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旧東ドイツ マルクス肖像紙幣東ドイツが滅亡した日
ドイツ民主共和国か消え去る日、私は東西ベルリン周辺を歩いていました。何週間も前から西側は大変なお祭り騒ぎです。1990年10月3日、夜12時のブランデンブルク門をめざして、東西両サイドから大勢の市民が徒歩や地下鉄で集まってきています。 あとで日本のニュースを見てみると、「この記念すべき日に、東側の市民も西側の市民も、それぞれに夢と希望を胸に集まってきています」とキャスターが喋っていました。けれどもそれは、事実ではありません。東側からブランデンブルク門を通り抜けた99%は西ベルリンからいったん地下鉄で東ベルリン(フリードリヒシュトラーセ駅)に出て、しかるのち迂回してきた西側の人々でした。 私自身がその日たまたま、そのルートを辿ったので気づくことができたのです。 その翌日のポツダム広場では、すぐに旧東独の人だとわかるお年寄りが「マルクス=エンゲルス選集」全10巻を売っていました。ずいぶん待たないと買えなかった、大切な家宝だそうです。「20マルクで」と、その老人は言います。約2000円(当時)です。「1マルクでも無理だろう」と、西独で生まれ育った口さがない友人は私に教えてくれました。青い表紙カバーの選集を売る老人の横では、20代後半の青年が軍服を売っています。広場のあちこちでは、西側にはもう見かけないものばかりが並べられていました。けれども、観光客が買うのはせいぜい、小さなケースに入った「ベルリンの壁」の破片です。 エンゲルスはギムナジウム中退でしたが、マルクスはベルリン大学法学部を卒業しています。近代的大学のモデルとして世界に名を馳せたベルリン大学は、プロイセン国王フリードリヒ・ウィルヘルム三世の時代に創設されたものです。ここでは「学問の自由」が国権によって保障されていました。地理的には東ベルリン側にあり、第二次世界大戦後はフンボルト大学と改称されて、ソ連型社会主義教育の最高学府となってゆきます。西べルリンには、米国GHQの肝いりでベルリン自由大学が創立され、かつてベルリン大学の教授と学生たちが一斉にこちらへ移籍しました。 マルクスの母校は、どちらなのでしょう。 分裂のもとを作ったのは彼だとも言えるので、悲しむ資格はないかもしれません――。 【続きは、電子書籍「マルクスから学んだ7つのこと」でお読みいただけます】
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