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ゲバラとカストロがソ連に対する見解の相違から決裂した瞬間2ショット写真(本物)


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ゲバラとカストロがソ連に対する見解の相違から決裂した瞬間の閣議での2ショット写真(本物)
※当時キューバ政府はソ連の物資援助に頼っていたため、ソ連を批判するチェ・ゲバラを首脳陣から外す選択をせざるを得ませんでした。

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第1話 崩壊するペソ経済
最後の社会主義国キューバで見たもの(1)


 もうすぐ革命50周年を迎えるキューバで、カストロより人気が高い故チェ・ゲバラの肖像をあしらった3ペソ紙幣を、私が42枚ほど手に入れたのは、ハバナ湾を臨む世界遺産の一角、ということにしておきたいと思います。

 外国人である我々が書いたがために、現地で処分される人が出るのは、たとえそれが不正だとしても、経済を破壊した為政者への小さな異議申し立てと生活防衛でしかないのですから、まったく嬉しいことではありません。12年前の同国訪問時に『情報の技術』(朝日新聞社)に書いたこと(例えば医師が白タクでドル稼ぎなど)はその後みな、ご法度(はっと)になってしまいました。一人の物書きが明記したからどうの、ということはないだろうと一般的には思えるのですが、在日社会主義国大使館のお仕事ぶり(せっせと日本語の活字を読んでは本国に密告)を思うと、それなりに配慮せざるをえません。

 その世界遺産には、数十人の公務員(この国ではたいていの勤労がまだ公務です)が案内や監視のために働いています。月給は平均して400ペソくらいでしょう。

 24ペソが1ドル(=1兌換<だかん>ペソ=約120円)に相当しますので、 400ペソの給料は17ドル(約2,000円)ということになります。が、このような換算は、キューバではあまり意味をなしません。

 現在のキューバでは、外国人(日本人)が外貨(日本円やユーロ)と正式に交換できるのはペソではなく、兌換券(CUCと表記されますが、使用ご法度の米ドルと実質的に同じなので、今後はドルと表記します。現地でも「ドル」と言えばこの兌換券を指します)のみであり、このような方式は、かつて中国でも行なわれていました。ある意味、画期的な「発明」です。国内で流通している貨幣とは別に、外国人用に「子ども銀行券」みたいな紙切れをじゃんじゃん印刷して、まるで掃除機のごとく国庫に外貨を吸い取ることができる仕組みだからです。

 ただし、これは共産圏の発明品とは言えません。太平洋戦争時に日本軍が現地で交換を促進または強要した軍票(ぐんぴょう)も、ベクトルは逆ですが同じ発想です。  歴史的に見て、兌換券は詐欺的な外貨稼ぎであり、けっして長続きしていません。兌換券でしか買えない品の比率が増え、旧来の貨幣経済を崩壊させてしまうからです。現地の貨幣では必要最低限のものすら買えなくなり、地元の人がこぞって兌換券を求めるようになるのは必然でしょう。  実際もうキューバでは、ペソによる貨幣経済は崩壊しています。ペソでは、配給物資と野菜くらいしか買うことができないからです。ペソは、貨幣というより、配給券です。

 子どもにタオルケットを買ってあげたいと思えば、場所によっては現地貨幣で買えないわけではありませんが、その場合にも最低200ペソが必要です。半世紀前には普通に飲めた純度の高いコーヒーは1キロで例えば7ドル(168ペソ)、ラム酒は1瓶10ドル(240ペソ)もしたりします。

 一体どうして、大人の月給の半分を、タオルケット1枚や、コーヒー1キロや、ラム酒1瓶と交換してしまうことができるでしょう。  アメリカに亡命した家族からの送金がない場合にも、幾つか方法があります。何かを売って、ドル(兌換券)を稼ぐのです。あるいは、外国人に乞うて貰うのです。

 世界遺産で働く公務員たちも、もちろん例外ではありませんでした。

第2話 ゲバラ3ペソ紙幣
最後の社会主義国キューバで見たもの(2)


 最初に、私たち(今回キューバには4人で行きました)に声をかけてきたのは49歳の管理職です。何世紀も前の部屋が、そこにはたくさんあり、たまたまその遺跡の一室を通りがかった私とMさんに、彼は片隅の椅子から立ち上がって近づき――他の観光客がいないことを見計らって――「3ペソ札」を示しながら「1ダラ(ドル)と交換して」と言いました。

 私は、以前から、この3ペソ紙幣を1枚だけ持っていました。
 考えてみてください。「3」がつく紙幣やコインは、世界的にはとても珍しいでしょう。言い方を変えれば「使えない!」。日本の2千円札も思い通りには流通しがたかったわけですが、それでも世界的には「2」のつくお札やコインは結構あります。が、「3」は、めったにない。

 毛沢東や金日成やフセインらと異なって、カストロは自らのアイコン化(個人崇拝)を禁じてきたとされてきましたが、早くに亡くなったチェ・ゲバラのアイコンはずいぶん前から「あり」です。
 しかし、革命直後の国立銀行総裁でもあったゲバラの肖像画つき3ペソ札は本当に入手しづらく、思わず私はつぶやきました。  チェッ。

 すみません。話を前に進めます。
 49歳の男性管理職は要するに、3ペソ札と1ドル札(1兌換券=24ペソ)を交換してくれと言っているわけですね。毎月20日勤務し、3ペソ紙幣を集めるのに1枚につき1ペソの手数料を払っているとして、1日に2枚この交換を成立させれば、20ペソ×2枚×20日で800ペソの儲けです。これで給料が3倍になります。

 私はもちろん、その話に乗りました。
 先方はそれで満足したわけですが、私は満足していません。どうやったら、もっとたくさん彼から3ペソ紙幣を巻き上げられるか。いや、交換してもらえるか。
 絶対、彼にはストックがあるはずです。毎日2枚ずつ3ペソ紙幣を集めてくるより、数十枚程度を常にストックしておくのが道理でしょう。


 すぐに方法が思い浮かばなかったので、別の部屋に移動しました。すると今度は、私が一人になったところを見計らって42歳の女性が「足のマッサージをしないか」と言ってきました。世界遺産の建物の中でマッサージ?
 何かの聞き間違いかと思いつつ、そのお誘い(というよりそのような公然たる副業)にとても興味があったので、同行していたSさんやOさんやMさんを呼びに行き、「この奥の部屋で足つぼマッサージをしてくれるらしい」と私は言いました。


 ところがどっこい、4人で行ったところ、先ほどの42歳はごく普通のガイドしかしようとしないのです。さっき、2ドルでマッサージしてくれる、って言ったよね?
 大量にある各部屋には、係の人が最低一人はいるのですが、「いろいろなことが起きる」のは客が一人になったときだ、という強い傾向があるようなので、そのあと私は意識的に「一人になる」ようにしてみました。
 来るわ来るわ。
 次々と「特別サービスの提案」や「うちの子のミルク代をくれ」という声が押し寄せました。

 私は、他人や同行者の視線がないところでは気前がよくなるので、それなりのことをしたあと、「ゲバラ紙幣」の49歳管理職を探しました。
 今度は彼に5ドルを差し出し、これでゲバラ紙幣をちょうだい、とジェスチャーで伝えたところ、もちろん相手は喜んで交換してくれます。これを繰り返し、彼が備蓄していた42枚のゲバラ紙幣を全部いただきました。
 Win-Winであります。


 12年前にハバナを訪れた際、私は同じものを苦労して1枚だけ手に入れたのでした。そのとき入手経費として70ドルもかけてしまいましたので、これがたった1ドルと交換で手に入るのは安いものです。飛行機代など全経費は110 万円ほどかかっていますが(笑)。

 小説家の浅田次郎さんによれば、「それを手に入れるために幾らかかったか」をトータルに計算できない奴はギャンブルをやる資格がない、ということですが、これはギャンブルではなく、ただのお土産(みやげ)です。

 別の日に、キューバに住む通訳の方に50ドルを渡して、世界遺産のときの同じ交換レートでいいので、3ペソ紙幣を集めてくれないかと頼みましたところ、早くも翌朝50枚がホテルに届けられていました。それ以外にも、個人的に5枚を集めました。
 お願いしておいてなんですが、こういうことをすると本格的にゲバラ紙幣が観光資源になってゆくのでしょうね。

                 *

 さて、キューバの現代史をひもとけば、カストロやゲバラたちは「たまたま革命が成功しちゃった」ことがよくわかります。

 あれから半世紀。キューバ革命は、どこにも輸出できませんでした。そもそもカストロやゲバラは、マルクスもろくに読んでいません。革命後に熟読したのは、レーニンの『国家と革命』くらいなものだったようです。

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