に乗っている実感がわかないのである。
 ろろみの体だからそう感じるというのでもなく、近くの机のS伸一郎も手が徒に空を切っている。
「しかたないか、去年までは大御所の作家先生や評論家先生からイロモノ扱いされてたもの。アイドル作家なんて若さとルックスだけだってね。っていうか原島くん、私もびっくりだよ」
 思い出したように正世はテーブルの上のざくろジュースの瓶をつかむ。
「文壇の風向き、ここ数ヶ月で変わってきたようなんですよ。アイドル作家の作風を積極的に評価してナンボだって。うちの『軟派動物学如論』レビュー担当の先生も肯定的でしたしね。僕ら『文藝計畫』が二十年前から蒔き続けた種がやっと実ってきたんでしょう。……別の畑なのが癪ですけど」
「原島、弱音吐くな。うちの微風ろろみにだって純文大賞のチャンスはあるんだから。ねえ」
 正世の隣にいたろろみは背中に軽く弾む一打を覚えた。けれども顔色は正世の意気とは裏腹なもの。
「でもね、見てください。あたしボロクソに書かれてるんですよ……」
 ろろみの人差し指は『新星文學』の合評ページ、自らのデビュー作『いんたあふぇいす』のレビューのところに置かれていた。
「文体にパワーがないとか。どこを切ってもビミョーすぎるだとか。流浪を続ける主人公が希望を見出す過程の描写が不十分だとか。そもそも加齢や性別変化を文芸の場に取り上げるインセンティブが作品中から感じ取れないとか」
 思えば伸一郎が『いんたあふぇいす』の元作品をラノベ雑誌に持ち込んだときにも編集部から酷評された。
 小説のことなどわからないテレビのワイドショーでもずいぶんいろいろ叩かれた。
 けれどもこういう同業の雑誌から文字の形で批判されると、口で言われた以上に打ちのめされた感がある。
 ほかの雑誌、例えば『文芸ジャパン』や『近代リテラリ』の合評では、可もあり不可もあったがここまで厳しい評価は見当たらなかった。
 だから安心していたのに。
 たとえ一誌だけとはいえ、はるかに文学を知っているベテラン作家に厳しく書かれた自分が珠橋せれ菜や“高級純文作家”たちの仲間だとは、正直言ってろろみにはやっぱり信じられなかった。
「落ち込まないでくださいよ。このレビュー書いた作家、せれ菜贔屓で有名な人なんですから。去年新星文學新人賞の選考委員に就任したとたん、せれ菜を強く推して編集長を驚かせたんですよ」
「そうそう。この人が批判してる加齢や性別変化だって、漫画かアニメのお約束を文学に取り込んだものでしょう。心の中じゃ『微風ろろみ、なかなかやるな』って思ってるはずよ。評価が辛口なのは、あんたをせれ菜のライバルと認めて警戒してるってこと。彼に貶されたら実力ありだって思いな」
「彼、去年だって御堂山芽夢を酷評したんですよ。その彼女が今じゃせれ菜とアイドル作家の双璧」
「漫画のお約束を取り入れた上で、かっちりとした文体で書けるのがあんたの持ち味だって思いなさい。整然たる文体と妖しい非日常との微妙なギャップがろろみの魅力よ」
「それを踏まえて新作『マルチプライア』じゃ挑戦的な文体使ってますよね、立派です」
「ろろみは書けば書くほど成長するタイプよ。これがダメでも次があるし、次の次だってある」
 右耳から原島、左耳から正世。多重音声でろろみを励ますふたりも必死である。その願いを受け入れる余地ができたからなのか、アイドルとしての自律心と自制心が働いたからなのか、当人もやっと顔を上げられるくらいにはなった。
 ふたりの言葉を反芻しながら、ろろみは思い返す。もとの伸一郎がすでに性転換ストーリーを書いていたとはいえ、正世のひと晩の指導で書き直したからこそ、『いんたあふぇいす』の雰囲気は大きく変わって文学的になったのかもしれない。もちろん、ろろみの体で書き直したせいでもあろう。
 そして、この体と生活に慣れ心境の変わった今では、また作風も違っているはずだ。
 女性としても作家としても成長しつつある自分を、ろろみは楽しみながら客観視しつつあった。

 急ぎの仕事がないためか、三人はいつしかライバル談義を始めていた。
「珠橋さんの『如論』って、ヒロインが優等生なんですけどかっこ悪いんですよね。あたしのとは大違い」
「うん、『少年少女少年』もそうだったね。あの子典型的な落ちこぼれだったんでしょ。高校でも一年ダブったっていうし」
「だからストーリーで優等生をおとしめてるんでしょうか」
「うーん。僕の印象だと、珠橋せれ菜自体がかっこ悪い優等生のように見えるんです」
「へえ、原島の言うアイドル論なら納得できそうだな」
「彼女ってちょっとした過去があるんですよね。ろろみちゃんにも知っておいてほしいことだけど……僕らの口からは言えないんです」
 原島がいつになく真面目な顔をろろみに見せる。
「どうして言えないんですか?」
「文壇やマスコミでは誰もが知ってることで、だけどタブーだってこともみんなわかってるからです」
「どうしてタブーになったかは、ろろみが知ってから聞かせるね」
「……意地悪。教えてくださいよお?」
 ろろみもようやく、拗ねるという女の武器の使い方をマスターしたのか。
 いやまだまだだ。原島にあっさり撥ね返された。
「ダメですよ。調べようと思えばネットでも図書館でも簡単にできるレベルですから。ろろみちゃん、現役高校生ですよね。宿題だと思ってやってくださいよ」
 簡単なレベルの秘密か。
 そう聞かされれば、ろろみ=P伸一郎にも思い当たる節はあった。それも、優一郎がらみで。
 近くのS伸一郎には反応がなかったけれど。
 機会があったら、弟に尋ねて確証をとってみよう。

 何かを察したようなろろみの顔色を見て、正世と原島は互いに目配せした。
 やっぱりこの子は鋭いよ、さすが少女作家。史枝のお株を奪うがごとく、そう言いたげに。
 ろろみが一体どの程度事情を知っているのかは、彼女らの把握するところではないだろうけど。



「じゃ今度は私、はい返信押した」
「オッケー茉莉花、ちゃんと入ってる! ありがと」
 ろろみの手の中にあるのは瑕ひとつないぴかぴかの携帯端末。初期設定のシンプルな着信音が、女子高生たちのハイテンションボイスにかき消されそう。
 今日のろろみは史枝に加えてクラスメイトの小山茉莉花(こやま まりか)さんと前畑智咲(まえはた ちさ)さん、以上四人で放課後のショッピングを楽しんでいる。
 行き先はターミナル駅にリニューアルオープンしたてのファッションビル。お目当てはアクセサリーショップの集まった三階だけれど、その前に四人は一階のケータイショップへと足を向けた。ろろみ専用ケータイの契約手続きと端末の品定めのためである。
 伸一郎はケータイを使っているが、ろろみは使っていない。けれども危うい事件が重なったことや仕事の都合もあり、昨日の夕方にろろみとS伸一郎が自分どうし≠ナ対策を考えた結果、安全と便利のためにとろろみ用のケータイを買うことを決めたのだ。どの機種を使うかは同年代どうしで選んだほうが賢明、ということでろろみは史枝たちの力を借りることにした。ろろみが今時ケータイを持ってなかったと聞いて、史枝たち三人は第一声では呆れ声をあげたものの、快くろろみの要望に応えてくれた。
 ケータイショップで三人共通のお勧め機種を購入したろろみは、開通待ちの数十分間を三階のアンティークなアクセサリーの店で過ごし、これまた三人に勧められるままにいくつかのペンダントやネックレスをレジに持っていった。伸一郎にとってこういう店は久美子へのプレゼントを買うために数回入ったくらい。しかしこれからは、ろろみ自身の生活とろろみの作品世界を豊かにするためにも慣れなくてはならない店だ。
 そして今は、時間を見計らって一階に戻った四人が、開通したてのろろみのケータイと番号の交換をしたところ。ろろみはもう、小山さんや前畑さんとも名前で呼び合う仲になっていた。
「あれ? ろろみ、今度はどこにかけてるの?」
「伸一郎さん。――ダメ、留守電だ。行こ」

 あっさりと気分を切り替えて、ろろみたちは再び三階へ向かった。次のお目当てはティーンズファッション誌でも評判のピアスとイヤリングの専門店。有名店でオープン直後のためか混みあっていて、ろろみたちも入店まで行列で並ぶ羽目になった。
「ほら智咲、ここにも載ってる」
 ろろみはカバンから一冊の雑誌を取り出し、列の前に並ぶ小山さんたちに向けて開いて見せる。それは計画書店発行のティーンズ誌『K−teens』だった。
「ほんと。こっちはチェックしてなかったぁ、あんがと」
「でもろろみ、なんでそう持つわけ?」
 前畑さんがつっこむ。ろろみのページの開き方が不自然なのである。
「あーっ、宣伝うまいんだからぁ」
 列の横にまわった小山さんが驚嘆の声をあげた。
 ろろみの指は別のページにもはさまっていて、行列の脇を通る人たちにろろみの連載コラム記事『微風ろろみのフツーの女子高生日記』のページのタイトルが見える具合になっていた。
「あは、バレちゃった。でもいいでしょこれくらい」
「そうね、“フツーの女子高生”なのに見上げたプロ根性って感じ。ほめたげる」
「ろろみ、ファイトっ」
「ありがと茉莉花、智咲」
 そんな三人に、史枝がぽつりとこぼした。
「だけどさ、宣伝効果ほとんどないんじゃ?」
 確かにごもっともな一言だ。ろろみたちの並ぶ行列の脇を同年代の少女がひっきりなしに行き交っているけれど、彼女らはみな自分の買い物に夢中で、アイドル作家のろろみを気に掛ける子はほとんどいない様子。時折「あれ微風ろろみじゃん」といった小声が聞こえはするのだが、後が続かない。
 けれどもその一言は、今の四人の間の空気が読めていないことでもある。史枝の短所だ。
「ちょっと史枝、それってろろみに失礼じゃ?」
 前畑さんの声が高くなった。
「ほら、あんたからも史枝に言ってやりな、いつもみたいに」
 肩をつかまれて促されるも、ろろみの感情は昂ぶらなかった。今回は特段ショックは感じていなかったのだから。ろろみだって、あんなことで宣伝効果があるなんて本気で思ってはいない。それよりは前畑さんたち相手のパフォーマンスのほうが大きかった。
 とはいえ、うまく答えられなければろろみの株が下がることになる。
「ま、まあ、あたしがいるからって店が混乱して迷惑をかけるよりはずっとましでしょ。史枝もいいこと言うよ」
「ろろみ、今のフォローナイス!」
 小山さんが親指を出してくると、史枝まで豹変して上機嫌。
 そんな会話の末に店に入った四人だが、ろろみだけが少し戸惑っていた。あとの三人が真っ先にピアスの売り場に群がり、ろろみは躊躇い気味に後ろから見ているしかなかったからである。
 水明華高校の校則ではピアスの穴を開けることはOKだ。派手目なアクセサリーを学校につけてくるのがNGなだけで、学校でも穴をふさぐ程度の簡単なものはかまわないし、放課後や休日ならば何をつけても問題ない。
 けれどもろろみの場合、リンクアップのときに悪影響を与えるからと耳の穴開け自体を禁止されている。それは別にしても、ピアスをつけてフツーの女子高生に近づきたいという思いと、殊更痛い真似をしたくはないという思いは相半ばしていた。
「ろろみもこっち来な。あんたの分も選んだげるから」
「ごめん史枝、あたし穴開けられないんだ」
「何言ってんの、宗教上の理由でもあんの?」
「変なこと言わないでよ、身体上の理由だけど」
「まあまあろろみも史枝も落ち着いて。こっちにしたら」
 小山さんに促されて向かった店の一隅には、耳に穴を開けずにつけられるイヤリングがずらり並んでいた。
「身体上の理由って、ろろみ金属アレルギーとかないよね」
「うん、大丈夫なはず」
「なら問題ないよ。ほら、この熱帯魚なんてどう?」
「ていうか、色違いのこっちのほうがろろみに合うよ」
「わかった。じゃ、あたしはこれにする」
「オッケー、だけどイヤリングは落とすのだけは気をつけてよ」
 こうしてろろみは三人に勧められるままにイヤリングを数組レジへと持っていった。さっきのペンダントの店と同じ展開である。

 さらに、ろろみの試練はまだまだ続いた。
 イヤリングの店を出たところで、史枝がろろみから通学バッグを取り上げたのである。
「それよりあたし、ずっとろろみのスタイル地味だと思ってたけどぉ、ひとつ原因わかった。茉莉花も智咲も見て。何もついてないって今時あり?」
「あーっ、わかるわかる」
 久々にふたり同時に肯く小山さんと前畑さん。ろろみの通学バッグは買ったままの状態で、マスコットの類がぶら下がっていない。
「ろろみってこういうマスコットとか持ってないの?」
 三人は見せびらかすように自分たちの通学バッグをろろみに突きつけた。持ち手の付け根やファスナーの先に、ぬいぐるみ製やらプラスチック製やらビーズ製やらの小物がいくつもぶら下がっている。小山さんは猫かウサギを模したようなファンシー系のキャラクターたち。前畑さんは色とりどりの野菜や果物や草花。史枝はどこかの国の見慣れない文字図形や、SF映画の宇宙人のような光沢のある生き物や、セーラー服のスカートの裾が地面についた昔懐かしいスケバン少女の人形。みなそれぞれのマスコットで自分のキャラを立てているように思える。
 そのうちいくつかは、ろろみにも見覚えがあった。
「実は……持ってるんだけど、たくさん。百はあるかな。でも買ったんじゃなくて」

 ろろみの持っているマスコットはすべて、ファンから編集部気付で届くプレゼントである。女子高生アイドル作家ならばこういうものを欲しがるだろうとファンたちも考えているのだ。けれどもそんな思いとは裏腹に、S伸一郎がせっせとファンレターから取り出したマスコットは、ろろみにまとめて渡された末、P伸一郎の部屋の押入れの段ボールに眠っている。
 余談ながら、ろろみの使っている文具類もほぼファンからのプレゼント品だ。男性雑誌のインタビューで「かわいい文房具に凝ってます」と女子高生らしい出まかせを言ったら、一週間で十年分くらいの文具が集まった次第。
 アイドルの役得って、すごい。

 そんなことを史枝たち三人に話したら、彼女らの声のトーンが一段と高くなった。
「ちょーっとぉ、もったいない! 今度あたしらにも分けてよ」
「でもあたしへのプレゼントだから、ファンの人たちに失礼かなって思ったりして」
「とにかく、持ってるならつければいいじゃん?」
「今度は身体上の理由は通じないからね」
「ってもう……あたしのバッグ返してよお」
 ろろみの通学バッグはいまだに史枝の手の内、彼女自身のといっしょに肘にかかっている。
「マスコットつけたら返したげる。今から買いに行こ」
 バッグのかかってないほうの手でろろみの腕を引っ張る史枝。小山さんまで同調したのか、ろろみの背中を押してくる。
「ちょっとそれって……なんでぇ!?」
「なんでって……ろろみ、あんた生真面目すぎる」
 史枝の断言口調は、ろろみには初耳だった。
「そうそう」
「高校生だけど小説家だなんて堅そうに思われるんだから、もっと力を抜いたかっこしなくちゃ」
 小山さんと前畑さんも合いの手を入れてくる。
 ろろみだって、クラスのほとんどの女子や一部の男子が通学バッグにマスコットをつけていることくらい知っている。一部の男子、具体的には守護騎士団のリサからは「ろろみさんもつければいいじゃない。そうだ、私のひとつあげようか?」と勧められてもいた。
 そんな周囲にろろみが合わせないのは、深いポリシーがあるからというわけでもない。自分のスタイルは何もいじらないナチュラルなほうがいいかな、それが真面目に見られるのも構わない、となんとなく思っていた程度のことである。
 けれども史枝たち三人の今の煽り方には、ちょっとヘソを曲げたくなった。
「ろろみの通学スタイルってさ、カスタマイズ前の女子高生じゃん。マスコットだけじゃなくて、制服の着こなしとかアクセとかも」
 カスタマイズ。小山さんが妙な言葉を出してきた。家具やコンピュータソフトなどの品物を、手に入れたときの状態から自分の使いやすいように設定しなおすことである。
「それって、あたしにも外見のスタイル変えてみたらってこと?」
「そ。言葉わかってるなら、ねえ?」
「ろろみもカスタマイズしてみなよ」
「でも……」
「マニキュアとはいわないけどせめて爪くらい磨いたら」
「制服のスカートも寄り道のときは丈詰めなくちゃ。あとでやり方教えたげる」
「まつ毛だってビューラーで……いらないか、ろろみは何もしなくて立ってるもんね。それにしたってアイメイクくらい」
 自分らのスタイルを見せびらかす史枝たち。ろろみにはそのお節介げな態度が気に入らなかった。
「もうっ、あたし帰る!」
 三人に背中だけ向けて、ろろみは立ち止まった。後ろから声が聞こえる。
「バッグ返したけないよ。いいの?」
「なんか今日のろろみ、普通にいらついてない?」
「ストレスたまってるんでしょ。あたしらと違って仕事してるんだし」
「それにしたってヘンじゃん?」
 確かに三人の言うとおりだ。ろろみには今までにないストレスがたまっていた。
 もう三時間くらいか。こんなに長く、見かけ上同年代の女の子ばかりの濃密な時間を過ごしたのははじめてのことなのだから。
 仕事場では原稿の打ち合わせにしてもマスメディア出演にしても大人の人たちが周りにたくさんいる。学校でだって男女両方の生徒から囲まれる日々。女子生徒だけで集まるのは体育の授業くらいだし、それも一時間で終わる。
 少女ばかりの環境にまだ免疫ができていないろろみには、フツーの女子高生なら当たり前なショッピングも心労なのだ。
 つくづく、水明華が女子校でなかったのはろろみには幸運だった。いきなり女子校に放り込まれた、自作『いんたあふぇいす』の主人公の心境はいかほどだったろう。今のろろみが書いたなら、あの作品の展開はもっと恐怖感あるものになっていたにちがいない。

 そのとき、史枝の肘にかかったバッグからシンプルな電子音が鳴り出した。
「あれ? 聞き慣れない音」
「ろろみのケータイじゃ?」
 確かに、さっきの番号交換で聞いたカスタマイズ前≠フ着信音だ。
「あ、そっか。ろろみ、ほら開けなよ」
 史枝はろろみの通学バッグの持ち手は握ったまま、ファスナーのつまみ部分をろろみの方へと向けた。バッグを返してくれるつもりはないらしい。
 スプリッターを見られないように注意しながら、ろろみはバッグを開けて自分のケータイを取り出し、すばやくファスナーを閉じる。そしてケータイの二つ折りを開く。
「もしもし」
「あっ、ろろみちゃん」
 果たして本来の自分の声だった。
「ケータイ開通したんだ、よかったね。さっきは出られなくてゴメン」
「久美子は近くにいる?」
「ああ。ふたりで楽しく飲んでる」
 ろろみは朝から知っていた。高校生になってからはまだ数回目の一緒の満員電車、S伸一郎に背中を向けながらの会話で。今日は自分はクラスメイトたちとショッピング、S伸一郎は仕事を定時で抜けて久美子とデート。今はそれを確認したまでのことだ。
「ろろみちゃんのほうは今どこ? もうユウのところか?」
「ううん、まだ買い物中」
「おい、それはまずいぞ」
 S伸一郎の声が俄かに低くなった。
「未成年は暗くなったら早く帰れよ」
 もうひとりの自分は、冷たく言い放った。

「ろろみ、どうかしちゃった?」
 小山さんがろろみの顔の前で手の平を往復させる。
「ご、ごめん。想定外なこと言われちゃって、伸一郎さんから」
 ろろみの手の中で、電話は切れていた。
 未成年は早く帰れ。
 確かに、時計はもう七時をまわっているけれど。この間のコンビニ篭城強盗事件もあるから、保護者としてはもっともな言葉だけど。そして、今のこの身体は未成年だけど。
 本来の伸一郎がこちらとわかっているくせに、あまりに配慮のない言葉じゃないのか。
「えーそんなこと言われた? スルースルー!」
 史枝たちも憤り顔だ。
「シンちゃんこの間あたしにも同じこと言ってた。口癖なんだよぉ」
 言われてろろみは思い出した。そしてまた絶句した。この間の休日、史枝が伸一郎の家に遊びに来たとき、P伸一郎は史枝にそういう忠告をしていたのである。
 やりきれない気分。
「伸一郎さん親代わりだから、本当の親より厳しくしたがるんでしょ。言わせときな」
「ろろみも、自分は自分だって強く出なきゃダメ。テレビとかではそうしてるじゃん」
「したいんだけど、あいつもあたしも自分なんだよな」
 ろろみからP伸一郎の言葉が不意に漏れた。
「何それ、あいつもあたしも自分って」
「へ、へんな意味じゃないよ、シンはワケあってあたしの保護者をやってるってだけだから」
「だれもそんなこと言ってないけど」
「そう、えっと、長くいっしょにいると親近感ありすぎちゃってね、あははっ……とにかくっ! あたしはマスコット買う! そのバッグにもこのケータイにもつけてやるんだから。史枝、茉莉花、智咲、さあ行こ」
 ろろみは唐突に目線を斜めに持ち上げた。そして、靴底を石の床に叩きつけるように足を踏み出した。
「あたしもスタイルカスタマイズして、フツーの女子高生になるんだから!」
「おおっ、今日のろろみはくるくるキャラ変わる」
「おっけーろろみ、れっつごー!」

 十数分後、店から出たろろみと三人は階段の踊り場に陣取った。そして立ったまま壁に寄りかかる。ろろみが手に持っていた紙包みを開くと、史枝たちから勧められた数個のマスコットが顔を出した。
 ストラップにぶら下がったキュートな品あり、キーチェーン式のクールな物あり。三人が見守る中、ろろみは返してもらった通学バッグや新品のケータイにそれらを装着していった。
「やるぅ、これでろろみもフツーの女子高生に近づいたかな?」
「あとね、家にあるプレゼントの物もいいのあったらつけてみようって思う」
「あっ、その態度オッケー。けどそれは何につけるの?」
 ろろみの手の内に、まだひとつ残っていたマスコット。
「んーと……ヒミツ」
 それは、三人には見せられないスプリッター用だった。
「けどさ、さっきは意地悪なことしてゴメン」
 史枝はろろみの横顔に視線を向けながら、テンション控えめに話す。
「なに史枝、いきなり」
「ホント言うとさ、あたしらのカスタマイズだって地味だもの。見ててわかるでしょ」
「…………」
 確かに階段から見下ろす他校の子たちは派手だ。髪の毛は段違いにきらびやかだし、どう見ても制服とは合わない色のカーディガンを腰に巻いていたり。顔のあちこちにシールのようなものを貼っている子さえいる。
 それに比べると史枝たちは控えめである。髪の毛はせいぜい暗めの茶色だし、アイメイクも軽くアイシャドウで目を囲むくらい。制服の着くずしにしても、リボンを緩めてブラウスの第一ボタンを外す程度だ。
 こんな違いが、水明華はそれなりに真面目な校風であること、少なくともそう世間では通っていることを裏付けている。ゴスロリ趣味の絵崎たるとにしても、学校で博子先輩しているときは堅物だ。
「だからあたし、もう無理な注文しないから。安心していいよ、ろろみ」
「うん」
 ろろみがはっきりと史枝に頷くと、小山さんたちも話に混ざってきた。
「私、根が真面目な校風が好きでこの学校入ったのよね。だからこれくらいのカスタマイズで満足してる」
「茉莉花、私もよ。ギャルな子たちのようにはやりたくないもん」
「えーっ、そこらへんあたしと違う。あたしはやりたいかも。今日は手加減してるだけでー、休みの日は地元で弾けてるもん。ろろみもどう? って仕事か」
「ほんと、史枝は史枝だよねえ、あははは」
「あはははは」
 ろろみは小山さん前畑さんといっしょに苦笑いする。彼女たちが史枝を見捨てず笑って済ませてくれたことは、史枝の親友として嬉しかった。
「このくらいの学校だからこそ、一応は文化人なろろみも適応できてるんでしょう?」
「かもね、茉莉花。でも作家さんとか文化人って派手目なひと多いよ」
 対談などで逢ってみるとわかる。伸一郎よりはるかに年上の大人でも茶髪金髪は当たり前。サングラスや全身ピアス、スキンヘッドの作家だっているのだ。
「あとね、あたし考えたんだ」
 ろろみの声のトーンが改まっっている。
「カスタマイズっていうのは、学校の校則とか校風とかいろんな制約がある中で、自分に合ったスタイルをすることよね。だから、あたしに合うスタイルだったら、無理して着くずしとかしなくたってカスタマイズだと思うんだ」
「ああなるほど、私の言いたかったことうまくまとめてる」
「やるう、さすが小説家じゃん」
「落ち着いて考えたら、ろろみにはこれくらいがちょうどいいって私思うな」
「今のままで普通にカスタマイズできてるから、自信持って」
 前畑さんがろろみの肩に軽く手を置いた。史枝と小山さんも頷いている。
「じゃ、そろそろ動くかな」
 ろろみたちが壁から体を離そうとしたときのことだった。カスタマイズされたばかりの通学バッグの中で、またもやカスタマイズ前の着信音が鳴り出した。ろろみは付けたてのマスコットごとファスナーのつまみを引っ張ると、三本のストラップが垂れ下がる端末を手に取った。
 電話の相手と話すにつれて、ろろみの顔と声は明らかに不愉快の色を帯びていった。

「……あいつ、朝帰りになるって」
 ろろみは乾いた声で言いながら、首の後ろに手をまわす。
「それならあたしのほうだって、もう一歩踏み出ていいよね」
 史枝らが驚く中、ろろみは制服のリボンを少し緩めてブラウスの第一ボタンを外す。
「あれっ、いいの? さっきそのままでいいって言ったげたじゃん?」
「あたしもね、今日くらいは……カスタマイズをあんたたちに合わせたい気分!」
 史枝たち三人は数秒の間固まっていた。けれど間もなく、ハイテンションな歓声をあげながらろろみの肩へと抱きついてきた。



 S伸一郎が久美子とホテルで一夜を過ごすと聞けば、意地も張りたくなるもの。
 ろろみは史枝たちの門限に間に合うぎりぎりの時間まで街でフツーの女子高生を楽しんだ後、第二の身の寄せ場、優一郎のアパートへと転がり込んだ。

「だいぶ感じが違うね、ろろみちゃん」
「やっぱりわかるか」
 玄関に立ったろろみの全身を、優一郎は興味深く見つめている。
 今のろろみのかっこうは、フツーの女子高生≠ノより近くカスタマイズ≠ウれたもの。
 制服のリボンは、首の後ろでストラップを緩めたために少し垂れている。ブラウスの第一ボタンも外しており、涼しげでラフな雰囲気だ。スカートの丈にしてもいつもより短い膝上5センチ。ウエストでたくし上げるように折り込んで、史枝から借りたベルトで固定してある。
「史枝たちとこんなのも撮ったんだ」
 優一郎には見慣れぬマスコットのぶら下がった通学バッグを開いて、ろろみは数枚の写真プリントシールを取り出した。ファッションビルの隣にあるゲームセンターの二階、レディースオンリーのプリクラフロアで撮ったものである。
「へえ、おもしろい。史枝ちゃん、昔と変わらないはじけぶりなんだ。……でも」
「でも?」
 目を通したプリントシールをろろみに返すように差し出して、優一郎は言った。
「浮いてるね。このろろみちゃん。なんていうか、無理してはしゃいでるみたいで」
「無理して……ユウもそう思うか」
 ろろみはゲームセンターでの出来事を優一郎に語り始めた。
 このフツーの女子高生風スタイル、史枝たちからも一度はやんわり止められていた。それを承知でプリクラフロアに入ってみたら、周りから漂うひそひそ声。「あれ微風ろろみじゃん? 似合わねえ〜」「まじめ女が無理すんなよキモイ」。同世代の少女とは思えない汚い言葉と低い声がろろみに突き刺さった。史枝たちはなだめてくれたけれど、敢えて自分の意思でやったことが否定されれば憂鬱なもの。だからユウの意見も聞いてみたいとこのままの姿で来てみたら、こちらでも……という次第だ。
「せっかくだから、これで見てみたら?」
 優一郎はろろみの肩にかかった通学バッグから、ぶら下がっているマスコットのプチ手鏡をつまみ上げた。
 ユウの手中のプチ手鏡に映るのは、今の赤裸々なろろみの姿。
 ろろみは右手に持ったプリントシールに視線を落としてみる。様々な自分が写っていた。史枝たちと四人いっしょだったり、ひとりやふたりだったり。全身を広げて飛び跳ねていたり、百面相をしていたり。それらに重ねるように、ハートや星のマーク。そしてカラフルな手書き文字のメッセージ「今日はウサバラシ♪」「ありがと史枝★」。
 手鏡の自分と同じ雰囲気だった。浮いているようで恥ずかしかった。自分がテレビのバラエティ番組でウケねらいの回答をしたときの録画ビデオを見た気分とは、また違った気恥ずかしさ。
「……柄でもない……」
 思わずそう口に出た。
「ね。ろろみちゃんにはおすまし女子高生姿のほうが柄に合ってるんだよ」
「あれもオレのろろみ的には演技入ってるんだけどな」
「それが柄に合った演技ってことだよね」
 今のろろみは伸一郎の男言葉を使っているけれど、それはまた別の事情。
「オレが思うろろみの柄ってのは、おすましなポーズをとりつつも、いざとなったらガンガン物を言う女の子」
 ろろみは、襟のリボンとブラウスのボタンを元に戻しながら言った。
「うん、それも確かにろろみちゃんらしさだね」
「服も直したことだし、バッグのマスコットも外そうか」
「いや、それくらいはつけてたって柄には関係ないって思うよ。……で、そもそも」
「そもそも?」
「ろろみちゃんは今日、どうしてこんな気になったんだい?」
 優一郎からそう尋ねられて、ろろみはS伸一郎からの電話の件を詳しく話した。
「『未成年は早く帰れ』なんてひどいよな? それでいてあいつはちゃっかり久美子と夜明かしときた。これが自分自身に対する仕打ちか? あいつもオレも自分なんだぞ」
「でもね」
 優一郎が口をはさんだ。
「もとのシンと、あっちのシンには、雰囲気の違いがひとつあるんだよ」
「えっ? なんだよそれ」
 逸るろろみの口を、優一郎がそっと指でおさえる。
「当人たちには気づきにくいさ。でもまわりから見てるとわかるんだ。今のところは微々たる違いだから、スプリットの秘密を知っている人間くらいしか感づかないだろうけどね」
「だからなんだか教えろよユウ」
「自分で考えてみなよ。機会があったらでいいから。ひとつだけヒント。あっちのシンは逢うことができるけど、もとのシンには絶対に逢えない人物ってだれだ?」
「…………」
 今の問いの答えはすぐわかった。口に出すまでもない。けれど、それが本題のヒントになるものなのか。ろろみは四割だけ納得したような目で優一郎を見上げた。
「……と、ところでさあ、話変わるけど」
 意識して笑顔をつくる優一郎。
「ろろみちゃんは今日どんな物買ったんだい?」
「まずバッグのマスコット。あとペンダントとかイヤリングとかあるな」
 ろろみは通学バッグを開いて、先ほどの収穫品を優一郎に見せた。すると、優一郎から意表を突く言葉が出てきた。
「へえ、このペンダント、珠橋せれ菜お気に入りのブランドだよ。このネックレスは各務菜穂のおすすめ」
 脈絡もなさそうなところでアイドル作家の名前が出る。
「どういうこと? オレ知らないぞ」
「ティーンズ少女ファッション誌は『K−teens』だけじゃないんだよ、フツーの女子高生さん」
 優一郎が本棚から取り出したのは、他社の発行する少女ファッション誌『PITI★KIRA』。開いてみると、『アイドルさんに聞いてみました、マイオキニアイテム』なる記事がある。二十代前半までの女性タレントや有名人たちがお気に入りの小物アイテムを語るインタビュー記事なのだが、珠橋せれ菜や各務菜穂といったアイドル作家の顔もちらほら見受けられる。確かに、彼女らの薦めるアイテムの写真はろろみの目の前にあるものとそっくりだ。
 史枝たちは、ライバル作家の愛用品だと知らなかったのだろうか。それともろろみをからかうためにわざと選んだのか。今はどちらでも構わないけれど。
「でもオレの実感とはちょっと違うな。学校じゃアイドル作家の作品読んでる人って見かけないんだ。正世さんから聞いたんだけど、アンケート結果でもろろみの読者層はもっと上の年代だし、ほかの作家さんたちも似たようなものだってさ」
「作品は読まなくたってファッションスタイルは参考にするんだと思うよ。そうでなきゃ、『K−teens』にだってろろみちゃんのコラム載ってないよ」
「あっ、なるほど」
「ろろみちゃんも、クラスメイトに真似されるようなスタイルつくりあげなよ」
「まだまだだよ。正世さんや久美子とかに選んでもらったファッションだもの。でも……がんばるぞ、あたし!」
 『K−teens』の担当さんの顔を思い浮かべながら、ろろみは叫んだ。
「ところで、ユウがどうしてこの手の雑誌なんて?」
「俺も最近はちょっとアイドルファン戻りかけててね。っていうかアイドル作家に興味持ち出したんだ。もちろんろろみちゃんのコラムも目当てだよ」
 『PITI★KIRA』の抜き出された本棚の隙間から、ろろみの第零回§A載コラムが載った『K−teens』が顔を覗かせている。
 不意に、ろろみは正世さんたちからの宿題≠思い出した。
「あのさあ、このペンダントつながりだけど、珠橋せれ菜の隠された過去って知らないか? オレにもなんとなく心当たりがあるような気がしてさ」
「あははは、心当たりあって当然だよ。ほら、これごらんよ」
 優一郎は本棚のさっきとは違う段から、暴露系月刊誌『BUKAN!』を取り出した。この間は「家出少女の星・微風ろろみに幸あれ!」と憶測だけでぬけぬけと書いていたあの雑誌。けれどもユウが見せてくれたのは去年出た号だった。
『珠橋せれ菜=大空くるみ(元みらーじゅ)。第一報の主に独占インタビュー!』
 優一郎の開いたページには、見開きでそう大見出しがついていた。

《珠橋せれ菜といえば、今をときめく人気美少女アイドル作家。デビュー作『少年少女少年』が『新星文學新人賞』を史上最年少の十八歳五ヶ月で受賞し、『文豪新人賞』『ふみひめ賞』といった非公募制新人賞も総ナメ、文壇をはみ出してバラエティ番組のコメンテーターから写真集まで幅広くアイドル活動をしていることはあまりに有名だ。そして彼女が元アイドル歌手の大空くるみ――四年前に結成されたもののCD二枚を出したきりで消えた三人組アイドルユニット「みらーじゅ」で立ち位置真ん中だったメンバー――であることも、『BUKAN!』読者諸君にはあまりに有名だろう。アイドル歌手からアイドル作家への華麗なる大転進。本来なら賞賛されて然るべきことなのに、大マスコミはこの事実を決して報じない。
 「珠橋せれ菜 は 大空くるみ」。インターネット有名掲示板にそんな名無し一行書き込みがあったのは、新人賞受賞者としてせれ菜の名前が載った『新星文學』誌の発売されたその日のこと。直後、この情報は燎原の炎のごとくゴシップ界に広まった。今回、本誌はこの書き込みをした彼(二十代男性)とコンタクトをとることに成功した。以下は彼の語ってくれた回想である。
「あの日はなぜか、いつもは通らない文芸雑誌のコーナーに足が向きました。そしたらかわいい女の子が表紙になってる雑誌がちらっと目にとまったんですよ、平積みで。なんだか『この子かわいいよ』っていう直感がわいてきて、中身なんて見ないでレジに持っていきました。家に帰って紙袋を開けてみたら、それが『新星文學』の新人賞発表号でした。『そうかこれがアイドル作家ってやつか』とか『珠橋せれ菜なんて知らない名前だな』とか『こんなかわいい子が文学賞かすごいな』なんて思ってて、でもこの子の表紙を見てれば今日一日満足できるかな、なんて独り言言いながらパラパラを目を通してました。でもなんだかこの子どこかで見たような顔だなって思えてきて。昔のアイドル誌で見たようなって。それで、床に積んであった雑誌適当に手に取ってみたら、四年前の雑誌に載ってた『みらーじゅ』ってアイドルユニットの大空くるみって子がもう珠橋せれ菜そっくり。髪型とかは違うし表情も少しだけ幼いけど、目と鼻と口のバランスが同じだし、なにより左目の下の泣きぼくろが同じで、『これだー』って思わず大声あげちゃって。すぐにパソコン立ち上げてネットの匿名掲示板に書き込みました。『珠橋せれ菜 は 大空くるみ』って、それだけね。そしたら半日でネットじゃ大反響。なのにマスメディアは完全黙殺で、珠橋さん本人も大空くるみなんて無視してるし。一部のアイドル雑誌が控えめに書いたこともあったけど続報はなかったし」》

 大空くるみ、みらーじゅ……思い出してきた。確かにろろみ=伸一郎には聞き覚えのある固有名詞だ。誌面には十四歳の大空くるみと十八歳の珠橋せれ菜の顔写真が並んで載っていたが、四年分の経年変化を計算に入れれば確かにふたりの顔立ちはよく似ている。
 しかし、ろろみは気付いたのだ。ふたりの表情のつくり方が違っていることに。くるみがストレートに純真無垢な表情を出しているのに対し、せれ菜のほうは無理して弾けているような笑顔。いつだか『文藝計畫』編集部でせれ菜に逢ったときも、自分は同じ印象を抱いたはずだ。そして、さっきのプリントシールの自分にも通じるものがある。
 それはともかく、どうして自分はこの名前に心当たりがあるのだろう? 最近のマスメディアには出てないから、「みらーじゅ」が現役のころに聞いたことがあったのか。でも、どういう形で? おそらくアイドルファンの優一郎がらみだとは思うけど。
「ろろみちゃん、ううん、シンはここに憶えはないかな?」
 ユウは誌面に載っている写真の一枚を指差した。どこかのデパートかスーパーの屋上らしいステージで「みらーじゅ」の三人が歌っている。真ん中で一歩前に進み出ている少女が大空くるみだ。おそらく、ステージ正面に陣取ったカメラ小僧が撮ったものだろう。
 そして写真には『イヤリング、片方無くしたくるみチャン』とキャプションが。
 ろろみの目は無意識のうちに、テーブルに置いた自分のイヤリングに向いた。ちゃんと両方あった。片方のイヤリングを手に取ってみる。その感触が、伸一郎の記憶の箱を開く鍵となった。

 もう五年前のこと。大学生だった伸一郎はアイドル歌手の握手会イベントというものに初めて足を運んだ。アイドル歌手に大して興味はなかったが、優一郎に誘われたためである。会場となったターミナルのデパート屋上には、簡素ながらも屋根つきのステージと、数十個の椅子が並べられた客席が用意されていた。ステージの上に掲げられた看板にあった言葉は『みらーじゅ デビュー記念 歌と握手会』。
 客席の中央前列を固めるのは十数人の男たち。彼らはそれぞれ一脚のついた一眼レフカメラを構え、白くて大きなレンズをステージへと向けていた。ユウの話によると彼らのことを「カメラ小僧」と呼ぶのだという。
 ステージイベントの始まる十数分前、伸一郎は一階下の手洗いで用を足した。伸一郎が出るのとほぼ同時に、隣の女性手洗いから中学生くらいの女の子ふたりが出てきて、慌しく屋上へと上がっていった。女には手が早い伸一郎も、ここまで年下だと興味が湧かずにそのまま見過ごした。けれども、床に残されたイヤリングを見過ごすわけにはいかなかった。
 伸一郎が屋上に戻るとやがて、初めて見る「みらーじゅ」の三人がステージに現れた。いや、そのうちふたりは初めてではない。ついさっき階下で見ていた、あの中学生の少女たちだった。
 三人の少女はキラキラ光るステージ衣装を身につけており、耳には揃いのイヤリングをぶらさけていた。ところが「大空くるみ」と名乗った真ん中の少女だけは右耳にイヤリングがない。客席のあちこちがざわついた。「くるみちゃんイヤリングないぞ」と、優一郎も隣の伸一郎に囁いた。それは今、伸一郎のポケットの中にあるのだ。ステージ終了後の握手会のときに返そうと、伸一郎は心に決めた。
 歌が終わるとステージに長机が置かれ、「みらーじゅ」の三人との握手会が始まった。ひとり目には「がんばってください」と月並みな言葉をかける伸一郎。ふたり目が問題のくるみだ。「あの、お手洗い出たところで拾いました」。伸一郎はそう言いながらテーブルにイヤリングを置いた。ところがくるみの反応は伸一郎には想定外。彼女は赤面したまま無言でイヤリングをつかみ取り、出していた手を引っ込めてしまったのだ。直後、次の客がくるみの前に流れてきたため、伸一郎はくるみと握手し損ねて三人目に向かった。
 せっかくイヤリングを拾って渡してやったのに無礼なアイドルだと思った。童謡の森の熊さんならば、お嬢さんから感謝してもらえるのに。けれどもユウにそれを愚痴ったら、「シンは率直すぎるよ。アイドルはトイレに行かないのが建前だからねえ」と一蹴されてしまった。この建前がまだ生きていることを、伸一郎は後にろろみになってから実感するのだが。
 伸一郎はそれっきり、アイドルの握手会イベントに行くことはなかった。大空くるみという名前を思い出す機会もなかった。
 余談ながら、それから数年後に握手のリベンジは図らずも果たされた。一方は名前が変わり、他方は名前だけでなく肉体も別人として。

「そうだ、オレたちもこの場所にいたんだな」
 ろろみはイヤリングを手で握ったまま優一郎に顔を向ける。
「でも彼女、イヤリング事件のことなんか覚えてないんだろうな」
「多分ね」
「オレがろろみとして質問するのも悪いよな。ただでさえ恥ずかしい上に、隠したい大空くるみ時代の出来事だし。淋しいけど」
 さっきの雑誌『PITI★KIRA』を読み直しても、せれ菜のおすすめアイテムにイヤリングは見当たらない。
「俺にしたって、この雑誌もらって写真見たときに思い出したくらいだもの」
「もらって? 買ったんじゃなくてか?」
「今だから言うんだけど、実はこのインタビューに答えたの俺なんだ。で、出版社から進呈されたってわけ」
 なんと、せれ菜正体騒動の震源がまさに優一郎だったとは。
「そうだったのか。こんなすごいことしでかした人が身内にいるなんて驚いた」
「そのセリフ、ろろみちゃんに百倍返ししてあげるよ」


§

 計畫賞授賞式の前日、ろろみはいつもの計画書店とは違う出版社「民斗書院」のビルにいた。「ビジュアルで魅せる文芸アイドル誌」のキャッチフレーズがついた新興文芸雑誌『ふみひめ』編集部で、グラビア撮影の打ち合わせである。小説原稿は計画書店との契約でデビューから半年間は他社では書けないが、グラビア出演なら正世さんからOKをもらっている。
「来週末にスタジオで撮影本番か。あー忙しい……っておまたせ」
 打ち合わせを終えたろろみは、ビルの入り口に待っていたS伸一郎と合流した。なぜ彼がろろみと一緒に中に入らなかったかというと、この編集部にしばしば出入りしている絵崎たるとに「微風さんと一緒に小出さんも来てたんですよ」などと動向が伝わるのが嫌だったからだ。
 ところが、近くの公園の公衆手洗いでリンクアップして駅に向かうP伸一郎の目の前に、思いがけない別のアイドル作家が現れたのである。
「小出伸一郎さんですね。ろろみちゃんにはいつもお世話になってます。おひとりですか」
「あ、ああ、珠橋さん」
「よろしかったら、あたしとこれからお食事でもごいっしょしませんか」
 珠橋せれ菜は伏し目がちのまま、小声であいさつをした。ろろみや香子相手のときの強気なぶりっ子≠ニは一味違う態度だ。少し赤面しているように見えるのは、夜の灯りのいたずらだろうか。
 彼女の姿に、雑誌に載っていた四年前の大空くるみがオーバーラップする。
 P伸一郎の心が揺れた。しかしすぐに、首を軽く横に揺らす。
「なぜ、珠橋さんが俺を? 微風ろろみの関係者だとわかってるんですよね」
「ええ、承知の上で。同業者どうしの親睦を図りたくて」
「…………」
 この少女は自分を待ち伏せていたのか。ろろみよりは年上だが、伸一郎や久美子よりは明らかに年下な十九歳。P伸一郎の喉に、自分が自分から言われたあの科白が出かかった。
 けれども、それを口にすることはできなかった。先日のフミちゃん相手には言えたのに。
「わかった。行きましょう」
 P伸一郎は手を挙げてタクシーを停め、せれ菜の後に続いて乗り込んだ。
 車中でP伸一郎は考えた。どうして自分はせれ菜の誘いを断れなかったのか。優一郎に指摘されたような、ふたりのシンの違いのためか。それとも、この少女に放っておけない何かを感じたからか。
 答えは出なかった。

 閑静な高級住宅街に溶け込むような白亜の二階家は、知る人ぞ知る隠れ家的存在の高級フルーツパーラー。人の背丈ほどに高い観葉植物模型に囲われた中で、せれ菜と伸一郎が向き合って座っている。
 せれ菜の前には彼女の大好物、ジャンボプリン付きバナナパフェ。伸一郎はユニコーンキューブトーストパフェ。食パン一斤がまるごと焼かれたトーストにアイスクリームやチョコレートがいくつも乗り、それに重ねられたフルーツの上にソフトクリームが天を指しているという大食い向けの代物だ。
 伸一郎がパフェなんて食べたのは小学生のころ以来か。なぜか、ろろみのときにも食べる機会がなかった。
「あたしのお気に入りの店なの。お酒がなくて失礼しますね」
「構わないよ。こういうのもたまにはいいかなって」
 ここは夕食には不似合いな場所に思えた。けれども伸一郎は悟った、それがせれ菜らしさなのだと。
 せれ菜の首にぶら下がるのは、例のオススメのペンダント。ライバル作家オススメが確定したブランドは、ろろみには着けられそうにない。
 耳はといえば、イヤリングもピアスもぶら下がっていなかった。
「あと、あたしが誘ったんですから、お代もあたしが払いますよ」
 せれ菜は、パフェの天辺に乗ったジャンボプリンをもう半分も片付けている。
「そうはいきません。俺はろろみ側の人間です、借りをつくりたくない」
「じゃあ、ひとつだけお願い。この席で、大空くるみの話題は出さないでもらえますか。それでチャラってことに」
 大空くるみ。唐突に出たその単語。せれ菜はわかっていたのか、伸一郎が自分の過去に興味を持ち始めていたことを。
「あ、ああ。わかりました。じゃあお言葉に甘えて、いただきます」
 ごめん、久美子。伸一郎は気持ちだけ呟いてから、目の前のゆるくなったソフトクリームをスプーンで掬った。ずいぶん懐かしい味がした。

「どひゃあっ!! 小出さんも小説家志望なんだぁー☆」
「まあね、文芸じゃなくてライトノベルのほうだけど」
 いつしかふたりの間の緊張はほぐれ、せれ菜の口調は彼女の作品の文体そのものになった。ファッションビルでろろみが見たようなフツーの女子高生≠ニもまた違う、少し幼さの残るはしゃぎ振りだ。伸一郎のほうも、すっかり友達気分でせれ菜と打ち解けている。たまには久美子以外の女性とトイメンで話すのもいい気分転換だ。傍から見れば、少女趣味の女子大生が親友の兄とデートしている図だろうか。
「ふうん、ラノベもいいかもぉ。持ち込みって、どこの雑誌なのぉ?」
「『ドラケミスト・ノベルス』とか。民斗書院の。わかる?」
「うんうん、名前聞いたことある♪ じゃ、ペンネームってあるの?」
「本名を少しもじって、小池周太郎っての使ってた。小池は小さいお池で、マワリの周にモモタロウの太郎」
「コイケ・シュウタロウね。覚えとかなきゃ」
「あっ、多分もうその名前使わないから。最近気分変わってね」
「それじゃそれじゃ、小池センセはどんなオハナシ書いてるの?」
「センセ!? ひゃあ俺を作家先生扱いか。ろろみちゃん見てたらびっくりだぞ」
「ろろみぃ? 話そらしちゃだめぇっ>< プンスカ!」
「わかったよ。いろいろ書いてたけど、例えば男の子が女の子に変身する話かな」
「へええっ、それっておもしろそ〜! もっと聞かせて!」
「でもね、あまり言いたくないんだ。持ち込みしたらめちゃくちゃ叩かれたから、ちょっとトラウマきちゃって」
 今は封じたはずの名前が、伸一郎の脳裏にちらついてきた。自分の目の前にいるのはアイドル作家の珠橋せれ菜ではなく、アイドルタレントの大空くるみ。そんな感覚に襲われそうだ。せれ菜が自分の小説の話題を出さないので、一層そう思えてくる。大空くるみちゃんがアイドル歌手のまま十九まで成長したとして、彼女とプライベートで男女どうしの会話ができたらこんな調子だろうか。ろろみとしてアイドルタレントと接したときには、感じたことのない気持ちだった。
 あのときのイヤリングの話、「みらーじゅ」のその後の話題、大空くるみを隠したがる理由について。思い出の人を前にすれば、言いたいけれど言えない話題が次々と浮かび上がる。伸一郎はそれらと向き合うのを避けるように、目の前のせれ菜が振る話題を追いかけていた。
「ごめーん、ちょっと席外させて?」
 伸一郎の持ち込みの話題が一段落したところでせれ菜は席を立った。観葉植物模型をはさんで伸一郎に背中を向け、黙ったままガッツポーズ。そして、しずしずとお手洗いへ歩いていった。

 数日前、同じ場所、同じメニュー。テーブルは違っていたけれど。
 せれ菜は中島香子と一緒に、元『ドラケミスト・ノベルス』の編集バイトから驚くべき話を聞いていた。本当ならば最大のライバル候補の作家生命が絶たれるだろうビッグニュース。
「秋川さん、これが持ち込み投稿者のリスト?」
「そうです。上から五番目、小池周太郎を見てくださいよ、タイトルが『境界線――インターフェイス』」
「ひゃあ、クリソツじゃん☆」
「欄外に編集のコメントか。『男が変身して女に性転換。ありがちでつまらない』だって」
「つまりぃ、内容も同じってことかぁ」
「秋川さんは持ち込みに来た彼の顔見たのよね? 覚えてる?」
 香子が取り出したのは、朝のワイドショーに映ったときのS伸一郎の静止画像のプリントアウト。
「あっ、これです。この男が小池周太郎です」
「すごい、状況証拠がまた増えたわね」
「ありがとうございます。本番ではダメ押し用に、小池周太郎の原稿のコピー用意しますから」
「よろしく頼みますね。で、珠橋さんはどうするの?」
「んじゃ、あたしは小出伸一郎から話聞き出しておくね」
「OK。それじゃターゲット・ロックオン!」
 テーブルの上に六つの手の甲が重なり、せれ菜と香子と秋川は団結を誓った。

 そして今、せれ菜の前にはターゲットの関係者、伸一郎が立っている。
「本当に今日はつきあってくれてありがとう。小出さんに尋ねたいことたくさん聞けて、あたしとっても楽しかったです。ろろみちゃんにもよろしく伝えてねぇ」
 目的を達成したためか、せれ菜は至って上機嫌だった。さっきは拒否したはずのろろみの名前まで出てくる。
「ありがと珠橋さん。慌しい明日の分まで楽しめたよ、ごちそうさま」
「あははは、シンちゃんって呼んじゃおかな」
 せれ菜の営業スマイルにほくそ笑みが交じりこむ。
 伸一郎は見逃さなかった。せれ菜の笑顔が歪んだのを。けれどもこちらからはリアクションせず、あくまで純粋な表情と言葉でせれ菜に応えていた。
 せれ菜の表情には裏があるようだ。けれども伸一郎にとってそれは想定内。元・大空くるみであることを必死に隠す彼女なんだから、当然のことだろうと。
 それよりも伸一郎は、素直な顔のときのせれ菜を大切にしたかった。昔のくるみではなく、今のせれ菜を尊重したかった。あくまで本命が久美子なことに変わりはないけれど。
 ろろみとしても、せれ菜とはもっと友好的に接していいんじゃないか。明日の授賞式で早速実行に移すとしよう。
「今日は本当に、珠橋さんと出逢えてよかった」
 伸一郎は優しい眼差しでせれ菜を見つめていた。
 せれ菜の表情がもう一度歪んだ。今度は、伸一郎も気付かなかった。


§

 そして翌日、ろろみ一世一代の晴れ舞台の日。
 五限目終了のチャイム、日直の「起立」の声、そこに教室の扉の音が重なった。
「失礼します。微風ろろみの保護者の小出です」
「来ましたっ、シンちゃん乙! ほらろろみ、急ぎなよ」
 両手を挙げて跳び上がる史枝。ろろみはその背後からS伸一郎にゆっくり目を合わせた。
 授業は現代文、教材は太宰治の『斜陽』に入って三回目。「ほらほら、授業はあと少しよ」と、三十台の女性教師がたしなめる。「礼」まできっちり終えてから、ろろみはバッグを持って席を離れた。授賞式本番は夕方からだが、編集部で最終リハーサルや単行本の帯のコメント文校正といった用があるため六限までは出られないのである。
「みんな悪いけど、今日はこれで早退します」
「次回の授業は微風さんのお土産話ね。大御所の作家さんたちに逢った感想、先生にも聞かせてちょうだいよ。これぞ生きた文学史の一ページ」
 作家・微風ろろみ≠フファンを公言しているこの先生の差し出した手を、ろろみはしっかと握り締めた。
 参考までに古典の中年男性教師はアンチろろみで通っており、毎回のように難しい現代語訳をろろみに当ててくる。
「わ、わかりました。あたし、すっごく緊張すると思うけど……がんばってみます。それじゃ、行ってきます」
「行ってらっしゃい、微風さん」
 拍手とエールに送られてS伸一郎と教室を後にしたろろみは、ちょっぴり不思議な気分に襲われていた。まるで自分がアイドルにでもなって、仕事のために早退するような心境。……「ような」ではなくそのままか。

「小出伸一郎さんですね。微風さんのお迎えお疲れ様です」
 ろろみよりも小柄なショートヘアの女子生徒が、廊下のふたりを丁重な口調で呼び止めた。
「あっ、博子先輩さようなら。お役に立てなくてすみませんでしたけど、あたしたち行ってきます」
 訳あって一歩後ずさりするS伸一郎を横目に、ろろみはよく通る声で先輩に会釈する。
 三年生の鈴木博子先輩。校内では堅物で知られる彼女だが、「ゴスロリ大好きのアイドル作家・絵崎たると」という別の姿を持っている。なぜか『文藝計畫』の榊正世編集長とは折り合いが悪く、今日の計畫賞授賞式にも出席を拒否されている。
「微風さんは悪くありませんよ。わたくしも、近くまでは行ってますね。あと、わたくしの代役ってわけでもないですけど、彼女が出席しますから」
 博子先輩が言うと、その背後から体格のよい女子生徒が現れた。はじめて見る顔だ。
「微風先輩、きちんとお逢いするのははじめまして。一年四組の筧壬南(かけい みな)と申します。少女漫画家をやっております」
 作家ばかりでなく漫画家まで在籍しているあたりが、さすが水明華高校。
 少女漫画家業界は少女小説家よりも若年化が当たり前になっている。中高生のプロ漫画家はかなり前からザラにおり、「アイドル漫画家」などと殊更呼ばれることはほとんどない。壬南のルックスが「アイドル」と呼ぶに相応しいかはまた別の問題として。
「デビューは中二のときで、ペンネームは『桃月壬蘭』(ももづき みらん)と申します。計画書店さんの少女漫画雑誌『ルミエ』で描かせていただいてますご縁で、微風先輩の授賞パーティーに参列させていただくことになりました。どうかお見知りおきを」
「こちらこそ。パーティーでもよろしくお願いしますね」
 壬南、いや壬蘭の言葉遣いは博子先輩以上に上品だ。さぞかし育ちがよいのだろう。
「ところで微風先輩、授賞式のスピーチの秘訣をお教えしましょうか」
「えっ、どうして知ってるの、あたしの悩み」
 ろろみの今の悩みごとを一発で見抜くとは、漫画家の洞察力は小説家を凌ぐのか。
「不思議がることはありません。先輩の連載コラムの第一回に書いてありましたよね」
 でも、第一回の載った号はまだ書店に並んでいないはず。
「発売前の『K−teens』を、私は『ルミエ』編集部で拝見いたしました」
「なるほどね。読者になってくれてありがとう」
「先輩、スピーチでは気の利いたことは言えなくて構いません。とにかく礼儀正しく、教科書どおりのことを話せばよろしいのです。ありがとうございます、これから精進いたしますと。私も、新人漫画賞の授賞式でそう申しましたから」
 背丈はS伸一郎と同じくらい、体格は史枝よりさらに健康優良。そんな壬蘭の口から堅い理詰め口調で言われると、ろろみはそれなりの説得力を感じた。

 計画書店まで、いつもは歩いている距離だけれど、今日のろろみはS伸一郎とタクシーに乗り込んだ。
「リボン、緩めないんだ? この間やってたじゃないか」
「今日はね、着くずししないろろみスタイルがいちばん喜ばれる場所だもの」



 ろろみとして乗った中でいちばん大きなリムジンで、計画書店から会場のホテルへ入る。
 伸一郎としても見たことのない豪勢なシャンデリアと赤じゅうたんだが、圧倒されている場合ではない。
 先導するのはホテルの人と副編の原島、後ろにつくのはS伸一郎。大広間の入り口、どっしり重そうな扉の前で立ち止まる。ホテルの人が中と打ち合わせの間、原島から二枚折りの鏡を差し出される。制服のリボンを整え、軽く前髪を撫で、白い歯を出してにっこり笑ってみる。
 原島が頷く。ホテルの人が扉を引いた。
 さっきの教室など問題にならない万雷の拍手に出迎えられ、ろろみは作家人生最初の主役の場に姿を現した。
 大広間の一面、見渡す限りに立ち並ぶ人、人、人。数百人はいるだろうか。受賞発表以来のろろみ騒動で出席希望者が殺到したため会場はこの大部屋に変更されたのだが、それでも足りなかったかもしれない。
 その数百人の目が一斉にろろみを向いている。みんな、この少女の姿を見たくてここに来たのだから。
 ろろみのためだけにこれだけ大勢の人が集まったのは、例の記者会見以来か。違うのは今回はだれしもがろろみに好意を持ってくれていること。少なくとも建前だけは。
 これなんだ。この視線があるからあたしは頑張れるんだ。ろろみは歩を進めながら、声にならない声で自分に囁いた。
 壇上には十数個の椅子が並んでおり、そのほとんどは埋まっていた。審査委員の作家の方々、社長をはじめとする計画書店のお偉方、そして編集長の正世。リハーサルどおり、三つ空いている椅子に原島とS伸一郎、最後にろろみが着座する。
 けれどもろろみには椅子にぬくもりを伝える暇はなかった。司会者の声が広間に響く。早速ながら第一のクライマックス、受賞者の紹介である。
 ろろみが壇上にひとり立つと、マイクを持った司会者が右斜め下に見えた。聞き覚えのある声だと思っていたら、「ことぶきテレビ」アナウンサーの湯島孝介(ゆしま こうすけ)ではないか。二枚目なルックスながらもひょうきんさを兼ね備えた彼とは、ろろみはバラエティ番組で共演歴がある。彼もその話を持ち出してきた。「僕ね、そのときろろみちゃんにサインもらったんですよ、ほらこれ」。湯島が自分のシステム手帳のカバーを見せると、広間を満たす軽い笑い声。ろろみの顔が自然と赤らんだ。ろろみファンな局アナに司会を依頼するとは、正世も心にくい。
 はじめは視線しか感じることができなかったろろみだが、心が落ち着くにつれ余裕が出てきた。壇上から見下ろす出席者たちの顔ぶれも、今では認識できる。
 はじめて見る顔もいる。けれども見覚えのある顔も多い。作家、タレント、各界の有名人たち。対談やテレビの共演で、ろろみが生で逢った人も少なくない。特に、アイドル作家と称されるような人はほぼ集まっているのではないか。珠橋せれ菜もいる。御堂山芽夢もいる。漫画家だが桃月壬蘭もいる。絵崎たるとがいないのが不自然にすら感じられる。
 それもみんな、パーティードレスやフォーマルスーツで綺麗に着飾っている。地味な学校制服姿の自分は場違いなようにも思えてしまう。しかしそれこそ筋違い。ろろみが、この場の主役なのだから。
 最前列に並ぶ報道陣にも顔なじみが幾人か見受けられた。ろろみ付き≠ネカメラマンや記者がいるのだろう。ろろみは少しだけ頼もしく感じた。

 続いて、審査委員の作家方がひとりずつ立ち上がり、ろろみの横に立ってお祝いのスピーチを披露する。
 まずは七十過ぎの大御所男性作家、綿貫潤二(わたぬき じゅんじ)。ロマンスグレーの髪が渋い彼はろろみとは半月前にも対談で逢っており、その内容は次号、初夏号の『文藝計畫』に載る手はずだ。
「思えば最終銓衡で微風さんの書類を拝見した刹那、わたくしの全身を一条の電流が駆け抜けました。この方が間もなくわたくしの目の前に現れるはずだという運命に震えたのです。原稿を拝読させていただくにつれ、その予感は確信へと変わっていきました。社会の不条理を切り出す鋭利な慧眼と、登場人物への慈愛を忘れぬ温和な筆致、両者を兼ね備えた微風ろろみさんというお人は、さぞかし美麗端正な娘さんのはず。わたくしの夢枕にまで幾度も微風さんのお写真のお顔が現れた程であります。そして本日、微風さんのお姿を間近で拝見しての率直な感想を申し上げさせていただけば、彼女はわたくしが心中に抱いていたものを微塵たりとも裏切らない、折り目正しい気高さを持った真のお嬢さんでありました。『朝(あした)に道を聞かば、夕(ゆうべ)に死すとも可なり』と申します。古希を過ぎ、余命幾許もないわたくしですが、微風さんとこうして同席できた今となっては、明日ぽっくり逝ったとしても未練はございません」
 計畫賞発表のときの選評でも、とにかくろろみをベタ誉めしていたこの作家先生。今回も暴走した形容が脚を絡ませて前につんのめりそうなくらいに称賛している。それも、誉め言葉の四分の三くらいはこの間の対談で聞き覚えがある物。
 けれども、悦に入り浸る綿貫を横眺めするうち、ろろみには楽しさすら感じられてきた。言いたい人には言わせておけばよい。年寄りの夢は夢のまま美しく残してやろう。夢を与えることも、アイドル作家の仕事のはずだから。
 ふたり目は四十台の中堅男性作家、田原ヤスロウ(たはら やすろう)。選評にはろろみの悪口、さらにはこの賞の悪口まで書いていた人物だ。性格に似つかわしい肥満体に赤茶けた長髪。ろろみは立ち通しで緩みかけた背筋を伸ばし直して身構えた。
 ところが田原はろろみの前に進み出るや左脚の膝を壇の床につき、右手を麗々しく前に差し出すのだ。
「おお、この恐るべき娘よ! そして、親愛なる女神よ!」
 予期せぬ展開を目の当たりにしたろろみは、口に手を当てて固まった。会場からはざわめきの声。
「……微風さんにお目にかかれた感激のあまりの無作法でした。みなさま、お騒がせいたしました。そして微風さん、どうも失礼いたしました」
 立ち上がった田原は軽く咳払いをしてからスピーチを再会した。場も落ち着いた。ろろみは神妙に立ちつくしたまま、話の続きに耳を傾けた。
「この少女は恐るべき娘、と呼ばなければいけません。私らの思い描くあらまほしき文学の秩序に則るのではなく秩序を乗っ取り、何を考えているのか理解できない稚拙な単語を羅列し、作品の外でも未消化な啖呵を切って大衆を煽動するばかりなのです。私は銓衡の過程で考えました。このような作品、いや文字列を文学として受け入れてはいけないと。私の形而上領域は強く彼女を拒絶しました。しかしながら……しかしながらですよ、同時に私は形而下領域では彼女への憧憬の、いや恋の業火に激しく焦がされたのです。葛藤に苦しんだ末、私は決めました。形而下領域のほうに、正直に生きることを。彼女はそう、文壇を率いる自由の女神と評すべきではないでしょうか」
 確か、選評ではろろみのことを「華のないルックス」と貶めていたはず。それが今日は「秩序を乗っ取る者」になってさらには「自由の女神」とは、よくもまあ激しく評価が揺れ動くものだ。大体、ドラクロアの絵の自由の女神は乳房丸出しの荒々しい姿だからろろみには似つかわしくないのでは。ついでに言えばろろみのよりずっと大きいし。
 ――などと心中でツッコミを入れる余裕はなかった。ろろみとワンステップ離れて立っていたはずの田原の身体が、いつの間にかろろみに触れんばかりに近づいているのだから。
「あと蛇足ですが、私は微風さんと編集部さんにひとつ謝罪したいことがございます。私は計畫賞の選評に言ベンの『詮衡』という言葉を使っておりましたが、金ヘンの『銓衡』のほうがより適切であると考えます。訂正してお詫び申し上げます」
 選評と同じ誤用とは、相変わらずの蛇足≠ヤりだ。ヘンがどうだとかいったお詫びなどより、ろろみはタイヘンな状況に立たされていた。田原の息が首筋に当たってくるのである。腕には彼の手が絡みつかんとしている。もはや完全にセクハラ状態。後ろの正世たちも苦虫を噛み潰しているはずだ。けれどもろろみはアイドルとして鍛えた気力で平常心を保ち、貼り付けたすまし顔を死守していた。主役はツライ。
「えー、田原ヤスロウさんからのお祝いのメッセージでした。濃厚なお言葉、どうもありがとうございます」
 司会の湯島康介アナウンサーからの、少しばかり皮肉と嫉妬の交じった言葉が、田原のセクハラにピリオドを打ってくれた。
 続いて三人目、お歳を召した女性作家の蒲生英実(がもう えみ)が立ち上がる。なんともいえない茫洋とした言葉だが、本質を突いた選評を書いた人物である。髪は華やかにカールしたショートヘアー、金の眼鏡からハイヒールのつま先まで全身の光物がまぶしくてたまらない。
「まあまあ微風さんはじめまして。テレビで拝見したのよりも一段とお若くてお綺麗だこと。あなたの元気さを分けていただきたくて、この場にお呼びした甲斐がありましてよ。ほほほほほ」
 つまり、蒲生としてはろろみが若いからこの賞に選んだと暗に言いたいらしい。やっぱりこの人の言葉は本質を突いている。
「瑞々しいお肌ですから、きっと果物は摂ってらしてよね。ビタミンCは排泄されてしまいますから随時摂らないと。今日のこの宴会でも果物はたくさん出ますから、しっかり召し上がってちょうだいな」
 またまたお見事な洞察。今朝のろろみ――正確にはP伸一郎――の食卓にはキウイがあったし、学校中庭でのお昼はリサにバナナを半分分けてもらった――リサは男の子なのに一本まるごと食べられないのが微笑ましい――のだから。けれどもこちらのパーティーではろろみはホスト役、料理に手をつけている余裕なんてないに違いない。
「そうそうこのお洋服、通ってらっしゃる高校の制服ですってね。毎日学校に通いながら放課後は執筆活動でしょう、両立はさぞ大変よね。だけど、学校で教養を身につけたりお友達と交流したりするのって、言ってみたら心のビタミンCになるんだって思いますのよ。微風さんには体と心の両方のビタミンCをたっぷり摂ってもらって、フルーティーで感受性豊かな作品を書いてほしいって、期待してます」
 蒲生が深々とお辞儀をすると、場内から素直な拍手が湧き起こった。妙なところを突かれたスピーチだったが、前のふたりと比べればきれいにまとまったほうだろう。
 審査委員のスピーチのトリを飾るのは三十台の女性作家、由井恵利摩(ゆい えりま)。質素なスーツが周囲の参列者とは一線を画している。ナチュラルなボブカットから見え隠れする謙虚そうな目で、ろろみに語りかけてきた。
「微風さん、十六歳でのデビューおめでとうございます。昔、私も十九でデビューしたしたときには、美少女アイドル作家とよく言われていたものです。今でも皮肉で言われてるかもしれません。当時は今のようなアイドル作家ブームはなかったけれど、小父様小母様だらけの文壇ではあれこれとちやほやされて、嬉しい思いもした半面戸惑いもしました。若いというだけで持ち上げられたと思ったら、突然貶されたり仕事がなくなったり。いくつもの波を乗り越えながら、私はここまでやってきました。そんな私が審査委員という仕事をいただいて、読ませてもらったのが微風さんの『いんたあふぇいす』でした。主人公が男の子の世界から放り出されて泣くに泣けない絶望と、そこから持ち前の才能を生かして一歩ずつ這い上がろうとしている健気な心境とがすごく自然に飛び込んできたんですよ、私の感性に。微風さんは私と同じ強さを持ち合わせているなって思いました。それと同時に、この子が私のライバルになるなっていうおそれ、危惧感もありました。でも、今日の微風さんを見ていると、私はおそれることなくあなたをライバルとして、そしてよき仲間として受け容れていいんだって納得させられました。微風さん、同業者として、これからもお互い切磋琢磨していきましょうね」
 選評と同じように自分語りで終わるのかと思ったら、ろろみの受賞作品の内容にも触れ、最後はろろみをライバルと認めて締めていた。ろろみが素直に嬉しかったのは、由井が受賞作をきちんと読んでくれたらしいことである。

 たかが紙切れ一枚を渡すためにしてはあまりに大仰な前振りを経て、ついに授賞式の真のクライマックス、表彰状授与のときがやってきた。
 さっきの綿貫潤二よりはやや若めに見える、ダブルのスーツをきっちり着込んだ老紳士が立ち上がる。ろろみには初対面である、計画書店の社長さんだ。
 社長の正面に立つろろみ。脇の人から社長に渡される一枚の大きな紙。それを両手で広げて朗読し、ろろみの正面へと差し出す社長。一歩前に踏み出して頭を下げながら、両手を目一杯伸ばして表彰状を受け取るろろみ。「おめでとう」「ありがとうございます」と小声のやりとり。壇上にいても溺れてしまいそうな拍手の洪水と、小さな体躯を大きく魅せる無数の後光。リハーサルどおり三秒後、顔を斜め横に向けカメラに応えるろろみスマイル。そこから五秒置いて客席に振り返り、高々と表彰状を掲げてみせるアドリブアクション。
 快感そのものだった。少し緊張したけれど、涙も汗もなかった。制服姿だからか、学校の全校朝礼で校長先生から賞状を受け取るような気分でもあった。実際には、伸一郎にもろろみにもその経験はないけれど。

 拍手の洪水が引いてみると、会場内のテーブルにはパーティーの料理が準備されていた。配膳係の人たちが出席者に飲み物のグラスを配っている。
 壇上にも配膳係がやってきた。正世には他人のと違う紅い飲み物が渡される。「特注のざくろサワーだから。わたしゃ今日はジュースじゃなくてアルコールいくよ」。やっぱりであった。
 ろろみにもグラスが渡された。こちらも予ねてからのリクエストであるヨーグルトドリンク。次いでマイクも渡された。いよいよ受賞のスピーチである。
「みなさまはじめまして、微風ろろみです。今日はあたしのために授賞式まで足を運んでくださって本当にありがとうございます。振り返ってみますと、あたしは幼い頃から筋の通らぬことが嫌いな子供でした。けれど成長するにつれ、理不尽なことや不条理なことにだんだんと鈍感になっていきました。それに気付いたとき、自分がちょっと嫌になったんです。そんなある日、夢を見ました。目の前に男の子が立っているんですけど、それが見る見るうちに女の子に変わっていって、パニックで泣き出すんです。なのに、見ているあたしは何もしようとせず平然としてました。目が覚めてから、どうしてなんだろうって考えた末、悟りました。不条理は不条理のまま受け入れればいいんだと。そのあたりの悩みを書き留めたメモをもとに、何か書いてみようと思い立って書いたのが『いんたあふぇいす』です。その小説のおかげで、このような重みのある賞をいただくことができました。これは不条理じゃないんだ、ちゃんと筋の通った出来事なんだ。そう思うと、感謝と感激の気持ちで胸がいっぱいです。本当にありがとうございます。あたしはこれからも作家としてひとりの人間として筋を通しながら、まだまだこれからの人生を精進したいと思います」
 P伸一郎の体験をもとに書き、正世に添削してもらった文章を、ろろみは堂々と言い切った。再び拍手とフラッシュの嵐。
 けれどもろろみのスピーチはまだ終わらない。セレモニーからパーティーへの移行の合図という、出席者たちの一大本能を制御する大仕事が残されていた。
「最後になりますけれど、計畫賞と雑誌『文藝計畫』のますますの発展を願いまして、僭越ながらあたしが乾杯の音頭をとらせていただきます。それではみなさん、グラスを持ちましたね。……かんぱーい!」
 ろろみは白い液体の入ったグラスを高く掲げ、一気に飲み干した。
 甘くてスッキリとした味だった。


§

「中里箕央です。去年の計畫賞の二席でした。本日はおめでとうございます、何卒よろしくお願いします」
「ありがとうございます。計畫賞の先輩ですよね、名前は存じてます。こちらこそよろしくお願いします」
「青月あまねです。『V文学』で書いてます。このたび歌のCDを出しました。こちらもよろしく」
「わあ、歌手活動もやってるなんて芸達者ですね。今度チェックします」
「築山真奈美です」「藤沢志穂子です」「本田恵子です」「アイドル作家ユニット、近代リテラリ三人娘です。リレー形式で連載小説書いてます」
「へえ、作家でユニット活動ですか。リレー小説ってみんなの調子を合わせるの難しそうですよね、すごいです」
 立食パーティーが始まると、壇から降りたろろみの前に次から次へとアイドル作家たちが寄ってきた。あいさつで息をつく暇もない主役だが、されど顔には充足感が漲っている。
 そんな主役をエスコートするのは正世とS伸一郎。正世はろろみに出席者の説明をしたり、編集長としての外交に勤しんだりとこれまたてんてこ舞いだが、頬はざくろサワーでうっすら紅い。取り皿を片手に二枚器用に持ったS伸一郎は、豪華な料理をろろみの分まで処理する役である。
 ろろみに寄ってくる者は、当然ながらアイドル作家ばかりではない。
「微風先輩、スピーチとても良かったです。堂々としてらっしゃいました」
 ろろみと同じ水明華高校の一年生にして、商業漫画家の桃月壬蘭(ももづき みらん)。数時間前に学校で逢ったのが初対面なのに今はもう旧知の仲である。自然とろろみの声も丸くなる。
「ありがとう。でも先輩ってのはちょっと浮くな。ここ学校じゃないでしょう、微風さんでいいよ」
 さっきは当然ながら制服姿どうしだったけれど、今の壬蘭は赤いカクテルドレスに身を包み、髪もアップにして少々アダルティ。おまけに背丈も壬蘭のほうがずっと上ときた。制服のろろみが見下ろされながら「先輩」呼びされるのはなんともすわりが悪い。
「いいえ、私もけじめはつけないと。どこだって先輩は先輩です」
「物書きとしてはあたしの方が後輩でしょう」
「校外でも、学校の上級生であることに変わりはございません」
「じゃああたしも筧さんって本名で呼ぼうか。学校と同じで」
「壬蘭ちゃんでお願いします。これは私のポリシーなんです、好きにさせていただけますか」
「はあ。せめて桃月さんって呼ばせてとも思うけど……いいよ、壬蘭ちゃん」
「恐れ入ります、微風先輩」
 壬蘭の筋の通しぶりはろろみ以上に強い。けれどもその筋の隙間からは、彼女の好意がまざまざと覗いていた。だからろろみは折れた、むしろ喜んで。
 まだ子供の顔つきながらスーツをきっちり着込んだ少年も近づいてきた。
「微風さん、おめでとう。僕も水明華なんだ、二年四組。きちんと顔を合わせるのは、はじめまして」
 中学でプロデビューの囲碁界若手ホープ、高校生棋士の豊川庸(とよかわ よう)だ。同じ学校に在籍していることはろろみも知っていた。
「わあっ豊川くんだよね、ありがとう、あたしこそはじめまして」
「学校で逢えないでここで逢うってのも、僕らならではだよね」
「ほんと、なんかここが教室みたいな気分。それにあたし制服だし」
 タメ口で会話すれば、ふたりの周りにフツーの高校生どうしの世界ができあがる。瑞貴たち守護騎士団を相手にするのとはまた違う雰囲気だ。
「僕さ、地方の対局のときは連続で欠席するから、学校じゃ意外と顔合わせにくくて。微風さんは皆勤に近いだろ、成績も上位だし、うらやましいなあ」
「あたしだってこれからはどうなるかわからないよ。お互い、学業との両立がんばろう」
「ああ。あと、さっきの壬蘭ちゃんにも言ってやりたいよ。あの子赤点だらけなんだ」
「へえ、そりゃ困ったものね」
「それじゃ、今度はぜひ学校で」
「それじゃまた」
 ろろみが高く左手を挙げると、庸も応えて手の平どうしハイタッチ。周りから見れば微笑ましい。
 続いてろろみの前に現れたのは、伸一郎と同年齢くらいだがスーツはずっと高級そうな青年だ。
「計畫賞受賞おめでとうございます。わたくし、衆議院議員の韮咲謙太(にらさき けんた)と申します。業界の若手どうし、がんばっていきましょう」
 去年の選挙で初当選した二十七歳の代議士だ。ろろみも名前は聞いたことがある。このパーティーに政治家まで出席するとは驚きだった。隣に立つ男性は秘書らしい。
「あ、ありがとうございます。韮咲先生、ってお呼びしたほうがよろしいでしょうか」
「何をおっしゃいます、先生と呼ぶのはわたくしのほうですよ。デビュー会見でお顔を拝見して以来、わたくし微風先生の大々々ファンなんですから」
「持ち上げても、あたしにはまだ選挙権ありませんよ」
 P伸一郎の投票先には影響するかもしれないけれど。
「高々数年先のことじゃありませんか。第一、わたくしはもっと純粋な気持ちで先生を応援しているのですよ。それにですよ、先生のあの熱弁の振るいよう、我が党の先輩方にもそう真似はできません。二十五になられたら考えてみてください」
 本当に「純粋な気持ち」なのか、韮咲の言動はつかみどころがない。でも、だからこそ国会議員をやっていられるのだろう。同じ「先生」と呼ばれても、ろろみには遠い世界に感じられた。
「よう、ろろみちゃんお久しぶり。受賞おめでとうな」
 なれなれしい口調の中年男性が近寄ってきた。「テレビアルファ」のニュース番組『報道11PM』のキャスター、青紫鉄之助(あおむらさき てつのすけ)である。デビュー直後のろろみがこの番組に出演したとき、青紫とはちょっとしたドタバタがあった。それからというもの、この番組ではろろみの動向を好意的に取り上げてくれるのである。
「あっ、どうもです青紫さん。いつもお世話になってます」
「今日は制服かあ。スカートにはもう慣れたかい?」
「へぇっ?」
 ろろみの背中の下のほうから、撫でられたような感覚が走る。青紫が、正世とS伸一郎の死角から手を触れたのだ。
「ほらほら油断しちゃだめだぞ。俺は俺なんだからな、ははは。いい体なんだから大切にしろよ」
 説教強盗のような言葉を残して去っていく青紫。そう、彼はセクハラ大魔王なのであった。
 少し離れた壇上では、司会者が祝電の披露を行なっていた。他誌の編集長たち、都合のつかなかった有名人たち、水明華高校の校長先生などの名前が挙がっていく。
「次は、野々宮はるか(ののみや はるか)様からです」
 ろろみとS伸一郎は顔を見合わせた。病弱なため入退院を繰り返し、人前には顔も出さないこの絵本作家。久美子の好きな作家だからと、ろろみ=伸一郎は積極的に作品をチェックしている。けれども、ろろみのほうから直接はるかにアプローチをかけたことはない。
《微風ろろみさん、受賞おめでとう。私はあなたをいつも見守っています。これからの活躍を期待します》
 その言葉に、ろろみの顔は一瞬不意に綻んだ。
「どうした、ろろみちゃん」
「な、泣いちゃいないよ。シン、大丈夫だから」
 今のはS伸一郎しか見てないはず。ろろみは営業スマイルを回復した。けれども内心にはまだ感動が残っている。自分、というか自分たちにとって少し特別な作家、野々宮はるかのほうから、「あなたをいつも見守っています」と言われた日には。
 順当に編集長外交をこなしているかのように見えた正世が、突然金切り声をあげた。
「あーまいった、ごめんねろろみ。相手しなきゃいけない人多すぎだわ。わたし席外すから、小出くん頼んだよ」
 正世の背中が小さくなるのを見計らったかのように、和服を着た中年の女性がろろみに寄ってきた。雑誌でよく見る姿を前にして、ろろみの澄まし顔が引きつる。タイミング最悪。
「あれま、榊さんいらっしゃらないの?」
「編集長なら、今出ちゃいましたけど」
「まったく失礼しちゃうわねえ……」
 竹下いばら(たけした いばら)は眉間に皺を寄せて不満げに呟く。もしかしたら、正世は逃げたのか。
「ま、微風さんおめでとう、ってのは言われ飽きてるでしょうからおいといて、わたしの『柳の枝の二十八匹目の小猫』、もう読んでくれたわよね?」
「は、はい、一応」
 祝いのあいさつをあっさり片付けて、自分の最新作に話題を向けさせる尊大な態度。これも計畫賞を二十数年前に受賞した一線級の女性作家、竹下いばらだからこそできる振る舞いだ。
「ねえ微風さん、功治が泉の前で放尿してみせるシーン、どう思ったかしら?」
「えっ、はい。確かえっと……功治って泉の五人目の男ですよね。ベッドで泉の体にああするのは犬と同じで、泉を自分のナワバリに囲いたい意思の表れだと思いました。ほら、功治も愛犬家ですし」
 立食パーティー中とは思えない質問を振るのは、ろろみへの嫌がらせに決まっている。竹下いばらは計畫賞出身ながら、雑誌ではろろみやアイドル作家に批判的な主張を繰り返しているのだから。
 ろろみにはそれも想定内だった。正世から「この先生はうるさい大先輩だから、しっかり勉強しておくんだよ」と予てから言われていて、渡されていた新刊本もきちんと読んでいたはずだ。
 けれども今のろろみは応対疲れが出てきたのか集中力が鈍っていて、読んだ内容も今一思い出せない。竹下の顔が歪んできた。
「あら、放尿はベッドじゃなくて床の上でしょう。それに功治は犬嫌いじゃなかったかしら」
「あっ、そうでしたね、愛犬家はえっと、三人目の明でしたっけ」
 竹下の表情が一層訝しげになった。また間違えたか。けれど正世はいない。S伸一郎は頼りにならない。これでは竹下の思うつぼだ。
 ところが、そこに別の少女の影が割り込んできたのである。
「お取り込み中失礼します。微風さん、一作前の『なおざりにおざなり』の話をしたかったんじゃないかしら?」
「…………」
 竹下とろろみがそろって沈黙するも、菜穂はろろみの側を向いて話を続けた。
「こっちの話だと、女といっしょのベッドの上で男が排泄行為しますよね。明っていう名前の愛犬家の男が」
「あっ、そうですそうです、思い出しました。えっと、各務菜穂さんでしたよね? はじめまして」
「ええ、はじめまして。微風さん、このたびは受賞おめでとうございます」
 十九歳のアイドル作家・各務菜穂(かがみ なほ)は痩せた体躯を折り曲げて、伸一郎よりも高いところにある頭を前へと垂れた。パンツルックの茶色いツーピースが彼女の実直さを象徴している。中学生で大御所作家主宰の文芸同人に入門し、十五歳のとき『近代リテラリ』誌でデビューしてもう四年。アイドル作家としては新鮮味が薄れている菜穂は、ルックスの点でも珠橋せれ菜らと比べて不利と囁かれるものの、文学的な実力ではアイドル作家界でトップレベルといわれている。次号の『別冊 文藝計畫』用に近日ろろみとの対談が決まっており、今日もこの後に菜穂のスピーチが予定されている。
「竹下さん、微風さんは『なおざりにおざなり』のほうが良かったって思っていて、そちらに話をもっていきたかったんですよ」
 菜穂の大胆な発言にろろみの顎が震えた。S伸一郎は固まっていた。竹下はただ冷静に菜穂の顔を見守っている。
「そして私も前作のほうが良い作品だったと思います。なぜなら、主人公・桜の興味対象の揺れ動きが五人の男を通じて象徴的に現れていて、読者が直感で理解できるから。そのおかげで終盤の桜の行動にも共感しやすいんですよ。最新作のほうは気負いすぎたのか、男たちの人物像が妙にひねくれているせいで、主人公の心の動きがつかみにくいと感じました」
「へえ……あまり大きい声じゃ言えないけど、実はわたしも最新作はちょっと不本意なのよ」
 竹下は目をまるくしながら口を開いた。菜穂の主張が認められたのだ。ろろみも菜穂の主張に同感だが、こういう堂々たる論評はまだまだろろみにはできまい。
「前作は気分よく書けたけど、今回は余計なプレッシャー抱えすぎててね。さすが各務さん、お見事なレビューだったわ」
「いえいえ、大先輩相手に失礼なことを申しました」
「微風さん、あなたにも不愉快な思いをさせてすまなかったわ。あらためて、計畫賞受賞おめでとうございます」
「恐れ入ります。ありがとうございます」
 菜穂の説得力と読解力、そして話せばわかる竹下の人格。ろろみはふたりの先輩作家を目の当たりにして、文壇の奥の深さを実感させられた。これはぜひ、学校の現代文の時間に報告しなくては。
 竹下と菜穂が立ち去って間もなく、新たな大物アイドル作家がろろみの前に現れた。記者と思しき十数名の取り巻きを従え、静々と厳かに歩み寄る様は、さすが『日本純文学大賞』の有力候補と称されるだけの風格を湛えている。二十歳ながら完成されたプロポーションの肉体を深いブルーのロングワンピースが包み、腰まで伸ばした黒髪はアップに纏められている。作家のみならずグラビアやドラマ女優までこなす才色兼備のお手本、御堂山芽夢(みどうやま めむ)。ろろみと息がかかり合うくらいに近寄ったこの女性が、低く消え入るような声で囁きかけてきた。
「微風さん……はじめまして。受賞おめでとう。スピーチも引き受けました」
「こちらこそはじめまして。ありがとうございます」
 つられて、ろろみの声のほうもか細くなる。
「次は、純文大賞受賞者どうしとして逢いたいわね……」
 芽夢の視線はろろみの瞳孔を貫いた。記者たちのフラッシュに照らし出された、有力アイドル作家ふたりの超接近どっきりシーン。芽夢の作品の一貫したテーマとなっている、女性どうしの純愛を彷彿とさせるシチュエーションでもある。けれどもろろみのほうは、先ほどと別の意味で顎が震えていた。
「ま、まま、まさか。あたしはまだまだ純文大賞なんて、御堂山さんと比べるなんて」
「いいえ、謙遜しなくていいの。遅かれ早かれ、そうなるはずだから」
 いささかも揺るぎのない声で返答した芽夢の目は、次に隣の青年へと焦点を合わせた。
「あなたが、小出伸一郎さんですね」
「あ、はいっ」
 S伸一郎の声が唐突に高くなった。緊張していたからか。いや、それだけではなさそうだ。
「逞しそうなお体ね……。スポーツでもおやりに?」
 芽夢の視線も口調も、ろろみに向けたものとは色が違っている。ろろみの中で、抱いたことのない新たな感情の芽が首をもたげつつあった。
「いえ、特にはやってないです。でも、御堂山さんにほめていただけて嬉しいです」
「やはり私は、男性には頼りがいを求めたいですから」
「あっ、そう言われるとうれしいです」
「では、これからもよろしく。失礼いたします」
「は、はい。よろしくお願いします」
 芽夢が背中を向けたところで、ろろみはS伸一郎の背後から囁いた。
「ちょっとシン。何デレっとしてるわけ?」
 芽夢としゃべっていたときのS伸一郎よりも低い声だった。
 ろろみの態度の異変に気付いたのか、立ち去りかけていた芽夢付き記者の数人がどよめき立った。「な、なんでもありませぇん」と、ろろみは瞬時に顔に営業スマイルを貼り付けた。
 しかしその笑みの下でも、戸惑いは押し殺しきれなかった。P伸一郎の目で見てもろろみの目で見ても、芽夢は確かに綺麗だ。しかし久美子などとは違い、伸一郎の好みのタイプではなかったはず。
 どうして芽夢がS伸一郎に目をかけるのか。
 どうしてS伸一郎が芽夢に好意をあらわすのか。
 さっき自分が抱いた新たな感情はなんだったのか。
 そして、どうして自分にそんな感情が芽生えたのか。
「はぁい☆ろろみちゃんおひさぁ、受賞おめでとさん♪ ってか、なぁに考え事してるのよお?」
 いつの間にか、ろろみの目の前にさらなるアイドル作家が現れていた。ろろみとは二度目ながら伸一郎≠ニは三度目の顔合わせになる十九歳の珠橋せれ菜(たまはし せれな)だ。菜穂や芽夢と比べれば小柄ながらろろみよりは大きい彼女は、今日はピンクのショートワンピースにラメ入りレースのストールを纏い、頭にはパールのカチューシャを乗せている。胸元に雑誌で見たペンダントがぶら下がり、両耳に小さなイヤリングが光るさまは、美少女アイドルタレントそのまま。御堂山芽夢とは対照的に華やかなスタイルは、これまた『日本純文学大賞』の有力候補に相応しい威光を放っており、記者ばかりでなくミーハーな男性作家やタレントまでもが、その光に誘導される虫となっていた。
「あっ珠橋さん、ありがとうございます。『軟派動物学如論』読みましたよ。主人公の巧味のツンデレぶりと、たで島の不思議君キャラクターとの取り合わせが絶妙で良かったです」
「マジぃ? ならあたしメッチャ嬉しい。ろろみちゃんにほめてもらえるなんてサイコーじゃん、どうもありがとねん。あたし、これでもう絶対純文大賞とった気なんだからぁ」
「あははは、珠橋さんすごいハイテンションですね。あたしのことろろみちゃんって呼んでるし」
「わかったぁ? やっぱそのほうが気軽だもん。てか、ろろみちゃんだってノリいいじゃん、マジサイコー!」
 P伸一郎としてせれ菜と逢ったとき考えたように、ろろみは積極的に彼女と応対していた。ただ気になるのは、せれ菜のハイテンションの裏に何か後ろめたさのようなものが見え隠れすること。だがそれも、元アイドル・大空くるみ≠ニいう過去を封じた彼女にとっては道理に違いあるまい。
「でも珠橋さん、スピーチのほうはもう少し落ち着いてくださいよ」
「はあい、わかってますよん。あと、いろいろあってね、カオリコにもスピーチ一緒にやってもらうことにしたから」
「そういうことですんでよろしく。お久しぶりです微風さん、私からも受賞おめでとう」
 今回はせれ菜から正しく名前を呼ばれた、グラビアアイドル兼作家で十八歳の中島香子(なかじま かおりこ)が横から顔を出した。胸元から谷間の覗くワンピースは相変わらずだが、今日の柄はパッチワーク調で賑やかそうである。けれども取り巻きの数では芽夢やせれ菜に負けている。本業がタレントだというのに。
「あーあ、私も新人文学賞ほしいなー」
「なら完結した作品書けば? でもカオリコには無理か、『水平ハナクソ』のストーリーだって進行ノロノロ大渋滞だしぃ」
「鼻に翼で『水平ビヨク』なの! なんでこっちは間違えるの、飲食の場で失礼でしょう。ごめんね微風さん」
「ごめぇん、ろろみちゃあん」
 相変わらずの仲良い喧嘩ぶり。けれども今日は、ふたりともろろみに手を出したりはしない。こういう場だから礼儀を弁えているのだろうか。
 そしてろろみには別の気がかりがあった。せれ菜が伸一郎には声をかけていないことだ。昨日のパーラーではあれだけ打ち解けていたのだが。S伸一郎の側からも、殊更せれ菜に興味を示してはいない。先ほどの芽夢のときとは、あまりに対照的に。
 この間の優一郎の指摘と、関係があるにちがいない。

 パーティーが佳境に入り、料理を取る者も疎らとなった頃合い。三人+一人のアイドル作家が壇の脇に並ぶと、司会者がお祝いのスピーチタイムを告げた。
 まず壇に上がったのは各務菜穂。自分の新人賞初受賞のときの体験談を交えながら、ろろみに自信を持つようにと力強く呼びかけた。
 続いて御堂山芽夢がマイクを握る。小声ながらも落ち着いた語り口で、ろろみの明るい前途を願う言葉を訥々と語った。
 正世、原島、S伸一郎に付き添われながら、ろろみはふたりのスピーチを深くかみ締めていた。審査委員の作家先生方の祝辞も、それはそれで味のあるものだったけれど、アイドル作家どうしの言葉のほうがなぜかストレートに自分の心に染み込んでくる。いつの間に、自分の中にここまで十六の少女の心が育まれていたのだろう。それはろろみにとって、疑問というよりは感慨だった。
 最後に、珠橋せれ菜と中島香子がふたり揃って壇に上がった。
 せれ菜と香子もきっと、心に染み入るスピーチをしてくれるはずだ。ろろみはそんな期待に胸を躍らせながら、壇上からの声に耳を澄ます。
 しかし、ふたりの言葉は黒光りする刃だった。ろろみの期待を深々と切り裂き、心までをも突き通した。
「微風ろろみさん、計畫賞受賞おめでとうございます……って言いたいところですけど、実はですね、彼女にはおめでたくない疑惑があるんです」


§

「そもそも今年の計畫賞の経緯は不審だとは思いません? 発表号の雑誌が刷り上るまで、私たち同業者にも受賞者がわからないなんて。文学新人賞の世界では、大抵は発売一ヶ月くらい前に受賞者は発表されるはずですよね。思い出してください、前代未聞の受賞者尋ね人広告。あれは単なるプロモーション用の演出でしょうか。やらせ疑惑もありましたけど、もっと重大な疑問点があって然るべきではないでしょうか。記憶にある方も多いかと存じますが、当時の業界の噂では、今年の計畫賞は応募作品のレベルが低くて、最終銓衡にまわせる作品すら見つからないという話。けれども『文藝計畫』さんにもお家の事情があって、受賞者を出さないわけにはいかなかったのです」
 がやつく動揺の声が霧のように会場を埋め尽くす。その霧から浮かび上がるように、場に不相応すぎる単語が香子の口から羅列されていく。
 ろろみは、全身から血の気が引いていくのを別の意識で認知していた。ろろみの体躯を背後で支えるS伸一郎にも言葉はない。正世は両手を振り回しながらうろたえるばかり。
「な、何言ってるんだ!?」
 いつもはおとなしめな原島が激しい怒号をあげる。だがそれはまだ余裕のある証拠だ。
 壇上の語り手はせれ菜に交替した。
「そこで『文藝計畫』編集部は考えたのよねん。受賞にふさわしい作品と作家を別々に用意すればいいじゃんって。まず作家は編集部が独自に発掘した美少女、微風ろろみちゃんで決定。肝心な作品は、それらしい未発表作をどこかから拾ってきて、作者承諾の上で下敷きにしちゃえばオッケー。――そしてあたしたちはついに、ろろみちゃんの『いんたあふぇいす』の下敷きになった作品を発見しちゃったんだからぁ」
「やめさせろ! こんな妄言」
 原島は叫びながら壇上に向かった。しかし、菜穂と芽夢が彼の行く手を阻んだ。
「何をする! あんたらもグルか?」
「いいえ、落ち着いてください原島さん」
 原島の胴体にタックルをかけながら、菜穂ははっきりとした声で彼を諭した。
「私たちだって微風さんの潔白を願っています。けれども今は珠橋さんたちの主張に耳を傾けるところからはじめなくては。会場のみなさんも話の続きを聞きたいと思っているはずですよ。反論はそれからです」
「会場のみなさんが裁判官……いえ、文学賞らしくいうならば審査委員なのです。微風さんの賞が本物なのか、あの発言が本物なのか……冷静に考えてみましょう」
 芽夢も原島の両手を必死でつかみつつ静かに述べた。
 確かに、いつしか会場のがやつきはおさまりかけており、司会者も沈黙を保っている。両手を固く組んで目を閉じる桃月壬蘭、口を結んで壇上を凝視する豊川庸、手の平を顔に当てたまま天を仰ぐ田原ヤスロウ。ここで下手にせれ菜たちを止めようとしたら、逆にろろみサイドの心証が悪くなるかもしれない。原島はおとなしく拳を下げ、代わりに声をあげた。
「珠橋さん、証拠を出せ。下敷きになったという作品を見せてみろよ」
「はいはい原島副編さん。ちゃんと用意してますからね。秋川さあん、出番よん」
 せれ菜に呼び出されて新たに壇上にのぼったのは、三十くらいの小太りな男性だ。
「はじめまして、秋川修司っていいます。僕は今年三月まで民斗書院の『ドラケミスト・ノベルス』で編集バイトをしてました。で、微風さんの『いんたあふぇいす』にそっくりな作品を目にしちゃいましてね。こちらがその原稿です」
 秋川はプリントアウトした一枚のワープロ原稿を左手にかざす。遠くからは文字がわからないけれど。
「会場のみなさんにもわかるように、大きくしたものをお見せしますね。参考までに、微風さんの作品が載った『文藝計畫』の誌面のほうも」
 いつの間にか壇上に準備されていた会議用のスクリーンに、ワープロ原稿一枚と雑誌の見開き写真が並べて映し出された。かたや小池周太郎・作『境界線――インターフェイス』、かたや微風ろろみ・作『いんたあふぇいす』。共に冒頭部だ。ろろみの『いんたあふぇいす』のほうにかなりの加筆がみられるものの、加筆された部分を取り除けばほぼ同じ文になる。対比関係を示すためにカラーサインペンで引かれた傍線が、それを物語っていた。
「ほら、こんなにもそっくりですよね。タイトルも似てますけど、勉強好きな男子小学生がある日の朝、いつものように書店に足を運ぶって展開は」
 香子が言うと、会場のざわめきのボリュームがまた少し上がる。
「じゃあ、この小池周太郎ってのはだれなんだよ。うちの編集部関係者にそんな名前いないぞ」
「僕の真っ正面にいます。……小出伸一郎さん、あなたです。お久しぶり。あなたのほうは僕の顔なんて覚えてはいないでしょうけど」
「小池さん、いえ小出さん。昨日はフルーツパーラーでお世話になりました。その節は、貴重な話をどうもありがとーございます」
 せれ菜にハメられた。S伸一郎の顔は怯えの色を帯び、次いでそれは憤りへと変わる。一方で、言葉が発せるくらいにはショックから回復していた。
「ち、違う! 俺、あんな男に覚えはないぞ! 珠橋さんにも、心当たりある話なんかしていない!」
 P伸一郎の記憶が完全には受け継がれないS伸一郎の、これが率直な返答である。
「ろろみ、小出くん、これはどういうことなの!?」
 これまた正気を取り戻した正世が半泣きで叫ぶ。
「俺にもわかりません。正世さん、今はとにかく落ち着いてください」
 まだ無言のろろみを小脇で抱えながら、S伸一郎は壇上に呼びかけた。
「俺が小出伸一郎だ。でも、小池周太郎じゃない! 俺がそんな話を珠橋さんにしたっていうんなら、証拠を見せてくれよ。なければ誹謗中傷だ!」
「証拠ならありますよぉ。ここに録音されてますから、聞かせたげちゃいますね」
 せれ菜は鼻歌交じりにICレコーダーを手に取り上げ、次いで別のコードをそれに接続した。

 香子に「疑惑」と言われたそのときから、自分の体が自分でなくなった。自分の周囲に何やら異変が起こっていることはわかるのだけれど、ワイヤロープで縛り付けられたように動けない。
 視界は真っ赤に見えたり深緑色になったり、激しくゆがんだりぼやけたり。まるで幽体離脱のように、S伸一郎にもたれかかる自分の姿が見えたりもした。
 聴覚も消え失せていた。蝸牛管が耳から引きずり出されて木槌で叩かれているような、大きくうねる音が聞こえるばかり。けれども一言だけ、はっきりとした言葉が蝸牛管に飛び込んできた。
『本名を少しもじって、小池周太郎っての使ってた。小池は小さいお池で、マワリの周にモモタロウの太郎』
 P伸一郎の声で自分が言ったフレーズが、ICレコーダーか何かで再生されている。
 そう気づいた途端、正気に返った。目にも耳にも口にも手足にも自由が戻ってきた。次の瞬間、自分の置かれている状況がつぶさに把握できた。
 微風ろろみに、終わりの時が来たんだと。

「ふわああぁぁっっ!」
 ろろみは悲鳴を発しながらS伸一郎を突き飛ばし、広間の出口に向けて駆け出した。
 こんな叫び声、はじめてろろみになってS伸一郎からタックルを食らったとき以来だ。本能から出た自分の悲鳴を耳で聞きながら、ろろみはそう思った。
 そのS伸一郎が反射的にろろみの後を追う。瞬時のことで、正世にもだれにも制止できない。主役逃亡という出来事に呆気にとられた会場がどよめき始める前に、原島のせれ菜への反論が広間に響いた。
「何を取り出したかと思ったらICレコーダーかよ。証拠能力なんてあるものか。だれか他人にその言葉をしゃべらせて、小出くんっぽく音声を加工すればいいんだから。音声加工してないんなら、してないって証拠を出せよ」
「へ? そ、それは……」
「珠橋さんは黙ってて。原島さんね、微風さんと小出さんが逃げたことが何よりの情況証拠じゃないの」
 しどろもどろするせれ菜に代わり香子が答えると、会場からちらほらと同意の声があがる。次の手が打てず悩む原島、しゃがみこんで頭を抱える正世。欠席裁判とはかくも不利なものだ。
 ところがそのとき、広間の扉の開く音。ろろみと伸一郎が戻ってきたのか。いや違う、黒づくめのトゲをまとった小柄な人物が、素早い動きで壇上まで駆け上がっていった。せれ菜たちにも制止できないまま、その人物は空いたマイクを取りスピーチを始めた。
「エート、こんばんは。遅刻してすいません。微風ろろみチャンの計畫賞受賞のお祝いをしに来たら、なんかビミョーな状況なんで参っちゃってるんですけど、少しボクに話す時間をいただけないでしょうか。ボクはろろみチャンと同じ学校でしてね、ボクが学校と文壇で全然別人の振る舞いしてるのに、ろろみチャンのほうは学校でも変わらぬマイペースなんで、彼女は立派だなって思ってます。そうそう、名乗りが遅れましたけど、ボク、絵崎たるとクンです」
 トゲに見えるのは無数のフリルとリボンで、全身黒ずくめと思いきや胸元に真紅のチョーカーが浮き上がる。ゴスロリファッションがトレードマークなこのアイドル作家は、ろろみの一年前の計畫賞でデビューし、現在は主に「民斗書院」のビジュアル文芸誌『ふみひめ』で書いている。一人称は「ボク」だがれっきとした十七歳の少女であり、「水明華高校三年二組・鈴木博子」という別の姿も持つ。彼女は正世から出席を拒否されていたはずなのに、どうしてパーティーに乱入できたのだろう。
「絵崎さん、私たち話の途中なんですけど。あんた招待されてないんでしょ、出てってもらえます?」
 香子がたるとの肩に手をかけようとする。しかし、菜穂がその手をつかんで制止した。
「中島さん、絵崎さんに話させてあげなさいよ。新しい人のスピーチで、会場も盛り上がっているんだから」
「そう。私はどちらの味方でもなくて、他人の話が妨害されるのが嫌いなだけ」
 芽夢もせれ菜と秋川の前に立ち、動きを牽制していた。
 たるとを排除したいはずのもうひとりの人物、正世はといえば、ろろみの疑惑と逃走のショックで動く気力もない。そんな正世にさえも、たるとの乱入で会場の空気が変わったことはわかった。「榊さん太っ腹ですね。絵崎たるとと復縁ですか」「こんな人道的な編集長が不正行為なんてしないよな」。会場のあちこちから漏れる声。心証は正世に、そしてろろみに有利に傾き始めた。
 そしてまたもや広間の扉が開いた。入ってきたのは伸一郎ひとり。先ほどよりも、心持ち体躯が小さく、しかししなやかに見える。
「どうした小出くん、微風先生はどこなんだ」
「原島さんすみません。ろろみちゃんは安全なところに隠れています。保護者の俺が言うんですから安心して下さい」
 P伸一郎はさらりと答えて、壇のほうへと足を向けた。

 ろろみがいつもの習慣でホテルの多目的トイレに駆け込むと、続いてS伸一郎も飛び込んだ。
「終わりだ、ろろみの作家生命はここまでなんだ! 今まで嘘ついてたツケがまわってきたんだ!」
 ろろみは泣き喚きながらトイレの壁や手すりに何度も頭を叩きつけた。S伸一郎が力で押さえ込むと、ろろみの悲鳴はさらに高くなる。
「だったらシン、リンクアップさせてくれ! このままホテルから逃げて、二度とスプリットなんかしない!」
「嫌だ」
 S伸一郎にしては珍しい、短く冷徹な口調。だがそれが不思議とろろみの心を鎮めていった。
「ろろみちゃん、受賞のスピーチじゃカッコいいこと言ってたよな。『筋を通しながら人生を精進したい』なんてさ。でもな、実際の人生じゃそんなことはできやしない。俺たちの場合は特にそうだよな」
「確かに……筋を通しながら今の危機を乗り越える方法もあることにはあるな。だけどそれって、スプリットの秘密を明かすことだよ。『自分はろろみであり伸一郎でもある。自分の作品を使ったんだから問題ない。他誌に持ち込んで没になった作品は未発表と同じだから、その意味でも問題はない』って主張すれば、どこから見ても嘘がなくて筋が通ってる。だけど」
「だけど優一郎や実験室の人々を裏切って、さらには全世界を混乱に陥れる、って言いたいんだよな」
「ああ。そんな大それたこと、オレにはできやしない」
「俺にも無理だな。……なあろろみちゃん、ろろみちゃんと俺とスプリット前のシンって、筋の通らない不条理があってこそ存在するんじゃないか」
「オレもそう思う。そもそもの発端は大型スプリッターの動作異常なんだし。オレたち、微妙で不安定な不条理の上に立っていて、だからこそ輝くこともできるんだよな」
「この不条理を大前提にして、ろろみちゃんならではの筋を通すしかないんだよ」
 自分より軽薄そうなあいつがここまで説得力のあることを言うなんて、驚いた。けれども、それ以上に嬉しかった。
「わかった……シン、ありがとう。今度はあたしがシンになって、あたしたちの潔白を証明するね」
 洗面台で涙をきれいに落としたろろみの顔を、S伸一郎は前屈みしながらハンカチで丁寧に拭う。同じ目の高さに立つもうひとりの自分に、ろろみは優しく穏やかな視線を向けた。嫌悪感は、涙と一緒に洗い流していた。
 お揃いの銀色に光る棒を、ふたりはそれぞれ手に持った。

 そんな出来事をリフレインさせながら、P伸一郎はたるとからマイクを受け取った。
「珠橋さん、中島さん、秋川さん、確かに小池周太郎は俺です。『ドラケミスト・ノベルス』に持ち込んだ作品は、間違いなく俺が書いたものです。でも、ろろみちゃんは断じて、この作品を下敷きにはしていません。そうだ珠橋さん、昨日は本当にお世話になりました」
 最後、P伸一郎はせれ菜にしっかりと視線を向けた。
「ちょっと小出くん、ICレコーダーに証拠能力はないのにどうして自分を不利に?」
 呻く原島。しかしそれ以上に、壇上のせれ菜の態度に思いがけない異変があった。
「えっ、珠橋さんまさか……泣いてるの? なぜよ」
 香子が声をかけると、せれ菜はくずおれて顔を両手で覆った。
「……小出さん……小出さんが戻ってくれた……」
「なに? 逃げ出した小出さんが戻ってくるとどうして珠橋さんが泣かなきゃいけないわけ? 私にはわからないな」
 香子はせれ菜に背を向け、キッと伸一郎をにらみつける。
「あのねえ小出さん、下敷きにしてないんなら、ふたつの作品はどうして似てるわけ?」
「偶然ですよ。不条理な偶然としかいえません。逆にこちらから質問しますけど、スクリーンに映っている小池周太郎の持ち込み原稿をよく見てください。編集部の受理印が押されてないじゃありませんか。コピーにしても赤インクの印なら写りますよ。ねえ秋川さん、俺も受理印押されたのをはっきり見たんですけど」
 本当は見てはいないけれど、伸一郎はハッタリをかましてみる。すると秋川の手足が頻りに細かく動き始めた。明らかに落ち着きを失っている。
「スクリーンの原稿に証拠能力がない根拠はもうひとつあります。計畫賞の応募規定ではですね、ワープロ原稿は二十字×二十行の原稿用紙モードを使わないといけないんです。だから、ろろみちゃんの原稿もそうなっていたはずです」
 原島と、落ち着きを取り戻しかけた正世が肯く。
「けれどもこういう応募規定の雑誌は実は珍しいんです。俺が調べた限り、他の文芸誌にしてもライトノベル雑誌にしても、ワープロ原稿の応募規定は三十字×四十行のところが多いです。『ドラケミスト・ノベルス』もそうでしたよね、秋川さん。実は俺、恥ずかしながら『ドラケミスト・ノベルス』に持ち込んだときにその規定を知らなくて、四十字×四十行の体裁で持っていったんですよ。それも没にされた原因のひとつだと思います。でもスクリーンに映っている原稿は三十字×四十行ですよ。俺の原稿じゃありません」
 伸一郎は、本当のところは原稿用紙モードで持ち込んだのだが、そう言うと「計畫賞と同じじゃないか」と面倒なツッコミを受けそうなので方便を使った。参考までに、持ち込みのときの記憶があるのはP伸一郎=ろろみだけでS伸一郎にはない。だからさっきのS伸一郎はスクリーンの原稿を見ても反論ができなかったのである。
 さらに話は逸れるが、『ドラケミスト・ノベルス』の編集者はさんざん伸一郎の原稿を酷評しながらも、体裁違反であることについては一言も指摘してくれなかった。あのときそのことを指摘されていれば、作品自体とは別のところにも酷評の理由があるとわかったのだから、伸一郎はスプリット実験に参加するほどには落胆しなかったろう。皮肉なものだが、かの編集者こそ微風ろろみを生み出した裏の功績者なのだ。
「そ、そんな理屈、成り立たないでしょ。スクリーンの原稿は、小出さんの原稿のデータを『ドラケミスト・ノベルス』編集部がプリントアウトし直したんでしょ。受け取り印にしたって、そう考えればなくたって不思議はないわよね」
 これまた軽く動揺しながらも、香子が懸命に反論を試みる。
「では秋川さんにお尋ねします。編集部で、俺の原稿をプリントアウトしている現場を目撃しましたか。俺のでなくてもいいです。体裁違反で没になった原稿のプリントアウト現場を見たことありますか」
「見、見たような見ないような……ああもう、思い出せません!」
 今の彼の動揺ぶりでは、正確に記憶をたどることなど到底不可能だ。
「落ち着いて、秋川さん。もうひとつの資料があるじゃないの」
「あっ、はい」
 香子に指示されて秋川が壇の後ろで何やら操作をすると、スクリーンに別の書類が映し出された。縦三列の表で、いちばん左の列には作者とおぼしき人名が、真ん中の列には作品名とおぼしき語句が上下に羅列されている。いちばん右の列には手書きで、編集者による作品へのコメントが記されていた。どうやら、持ち込み投稿者のリストらしい。
「小出さん、上から五番目の欄を見てください。作者欄に『小池周太郎』、タイトル欄に『境界線――インターフェイス』ってあるでしょう。コメントは『男が変身して女に性転換。ありがちでつまらない』ですよ。さっきの原稿の体裁はともかく、あなたの作品は確かに編集部に受理されていたんです」
「日付は? この表、原稿を受理した日付がないじゃありませんか。さっきの原稿もそうですけど。計畫賞の最終銓衡に間に合わすためには二月のうちにはこの原稿がろろみちゃんのところまでまわってなきゃいけません。受理したのは二月ですか? それとも三月?」
「うっ……それ言われると私も記憶が……三月に辞める直前だったかもしれないし、もっと前だったかも……」
 脂汗まみれになった秋川の顔に、焦りの色がありありと浮かんでいた。
「ちょっと秋川さん、しっかり!」
「そもそもですよ、こんな表じゃなくて、俺が書いたということになっている原稿の続きを出してもらえます? 原稿が全部読めれば、白黒がきっちりつきますよ。原稿の続き、あるんですか、ないんですか」
 伸一郎にとってもここは賭けだった。今までの秋川の態度からして勝算は十分あると読んだけれど、万が一全文の原稿が出てきたらろろみはほぼ黒になる。
 伸一郎の、そして会場全体の注目する前で、秋川の口がむずむずと動いた。
「……あ……ありま……せん。……原稿はあれしか持ってないんです」
「そりゃないでしょ!」
 香子がついにキレる。せれ菜はまだ泣きべそ状態。そして会場全体が溜め息に満たされた。
「中島さんも珠橋さんも、よくまあこれだけの証拠でこんな人を信用できましたね」
 一歩強気に出た伸一郎に、香子はなおも食い下がる。
「そうだ秋川さん、あちらの編集部に問い合わせてみましょう。全文の原稿残ってるかもしれません」
「それが……私が辞めると同時に編集部の部屋が引っ越して、没原稿がらみの資料はみんな捨てちゃいましてね。私が手に入れた資料も、そのとき出たゴミから漁ったものなんです」
「でも、秋川さん以外にも小出さんを見た編集者はいるでしょう。その方々にでも」
「『ふみひめ』と同じ民斗書院でしょ? 無駄だと思いますよ」
 割り込んできた声に伸一郎が振り向くと、そこには絵崎たると(えさき たると)が立っていた。
「今まで黙ってましたけど、ボクが書いてる『ふみひめ』の編集長さん、『ドラケミスト・ノベルス』の編集長さんと仲いいんです。だから、ボクが黙っててって頼めば秋川さんには情報いかなくなりますよ。それに『ふみひめ』だってろろみチャンにグラビア依頼してますから、出版社としても秋川さんよりろろみチャンの味方をするはずです」
「あのねえ絵崎さん、萎えさせるようなこと言わないでよ。ね、秋川さんファイト!」
 香子のエールにもかかわらず秋川の気力は上がらない。
「……ま、変身性転換なんてありがちな話ですよね。似たのは偶然でしょう」
 乾いた声で言い残して秋川は壇上から去った。結局のところ、彼も先日のろろみ皮むき犯やコンビニ篭城強盗犯と同様、先々のことを考えない行き当たりばったりな人種だったのかもしれない。
 そして香子にとどめを刺したのは、やっと涙の止まったせれ菜の一言だった。
「中島さん、もういいよ。あたしたちの負けだもの」
「ちょっと珠橋さんまで!」
「ずっと話聞いてたけど、やっぱあたし、小出さんの言うことのほうが信用できるな。あたしたち、ろろみちゃんを追い落としたいあまりに、情報を早呑み込みしちゃったのよね」
 せれ菜の顔から邪気は消え失せていた。ペンダントもイヤリングも屈託のない素直な光を放っていた。出席者という水面は、ただ静かにその光を反射するばかりだった。
「ごめんなさい、小出さん。恩を仇で返すような真似をして、本当に申し訳ありませんでした。会場のみなさんも、お騒がせして申し訳ありませんでした。……ほら、中島さんも謝る」
「……小出さん、みなさん、本当にすみませんでした」
 香子は肩を深く落としたまま項垂れた。会場はなおも静寂が支配する。せれ菜に視線を合わせながら思いを巡らせていた伸一郎が、ゆっくりと、しかし決然と口を開いた。
「俺、ろろみちゃんを呼んでこないと」

 伸一郎は広間を抜けて間もなく、もうひとりの自分を連れて戻ってきた。一度目にろろみが入場したとき以上の、拍手の洪水に出迎えられながら。
 ろろみの笑顔にはこの場で初めて見せた安堵感が漂っており、並んで歩く伸一郎は体躯のがっしりした逞しい男性に見えた。
 ろろみが正世と原島に逃亡の件で謝ると、正世たちからは「ろろみを信じていた」「こちらこそ心配かけて悪かった」と温かい返答。正世たちがここまでろろみの不在に気を揉んだのは、ろろみ呼び出し広告作戦≠フ一日以来のことだろう。ただ違うのは、あのときが攻めの一手の大勝負だったのに対して今回は防戦一方のより厳しい局面であること。ともかく、『文藝計畫』編集部は計畫賞にまつわる身から出た錆びをひとつ落とすことに成功した。伸一郎=ろろみにとってみれば、嘘をつき通すためにさらなる嘘を重ねただけなのだが、それは今は考えないでおこう。
 せれ菜と香子はろろみに謝罪しようとした。けれども正世はふたりをろろみに近づかせなかった。「最後にろろみが壇上に立つから、謝罪したいならそのときになさい」。正世の凛とした、それでいて慈しみを含んだ言葉に、ふたりは静かに肯いた。
 絵崎たるとも正世と原島にあいさつを交わし、乱入の経緯を説明した。たるとは学校でろろみに約束した通り、授賞式の間はホテルの上のフロアのカフェで時間をつぶしており、頃合いを見て下に降りてみたところで、ろろみと伸一郎が目の前を駆けていくのを目撃したという。大広間からただならぬ雰囲気を感じたたるとは、片付け状態に入っていた受付の目を盗み、するすると中に入ってしまったのである。「ありがとう、絵崎先生」。個人的には招待に反対ではなかった原島が、たるとにねぎらいの言葉をかけた。
 お開きの挨拶のために、ろろみは壇へと上がっていった。今度はS伸一郎も付き添っていた。その後に菜穂と芽夢が続き、せれ菜と香子も背中をまるくしながら上がっていった。そして、たるとも壇上に姿を見せた。
「よし。これでアイドル作家のメインキャストがそろったな。でしょう、編集長」
 原島がガッツポーズを正世に向けると、正世はゆっくりと首を縦に振った。
「みなさま、あらためてこんばんは、微風ろろみです。今日はあたしのことでみなさまをお騒がせいたしまして、多大なるご心配とご迷惑もおかけしました。本当に申し訳ありませんでした。あたしは、不条理を不条理のまま受け入れようと考えて『いんたあふぇいす』を書きました。けれども実生活では相変わらず、筋を通すことに意固地になっていたんです。さっきあたしの受賞に疑いがかけられたとき、一度はこの場から逃げ出してしまったのも、筋を通すことばかり考えて頭を柔らかくできなかったからだと思います。でも、付き添いの小出さんに説得されて、あたしは不条理の大切さを知りました」
 表彰状を受け取った直後のスピーチとは、そしてマスメディアでよく見せたろろみ節≠ニは、様子がガラリと変わっていた。ある意味では傲慢とも取れる自信満々の態度は影を潜め、語り口は腰の低い謙虚なものとなっていた。
「この作品を書いたのは、あたしですけれど、あたしが作家としてここにいることができるのは、あたしだけの力じゃないんだなって、思い知らされました。ここに参列されていらっしゃるみなさま方や、いらっしゃらないけれども普段あたしを見てくださっている方々のおかげだということを、筋が通るとか通らないとかいったことを超えた、あたたかいご支援、ご理解、ご協力があってこそなのだということを、今日は本当に痛感させられました。特に、あたしの弁護をしてくれた小出さんには感謝してもし切れません。まだまだ半人前のあたしです。これからもみなさまをお騒がせするかもしれません。けれどもこの賞と今日の出来事は……間違いなくあたしにとって大切な栄養になったと思います。……あたしはこれからも書くことを通じて……もっと、深みのある人間として成長できたらと、思っています。これからも、ご支援をよろしく……お願いいたします。あたし……微風ろろみをやっていて……心の底からよかったって思ってます……。今日は、本当に……ありがとうございます」
 最後はマイクを持ったまま、涙が止まらなくなっていた。「ろろみちゃんがんばって!」「微風先輩あと一息!」客席からはそんな声援も飛んでいた。「気丈で凛々しい」という、これまで培われてきたろろみ像とはまるで正反対の姿。ろろみとしては、今の自分の素っ裸の心境を曝け出しただけなのだけど。
 指で拭っても曇るばかりのろろみの視界に、不意にハンカチが差し出された。S伸一郎? いや、せれ菜の手だった。香子も隣に見えた。
 なおも続くろろみへの拍手にブーイングが混じる。ろろみを苦しめた張本人たちが図々しい、という感情はごもっとも。けれども、ろろみはせれ菜の手をやさしく受け止める。そして固く仲直りの握手を交わした。続いて香子とも。ブーイングは収まり、一層大きな拍手へと変わった。
 S伸一郎が壇の下から赤と白が混じった飲み物を受け取り、それをろろみに手渡した。特製ろろみジュースである。
「それでは、本日の宴はこれにて……っと言いたいところですけど、あたしほとんど飲んでませんもので、最後に一杯だけ失礼させていただきます。ヨーグルトドリンクとトマトジュースを混ぜたものでして、これがあるとあたし元気が出るんですよ」
 もう泣き顔ではない。ろろみはグラスを手にとり一気に呷った。酸っぱくて、甘くて、苦くもあるけど、これが今の微妙な自分そのものなんだ、と感じながら。
 ろろみの隣には、寄り添うようにせれ菜が立っていた。S伸一郎の両隣にはたるとと芽夢が寄り添い、菜穂はろろみと芽夢の少し背後に両者を見守るように陣取る。香子は居場所無さげにせれ菜の斜め後ろに立っていた。
「ああおいしかった。……それでは今度こそ、本日の宴をお開きにさせていただきます。みなさま、本日は本当におつかれさまでした!」
 ろろみが弾ける女子高生ボイスで宣言すると、今日一番の拍手と喝采が会場を埋め尽くした。


第6話『すべてが微妙になる』・完。

第7話『微妙なる助走』へ続く……


(作者からのメッセージ)
こんにちは、こうけいです。
『微妙存在ろろみ』も、やっと第6話の完結までこぎつけることができました。
中編から半月以上もインターバルを開けてしまい、本当にお待たせしました。
結局、後編だけで100キロバイト以上の大作になりました。三分割ではなく四分割で投稿していたらとか、第6話全体(200キロバイト弱)を一度に投稿していたらとか、完成した後だからこそ反省したいことはいろいろありますがそれはおいときましょう。
ここまで読んでくださった方には本当に感謝いたします。

なお、某所でお読みになってくださった方はお気づきかもしれませんが、冒頭部を読みやすくするために、某所では作中作の紹介部分の直後にあった段落を、こちらでは直前に移動させていただきました。

授賞式ということで、今まで名前だけは出ていたけれど顔は直接出なかった、各務菜穂や御堂山芽夢といったアイドル作家たちが本格的に登場しました。作者のわたしとしては、これまで説明しきれなかった『ろろみ』の作品世界における「アイドル文壇」をようやく一通り説明することができて、一段落の気分です。
ろろみは作家として最初の晴れ舞台をなんとか成功させ、パーティーの参列者たちを審査委員として真の“計畫賞”を受けることができましたね。名実ともにアイドル作家としてのポジションを確立したろろみですけれど、次回の第7話では、ろろみとアイドル作家たちとの絡みが一層多くなることでしょう。

第6話の前編ではS伸一郎がろろみを救いました。中編ではP伸一郎の決断をきっかけに、ろろみがS伸一郎を救いました。そして後編では、S伸一郎の多目的トイレでの助言を受けてP伸一郎がろろみを救いました。
互いに異なる立場から助け合う、ろろみ・P伸一郎・S伸一郎という“三人の自分”の関係は本当に微妙です。
まず、ろろみとP伸一郎との関係が複雑になってきました。ろろみの「中の人」がP伸一郎なのか、P伸一郎の「中の人」がろろみなのか。
それに加えて第6話後編では、優一郎の意味深なセリフにもありましたけど、P伸一郎とS伸一郎の相違点が次第に浮き彫りにされてきましたね。アイドル作家たちに(意外にも?)モテる伸一郎ですが、P伸一郎とS伸一郎ではモテる相手が違う様子です。モテ方の違いに関する伏線も、第7話につながってくるかもしれません。どうかお楽しみに。

それではまたいずれ、第7話でお逢いしましょう。



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