「わたくし……彼にひとめ惚れしたんです。伸一郎さんをください、お願いします」 「いっ……いきなり、何を!? そ、そんな」 「失礼いたしました。今すぐ、っていうのは冗談です。彼のご都合もあるんでしょうから、今はガマンしておきましょう」 「びっくりさせないでくださいよ、博子先輩」 「でも、微風さんも伸一郎さんのことがお気になるのですよね」 「うーん、そういうのとは違って……ただの身内っていうのかな」 「わかりました。実はほかにも、あなたにお頼みしたいことがいくつかありましてね、お呼びいたしました」 「なぜあたしが頼まれ事を?」 「見返り無しにとは言いません。あなたの活動を支援してあげますわ」 「支援?」 「私は私なりのやり方で微風さんに協力しますわ」 |
それは、ろろみが水明華高校に編入される前日のことだった。 ろろみは正世に付き添われて、デパートであっさりと制服を受け取った。紙箱を手に提げたろろみに、正世はもう少し近所を歩いてみようと言う。どうでもいいことだが、正世のほうも同じデパートの紙袋を提げており、そちらの中身は地下に寄って買ったざくろジュースふたビン。 「明日って別冊の校了でしたよね? 正世さんは早く編集部に帰ったほうが」 「いいのいいの。先生方、夜にならないと校正戻してくれないから。それより今は息抜きよ。近くのおもしろいところ、連れてってあげる」 歩いて十数分、ふたりはゴスロリ服ショップの前にさしかかった。 「ここ、絵崎たるとの行き着けの店よ。覚えとくといいかもね」 正世はそうささやく。十七歳のアイドル作家・絵崎たるとは、全身を黒基調で覆ったゴスロリファッションでも注目されているのだ。 けれども正世はそこでは足を止めない。 「本当に見せてあげたいのは隣りの店よ。ごらん」 「あれ張り紙だ、……『たるとタルト』?」 速足で正世を追い越したろろみは、その店の扉を前にして素っ頓狂な声をあげた。 そこは喫茶兼洋菓子店。お持ち帰りも、コーヒーカップ片手に店内お召し上がりもできる、自家製のケーキやタルトのお店である。 「そう。さっきの絵崎たるとの名前がついたお菓子なのよ。こないだ見せた週刊誌にも書いてあったでしょ」 言われてみれば、どの雑誌かは忘れたが確かにそんな記事を見た記憶がある。絵崎たるとはお菓子のテレビCMにも出ているくらいの洋菓子好きで、特にタルトが大好物だと聞く。ペンネームもそこからとったにちがいない。そんな彼女にあやかって――行き着けのショップの隣りという縁もあってだろう――この店が「たるとタルト」を売り出した、という記事のはず。これが便乗商法というものである。 「えーと、『素敵にゼーマンスプリットの絵崎たるとクン、4月10日ご来店』って?」 ろろみがそう読み上げたとたん、ふだんは低い正世の声もろろみ並みのトーンに上がった。 「ひゃあ、知らなかった。ついこの間じゃないの。たるとタルトの話は聞いていたけど、本人が来てたとは」 そう、店の扉には「たるとタルト」という名がついたタルトの写真と並んで、自慢のゴスロリ服を着た絵崎たると本人がそのお菓子を食べている写真が張られているのだ。もちろん、二枚の写真にはしっかりたるとのサイン入り。 たるとタルトのトップはブラックチョコレートでコーティングされており、フリルのような図柄が白黒それぞれのクリームで縁取られていた。 「へえ、ゴスロリ服をうまくイメージしてますね」 ろろみが言うとおり、いっしょに写っているたるとの服装を連想させる装飾だ。 参考までに、このタルトの中身はりんごである。張り紙によれば、りんごも『たるとクンの大好物』だそうで。 「中に入ってみます? 正世さん」 「いや、結構。行きたいところね、もうひとつあるから。それより、ろろみはどう思う? こういう服」 「あたしですか」 不意に問いを受けて、視界が揺れ動く。ゴスロリというのも確かに興味深い服装だ。けれども、自分が“ろろみ”としてどのようなポジションにいるのか考えてみると、おのずと答えは出る。 「うーん……着てみたくないわけじゃないけど、もっと普通っぽい服のほうを優先させたいかなって」 ろろみはまだまだ少女のファッションに慣れ親しんでいない。だから、オーソドックスな服装のレパートリーをもっと増やしたいというのが率直な気持ちだった。 「なるほど、わたしも同感。でもこれなら、たるとよりあんたのほうが似合うはずよ」 正世はろろみの手にある紙の箱を指さしながら言う。そのときのろろみはまだ、この言葉の真の意味を知るには程遠かった。 |
“たるとタルト”を目にした驚きもさめやらぬうちに、今度は学校とおぼしき建物が見えてきた。 「洋陵大学ね。珠橋せれ菜が入ったところよ」 「もしかしたら、ちょうど講義を受けているところかもしれませんね」 「そうね。噂されたから、今ごろ教室でクシャミしてるかも」 正世の声も上の空で、ろろみの視線は校門前の食堂の扉に移っていた。 「ちょっと正世さん、これ見て。『せれ菜カレー』だそうですよ」 またもやアイドル作家への便乗商売である。扉の張り紙には『歓迎 珠橋せれ菜さん 洋陵大入学記念/せれ菜カレー 本日スタート』。 「えっ、今日からだって? そりゃ知らなかったよ」 言うが早く正世はカバンからケータイを取り出し、さっとカメラで扉の写真を撮る。 「こりゃスクープだよ。『Weekday』や『週刊計画』にも知らせておかないとね」 そう言いながらケータイのボタンを操り、写真付きメールをさっさと送信する。さすがプロの雑誌編集者。 結局は正世の尽力空しく、せれ菜カレーのニュースは今朝のテレビやネットのBBSに先を越されてしまった。所詮週刊誌なんて速報性ではテレビやネットに勝てないのだ。とはいえ、雑誌としてのスクープ記事にはまだまだそれなりの価値があるわけで、正世は週刊誌の編集長からずいぶん感謝されることとなる。 話を戻すと、その食堂の扉には「せれ菜カレー」の盛り合わせ写真も張られていた。ふつうのポークカレーにカスタードプリンと菜の花のおひたしがついた代物のようだ。 「あっ、『少年少女少年』に書いてありましたね」 ろろみは勢いよく声をあげた。正世に「あたしも他人の作品を勉強してますよ」とアピールするかのように。
《 好物の前では遠慮しないのがあたしのポリシー。 これが、珠橋せれ菜・作『少年少女少年』の冒頭部である。 やたら記号や改行が多くて、まるで少女小説じゃないか。今風のアイドル文学とはこういうものなのか。それがろろみの抱いた第一印象だった。けれど、作者のプリンとカレーへの執着ぶりは、それ以上にろろみの脳裏に強くこびりついていた。 せれ菜のカスタードプリン好き。それは、当人が雑誌で何度も語っていることなのだ。 「ろろみ、お腹は空いてるかな?」 「はい、まあ。ちょっと歩きましたものね」 正世の突飛な問いかけに、ろろみは素直に答えた。 「わかった。じゃあここに入ってみよう。なんたってスクープだもの」 「へっ!? ……ま、いいか」 ライバルの便乗商品に真っ正面から挑戦してみる。なんという思い切りのよさだろう。ろろみも従わずにはいられなかった。 今どき自動ではない扉を押して店内に入ると、チリンチリンと鈴が鳴る。 「いらっしゃいませ。二名様ですね」 店員は動揺の素振りも見せることなく、正世とろろみをテーブルに案内した。けれどもカウンターの奥からはひそひそ話が聞こえてくる。ろろみの耳には、ケイカク、ソヨカゼといった声も混じっているように思えてならなかった。 「正世さん、あの人たち、あたしのこと話してるみたいですね」 「いいじゃないの、開き直らなくっちゃ。それにあれを見なさい」 正世が指さした先、奥のテーブルの客は、黒くてフリルのたくさんついた服を着た少女。雑誌やテレビで、そしてさっきの喫茶兼洋菓子店の店頭でも見覚えのある人物ではないか。 「あれ、絵崎……?」 「しっ。今席を立つよ」 「あの人もあたしたちと同じこと考えてるんでしょうか」 「それしかないでしょ。でもおもしろくなってきたよお」 席を立ったたるとはまっすぐ出口には向かわない。足を迷わせることなくろろみたちのテーブルに近づいてきた。あちらもろろみたちに気付いていたのだ。 「やあ、榊さんお久しぶりです。隣の子は……微風ろろみチャンだね? ボク、絵崎たるとクンっていいます」 「やあたるとクン、奇遇よねえ、こんなところで逢うなんて」 たるとの軽々しそうな言葉遣いにろろみは二の句が継げなかった。自分をボクといって、クン付けで名乗るとは。ろろみ=伸一郎は、アイドルにしろ作家にしろ目上の人には礼儀正しく接するものだと思い込んでいたが、たるとはそんな枠にははまっていない。ゴスロリ服と金髪のウィッグ、そして血色の悪そうな顔――地ではなくメイクでそうしたのだろうが――にも似つかわしくない雰囲気である。 そればかりでなく正世の応対も驚きだ。ろろみに対してとは全然違う、なれなれしい口調。確かたるともデビューは『文藝計畫』のはずだから、その頃の縁があるのだろう。 「うん、確かに奇遇って思うなあ」 たるとが答えると同時に、ろろみの耳には正世の小声も入ってくる。「奇遇なはずないでしょ」。そう聞こえた。 そんな小声は物ともせず、たるとはろろみに顔を向けてきた。 「ろろみチャン、はじめまして。計畫賞おめでとさん」 「あ、ありがとう……ございます。絵崎さんは先輩なんですね」 「そういうこと。ろろみチャン、高校編入って聞いたよね」 「はい」 「そっちのほうでもがんばってちょうだいな。またすぐに逢えそうな気がするし」 「たるとクン、用が済んだらとっとと帰った」 どういうわけか、正世がたるとを急き立てる。左手にはお冷やのコップ。彼女はたるとのことを疎んじているらしい。 「あっ……そんじゃっ」 たるとは躊躇いつつもろろみたちに背中を向け、思わせぶりに一言。 「お頼みのカレーは甘口ですよ、ご安心をば」 「私ゃ辛口のほうが好きだっつーの」。またもやつぶやいた正世の小声がたるとの耳に届いたかはともかく、たるとは全身のフリルとレースをフルフル揺らしながら悠然と出口へ歩いていった。 絵崎たると。正世はなぜか彼女とはウマが合わないようなのだ。正世にしては無理のあるなれなれしい口調もそうした感情の表れだろう。たるとが『文藝計畫』と袂を分かった原因と関係があるのか。 かつてろろみが書店の店頭で初めて目にしたアイドル作家であり、正式に初めて対面したアイドル作家でもある彼女は、服装とメイクで固められた不健康な外見と、軽薄そうなしゃべりぶりとのギャップが特徴的な少女だ。そして『ピアニッシモ』『素敵にゼーマン・スプリット』などの彼女の作品もこうした両面性が強く反映されており、自堕落的な悦楽趣味に満ち満ちたものといわれている。 けれども正世に急き立てられたとき、たるとは第三の顔をちらりと覗かせた。それをろろみは無意識のうちに脳裏に焼きつけていた――同世代の少女だからこそ。 間もなくテーブルに“せれ菜カレー”が運ばれてきた。写真どおり、カスタードプリンと菜の花のおひたしが添えられている。 問題の甘口カレーは、正世は三回口に運んだだけでギブアップ。けれどもろろみの舌には程よく優しい味だった。P伸一郎の体なら、正世と似たような反応を示していただろうが。 「ま、口直しのおひたしに免じて許してやろうかな」 「あたしはおいしかったですよ。プリンも悪くなかったし、野菜もやわらかかったし」 「せれ菜ファンの子は喜ぶのかもね、こんな味でも」 そんな言葉を交わしながらふたりが席を立ち、会計をすませて――もちろん正世のおごりで――店を出ようとしたときである。 ふたりの目の前で鈴と共に扉が不意に開き、ふくよかな胸とともに見覚えのある顔が現われた。襟元の深いブラウスを着た若い女性。文芸誌ばかりではなく、グラビア誌やテレビドラマでも見た記憶がある。そう、グラビアアイドルでありながら作家宣言をしたあの少女だ。 「中島カオリコさん!」 「静かに」 反射的に叫んだろろみを正世がなだめる。 「ふうん、正しく読めるとは立派ね、微風ろろみさん。中島キョウコって間違える本が多くて困っちゃうのよ……あっ、失礼。あらためてはじめまして、微風さん、そして『文藝計畫』編集長の榊さん」 中島香子(なかじま かおりこ)は左手を下あごに添え、落ち着き払った態度でろろみたちに視線を向ける。マスメディアで見せるグラビアアイドルの姿とはひと味違っていた。 「どうも、はじめまして、微風です」 「中島さん、よく私の顔をご存知で。こんなところで奇遇ですね」 たるとのときと同じように、正世は皮肉めいた言葉を投げかけた。 「そうね、作家宣言したからには計畫さんにもごあいさつしなくちゃって思ってたとこなんですけど……奇遇ってことにしときましょ。わたしも今日はカレーを食べたい気分になっちゃったんです」 「甘口でよろしければどうぞ。では失礼」 「構いませんわ」 正世と香子の初対面は、互いにあっさりかわし合って幕となる。ろろみと正世が鈴を鳴らして表に出ると、目の前のキャンパスからくしゃみの声が聞こえてくる――はずもなかった。 「ろろみもそのうち、どこかのお店に便乗商法で食べ物を出してもらえるようになればいいねえ」 歩きながら正世が話しかけてきた。 「あんた、ハヤシライスが好物でしょう。ろろみハヤシってどう?」 「えっ、そんないきなり。でも……ハヤシじゃカレーの二番煎じだから、ろろみヨーグルトもいいかな」 正世にはすぐに乗り気にさせられるあたりが相変わらずである。 「そうだ正世さん、こちらからお店とタイアップしましょうよ」 「いいねえ、たるとタルトだって後付けで当人公認になったんだもの。そのためにも、新作書いてしっかり人気稼いでよ、ろろみちゃん」 「はーい」 |
その翌日、水明華高校に編入したろろみは、正世の妹である充代が担任の二年一組で、小出史枝という女子生徒と親友になったり、「微風ろろみ守護騎士団」を名乗る瑞貴、覚、翔策、リサの男子四人組と知り合ったりと充実した高校生活初日を送った。 ところが放課後、ろろみは鈴木博子という三年生の先輩から呼び出しを受けた。史枝たちも訳知りのようなので、ろろみはおとなしく指定場所の第二理科室へと足を向ける。 部活動も休みなのか、ひと気の感じられない特別教室棟。けれどもその奥、廊下の突き当たりにはふたりの女子生徒が立っていた。向かって右は背が高く、左は低い。 「ようこそ水明華高校へ。微風ろろみさん、待ってました。さあいらっしゃい」 背の低い左の生徒が手招きをしつつもう片方の手で第二理科室の扉を引くと、背の高い生徒は扉の引かれた入口を無言のままくぐっていった。態度は背丈に比例するのだろうか。 「あっ、はじめまして。失礼します」 きっとこの背の高い生徒が鈴木博子先輩なのだろう。ろろみはそう思いつつ固唾を飲みながら、背の高い生徒の後についた。 無人だった第二理科室に三人が入ったのを確かめると、背の低い生徒は扉を閉じた。そして、さっきと違うはっきりとしたトーンで言い放った。 「富岡さん。悪いけど、あなたは出ていってくれるかしら」 「どうして、博子さん」 意外だった。背と腰の低いほうが博子先輩だとは。富岡と呼ばれた女子生徒はどうやらその側近格のようだ。 そうわかると同時に、ろろみにはあるものが見えた。博子先輩の小さな体の背後に漂う、陽炎のようなもの。アイドルだけがまとうことができるオーラであった。自らもまとった経験のあるろろみだからこそわかる。 「わたくし、微風さんとふたりだけでおはなししたいの」 「……わかりました。相手はお仲間ですものね。失礼するわ」 そう言い残し、背の高い生徒は部屋を後にする。お仲間とはどんな意味なのか。ろろみは一瞬だけ戸惑ったが、すぐに別のことへと関心が移っていった。 博子先輩とは何者なのだろう。さっきの史枝たちの反応からもわかるように、校内ではかなりの実力者らしい。生徒会長なのか。いや、違うはずだ。だれも博子先輩をその肩書きでは呼んでいないのだから。 初対面の先輩なる人物との一対一の向かい合い。しかもろろみの編入初日に、先輩の側から一方的に呼び出されている。冷静に考えてみれば、ろろみは相当危ない橋を渡っているはずだ。先輩が実験器具でも隠し持っていて、不意に凶器攻撃を受けたらどうしよう。先輩から女どうしの愛の告白を受け、そのまま押し倒されて純潔を奪われる可能性だってある。ろろみの意識のどこかには、そういう最悪の状況が想定されていた。 けれども、ろろみはまるで怖気づくことなくこの場に立っていることができた。博子先輩には自分に危害を加えんと欲する気配がないと、ろろみ自身の直感が教えてくれたのだろう。 室内にかすかに漂うエタノールの香り。緊張の薄氷を押し破るように博子先輩の口が動いた。 「あらためてこんにちは、微風さん。三年二組の鈴木博子です。こんなところに呼び出してごめんなさいね」 「とんでもないです。はじめまして、今日二年一組に編入しました、微風ろろみです」 ろろみがこの学校の生徒からこんな言葉遣いを聞くのは初めてだった。今時の高校生には珍しい丁寧な口調が、学校案内の写真通りに着られている制服やショートボブの黒髪と相俟って、博子先輩に上品な風格をもたらせている。直感は間違っていない。ろろみはそう確信した。 その一方で、今の先輩の態度は確実にろろみを威圧していた。腰を自在に高くも低くもできるのはカリスマ性の表れといえるだろう。 けれどもろろみの胸には別の不安がよぎりつつあった。博子先輩に漂っていたもうひとつの気配、いまだ正体不明のそれが影を大きくしていったからである。 「今日あなたをお呼び付けした要件なのですけど、単刀直入に申し上げます。わたくし、今朝の始業前にあなたが保護者の方といっしょにいるのを見かけました。保護者の方、確か、小出――伸一郎さんといいましたね」 「あっ、はい」 唐突にもうひとりの自分の名前を出されれば、ろろみは反射的にうなずくしかない。この先輩が自分たちを目撃していたというだけでも驚きなのに。 「わたくし……彼にひとめ惚れしたんです。伸一郎さんをください、お願いします」 「いっ……いきなり、何を!? そ、そんな」 息が詰まりそうになった。良い悪いとは別の、それでいて思いがけない軸の上を状況が転がっていく。 「失礼いたしました。今すぐ、っていうのは冗談です。彼のご都合もあるんでしょうから、今はガマンしておきましょう」 「びっくりさせないでくださいよ、博子先輩」 「でも、微風さんも伸一郎さんのことがお気になるのですよね」 「うーん、そういうのとは違って……ただの身内っていうのかな」 「わかりました。実はほかにも、あなたにお頼みしたいことがいくつかありましてね、お呼びいたしました」 「なぜあたしが頼まれ事を?」 状況がどこへと向かっているのか、ますます見当がつかない。 「見返り無しにとは言いません。あなたの活動を支援してあげますわ」 緊張が解けつつあるのか、博子先輩の話し方から力が少し抜けてくる。それでも角の鋭さに変わりはない。 「支援?」 「うちの学校、芸能コースがあるわけじゃないんだけど、モデルとか児童劇団とかをやっている生徒が何人かいるの。つまり、こういうタレント活動に寛容な校風なんですよ」 「なるほど」 ほかにもそういう生徒がいるとはろろみには初耳だった。けれども今日一日この学校で過ごしてみれば、博子の言うとおりの校風かと肯ける。 「それでも、タレント活動する子を白い目で見る先生や生徒がいるのよね」 ろろみはまだ校内でそう見られた経験はなかったが、さもありなんと理解できた。 「靴を隠したりとか椅子に画鋲を置いたりとか、本当につまらない嫌がらせなんですけどね。授業でしつこく当ててきたりする先生もいますし。微風さん、あなたがそういうことをされたなら、わたくしがその方々にお灸をすえましょう。わたくし、一応全校に顔が利きますから。絵崎たるととしてじゃなく、模範生の鈴木博子としてね」 「絵崎たると!? それってあの」 せっかく落ち着きかけてきたろろみの息が再び大きく乱れる。 「あら知りませんでしたか。……そうなんだ、ろろみチャン。だからボク、はじめましてって言わなかったんだよ」 ここで博子先輩の口調、そして声色までもがガラリと変わった。昨日のカレー店で逢った絵崎たるとのしゃべり方そのものだ。 「絵崎たると=鈴木博子先輩」。正世編集長も充代先生も瑞貴たちも史枝にしても、どうしてこんな大切なことを教えてくれなかったのか。 あのときのウィッグとメイクを博子先輩の顔にあてはめたと想像すると、確かにたるとに見えてくる。背丈には「たると>ろろみ>博子先輩」という不思議な不等式が成り立つけれど、その原因はたるとの厚底靴にあるのだろう。 ろろみが先ほどから抱き続けていた正体不明の気配の正体、それは既視感だった。 「昨日、またすぐに逢えそうだって言ったよね。こういうことなのさ」 きっとたるとは、ろろみがこの学校に編入されることをだれかから――おそらく充代先生から――聞いて知っていたに違いない。 「わたくしが絵崎たるとだってことは校内でも周知ですけれど、いわば公然の秘密ってことになってます」 たるとの口調が博子先輩に戻った。 「私ね、学校ではそっちの方面で目立ちたくないんです。だから微風さんもお静かにお願いしますね。これがひとつめのお願い」 「どうして目立ちたくないんですか?」 そう口に出してみた途端、ろろみの脳裏に答えらしきものが浮かんできた。 「あ、わかりました。あたしも博子先輩の……絵崎たるとの本読みましたから」 ドラッグ。ホルモン剤。飛び交うナイフ。血の舐め合い。コスチュームをまとっての仮面乱交パーティー。 高校生でありながらそんな内容のストーリーを書いて商業誌に発表していることを、校内で進んで吹聴する者がいるだろうか。 「……ええ、それもありますね」 「それも?」 先輩もろろみの言いたいことを察したようだ。けれども彼女の反応は、ろろみが思っていたものと少しだけ違っていた。 「ほかにも、私には諸般の事情があるんですよ。微風さんだって、何やらご家族のほうには難しい事情がおありのようで」 「うっ」 伸一郎がろろみの親というよりは兄の年代だからと、博子先輩は不審に感じていたのだろう。それにしてもこの先輩、情報元がどこかはともかく、よくもまあ伸一郎の名前と立場を知っているものだ。今朝偶然に逢っただけにしてはやけに詳しそう。史枝式に言うならば「さすが小説家の洞察力」というところか。 「でも詮索はしないわよ、安心してね。お互い様ですから」 「まあ、はい」 ろろみも本心では博子先輩=たるとの諸般の事情に食指が動いた。けれどもここは「お互い様」という言葉を信じて、スルーしておくことにする。 「微風さんにはね、私の分までこの学校でもアイドルとして目立ってもらいたいのよ。守護騎士団さんですか、もうボディーガードの方々もついたんでしょう?」 「あっ、ええ」 「私としても安心しました。その方々、きっと今も外でお待ちでしょうね」 「あははは、そうかもしれませんね」 でも、待っているのはせいぜいひとりだろう。ろろみはそう思いながら苦笑いした。 「私は彼らのように直接微風さんをお守りすることはできませんけど、私なりのやり方で微風さんに協力しますわ」 ここで博子先輩がひと呼吸おく。 「そしてここからが本当に大事なお願いなんですけど、微風さんに榊編集長を説得してほしいんです。私をあなたの授賞パーティーに招待してほしいってね」 「どうしてあたしが? 博子先輩から申し出れば招待してもらえるんじゃないですか。同じ『文藝計畫』出身なんだから」 「そうもいかないのよね。昨日のカレー屋さんでのあのひとの態度わかるでしょ」 「……ああ、なるほど」 昨日たるとが去り際に見せた第三の顔。ろろみはそれを思い返しつつ、大体の事情を把握した。 「さすが微風さん、お気づきのようね。ですけど、その件は今は詳しくは言えないの。いずれわかると思うから」 「いいですよ。あらためて詮索したくもないし」 「それに、授賞パーティーなら伸一郎さんもいらっしゃいますよね」 その一言に、ろろみの息がまた詰まった。冗談ではなく、博子は本心ではやはり伸一郎に興味があるのだ。 万が一、博子がS伸一郎がくっつきでもしよう。ろろみはリンクアップすることが難しくなり、ついには一生をろろみの体で過ごす羽目になるだろう。 ところがろろみ=P伸一郎の本意はそうではなかった。平たく言えば「ちょっとはアイドル作家をやってみようかな。高校生活も楽しんじゃおうかな。それが伸一郎の人生経験にもなるもんな」というところ。いずれ将来はろろみへのスプリットをやめて、P伸一郎一本に戻るつもりだ。それの妨げになる事態は断乎として避けなくてはならない。自分には久美子だっているのだし。 けれどもろろみには、学校の先輩であり同業者でもある博子先輩=たるとの依頼を無碍に断ることなぞできなかった。ここはできる範囲でしっかり協力する姿勢を見せたほうが、学園生活にも小説家生活にも有利に違いない。 「あっ……わかりました。あたしからも説得するだけならしますけど、成果があるかはわかりませんよ。正世さんってすごくこだわりが強そうな人ですから」 「それはわかってます。私だって榊さんに頭を下げるわ。今書いてる新作も、『文藝計畫』用に寄稿するつもりでいますしね」 「正世さんがどう言うかはほんとに保証しませんよ」 初めてとも昨日以来ともいえる博子先輩との対面はともかく終わり、ろろみは先輩を残して第二理科室を後にする。 「ろろみ、おつ〜」 「さあ、駅までご一緒しましょう」 廊下には、予想通りに史枝、そして予想を超えて――博子先輩の予想通りではあるが――守護騎士団の四人全員が待ち構えていた。初日だからしっかり守護しなくてはと、部活に入っている覚、翔策、リサもそちらをさぼってまで待っていたのだという。 それだけではない。さらに博子先輩の予想すら超えて、ひと気のなかった特別教室棟の廊下には野次馬、いわば“出待ち”の生徒――ほぼ全員が男子だった――が数十人。覚と翔策が彼らの防潮堤になっていた。 「博子先輩どんな用件だった? 何もされなかった?」 「大丈夫。礼儀正しい人だったよ。同業者としてあたしに学校生活がんばってほしいってことと、あたしの計畫賞の授賞パーティーに先輩も招待してほしいってこと言われた」 会話するろろみと史枝の前には瑞貴と覚、後ろに翔策とリサ。六人は二列縦隊のように特別教室棟の細長い廊下を歩いている。その周囲に野次馬を引き連れて。 「大したことなくてよかったじゃん」 「そうね。アイドル作家どうしだからってあいさつしたかったんでしょ」 「伸一郎さんをください」の件は、史枝に話すと面倒になりそうなので黙っておくことにした。今日この学校にS伸一郎が来ていたことだって史枝には話していないのだから。 「だけどねえ史枝、博子先輩が絵崎たるとなら最初からそう言ってよ」 「ごめ、ろろみなら当然知ってるって思って。でもろろみっておもしろい。あたし相手にはすんごい洞察力なのにこんなとこで鈍いんだから」 史枝相手に鋭いのは別の理由があるからだよ。ろろみの中で伸一郎がそうつぶやいた。 史枝たちは口々に博子先輩の評判を語り出した。 「博子先輩ってすんごく真面目でさ、校則違反や不良行為を見ると許さないの。影の風紀委員長とか言われてて」 「校内に情報網持ってるらしいんですよ。何かやらかした生徒がいると先生に発覚する前にその生徒を取り巻きに呼び出させて、人のいない特別教室でガミガミ一時間は説教するんです」 「で、先輩に説教された後はよほどのことがないかぎり先生からのお咎めはありません。あの先輩、もう先生の代役ですね」 そう覚も補足する。 「あっそうだ、瑞貴も去年やられたのよねえ」 「いてっ、小出、離せよ」 史枝は瑞貴の後ろ頭を背後からつかんでねじり、無理矢理後ろのろろみに向けた。 「こいつってば、入学したてのころ、コンビニおにぎり買い込んで授業中食べてたの。先生に見つからなくてラッキーって思ってたら博子先輩に呼び出し食らっちゃってさ」 「おい、ろろみさんの前でやめろ、まわりに聞こえてるぞ、恥ずかしい」 「でも安心していいよ、ろろみ。瑞貴って前科はあるけど、だからこそ他人にはすんごい正義感あるから」 「そうなんだー、なるほど、うん、そっか」 目を白黒させる瑞貴を前にして、ろろみは自覚した。異性として見た男の子のイメージに、新たな一ページが加わったことを。 後ろからは翔策も口をはさんでくる。 「あの、僕は説教よりもっとすごいって聞きました。下着売った女子がムチとローソクで責められたとか、電気ショックとか、天井から縄で吊るされるとか」 「さすがにデマでしょう。翔策って体に似合わず怖がりなんだから」 今のはリサの声だ。 「だからあたし、ろろみがアイドルで目立つからって注意されるんじゃって心配だったけど……あんたはあたしと違って真面目だし、大丈夫か」 「影の風紀委員長か。絵崎たるととは大違いだよね……あっ、今の発言ナシね」 博子先輩は絵崎たるとと大違いか。声に出してみてろろみは気がついた。先輩が校内で影の風紀委員長を務めている理由が実感できたように思えたのだ。さっきの瑞貴ではないけれど、後ろめたいところがあるからこそ博子先輩は他人に正義感を示すことができるのかもしれない。 かたや二重人格、いやひとり二役。かたや二十五歳の男性からのスプリット分身体。水明華高校の抱えるふたりのアイドル作家がそれぞれ微妙な二面性を持っている。まるでミーハーのような第三者的視点からそのことに気がつくと、ろろみは不思議と昂揚した気分になってきた。 するとこんな言葉も自ずと口に出る。 「そうそう、博子先輩ね、守護騎士団のこと頼もしいってほめてくれてたよ」 「ひゃっほう、それはやる気が出るぜ。あの先輩も気が利くな」 尾ひれのついた賛辞に喜ぶ瑞貴たちを見て、ろろみはあらためて実感した。この学校に編入されてよかったと。二度目の高校生活は楽しくなりそうだ。 ろろみは史枝や守護騎士団の四人といっしょに学校を後にする。学校と計画書店は最寄り駅が同じなので、みんなと別れたろろみはまっすぐ『文藝計畫』編集部へと向かった。 |
「ふわあああ……おはよう、ろろみちゃん。――わっ! やっぱり似合ってるねえ、水明華の制服」 寝ぼけ眼の焦点がろろみに合ったとたんに、榊正世の背筋がピンと張る。 今日の『文藝計畫』編集部は別冊の最終締め切りを控えて前夜から総員徹夜状態。昼前になんとか校了になってから、編集長の正世たちは室内で仮眠をとっていたのである。 「おはようございます、正世さん」 出版社ではなく放送局のほうに顔を出したみたいと苦笑いしつつ、ろろみはあいさつを交わす。 「ところでろろみ、眠気覚ましにいつもの取ってくれないかな、悪いけど」 「あ、いいですよ」 ろろみは正世が指さした編集長机脇の専用冷蔵庫の扉を開ける。そこには正世愛飲のビン入りざくろジュースが数本入っていた。昨日デパート地下で買い足したばかりのものもある。そして最近は、冷蔵庫の内容物に数個の新顔が加わっていた。 ろろみは開封済みのビン一本といっしょに、その新顔から二個を取り出して、ビンのほうだけを正世に手渡した。新顔はろろみの持ち物なのだ。 「ほれ原島くんも起きた。ろろみちゃんが来たよ」 正世はラッパ飲みでざくろジュースのビンを空にすると奥の応接用ソファーへと向かい、それに寄りかかるように寝ていた副編の原島の上半身を大きく揺する。湯気のようにゆらりと立ち上がった原島は、ろろみと顔を合わせるなりしゃきっと正気を取り戻した――さっきの正世と同じように。 「おはようございます。いやあ、桜は散っちゃいましたけど、制服着た女子高生がこういうところにいると、仮眠明けの編集部にも花が咲きますね。やっぱり、ろろみちゃんを高校に編入してよかったですねえ」 ろろみは“冷蔵庫の新顔”であるブリックパックをひとつずつ両手で持ちながら、いかにろろみに女子高生の制服姿が似つかわしいかについて滔々と語る原島をやり過ごしていた。今朝、S伸一郎を前にしたときの心境が甦ってきた。けれども、ファンというのはそういうものなのだと納得しなおす。 「相変わらずだね。その飲みっぷり」 右手のトマトジュースと左手の飲むヨーグルトを同時飲みするろろみを見て正世が言った。ろろみは学校での昼食だけでなく、編集部に顔を出したときにもこれをやるようになっていた。だからこそ正世の承諾もあり、あの冷蔵庫に“新顔”が入ったわけなのだ。 「そう、ろろみジュースなんですよ、これ」 ろろみが昼食どきの覚の言葉を拝借して答えると、部屋に居合わせた編集部員全員から笑い声があがった。 そのとき編集長の机の内線電話が鳴った。 「もうふたり来客よ。通していいね」 |
その来客二名が、計画書店ビル五階の廊下を歩いていた。 並んで歩くふたりの少女は何やら激しく言い争いをしているようだ。いや、口だけではない。互いに肘どうしをつついて小競り合いになっている。 廊下をせわしくすれ違う人々もみな、彼女らの殺伐たる空気に巻かれると思わず足を止めていた。 「もう一度お尋ねします。珠橋せれ菜さん、大学生活はいかがですか」 「そりゃあもう〜、見ること聞くこと初めてなものばかりでぇ……」 「テレビのインタビューと同じですわね。中身のないお答えなこと。慣れない作文はおやめなさいな」 「で、でもぉっ!」 「率直にお尋ねします。あなた、大学にまるで行ってないって噂を聞きますけれど、本当でしょうか」 「ちょむかっ! 高校を三日でやめたあんたに答える筋はないでしょ?」 「なっ……高校に続いて大学でも留年の道一直線、作家と学業を両立できない珠橋さんにこそ言われたくありませんね」 「キョウコこそ、グラビアに二足の草鞋履いて写る気ぃ?」 「ほらまた間違えた。私は中島カオリコなの。だからテンプラ学生は困るわね」 「話をそらさないでよ。新刊の写真集、あたしのより売れてないくせにぃ。カオリコの本業そっちでしょ」 「部数はともかく、あなたの写真集よりはいい出来でしょうよ。作家本業の珠橋さん、とっとと新作書いたら?」 「か、書いてるわよぉ、それで大学休んでるんだからっ」 「フッ。とうとう行ってないこと白状したわね」 「で、でもっ、香子は小説一本も完結させてないでしょ。『V文学』の連載、えっと『水平ハナクソ』、ああ汚い」 「お下品なのはそちら。あれは『水平ビヨク』って読むのですわ。『糞』じゃなくて『翼』!」 「ブーッ、まぎらわしいタイトル! とにかくその『水平鼻翼』、いつまで登場人物紹介続けてるんだかっ」 「わかってますわよ! 次号こそ、あっと驚く大展開なんですからね」 「そのセリフ、聞き飽きたなぁ〜」 罵り合いがそこまで進んだところで、ふたりの足は同時に止まった。間近の扉の上には「『文藝計畫』編集部」の札が差し込まれている。 「お邪魔しまーす」 ふたりの少女は猫撫で声をハモらせながら、我先にと手を差し出してその扉を同時に押した。 「あらこんにちは。珠橋せれ菜先生に中島香子先生」 部屋の扉が開くと同時に、近くにいた正世が声をかけた。ふたりの来訪の連絡を受けてから扉の近くで待ち構えていたのである。 「うわっ、編集長直々のお出迎えだぁ。すごーい」 「さすがは榊編集長ですわね。今日は私も先生と呼んでくれるなんて」 「ところでお二人とも、何かお忘れの言葉はございませんか?」 めいめい媚を売ろうとした正世から逆に白い視線を返されて、ふたりはばつが悪そうに再び声をハモらせた。 「失礼しました。『文藝計畫』編集部のみなさま、はじめまして」 「ほんと、お二人は仲がよろしいですね。おそろいで御用聞きにいらしたのかしら?」 来客用スペースのソファーにせれ菜と香子を並んで座らせ、正世が向かい合う。このふたりの仲の悪さを十二分に承知していた正世は、今日のこれは何事かと不審感は抱いたものの、さすがプロの編集長、貼り付けたような営業スマイルと社交辞令で応対している。 「時間が重なったのは偶然の一致なんですけどぉ」 「受付前で珠橋さんと目が合って、それで意気投合しちゃったんです」 「でもね、御用聞きってわけじゃないの。あたしたち、今日は別の用事があるのよね」 ここでふたりの声がまたハモる。 「微風ろろみちゃんに一度ごあいさつしておきたかったんです」 「えっ?」 「どうしました、微風先生」 そう、ここは学校とは違って、ろろみが先生と呼ばれる場なのだ。 ろろみは別の机で、原島、そしてもうひとりの編集者と仕事の打ち合わせをしていた。先輩アイドル作家たちと正世の会話も耳には入ってきていたのだが、そこに突然自分の名前が出てくれば動揺もしようものである。 けれども、今は自分の打ち合わせに集中しなくては。 「い、いえ。向こうであたしの名前が聞こえたもので。おはなし続けましょう」 「微風ろろみ先生ですか。ええ、今日は彼女もいらしてますけど、あちらで打ち合わせ中ですから」 正世はそこまで言ったところで何やら思い立ったのか、しばらく言葉を止めてからろろみたちのほうを向く。そして叫んだ。 「おーい原島ぁ。よかったら微風先生こっちに貸してくれない?」 原島も正世の頼みとなれば従わないわけにはいかない。そして、打ち合わせも後にまわして問題のない内容だった。かくしてろろみは先輩アイドル作家ふたりと対面することと相成ったのである。 生では初対面の珠橋せれ菜。ろろみの見た実物の第一印象は、ひと昔前のアイドルのように明るく弾けた少女だった。せれ菜の作品『少年少女少年』で主人公の夢見る世界からそのまま抜け出してきた女の子ともいえるだろう。伸一郎がかろうじて知っている昔の言葉でいえば“きゃぴるん”というのか、それとも“ぶりっ子”か。服装は花柄のブラウスにフリルのついたカーディガン。ろろみよりも年上のはずで背も少し高いのに幼く見える。学校での充代先生と似たところがあるようにも思えた。けれどもろろみはせれ菜に充代と明らかに違う点を感じた。せれ菜の自分像はどことなくぎこちない、無理して作っているものではないか、ということである。 昨日逢ったばかりの中島香子。あらためて体形に目をやるとさすがグラビアアイドルだけあって、バスト、ウエスト、ヒップの凸凹凸のコントラストが見事だ。昨日とは服装が違ってワンピースを着ていたが、相変わらず胸元からは深い谷間をちらつかせている。確か、香子の連載作『水平鼻翼』のヒロインもそういう服が好みのはずだ。ろろみが横から会話を聞いていた限りでは、香子の言葉遣いは丁寧だった。けれども、例えば博子先輩のような落ち着いた態度ではなく、どちらかといえば慇懃無礼なように思えた。前にテレビで見た彼女はこんな言葉遣いはしていなかったはずだ。作家宣言からくる気負いが、不自然に丁寧な口調につながっているのかもしれない。 「どうもお待たせしました、微風です。珠橋さん、はじめまして。中島さんも、こちらでははじめまして」 「ども、モノホンのろろみちゃん。それ学校の制服かぁ」 無難なろろみのあいさつを、せれ菜は好奇の混じった視線で軽く受け流した。 「ヤバイな。マジきれいっていえばきれいかも。なんか頭も切れそうだしぃ。これなら人気出るのもわかるな。ヤバイ、でもあたしのほうが、ウン」 せれ菜は屈んだ姿勢でろろみを凝視しながら独り言としかいえないつぶやきを繰り返す。 なんなのだろう、せれ菜って人は。さっきとはまた態度が違っている。女なのに、まるでS伸一郎みたいなところがある。 「珠橋さんねえ、微風さんを独り占めしないでよ」 今度は香子が、ろろみとせれ菜の間に割り込んできた。 「うーん、あらためてはじめましてね、微風さん。昨日拝見したよりもきれいなお顔だこと。プロポーションは私に勝てそうにないけれど、お肌はすべすべみたい。少々確かめさせてもらうわね」 なんと香子はそう言いながら、ろろみの下あごに触れようと手を差し出してきた。するとせれ菜も負けじとろろみに近寄る。 「えーっ待って、ろろみちゃんはあたしが先ぃ」 醜い触手が二本、ろろみの目前に迫る。そして……。 刷り込まれた恐怖が背中のほうから蘇ってきた。 「いい加減にして! 気持ち悪い」 せれ菜と香子の手はほぼ同時にろろみに触れた直後、不意な力で弾き返された。 ろろみが平手で、二本の手を払いのけたのである。 「へえ。やるわね」 「こわっ。ろろみちゃんってガチなんだ。根性ありそう」 自分の手の平をさすりながら、せれ菜と香子は互いの顔を見合わせた。 「前に僕がここでやられたときと同じですね」 原島が正世にささやく。 充代先生のときとは違う。このふたりには殺気が漲っていた。相手が女性だからと遠慮はできなかったんだ。 思わず動いた自分の手に視線を落としながら、ろろみはそう自らに言い聞かせていた。 「はじめましてぇ、ろろみちゃん。あたし珠橋せれ菜です。アイドル文壇にようこそ。お互いがんばりましょうね」 「微風さん、あらためてこちらでははじめまして。このたび作家宣言をいたしました中島香子です。作家としては微風さんのほうがわずかに先輩ですわね。ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます」 結局、平静さを取り戻したせれ菜と香子はろろみへのあいさつを仕切り直し、それぞれろろみと握手を交わした。今の平手打ちがよい方向に効いたのだろう。ろろみのほうは、とりあえず落ち着いてはきたものの、まだこのふたりを完全には信用できなかったけれど。 アイドル作家と握手するなんて、伸一郎なら大喜びもののはずだ。しかし今の自分は彼女らとはライバルどうし、そんなことで舞い上がってはいられない。しかも、握手した手はついさっき払いのけたばかりのものなのだ。 「それと微風さん、カレーのお店ではどうも」 香子は昨日の食堂での出来事に話題を振った。 「えーっ、せれ菜カレーってなにぃ?」 「あらあら、てっきり珠橋さん公認だとばっかり思っていたのに」 「まさか。無断でそんなカレーなんてどこの店、やめさせなきゃ」 「校門の目の前のお店なのにご存知ないなんて。大学行ってないのバレバレですわねえ」 「だぁからそれはぁ! 新作をぉ」 「そうそう、あのカレー、甘ったるくて食べられたものじゃありませんでした。珠橋さんの作品も同じことよね」 「ブーッ。水平ハナクソなんて書いてるくせに」 「きぃっ! 『水平ビヨク』だって言ってるでしょう!」 廊下での光景がリプレイされた。せれ菜と香子の罵り合いに、もはやろろみたちはそっちのけである。にじみ出る不快感ですぐ崩れる営業スマイルを三秒ごとに繰り返すせれ菜と、顔は余裕綽々のポーカーフェイスだが口調には焦りがバレバレの香子。ふたりはひじ同士をつつき合い、足を蹴飛ばし合う。 「あのぉ、お取り込み中失礼ですけど、そろそろほかの来客もありそうですから、お引取りいただけないでしょうか。お二人とは、計畫賞の授賞パーティーでまたお逢いしましょう」 この場を収拾することができるのは、正世だけだった。 「それでは、微風さんへのごあいさつも済んだし。失礼します」 「ほんじゃみなさんさよーなら。ろろみちゃんもまたねー」 「ところで珠橋さん、ついて来ないでいただける?」 「無茶言わないでよ。エレベーターあそこだけなのに」 互いの罵声を置き土産に、せれ菜と香子は編集部を後にした。 「失礼じゃないですか、香子さんもせれ菜さんも。正世さん、あたしが触られそうになったとき、どうしてあのふたりに何も言わないんですか」 ふたりが去って静まった編集部で、ろろみは今までこらえていた不満をぶちまけた。正世も彼女らの態度を苦々しい目で見ていたはずなのに、言い争いがエスカレートするまで制止しようとしなかったのだから。 「ここでは三人とも一人前の作家先生どうしだからね。編集部に害が及ばない限り、僕らは手を出さないんだ」 原島が悟り顔で言った。 「それにね、さっきのあれ、ろろみは自力で解決したんだから立派なものよ」 「でも……」 「あれであのふたり、あんたに一目置くようになったじゃないの。それとね、これくらいで済むってことは、ろろみはそれだけ恵まれた環境にいるのよ。今日はそれを教えてあげたくてね、ろろみを対面させたの」 「珠橋さん、今晩はどうするおつもりですの?」 「どこかで飲みたいなーもう、バーッと。あんたの悪口言いまくるんだぁ」 「ちょっとちょっと、未成年でしょう」 「あんたもな。まー、ジュースやけ飲みしよーかなって。そうだ、香子もどう? 口喧嘩の続き」 「ふーん、おもしろそうですわね」 「でもやっぱやーめた」 「なによ、自分から言っておいて失礼ね」 「早く家帰って、新作の仕上げにかからなきゃ。あっちの編集にもいい感じだって言われてるんだから」 「うっ……やる気ね。なら私もまっすぐ帰りましょ」 「微風ろろみの授賞パーティーまでには脱稿しないとねー、合わせる顔ないでしょ」 「私だって、『水平鼻翼』の次回は見てなさいよ!」 相変わらず口喧嘩を続けるせれ菜と香子だが、ふたりとも少しばかり意識が変化しているようだ。もしかしたら、ろろみと逢ったことが刺激になったのかもしれない。 |
「そうそう、なんか聞き忘れてたかなと思ったら、学校の話を聞いてなかったね」 やっと、ろろみの話しそびれていたものを正世が察してくれた。 「どう、充代が担任でしょう、スキンシップはうまくやり過ごせた?」 ろろみは、充代先生とは授業でもうまくやっていることと、それでもスキンシップはまだ苦手だということを正世たちに話した。 「でもびっくりしましたよ。放課後に鈴木博子先輩って人に呼び出されて会ってみたら、昨日の絵崎たるとなんですから。正世さんも知ってるはずでしょう、教えてほしかったですよ」 「悪い、あれはわざと黙ってたの。あの子はろろみに逢おうとするはずだとわかっちゃいたけどね、ろろみには先入観なしであの子に対処してほしかったわけ。ちょっと厳しいことしたかなとも思ったけど、あんたなら大丈夫だったでしょう」 「まあ、そうでしたけど」 ろろみは、たると=博子先輩が授賞パーティーに出席したがっているという話を持ち出そうとも考えたが、それよりももっと本質的な疑問を思い出した。 「鈴木博子って、絵崎たるとの本名なんですか?」 「あれまあ、知らなかったの。ちゃんと公表されているんだけどな」 言われてみれば、ろろみの耳にガチンと金属音が響く。記憶の底を掘り返していたスコップが、どこかの雑誌のたるとのプロフィール記事に突き当たったのだ。 「でも、鈴木博子なんてありふれた名前でしょう。だからあたし、水明華の博子先輩とは同名別人かって思ってました」 「確かに、そう思っても仕方ないかもね」 「ところで絵崎たるとって、どうして学校では本名なんですか?」 「何バカなこと言ってるの、タレントだって作家だって、学校じゃ本名使うに決まってるでしょ」 「それじゃ、あたしは? 学校でも“微風ろろみ”ですけど」 「あら、それが本名でしょう」 「えーっ」 冗談みたいな話ではあるが、ろろみは今の今まで、自分の“本名”を知らなかったのである。より正確に言えば、自分の知らない自分の本名がどこかで決まっているのだと、なんとなく思っていた。気分としてはいまだに本名が“小出伸一郎”のつもりでもあった。 「どういうこと、聞いてませんよ」 「こないだ銀行の口座つくったじゃないの、賞金や原稿料振り込むためにって」 「はい」 「あれ、微風ろろみ名義になってたでしょ」 「でもそれってペンネーム名義だと思ってましたよ」 「今はうるさいのよ。マネーロンダリングだかの防止で、本人確認の書類って。ペンネームじゃ口座つくれないんだから。あんたに本名訊くのも悪いかなって思ってさ、それより新しい人生には新しい名前をってね、うちの会社のお偉いさんから役所に手をまわしてもらって、新しい戸籍つくってあげたの。十六で実家を捨てたあんたへのはなむけってことでね。だから口座も学籍もつくれたし、学校にも微風ろろみで編入されたってわけ」 「…………」 ろろみは下を向き、自分の華奢な身体をあらためて眺め回す。 またワンステップ、伸一郎とは別人になってしまった。伸一郎は実家を捨ててなんかいないのに。PかSかはともかく伸一郎を横目にして、ろろみとしての自分が勝手にどんどん独り歩きしているような気がしてならなかった。 「どう、面倒くさくなくていいでしょ。実家の足もつかないよ」 「まあ、確かに。……ありがとうございます」 いまだに正世から家出少女と思われているのはなんだけれど、これなら確かに「実体のない人物」という後ろめたさはなくなる。 「それに、パスポートがとれるからろろみとして外国にも行けるじゃないの。運転免許だってオートバイならもうとれるね。わたしはろろみに乗ってほしくはないけど。それに、結婚だってやろうと思えば堂々とできるよ。……相手がいればね」 裏を返せば、本来の伸一郎としての社会的責任とは別に、十六歳の少女としての責任が生まれたことでもある。小さなスプリット体が、少しだけ重く感じられてきた。 |
(作者からのメッセージ)
こんにちは、こうけいです。「学園編」にひき続き、『微妙存在ろろみ』第5話「アイドル作家編」をお送りします。
第5話は本来、ろろみの学園生活とアイドル作家生活が交互に登場する構成で書かれました。けれども100キロバイト近い大作になってしまったので、文庫では「学園編」と「アイドル作家編」に二分割して発表することにし、まずは「学園編」のほうを投稿し、掲載後に「アイドル作家編」を投稿した次第です。
もともとの第5話の構成は、
「学園編」第2章「そう、放課後までのおあずけね」の後に「アイドル作家編」第1章が入り、
「学園編」第5章「ひとり冷静に覚の言葉を受け止めながら、ろろみは昨日目撃したものを思い出す。」の後に「アイドル作家編」第2章が入り、
「学園編」第6章「その三年生はいったい何者なのかと気にかかえつつ、ろろみは別棟の第二理科室へと向かった。」の後に「アイドル作家編」第3章が入り、
「学園編」の終了後に「アイドル作家編」第4章が入るものです。
その順番で読んでいただけると、また違った味わい方ができるかと思います。
アイドル作家編では絵崎たると、珠橋せれ菜、中島香子の三人が本格的に顔を見せました。
彼女たちのキャラクターを設定していたとき、たるとのキャラ付けが難しかったので、彼女は「ひとり二役」にして、学校の先輩としても登場してもらうことにいたしました。
第6話は、ろろみの「計畫賞」の授賞パーティーまでストーリーが進む予定です。たるとやせれ菜や香子はもちろんですが、さらに新顔のアイドル作家たちが活躍します。もちろん、ろろみの学校でのクラスメイトたちもしっかり顔を見せます。どうぞお楽しみに!
□ 感想はこちらに □